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2009年11月30日 (月)

まもられほめられ、仏になる利益

 家内安全、商売繁盛、延命息災、病気治癒、受験合格、交通安全などを願うのは、人間のごく自然な心だと思います。安全、健康、繁栄を守るのは、自分を守ることであり、この世を幸せに生きる基本だと、無意識のうちに考えているからでしょう。
 宗教もその片棒を担いでいます。古今東西、利益(りやく)を言わない宗教はありません。もちろん浄土真宗においても利益があるのですが、冒頭に示したような利益とはまったく違っていますし、この世の幸せをかなえられることを目的としてはいません。
 親鸞聖人は、むしろ自分の願いをかなえたいという思いで現世を祈ることを、嘆き悲しんでおられます。それでは、親鸞聖人は、仏法のなかにどのような利益をみられたのでしょうか。

 親鸞聖人は、『教行信証』(註釈版p.251)の中に、現世十種の利益をあげられています。
①眼に見えない方々のお護りを受ける利益。
②この上もない尊い功徳がそなわる利益。
③罪悪を転じて名号の功徳に一味になる利益。
④諸仏に護られる利益。
⑤諸仏にほめられる利益。
⑥弥陀の光明に摂め取られて常に護られる利益。
⑦心に法の喜びが多いという利益。
⑧如来の恩を知って報謝の生活をする利益。
⑨常に如来の大悲をひろめる徳をいただく利益。
⑩仏になることが定まった位に入る利益。

 この十種の利益のうち、①、④、⑤、⑥は、外から大きな力によって護られるという利益です。また、②、③、⑦、⑧、⑨は、内に大きな徳や喜びをいただくという利益です。そして⑩は、もっとも重要な利益です。凡夫を離れて、仏(=悟った者)になることができるというのです。

 それでは、浄土真宗のいう利益は、一般に言われる〝ご利益〟とどこが違うのでしょうか。
 私たちが現世で願うことは、「自分のため」「私たちのため」のものでしかありません。言い換えるなら、自分に都合のよいエゴなのです。
 自分の幸福を願うことは悪いことではありません。どんな人でも、幸せに生きたいと願うのはあたりまえのことです。しかしまず、私が毎日生きることができるのは、多くのいのちの犠牲の上にあり、多くの人たちが蔭になり日向になってくださっているのです。にもかかわらず、私の願いの中には、そんなことへの配慮は欠けてしまっています。

 浄土真宗の利益は、私の思いから生まれたものではありません。その利益は、阿弥陀さまのこころをいただいた者だけにそなわるのです。私が願わなくても祈らなくても、常に阿弥陀さまが、そして諸仏が私をまもり、ほめてくださっているのです。
阿弥陀さまからいただいたこころには、私の身勝手なエゴなどどこにも見当たりません。それは私の心ではなく、阿弥陀仏のこころをいただいたのですから。

 この世で一般的に多くの人に求められている現世利益は、“ダメだ”と禁止しても、必要な人は求め続けるでしょう。間違いなく阿弥陀さまのこころが届いた人には、現世を祈る必要がなくなるのです。

 お守りを買い求めて、肌身離さず持ち歩かなくても、阿弥陀さまが無条件で与えてくださり、私が忘れてしまってもズッと寄り添っていてくださるのです。利益を求めてやまない私以上に、私のことを案じて私のためにはたらいてくださっているのは阿弥陀さまなのです。

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2009年11月29日 (日)

不思議中の不思議が仏法不可思議

 世のなかに不思議なことはたくさんあります。普通では考えも想像もできないことであり、考えても原因・理由がわからないことです。そういうと、オカルト現象や心霊現象のことを思い出される人は多いと思います。そんな現象を見て、よくわからないけれど、なんとかわかろうと考えます。
 しかし仏教が説く不思議は不可思議とも言います。人知の遠く及ばず、言葉で表したり心でおしはかったりできないことです。考えることすらできないことを言うのです。

  いつつの不思議をとくなかに
  仏法不思議にしくぞなき
  仏法不思議といふことは
  弥陀の弘誓になづけたり
   (『高僧和讃』註釈版p.584)
仏教が説く五つの不思議が説かれているが、そのなかでももっとも不思議なのは仏法不思議である。仏法不思議というのは、一切衆生を救おうという阿弥陀さまの誓いなのである。

 五つの不思議というのは、① 衆生多少不可思議、② 業力不可思議、③ 竜力不可思議、④ 禅定力不可思議、⑤ 仏法力不可思議の五つです。

 地球上の生物の種類は500万種類とも言われています。そしてそれぞれの種類の生物が、次から次から生まれ存在するいのち(=衆生)が満ち満ちています。それが衆生多生(しゅじょうたしょう)不可思議です。
ふたつめの業力(ごうりき)不可思議は、人生はひとそれぞれで、どれとしてして同じ人生はありません。兄弟姉妹、それが一卵性双生児であったとしても、それぞれ違う、千差万別の人生を歩んでゆくという不思議です。
 竜力というのは、竜神のことであり、雨を降らせる力があるものと考えられていました。つまり自然界のさまざまな不思議が竜力不可思議です。
 禅定は精神を集中し、統一させる行です。それを突き詰めて、我執を超え、迷いの生から解脱してゆくことが禅定力不可思議です。まさにお釈迦さまが経験された不思議です。

 これら四つの不可思議以上に不思議なのが、仏法不可思議だというのです。つまり、どんないのちのはたらきより、どんな自然のはたらきより、徹底的に行を積んでさとりの世界に至り着くよりも、凡夫が仏になることが不思議だというのです。肉・魚を食べ、ウソを言い、きれいごとを並べ立て、底なしの欲を起こし、抑えることのできないほど腹をたてて、・・・・という毎日をすごしている私が、仏になるというのです。
 そんな私は、さとることなどあり得ないから凡夫と名づけられているのです。ましてや罪悪深重・煩悩煩盛という保証まで付いているのです。
 その私が仏さまになることができる。こんなこと、この世のことだけを考えているどんな賢明な人でも、とても思いつくことはありません。それが不可思議ということです。

 考えてもみてください。これまでに、この世を生きるなかで、何か一つでも仏になるタネをまいたことがあるでしょうか。無いから救われるわけはないのです。しかし、阿弥陀さまは、そんなタネなどまくことなどできようはずもないから、救わずにはおれないと誓い、願ってくださっているのです。

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2009年11月28日 (土)

マイナスがプラスに。闇に光が・・・

 ある方がこんなことを言われました。「仏教というのは、話を聞いているとマイナス思考ですね。その良し悪しを言うのではないけれど、それでは世間には受け入れられないと思う」。

 釈尊が出家したきっかけは、老・病・死という人間が避けられない、けれど見たくはない姿にに出遇ったことでした。また、仏教の世界観にある無常観や自己の罪悪性を見るより、もう少し明るくおおらかな面を見たいとも思うかもしれません。現代の日本仏教においては、葬儀や墓や法事など、亡くなった人をめぐる儀礼が目立つからでしょう。どうも生きる力にならない、この世を楽しむ話しではないと、みられているのでしょう。
 しかし大切なことは、この世は無常であり、人生は苦であるということが、まちがいのないことであるということです。暗いか明るいか、良いか悪いか、好きか嫌いかという主観の問題ではなく、それがほんとうのことであり、逃れることのできないありのままのわが姿なのです。
 人間が生きることに苦しみ、老い、病み、死んでゆくのは、どのような時代や社会になっても変わらないことです。それはとてもイヤことですから、気持ちの上では避けたいことです。しかし現実には決して避けることはできません。避けることができないからこそ、目をそらすことなく、しっかり見よ、と教えているのが仏さまの教えです。

 現実に向き合うと、楽しく、幸せに生きたいという思いとは裏腹の世界が見えてくることが多々あります。思い通りに生きたいと思っても生きることができないし、老・病・死はますます現実的、具体的なものになってきます。なんとかしたいと考えれば考えるほど絶望しかありませんから、考えないようにしたいし、忘れたい。それでも、現実的な絶望が次々とやってくるのが人生です。私のなかの価値観では、また世間の価値観ではどうにもなりません。

 しかし、主観として感じてしまっている暗いとかマイナスというところに、光に照らされてプラスに転換して、輝きプラスに転換されていく道が示されているのも仏教であるというところを聞かねばなりません。
 無力な存在で、絶望の淵に立つしかない私だからこそ、阿弥陀仏の限りない願い(本願)があるのです。絶望の淵に立たされた無力の私が、阿弥陀仏の大きな願いによって生かされるのです。

