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2009年10月31日 (土)

称名念仏はげむべし

 “仏教とはどのような教えか?”と問われるて、ひと言で答えるのはなかなか難しいことですが、「我執を離れる教え」とも言えるでしょう。

 本来、出家をするということは、家族や社会的な地位など世俗のものを捨て、生きるために必要最小限の物で仏道修行にはげむのです。興味あることやこの世の関心事には目もくれず、ひたすら我執から離れるための道を歩むのです。
 ところが、衆生あるいは有情、つまり意識ある生きものである以上、我執はなくなることはありません。

  一切菩薩ののたまはく
  われら因地にありしとき
  無量劫をへめぐりて
  万善諸行を修せしかど

  恩愛はなはだたちがたく
  生死はなはだつきがたし
  念仏三昧行じてぞ
  罪障を滅し度脱せし
   (『高僧和讃』 註釈版pp.579-580)

あらゆる菩薩が言われるには、「私たちが凡夫であったとき、はかりしれないほどの長い間さまざまに自力の修行をおこなってきた。しかしながら、父母妻子への愛情を断ち切ることはできず、生死の迷いは尽きることはなかった。幸いにも、他力の念仏に帰しもっぱら称名念仏し、罪業煩悩を滅して生死の苦海から解き放たれたのである」と。

 菩薩は、自らさとりを求めて修行に励みつつ、人びとと共歓同苦し、衆生救済につとめる存在です。そんな菩薩でさえ、長い長い期間の修行をおこなっても、凡夫である限りは恩愛は断ちがたく、生死は尽きがたいとおっしゃっていることに、とても親しみを感じます。同時に、我執・煩悩の深さを、あらためて思い知るのです。
 しかしそれは、自力の修行にどれだけ時間をかけたとしても、迷いの世界からはでることができないということでもあるのです。救いの主は、どれだけがんばったところで、わたしではなり得ないのです。
 
 念仏三昧は、もっぱら念仏することです。我執(雑念や妄想でもある)を離れて念仏することという意味ですが、念仏することによって我執を離れることができるとも言えます。

 でも、頭で考えるからそういうことを言うし書きますが、わたしの経験からすると、一日のなかでふっと出てくる念仏は、我執を離れているのか否かということを考える余地はありません。

  信心のひとにおとらじと
  疑心自力の行者も
  如来大悲の恩をしり
  称名念仏はげむべし
   (『正像末和讃』 註釈版p.611)

自力疑心の行者でも、他力信心の人に劣らないように、阿弥陀如来が方便の願まで設けて本願に誘引しようとする大きな慈悲を思い知って、称名念仏にはげむのがよい。

 わたしがつくりだした念仏でも、わたしの願いや欲を満たす念仏でもありません。願われて称える念仏なのです。

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2009年10月30日 (金)

種々に善巧方便された無上の信心

 釈尊(お釈迦さま)がこの世に出られ、仏さまの教えを説かれました。仏さまの教えというのは、ほんとうのことです。ほんとうのことというのは、いつでも、どこでも、だれにでもあてはまることです。普遍的なこととも言えます。・・・・ということは、仏さまの教えを知らなかった釈尊以前の人たちにもあてはまることを説かれたわけです。
 釈尊のさとりの内容は、釈尊以前からあった真理なのです。釈尊以前の人はそのことがわからなかった、知らなかっただけです。釈尊は地球上で初めて、真理を、この世の人びとにわかるように、この世に明らかにされたのです。

 ですから、釈尊あるいはその後の諸菩薩が説かれた浄土も、南無阿弥陀仏も釈尊以前からあるのです。当然のことながら、わたしは釈尊以前から凡夫として、煩悩に満ち、六道を輪廻し続けているのです。
 しかし、いま、この世に生まれ、不思議のご縁で仏法に遇ったのです。もし遇わなかったら、煩悩にみちみちていることも、これまでそしてこれからも六道輪廻し続けることも知らなかったのです。でも、知ったからといって、わたしの力でどうなるものでもありません。

  釈迦・弥陀は慈悲の父母
  種々に善巧方便し
  われらが無上の信心を
  発起せしめたまひけり
   (『高僧和讃』 註釈版p.591)

お釈迦さま慈父であり、阿弥陀さまは慈母である。さまざまな工夫をし、臨機応変に、巧みにいろんな方法を駆使して、私たちにこの上ない(最高の)他力の信心を起こさせてくださる。

 阿弥陀さまは煩悩を滅せよ、とは言われてはいません。むしろ煩悩のある者こそ、阿弥陀さまの救いのめあてなのです。しかし、わたしはそんなことなど知るよしもない。思いのまま煩悩のまま生きるか、よい人間になろうとすれば煩悩を無くそうとします。
 煩悩のままでは輪廻転生して、また永劫に迷っていくのです。親鸞聖人は、「惑染の凡夫」とも「惑染の衆生」ともおっしゃっています。煩悩に染まっているというのです。煩悩が染みついているのですから、取れるはずはありません。
 煩悩を無くすことができるなら、阿弥陀さまが本願を立ててくださる必要など無かったのです。

 わたしの力ではどうすることもできないから、昨日の和讃(生死の苦海ほとりなし)に従えば、「弥陀弘誓のふね(船)」にまかせよ、と招き呼んでくださっているのです。阿弥陀さまの智慧であり、慈悲なのです。

 そのことを聞きながら、その阿弥陀さまの心に信順できないわたしの心が疑心です。これまでずっと呼びかけられながら、その疑心によって流転輪廻をくり返してきたのです。もちろん煩悩によって迷い続けてきたのですが、煩悩のあるわたしに善巧方便してこの上ない信心を起こさせようと願い、はたらき続けてくださっている阿弥陀さまを疑ってきたことこそ、何よりも大きな罪であることを知らねばなりません。

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2009年10月29日 (木)

ひさしくしずめるわたしを、かならず救う

 大きなことを成就するためには、しっかりした現状分析が大切です。ひとつの問題を小手先で解決するのではなく、全体を見渡して、ある部分を修正したらそれに伴って生ずる問題の解決策もたてなければなりません。それより、問題の生ずるおおもとの部分から、すっかり変えてしまうことが必要な場合もあります。
 私たちがやることは、だいたい小手先の解決が多いようです。根本から変えるということになると、経済的には絶えられないし、時間はかかるし、手間はかかる。生きている間に、そんなことができるのか・・・・と二の足を踏むのです。その前に、あまりの大きな変革には不安がつきまといます。
 日本人は、「おかわりございませんか」というあいさつをします。それに対して、「はい、なにごともなく過ごさせていただいております」というのが、よい返事なのでしょう。変わらないことが、いいことだと考えているからではないでしょうか。だから、いつまでも健康で、若くて、死なない・・・・と思ってしまっています。

 阿弥陀如来が仏さまになられる前、私たち衆生のありのままの姿をみられました。老病死の姿はもちろんですが、罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫とも見られたのです。ここ3日間ほどの間に紹介した和讃などはほんの一部ですが、人間のありのままの心と姿を表現しています。
 阿弥陀さまは、罪悪をなくせ、煩悩を滅せよ、とはおっしゃっておられません。煩悩具足(欲と怒りと愚かさが、間違いなく具わっている)の身は、何をしても変わらない。生死(生きて死んで生きて死んで・・・・)をどれだけ繰り返しても、正すことができないということも、しっかり見通しておられます。
 「死んだらホトケ」と言いますが、死んでも仏になどなれるはずはありません。そんなことは、お釈迦さまはもちろん、法然聖人も親鸞聖人もひと言もおっしゃってはおられません。仏法に遇わない人は、死んでも六道(天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)という迷いの世界のどこかに生まれ、経巡るしかないのです。

  生死の苦海ほとりなし
  ひさしくしづめるわれらをば
  弥陀弘誓のふねのみぞ
  のせてかならずわたしける
   (『高僧和讃』 註釈版p.580)

六道の迷いの世界は苦海であり、生まれては死に、死んでは生まれを繰り返し限りがない。始めのわからないむかしからその苦海に浮き沈みしている私たちを、ただ阿弥陀如来が、必ず救うと誓ってくださった船だけが、迷い苦しむ衆生を乗せて救ってくださる。

 深くて思い罪悪を背負っているから、煩悩を捨てることができないから、真実を真実とみることができないから地獄へ堕ちるのは間違いなし。間違いないから捨ててはおけない、と立ち上がってくださっておられるのが、阿弥陀さまなのです。
 そんなこと知ったことではない・・・・と、自分のことなのに気にもとめないのがわたしです。わたしの心が、どっちの方を向いていようと、阿弥陀さまは願い、わたしに向かってはたらいてくださっているのです。

 阿弥陀様の願いは、深くて語り尽くせるものではありません。わたしの思いを超えた願いですから、なかなか聞いてもピンとこないのです。ほんとうのわたしの姿を見抜き、どんな状況にも合った願いをたて、わたしにはたらきかけてくださっていることがわからないのです。
 そしていまも願い、はたらきかけてくださっているのが阿弥陀如来なのです。さらに、これまでも、そしてこれからも、「早く気づいておくれ!」と、絶えることなく待ち続けてくださっているのです。

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2009年10月28日 (水)

妄想顛倒のなせるなり

 社会学の視点で宗教をみたとき、社会の中で宗教が有していた力が失われてゆく状況を、「世俗化」していると言います。近代社会以降、近代化・合理化が進むほどに世俗化が猛烈な勢いで進行し、教会や寺院など宗教勢力の力は失われ、伝統的宗教は衰退していきます。しかしそれは、宗教が無意味になり、消滅することではなく、宗教が形を変えて個人化あるいは私化していくというのです。
 宗教が形を変えるということは、宗教が日常の考え方の枠内にとどまり、宗教は生きるための手段として利用されるようになってしまうという傾向が強くなるということでもあるのです。
 たとえば、前世、現世、来世という三世を見る世界が、現世だけしか考えられなくなっていて、世界観が狭くなっているということでしょう。

