2017年1月 5日 (木)

2017年 あけましておめでとうございます

 あたありまえのように2017年の新年を迎えることができましたが、これは決してあたりまえではない…と、最近思えてしかたがありません。自分では意識しなくとも、身体の各機関が微妙なバランスを保ちながらわたしを生かしめてくれている。それがもう60年を超えてはたらき続けてくれているのです。この身体を維持するために、多くのいのちに支えられ、多くの人に手をわずらわせていまがある。 そんなことをいつも考えて生きているわけではありませんが、人の死にであい、わが身の老いや病を実感するなかでそんなことを思わずにはおれません。そういう事実が、わたしを揺さぶり、「無常に気づけ」とさとしてくれている。

 ふだんは楽しいこと、おいしいものを食べること、バカ騒ぎをすること、・・・楽しみないっぱいあり、それらを追い求める毎日ではあります。でも、最近、フッと立ち止まることがある。って言うか、楽しいを追い求め、つかんだ楽しみに満足するものの、どこかむなしい。心の底で、こんなんじゃない・・・って声が聞こえてきそう。

 無駄に、無為に時間を費やすことが多いけれど、仏法まことのことわりを、もっと深く、ていねいに聞いていきたいと思うこの歳のはじめです。
 

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2015年12月 8日 (火)

独生独死独去独来

 人間社会というのは、人が互いに関係をもち、支え合いながら生きていくことによって成り立っています。古来、人と人は、良きにつけ悪しきにつけ対面関係のなかで人間社会を築いてきました。
 それがここに来て、急速に壊れています。地域社会は言うに及ばず、家族関係や同じ目標をもって活動する集団や団体さえも、人間関係は疎遠になっていきつつあります。みんなで協力してやってたことが、お金を出して専門業者に頼めば楽だし、きれいにできる。人が直接関わりあうのはわずらわしく、めんどう。対面関係の中で作り上げてきたものも、直接会わなくてもできてしまうのです。物流システムの高度化、コミュニケーション手段も電話やメールでほぼ済ませられる。手を抜いてもそれをカバーしてくれるものが次々にあらわれてくる時代になっている。
 間違ってはならないのは、他の人との関わりが無くなってしまった・・・のではないということ。むしろより複雑に、より高度な関わりがあるのに、すべて直接性を失っているに過ぎない。だから、「誰の世話にもならない。みんな自分でできる」と思ってる。コンビニさえあれば・・・とか、電話一本で何でもできる、などと思ってしまう。
 東北震災後、「きずな」や「よりそう」と盛んに言われました。東北の場合は、震災のために、津波のために、原発事故のために、人々が離散されたからそう言われたのでしょう。しかしいつの間にか、私たちの生き方、ありようを示唆する言葉になっています。人間生活を営んでおれば、そんな言葉を使わなくてもつながっていたものを。
 実際、老い、病み、死んで行くところでは、直接の人間関係を意識するのですが、そこにはこれまであった人間関係が失われてしまっていることに、多くの人が気づき始めているのではないでしょうか。
 お釈迦様は、いまから2500年前に、すでに私の姿を「独生独死独去独来」と示してくださっているのです。仏法を聞く者は、それを耳にタコができるほど聞いてきたはずです。強い、深い人とのつながりのなかでも、つねにわが身が「独り」であることを聞いてきたのです。それだけに、人とのつながりがかけがえのないものであることを知り、人との関係をとても大切にし、人との出遇いを深く味わったのでした。
 いま、孤独を感じている人は、この「独生独死独去独来」を部分的、断片的に、簡易的に感じているのではないでしょうか。お釈迦様の真意は、もっともっと深いところにあります。まことを通したお言葉を聞くことは、いまからでも決して遅くはありません。

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2015年8月30日 (日)

そのまま法水のなかに

 またしばらくご無沙汰してしまいました。

 次々と入ってくるスケジュールを、深く考えることもなく済ませてゆく・・・
というのは言いすぎかもしれませんが、振り返る余裕もなく、怒濤のように日が過ぎ去っていきました。そんな8月が終わろうとしています。

 何を考えていても、どのような行いをしても、時間は過ぎてゆきます。何も変わるものはないかのようです。でも、考えたことや為してきたことの蓄積がいまの”わたし”です。自覚できなくても積み重ねてきた私の業の結果が”わたし”です。
 そんなことを深く考えることはめったにありませんが、フッと、そんなことを聞かせてもらってきたんやなぁ~と思っています。