 だからといって、老・病・死がなくなるわけでも、この世を生きる苦がなくなるわけでもありません。昨今の世情をみると、今後ますます生きることが大きな苦となって私の前に立ちはだかるような気がします。しかし、そんな悩み苦しみを持ち、おそれおののく私を、私の苦しみを、そっくりそのまま引き受けてくださるのが阿弥陀仏です。

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2009年11月27日 (金)

さとりのすべてを与えてくださる

 仏教のさとりに至り着くためには、家族も財産も地位も名誉も一切捨てて、身ひとつで出家して修行するというのがお釈迦さまの時代でした。自力の修行によってさとりを開くことを教えとする道です。

 しかし自力の道は、出家したところで、さとりをえることができるという保証などどこにもありません。ましてや、私たちが日常生活を続けながら、修行をし、さとりの道を求めるということなどありえません。
 そんな者たちに示してくださったのが阿弥陀仏の本願力によってさとりをえる教えです。迷いの世界を生きる私に対して、阿弥陀さまがしっかり寄り添って次のように示されるのです。自力の修行をしなくとも、さとりの内容をすべてあげよう、と。
 そんなうまい話しがあるものか、と思われるかもしれませんが、迷っていることすらわからないほど迷って(=真酔って)しまっている私には、阿弥陀さまが示しておられることがわからないのです。

 もうひとつ、この世を幸せに、思いどおりに生きることしか考えない者にすれば、阿弥陀さまとの縁はほとんどありません。いわば、見知らぬ関係であったり、知っていても水くさい関係なのです。
 私たちは、粗品といわれる程度のものなら遠慮なくいただきます。ちょっと値のはったプレゼントもうれしさいっぱいでもらうでしょう。ごく親しい間柄なら、条件を付けることもなく物をもらってもそう抵抗はありません。しかし、見知らぬ人から、あるいはあまり親しいと思えない人から「無条件で広大な土地付きの家をあげよう」「車のローンも住宅ローンもみんな私に任せたらよい」と言われても信じないでしょう。あるいはきっと何か裏があるに違いないと警戒心を起こします。
 阿弥陀さまをよく知らない人にとってみれば、わが身のゆくえを任せることはできません。ましてや、さとりをあげようとおっしゃってくださることなど、信じることはできません。さとりというのは、永遠のいのちをもつことです。間違いなしに浄土に生まれることです。二度と迷わない身になることです。
 言葉としてわかっても、まったく実感がわかない。空想することもなかったバカげた夢としか思えないかもしれません。それはあたりまえです。迷っているのですから。真酔いから目覚めない限りわからないのです。

 念仏の教えを聞き始めると、聞いたこともないし、疑うとか信じるとかいう以前の段階の話しが出てくる。つまり理解すらできないということがあるかもしれません。この頃の風潮は、手短に、要点を、わかりやすく、簡潔に述べないと無視されます。しかしここは、ちょっと本腰を入れて聞くことがとても大事だと思うのです。
 私は自力の行でさとりをえることなどできません。それを見抜いた阿弥陀さまが、私に変わって、私のありのままの迷いの姿をよくよく調べ上げてくださった。そのうえで、その迷いの者が救われるための行を修してくださり、さとられた。つまり私が救われる方法を「南無阿弥陀仏」として仕上げてくださったのですから。
 そのさとりを、「すべておまえに与える」と目の前に示され、胸の中に押し込んでくださっているのです。「はい」「ありがとう」と受け取ることができない自分に気づくことが、まずは必要なのです。

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2009年11月26日 (木)

身を粉にしても報ずべし

 この世の諸問題をどのように解決してゆけばよいのかということが、すべてお経や聖典のなかに書かれているわけではありません。お釈迦様の時代には、また親鸞聖人の時代には、原子力問題はありませんでした。脳死臓器移植問題も遺伝子操作もありませんでした。さらに経済の問題や環境の問題などは存在したかもしれませんが、いまほど複雑なことはなかったでしょう。現在では、さまざまな問題がシステムとなり複雑に絡み合っていますから、善悪や賛否を容易に判定できる状態ではなくなっています。
 それゆえ、社会との関わりは、念仏する者が、主体性をもった仏教徒が、それぞれの立場で発言し、行動するしかないと思っています。自分の置かれた立場や社会的状況から、自分の意に反した行動をしなければならないことがあるかもしれません。矛盾を抱えながら判断を迫られることもあるでしょう。

 仏教徒であれば、念仏する者なら、このように生きなければならないというものがあると思っています。それを厳格に守っているのが戒律を遵守して生活している僧侶たちでしょう。しかし私はゆるゆるです。だらしない生活をしているとしか言いようがありません。
 縛られることはイヤ、自由奔放に生きたいと思っています。しかし、浄土真宗の道を歩んできた先達たちは、在家生活者であっても、勝手気ままに生きてばかりではありませんでした。決まった日には肉や魚を一切口にせず、朝夕のおつとめを欠かさいという生活をしておられました。自らを律し、慚愧の思いをもってわが身を振り返られました。時代が違うからできないのでしょうか?そうではないように思うのです。

 たとえば、殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、両舌、悪口、貪欲、瞋恚、愚痴と示されている十悪は、してはならないことなのですが、せずには生きていけないのです。せずには生きていけないから許されているのではありません。それを、“致し方ないこと”と、自分を許してしまっています。仏法をなめきってしまっています。
 そんな私を許してくださっているのは阿弥陀さまだけです。そのことがどれだけ重いことなのかということを、思い知らねばなりません。

  如来大悲の恩徳は
  身を粉にしても報ずべし
  師主知識の恩徳も
  骨をくだきても謝すべし
   (『正像末和讃』註釈版p.610)

 社会問題への関わりは、社会に対する批判が含まれますが、それ以上に自己の生き方の振り返りが必要になります。自己の生き方の棚上げによって生まれる社会に対する批判の鋭さは、他を傷つけるだけです。

 念仏の声がだんだん小さくなる、真実の教えを聞く人が少なくなっている・・・・というのは、教えに問題があるのではありません。教えをいただいた人たちの生き方、社会への関わり方に問題があるのです。
 一般の人からは、教えがすばらしければ、それを信じている人たちの生き方も魅力あるものに違いないと見えるのでしょう。そういう一般的な人の目に迎合する必要はありませんが、身を粉にして、骨をくだいてでも・・・・という生き方をせずにはおれない。そうとしか思えない、そんな大きなものを、阿弥陀さまからいただくのです。

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2009年11月25日 (水)

願作仏の心は度衆生のこころ

 人間の欲求の研究で、とても有名なものに、アメリカの心理学者アブラハム・マズローによる欲求5段階説というのがあります。人間の欲求は段階があり、下層の欲求が満たされれば、その上の段階の欲求を志す、というものです。この考え方は、心理的な領域だけではなく、教育、福祉、人事、営業、マーケティング、等々きわめて幅広い分野で使われています。
 下層の欲求から順に示すと次のようになります。つまり、自己実現の欲求が、最上位の欲求であるというのです。

  1)生理的欲求:睡眠、食欲、など
  2)安全の欲求:わが身を守りたい
  3)愛情の欲求:人に良く思われ、愛されたい
  4)尊重の欲求:尊敬されたい、人から認められたい
  5)自己実現の欲求:よりよい自分になりたい

 この考え方は20世紀になって示されたものですが、それよりズーッと以前の4~5世紀のインドに出られた世親(天親菩薩)は、『浄土論』の冒頭に「世尊我一心 帰命尽十方 無礙光如来 願生安楽国」(われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず)と記されました。
 浄土に生まれたい、仏になりたいというのです。マズローの自己実現の欲求では説明し尽くすことができません。この世を超えた願いが示されているのです。そのような願いは、少なくとも浄土教の教えのなかに生きた人たちのなかには脈々とあるのです。

  願作仏の心はこれ
  度衆生のこころなり
  度衆生の心はこれ
  利他真実の信心なり
   (『高僧和讃』註釈版p.581)
自分が仏になりたいと願う心は、そのまま一切衆生を救いたいと願う心である。一切衆生を救いたいと願う心は、仏が他の衆生を利益されるということで、他力回向の真実信心にほかならない。

