2012年5月16日 (水)

形より意味を問う

 この世で幸せな人生を送るためには、どこかに落ち着きたい、安定したいという思いをもつのではないでしょうか。ところがそれを根底から覆すできごとが次々におこってくるのです。安定したい、落ち着きたいという思いと、厳しい現実とのせめぎ合いが人生であるともいえるでしょう。
 安定したいという思いを手っ取り早く実現する方法として、生まれながらにもっているものを全面的に肯定することではないでしょうか。たとえば、自分の家柄や家風、さらには家業や家の宗教等々をすっかり受け継ぐことなどです。それらを受け継ぐことに善し悪しの判断をくだすつもりはありませんが、受け継いだことに意味を見いだすことなしには幸せな人生を実感することはできないでしょう。とくに宗教の場合は、そういう思いを強くします。

 数ある宗教の中で、たまたま自分の生まれた家の宗教と出遇うということは、縁によるものとしか言い様がありません。しかし家の宗教を受け継ぐときのほとんどは、その形式や儀礼を受け継ぐことであり、教えの中身をしっかり受け継ぐというのはなかなか難しいものです。もっとも形式や儀礼は教えを反映したものですから、そのことを通して教えを問うてゆく人もいないではありません。その場合は単に家の宗教としてあっただけではなく、地域社会の中に聴聞するお寺があり、聴聞を誘ってくれる同行などいて、わが身の上に家の宗教の中身を問うてゆく装置がはたらいていたのです。浄土真宗の「妙好人」と言われる人たちは、そういう装置の中で育て上げられていった篤信者です。
 しかし先祖代々受け継がれてきたものであるがゆえに、何の問題意識も持たずにすっかりそのまま受け継いだゆえに形だけしか残っていないというところもあります。そしてそのうち、形も姿を変えてゆくのです。

 「この教えはとてもありがたい教えだ」「この教えを一人でも多くの人たちに伝えてゆかなければならない」「このみ教えによって尊い人生を喜ばせていただこう」などと聞くことがよくあります。そのようにスローガンのように口に出すよりは、「このみ教え」とはどのような教えなのか伝える必要があります。それは教えてもらった言葉であってはあまり意味がありません。教えてもらったときには新鮮さを感じても、多くの人が使うほどに色あせ、形式的な言葉として受け取られなくなってしまいます。
 教えがわが身の内をどのように通り抜けどう響いたのかというところでしか、その中身は伝わりません。教えの意味は響き合うことでしかうなづくことができないのではないでしょうか。

 洗練された儀礼も壮大な教義体系も、響き合いうなづきあうことによることなしには生まれてこなかったのではないかとも思うのです。せっかくご縁によっていただいたものも、中身を深く問うてみることなしには宝の持ち腐れになってしまいかねません。また真に安定した人生を送ることもできません。

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2012年5月 9日 (水)

他力のよき心に出遇う

 私がこの世を生きてゆくということは、常にわが身の幸せを考え、いつも自分自身が中心となることを望み続けるということではないでしょうか。だからよりよくこの世を生きるためには、自分の思いを実現できるよう経験を積み、能力を高め、自分を中心にして動く社会となるようがんばらねばならないと思い、勤めるのです。

 でも、人生の出発点は私の力なんてどこにもありません。両親がいたからこそこの世に生まれることができ、私を支えてくださる人や多くのいのちや営みがあったからこそ、私は今日まで生き続けることができました。にもかかわらず、私あっての世のなかだと、いつのまにか勘違いしてしまっています。“ 私がいなければ、この世なんて何の意味もない“などと思ってしまうのです。

 仏教には自力と他力という言葉があります。この世を生きるときの思いと同じように、自力による求道が尊く優れていると思う人が少なくありません。
 この世に生んでもらったこと、何もできない自分に乳が与えられ暖かくして身を守られてきたこと、言葉を一つ一つ教えられてきたこと、限りない知識や技術が身につくようにと環境を整えてくださったことに人生はとどまりません。老いて、そして病んでなお人生を歩まねばなりません。自力を頼って生き続けることができないのです。