 近代社会以降、確実なものは、人間が実証することによって明らかになったことです。それ以外は、迷信や妄想だとされてしまいます。しかし、実証できなかったことや、見通しのつかない不安の部分については、自分に都合のよいように占いや呪術に頼るのです。このあたりを平然と受け入れてしまうところが人間の悲しさです。

  罪業もとよりかたちなし
  妄想顛倒のなせるなり
  心性もとよりきよけれど
  この世はまことのひとぞなき
   (『正像末和讃』 註釈版p.619)

人間の罪業はもともと本体があるものではない。とらわれの心によって真実でないものを真実であると誤って考え(妄想)、道理にそむくこと(顛倒)によって罪業はつくられるのである。衆生の心性はもともと清らかなものであるけれど、妄想顛倒のためにつくられる罪業によってこの世には真実の人がないといってよい。

 生きている限り、さまざまなものに頼って生きるのですが、何よりも自分自身を頼りにします。若くて、元気で、仕事ができて、おいしく食事ができるときは、結構頼りになるのです。でも頼りになると言ったところで、妄想転倒では、頼りになると思っていること自体を問わねばなりません。
 そして、そのわたしが老い、病み、そして死んでいかねばならないのです。そこでしっかりと、「いつまでも頼ることができますか?」と問わなければなりません。いま頼っていること(もの)もいつか頼ることができなくなることを、早く自覚しなければなりません。

 究極の拠りどころというのは、自分が間違いないと思うところを拠りどころにするのではなく、自分の意志の入らない“まこと”を拠りどころとしなければならないということです。わたし自身のことを「妄想顛倒」と言われたとき、私心を交えず受け入れられますか?

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2009年10月27日 (火)

教えと真向かいになる

 いのちあるものにはライフサイクル(生命周期)があります。たとえば、誕生→成長→成熟→老衰→死亡というように、いのちの過程を歩みます。動物や植物ならよくわかると思いますが、家族やさまざまな組織など社会にもそのようなプロセスがあります。それはごく短期間のうちに誕生から死亡(消滅)までの過程を歩む場合も、数百年というような長い周期を持つものもあります。諸行無常ですから、同じ状態でとどまることなどあり得ないのです。
 仏教の考え方にも、一つの世界の始まりから終わりまでを「四劫(しこう)」という形で示しています。成劫(成立の時代)、住劫(安定の時代)、壊劫(破壊の時代)、空劫(何もない時代)の四期です。

 さて、この住劫の時期に、劫濁(こうじょく)、見濁(けんじょく)、煩悩濁(ぼんのうじょく)、衆生濁(しゅじょうじょく)、命濁(みょうじょく)の五つのにごりやけがれが起こるというのです。
 ・劫濁:時代の濁り
   戦争、疫病、飢饉、天災など。地球温暖化など環境破壊も現代の時代の濁りでしょう。
 ・見濁:思想の濁り
   邪悪な思想、偏った見方など。自分のことしか考えない身勝手な考え方も入るでしょう。
 ・煩悩濁:煩悩が盛んになる
   貪り、怒り、愚かさなど煩悩が燃えさかり、人心が乱れ、悪徳がはびこる。
 ・衆生濁:衆生の資質が低下
   心に活気がなくなり、善行意欲が低下し、人間が悪くなり、不健康で、全体的に人間性が堕落する。
 ・命濁:寿命が短くなる。
   煩悩や邪見のためにいのちをそこない、若死にする。

  五濁増のしるしには
  この世の道俗ことごとく
  外儀は仏教のすがたにて
  内心外道を帰敬せり
   (『正像末和讃』註釈版P.617)

五濁が次第に増してゆく証拠として、この世の僧侶も在家の者もすべてが、外面は仏教を信じているような姿をしているけれど、内心は仏教以外の間違った教えを敬い信じている。

 何でも社会が悪い、政治が悪い、他人が悪い、・・・・という人がいます。その側面は否定しません。しかし、そういうときは、自分自身を横に置いて言っているのです。自分もその社会を構成しているのです。
 また、次のように言う人もいます。“自分を振り返るばかりでは、社会に対して訴える力がない。まさに社会性を失ってしまった仏教の姿だ。嘆かわしい!”。これも当たっていると思いますが、仏法を聞くというところに視点を置いて言うなら、傲慢であり、五濁の極みでしかありません。

 仏教の教えに真向かいになるということは、目の前に自分の心の内や日々の行いを見せられる鏡と向き合うことでもあるのです。それに対して、目をつむり、顔を背けていては、阿弥陀如来の願いを聞くことも、ほんとうの自分をよく知ることもできません。

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2009年10月26日 (月)

阿弥陀如来から見えるわたしは?

 仏法を聞く上で大切なことは、ひとつは、阿弥陀如来の願いを聞くこと。もうひとつはほんとうの自分(わたし)をよく知ることです。

 まず、後者について、“わたしは自分のことはよくわかっている”という人もいるかもしれません。自分の姿をよく知るというのは、自覚でも反省でもありません。阿弥陀さまの智慧に照らされて自分を見るのです。違う言い方をすれば、教えを鏡にして自分自身の心のありようを見るのです。
 そのためには、自分を知るということの前に、前者の阿弥陀さまの願いを聞くということが必要なのです。

 阿弥陀さまは、わたしを救うために願いをたてられました。頼みもしないのに、なぜわたしのためにそんな願いをたてられたのでしょうか。
 わたしは次のように思っています。わたしは阿弥陀さまに救っていただきたいとは思ったことは一度もない。救われなければならないほど、困っていないし、悩んでもいない・・・・、と。しかしそれは、わたしが生かされ、願われていることを一切無視した、とても自分勝手な思いです。

 自分自身を産み育ててくれた母親は、“健康に育ってよ”“いい子に育ってね”と願い、時には涙を流し、時には心配してくれました。そのことには気づかずとも、いま、こうして生きている限り、そのことに間違いないことです。そのことに対して、わたしはそんなことを頼んだおぼえはないとか、母親がいなくてもわたしは何も困らなかった・・・・なんて言えるでしょうか。
 人間がおろかなのは、見たこと、聞いたこと、経験したこと、感じたことでないとピンとこないということです。見た・聞いたことがあっても感じないこともあります。でも、わたしが知らなくても、わたしを生かすために両親はもちろん、多くの人やいのちの願いや力があったからこそ、いま、こうして生きることができているのです。

 それでは、阿弥陀さまに、わたしはどのようにみられているのでしょうか。そのひとつとして、次のような和讃があります。

  無明煩悩しげくして
  塵数のごとく遍満す
  愛憎違順することは
  高峯岳山にことならず
   (『正像末和讃』 註釈版p.601)

 ほんとうのことがわからないというおろかさが、塵のようにみちみちている。心にかなうものは貪り愛し、心に反するものは怒り憎んでいる。その煩悩の激しいことは、高峯岳山のようである。

 このような自分自身を毎日の生活で見ていながら、問題にもしないし、気にもかけないところがありませんか? 「愛憎違順」「高峯岳山」という言葉に、迫力を感じますが、自分のありようだとは、なかなか思えないのが愚かなところです。

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2009年10月25日 (日)

信心よろこぶ人は如来と等し

 「信心」という言葉を辞書で引くと、「神仏を信仰して祈念すること。またその心」などと記されています。「イワシの頭も信心から」ということわざや、「信心をする/しない」「信心が足る/足らない」という使われ方もあります。
 これらを見る限り、信心は、信心に対するわたしの心のありようや、信仰することにどれくらい熱心であるかということが問題になるようです。「祈念」(祈り願うこと)も、その心がまえや思いの強さが必要なのです。また、信心の有無や、信心が足る足らないというのは、信心する人の力によりますし、その信心の中身の判定は、信心する人を含めた「人」です。しかしその基準は、きわめてあいまいです。
 これらの信心では、努力して維持し続けなければなりません。また途中で挫折したり、どうでもよくなることもあります。その心や態度が最高に高まったと言ったところで、如来と等しくなれるはずはありません。

 浄土真宗では、このような「信心」とずいぶん違いがあります。それは、一般に言われている現代の日本人の宗教心とは、ずいぶんかけ離れているということでもあります。

  信心よろこぶそのひとを
  如来とひとしとときたまふ
  大信心は仏性なり
  仏性すなはち如来なり
   (『浄土和讃』 注釈版p.573)

 大乗仏教は、「自利利他」の教えです。自分のよろこび(自利)がないのに、利他(人々に功徳や利益を施すこと)があるはずはありません。いくら自利といってみても、我慢して、辛抱して、つらい目をしての自利なんてあり得ないでしょう。
 信心は、阿弥陀如来からいただくから「まことのこころ」とも言われるし、「如来とひとし」と言われるのです。如来と等しいというのは、人に対する最高の“ほめ言葉”です。

 さらに、阿弥陀さまから頂戴したものだから、信心の前に「大」が付いています。ほかに、「大慈大悲」や「大喜大捨」も仏性だと『涅槃経』に書かれています(注釈版p.236)。
 慈は楽を与えること(与楽)、悲は苦しみを抜くこと(抜苦)です。また喜は他の喜び楽しみを見て自分も喜ぶこと。捨は愛憎の心を捨てて平等の心を持つことです。簡単なことのように思えますが、わたしの行いとしては、末通って私心を交えずにできることではありません。

