2012年2月20日 (月)

後生を想定外にしてはなりません

 東北地方太平洋沖大震災にしても、その直後の福島第一原発の事故についても、地震や原発関係の関係者は口を揃えて「想定外だった」と言います。想定外という言葉の裏には、予測をした人の責任回避の言い訳が含まれていると言う人がいます。そう言えないことはないでしょうが、起こる可能性のある範囲であるか否かの線を引くこと自体が無理なことです。過去の知識や経験の蓄積をデータとして検討した結果によってたてられている想定ですから、そのデータに盛り込まれていないことが起これば想定外にならざるを得ません。

 しかし想定内のことであっても、自身のなかに大混乱が起こることはしばしばあります。生まれ生きる者は必ず死があるというのはだれもが知っていますから、ごく身近な人が亡くなるというのは想定内のことです。何十年もいっしょに苦楽をともにしてきた両親や妻や夫、さらには子どもや兄弟姉妹も亡くなるということもわかっているはずです。それにもかかわらず、突然やってくる身近な人の死に言葉さえも失ってしまいますし、虚脱状態におちいってしまいます。
 身近な人の死は想定内であると知識のレベルで知っていても、自分ではコントロールできていないことがあるということを教えてくれています。ましてや、自分の死も想定内であるはずなのに、その認識はきわめて薄いのではないでしょうか。つまり死を想定した生き方をしている人はほとんどいないということです。生命保険をかけるとき、自分が死亡した場合の保険金の額をきめなければなりません。その場合でも、自分が死ぬという実存的な思いに至ることはまずないでしょう。万一、自分の死を感じることがあれば、その思いをなんとか打ち消そうとするばかりです。

 万事、都合よく生きたいだけのことです。しかし都合よく生きることができるか否かは、はるかに私の思いを超えたところにしかありません。ましてや、自分の死んだ先のゆくえはまったくの想定外です。
 この世をいかに生きるのかという延長線上で自分の死の問題を考えてみても、解決のきっかけさえも見つけることはできません。想定内の死にも目をつむるくらいですから、この世を終えた次はどこに生まれるのなどという想定外のことはとても考えられないし、考えたところで仕方がない・・・などと逃げるしか道はありません。そしてどんどん先送りになっていくばかりです。
 蓮如上人はこの問題を「後生の一大事」として取り上げられ、その解決こそが仏法にあると示されました。知識としての死ではなく、因果の道理にしたがって自分の後生をみてゆくことは、人間に生まれなければできないことです。自分の後生の問題の解決は、迷いの解決でもあるのです。

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2012年2月13日 (月)

知足の前に少欲を

 「生き方にブレーキをかける」「スピードを落として生きる」という生き方は、「少欲知足」の生き方と言えるのではないでしょうか。
 だれでも足ることを知るという経験はあるでしょう。ただ、知足は短時間でしかありません。ほんの一瞬の満足です。現代人のしあわせ感は、この短時間の知足のくり返しでしかありません。社会が発展して便利になるというのは、どんどん知足の時間が短くなってゆくということでもあります。だから早く、次々に満たしてくれる方法、手段を探し求めている。またそれに応えてくれる態勢があちこちに整えられるのです。それが豊かな社会の仕組みです。決して足ることを知らないのではありません。

 その一方、欲を少なくすることはとても難しいことです。生きるスピードが速いから、一瞬に消え去るしあわせ感を満たすためには、早く次の欲求を生み出さなければならないのです。それは足っていることを味わうことなく、次の欲を駆り立てているからにほかなりません。あるいは私の欲求が穏やかなものであったとしても、次の欲を生み出すことを外部から駆り立てられているのです。自分が駆り立て、外部から駆り立てられるということになると、そのスピードに加速がつくこと間違いありません。