 世間一般では、信心とは神や仏を信ずる心であり、またある宗教の教えをよりどころにすることなのでしょう。この場合の主語を「人が」としてしまうと、客観的な定義になってしまいますし、他人事となり自分がどこかに置き忘れられてしまいます。主語を「私が」とすれば、私が信ずる心が信心であり、私が教えをよりどころにするということになります。
 誰も変わってくれない人生ですから、せめて信仰、信心の世界だけは神仏に頼ることなく自分の意思によって信心する心を起こさなければ、助けてもらえるはずはないと奮起するのでしょうか。「私」が起こす、「私」が信ずる信心となると、そう思うしかありません。
 ところが、よくよくその中身を点検すると、実にわがまま・身勝手なものでしかありません。それにとどまらず、わがまま・身勝手さによって他人を裁き、蹴落とし、誹謗中傷することすらあるのです。

 信心がまことのこころであるなら、それはわがまま・身勝手な私の自力の心であるはずはありません。「如来の他力のよきこころ」(『御文章』注釈版p.1106)なのです。
 わが思いにとらわれ、教えの中身さえも勝手に解釈し、得意満面になってしまっている私の足下が崩れされてこそ、ほんとうのわが姿が見えてくるのです。それは絶望ではありません。何も知らない、何もできない自分が照らされてここに生きることに気づかせていただくことでもあるのです。

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2012年5月 2日 (水)

目が開かれてゆく教えが仏教

 ほぼ2ヶ月、ブログを休んでしまいました。ぼちぼちペースはあがらないかもしれませんが、再開することにします。

 日本では、公立学校においては、基本的に宗教教育がおこなわれていません。ですから、頭脳明晰、成績優秀な人でも、宗教について無知な人がほとんどです。宗教なんて必要ない、むしろ宗教は世の中に害を及ぼす・・・と考えている人も少なくありません。そういう考えを持った人に、「自分の信ずる宗教なしに生きることほど不幸なことはありません」などと言える人もいないのです。
 資本主義下の宗教が、お金儲けに奔走する例は少なくはありません。それに付随して、権威的になったり、既得権益を拡大する手段となってしまうこともあります。宗教が持っている理想や理念が、そんな「私欲」のために利用されることばかりが目についてしまいます。あるいは人々の心をコントロールしようというとんでもない営みもが「宗教」の名のもとでおこなわれることもあります。そんなうさんくさいところばかりがマスコミに取り上げられるのですから、宗教=害毒とみられても致し方ありません。

 それなら宗教もマスコミをうまく使って人々にアピールする必要があると、心ある人は考えるかもしれません。それは賛成です。しかし宗教本来の理想は大々的にマスコミに乗るような類いのものではないことも事実です。もちろんマスコミに取り上げられないのではなく、マスコミのネタとして取り上げられにくいのではないでしょうか。上手に取り上げているマスコミの番組や記事をたまに見かけますが、それを取り上げる人の宗教的感性と共鳴しているのではないでしょうか。そういう番組や記事への関心より、私はそれを取り上げた人に関心が向いてしまいます。どこで、どんな宗教的な出会いがあったのだろうか・・・と。
 ただ宗教活動については、マスコミに取り上げられることはあります。ただ行事のおもしろさや社会へのアピールの度合いが優先されますから、教えの本質にまで迫った報道はなかなかなされてはいないという印象があります。

 宗教と言い切ってしまうことはできないと思うのですが、仏教、とくに浄土真宗の場合は個人的・内面的なところへのはたらきかけがとても強い教えだと思っています。ですから、表に現れてきたところが強調されても、個人的・内面的なところを理解したうえでマスコミが取り上げるというのは、とても難しいことです。

 遠いむかしに説かれた世俗離れしたように思えるお経や聖教のことばを、よくよく読んでみれば、わが身を映し出し輝きをもって響いてきます。世俗離れした教えどころか、今、ここにいる私に説かれている教えなのです。現代社会には通用しないように思っていた教えによって、この世の価値観ではみえないものを現代社会の諸相を通してみせてくれる教えでもあります。また、己に執着し、社会にとらわれ、がんじがらめになってゆく不自由さから解き放される安心感を得ることもできるのです。
 “いつの時代もどんな社会でも変わらぬ真実を示し続けている教え”に遇うという一点を通過するによって、目が開かれてゆくのが仏教だと言えるのではないでしょうか。

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2012年3月29日 (木)