  その籠を水につけよ、わが身をば法に
  ひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。
  万事信なきによりてわろきなり。善知識の
  わろきと仰せらるるは、信のなきことを
  くせごとと仰せられ候ふことに候ふ。
            (「御一代記聞書」 注釈版1260頁)

 私の心はカゴに水を入れるようなもので、有り難いと思って聞いた教えも、すぐに元に戻ってしまう・・・と心の内を明らかにした同行に、蓮如上人は「そのカゴを水につけよ」「わが身を法に浸しておけ」とおっしゃったのです。さらに、わが身のありようは、真実信心のないことからおこるのであり、それは好ましくないこと、けしからぬこと(くせごと)であるとおっしゃっています。
 あれもこれも・・・とカゴの使い道はあるけれど、また使えば使うほどカゴの有用性はあるけれど、肝心要の教えがカゴの目から漏れ落ちてゆく。カゴに残るのは、カゴの目より大きなゴミばかり・・・。

 日々の生活で積み重ねているのは、私を中心にした思いと行為。そこから一歩も出るもんじゃない。懸命に生きてるけど、それは「くせごと」だと断言される。そこで出てくる言葉が、「でもね・・・」。
 その「でもね・・・」も、そのまま法水のなかに。なんまんだぶつ。

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2015年6月 5日 (金)

四国の殺人事件犯人逮捕に思うこと

 四国の殺人事件の容疑者が僧侶であったというニュースに驚いた。ことの事情がどのようなものであったのかはわからないし、詮索するつもりはない。
 ただ、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という『歎異抄』の言葉を、改めて思わずにはおれない。私自身に向けての言葉として。

 今回の事件の容疑者も、僧侶になるにあたり、親や門信徒の期待があり、自らの発心もあったであろうと思う。人との出遇いのなかで、当初は殺人など思いもよらなかったであろう。それがどこでどう絡み合い縁となったのか、このような事態に至ってしまった。警察やマスコミが詮索する動機や因果関係などでは探りきれない「業縁」に依っているとしかいいようがない。

 自分でコントロールしていると思ってる人生のように思っても、実は縁のなかでしか生きらていないのがこの私である。最終的には自分の思いであり、わが行為であっても、そこに至るまでの因と縁は、無限の過去世からの、ありとあらゆる無限の関係の中から生まれ出たものである。たどることもできない知ることもできない複雑怪奇ななかからそうならざるをえなかった。あるいはそうなるべくしてなったともいえるかもしれない。そのこところはまったく知ることはできない。私たちの一切の思案を超えたはるかかなたからの因縁でしかない。

 それは、言い換えるなら、私の次の瞬間がどうなるのか…ということを、自分でコントロールできないということでもある。自分でコントロールしているように思っていても、実はたまたまコントロールできたように思えているだけのことでしかない。

 「それゆえのご本願…」と、すぐに真宗僧侶は説教してしたがる。そして「ありがたい」「もったいない」と話は終わる。しかしここは、しっかり自分のところに踏みとどまって、自分のところから逃げずに「さるべき業縁」を味わうべきではなかろうか。
 逃げずに味わえば信心は得られるのか、深まるのか…? そんなことはないかもしれない(いや、あるかもしれない)。しかしそこから逃げるから、社会との接点を失ってしまうのだ。ここは、一人の人間として、わが身にベクトルを向けてみるべき問題である。

 その一方で、これまで聞かせてもらってきた南無阿弥陀仏がはたらいてくださっていることが知らされる。さるべき業縁と南無阿弥陀仏を、布教使が引っ付けてどうするねん。自分の思いで納得させてどうするねん。
 「我執」いっぱいで生きてるものが、そのときの気分にほだされて「それゆえの本願…」なんて、どの口から言うてるのか? 聴く者ひとり一人が、聞かされて知らされてゆく教えであることを思わずにはおれない。

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2015年5月30日 (土)