 「山川草木悉皆仏性」とか「山川草木悉皆成仏」という言葉もあるようですが、少なくとも念仏の教えの流れのなかでは、なかなか受け入れがたい考え方です。何でもおおらかに都合良く考えたいのが凡夫です。ただ、阿弥陀さまからいただいたものに仏性がある、それだけです。

 なお、上記ご和讃の前半部分は『華厳経』にある「信心よろこぶひとはもろもろの如来とひとし」(注釈版p.759)というご文から、後半部分は『涅槃経』の「大信心はすなはちこれ仏性なり、仏性はこれ如来なり」(注釈版p.237)に依るものです。

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2009年10月24日 (土)

遇っても、なかなかわからない

 仏法に出遇わなかったら、ほんとうの自分の姿も、ほんとうの御恩も知らなかったでしょうし、南無阿弥陀仏と称えることも、手を合わすことすらも知らなかったと思います。むしろ、手を合わす人を「バカじゃなかろうか・・・・」と見下してさえいたでしょう。
 でも、どこでどういう因縁にであったのか、この口から南無阿弥陀仏と声に出るようになりました。出させていただくことができたのです。

 昨日、「おそらく、この教えに出遇わなかったら、迷っていることなどわかろうはずはありませんし、迷いの世を離れなければならないという思いをもつことはなかったと思います。」と書きました。読み直して、ホントにそうだなぁ・・・・と思います。

 しかし、その一方で、「おまえなぁ、ほんまに迷ってるって思ってるか?」との声が、心の底から聞こえてきます。「迷いの世を離れなければならないなんて、いつもそんなこと思ってないのに・・・・」とも聞こえてきます。
 阿弥陀さんのお慈悲に出遇ってはじめて迷ってることも、迷いの世を出なければならないことがわかるけれど、出遇っても阿弥陀さまが間違いないと示してくださったことがわからないのがわたしなのです。
 こういう書き方をするから、求道中の方は、いったい何を聞いたらいいの? どう聞けばいいのっ? って、ますますわからなくなられるのかもしれません。とてもいい加減のように聞こえるかもしれないけれど、わたしとしてはとても正確に表現していると思っています。

 仏法を讃談できるほどのものがらではありません。でも、仏法を讃談せずにはおれないところまで聞かせてもらってきたことも、ウソ偽りのないわたしです。これも、いまのありのままのわたしです。

 とてもあいまいな、こんな自分自身を振り返るほどに、阿弥陀さまのお慈悲は、どうしようもない凡夫にはたらいてくださっているのだということを、感じずにはおれません。
 そこのところを、親鸞聖人は、とってもうまく表現されています。
 
  五濁悪世の有情の
  選択本願信ずれば
  不可称不可説不可思議の
  功徳は行者の身にみてり
   (『正像末和讃』 注釈版p.605)

避けがたい五つのけがれのある悪世に生きるものたちは、選択の本願(第18願の念仏)を信じれば、はかりしれない、なんとも表現することができない、凡夫の思いのおよぶこともできない功徳が身に満ちている。

 「不可称不可説不可思議の功徳」。これをわたしの頭であれこれと考えすぎてしまうから、阿弥陀さまの心からどんどん離れていってしまう。お慈悲をいただきながら、わが力いっぱいと誇示したいのでしょうね。

 とっても微妙で、うまく言えない部分です。みなさんのお味わいのところを、聞かせていただきたいところです。

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2009年10月23日 (金)

出遇わなかったら、わかろうはずはない

 宗教に理解を示しつつも、どの教えにも帰依することのないインテリの人のなかに、次のようなことを言う方がおられます。「たくさんある宗教はそれぞれに説き方は違うが、いずれの宗教も真理を説いているのだから、どの宗教でも至り着くところはみんな同じだ」と。この主張は、宗教を第三者として評論する視点です。客観的な視点としては正しいと思いますが、みずからの身にかけて主体的に宗教を求めるという姿勢ではありません。
 「わけのぼる麓の道はおおけれど、同じ高根の月を見るかな」という歌は、それを見事に言い当てている・・・・、とも聞いたことがあります。なるほど、山の麓からどの道を歩いて頂上にたどり着いても、みんな同じ月を見ることができますからね。しかしこの作者は、まだ麓にいて山を登っていないようです。それでは、いつまでたっても、山の頂上に至り着くことはできませんし、頂からの月を見ることもできません。

 宗教は、さまざまな側面があり、それらを論ずる「宗教学」がカバーする領域は広範囲です。しかし、わたしが考える宗教の第一義は、それぞれの宗教が主張する真理に至り着くことだと思っています。どのような教えであっても、第三者として評論していているだけでは、真理に至り着くことはできません。
 この私のほんとうの姿を知り、迷いの世界を離れ、真理の世界に至り着くには、どの道を歩むのかという選択をしなければなりません。

 仏教には、八万四千の法門があると言われています。人それぞれに生まれ育つ環境が違いますし、思いや行動も違います。どのような人生を歩んでも、その人に合った仏法への入口があるというのです。
 そんなにたくさんある仏法の入口を、どのように選択すればよいのでしょうか。大きく二つの方法があるのではないでしょうか。一つにはその道を自分で切りひらくという方法があります。しかしこれはとても難しいことです。自分が仏法を行じたり、聞かなければならないという必然性を強く自覚したり、どんな困難があっても最後までやり遂げるという並外れた意志が必要でしょう。
 もう一つの道があります。それは先達がすでに歩まれた道を、わたしも歩ませていただくという方法です。わたしは縁あって、法然聖人や親鸞聖人が歩まれた他力本願念仏の道を歩ませていただいています。

 おそらく、この教えに出遇わなかったら、迷っていることなどわかろうはずはありませんし、迷いの世を離れなければならないという思いをもつことはなかったと思います。そういう縁に遇いうことができ、反発しながらもさまざまな仏縁に育てられて初めて、ほんとうの自分に気づかせてもらうのです。そして仏願の生起本末をこの身に知らせてもらうことができるのです。

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2009年10月22日 (木)

「人」ではなく、阿弥陀如来の心をいただく

 仏法を聞き始めると、獲信した人と未信の自分に違いがあることを、何となく感じることがあります。そのうち、あの人のように念仏が自然に出るようになりたいとか、この人のように慶びの言葉を口にしてみたいなどと思うようにもなります。求道中のモヤモヤをなんとかスッキリしたい・・・・とも思うようにもなります。そうなると目標は獲信した「人」です。
 人それぞれの業があり、それぞれの縁のところでしか法を聞くことはできません。さまざまな人と出遇い、それぞれの人を通して法を聞いていきます。しかし、決して目標にした「人」のようになるのではありません。阿弥陀さまの心をいただくのです。そこのところを間違ってしまいますと、仏法ではなくなってしまいます。

  凡聖・逆謗斉しく回入すれば、
  衆水海に入りて一味なるがごとし。
   (『教行信証』注釈版p.203)

凡夫も聖者も、五逆のものも謗法のものも、みな本願海に入れば、どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる。

 私たちが混沌とした状態、状況を理解しようとするとき「分類」をします。ある一つの基準を立て、それに基づいて分けてゆく。そうすることで、混沌とした状態や状況の全体像が見えてくるのです。「わかる」の語源は「わける」なのです。
 仏法の上でも、たとえば信心の人と未信の人、凡夫と聖人などと分けて考えたりします。それもみんなこの世俗の考え方の延長でしかありません。でも、生まれてからずーっとそういうことを教えられ、訓練を受けてきたのですから、そうとしかできないのは致し方ないことです。しかも、ただ分けるだけではなく、そこに上下の関係や善し悪しなどの価値観を付けてしまうから、仏法の上での人間関係とはまるっきりかけ離れたものになってしまうことさえあります。

 仏法を聞くということは、そのような世間の常識から離れることです。わたしがあれこれと分けることなどできないのです。阿弥陀さまからみれば、みんな凡夫であり、すべての人が阿弥陀さまに願いをかけられ、請われているのです。

どこから流れてくる川も、すべてが海のなかに入って同じ一味の海水となります。どのような条件で、どのように流れたかそれぞれ違っても、最後に至り着く先はすべてを引き受ける大海なのです。親鸞聖人は、阿弥陀さまの心を、その海に喩えておられるのです。

 阿弥陀さまは、どのような人もわけへだてすることなく願い、招き、引き受けてくださるのですが、その正客は、逆謗の凡夫であるわたしなのです。

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2009年10月21日 (水)

凡夫といふは・・・・

 名句、名言の類は、時によって、大きく心を揺さぶられることがあります。仏教の聖典のなかの言葉からも、そのようなものがたくさんあります。なかには何度も繰り返して味わう言葉も数多くあります。そのひとつに、つぎのような言葉があります。

  「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身に
  みちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、
  そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、
  臨終の一念にいたるまで、とどまらず、
  きえず、たえずと、水火二河のたとへに
  あらはれたり。
   (『一念多念文意』注釈版p.693)

 繰り返し声に出して読んでみるとよくわかるのですが、とてもリズム感のある文章です。ついつい何度も口ずさんでしまいます。しかし繰り返して読むほどに、ちょっとこわい文章でもあります。

 「凡夫」(ぼんぶ)というのは、愚か者ということです。真理を知らず迷い続けるいのちあるもの、とも言えます。ちなみに、英語では、an unenlightened person; a common mortal in bondage to his earthly passions.とあります。なんのことはない、「わたし」のことを言っているのです。