 いまの日本では、食べたいと思えば食べることができますし、寝たいと思えば暖かいふとんのなかで寝ることができます。それが実現できれば、もっと高度な欲求を求めるだけのことです。どこを探しても、浄土に生まれるとか、仏になるという思いは出てきません。思い通りに生きることができず、不満不平が山のようにあったとしても、人間関係が乱れても、浄土や仏という思いは出てきません。
 にもかかわらず、仏になりたいと思うことがあるとすれば、どこかで浄土や仏との縁に触れることがあったからであり、それはすでに自分の心ではないとつくづく思うのです。

 いつ、どこで縁を結ぶ機会があったのか、私にはまったく覚えがなくとも、どこかで浄土や仏との因縁があったのです。そして頼みもしないのに、むしろ拒否し続けたり無関心であったのに、はたらきがあったし、はたらき続けてくださっている。それを、わが欲求のところだけで処理をするから、感じなくなる、見えなくなる、聞けなくなるのです。

 「いま、ここの、わたし」を大切にして生きたいと思うのですが、利他真実を知ることなしでは、ほんとうの自分などほとんど見えていないのではないでしょうか。

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2009年11月24日 (火)

一心に帰命するをこそ

 仏法の聞き方は人それぞれではあるでしょうが、法然聖人や親鸞聖人が示してくださった信心というのは、自分自身で作り出した信心ではなく、阿弥陀さまからいただいた信心です。阿弥陀さまからいただいた信心は一つですから、法然聖人の信心も親鸞聖人の信心も同じです。正しく教えを聞いて、弥陀の本願をいただくことができたら、どんな人であってもみんな同じ信心なのです。

 「阿弥陀さまからいただく信心」というのは、現代日本の一般的な宗教常識からすれば、ほとんど理解されないことかもしれません。一般には、信心は、”神や仏に対してお願いする心”であったり、”加護や救済を信じて、神仏に祈ること”と理解されています。私が神仏に願い、祈る心であり、行為です。
 それに対して、阿弥陀さまからいただく信心というのは、阿弥陀さまの願いであり、阿弥陀さまのはたらきです。私の思いや行動がどんなものであろうと、いつでも、どこで、何をしていても、阿弥陀さまの慈悲によって願われ、阿弥陀さまの願いを成就するはたらきが私に向けられているということです。

  尽十方の無礙光仏
  一心に帰命するをこそ
天親論主のみことには
  願作仏心とのべたまへ
   (『高僧和讃』註釈版p.581)
十方の衆生に尽くしてもらさない、なにものにもさまたげられない光を放つ阿弥陀仏に向かって、心を一つにして阿弥陀さまの願いにしたがうのを、天親菩薩は願作仏心、つまり仏になりたいと願う心であると述べられた。

 阿弥陀さまの願いは、私に向けられています。その願いは、私の勝手な思いや望みを超えたもので、私にははかり知ることはできません。阿弥陀さまの願いとはたらきは、私の上では信心として成就します。阿弥陀さまの心は、「一心」ですから、それをいただく者も「一心」でなければなりません。またその信心を「一味の安心」とも言います。

 考えても理解できないことかもしれません。迷っているのですから。理解しなくても、阿弥陀さまのお心をいただくという体験をすればわかります。そんな体験をするためには、阿弥陀さまの願いとはたらきを聞く以外にはありません。
 阿弥陀さまの願いとはたらきを聞くという縁に触れることから、阿弥陀さまの心に少しずつ触れさせていただくのです。

 仏になりたい、浄土に生まれたいという願いは、私自身のなかからは出てくるはずはありません。また、この世の学びのなかからも出てきようがありません。私のなかには、またこの世の学びや論理には、救われる要素は何もないからです。

 阿弥陀さまの願いを聞くことしかありません。そして一口でも二口でも、念仏させていただくことではないでしょうか。

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2009年11月23日 (月)

罪障おもしとなげかざれ

 人間の持つ恐怖感にはいろいろありますが、闇のなかにいることもそのひとつでしょう。私が小さいとき、真っ暗闇の場所が、生活圏のなかでもたくさんありました。いまは、家のあかりがもれてきたり、街灯が整備されたりして、月夜でなくてもぼんやりと明るさがあります。しかしいまでは、若い人たちのなかに、真っ暗闇を知らない人がたくさんいるようです。
 心のなかはどうでしょう。暗闇はないですか?そんなことはあまり考えないのかもしれません。明るく楽しい毎日を過ごすことだけを考えて生きているのですから。それは、闇がないのではなく、闇のことは考えたくないからか、闇のなかにいることを打ち消したいという思いなのではないでしょうか。明るく楽しい生活をすごそうとするのは、そんな気持ちの裏返しではないのではないですか?

 阿弥陀さまは、わたしを「無明」とみてくださっています。無明も闇ではありますが、この世の楽しいこと、うれしいことで一時的に忘れることはあったとしても、それでははれることがないのが無明の闇なのです。ほんとうのことが見えないということです。真理に暗いということです。煩悩なのです。だから迷うのです。
 ところが、難儀なことに、自分自身が無明であることを私は自覚していない。ほんとうのことが見えていると思っているし、自分は正しい生き方をしていると思っている。知識を蓄え、経験を積み、社会的な認知を受けるほど、自分の思いが正しいものであることを確信してゆくのです。

 無明の反対は光明です。仏法を聞くということは、光明に照らされていることを知ることです。この世を明るく楽しく生きようと思って一生懸命がんばってきたけれど、そのことが無明をはらすことにはならないことを知らせてもらうことです。私が無明である知らせてもらうことです。煩悩いっぱいで生きることしかできないことを知らせてもらうのです。

  無明長夜の灯炬なり
  智眼くらしとかなしむな
  生死大海の船筏なり
  罪障おもしとなげかざれ
   (『正像末和讃』註釈版p.606)
阿弥陀さまの本願は、煩悩の長夜を照らすともしびである。智慧の眼が暗いと悲しむことはない。生死の大海を渡す船であり筏である。だから罪障が重いといって歎くことはない。

 自分ひとりで成長してきたように思い、自分の力であれもこれもできてきたと思いこんでいる。これからもいままでのように、あるいはそれ以上に良いことがあるように・・・・という思いが止まない。一般にはそんな生き方を“プラス思考”と言うのですが、仏法からみると「慢」であり「我執」なのです。この世を生きてゆくにはそれも必要です。そうしなければ生きていけないからこそ、生きてゆくことそのものが罪障なのです。

 この世で精一杯生きて、そして沈んでゆくのが煩悩具足の凡夫の姿です。だからこそ、阿弥陀さまの大慈大悲の願いがあるのです。

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2009年11月22日 (日)

総じてもって存知せざるなり

 念仏を称えたらどうなるのか? たとえば、座禅、写経、読経などは、マスコミなどで取り上げられますし、きれいに剃髪したキリッとしたお坊さんの座禅姿はなかなかカッコいいものです。また、少々の苦痛(?)に耐えたとか、実際にやってみたという満足感があるのでしょう。
 それに比べると、称名念仏というのは、いささか頼りなく思えてしまうのでしょう。「南無阿弥陀仏」と、たった漢字6文字ですから、数回称えたところで満足感があるわけではありません。

 しかし、念仏を称えるというのは、簡単なことのように思えますが、とても難しいことのようです。「念仏しましょう」と呼びかけても、なかなか念仏の声が聞こえてこない。
 他人のことではなく、それじゃ私がどれだけ念仏しているでしょう。念仏することは簡単ですから、いつでも、どこでもできるはずですが、なかなかできてはいません。ムダ口なら簡単に出てきます。うわさやグチなら、聞きたくないと言われるほど言い続けられます。おいしいものならたいへんなお金をかけたり手間をかけてでも、口を動かし楽しむのです。

 「ありがたくもない念仏を、人前で称えたらどれだけイヤな顔をされるか。称えたら、それなりのご利益があれば、称えないこともないけれど。称えてどんないいことがある?」という言う質問が来そうな気がします。
 「どんないいことがあるのかは、わからない」としか答えられません。少なくとも、私が日常生活のなかで期待しているようないいことなど、何もないでしょう。親鸞聖人は次のようにおっしゃっています。

  念仏は、まことに浄土に生るるたねにてや
  はんべらん、また地獄におつべき業にてや
  はんべるらん、総じてもつて存知せざるなり。
    (『歎異抄』註釈版p.832)
念仏は、ほんとうに浄土に生まれる因なのか、それとも地獄に堕ちる行いなのか、まったく私の知るところではない。