 だからといって欲をなくせというのではありません(できることでもありませんが・・・)。できる限り小さくしてゆくことです。車に乗るな、電気を使うな、食べるな、・・・というのは極端な話です。
 ただ極端に欲を小さくしたとしても、私が生きている限り、仏教的には罪悪を重ねていることにほかなりません。生きるということは、罪であり、悪であるのです。それでも生きることを許されているのです。そのことをまずは味わいたいと思います。

 欲を小さくしてゆけば、社会の仕組みや物のなかに必要がないと思われるものもを発見することができます。いくつもあると思うのですが、パッと思い浮かぶのは、一つは核分裂・核融合という目に見えないにもかかわらず巨大な装置を必要とし人間の手に負えない原子力発電。もう一つはいのちを細分化し、人間の手の出す領域を逸脱しているiPS細胞です。
 いずれも人間社会を豊かにする夢の技術のように考えられ、巨額投資がおこなわれ続ける分野です。もちろんリスクが大きく、いずれも暴走したときの止めようがありません。しかしどれほど大きく強いリスクがあっても、人間の夢や欲望には勝てません。
 スリーマイル島、チェルノブイリの原発事故があり、昨年の福島原発の事故もあったのに、まだまだ原子力発電全面廃止には踏み出せません。iPS細胞に至っては、今後が期待できる夢の技術としてしか見られていません。

 どんどんふくらんでゆく欲求の裏側には、人類をも滅ぼすリスクも大きくなってゆくことにほかなりません。めいっぱいわが心身とも満たすことしか考えないという生き方によって、次世代・子孫に負の遺産を残すわけにはいきません。

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2012年2月12日 (日)

社会の問題でもあり、私自身の問題

 近代社会以降、人間の欲求が満たされる度合いが高まってきました。それまでは人力による動力で細々と満たされてきた欲求が、家畜による動力によってより高い欲求を満たしてきた。さらに石炭や石油による動力によって夢のような欲求が次々と満たされてきたというように。
 このように欲求が満たされる度合いが高まる社会は豊かな社会だと、誰もが思うようになっているのではないでしょうか。満たしたい欲求にはどんどんふくらんでキリはありませんし、それが満たされてきたのが近代社会であり現代社会です。

 その一方で、大きな矛盾を抱え込んできました。たとえば、政治や経済の仕組みは、それぞれの時代や社会に応じて、人々が豊かでしあわせになるための最善策を希求してきましたが、問題も至るところで噴出しました。それを修正しながら、ときどき大きな変更、変革をくり返しつつ今日に至りました。資本主義社会が広がるにつれ、その矛盾を解消すべく社会主義的な考えや実践が現れました。資本主義が社会主義的な考え方を取り入れたり、また社会主義が資本主義的な実践を取り入れたり・・・。さまざまに形を変えながらも、すべての人が豊かになる社会は理想でしかありません。
 また、原子力発電は夢の発電でした。どんどん豊かになる社会を創出し、これからの豊かさを支える手段だという期待は大きなものでした。その一方でリスクの指摘は少なからずありました。一般市民でもその危険性を薄々感じていたのではないでしょうか。にもかかわらず、そのリスクと豊かさを天秤にかけたら、原子力発電を捨て去ることはできなかったのです。豊かさを選択したのです。安全性を確保できるなら・・・とか、リスクを背負うのは致し方ないことなどと条件をつけながら、原子力発電で生み出された電力に頼った社会を満喫してきたのです。
 しかし安全性が確保できなかったら後はありませんし、リスクの発生は多くの人に多大な不幸をもたらすのです。それが原子力発電の大きな問題です。それは他人事ではありません。何より私自身に覆い被さる問題を発生させ、私の子や子孫にまで問題を積み残す装置であるのです。
 社会の仕組みも、原子力発電所についても、漠然と政治や経済さらには社会の問題だと多くの人たちは見ているでしょう。しかしそこに視点を置くだけではなく、人間として生きている私の問題です。私の問題なら、ほんとうに黙って、他人事のように傍観することはできません。でも、そう見えない。それだけじゃない、そうは見たくないと思っているのです。