 少々表現が大げさのように思ったことがありますが、よく考えてみると、実際、日々「欲」が原動力となって生きているのです。言い換えると、損か得かという打算的な計算を瞬時のうちにして、損になることは極力避け、得と思えることに精を出します。損得の計算はとても複雑で、得になることだけを考えているのではありません。「損して得取れ」「損せぬ人に儲けなし」ということも、ちゃんと計算しているのです。
 欲が満たされれば調子に乗って、もっともっと・・・・とどこまでも求め続けます。満たされなければ、「いかり、はらだち、そねみ、ねたむ」のです。求めたことが何でも満たされるわけはありません。満たされないときは、怒って、腹を立てるのです。そして満たされている他人をみてそねみ、妬むのです。いつもそんな心を起こし、休むことがない。それもこの世のいのちある限り続く(止まらず、絶えず、消えず)のです。

 そんな私のことを、最初に、「無明煩悩われらが身にみちみちて」と言われています。無明とは、何が真理であるかわからないということです。無明は煩悩の根源でもあります。「欲もおほく、いかり、はらだち、・・・・」という部分は、具体的に認識することができますが、無明と認識するのはとても難しい。私は自分の考え方や生き方が正しいと思っているのですから。

 これをみると、自己を振り返る、反省する、・・・・というのとは少し違うことがわかります。これが、仏法をという鏡に映し出された、ありのままのわたしの姿なのですから。私が自分のことを振り返らずとも、そこにはあきらかに自分の姿が示されているのです。

 なお、「水火二河のたとへ」とは、善導大師『観経疏』のなかの「散善義」に記されています。親鸞聖人は、それを『教行信証』の信巻のなかに引用しておられます(注釈版pp.223-227)。一般には、「二河白道」の教えと言われます。

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2009年10月20日 (火)

言葉を費やし、心を通わす

 携帯メールやTwitterでは、短い文章で情報を、また思いを交換します。それはそれでひとつの流れとなっているし、結構おもしろいし、役にもたちます。メモのような短い文章の方が、書くのも楽だし、読む方も楽です。ブログも、長い文章のものより、短くて簡潔な文章、行間など適当な空間もあって、写真やイラストがあるもののアクセス数が伸びているようです。読むのではなく、見るブログが受けるのです。感じることができたら、より幅広い人たちからのアクセスがあるのです。

 しかし、携帯メールやTwitterでは、仏法を伝えるのは、むつかしいと思っています。親鸞聖人の和讃も短い文章です。しかし、十分に推敲を重ね、その言葉は阿弥陀如来のお心のエッセンスです。同じように文章は短くても、携帯メールやTwitterで感覚的や思いつきで書かれる短文とは質が違います。
 また親鸞聖人や蓮如上人の手紙による教化もありました。それは、ゆったりとして時間の経過のなかでは、何度も読み返すことのできるものでした。それは、単独で、現代でも読み返して、深く味わいのできる内容でもあります。

 たしかに仏法は感覚的なところもありますし、響き合うところを感じることも大切なことです。しかし、仏法は、わたしの思いではありません。阿弥陀如来の願いを聞き、如来の心をいただき、うなずかざるを得なくなることなのです。わたしが納得するように聞くのではありません。

 仏法は、少人数の対面関係のなかで、説く者と聞く者が、お互いの心の底をさらけ出しあう場で讃談されてきました。互いに言葉を費やすことで、阿弥陀如来の心と自分の心を交わしあうなかで、聴聞は深まっていったでしょう。
 また、仏法では、ころころと移り変わってゆく心を追い求めてゆくのではなく、変わることのない自分の心が問題になるのですから、現代の情報に求められるようなスピードも必要ありません。

 ただ、携帯メールやTwitterがまったく無意味なのではありません。すでに顔を合わせた者どうしが、携帯電話やパソコンを通して互いの空気を感じあることができれば、聞法の補助手段となります。また、顔を合わせた経験のない人どおしでも、人と人とを結ぶ補助手段だと割り切れば、それはそれなりに意味のあるコミュニケーション手段であるとはいえないではありません。
 一方的に話しをして、座談も、聞いたところの思いを分かち合いもなく終わる説教などと上手に組み合わせたら、おもしろいかもしれません。

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2009年10月19日 (月)

自分の中ではたらく仏法

 仏法を聞く「縁」があれば聞ける法ですが、その「縁」の中身を明らかにすることはできません。まさにブラックボックスです。その「縁」を、何とかしようとお膳立てしようとしても、それがうまくいくこともあるし、逆に仇になってもあります。
 だからといって、「縁」によるものだから、人間のはからいによってどうこうなるものではない・・・・となると、何もできるものではありません。

 善導大師の言葉に、「自信教人信」(みづから信じ人を教へて信ぜしむる)というのがあります。人に教えを伝えるということは、まず伝える者が教えを信じることが必要です。信じてみて、その教えを伝えたい、伝えるべきだとの実感することから、伝える力がでてくるのです。
 いい商品を使ってみたら、その商品を損得関係なしにすすめたいというのと同じじゃないでしょうか。

 世襲制の寺院の中では、教えを信じているか否かが問われないまま、伝える側に回ってしまうと言うことがよくあります。むしろ、教えを信じているか否かを問わない方が、寺院住職の後継はうまくいくのかもしれません。しかし、そういう住職後継がなされたとしても、そのことがすべて悪いと言うこともできません。それこそ、どういう「縁」がはたらくかわからないのですから。
 たとえば、どんな教えかよくわからないまま住職になったけれど、そういう役割に就くことによって、その住職が教えに深く触れ、教えに育てられてゆくということもありますから。

 話しが逸れましたが、伝えたい、伝えるべきだと思ったところで、簡単に伝わるものでもありません。教えの内容がすぐれていることは必要ではありますが、教えがすぐれていたら伝わるというものではありません。それは人に伝えてゆくのですから。
 そういうことからすれば、人と人との関係を整えることが大切です。人のことを学び、人を好きになっていくことがとても大切であることがわかります。

 仏法が問題にするのは心でもありますし、人が動く根底には心がありますから、心理学的な見方や考え方とても参考になることがあります。ともと仏法と心理学をどれだけ深めても、決して仏法には至り着くことはなくとも、仏法と心理学の共通点を探り、心理学からのアプローチによって仏法を理解してもらおうという試みもあり、その方が現代人には理解しやすいかもしれません。

 やっぱり仏法は人を通じて伝わっていくことを改めて感じます。それは、人の中に仏法が生きているからでしょう。自分で気づかなくても、自分を超えた力がはたらいているんだと思います。仏法は、伝統的なところにも、形の上からも魅力的なものがあります。そういう仏教文化に出合えるは、よろこびですし、うれしく思います。
 しかし一番のよろこびは、わたしのなかではたらく仏法に気づかせていただいた(出遇たえた)ことを、とってもうれしく思うのです。

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2009年10月18日 (日)

阿弥陀様に何を願われているのか?

 昨日、あるところで法話をさせていただきました。内容の筋の一部はつぎのようなものでした。

 念仏が弾圧された承元の法難(1207年)をめぐり、親鸞聖人は国家権力に対して激しく批判します(『教行信証』注釈版p.471)。 
 しかしその一方で、自己を愚禿(ぐとく)と名乗るとともに、厳しく自己を内観します。たとえば、

  悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、
  名利の太山に迷惑して、定聚の数に入る
  ことを喜ばず、真証の証に近づくことを
  快しまざることを、恥づべし傷むべしと
    (『教行信証』信巻 注釈版p.266)

という言葉にみることができます。わたしの日常生活のなかで、「恥づべし傷むべし」と振り返ることがあるでしょうか。ほかにも、

  浄土真宗に帰すれども
  真実の心はありがたし(有り難し)
  虚仮不実のわが身にて
  清浄の心もさらになし
   (『正像末和讃』注釈版p.617)

など、多くみることができます。・・・・・(略)

 結構、生活に即して具体的な話しをしたつもりです。終了後、その場に出ておられたある女性の方が声をかけてくださいました。「難しいですね。そんなに厳しく自己を見な、自己否定しないとダメなんでしょうか。わたしがいつも聞いている話しは、もっと自己を肯定していると思う。阿弥陀様に願われているんだから力強く生きていこう、という感じの話ですけど・・・・」
もう少し、その方の話を聞きたかったのですが、変える方向が違うのか、すぐ別れてしまいました。

 親鸞聖人は自己否定しているのでしょうか。親鸞聖人の内観とは、反省でもありません。反省は自分の力でするものです。道を求めておられるときには、見えなかった自身をみておられるのではないでしょうか。それは阿弥陀如来の智慧の光に照らされることによって、ほんとうの自己を見せられたのです。価値観を交えず、照らされた自身を、ありのままの自分を、ありのままにみておられるだけではないでしょうか。

 浄土真宗は「聞の宗教」とも言われています。親鸞聖人は、「『聞』といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて、疑心あることなし、これを聞といふなり」(『教行信証』信巻 注釈版p.251)と書かれています。
重要なのは「仏願の生起本末」を聞くことです。なぜ阿弥陀仏の本願ができたのか? ありのままの、わたしのほんとうの姿をご存じになったのがその起こりなのです。

 先の女性の話しに戻りますと、自己を肯定し、阿弥陀様とともに力強く生きる・・・・というのは、どういうことかわかりません。自己肯定できるわたしがほんとうのわたしであるなら、阿弥陀様に何を願われているというのでしょうか。

 ここのところを、教えを説く人たちがあいまいにしていることが、浄土真宗のパワーそのものを失わせている一番の原因のように思えてしかたがありません。

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2009年10月17日 (土)

こころはひとつにあらねども

  こころはひとつにあらねども
  雑行雑修これにたり
  浄土の行にあらぬをば
  ひとへに雑行となづけたり
    (『高僧和讃』注釈版p.590)