 親鸞聖人もわからないのです。しかし、この続きに次のようなことを述べておられます。

 他の行に励んで仏になれるなら、念仏して地獄に堕ちたら後悔するだろうけれど、私はどんな行もまともに修めることができない。どんなものでも必ず救うという阿弥陀さまの本願を説いてくださったお釈迦さま、それを受け継いだ善導大師の教えを師法然聖人に聞かせていただいた私が、念仏して地獄に堕ちても決して後悔はしない、と。

 すべてを阿弥陀さまにまかせておられるのです。阿弥陀さまのはたらきである念仏について、ご利益があるか無いか、善いか悪いか、などと品定めすること自体が、とんだ聞き違い、思い違いなのです。

 地獄に堕ちてゆくのは凡夫の必然。それを念仏によって救うとのいうのは阿弥陀さまのはたらき。何も力のないものが、阿弥陀さまのはたらきに対してどうなるのかというのは、あまりにもおこがましい話しではないですか。
 墜ちてゆくのが必然の凡夫ができることは、ただ阿弥陀さまの心を聞かせていただくしかありませんし、念仏させていただくことしかないのです。

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2009年11月21日 (土)

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 昨日、念仏することが大切だという、わたしの思いを書きました。わたしは書きながら念仏させてもらいました。

 読んでいただいたあなたはいかがだったでしょうか。ただ、淡々と読まれたでしょうか。引用した『浄土和讃』に、『歎異抄』に、『御文章』に書かれている言葉を確認されたでしょうか。それは違う、と反発されたでしょうか。なるほど、そうそう・・・・と納得されたでしょうか。
 それぞれの人の思いを持って読んでいただいて、いろんな思いを抱いていただいてありがたいことだと思います。

 でも、大切なことは、念仏させてもらうことです。昨日の最後のところに「浄土真宗の念仏は、決して修行ではない」と書きました。念仏を称えることで、何とかなりたい・・・・というのはいかがなものでしょう。阿弥陀さまからいただく念仏ですから。念仏をわが物にしてしまってはいけません。
 だからといって、自分の信心があいまいなままで称えたらダメだから、いまは称えないでおこう・・・・というような自己規制をかける必要もないと思います。それもまた、念仏をわが物にしてしまっているのではないでしょうか。

 きょうは、ここで念仏したい。

 もちろん、ここで念仏するだけではなく、いつでもどこでも、称名念仏できるなら声を出して、大きな声が出せないのなら小さな声で、ちょっと恥ずかしいと思うなら心のなかで、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・・・・」と称えてください。

 自分の声で称える念仏ですし、自分の意志で称えるように思う念仏ですが、阿弥陀さまのはたらきによって出てくる念仏です。

 念仏を称えてどうなる? どうにもならんよ! バカらしい。等々、否定的な思いをもたれる方もおられるかもしれません。そんな人も、自分の思いを横に置いて、あるいは自分の思いを抱えたままでも、念仏してみてはどうでしょう。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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2009年11月20日 (金)

称名念仏すべきものなり

 念仏の声は、年々小さくなり、聞こえなくなっているようです。仏前で合掌、礼拝することはあっても、参拝している人が大きな声で念仏することも次第になくなってしまっている気がします。そういうなかで、「みんなで大きな声でしっかりお念仏しましょう」と勧めるご住職もあまりみかけません。
 ご法話を聞くと、念仏することをすすめることはあっても、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・・・」と称名されないご講師も、少なからずおられます。
 一般の人たちも、仏教のなかで座禅や写経さらには読経したいと言われる方にはたくさん会ったことはありますが、念仏したいという人は聞いたことがありません。

 浄土真宗の教えの核心を、「信心正因 称名報恩」と表現します。真宗者といっても形だけで信心が定まっていないのでしょうか。それとも阿弥陀さまからいただいた信心に対する思いが出てこないのでしょうか。

  念仏成仏これ真宗
  萬行諸善これ仮門
  権実真仮をわかずして
  自然の浄土をえぞしらぬ
    (『浄土和讃』註釈版p.569)

  往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんと
  おもひたつこころのおこるとき、すなはち
  摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。
    (『歎異抄』註釈版p.831)

  他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、
  本願を信じ念仏を申さば仏に成る。
    (『歎異抄』註釈版p.839)

  ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは、
  称名念仏すべきものなり。
   (『御文章』註釈版p.1189)

 念仏を申すこと、称名念仏は浄土真宗の要です。真宗の伝統として、小さいときから念仏することが日常生活とともにありました。なぜ念仏するのかわからないけれど、お仏壇の前ではお念仏するのは当たり前のことでした。しかしそこにとどまらず、仏法聴聞をくり返し、南無阿弥陀仏のいわれを聞くなかで、念仏を称えずにはおれなくなってくる。教えられるから、言われるから仕方なしに、あるいは習慣の念仏ではなくなっていくのです。

 現代人がもっている念仏のイメージは、決して明るいものではないでしょう。だから口に念仏することに抵抗感がある人がいるのかもしれません。そのイメージが転換してのが念仏の本質です。教えを聞いても、口に念仏することができない聞き方しかできていないということであれば、その確認は、仏法聴聞のうえではとても大切なことでしょう。

 常に仏を思い続ける忘れないことすることも念仏(=憶念)です。また、仏さま以外のことに想いを寄せず、心を乱さずただ仏を想うことも念仏(=随念仏)です。心のなかで仏を思い浮かべることも念仏(=観想念仏)です。
 法然聖人、親鸞聖人が大切にされた念仏は「称名念仏」です。口に念仏を称えることです。決して観念的な念仏ではありません。

 蓮如上人は古歌より次のような歌を引用しておられます。これはまさに、称名念仏する人のことを歌っている歌でしょう。

  うれしさをむかしはそでにつつみけり
  こよひは身にもあまりぬるかな
    (『御文章』註釈版p.1084)

 浄土真宗の念仏は、決して修行ではないことを知るべきです。

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2009年11月19日 (木)

往生浄土の方便の善となり

 仏教の考え方というのは、私たちの日常生活とずいぶんかけ離れているところがあります。それは世間の価値観ではなく、仏さまの価値が最優先されるからです。
 かつて、世間の価値観というのは、その良し悪しは別としてそれぞれの時代に合った秩序のある定まったものでした。しかし、すさまじい早さで変化し混沌とした社会のなかで、基準になる価値観が失われ、定まっていません。「昔はよかった」「たいへんな世の中になった」「これからどうなるんだろう」などと、憂い、歎く方がたくさんおられます。

 しかし1300年以上前に、すでに聖徳太子は「世間虚仮 唯仏是真」と言われています。現代社会だから、価値観が多様化してきた現代の混乱があるというのではないことがわかります。無始以来今日に至るまで、ずーっと続いてきたことなのです。
 いま、「世間虚仮」という言葉を聞くとそれなりにうなづくのですが、だからといって世間の価値観から出ようなどと思う人はいません。世間から出る価値観など、現代人にはあることすら知らないのではないでしょうか。また、「唯仏是真」と聞くと、まったく納得がいかないということになるのかもしれません。仮に仏教に関心を持ち、仏法を聞く人でも、仏さまの価値も世間の価値観のひとつという具合にしか見えていないのでしょう。

  諸善万行ことごとく
  至心発願せるゆゑに
  往生浄土の方便の
  善とならぬはなかりけり
   (『浄土和讃』註釈版p.567)
阿弥陀さまの第十九番目の願に説かれているさまざまな善行や修行はすべて、阿弥陀さまが起こされた願いであり、凡夫を浄土に生まれさせる手だてとして、善とならないものはない。

 自分の力でやった善や行は、言わずとも自慢したくなります。それも、ほんとに善であるのか、正しい行であるのかは自分が決めているのです。目的は自分のためですから、第三者が認めてくれると満足感が高くなり、認めてくれなければ不満を募らせます。
 ここでいう諸善万行は、浄土に生まれることが目的なのです。しかしあくまでも「浄土往生の方便の善」です。つまり浄土に生まれる手段なのです。凡夫に真実を知らせるには一朝一夕にはいきません。あらゆる手段を使って、なんとかその真実を聞かせたい、知らせたい、さとらせたいという阿弥陀さまの工夫なのです。

 わが心にまかせて悪徳三昧をしているときは及びもつかないことなのに、フッと頭をよぎることがあります。何かいいことはできないか・・・・、などと。そんな心が私のなかに起こり善行したところで、浄土に生まれることができるわけではありません。
 しかしそれはひとつの縁です。阿弥陀さまが起こされた願いに呼び覚まされたのです。そのことを縁として真実信心に気づけよ、念仏せよとのご催促なのです。