 どこまでも限りなく自分の欲求を満たそうと無意識に生きている。それは自分では意識することができない薬物中毒のように、私の心身をむしばんでいるのです。
 もしそのことに少しでも気づかせてもらうことができたなら、どこまでも欲求を満たそうとする生き方にブレーキをかけてみることです。猛スピードで走っていたら見えなかったものが、スピードを落とすことによって見えてくる、気づくことができるのではないでしょうか。

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2012年2月11日 (土)

社会を生きてゆくということは

 社会のありようはきわめて多様です。その多様性をなかなかうまく説明することはできませんが、社会のできごとをもっとも広範囲に取り上げている社会学という学問分野では、日本社会学会によって研究領域が次のように分類されています。

社会哲学・社会思想・社会学史/一般理論/社会変動論/社会集団・組織論/階級・階層・社会移動/家族/農漁山村・地域社会/都市/生活構造/政治・国際関係/社会運動・集合行動/経営・産業・労働/人口/教育/文化・宗教・道徳/社会心理・社会意識/コミュニケーション・情報・シンボル/社会病理・社会問題/社会福祉・医療/計画・開発/社会学研究法/経済/社会史・民俗・生活史/法律/民族問題・ナショナリズム/比較社会・地域研究/差別問題/性・世代/知識・科学/余暇・スポーツ/環境/総説・概説/その他

 それでも分類しきれないので、最後に「その他」というのが設けられています。
 これらの各領域のなかは、さらに細分化されています。たとえば、私たちの非常に身近にある「家族」に関する社会学の研究領域は、日本家族社会学会によって次のように家族細分類がおこなわれています。

家族学説・理論/家族調査法・研究法/家族史/家族制度・家族法・家族政策/家族構造・家族システム/家族規範・家族イデオロギー/家族変動/人口/ジェンダー・性役割/セクシュアリティ・性愛・性/家族関係/夫婦関係/親子関係/嫁姑関係/祖父母と孫関係/きょうだい関係/家族意識・家族感情/家族周期・ライフコース・生活史/配偶者選択・結婚/離婚・再婚/生殖・出産・中絶/社会化・教育・産育/家計・就労・家事労働/家族危機・ストレス・家族療法/家族問題・家庭内暴力・虐待/高齢期・高齢化/家族福祉・医療・介護/死・宗教・先祖祭祀/家族慣行・家族行事/家族ライフスタイル/親族関係/地域・近隣・友人/エスニシティ・比較文化/その他

 日本で「社会」という言葉が使われるようになったのは19世紀になってからのことです。それまではおそらく「世間」とか「浮世」などという言葉が使われていたのでしょう。
 その世間は、仏教からすれば「虚仮」であり、「火宅無常の世界」などと示されています。つまり社会を虚仮の世界だとみているのです。となると、上記にあげた研究上で分類した各領域も虚仮だということになります。しかしその虚仮の世界に私は生きているのです。私だけではなく、すべての人がこの社会に関わっています。
 一般的には社会が虚仮などと誰も言いません。また仏法を知らなければ、社会が虚仮などとは思わないでしょう。しかし社会のどの領域でも、生身の人間として真剣に関わると、仏法を知らなくても社会のむなしさを感じるのではないでしょうか。そのむなしさをなんとか打ち消すための手段を次に求めてゆくような気がしてなりません。それが社会を生きてゆくということではないでしょうか。

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2012年2月 8日 (水)

凡夫が仏になるために

 「凡夫が仏になる」教えが仏教です。世のなかに驚くことは多々ありましょうが、これほど驚くべきことはありません。驚かないのは、仏さまがどのようなお方なのかよくわからないからでしょう。それは凡夫がどんな輩なのかわかっていないということでもあります。
 仏になろう、なりたいと思う人がほとんどおられないのは、あまりの違いのために、一つの物語として聞くけれど、自分の身に迫る切実な話だとは思えないのです。