第25期ビハーラ活動者養成研修へ

 本願寺派は昭和60年頃からビハーラ活動に取り組み始めました。その一つにビハーラを実践する人たちを要請することにも務めました。その一つがビハーラ活動者養成研修です。当初は、仏教でそのような活動を行っている人は少なく、キリスト教のホスピス活動を先例とし、その活動に携わっておられる方々が講師となられていたようです。
 それから回を重ね、今年度は第25期の研修です。これまで1200余名の方々がこの研修を受けられたと聞きました。また、この研修を受けられた人たちは、各教区のビハーラ活動の中心となって研鑽、活動されておられるようです。

 そんな研修に、今回、私も参加することにしました。2泊3日の研修が4回。そのほかに1日の実習が1回、1泊2日の実習が2回あります。実習場所として、京都府城陽市には、特別養護老人ホームの「ビハーラ本願寺」と緩和ケア施設の「あそかビハーラ病院」、さらには地域社会と根ざした福祉施設や病院などでも行うようになっています。

 人間の生・老・病・死のありようは、誰もが知っています。しかしそれは知識としてであり、このわが身の問題であると受け止めることはとても難しいように思います。とくに、老や病や死にあうことは不幸であり、そうなりたくない…と思うのが私たちの思いです。その思いを持つ続けているところに、老いが老がやってきて、あってはならないまさかの死がやってくるのです。若くて健康であれば、この世を懸命に生きることに力を注ぎ、ホッと一息ついたときにはのほほんとあたありまえのように生活しているのです。
 老や病や死を迎えるのに順番はありません。次の瞬間が私が引き受けなければならないことでもあるのです。いや、引き受けることができるのならいいですが、おそれおののく事態とならないという保証はどこにもありません。

 そんな思いを持ちながら、第25期ビハーラ活動者養成研修に参加することになりました。

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2015年5月26日 (火)

ずいぶんご無沙汰しております

 前回の更新は、2013年10月28日。
それからもう1年半以上たちました。

 よくまぁ、その一年半の間、私のこの世の命が途切れることなく、なんとか
ここに居ることができたものです。これまでは、こんな思いになることは
ありませんでしたが、この一年半余の間に見たり、聞いたり、経験して
きて、私に教え示してくださった多くのことがらが、そう思わずにはおれない
私にしてくださったんだと思わずにはおれません。

 半年ほど前から、そろそろこのブログを再開したい、しなければならない
と思っていました。でも、なかなか言葉にすることができませんでした。

 その間、大谷派の瓜生崇師は、響流書房なる浄土真宗のご法話を中心
とした小冊子の出版社を立ち上げ、すでに15冊が出版されています。
ただ、これらの書籍はすべて電子書籍です。
 価格はリーズナブルで、1冊100円というのが中心の価格帯。少し
ボリュームのあるものについては250円というのもありますが、それでも
中身は濃く、深く御法を味わうことができます。関心のある方は是非
読んでみてください。専用端末(Kindle)でも、また専用の無料アプリを
ダウンロードすればスマホやタブレットなどでも購入し読むことができます。
 詳細は、http://kourushobo.com/ へ。また、「響流書房」で検索
してみてください。

 そんな動きもあって、結構むずむずしてたのですが、書けないものは
書けない。書くことの気力が足らなかったことや、感性も弱っていた
のかもしれません。

 でも、きょうは、ここでこのブログの再会宣言をします。

 というのは、一昨日、埼玉県浦和市の最勝寺永代経に出講させて
いただきました。このお寺、私が築地に勤務しているときからのご縁が
あるお寺で、常例布教を中心に年に3~4回、ご法話をさせていただく
機会をいただくのです。
 そして一昨日の永代経のとき、お話をさせていただく人たちの聞いて
くださっている姿に、ちょっと驚きました。100名くらいのお参りだった
でしょうか。この方々、ほんとに真剣に聞いてくださっている。話そうと
思っていたこと以外、みなさんに刺激を受けて、どんどん話を引き出
させてくださっている・・・という思いをしたのです。

 そしてきょうの朝、そのことを思い出しながら、あの人たちと仏法を語り
あえたら、どんなに深まることか・・・と思ったのです。でも場所は遠方。
しょっちゅう語り合うことなどできない。それじゃ、一方的にでも、御法を
投げかけておけば、もし響けば何かが返ってくるかも・・・と思ったのです。