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2009年11月18日 (水)

煩悩にまなこさへられても

 わたしがこの世を生きるために、自分のことを優先します。それはあたりまえのことのように思ってしまいますが、そのことによって、ほんとうのことをほんとうのこととして見ることができないのです。これが煩悩です。

 たとえば、わたしはおいしいものを食べたい、お腹いっぱい食べたいと思っています。そこでは魚も鳥も豚も牛も食材です。そのいのちに対して、痛みや自責の念をどれだけもっているでしょうか。
 「しかたがない。そうしなければ生きていけないのだから・・・・」「それならあなたは魚や牛の肉はたべないのですか」「言うことはわかるけど、現実離れした話し」等々、なかなか正面から受け止められないのです。もちろん、そのとおりではあります。食べなければ生きていけません。
 しかし、全世界で一日4万人、一年間で約1500万人の餓死者が出ているというのです。にもかかわらず、日本では大量の食糧を輸入していますが、そのうち3分の1(年間で2000万トン弱)が廃棄されているのです。あるいは、必要以上に食べ物を食べること大食い競うのをみて楽しんでいるのです。
 これが自分の欲を最大限に満たしてきた日本の現状です。わたしは他のいのちによって生かされているというところに、目が向いていません。餓死してゆく人へのまなざしなど、どこにもないのです。

 しかし、大量消費世界に生き、それを肯定し、楽しんでいるのは、わたし自身なのです。おいしい物をたべるのが大好きで、ついつい食べ過ぎて胃薬を飲んしまうわたしが、飽食社会を批判する資格はありません。欲と怒りと愚かさという煩悩でしか生きてはいないのです。

  煩悩にまなこさへられて
  摂取の光明みざれども
  大悲ものうきことなくて
  つねにわが身をてらすなり
   (『高僧和讃』註釈版p.595)
煩悩に真実を見る心の目がさえぎられてしまい、わたしを必ずおさめとってくださる阿弥陀さまの智慧の光明をみることができないけれど、阿弥陀さまの大きな慈悲は怠ることなく、わたしを捨てることなく、つねにわたしの身を照らしてくださっている。

 阿弥陀さまの悲しみや願いは、そんなわたしの生き方のなかにはかけらもありません。生きること、楽しむこと、思いを満たすことだけしかありません。阿弥陀さまからすれば、まったくあわれな姿です。
 摂取の光明に照らされているのに、まったくその光が見えない。つまり、阿弥陀さまの悲しみや願いは、浴びるように受けているのです。しかし真っ暗な闇のなかにいるのです。煩悩によってさえぎられているのです。流転輪廻しつづけるあいだ、ずーっと真っ暗闇のなかにいたのですからそのことがあたりまえになってしまっている。
 しかし、必ず真っ暗闇のなかにいることを知らされることがあるのです。それはあきらめることなく絶えることなく、常に照らされているからです。もちろん、こうしている今現在も照らされているのです。

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2009年11月17日 (火)

極難信の教えを聞く


  十方恒沙の諸仏は
  極難信ののりをとき
  五濁悪世のためにとて
  証誠護念せしめたり
  (『浄土和讃』註釈版p.751)
十方のガンジズ河の砂の数ほども数多くの仏たちは、信じることがきわめてむつかしい教えを説き、五濁悪世の衆生のために、念仏の法が真実であることを証明し、念仏信心する人を護ってくださる。

 十方は、東西南北の四方とその間の東南、南西、西北、北東の四方、それに上と下の方向を表します。諸仏は、どこか決まった場所におられるのではなく、どこにでもおられて、それぞれにはたらいておられるのです。それら諸仏たちは、智慧深く、修行もなさった方たちですから、凡夫が救われていくことがいかに難しいかということを知り尽くしておられます。
 その仏たちが説かれた教えをそのまま聞くというのは「極難信の法」なのです。

 釈尊在世時の仏教や東南アジア方面に伝播した上座部仏教などは、厳しい戒律を守ることでさとりの境地をめざします。日本の大乗仏教でも、比叡山における千日回峰行など、一般の日常生活とは次元の違う厳しい修行を行う教えがあります。信ずることも行ずることも難しい教えです。
 そんなことを考えると、念仏の教えは実に簡単で、安易にみられてしまいます。しかし、阿弥陀さまの智慧はあまりにも壮大で、私たちの思惟をはるかに超えてしまっています。凡夫が仏になるなどというのは簡単に信じられる教えではありません。迷い続けている凡夫が、さとりの境地がわかるはずもありません。手のほどこしようがないのです。
 ですから、阿弥陀さまは、そのとても難しい教えを、徹底的にエッセンスを絞り込んでそれを「南無阿弥陀仏」の名号(=念仏)にして、わたしに与えてくださっているのです。
 必ず救うという阿弥陀さまの願いを信じ、阿弥陀さまからいただいた念仏を称えるさせていただくのです。この易き教えを私たちに示すために、阿弥陀さまは限りない時間をかけて修行してくださったのです。

 親鸞聖人は「誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて」(『歎異抄』第11章 註釈版p.838)と述べられています。念仏は、たもちやすく称えやすく仕上がっているのです。座禅や写経など、何かすれば利益があると言われたらそれなりに安心できるのですが、ただ念仏をいただき称えるだけで救われるというのは容易に受け取ることができない、なかなか信じることができません。
 しかし阿弥陀さまの示された功徳は、十方恒沙の諸仏によって証明されています。信じることがとても難しい教えは、たもちやすく称えやすい念仏に集約されているのです。

 その念仏が、私の口からなかなか出ないのは、自力と疑情に満ちているからです。「極難信」は教えの難しさにあるのではなく、私の頑なな我執にあるのです。

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2009年11月16日 (月)

誓願不思議をうたがひて

 阿弥陀さまは、すべての衆生を、煩悩熾盛の凡夫を救ってくださいます。つまり、どんな人でも救われるのです。どんな人でもというのは、わたしのことであることを知らねばなりません。
 そのために、阿弥陀さまはわたしを救うという誓願を立て、長い長い間のご修行をされたのです。さらに長い長い間、このわたしを待っていてくださったのです。ということは、その長い長い間、わたしは阿弥陀さまを疑い、背を向けてきたということです。

 阿弥陀さまのお徳を讃えさせていただくということは、わたしは阿弥陀さまの威徳広大な力に匹敵するほど阿弥陀さまを疑ってきたことへの慚愧の念と、裏表にあるということなのです。わたしが仏智を疑うことがなければ、阿弥陀さまがわたしを待ってくださる必要などなかったのですから。
 それを、「一切衆生は救われます」「阿弥陀さまのお徳を讃えましょう」というだけで済ませてしまうことは、あまりにも申し訳ないという思いがあるのです。それがしょせん煩悩でしかないと言われたとしても。

  誓願不思議をうたがひて
  御名を称する往生は
  宮殿のうちに五百歳
  むなしくすぐとぞときたまふ
   (『浄土和讃』註釈版)
阿弥陀如来の不思議な誓願を疑って、自力の念仏を称えて浄土に往生しようとするものは、疑城胎宮という化土に生まれ、五百年の間むなしく過ぎてゆき、三宝(仏・法・僧)をみることもできないと説かれている。

 不思議とは人間の認識や理解を越えていることです。ですから阿弥陀さまの誓願を理解することなど不可能なのです。疑うのは当たりまえですし、当然信じることもできないのです。そうなると頼るものは自分の力しかありません。がんばればなんとかなると思うし、がんばるのです。しかし問題は、そのがんばりが末通ったものではない、いつまでもつづくわけではないということです。この自分の力が、それよりなによりこの自分自身に限界があるのですから。
 社会的に頼るものは何もない、ただ自分しか頼ることのできない時代を生きた人たちはそのことをよく知っていたのです。
 それゆえ、人びとは一人の人間として、いのちをかけて救われていく道を求めたのです。そして求めた結果、阿弥陀さまの誓願に出遇ったのでした。

 いま、わたしは豊かな日本社会で、いっぱい文句を言いながらも整備された社会システムのなかで生きることができています。自分がだれよりも偉くて、阿弥陀さまに頭がさがらない。格好だけ、形だけ、うわべだけの念仏があたりまえ。まだまだなんとかなると、自分の力を頼りに生きています。まだ自分の力が頼りでもあります。でもどこかで、わが心、穏やかならず、・・・・。
 仏智に出遇うことができたからこそ、そんなわが姿をみせてもらうのです。そんな自分にハッと気づかせてもらって、また念仏させてもらうのです。