雑行と雑修はよく似てたことばであるが、その意味は同じではない。しかし雑行も雑修もともに、浄土往生の行ではなく、ただただ雑行と名付けることができる。

 雑行は五正行以外の行のことです。座禅や写経も仏教の行のひとつで、仏教に縁のない人たちの仏教の入門のために、あるいは心を落ち着かせるためにするにはたいへんいいでしょう。浄土真宗の寺院でも、もっと積極的に取り入れたらいいと思います。しかし往生という目的からすると雑行なのです。比叡山の千日回峰行も雑行なのです。
 雑修は、正定業(称名=口に念仏を称えること)と助業(読誦、観察、礼拝、讃談供養)を同じレベルにしておこなうことです。念仏することがいちばん大事だというところに腹が据わらないから、念仏だけでは物足りない。だからそうなるのです。

 雑行は聖道門の行のことをいいます。五正行は浄土門の行です。似ているようだけれど、依って立つ位置がまったく違うのです。しかし共通点があります。雑行も雑修も、どちらも自力の行なのです。
浄土門って、他力の教えじゃなかったの?って言う人がいるかもしれません。浄土門は他力の教えに間違いないですが、その教えを修する人が称名念仏以外の念仏にも力がはいることが自力であるのです。

 浄土は、英語ではpure land(純粋の地・国土)といいます。わたしたちが住んでいるこの世、この国土には純粋なものなんてあり得ません。ましてや、このわたしが純粋に生きることなんてできません。そのわたしを浄土に生まれさせるためには、純粋なものを与えられるだけでは純粋にはなりきれません。
 阿弥陀如来の周到な準備とご苦労の末にできあがった純粋な念仏が、そっくりそのままわたしに振り向けられている。それでは不十分、不満足だから助業も同じようにやらないと気がすまないというのは、わたしの不純な思い、行為でしかないのです。

 助業は念仏するための補助として、念仏することができるようにお膳立てをするためにあるのです。だから、はっきりと、それは浄土の行ではないと言い切られる。そしてそれも雑行だとさえ言われるのです。ほんとうに厳しいですよね。でも、厳しいというのは、わたしのなかの基準によるもので、決して阿弥陀さまの基準ではないのです。

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2009年10月16日 (金)

仏号むねと修すれども

  仏号むねと修すれども
  現世をいのる行者をば
  これも雑修となづけてぞ
  千中無一ときらはるる
   (『高僧和讃』注釈版p.590)

もっぱら南無阿弥陀仏を称えても、現世での幸せを求める者は雑修となづけられ、千人に一人も往生するものはいない。

 私たちの考え方からすれば、いちばん大事なことは、わたしがいかに幸せに生きてゆくことができるかと言うことです。この世の政治も経済も法律も、またそれらを動かす社会の仕組みやはたらきも、すべて、わたしがこの世で幸せになるためにあるのです。
 しかしなかなか思うようにならないのがこの世です。わたしが幸せになるためにあるはずの政治や経済や法律が、あるいは社会が、わたしを身体的にも精神的にも縛りつけ、苦しみ悩みを生み出す装置になってしまってしまうことは、よくあることです。

 人間というのは、とても弱いところがあって、生きてゆくためには何かに頼りたいのです。一番は自分。でも自分が頼りなかったり自信がなかったらお金。ほかに人であったり、モノであったり・・・・。それらも頼りにできないときは、神や仏。一年の初めに神社に参り、お寺に参って、思いが叶うように、少なくとも災難が来ないようにと願い祈るのです。自分や金や人やモノのように目には見えない、見たこともないから、不安だけど、うまくいけば・・・・という感覚があるのでしょうか?
 念仏もそんな願いを叶えるための呪文と同じように考えている人は少なくないようです。呪文というのは、まじないや魔法をかけるときに唱える言葉で、自分の思うようにコトを運びたいときに使われます。これだけははっきりしています。念仏を称えても、自分の思うようにコトは運びません。

 それじゃ、何のために念仏するの? 大胆に言うと、阿弥陀如来の思うようにコトが運ぶためです。

 わたしの見えているわかっている世界で、わたしの思う限りの精一杯よい状態で生きたい・・・・、というその状況とその考えが、もうすでに視野が狭く、しかも破綻してしまっているのです。人間であれば、そうとしか考えられないのですけど。
 だからこそ、阿弥陀さまの願いを聞かねばならないし、阿弥陀さまの思うようにコトが運ぶよう、まかせてゆくのです。
 そう一度や二度聞いても見えないし、わからない。だから自分を頼るしかない。・・・・そういわれるなら、ま、形だけでも・・・・と念仏したところで、頼るのはこの世と自分ですから、「千一無一ときらはるる」のです。

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しばらくこのスタイルでいきます

 このブログ「畢竟依を帰命せよ」は、結構、重い。自己評価です。

 ・画面の色が濃い。
 ・テキストのみ。
 ・1回分がブログにしては長い。
 ・古文が出てくる。
 ・内容が楽しくない。
 ・一般の日常的思考ではない。
等々・・・・

 でも、しばらくこのスタイルでいきます。

 これを書きたいという具体的なものがあるのではありませんが、日記を書くつもりはありません。その時々に書きたいと思うことを書き始めたら、勢いで書けてしまうという感じなので、思った以上に楽なのです。誰に向けて書いているということもない自己満足だからかもしれません。

 毎日たくさんの人に会いますが、心の底を聞き話すようなコミュニケーションはほとんどできません。言いたいことが言えないことが、ちょっとしんどい。その部分をここで吐いている・・・・のかもしれません。

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2009年10月15日 (木)

助正ならべて修するをば

 善導大師は、浄土往生のためには、雑行を捨てて、正行の道を歩まねばならないことを説かれました。正行とは、1)浄土経典の読誦、2)阿弥陀仏の観察、3)阿弥陀仏の礼拝、4)称名念仏、5)仏徳讃談・供養の五つです。なかでも、称名念仏(「南無阿弥陀仏」と口に称えること)だけが間違いなく衆生が往生できる正定業で、他の四つは称名念仏を助けるための助業(補助的な行為)だと示されました。

 この話しを聞かれた初老の女性は、そのあとの座談の場で、「もちろん称名念仏を大事にしています。しかし、私は毎日お仏壇におまいりして礼拝し、お経を読むことを欠かしたことがありません。私にとっては、五つはすべて大切な正定業として実践させていただいています。」と、少し自慢気に、みんなの前で話されたことがありました。

 親鸞聖人の作られた、善導讃(善導大師を敬われて作られた和讃)のなかに、次のような和讃があります。

助正ならべて修するをば
  すなはち雑修となづけたり
  一心をえざるひとなれば
  仏恩報ずるこころなし
   (『高僧和讃』注釈版p.590)

助業と正定業を同格に並べておこなうことを雑修という。このような人は、他力の信を得ていない人であり、阿弥陀さまの願われた信心を知らないので、仏恩に報謝するこころもない。

 「一心」というのは、阿弥陀如来が願われている信心です。この信心は、私が起こすものではありません。阿弥陀如来が私に与えてくださるのです。その一心がいただけない人は、当然、阿弥陀如来のご恩を知るよしもありませんし、報謝する気持ちの起こりようもありません。
 それは、阿弥陀如来の願いにまかせることができない。つまり念仏ひとつが往生の因だと明らかにしてくださっている阿弥陀さまを疑っているので、受け取れないのです。

 なぜ阿弥陀さまを疑うのでしょうか。阿弥陀さまのことをよく知らない人も、長い間仏法のご縁がある人も、阿弥陀さまを疑う人はおられます。それは、自分を信じているからでしょう。先の初老の女性も、自分を信じているから、正定業は称名念仏だと聞かされても、そのとおり聞けないのです。また、「称名念仏せよ」と教えられても、それが阿弥陀さまの願いであるとは聞けず、自分の解釈が優先してしまっているのです。このように、阿弥陀さまの願いが届かず、どこまでも自分の力を信じるのが「自力」なのです。

仏教では「わたし」という凡夫は迷いの存在です。迷っているわたしがどれだけ考えても、どんな行為を行ってもそれが「自力」である以上、無明の闇を破ることはできません。無明の闇を破ることができないからこそ、阿弥陀さまから正定業である念仏を、どうしても与えずにはおかないとはたらいてくださっているのです。

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2009年10月14日 (水)

まずは、口に念仏を称えること

 仏教の中心になるのは、「行」です。浄土真宗のお説教ではあまり「行」ということを問題にしませんが、仏教である以上「行」のことは問題にしなければならないと思うのです。

 中国の善導大師は、『観経疏』という書物のなかで、行には「正行(しょうぎょう)」と「雑行(ぞうぎょう)」の二つがあることを示されています。まず、浄土往生のための正行は、往生を説く経典に示されている行であり、5つの行(五正行)が示されています。箇条書きにしてあげます。
  1)「観無量寿経」「阿弥陀経」「無量寿経」など浄土の経典を読誦する。
  2)浄土の仏(阿弥陀如来)とその国土(浄土)思い浮かべ、観察して思い続ける。
  3)阿弥陀仏を礼拝する。
  4)阿弥陀仏の名(南無阿弥陀仏)を称える。
  5)阿弥陀仏を讃談し、供養する。
これらの5つの行を、「一心に専ら」行うと記されています。

 さらに、この正行を二つに分け、の阿弥陀仏の名を称えること(称名念仏)を「正定(しょうじょう)の業」、その他を「助業(じょごう)」とされました。
 正定の業とは、衆生の往生が正しく定まるための行為です。つまり念仏を称えることによって間違いなく往生が定まるのです。それはなぜかというと、阿弥陀如来の願いにかなっているからだと、善導大師はおっしゃっています。
 助業というのは、正定の業を助ける行為です。お経を読み、阿弥陀仏を観察し、礼拝し、讃談・供養するのも、みんな念仏を称えるための助けとしてする行為だということがわかります。
 そして正定業・助業の正行以外は、ことごとく雑行だと言われています。