もうしばらく、休ませていただきます

このブログの読者のみなさんへ

 現在勤務しております東京・築地本願寺を今月いっぱいで退職し、
奈良県宇陀市の自坊へ帰ります。

 東京で見たこと、聞いたこと、学んだことはとてもたくさんあります。
文章としてはなかなかうまく表現できませんでしたが、体面関係の中で
ちょっと刺激を与えられれば、次から次へと話すだろうと思います。
”オフレコ”も含めて。

 もうしばらくこの「畢竟依を帰命せよ」をお休みします。書きたいこと、
書こうと思うことはあるのですが、断片的で、うまくまとまりません。
気持ちがザワザワしているということもあると思います。

 しばらく休んでいる間に、かつての文章を読み返し、それぞれの思いを
聞かせていただければ幸いです。

            gsaiko@gmail.com  西光義秀


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2012年3月 2日 (金)

何度も、くり返し聞くのが仏法

 仏法を聞くということは、生活上で何か役に立つ話を聞くことでも、珍しい話題や感動する話しを聞くことでもありません。また、いままで聞いたことも無い話を聞くことでもありません。難しい話をくり返し聞いて、最初はわからなかったけれど少しずつ理解ができて、そのうちとてもよくわかるようになるということでもありません。
 仏法は、すでに何度も聞いた話のなかに、まことの教えを聞いてゆくのです。私たちが日常生活のなかで経験したり、感じたりしていることをきっかけにして、真実に気づかせてくれるのです。仏さまの話は、ほんとうのことであり、当たり前のことが示されているのですから、よくわかる簡単な話をくり返し聞くことがとても大切な気がします。できるなら、すでに聞いたよくしっている話が、「わがこと」として響いてくる話ではないでしょうか。

 たとえば、四苦(生・老・病・死)の話は、自分の人生のどの場面においても深く自分自身にあてはめて聞くことができる話でしょう。まったく他人事であったとしても、それは明日はわが身、次の瞬間に自身に降りかかってくることと聞くことができる話です。
 また、「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」は、若くて健康で、何の悩みもない者でも、毎日の生活を通して自身を知らしめる教えです。歳をとると感覚が鈍くなって喜怒哀楽の起伏が小さくなるとか、年齢とともにだんだん欲が無くなっていく、などという人がいます。若いときの感性豊かな生き方とは明らかに違っていることは事実でしょう。でも、若いときとは違った感覚や思いのところに「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」が響いてきます。

 人間である限り、性別や年齢がどうあろうと、生まれや育った環境が違っていても、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、欲しいものは欲しいのです。そして何よりも大切で愛しいこの身体や心を満たしても満たしきれないことに激しく悩み、苦しみ続けているのです。それを癒すものは忘却であったり、新たな執着先を求めることですから、何の解決も図られないまま人生が過ぎてゆきます。解決の図られない過去の思いは、わが身に薫習されてゆきます。つまり心の奥底に染みついてゆくのです。

 楽天的な人はそれを「よき思い出」と言い、悲観的な人は「悲しく苦しいの過去」などと言うのかもしれません。生きるということは、喜び叫び、嘆き悲しみ、悩み苦しむということでしょう。しかしそれは私一人の思いや行為に終わりません。そんな私をずーっと、じーっと見ておられる方がおられます。その方のこころが言葉となって私に説かれる話が仏法です。無始以来、ずーっと私に寄り添ってくださっていますから、私にとってはいちばん頼りになる話であり、教えです。
 ですから、すでに聞いたことがあっても、よく知っている話でも、何度も何度もくり返しくり返し聞くことが必要なのです。

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2012年2月24日 (金)

わが思いを交えずに、阿弥陀さまの心を聞く

 浄土真宗の救いは、信心ひとつと言われながら、一方では「信楽受持すること、はなはだもって難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし」(「正信偈」註釈版p.204)とも言われます。これ以上難しいことはないというのです。また、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へはゆきやすくしてひとなし」(『御文章』註釈版p.1119)とも言われています。信心をとる人はまれですから、浄土へゆくのはやさしいのにゆく人がいないというのです。
 つまり、往生のためには信心ひとつでよく、そのほかには何もいらないのに、その信心がえられない。信心を獲ることができないというのです。確かに、長い間仏法を聞いているけれども、その要がわからない、ほんとうにこんな聞き方でいいのだろうか・・・などと、教えの受け取り方がきわめてあいまいである人は少なくはありません。
 そういう私も、なにかぼんやりした真実らしきものがあるような気もするけれど、それが私にどのようにはたらいているのかわからないし、真実を実感することができないことに悩んだことがありました。形だけの僧侶になれても、人前に出て仏さまの話などできようはずはない、とも。

