後生を想定外にしてはなりません
東北地方太平洋沖大震災にしても、その直後の福島第一原発の事故についても、地震や原発関係の関係者は口を揃えて「想定外だった」と言います。想定外という言葉の裏には、予測をした人の責任回避の言い訳が含まれていると言う人がいます。そう言えないことはないでしょうが、起こる可能性のある範囲であるか否かの線を引くこと自体が無理なことです。過去の知識や経験の蓄積をデータとして検討した結果によってたてられている想定ですから、そのデータに盛り込まれていないことが起これば想定外にならざるを得ません。
しかし想定内のことであっても、自身のなかに大混乱が起こることはしばしばあります。生まれ生きる者は必ず死があるというのはだれもが知っていますから、ごく身近な人が亡くなるというのは想定内のことです。何十年もいっしょに苦楽をともにしてきた両親や妻や夫、さらには子どもや兄弟姉妹も亡くなるということもわかっているはずです。それにもかかわらず、突然やってくる身近な人の死に言葉さえも失ってしまいますし、虚脱状態におちいってしまいます。
身近な人の死は想定内であると知識のレベルで知っていても、自分ではコントロールできていないことがあるということを教えてくれています。ましてや、自分の死も想定内であるはずなのに、その認識はきわめて薄いのではないでしょうか。つまり死を想定した生き方をしている人はほとんどいないということです。生命保険をかけるとき、自分が死亡した場合の保険金の額をきめなければなりません。その場合でも、自分が死ぬという実存的な思いに至ることはまずないでしょう。万一、自分の死を感じることがあれば、その思いをなんとか打ち消そうとするばかりです。
万事、都合よく生きたいだけのことです。しかし都合よく生きることができるか否かは、はるかに私の思いを超えたところにしかありません。ましてや、自分の死んだ先のゆくえはまったくの想定外です。
この世をいかに生きるのかという延長線上で自分の死の問題を考えてみても、解決のきっかけさえも見つけることはできません。想定内の死にも目をつむるくらいですから、この世を終えた次はどこに生まれるのなどという想定外のことはとても考えられないし、考えたところで仕方がない・・・などと逃げるしか道はありません。そしてどんどん先送りになっていくばかりです。
蓮如上人はこの問題を「後生の一大事」として取り上げられ、その解決こそが仏法にあると示されました。知識としての死ではなく、因果の道理にしたがって自分の後生をみてゆくことは、人間に生まれなければできないことです。自分の後生の問題の解決は、迷いの解決でもあるのです。
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