 正行を行う者は阿弥陀仏が常にその者を護ってくださる。雑行を行う者は、阿弥陀仏とは疎い関係になり、念仏も途絶えがちになる。このように示されているのです。

 私たちは、雑念を払うために、心を落ち着かせるために、・・・・とさまざまな行を試みようとします。結局、それらは自分のためにしているのですが、生死流転し、生死の海に沈んでゆく私にとっては何の役にもたたないのです。
 念仏は、阿弥陀如来が私に「称えよ」と示してくださったのです。私が救われてゆくためには、何もする必要がないのではありません。称えよと示してくださった念仏を、わが口から称えることを忘れてはなりません。

 念仏を称えたら救われるのか? 念仏を称えたら幸せになれるのか? 念仏を称えたら・・・・と、条件を付けて称える念仏ではありません。阿弥陀如来が「称えよ」「称えてくれよ」とわたしに向かって願われている念仏なのです。そして念仏称える者は、かならず浄土におうじょうさせると誓い、はたらいてくださっているのです。

 まずは念仏を称えましょう。そのあとで出てくるさまざまな自分自身の思いを味わったらいいのではないでしょうか。自分の思いより先に、阿弥陀如来の願いを優先させてください。それが「行」だと味わうのです。

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2009年10月13日 (火)

仏智うたがふつみふかし

 “阿弥陀如来は、救われようもない罪悪深重の凡夫を救わずにはおかないと立ち上がってくださった。そして今も、はたらいてくださっている。”というのは、浄土真宗の教えの要です。しかしその先、”わたしはその願い(本願)にすべてをまかせ、何もしなくても救われてゆく。これが本願他力の教えだ”と続きます。
 そのことには間違いはないと認めた上で、あえて、後半部分はそれはあまりにも安易過ぎるんじゃないですか、一石を投じたいと思います。

 「正信偈」には、次のようにあります。

  信楽受持すること、はなはだもつて難し。
  難のなかの難これに過ぎたるはなし。
   (『教行信証』注釈版p.204)

信じることは難しい。難の中の難であり、これ以上に難しいことはない。

 だれでもが救われる教えであるにもかかわらず、とても難しいというのです。しかしそれは修行が難しいのでも、精神修養が難しいのでもありません。信じることが難しい(=難信)のです。 どうしてか?仏法を聞く者に疑いがあるからなのです。

 親鸞聖人の『正像末和讃』には、誡疑讃とも疑惑和讃とも言われている和讃が23首あります。その最後に、親鸞聖人は、「以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせるなり」という一文を付けておられます。
 和讃のなかでは、仏智を疑うものは極楽の辺地にとどまる、化土にとどまる、七宝の獄につながれる、仏恩を報謝する思いがない、等々が述べられています。

 親鸞聖人ご自身、比叡山で20年間も仏教の勉学・修行を重ねてこられました。しかし、どれだけがんばっても納得できないところがあったでしょうし、素直に受け入れることができないところもあったのでしょう。言葉を換えるなら、自分の力でなんとかなることを信じていたのでしょう。ほんのちょっとした疑いがあったのではないでしょうか。その疑い、まかせきることのできない自力の心に苦しまれたと思うのです。

 仏法を聞いて、「ほんとかな」「そんなバカな」というほとんど否定するような気持ちは変わってゆきます。しかし、聞いても聞いても、「阿弥陀如来のお心はありがたいけど・・・」「救われたいと思うんだけど・・・」と最後に「けど・・・」が付いて、阿弥陀如来にまかせきれない自分を発見するのです。
 それでも聞いて、聞いて、聞き抜いて、お慈悲をいただくのです。

  仏智うたがふつみふかし
  この心おもひしるならば
  くゆるこころをむねとして
  仏智の不思議をたのむべし
   (『正像末和讃』注釈版p.614)

 煩悩に惑わされ、正しい行いができず、虚仮不実にしかいきることができないことは罪です。しかし、仏智(=弥陀の本願)を疑うことは、それ以上に罪の深いことなのです。この世を生きることにしか比重がない人には、そこのところがなかなか理解できないようです。

 仏智をうたがうこころ(=自分で何とかなるという思い)をひるがえして、仏智をたのむ(まかせる)のです。わかっていても、どうすることもできず、自分の疑心との葛藤へ結構しんどいものです。ただ、聞くしかありません。

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2009年10月11日 (日)

祈り願う欲求を超える願い

 人間の普遍性がどこにあるのか、という問いが投げかけられたら、「祈り、願うという気持ちに底がないところ」とも答えることができるではないでしょうか。

 祈り、願うというのは、自分の思い通りになってほしいという欲求成就(災難回避も含む)のための手段として、きわめて純粋な気持ちだと思います。しかし、それは自分のため、自分に関わる身近な人のため、自分の利益をもたらしてくれるもののため、・・・・というように、自分(私、我)というものを中心にした気持ちでしかありません。私の及びもつかない時間や空間に存在する人やいのちへの配慮はまずないと思われます。
 そういう意味では、祈り、願うというのはエゴのかたまりだと思います。そのようにしか生きられないのが、人間のありのままの姿ですし、悲しさでしょう。

 お寺などで仏さまにお参りしても、焼香ののち、手を合わせて目を閉じやや下向き加減で、黙ってジーッと長~い時間動かずにいる人がいます。おそらく、何か祈り、願っておられるのでしょう。

 親鸞聖人の浄土和讃のなかに、次のようなご和讃があります。

  五濁悪時悪世界
  濁悪邪見の衆生には
  弥陀の名号あたへてぞ
  恒沙の諸仏すすめたる
    (『浄土和讃』 注釈版p.571)

エゴのかたまりであるにもかかわらず、それがその通りと受け取れないわたしのことを、「濁悪邪見の衆生」とおっしゃっています。「衆生」って、いのちあるもののことです。濁悪邪見のわたしに、「名号」(=南無阿弥陀仏)が与えられて、“称えよ!”とありとあらゆる仏さまたちがすすめてくださっているというのです。名号は阿弥陀如来からいただくものですから、「弥陀の名号」なのです。

 また、その名号をとなえることについて、次のようにもおっしゃっています。

  南無阿弥陀仏をとなふれば
  この世の利益きはもなし
  流転輪廻のつみきえて
  定業中夭のぞこりぬ
    (『浄土和讃』)

 この世の利益というのは、わたしの頭の中で考えられるような狭小限定なものではありません。
 阿弥陀仏はわたしの願いとは比べものにならない大きな慈悲の心で、先手を打ってはたらいてくださるのです。私が迷いの世界を“生まれ死に生まれ死に・・・・”をくり返さなければならない(=流転輪廻)ことすらわからないのが私です。そのわたしを救わずにはおかないと立ち上がってくださっているのです。

 どんな状況であっても、祈り願う必要のなくなるのは、人間でありながら畢竟依がはたらいてくださるときなのです。

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2009年10月10日 (土)

仏法と向き合うのは難しい

 私は「仏教」と「仏法」という言葉を使い分けることがあります。私のなかで明確に定義ができているわけではありませんが、仏教というのは、教えはだけではなく、教えをめぐって発生するさまざまな世俗的仏教な状況をもさしています。一方、仏法というのは、教えの内容、個人的な信仰の中身に関わる狭義の仏教のことを言っているつもりです。

 さて、「生活の中に仏教を生かすことができないか」とか、「現代社会と仏教の接点をさぐる」という課題は、仏教に関心のある人なら考えたことがあるのではないでしょうか。仏教も社会現象のひとつですから、わたしもかなり意識しているつもりです。

 ところが、仏教とあまり縁のなかった人と、仏法の話しをすることもしばしばあります。これがとても難しいことだと感じるのです。仏教に縁のない人の仏教的知識は、きわめて断片的で、しかも良きにつけ悪きにつけ偏見に満ちている感じがします。
 仏法を聞くあるいは修するときに必要なことは、客観的な知識としての教えではなく、自分自身に向けて説かれているということに気づかなければなりません。たとえば、「人間には生老病死の苦がある」ということを、一般的には、人間は誰でも生老病死の苦しみがあるのだ、と聞くでしょう。しかし仏法として聞くということは、私も生老病死の苦しみの中に生きているというところにうなづくということだと思うのです。

 仏教も社会現象だと先に書きましたが、社会との接点のある仏教教団の組織や運動、あるいはあるできごとに直面した仏教を意識しつつ生きる僧侶や仏教徒の対応のしかたが問題になるときは意識せずにはおれないでしょう。
 でも、仏教の教えが、すべて現代の社会的な問題にストレートに答えているわけではありません。むしろ、科学技術の進歩や制度の民主化によって起こってきた問題(たとえば、臓器移植や裁判員制度など)には、直接的な答えはありません。仏教教団によって判断が違ったり、同じ教団のなかでも僧侶・仏教徒の対応もバラバラだったりします。それゆえ、議論することができる、しなければならない領域です。

 ところが、仏法については、いよいよ自分が生老病死や大問題の当事者になったときの問題といえるのではないでしょうか。議論して考えが整理できたり、解決する問題ではありません。教えと自分自身が真向かいになって、解決していかなければならない領域です。
 ただ、なかなか自分自身が「当事者」だと認識できないのが、仏法と向き合うことの難しさだと、つくづく思うのです。現象的には「当事者」となっても、自分自身の心のなかでは当事者になれないということすら、少なからずあるのですから。