 しかしどれだけ私が苦しみ悩もうとも、それをわが力で解決する手段などどこにもありません。体力も、知力も、感覚も、それらを鍛錬したり研ぎ澄ませたりして、一時のなぐさみになったところで、末通った真実などみえることはありません。私があがくほど、「はなはだもって難し」という言葉ばかりが頭をよぎるのです。信心ってなんだろう? 見えない、実感のない阿弥陀さまを信じることもできないし・・・。

 そんな思いの解決のためには、阿弥陀さまのおこころを聞かせていただくしかありませんでした。私の思いが先にくるから、阿弥陀さまのこころが届かないのです。私の心によって信じようとするから、阿弥陀さまのこころが届かないのです。私の思いや心が混じるから「難のなかの難これに過ぎたるはなし」になるのです。
 私の思いも心もはたらかないほどに、ただただ阿弥陀さまの心を聞かせつづけられることしかありません。その阿弥陀さまのこころは「南無阿弥陀仏」です。この「南無阿弥陀仏」にも、わが思いを交えてしまうから、阿弥陀さまのこころと聞くことができないのです。

 阿弥陀さまの願いとはたらきであるから、往生浄土が間違いないのです。それでいて浄土に往きやすいのです。阿弥陀さまのこころを聞かせていただきつつ、そのこころがもっとも端的に示され、私に称えよとすすめ与えられた「南無阿弥陀仏」を口に称えさせていただく。それ以外に何ができますか?
 そこのところが私の心にスポッと入ったとき、「南無阿弥陀仏」と口に称えさせていただくほかはなくなってしまう。それは、まったく私のはたらきではなく、阿弥陀さまのはたらきなのです。

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2012年2月20日 (月)

後生を想定外にしてはなりません

 東北地方太平洋沖大震災にしても、その直後の福島第一原発の事故についても、地震や原発関係の関係者は口を揃えて「想定外だった」と言います。想定外という言葉の裏には、予測をした人の責任回避の言い訳が含まれていると言う人がいます。そう言えないことはないでしょうが、起こる可能性のある範囲であるか否かの線を引くこと自体が無理なことです。過去の知識や経験の蓄積をデータとして検討した結果によってたてられている想定ですから、そのデータに盛り込まれていないことが起これば想定外にならざるを得ません。

 しかし想定内のことであっても、自身のなかに大混乱が起こることはしばしばあります。生まれ生きる者は必ず死があるというのはだれもが知っていますから、ごく身近な人が亡くなるというのは想定内のことです。何十年もいっしょに苦楽をともにしてきた両親や妻や夫、さらには子どもや兄弟姉妹も亡くなるということもわかっているはずです。それにもかかわらず、突然やってくる身近な人の死に言葉さえも失ってしまいますし、虚脱状態におちいってしまいます。
 身近な人の死は想定内であると知識のレベルで知っていても、自分ではコントロールできていないことがあるということを教えてくれています。ましてや、自分の死も想定内であるはずなのに、その認識はきわめて薄いのではないでしょうか。つまり死を想定した生き方をしている人はほとんどいないということです。生命保険をかけるとき、自分が死亡した場合の保険金の額をきめなければなりません。その場合でも、自分が死ぬという実存的な思いに至ることはまずないでしょう。万一、自分の死を感じることがあれば、その思いをなんとか打ち消そうとするばかりです。

 万事、都合よく生きたいだけのことです。しかし都合よく生きることができるか否かは、はるかに私の思いを超えたところにしかありません。ましてや、自分の死んだ先のゆくえはまったくの想定外です。
 この世をいかに生きるのかという延長線上で自分の死の問題を考えてみても、解決のきっかけさえも見つけることはできません。想定内の死にも目をつむるくらいですから、この世を終えた次はどこに生まれるのなどという想定外のことはとても考えられないし、考えたところで仕方がない・・・などと逃げるしか道はありません。そしてどんどん先送りになっていくばかりです。
 蓮如上人はこの問題を「後生の一大事」として取り上げられ、その解決こそが仏法にあると示されました。知識としての死ではなく、因果の道理にしたがって自分の後生をみてゆくことは、人間に生まれなければできないことです。自分の後生の問題の解決は、迷いの解決でもあるのです。