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2009年11月15日 (日)

われも六字のうちにこそ住め

 お墓に納骨をされるとき、40歳前後と思われる女性が「さよなら」と小さい声でつぶやかれました。たぶん、納める遺骨はお父さまのものだったと思われます。その女性にとっては、長い間、お父さまとともに生活され、火葬してお骨となってもしばらく家の中で側におられた。いよいよ納骨されるお父さまへの思慕の情が、フッと言葉になって出てきたのでしょう。お父さまとの関係もよかった、とても心のやさしい娘さんなんでしょう。

 また、墓前に、生前愛用されていたタバコや、好物だったお酒や饅頭などを供える方たちがおられます。あたかもまだ生きているかのように振る舞われ、墓石に声をかけられる人も少なくはありません。そういう人の心の中には、まだ亡くなられた人は生きているのでしょう。

 死はこの世の別れです。葬儀は遺体との別れです。納骨は遺骨との別れです。次々と姿を変えてゆく姿に執着し、変わった姿との別れを悲しむのです。「恩愛はなはだたちがたく」(『高僧和讃』註釈版p.580)というのは、時代が移り変わり社会が違っても、共通した人間の思いなのです。
 葬儀や納骨はこの世での別れの儀式です。別れることなど考えもしなかったし、別れることなどとてもできないほどの恩愛をいだいている人と、別れを決断するためにあるのです。

 しかし仏法を聞くと、念仏する者には死は別れではありません。念仏する人は、ともに阿弥陀さまの願いのなかに生きることができるのです。「さよなら」といわなくても、いつでも念仏を通して会うことができます。亡くなった人が生前好きであったものをお供えしなくても、共に念仏をよろこびあえるのです。

 蓮如上人が、涙して別れを惜しむ念仏者の老婆に対して、次のような歌を残されたという話しが残っています。
  こいしくば 南無阿弥陀仏を とのうべし
  われも六字の うちにこそ住め

 念仏によるつながりは、念仏してきた先祖代々、阿弥陀さまに願われてきた一切衆生とつながっているのです。念仏を通して、阿弥陀さまの願いのもとでつながっているのです。
 
 『阿弥陀経』のなかに、「俱会一処」という言葉があります。ともに一つの処(=浄土)で会おう、というのです。しかし浄土に生まれることができるのは、念仏をする者です。厳しいことを言うようですが、亡くなったらすべての人が浄土に生まれるのではありません。阿弥陀さまに浄土に生まれることを願われ続けているにもかかわらず、無視したり疑い続けている者は、辺地や化土に生まれることはあっても、浄土に生まれることはないのです。

 お墓の竿石には「南無阿弥陀仏」と刻みます。南無阿弥陀仏に手を合わすのです。お墓では、納められている遺骨を拝むのでも、石を拝むのでもないのです。
 楽しいときも悲しいときも、幸せなときも不幸だと感じているときも、いつでもどこでも、念仏を称えさせていただくことを中心に日暮らしをさせてもらうことで、阿弥陀さまとともに活かさせてもらうのです。

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2009年11月14日 (土)

智慧の念仏に気づけない凡夫

 人は、自分を他人に認めてもらいたいと思っています。ありのままの自分を認めてもらえれば、一番いいのですが、そうでないときには認めてもらうためにひと工夫します。人の手柄をわがものにして、認めてもらおうとしたりもします。他人に認めてもらえないことにより精神的な不安定さにつながる事例は、数多く聞きます。
 しかし、だれも自分を認めてくれない・・・と思っているだけで、何人もの人に存在も、人格も、役割も認められているのです。思った以上に、自分のことをよく見てくれているのです。人間関係を結ぶのは不得意であっても、だれもがよりよき人間関係を結びたいと思って生きているのですから。
 そしてだれよりも、阿弥陀さまはわたしのことを、わたしそのままをしっかりと受け止め、認めてくださっています。わたしが気づかないだけです。

 仏法を聞くということは、阿弥陀さまを信じることです。阿弥陀さまがわたしを受け止め、そのままを認めてくださっていることに気づくことでもあります。仏法を聞くということは、念仏を称える身とさせていただくことです。仏法を聞くということは、阿弥陀さまの救いを疑うことがなくなるということです。これらのことは、みんな同じことなのです。
 しかしこれらのことは、わたしががんばったからといって、容易に成就することではありません。阿弥陀さまから回向されて成就することです。回向とは阿弥陀さまから振り向けられるということです。

  智慧の念仏うることは
  法蔵願力のなせるなり
  信心の智慧なかりせば
  いかでか涅槃をさとらまし
   (『正像末和讃』註釈版p.606)
智慧の念仏をえられるのは、法蔵菩薩の願力によるものである。信心の智慧がなかったなら、どうして涅槃のさとりを得ることができようか。

 阿弥陀さまは、阿弥陀さまになられる前の名前は法蔵菩薩です。その法蔵菩薩のとき、菩提心を起こし、長い長い間の思案の末、一切衆生を救わんがために四十八の願を立てられました。長いご修行ののち、その願が成就して阿弥陀仏(=無量寿仏)になられたのです。一切衆生とはこのわたしのことです。わたしを救うために願をたて、どんなことがあっても仏にしたいと誓ってくださったのです。
 願われた、誓われたというだけではありません。それを成就させるために、はたらいてきてくださったし、そして今も智慧の念仏となってわたしのなかではたらいてくださっているのです。そのことに私が気づかないだけなのです。

 仏教のさとりの境地が涅槃です。それは無明が晴れた世界でもあります。同時に慈悲となってはたらく世界でもあるのです。これらのはたらきはすべて阿弥陀さまの智慧によって完成することなのです。わたしができることは、その阿弥陀さまのお心をしっかりと聞かせていただくことしかありません。

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2009年11月13日 (金)

浄土の阿弥陀如来がいまここに

 この世で、“これが浄土だ”という具体的なものを見た人は誰もいないでしょう。たとえば京都・宇治の平等院のように仮想浄土をこの世に造ろうとした試みはあったでしょうが、決して浄土ができたわけではありません。今でも文化財として残っていますが、その維持管理にいろんな面でたいへんな苦しみがあるようです。
 現代でも、「楽園」と名の付く娯楽施設はあっても、ほんの一時は楽しみを与えてくれるだけで、きっちり代償を負担しなければなりません。この娑婆世界に浄土があるはずはありません。たとえ空想であったとしても、私たちの頭で考えられるような浄土程度では、たいしたことはないのです。

  宝林・宝樹微妙音 自然清和の伎楽にて
  哀婉雅亮すぐれたり 清浄楽を帰命せよ

  七宝樹林くににみつ 光耀たがひにかがやけり
  華・菓・枝・葉またおなじ 本願功徳聚を帰命せよ

  清風宝樹をふくときは いつつの音声いだしつつ
  宮商和して自然なり 清浄薫を礼すべし
   (以上三首『浄土和讃』註釈版p.563)

 この三首は、阿弥陀さまのおられる浄土の景色を詠っています。一首めは宝林・宝樹からすぐれた音楽がひびきわたり、二首めはかがやく光明がみち、三首めは清風によって音楽がかなでられることを讃じています。この音と光は阿弥陀如来であり、その阿弥陀如来に対して帰依し、敬礼(きょうらい)すべき、せずにはおれないと述べられています。
 この三首の和讃の意訳は省略しますが、語調からだけでも、気品のある、とても美しい和讃だと響いてきます。

 浄土では、反目も、争いも、いがみ合うこともない穏やかで、心豊かな世界です。冒頭にも書いたように、この世に浄土を具現させるというのはありえないことですが、地獄・餓鬼・畜生という世界の出現を望むものではありません。実現不可能であったとしても、ほんの少しでも浄土に近づける世界ができることにこしたことはありません。それぞれに違った性格、思い、考え、生き方などを有した人たちが、お互い和することがあたりまえになるような世界になることを望まずにはおれません。
 少なくとも、生きている限り、浄土として示された世界をめざして生きるのだという方向性だけでも頭のなかに置きながら生きることが必要な気がします。

 心地よい音楽を聴いたり、きれいな景色をみたりすると心がなごみ、おだやかな気持ちになることができます。荒れていた心も静かさを取り戻すことができます。そんなとき、音楽が好きになったり、きれいな景色が心に残り、“いいなぁ・・・”と思います。
 そんな状況を浄土の世界に移して考えると、その“いいなぁ・・・”の根源のところに自然と帰命し、敬礼するのでしょう。合掌し、念仏するのでしょう。