 そうそう、ブログがあった。仏法を聞きたい、語りたい、そして話したい、
等々という思いを持っている人は少なからずいる。いろんなところで、
多くの先生方が仏法・真宗を語り、活字になさっておられるけれど、
私は私なりに書き記しておきたい・・・と思ったのです。
 たいしたことが書けるわけではありません。でも書く気がしなくても、
感性が鈍っていても、常に本願に照らされて生きている限り、知らん
ふりもできないですからね。

 明日から、本願寺の第25期ビハーラ活動者養成が始まります。
私も参加します。いままでとは少し違った視点をいただけるであろう
ことを期待しています。その報告などもできれば・・・と思っています。

 親鸞聖人のお手紙の中に、次のような文章があります。

 なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて
 候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、
 くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろき
 おぼしめすべからず候ふ。  (『註釈版聖典』 771~772頁)

 まさに、私の去年、今年の話ですし、仏が示されたまことでもあり
ます。それらに目を背けることをゆるさない、きびしいご催促です。
そのことに何もできないまま、むなしく日は過ぎてゆきます。だから
といって何ができるわけではないけれど、まことに触れさせていた
だいたがゆえに動き始めた、この我が思いを、またこの場、この
機会に、足りないながらも言葉にしていきたいと思うのです。

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2013年10月28日 (月)

どうして人を殺してはいけないのか?

 龍谷大学教授の浅田正博先生の著書『生かされて生きる~どうして人を殺してはいけないのですか~』探究社刊を読みました。
 その前に、拙著『私のものさし 仏のこころ』と発行日が同じ。総ページ数は拙著の半分ほどの67ページ。なのに価格が税別で350円。拙著の価格が1200円(税別)なのに比べるとベラボーに安い! 何故?・・・って聞いたところ、出版部数がメチャ多いのと、龍谷大学文学部仏教学科のOBの篤志家の寄付があり、それを同学科の社会還元事業の一環として出版されたものらしい。しかしこの本は、多くの人に読んでもらいたい本でもありますから、350円をケチらずに一読して欲しいです。

 さて、「どうして人を殺してはいけないのですか?」というテーマで、浅田ゼミの学生たちと議論したことが書かれています。
 すぐ浮かぶ答えは、法律で決まっているから、また仏教徒の視点からだと殺生を戒めているから、・・・などと答えるでしょう。ほんとにそれで説得力がありますか。人は殺してはいけないけれど、ブタや牛ならいいのですか? 蚊やハエなら殺すのが当然ですか?
 また、自殺(自死)は許されますか? 自殺は人を殺すのではなく、自分を殺すのです。自分の命をとやかく言われる筋合いはない・・・のでしょうか? あるいは堕胎はどうでしょうか? 未成年で結婚もしていない状態での妊娠や、強姦による妊娠も考えられるでしょう。学生たちの多くは、自殺を容認し、堕胎を容認したと言います。仏教学を学んでいる学生たちがです。
 他人事なら、話のネタのうちのひとつかもしれませんが、客観的な評論程度で話すことが許されない、私自身の問題として考えればどうでしょう。

 さらに浅田ゼミの議論は続きます。地獄の有無です。経典には人を殺したら地獄に堕ちるって書いてある。また極楽があるとも書かれているが・・・と問われます。しかしある学生は、極楽はあると思うが地獄は無いと答えたというのです。
 浅田先生は学生たちに問いかけます。君たちは1年2年で仏教を学んできたのに、どうして仏教学の見方をしないのか? 仏典にはどのように書いてあるのか・・・と。

 この先は、この本を読んでみてください。そしてみなさんも考えてみてください。私たちは一人の人間ではありますが、ただ人間として生きているだけでいいのでしょうか?
 仏教に教えられることがない限り、どこまでも好き勝手な思いで、傲慢にしか生きることができません。若いときは年長者に導かれて生きたとしても、ある程度以上の年齢に達すると、意見してくれる人がいなくなり、また意見されても聞けなくなってしまいます。
 私は人間として正しく生きてゆく道は、仏法を聞くほかはないと思います。聞いても好き勝手にしか生きられない私ではありますが、唯一のブレーキは仏法ではないでしょうか。そこにどれだけ深く帰依できるのか、仏教徒として、あるいは念仏者として問われていることでもあると思います。

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2013年10月20日 (日)