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2012年2月13日 (月)

知足の前に少欲を

 「生き方にブレーキをかける」「スピードを落として生きる」という生き方は、「少欲知足」の生き方と言えるのではないでしょうか。
 だれでも足ることを知るという経験はあるでしょう。ただ、知足は短時間でしかありません。ほんの一瞬の満足です。現代人のしあわせ感は、この短時間の知足のくり返しでしかありません。社会が発展して便利になるというのは、どんどん知足の時間が短くなってゆくということでもあります。だから早く、次々に満たしてくれる方法、手段を探し求めている。またそれに応えてくれる態勢があちこちに整えられるのです。それが豊かな社会の仕組みです。決して足ることを知らないのではありません。

 その一方、欲を少なくすることはとても難しいことです。生きるスピードが速いから、一瞬に消え去るしあわせ感を満たすためには、早く次の欲求を生み出さなければならないのです。それは足っていることを味わうことなく、次の欲を駆り立てているからにほかなりません。あるいは私の欲求が穏やかなものであったとしても、次の欲を生み出すことを外部から駆り立てられているのです。自分が駆り立て、外部から駆り立てられるということになると、そのスピードに加速がつくこと間違いありません。

 だからといって欲をなくせというのではありません(できることでもありませんが・・・)。できる限り小さくしてゆくことです。車に乗るな、電気を使うな、食べるな、・・・というのは極端な話です。
 ただ極端に欲を小さくしたとしても、私が生きている限り、仏教的には罪悪を重ねていることにほかなりません。生きるということは、罪であり、悪であるのです。それでも生きることを許されているのです。そのことをまずは味わいたいと思います。

 欲を小さくしてゆけば、社会の仕組みや物のなかに必要がないと思われるものもを発見することができます。いくつもあると思うのですが、パッと思い浮かぶのは、一つは核分裂・核融合という目に見えないにもかかわらず巨大な装置を必要とし人間の手に負えない原子力発電。もう一つはいのちを細分化し、人間の手の出す領域を逸脱しているiPS細胞です。
 いずれも人間社会を豊かにする夢の技術のように考えられ、巨額投資がおこなわれ続ける分野です。もちろんリスクが大きく、いずれも暴走したときの止めようがありません。しかしどれほど大きく強いリスクがあっても、人間の夢や欲望には勝てません。
 スリーマイル島、チェルノブイリの原発事故があり、昨年の福島原発の事故もあったのに、まだまだ原子力発電全面廃止には踏み出せません。iPS細胞に至っては、今後が期待できる夢の技術としてしか見られていません。

 どんどんふくらんでゆく欲求の裏側には、人類をも滅ぼすリスクも大きくなってゆくことにほかなりません。めいっぱいわが心身とも満たすことしか考えないという生き方によって、次世代・子孫に負の遺産を残すわけにはいきません。

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2012年2月12日 (日)

社会の問題でもあり、私自身の問題

 近代社会以降、人間の欲求が満たされる度合いが高まってきました。それまでは人力による動力で細々と満たされてきた欲求が、家畜による動力によってより高い欲求を満たしてきた。さらに石炭や石油による動力によって夢のような欲求が次々と満たされてきたというように。
 このように欲求が満たされる度合いが高まる社会は豊かな社会だと、誰もが思うようになっているのではないでしょうか。満たしたい欲求にはどんどんふくらんでキリはありませんし、それが満たされてきたのが近代社会であり現代社会です。