 この世で音楽を聴いたり、きれいな景色をみて気持ちよくなっても、合掌して念仏することはありません。ましてや日常生活の雑事や人間関係のなかでそんなことがあろうはずはありません。それが私の凡夫の生活なのです。

 しかし仏法に出遇った者は、いつでもどこでも念仏させていただくことができます。日常生活の雑事のなかでの愚かな生き方をしていても、人間関係で相和することができなくても、念仏させていただけるのです。
 そこは、娑婆世界でありながら、またわたしの心が地獄や餓鬼の世界のような状況になっていたとしても、念仏し、合掌させていただくことができるのです。浄土の阿弥陀さまが、ここにきてはたらいてくださっているのです。

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2009年11月12日 (木)

念仏の衆生をみそなはし

 現代の人たちは「仏さま」のことをよくご存じないようです。それは、仏さまのことにはあまり関心もないし、必要もないと思っておられるからでしょう。しかし、困ったことがあったら回避したり、良いことがあるようにと、神様と同じように仏さまにも願う人がいます。でも、それらは感覚的で、漠然としていてよくわからない。思うがままに、また不安解消や割り切れないものを納得させるための手段として、そのときの気分や状況に応じて利用しているのではないでしょうか。

 健康で、身体が動き、頭もよくはたらいて、いろんな妨げがあってもほぼ思い通りにことが運んでいる人にとっては、仏さまなど必要ないでしょう。自分で何でもできるのですから。困難なことも、努力することに生きがいを感じたりもするのです。
 しかし「思い通りにいかない」「あの人と比べるとどうして私はこんなに惨めなの」「人生って、どうしてこんなに苦しいの」「何のために生きているのかしら」「私が死んだらどうなるの」等々、行き詰まりがやってきます。そんなことを考えるのは“弱い人”だと思われるのでしょうか?そんなことを思うのは“人生の敗者”だと思われるでしょうか?
 わたしはみんなが心の奥底に抱えているとても切実な問題であり、覆い隠そうとすることはとても不自然なことのような気がします。

 仏教は仏さまの教えです。「仏」は真理を悟った者、目覚めた者という意味です。真に目覚めた者の教えを聞かないで、どうして目覚めることができるでしょう。一切の苦を抜き、迷わないためには、わたしがどのように思い、どのように生きるかと自分で考えても容易に答えはでてきません。わたしは仏さまの話しを聞くしかありません。
 自分探しをしても、なかなかほんとうの自分をみつけることはできないのですから。生き方を探ってみても、どのように生きることが幸せなのかがわからないのですから。

 仏教は、真実に生きることができないわたしに真実を示してくださっているのです。「私」が絶対である、間違いはないというところに立っている限り、仏さまを感じることも見ることもできません。
 「私」を中心にして生きている限り仏さまとは無縁です。「私」を中心にして生きているということを自覚するためには、仏さまと出遇うことでしかわからないのです。

  十方微塵世界の
  念仏の衆生をみそなはし
  摂取してすてざれば
  阿弥陀となづけたてまつる
   (『浄土和讃』註釈版p.571)
十方にわたって細かい塵の数ほどもある世界の念仏する人たちをご覧になって、すべてをおさめ迎えとって決して捨てないと誓われたから、この仏さまを阿弥陀如来と申し上げるのである。

 私たちがもっとも簡単に仏さまとであう方法は、念仏させていただくことなのです。

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2009年11月11日 (水)

阿弥陀さまからの一期一会

 この世を生きるためには、食べること、寝ることのほかに、炊事や掃除をしたり、仕事をしたり、人間関係を結んだり・・・・と、するべきことがたくさんあります。しかし仏法を聞いたり讃談するということを、そのなかに入れる人はそう多くはありません。必要なことだと考えている人でも、世のなかにある楽しみのなかに埋没してしまいますし、複数の用件が入ったときには優先順位が低くなってしまいます。

 「一期一会」という言葉があります。仏教の影響を受けている言葉とも思われますが、茶道の心得で、いまこうして出会っている時間は二度と巡ってこない一度きりのものであるから、この一瞬を大切にして最高のもてなしを心がけることを諭しているというのです。
 人でも、できごとでも、一期一会の出遇いができたら、どれだけ充実した人生が送ることができるでしょう。

  如来の興世にあひがたく
  諸仏の経道ききがたし
  菩薩の勝法きくことも
  無量劫にもまれらなり
   (『浄土和讃』註釈版p.568)
釈迦如来がこの世に出られることは難しいことである。諸仏が説かれた教えを聞くことも難しいことである。菩薩のすぐれた法を聞くこともはかりしれない長い時間のなかでもまれなことである。

 どんな人でも、必ず仏法との出遇いのきっかけはあるはずです。そのことを本人が自覚していないかもしれませんが、どのような境涯に生まれようとあるに違いありません。その時の縁によるのかもしれません。人知でははかり知れないところです。

 お釈迦さまがこの世にお出ましになったのも、わたしがこの世に人間として生を受け、そしてたまたま仏法に遇って、諸仏諸菩薩の教えを聞くご縁をいただいたというのは、いかなるご縁のたまものでしょうか。とてもおよびもつかないことです。
 そのようなことを思えば思うほど、これまで仏法に対していかにいい加減な対応をし、いかにいい加減な聞き方をしてきたかを恥じずにはおれません。だからといって、心をすっかり入れ替えて、仏道に精進するというほどの意気込みにはなれませんので、いい加減だという心もずさんなものなのです。

 言葉は知っていても、一期一会の対応ができたと自信を持って言える仏縁はありません。それなりに真剣な心もちで臨んでも、どこか抜けてるし、気持ちの緊張は長続きせず散漫になってしまいます。
南無阿弥陀仏と口にさせていただく身にさせていただいていることは、一期一会と阿弥陀さまが向き合ってくださったからこそです。逃げまくりながらも、いま、称名念仏させていただいています。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、・・・・

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2009年11月10日 (火)

無明の闇を破するゆえ

 阿弥陀さまは私たちを「無明」だと示されています。人生のさまざまな事柄に無知だというのです。ほんとうのことがわからないのです。ほんとうのことがわからないというのは迷いの根源です。何よりも、本願を疑い、仏智を信じることができないことこそが無明なのです。

 そのように示される阿弥陀さまの智慧を象徴するものが光明です。阿弥陀如来の光明は、過去・現在・未来の三世を通して、すべての世界を、また一切衆生を照らしています。その光明は、阿弥陀さまの徳です。
 経典のなかではその光明を十二の光に分けてその徳を讃えています。無量光・無辺光・無礙光・無対光・焔王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光です。そのなかの智慧光を、親鸞聖人は次のように讃えておられます。

  無明の闇を破するゆゑ
  智慧光仏となづけたり
  一切諸仏・三乗衆
  ともに嘆誉したまへり
   (『浄土和讃』 註釈版p.558)
阿弥陀仏の光明は、衆生の疑いを破って信心の智慧を起こさせてくださるから智慧光仏と名づけられる。すべての仏たちや声聞・縁覚・菩薩の三乗も、ともどもに阿弥陀仏をほめ讃えないものはない。

 夜道を歩くのに、月あかりを頼りにしていた時代がありました。提灯の発明は画期的だったと思われます。少々の雨の日や真っ暗闇のなかを歩けるようになったのですから。懐中電灯が出回り、その性能が高まるほどに提灯を使う人はいなくなりました。さらに明るくて広い場所を照らす街灯が整備されたところでは、懐中電灯さえも使わなくなります。
 しかし夜が明けると懐中電灯も街灯も必要なくなります。太陽が出ると街中の電飾看板やネオンサインはその効力を失ってしまいます。

 私たちは“明るさ”を求めて生きています。私たちの求める明るさとは、老いないこと、病まないこと、死なないことも含めて、自分の思いどおりになることです。良い日を選び、思ったとおりことが成就するようにと祈るのです。せめて良い占い結果に安心しようとしているのです。
 しかしそれらのことが迷いであると気づかないことが、「無明」の人生を歩んでいるというあかしです。
わたしは暗い人生はイヤ、と思っても心の底まで晴れわたっていますか。人生のなかで一時は輝いたようにみえても、すべてまぼろしだった・・・・ということはないでしょうか。思い通りにならないのが人生です。

