形より意味を問う
この世で幸せな人生を送るためには、どこかに落ち着きたい、安定したいという思いをもつのではないでしょうか。ところがそれを根底から覆すできごとが次々におこってくるのです。安定したい、落ち着きたいという思いと、厳しい現実とのせめぎ合いが人生であるともいえるでしょう。
安定したいという思いを手っ取り早く実現する方法として、生まれながらにもっているものを全面的に肯定することではないでしょうか。たとえば、自分の家柄や家風、さらには家業や家の宗教等々をすっかり受け継ぐことなどです。それらを受け継ぐことに善し悪しの判断をくだすつもりはありませんが、受け継いだことに意味を見いだすことなしには幸せな人生を実感することはできないでしょう。とくに宗教の場合は、そういう思いを強くします。
数ある宗教の中で、たまたま自分の生まれた家の宗教と出遇うということは、縁によるものとしか言い様がありません。しかし家の宗教を受け継ぐときのほとんどは、その形式や儀礼を受け継ぐことであり、教えの中身をしっかり受け継ぐというのはなかなか難しいものです。もっとも形式や儀礼は教えを反映したものですから、そのことを通して教えを問うてゆく人もいないではありません。その場合は単に家の宗教としてあっただけではなく、地域社会の中に聴聞するお寺があり、聴聞を誘ってくれる同行などいて、わが身の上に家の宗教の中身を問うてゆく装置がはたらいていたのです。浄土真宗の「妙好人」と言われる人たちは、そういう装置の中で育て上げられていった篤信者です。
しかし先祖代々受け継がれてきたものであるがゆえに、何の問題意識も持たずにすっかりそのまま受け継いだゆえに形だけしか残っていないというところもあります。そしてそのうち、形も姿を変えてゆくのです。
「この教えはとてもありがたい教えだ」「この教えを一人でも多くの人たちに伝えてゆかなければならない」「このみ教えによって尊い人生を喜ばせていただこう」などと聞くことがよくあります。そのようにスローガンのように口に出すよりは、「このみ教え」とはどのような教えなのか伝える必要があります。それは教えてもらった言葉であってはあまり意味がありません。教えてもらったときには新鮮さを感じても、多くの人が使うほどに色あせ、形式的な言葉として受け取られなくなってしまいます。
教えがわが身の内をどのように通り抜けどう響いたのかというところでしか、その中身は伝わりません。教えの意味は響き合うことでしかうなづくことができないのではないでしょうか。
洗練された儀礼も壮大な教義体系も、響き合いうなづきあうことによることなしには生まれてこなかったのではないかとも思うのです。せっかくご縁によっていただいたものも、中身を深く問うてみることなしには宝の持ち腐れになってしまいかねません。また真に安定した人生を送ることもできません。
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