『私のものさし 仏のこころ』

 『私のものさし 仏のこころ』探究社 A5判127頁 ¥1200+税

 前著『われも六字のうちにこそ住め』(樹心社)に引き続き、ブログ「畢竟依を帰命せよ」からの一部をまとめたものです。1000字超の読み切りの文章が48あります。それぞれのタイトルをみて、どこからでも読んでいただくことができます。

 この本は、前著の原稿整理、編集をするなかで、第1章および第2章として予定していました。しかし樹心社より、原稿の量が多すぎるので、出版するのは第3~第5章の部分にしたいという意向が示され、同意しました。
 つまり前著の前半部分をなすのが本書です。もちろん、そんなことを知らずとも、違和感なく読んでいただけると思います。

 以前にもどこかに書いたように思うのですが、浄土真宗の法話に限りませんが、どの布教使(師)さんも、聞法プロセスについての話はあまり触れられません。
 仏法は、出遇いの縁がありますが、それから後、まことにうなづくことができるまでがとてもたいへんです。人それぞれですから、そんなことは何も問題にならなかった、なってはいない・・・という人もおられるでしょう。しかし、私の場合は、聞いてもわからない、わかっても腹の底から納得できるものではない、疑っているわけではないけれど心の底では「でもね・・・」と言いたくなる(これこそバリバリの疑心です)、等々、心の晴れない聞法経歴が何年も続いています。
 仏法を聞くための正統な聞法プロセスなんてありません。人それぞれに違うのです。正しい聞法プロセスが語れるはずはないから、あまり話されることはないのでしょう。また、仮に誰かの聞法プロセスを示したところで、そうなれるかというとそうなれない。そうなれないことは信心には至り着くことができないのだ・・・という誤解さえ生みかねません。聞法プロセスを語るということは、そういう弊害もあるのです。

 しかし、聞法プロセスを語ることは弊害ばかりではないとも思っています。聞法は最初のうちは、自分の思いのところで聞いていても、それが何も役に立たないことを知らされるのは、具体的な聞法プロセスに依るところが大いにあります。もっとも、それは多くの同行たちと本音の信心談義をしておれば、自ずとわかることですが、なかなかその「本音の信心談義」ができなくなっているのではないでしょうか。

 特に本書の後半部分は、法を「聞く」ことについての文章をまとめてあります。仏法を聞くということは、日常生活の会話を聞くのと聞き方が違います。また落語や講義を聞くことも違います。そこのところの私の思いを記してあります。ここのところは、読まれたあとの感想なり思いを聞かせていただきたいものです。

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2013年10月 2日 (水)

「浄土真宗の法話案内」サイト

 Facebookで浄土真宗関係の僧侶や門信徒の方々のつながりができています。しかも本願寺派に限ってないところがおもしろいところです。その仲間たちが、直接会うこともなく、ネット上で相談し、ネット上で決定して、仏法のご縁をつくろうとする試みています。
 ひとつは「真宗合同布教大会」。とかくかみ合わない真宗各派の僧侶が、一堂に会して一人20分ずつの法話をするという企画です。正直、その法話の内容は玉石混交という感じをしないではありませんが、そのことを感じられる場ができたということは大きな意味があると思っています。

 もう一つ、「浄土真宗の法話案内」というWebサイト(http://shinshuhouwa.info/)ができつつあるということです。現時点でテスト運用がなされています。
 浄土真宗の十派の寺院を合わせると、2万ヶ寺以上あって、多くの寺で報恩講や永代経が勤まります。季節的には、春秋彼岸会や盂蘭盆会(歓喜会)も勤まります。それぞれの法要はお勤めのあとに、法話があります。それに加えて、毎月あるいは定期的に常例法座や、聖教や教学の勉強会も開催されています。それぞれのお寺の門信徒がお参り・参加の中心でしょうが、それ以外の人のお参り・参加も可能です。
 ところが、その広報は門信徒にはなされていても、それ以外の人が知ることはほとんどないのではないでしょうか。寺院の活動を広報するのは寺院住職の役割、僧侶の仕事のように思われているのではないでしょうか。実際、そのとおりですから、門信徒への広報さえもなかなか徹底できるものではありません。それをインターネットを利用して、僧族を問わず関心のある人すべての力を利用して広報しようとする試みです。