 仏がどのようなお方なのかよくわからないとか、現実とかけ離れた関心のない方だと思っている人であっても、自分の思いをかなえたいことを仏に願うことはあるでしょう。自分ではどうすることもできない状況を打開するきっかけとか、自分に都合よくはたらいてくれるならもうけものという思いのなのでしょう。自分の思いを前面に出して、かなうことを願うのです。そのときはまわりの状況はまったく考慮されていません。思いをかなえたいというエゴでしかありません。
 仏はエゴをかなえてはくれません。こんなに悩み苦しんでいるのだから、それがたとえエゴであったとしてもその悩み苦しみを除いてくれるのが神や仏ではないのか・・・という反論が返ってくるかもしれませんね。
 私の思いが一つ二つとかなえられ思い通りになったところで、そのことがきっかけとして別の苦しみ悩みのタネになるのです。一時はいやされたとしても、結局は悩み苦しみを生み出すだけなのです。悩みや苦しみを再生産する仏さまなどどこにもおられません。

 世間で、人生を如何に生きるかというテーマで語られていることの多くは、夢や希望をもって生きることをすすめています。つまり自分自身の願いをしっかりと持って生きよというのです。
 しかし仏さまは凡夫の願いが悩み苦しみとなっていることを見抜かれ、「仏の願いのなかで生きよ」と示してくださっています。ことばを換えて言うなら、「凡夫の願いを捨てよ」とおっしゃっています。それは人間として幸せに生きることを放棄せよということではありません。ほんとうの自分に気づかされることによって、私はもちろん、すべての人を決して捨てることはないという仏さまのこころにまかせることでもあります。

 この世で訓練、精進、修行を積む人がおられます。自分の願いを捨て、仏の願いにわが身をまかせるプロセスを歩んでおられるのです。そんな道を歩もうという思いをもつだけで、聖者といえるかもしれません。しかしその人が人間の心と肉体を持っている限り、たとえ聖者であったとしても仏ではありません。人間の世界で悟ったといっても、人間として特別な境地に達したのであって、仏になったのではありません。
 「仏の願いのなかに生きよ」というこころを受け取ることはとても難しいことです。凡夫ができることではありません。でもこの仏の願いを凡夫の私に届けてくださるのが仏のはたらきです。
 仏のこころとはたらきがすべて南無阿弥陀仏のなかに込められて、私に与えてくださっているのです。あとは凡夫の私が南無阿弥陀仏をとるのか、すてるのかということでしかありません。

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2012年1月31日 (火)

念仏への違和感に向き合う

 浄土真宗の門信徒の方でも、念仏が嫌いな人がおられます。その多くの人は、念仏そのものが嫌いというのではないようです。「南無阿弥陀佛」と書かれた名号には手を合わせますし、念仏は阿弥陀さまの喚び声であるという話に嫌悪感を示されるわけでもありません。また、仏前で、お参りのみなさんといっしょに念仏合掌礼拝されることを嫌っておられるのではありません。
 どうやら、目の前にいる人がひとりで、しかもごく自然な日常生活のなかで「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ・・・」と声にだされることに違和感を感じられるようです。

 たしかに、学校や職場で称名念仏する場面にはであうことはありません。街中を歩きながら、買い物をしながらの称名念仏する人も滅多におられません。そんななかで、突然の念仏の声に、違和感、さらには嫌悪感とさえなるのでしょう。
 私はその思いがわからないではありません。私もかつて、突然の念仏の声にマイナスイメージしか描けませんでしたから。また何かわからないけどイヤ~な感じがしたものです。しかしそれは、念仏が声となって出てくることが、どのようなことなのかさっぱりわからなかったということだからでしょう。また、世間がもっている念仏のイメージは願いごとであったり、死者供養であることにイヤな感じを抱いていたのでしょうか。つまり、称える者の思いが念仏に込められていることへの違和感だったのかもしれません。