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組織的教化・伝道からの脱皮(下)

 日本の仏教教団が、大きな力を維持することができたのは、教団や寺院が、家族や地域の力に助けられてきたと言っても、決して言いすぎではないでしょう。ところが、いま、それを見直さなければならないところにきているようです。

 宗教に限らず、どんな運動や組織も、最初から大きなものであるはずはありません。創始者がいて、それを支持する人たちが次第に増えてくることによって、運動がますます盛り上がり、組織を整備・拡大させていくのです。それでも、その運動や組織を支えるのは人なのです。
 釈尊も親鸞聖人も、一人ひとりの心の内を聞くところから始められたということは、いまさら言うまでもないことです。
 間違ってはならないのは、仏さまの教えを伝えるということは、集団や組織を活性化することではなく、一人ひとりの心のなかに、真実の光があたることです。真実に出遇ったひとりが、縁のある人に、また縁のある人に、そしてまた縁のある人に・・・・とひろがってゆくことによって、結果として集団となり組織となってゆくのです。

 家族・地域の活性化は大切ですし、教団・寺院の組織としての力を持つことも重要なことです。しかし、現状を考えたとき、空洞化した集団・組織であってはなりませんし、表面だけを繕っても先は見えています。
 ましてや、これまでの伝統的な伝道・教化の手段が弱体化し、機能すら失ってしまっている現状をみるとき、「個」に対していかにはたらきかけるかということを考えねばなりません。一人ひとりが「わが信や如何に」と問うところが出発点なのです。先の言葉を使うなら、心のなかに真実の光があたっているのか、と自らに問うことでしょう。
 そういう思いをもって自らを問う人たちが、ともに聞きあい問いあう関係があちこちにできることを期待するのです。

 ともに聞きあう関係というのは、基本的には、顔と顔をつきあわせ、感情の起伏や微妙な表情をも感じるような距離でのコミュニケーションというのが頭に浮かびます。そんなコミュニケーションは、自らへの問いへのごまかしもきかなくなりますから、自分と向き合うことにもなるのです。

 なお、家族や地域、教団や寺院といった既存の集団・組織のなかのコミュニケーションは希薄化しても、電話やインターネットの電子的なものを中心にコミュニケーションの手段は多様化しています。完全に関係が切れることなく、かろうじてつなぎ止める役割を果たしているとは思いますが、それらはあくまでも補助手段でしかないということを知っておかねばなりません。

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組織的教化・伝道からの脱皮(上)

日本の家族はタテの関係が強いことがしばしば指摘されてきました。また、豊かではなかった日本の人々の生活を支えたのは、家族とともに、地域社会内での支え合いでした。そして現在、日本的家族関係が急速に壊れていると言われるようになり、地域社会の人々の絆もずいぶん弱くなってしまっているようです。

 そのことは、日本の宗教事情(とくに仏教)に大きな影響を与えています。寺檀制度は、お寺と家との関係です。タテの関係を重視する家意識が薄れるにしたがって、お寺と家の関係は弱まっていきます。また地域社会の中で人々を結びつけ、檀家の宗教的な盛り上がりを地域社会の伝統として今日まで維持し続けてきたということもできるのではないでしょうか。
 仏教の教えも、仏教的な儀礼や習慣を通じて学び、守られてきました。また、仏教の教えを通して道徳的・倫理的観念や行為が養われてもきました。家族(タテ)と、地域(ヨコ)の双方の「伝承力」が相まって、日本の宗教、とくに仏教が制度面、機能面、信仰面で維持さえてきたのです。同時に、家族や地域の安定が維持されてきたのです。

 その家族・地域がすっかり変わってしまっていることは、仏教の教えが弘まってほしいと思うものにとっては重く受け止めなければなりません。家族と地域内の関係に依存してきた運動や組織は、家族や地域が弱体化するのですから、当然衰退することはいうまでもありません。それらの盛り上がりを期待するためには、これまでとは違う発想や動きが必要となってきます。

 仏教の本来の目的は、個人の救済です。誰も替わってくれることのない自分の魂の救済にあります。ところが一人で大きな問題を解決することはとても難しいものです。それを側面から支援してくれていたのが家族や地域であったのです。「仏教なんて、教えなんて、私には必要ない」と考えていたり、まったくの無関 心であったとしても、家族や地域の人たちによって、育てられていくチャンスに恵まれていたのです。
 教団もお寺も僧侶も、家族や地域に頼ってしまっていたということも言えなくはないでしょう。そのために、家族を再生させ、地域社会を活性化して人々の関係を深めなければなりません。しかし、そのためには、時間が必要となりましょうし、豊かでユニークなアイデア、献身的に地域社会の中での活動、等々が必要です。そう簡単にすむ話しではありません。

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2009年10月 8日 (木)

如来の本誓は機に応ぜる

 親鸞聖人が書かれた『教行信証』という書物の中にある「正信偈」は、浄土真宗門信徒がもっともよくおつとめするお経のひとつです。その後半部分(依釈段)の76句は、七高僧を讃えるご文です。最初の四句は、七高僧全体を讃えられています。

  印度西天の論家
  中夏・日域の高僧
  大聖興世の正意を顕し
  如来の本誓、機に応ぜることを明かす
  (『教行信証』注釈版 p.207)

印度西天(印度)、中夏(中国)、日域(日本)の高僧たちは、大聖(釈尊)がこの世に出られて正しい教えを説かれ、阿弥陀如来の本願こそが、機に応じていることを明らかにされた。

 このなかで、味わうべきところは、如来の誓い(本願)は、私たち凡夫の一人ひとりの機に応じているということでしょう。「機」というのは、なかなか説明するのが難しい言葉ですが、一人ひとりがもっているそれぞれの素質・能力・力量とでもいえましょうか。ただ、人の部分的なところだけを指しているのではありません。仏によって救われるべきもの全体をいうのです。それは、人間とか衆生とか有情とも言えましょうが、そう漠然と聞くのではなく、「私」と聞かせていただくのです。

 つまり、釈尊が説かれた教えは、阿弥陀如来の本願であったということであり、その本願は、勝手気ままな思いをもって生きる私に向けられ、しかも私の思いや状況にピタッと焦点を合わせて説かれているというのです。それをそれぞれの立場から明らかにしてくださったのが七高僧なのです。

 時代が違い、国が違うと、生き方考え方には違いはあるでしょう。しかし、人間として生まれ、いつも笑い楽しみたいけれどなかなか思うようにいかず、悩み苦しみ悲しむなかで生きてゆかねばならない人生に変わりはありません。人間の目から見るとたいへんな違いに見えても、阿弥陀如来や釈尊の目から見た私たちは、凡夫であり衆生でしかないのです。でも、私にすれば、自覚するか否かにかかわらず、個性を主張し、私らしく生きたいと思って生きているのでしょう。だから、願いはひとつでも、「機」に応じた教えを示してくださっているのです。
 七高僧が出られて説かれたことは、表現のしかたが違っても、「大聖興世の正意を顕し、如来の本誓、機に応ぜることを明かす」ことひとつであり、「如来の本誓」ひとつに帰依されたことを知ることができるのです。

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わかる人にはわかってる

 仏教にはさまざまな側面があります。仏教芸術や仏教建築というのは、異国の地のものあるいははるかむかしのものでも、理屈抜きに一般の人たちの心をとらえて、強烈な印象を与えています。そのほかにも、社会的、文化的、精神的な影響は、日本の現代社会の中でも数多く見受けられます。さらに、それぞれの時代や社会のニーズに応えるために整備され、いつのまにか形骸化したり、形を変えたりして存続している葬式仏教、観光仏教などと揶揄される部分もあります。しかし決して勘違いしてはならないのは、それらのものはいずれも仏教の本質ではないということです。

 仏教は、壮大な思想的・哲学的な学問体系であり、同時に自らが救われるという実践体系でもあります。この二つの体系が両輪となって、仏教の本質を支えているのです。本質を支えるというのは、学問も実践も手段であり、手段をどれだけ磨いても本質のところには至り着くことはないということでもあります。
 仏教の本質は、「いま、ここの私が、さとること」です。きわめて抽象的な言い方ではありますが、すべての人に当てはまるように言うとすれば、そうとしか言いようがありません。仏教の本質が具体性を持つのは、私自身がさとること以外にはありません。

 親鸞聖人が七高僧を選ばれた基準とされた「自らが阿弥陀如来の本願を信じ、念仏に帰依し、念仏とともに生きられた」というのは、七高僧は単なる学者や評論家ではないということです。仏教はとってもすぐれているよ、と人に言うだけではなく、自らが学び・実践することを通して、「これしかない!」という世界に至り着いたということです。それは、誰にも替わることのできない、きわめて個人的なことです。
 しかし個人の思い出のように、まったく自分の内側にだけにしか残らないというようなものでもありません。さとることができた人には、共感あるいは共有できる世界でもあるのです。

 自ら本願を信じ念仏に帰依されたという七高僧それぞれの個人的な体験は、親鸞聖人ご自身も共感・共有できたものであったのです。だからわかる人にはわかるけど、わからない人にはわからないというところなのです。

 わかる人にはわかるけど、わからない人にはわからない。だから仏法はわかる人に聞かないとダメなんです。習俗の中で、自分の思いの中で、わかったような顔をしているだけではいつまでたってもわからないのです。あたりまえのことですけど、そのあたりまえのことがなかなかわからないのですよね。
 

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2009年10月 7日 (水)