 これまでの宗派や各寺院の案内は、法要・行事が中心で、その一部として法話があるという広報の仕方でした。しかしこのサイトは「法話案内」であるというところに、大きな特徴があります。法話案内のデータベースとしての活用が大いに期待できます。この「浄土真宗の法話案内」サイトから、聴聞に行ける場所と時間を探せます。また、出講講師別にも検索可能です。

 家族の構成が大きく変化し、関係が壊れ、地域社会の紐帯が失われてゆくなかで、宗教的な伝統やしきたりも失われてゆきます。浄土真宗の門信徒が寺に参り、仏法聴聞するという伝統も希薄化しています。そこにカンフル剤のように登場した「浄土真宗の法話案内」サイト。このサイトに多くの人がアクセスされることを期待しています。同時に、このサイトに多くの人が訪れ、その内容が充実するほどに、布教使(師)の役割の大きさを痛感されるでしょう。

※ 現在はテスト運用中ですが、10月半ばには
正式運用が計画されています。多くの方が
利用されることを期待しています。

浄土真宗の法話案内サイト
http://shinshuhouwa.info/

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2013年10月 1日 (火)

誕生日はめでたいか?

 きょう、58才誕生日を迎えることができました。facebook上で、多くの方々からお祝いのメッセージをいただきました。ありがとうございます。
 しかし仏教では基本的には誕生日のお祝いはありません。お祝いがあるのは、4月8日のお釈迦さま誕生日(花まつり)と、各宗派の宗祖くらいのものではないでしょうか。浄土真宗本願寺派では、親鸞聖人の誕生日である新暦の5月21日に「宗祖降誕会」として法要が執り行われますが、これも明治以降、ヨーロッパでは誕生日をお祝いすることを取り入れたようです。

 現代の日本は、これまでの人類の歴史ではどの時代も、だれもが経験したことのないほど豊かで楽しく快適な生活が送れるようになっています。衣食住はじめ、五感のすべてがさまざまな形で満たすことが可能になっています。これまでの世界の歴史や現在の世界各国の生活ぶりからすれば、現代日本は多くの問題を抱えてはいるものの、ある意味パラダイスと言えるのではないでしょうか。多くの日本人は、苦悩をかかえながらも、別にさとらなくても、浄土に行けなくとも、この世をこんなに幸せに生きてゆけるならそれで十分だと思っておられるのではないでしょうか。
 ところが仏法では、この世は迷いの世界であると教えます。幸せだと思っていることは長続きはせず一瞬の夢幻で消えてしまうのですから。現代の世を楽しんでいる人々には、そんな教えはおそらく耳に入ってこないのかもしれません。仏教が教える過去世や未来世を一切問わず、現世のことだけしか見えていないのです。ですから「死んだらおしまい」だと言うのでしょう。まさに「煩悩にまなこ(眼)さえられて」生きているに過ぎないのです。
 そんな迷いの人生から仏法をみれば、「うっとうしい」「バカらしい」「何の得にもならんのに」などと見えているのかもしれません。確かに、仏法の教えの周辺領域にある、僧侶やお寺の運営方法や教団のあり方、等々への批判や非難はあるでしょう。しかし正しい仏法の教えを聞けば、そこに人生のありようを問うていることに気づかれるはずです。それは人生と向き合った人のみが気づくことではなく、だれもが人生のなかでフッと心のなかをよぎるはずです。

 正しい教えを聞いて、さとりを得ることこそ真なる誕生であり、人生の究極の目標です。浄土教では、往生浄土、つまり仏の国である浄土に生まれることがめでたいことです。仏縁もなく、亡くなってこの世から別れてゆくのであれば、死は歎き悲しむことでしかありません。しかし仏法を聞き、お慈悲の中に生きることができた人には、この世のいのちを終えるということは、浄土に生まれるということであり、この世の別れは悲しくとも、とてもめでたいことなのです。
 亡くなった後、私はどこにかえってゆくのか? かえるところも定まらないまま、人生を終えてゆくことほど悲しいことはありません。私たちがこの世にいのちをいただくということは、浄土に向かって人生を歩む可能性をいただいたということです。それなら、浄土に向けての道を歩まねばなりません。そのなかで、まことの教えを聞いたとき、初めて「おめでとう」という言葉が響いてくるのです。
 この世にいのちをいただいたあなたは、ほんとうに「おめでとう」と言える歩みのなかにおられますか?

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