 仏さまの話を聞くことは、そんな間違った思いが正されることでもあります。ここでの間違いというのは、仏さまのこころ反する思いということです。念仏は「私が仏を念ずる」ことではありません。私の思いを念仏に込めて願うばかりのところに阿弥陀さまのこころはありません。仏さまのこころをまるっきり聞くことができていないことでもあります。
 念仏は「私が仏に念ぜられる」ことです。つまり仏さまが私に願ってくださっているのです。まことの教えを聞いてくださいと、私に向かって手を合わせ念じてくださっているこころです。その仏の願いが、凡夫の口から出るのが念仏です。凡夫の口から仏の願いが出るというのは、私の思いでも行為でもないことはあきらかです。

 念仏の声を嫌うことは阿弥陀さまのこころがわからないか、もしくは受け入れられないということでしょう。それは教えを知らないふつうの人間の思いなのかもしれません。教えを聞くということは大切なことですが、まずみずから称名念仏することしかないでしょう。わが身に向けられた阿弥陀さまの願いをわが口にしたとき、聞こえてくる阿弥陀さまのこころに向き合うしかありません。

 ただ決して勘違いしてならないのは、称名念仏することは不思議な現象でも、神秘的体験でもありません。またわが思いでコントロールできるものでもありません。念仏はこういうふうに称えなければならない、こんな気持ちで称えるのがよい・・・、などという思いは、仏さまの心でないことはあきらかです。

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2012年1月30日 (月)

何もわからなくても称えられるのが念仏

 仏教の言葉はとても難解です。悩み苦しみのなかにいるにもかかわらず、悩み苦しんでいることすらわからない私たちが、さとりの世界を理解するのは無理な話です。そのさとりの世界を表現するためには言葉も、言い回しも、内容も、世俗で使う表現と違うのは致し方ありません。いつも自分中心にしかものが考えられませんから、自分に理解できない事柄については「仏教は難解」としか言いようがないのです。
 それでもなんとか教えの中身を伝えたいと、言葉を易しくし、言い回しを工夫し、内容もたとえ話をふんだんに使って、少しでも納得してもらおうという試みがなされます。ところがそういう努力がなされても、頭で理解することはできますが、さとりの世界に至り着くことはありません。やっぱり教えそのものが難しいことには変わりはありません。

 それでも、難しくともくり返し法話を聞き、わからないなりにも教えに関する本を読むことで、感じる世界に少しずつ変化が生じてきます。知的な理解が深まるということもあるのでしょうが、それだけではなく阿弥陀さまのこころやはたらきを感じることができるようになるのです。
 だからと言って、私の何かが変わるわけではありません。相変わらずわが身がかわいいし、損得には敏感だし、腹も立つし、一度抱いた憎しみはなかなか消えることはありません。相も変わらず悩み苦しみのまっただ中にいるのです。

 仏法を聞けば聞くほど見えてくるものは、わが姿も見えず、まことの教えにうなずくこともできない私自身です。自分のことは自分が一番よく知っているという知ったかぶりをしていた自分の愚かさです。それでも普段の生活のなかでは、やっぱり知ったかぶりをして、他人には決して弱みを見せたくはありません。
 それでも教えの前ではごまかすことができません。私のことは完璧に見抜かれているのですから。自分のありのままの姿が暴かれて、ありがたい教えも何もあったもんではありません。
 結局、どれだけ教えられさとされても、さとりの世界とはほど遠いところにいる私でしかないのです。

 言葉を費やしてどれだけ説明・解説したって、それでまことが語り尽くせることなどありません。ただ阿弥陀さまのおこころが、私のところに響くところだけを聞いているのです。
 そんな者のための念仏です。そのほかには何もない。広大な阿弥陀さまのおこころが六字の中に封じ込められているのです。考えれば「難しい」ことですが、南無阿弥陀仏と称えさせていただくことはやさしいことです。迷い苦しみの中にいる者でも、何もわからなくても称えられるように、たもちやすいように仕上げてくださっているのです。ナンマンダブツ、ナンマンダブツ。

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2012年1月22日 (日)