仏法は人を通して

 私が仏法を聞くことができたのは、実に多くの人たちの力をいただいたからだと思っています。はっきりと名前を出すことができる人もいますが、よく知らない人たちの一言のご縁によっても育てられてきたという思いをもっています。
 私がとても嫌いな人、イヤな奴であったりしても、あとで思い返してみたらとっても大きな縁をもらっていたなぁ、と感じたこともあります。不思議な仏縁のなかで生かされると感じるのです。

 仏縁というのは、私の目には見えなかったり、感知することができなくても、はたらいているということも思うのですが、なかなかその感じを言葉にしたり、第三者に伝えるということは難しいものです。しかし、人との出遇いによる縁、人を通して育てられたというのは、とても印象も深く、わかりやすいですね。

 仏法は、「師子相伝」「善知識」という言葉からも、師の存在が大きな意味を持っています。親鸞聖人も法然聖人(源空)との出遇いによって、人生が一変します。

  愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。
   『教行信証』(注釈版 P.472)

 さらに、お釈迦樣はもちろんですが、それに続く龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導・源信の六人と、直接の師・源空を含めた七人を師と仰がれ、「七高僧」とされました。そして『正信偈』『高僧和讃』のなかでそれぞれの師の徳を述べられています。

 親鸞聖人は、それまでに「綽空」や「善信」とも名のられておられます。綽空は道綽と源空から一字ずつ、善信は善導と源信から一字ずつ、そして親鸞は天親と曇鸞から一字ずつもらって付けられた名前なのです。当時は、父や兄から一字ずつもらって付けることが多かったようですが、親鸞聖人は七高僧を父のように兄のように慕っておられたのでしょう。

 それにしても、お釈迦樣以来、親鸞聖人の時代までをみても、たくさんの高僧がでておられます。そのなかから7人の高僧を選ばれたのは、どういう基準があったのでしょうか。
 まず何よりも、自らが阿弥陀如来の本願を信じ、念仏に帰依し、念仏とともに生きられたということがあげられます。雑行=自力の行によって往生しようとした人たちは入っていません。
 二つめの基準は、自ら著書を残されたということ。三つめは、阿弥陀仏の本願をあきらかにするなかで、ただ先達の教義をそのまま受け継ぎ紹介するだけではなく、独自の教理の展開があることです。そして最後にその教理が、阿弥陀如来の本願の趣旨に相応しているということでなければなりません。

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部分的にかじられる仏教

 「仏教ブーム」だとか、「仏教に興味を示す人が増えている」などといったことをしばしば耳にします。
ごく最近聞いた話しでは、写経や座禅を含めたお寺での生活体験(「プチ修行」と言うらしい)やお寺巡り、さらには仏像への関心が高いらしい。とくに仏像については、国宝・阿修羅展はじめ展覧会や鑑賞ツアーに多くの人が参加し、雑誌が仏像特集をしています。仏像を彫る女性も増えているとか。そんな仏像好きの女性を「仏女」と言うらしく、「癒される」「すっきりする」「パワーをもらえる」と静かなブームらしいのです。

 こんな状況は決して一時的なものではないようです。現代社会の中で仏教が大ブレイクすることはないのかもしれませんが、関心を示す人はかなりいると思われます。
 それは今に始まったことではなく、これまでも社会に元気が無くなったり、混迷したり不安定な状況のなかでは、仏教は注目されてきました。また、社会的な状況とは無関係に、個人的にも仏教を求めなければならないような縁を持つ人も必ずおられます。
 まさに「諸行無常」の世界に生きているのことを、実感せずにはおれなくなると、その受け皿として仏教はあるのでしょう。

 本来、仏教というのは、自分が救われるために、人生をかけ、いのちをかけて求めるものです。しかし現状の仏教への関わりは、日常生活のついででしかありません。しかも、仏教の教えに従った修行をおこなうとか、深く教えを聞くとかいうことではなく、ほんの一部をかじっているにすぎません。自分自身が満足できるか否かということでしかありません。
 仏教が「癒し」で終わってしまうというのは、教えの根幹に触れることなく、表面的なところでの自己満足でしかないからでしょう。もっとも、表面的なところに触れるだけでも、「癒し」の効果があるというのは、仏教のパワーと言うこともできますが。

 仏教の教えを聞きあるいは実践することはとても難しいことのようだけれど、何か気になるから、短時間で見たい、聞きたい、体験したいということなのでしょう。ふだん、仏教とはまったく縁の無い人たちであっても、そういうことをきっかけに仏教に触れることはとても尊いことです。しかしたいていはそこで終わってしまっているようです。
 なんとなくわだかまる人生の苦しみや悲しみなどを、ほんの一瞬でも和らげてくれるところにとどまらず、心の底から苦しみを抜いてくれるのが仏教だ。そこのところを知ってほしいものです。

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2009年10月 4日 (日)

多欲不知足のなかで

 世の中に楽しいことはいっぱいあります。趣味や特技などが生き甲斐になって生活の大きな部分を占める人もいるようです。そんなたいそうなことでなくても、日常生活のなかでのささやかな楽しみもあります。そんな楽しみによって、生きる元気がでてくるのでしょう。

 ところが、資本主義下の現代社会では、物があふれて豊かになり、貨幣経済が進展するなかで、その楽しみ方がとても複雑になっています。小さな自分の楽しみ達成のためにもお金を使うようになります。そのお金を使うことが楽しみになり、快感になってゆくのです。また、お金を使うことによってストレスを発散している人もいます。それは持っているお金に余裕があるか否かということとは無関係のようです。なければ借りてでも使いたいと思うのですから。
 ところが、この楽しみ方は、苦しみを生みますし、ストレスを再生産あるいはより増幅することにもなりかねません。これはお金を使って生活をするという基本的なお金の使い方を超えて、楽しみの追求やストレス発散の道具としての使い方になってしまっているのですから、欲望をふくらませるだけなのです。

 そういう生活のあり方は、このようなお金の使い方に限らず、すべてのモノやコトに通じることではないでしょうか。大量消費への問題点が多く指摘されても、消費することへの快感は簡単には止むものではありません。「少欲知足」とはなかなかいかず、加速する「多欲不知足」に、なかなか歯止めがかかりません。「もったいない」という言葉も、自分の方に向いては出てきません。

 そんな延長線上に何が待っているのか? 環境問題、資源問題、人権問題、等々の地球存続の根幹に関わることですし、人類の存続が問われているのです。ちょっと想像力を働かせたら、わからないはずはないでしょうが、なかなかブレーキはかかりません。「わかっちゃいるけど、やめられない」のです。

 言われているほど心配することはないという楽観論、科学技術が進むことにより問題は解決の方向に向かうという人間の知への依存、成長が止まり経済活動が少々停滞しても世の中のしくみを変えなければならない、等々、ここでも百家争鳴です。

 そんな現代社会のありようと、それに伴う私たちの生活は、人間の知識と知恵によって生まれたです。問題は解決すると思いたいし、まだまだよくなるに違いないとも思いたい。でも、一時は元気が出たとしても、いつまでも安心でき、全面的に信頼し、安心できるとは思えません。

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2009年10月 2日 (金)

究極の拠りどころにまかせなさい

 「畢竟依を帰命せよ」というタイトルについて、思うところを書いてみます。

 畢竟依は「ひっきょうえ」と詠みます。畢竟を辞書で調べると、畢も竟も終わりの意味で、「つまるところ」「結局」という意味です。畢竟依は、究極の拠りどころのことを言います。

 私たちの人生の中で頼りにするものって、お金、地位、会社、身につけてきた知識、学歴、さらには体力や健康、それ以上に自分自身や家族などなど、いろいろありますよね。ところが、一時はとても力になっても、時間が経つと、場所が変わると、状況によって役に立たなくなることもあります。
 「つまるところ」「最後の最後は」と迫って自分自身に問うてみてください。「人生いろいろある(あった)だろうけれど、最後の最後は何を拠りどころにして生きるの?」と、問うてみてください。
 突然言われても考えられるものでもありませんし、あまり考えたくもありません。真剣に考えると、ちょっとこわいかもしれません。

 そんなものあり得るわけがない。あり得ないから究極なのだ・・・という人もいるでしょう。実際、そういう声を聞いたことがあります。でも、究極の拠りどころがあって、それを自分の根拠にできるなら、安心感も大きく、生きていく自信にもなるだろうと言った人もいます。

 もうひとつ、帰命(きみょう)という難しい言葉がありますね。帰命は仏教の言葉で、「帰依」「帰順」という意味です。もっとくだけた言い方をすると、深い敬いの心をもち、絶対的な信頼のなかで、すべてをまかせ従うことです。まかせ従うといっても、しかたなしにとか、妥協してとか、他人に言われたから、というのではありません。その前提として、敬いと信頼があるということです。だから、ちょっとだけ心配、なんて言うのも無しです。
 しかも「帰命せよ」と命令しています。ここでもちょっと引いてしまいます。命令されてすることじゃない、と。

 これらのことを、いのちをかけて求めていった人たちがいます。私がこれからその人たちに対して云々できるはずはありません。しかし、その人たちの歩まれた道をたどることはできます。おぼつかない歩みでも、たどったところを、できるだけ私の言葉で書いてみたいと思っています。

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はじめるにあたって

 気楽に始めようと思ったブログですが、「畢竟依を帰命せよ」と、ちょっと難しいタイトルになってしまいました。

 私自身、これから何が書けるのか、明確なものがあるわけではありません。でも、向かうところは、このタイトルの方向です。とくに、私自身の仏法への思いを少しずつ整理しながら、書いていきたいと思います。でも、「畢竟依」に向かって一直線というわけにはなかなかいかないでしょう。脱線もありましょうが、それも私にとってはとっても大事なことなんでしょうね、きっと。

 まずは、最初のごあいさつです。

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