 その一方で、大きな矛盾を抱え込んできました。たとえば、政治や経済の仕組みは、それぞれの時代や社会に応じて、人々が豊かでしあわせになるための最善策を希求してきましたが、問題も至るところで噴出しました。それを修正しながら、ときどき大きな変更、変革をくり返しつつ今日に至りました。資本主義社会が広がるにつれ、その矛盾を解消すべく社会主義的な考えや実践が現れました。資本主義が社会主義的な考え方を取り入れたり、また社会主義が資本主義的な実践を取り入れたり・・・。さまざまに形を変えながらも、すべての人が豊かになる社会は理想でしかありません。
 また、原子力発電は夢の発電でした。どんどん豊かになる社会を創出し、これからの豊かさを支える手段だという期待は大きなものでした。その一方でリスクの指摘は少なからずありました。一般市民でもその危険性を薄々感じていたのではないでしょうか。にもかかわらず、そのリスクと豊かさを天秤にかけたら、原子力発電を捨て去ることはできなかったのです。豊かさを選択したのです。安全性を確保できるなら・・・とか、リスクを背負うのは致し方ないことなどと条件をつけながら、原子力発電で生み出された電力に頼った社会を満喫してきたのです。
 しかし安全性が確保できなかったら後はありませんし、リスクの発生は多くの人に多大な不幸をもたらすのです。それが原子力発電の大きな問題です。それは他人事ではありません。何より私自身に覆い被さる問題を発生させ、私の子や子孫にまで問題を積み残す装置であるのです。
 社会の仕組みも、原子力発電所についても、漠然と政治や経済さらには社会の問題だと多くの人たちは見ているでしょう。しかしそこに視点を置くだけではなく、人間として生きている私の問題です。私の問題なら、ほんとうに黙って、他人事のように傍観することはできません。でも、そう見えない。それだけじゃない、そうは見たくないと思っているのです。

 どこまでも限りなく自分の欲求を満たそうと無意識に生きている。それは自分では意識することができない薬物中毒のように、私の心身をむしばんでいるのです。
 もしそのことに少しでも気づかせてもらうことができたなら、どこまでも欲求を満たそうとする生き方にブレーキをかけてみることです。猛スピードで走っていたら見えなかったものが、スピードを落とすことによって見えてくる、気づくことができるのではないでしょうか。

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2012年2月11日 (土)

社会を生きてゆくということは

 社会のありようはきわめて多様です。その多様性をなかなかうまく説明することはできませんが、社会のできごとをもっとも広範囲に取り上げている社会学という学問分野では、日本社会学会によって研究領域が次のように分類されています。

社会哲学・社会思想・社会学史/一般理論/社会変動論/社会集団・組織論/階級・階層・社会移動/家族/農漁山村・地域社会/都市/生活構造/政治・国際関係/社会運動・集合行動/経営・産業・労働/人口/教育/文化・宗教・道徳/社会心理・社会意識/コミュニケーション・情報・シンボル/社会病理・社会問題/社会福祉・医療/計画・開発/社会学研究法/経済/社会史・民俗・生活史/法律/民族問題・ナショナリズム/比較社会・地域研究/差別問題/性・世代/知識・科学/余暇・スポーツ/環境/総説・概説/その他

 それでも分類しきれないので、最後に「その他」というのが設けられています。
 これらの各領域のなかは、さらに細分化されています。たとえば、私たちの非常に身近にある「家族」に関する社会学の研究領域は、日本家族社会学会によって次のように家族細分類がおこなわれています。

家族学説・理論/家族調査法・研究法/家族史/家族制度・家族法・家族政策/家族構造・家族システム/家族規範・家族イデオロギー/家族変動/人口/ジェンダー・性役割/セクシュアリティ・性愛・性/家族関係/夫婦関係/親子関係/嫁姑関係/祖父母と孫関係/きょうだい関係/家族意識・家族感情/家族周期・ライフコース・生活史/配偶者選択・結婚/離婚・再婚/生殖・出産・中絶/社会化・教育・産育/家計・就労・家事労働/家族危機・ストレス・家族療法/家族問題・家庭内暴力・虐待/高齢期・高齢化/家族福祉・医療・介護/死・宗教・先祖祭祀/家族慣行・家族行事/家族ライフスタイル/親族関係/地域・近隣・友人/エスニシティ・比較文化/その他

 日本で「社会」という言葉が使われるようになったのは19世紀になってからのことです。それまではおそらく「世間」とか「浮世」などという言葉が使われていたのでしょう。
 その世間は、仏教からすれば「虚仮」であり、「火宅無常の世界」などと示されています。つまり社会を虚仮の世界だとみているのです。となると、上記にあげた研究上で分類した各領域も虚仮だということになります。しかしその虚仮の世界に私は生きているのです。私だけではなく、すべての人がこの社会に関わっています。
 一般的には社会が虚仮などと誰も言いません。また仏法を知らなければ、社会が虚仮などとは思わないでしょう。しかし社会のどの領域でも、生身の人間として真剣に関わると、仏法を知らなくても社会のむなしさを感じるのではないでしょうか。そのむなしさをなんとか打ち消すための手段を次に求めてゆくような気がしてなりません。それが社会を生きてゆくということではないでしょうか。

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