阿弥陀さまは、ただ待ち続けてくださっています

 約束した時間に待ち人が来ない・・・という経験をされたことは誰でもあるのではないでしょうか。5分や10分程度の待ち時間なら、そう苦痛ではありません。しかしそれが15分、20分と経過すると次第に不安になってきます。事故にあったのではないか、約束を忘れてしまっているのではないだろうか、もしかして約束の日時や場所が違ったのだろうか・・・などと。
 かつてはそのことを確認すること手立てもありませんでしたが、いまでは携帯電話で確認をすることができます。しかしそんなときに限って、相手が携帯電話を使わない人であったり、何度かけてもつながらないということになりがちです。そうなるとこれまた不安が大きくなってきます。最初は心配したのに、だんだん腹が立ってきます。約束しておきながら何の連絡もないというのはどういうことか、こんなに心配させるとはどういうつもりなのか・・・、などと。
 待つのも限度がありますから、そのうち待ち合わせ場所を離れてしまうでしょう。いずれにしても、決していい思いが残ることはないでしょう。
 逆に、人を待たせた場合はどうでしょうか。約束通りに会う予定をしていたにもかかわらず、不可抗力によって約束の時間にその場所に行くことができないときは、とても穏やかな気持ちではおれません。なんとか連絡をとって遅れること、あるいは行けないことを伝えたいと思うでしょう。

 ところが、会う約束をしていることをすっかり忘れてしまうと、待つことも待たせることも、まったく気にはなりません。ましてや、約束していなかったら、待つことなどまったく必要のないことです。待たせるという気遣いも必要ありません。待つ人も、待たせる人もいないというのは気楽ではあります。だからといって、いつまで待つ人がいない、待たせる人がいないというのはさみしいものです。私にとってはなんでも適当がよいのです。気まぐれな自分の思いを満たしてくれる程度の適当が。

 そんないい加減なことではなく、ずっと私を待ってくださっている方がおられます。家で帰りを待ってくれている母や、学校で登校するのを待っていてくれる先生ではありません。深い愛情から待っていてくれるでしょうが、いつまでもというわけではありません。
 1年や2年ではない。10年や20年ではない。100年や200年でもありません。はかり知ることのできない昔から、私を待ってくださっている阿弥陀さまがおられます。そのことに私は気づかないまま、のんきに生きています。待たせていることを申し訳ないとさえ思わない。待たせているとも思っていないのです。
 仏法を聞かせてもらうということは、阿弥陀さまを待たせていることを感じるところから始まるのかもしれません。どれだけ阿弥陀さまを待たせても、ただただ私を待ち続けてくださっています。

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2012年1月17日 (火)

私を願い続けてくださっている阿弥陀さま

 だれもが願いを持っています。こうありたい(こうあってほしくない)、こうなりたい(こうはなりたくない)、こんなものがほしい(これだけはいらない)・・・など、それらはすべて私のための願いです。私のためだけではなく、私の大切な人やことがらに関するものもありますが、それは延いては私のためなのです。
 宗教の多くは、この私の願いを成就することができることを“売り”にしています。願えば、頼めば、拝めば、その願いが実現するのだ、と。つまり私が自分の欲を実現するために、神仏に願うのです。これは人間の持っている根源的な思いをくすぐり、多くの人を集めます。教えの中味はわからなくても、自分の願いが実現されるなら足を運んで願い、頼み、拝むのです。

 そんな宗教のあり方に反発する人もいます。自分の努力を怠って、安易に欲を実現することなんてありえない、と。ところが、そう言っている人でも、自分の願いをかなえるために精一杯努力したけれども先が見えないことの不安から、神仏の加護を頼み、拝むというというのは珍しいことではありません。ですから、結果はどうあれ、神仏に対して現世利益を期待する心をなくすことなどできないことがわかります。

 私が聞いてきた阿弥陀さまの教えは、そんな多くの人が持っている宗教のイメージを一掃させるものです。私の願いにこだわるのではなく、阿弥陀さまの願いを聞き、いただく教えなのです。当然のことながらその願いは、この私が持っている願い(欲)を聞き入れ、成就させようというものではありません。
 私の願いが実現すれば、しあわせな気持ちになれることは事実でしょう。しかし阿弥陀さまからすれば、むしろ欲は迷いであり、私の願いは迷いを生む種子でしかないとみておられるのです。だからといって、私の願いを否定されることはありません。そういう私をすっかりそのまま肯定してくださっています。
 阿弥陀様の願いというのは、迷いの私を目覚めさせることです。この世で願いと称する私の欲の実現にかかり果てているだけではいつまでたっても迷い続けることしかない、と示して下さっているのです。そして、迷い続ける私をそのまま迷うことのない身にさせてみせるという願いなのです。もっと正確に言うなら、お願いだから迷うことのない身にさせてくださいという願いが阿弥陀さまのこころです。こころにとどめておくのではなく、具体的なはたらきさえも私に与えてくださっているのです。

 わが身の願いにかかり果てていますから、つまり迷いの身ですから、願われている身であることなど気づきようがないのがこの私です。堅い殻のなかで、自分の願いだけに閉じこもって悩み苦しんでいる私を、ずっと待ち続けてくださっている阿弥陀さまがいてくださるのです。

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2012年1月16日 (月)

阿弥陀さまのこころをさえぎる心

 必ず救うと誓われる阿弥陀さまの願いをそのままいただくのが真宗の信心です。何も難しく考える必要はありません。阿弥陀さまが必ず救うと誓われ、そしてただ今もはたらいてくださっているのですから救われるよりほかありません。
 ところが、言うことや聞くことはとてもやさしいですが、そのことにうなずきわが身に知らされることは難しいことです。余計なことは考えず、ただ素直に聞けばよいというのはわかっています。わかっているし、そうできるならそうしたい。でも、心の奥底に阿弥陀さまを受け付けない何かがあるのです。
 山口県・六連島のお軽同行の「こうも聞こえにゃ聞かぬがましよ、聞かにゃおちるし聞きゃ苦労、今の苦労は先での楽と、気やすめいえど気はすまぬ、すまぬこゝろをすましにかゝりゃ、雑修自力とすてられゝ・・・・」と述懐しておられます。求道している者にとっては、お軽さんのことばの方が、阿弥陀さまのおこころよりもうなずけるのです。

 その阿弥陀さまのこころを受け付けることができない何かというのは「疑心」です。「私には疑い心などまったくありません」といわれる方がおられます。そんなことばを聞くたびに、そんな人もいるのだなぁと感心したり、驚いたり、うらやましかったり。
 もちろん人の信心の中味を沙汰することなど大それたことですが、直感的に感じるものがあります。それは本当に疑心無く阿弥陀さまのおこころをいただいた人と、疑心を疑心と思っていない人です。
 説かれたことを、また書物に書かれたことを頭で理解することはできます。しかしただ理解するだけでは疑心は晴れません。観念的な知識をどれだけ積み重ねても、阿弥陀さまのおこころを受け入れることとは無関係です。
 信心を得るというのは阿弥陀さまのはたらきを感じることです。そのはたらきはわが身のうえに実現されることです。ですから、凡夫の生活に入り浸りながらも念仏が出るのです。しかし疑心の人からは念仏が聞こえません。口からこぼれるような念仏のこころが届いていないのですから。

 心すべきことは、私の思いで救われるのではないということです。教義や理屈を知っておれば、あとは自分がいかに納得するかの問題であるなどと思うのは、まったくの勘違いでしかありません。阿弥陀さまのこころを知らずして、何を納得するのでしょうか。何度も、これでもかというほどていねいに阿弥陀さまのこころを聞くことが大切なことです。
 問題は阿弥陀さまの願いにあるのではありません。わが思いに問題があるのです。納得するのではありません。納得させられるしかないし、納得せざるを得ないのが仏法なのです。

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