 その迷い、苦しみのもとである無明を破ってくださるだけではなく、阿弥陀さまの智慧をいただくのです。ほんとうのことをわからせてもらうのです。それは迷い苦しむわたしの姿を知らせてもらうのです。この世でいかに頼りにならないものやことを頼りにしていたかということです。智慧の光に照らされてそのことが初めてわかるのです。

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2009年11月 9日 (月)

信心すなわち一心なり

 私たちは毎日、多くの人と顔を合わせ、たくさんの言葉を聞きます。あまり人と出会わない日も、ラジオやテレビから声が聞こえます。ところが、人と顔を合わせていても見える人と見えない人がいますし、言葉を聞きても頭のなかに入る言葉とそうでない言葉があります。同じように仏さまの話を聞く機会に遇っても、聞けるときと聞けないときがあります。
 人の話でも仏さまの話を聞いても、私の気分や心の状態によって、自分のなかに入ってくるか否かが決まるのです。また、聞こえてきても、それをどのように感じることができるかも、気分や心の状態によって違います。

  信心すなはち一心なり
  一心すなはち金剛心
  金剛心は菩提心
  この心すなはち他力なり
   (『高僧和讃』 註釈版p.581)
他力の信心は一心であり、一心というのは揺らぐことのない堅固な金剛心である。金剛心は仏のさとりに至り、仏の智慧を得ようとする心である。この心が阿弥陀仏のはたらきである。

 あれもこれもと多くの神や仏を信じるのが正しい信心ではありません。それは、何が本物なのかわからないから迷っているのです。一つに絞りきれないのです。だからといって、どれか一つだけに絞ってみても、それが本物であるとは言えません。阿弥陀さまと出遇うこと、念仏の心をいただくことによって、はじめてわたしの心が阿弥陀さまの心に焦点が合い、一つになるのです。
 
 わたしの心で仏法を聞くから、気分によって阿弥陀さまの願いが聞けないのです。気分によってありがたくなったり、うれしくなったりしますが、どうでもよくなったり、信じられなくなったりするのです。
 信心は阿弥陀さまからいただいたから一心なのです。あの人の心も、この人の心も、みんな一心をいただくから一味の信心となるのです。気分や心の状態で変わることもないのです。その心は壊れることはありません。阿弥陀さまからいただいた心なのですから。きまぐれなわたしの心ではないのです。
 菩提心の「菩提」は、迷いを離れたさとりの智慧です。そんな心がわたしにそなわっているはずはありません。そなわるも何も、そういう心とは正反対の思いと生き方をしているのですから。その心は、阿弥陀さまからいただかなければ起こる心ではありません。いただいていても、その心には気づきません。その心に背いて毎日を過ごしているのですから。仏法を聞かせていただいて、はじめて気がつくのです。いただいた心であることが。

 仏法談義のなかで、他力か否か・・・・という話しがよく出てきます。他力は阿弥陀さまからいただくのです。それに気づかせていただくのは、南無阿弥陀仏を称える身とさせていただいたときです。他力自力を間違わないようにすることは聴聞する上でもとても大切なことですが、一歩間違うと、他力までをも自力にしかねません。
 信心は阿弥陀さまの心で、それを阿弥陀さまからいただくから他力であることは言うまでもありません。

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2009年11月 8日 (日)

不如実修行の身なればこそ

 人に何かを教えようとするのに、教えられたとおりにしか教えることはできません。しばらく経験を積むと、自分が学んできたことが加わって教える方法やその内容に幅が出てきます。それでも、経験していないことや学んでいないことは教えることができません。
 仏法についても同じです。阿弥陀如来の教えのとおりに仏法を修することしかありません。どれだけ勉強しても、経験しても、念仏の教えを出発点にしない限り、阿弥陀如来のもと(浄土)に生まれることはできません。

 阿弥陀如来より賜った真実の行を「如実修行」と言います。如実は真実という意味であり、如実修行は南無阿弥陀仏を称えることです。称名念仏こそ如実修行なのです。
 それに対して「不如実修行」があります。真実でない修行、自分勝手な修行です。親鸞聖人は不如実修行について、「をしえのごとくならずといふこころなり(教えの如くならずという心なり)」と解釈を加えておられます。

  不如実修行といへること
  鸞師釈してのたまはく
  一者信心あつからず
  若存若亡するゆゑに
    (『高僧和讃』 註釈版p.586)
不如実修行ということを曇鸞和尚は次のように解釈された。ひとつには、あるときは往生すると思い、あるときは往生できないと疑う、半信半疑の状態であるから信心があつくない。

  二者信心一ならず
  決定なきゆゑなれば
  三者信心相続せず
  余念間故とのべたまふ
    (『高僧和讃』 註釈版p.586)
ふたつには、阿弥陀一仏を信じないで、ほかの仏や菩薩に心をかけて、阿弥陀一仏をたのむという決定心がない。三つには、信心が相続せず疑いがまじるからだと述べられている。

 これは中国の曇鸞和尚を讃えた34首のなかの和讃で、この二首が続けて記されています。曇鸞大師は、不如実修行というのを三つ挙げておられるというのです。一つは念仏の教えに対して半信半疑(若存若亡)であるというのです。信心は形を整えることではありません。また、“わたしは阿弥陀さまを信じている”と自分に言い聞かせなければならないのも、信心があついとは言えないでしょう。自分の信心がこれでいいのか・・・・と不安になるのも同じことです。どれもこれも自分でつくりあげ、握りしめているのです。阿弥陀さまにすべてをまかせていないから、心配になるのです。

 二つには阿弥陀さまにすべてをまかせることができず、他の仏さまへの信心を起こすことです。必ず救うという阿弥陀さまにすべてをまかすことができれば、他の仏さまに頼る必要がなくなるのです。「決定(けつじょう)」というのは、阿弥陀さましかないと信心が決まることです。心が一つに定まることです。決まる、定まるというのは、わたしの意志ではありません。南無阿弥陀仏の力で決まるのです。定まるのです。

 そして三つには、信心が相続しない(持続しない)ということです。信心は一時の感情ではありません。一日の生活のなかでいつも念仏することはできません。仏法のことなどすっかり忘れて世間の雑事に心を奪われて一日が終わることもあります。そんな時でも、阿弥陀さまは決してわたしを忘れることはありません。また、わたしのいただいた念仏は、阿弥陀さまからいただいたのです。わたしの思いがどこにあろうと、わたしのなかではたらいてくださっているのです。
 ほんとうに信心が相続しないということになると、それは「余念間故」だからなのです。自力の疑心にまどわされ、雑念がおこるということです。

 不如実修行というのは、いずれも「我執」ゆえの迷いです。なかなか仏法が聞けなくて、ああでもない、こうでもない・・・・との迷いは、結局、わたしの思いでしかないのです。そこで思い直したところで、人や組織など世間の力に頼ろうとするのです。そんなところに何もない。迷いを深めるだけです。
 阿弥陀さまが真実のものとしてわたしに示してくださっているのは、念仏だけです。如実修行は、南無阿弥陀仏と称えさせていただくことしかないのです。不如実修行しかできないわたしにもできるように仕上げてくださっているのです。

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2009年11月 7日 (土)

利他の信楽を得る

 一般的にいわれる「信心」は、神仏による加護や救済を信じて神仏を祈る心をいうようです。この場合の加護や救済というのは私の思いから出てきたものです。家内安全、商売繁盛、学業成就、等々、この世において叶えたいことが次から次へと出てきます。しかし、それらが成就するようにと祈ったところで思うようにはいきません。
 この世で叶えたい事柄の中心にいるのは、いつもわたし自身です。“わたしはいいから、他の人がどうぞ・・・・”というような殊勝なことはありません。もし、わたしを差し置いて、他の人が望みが叶ったり幸せになったら、恨みがつのります。表情にださなくても、言葉にしなくても、心の中ではそねみねたみだけが満ちるのです。そこにとどまらず怒りに燃えることさえあります。

  利他の信楽うるひとは
  願に相応するゆゑに
  教と仏語にしたがへば
  外の雑縁さらになし
   (『高僧和讃』 註釈版p.592)

阿弥陀さまからいただく他力の信心をえた人は、阿弥陀如来の本願の趣旨にもかなっている。釈尊の教えと諸仏の言葉に従えば、念仏の信心以外のさまざまなさまたげに惑わされることはない。

 「外の雑縁」というのは、外からのさまざまなさまたげです。何よりもまず自分の煩悩であり、自身のはからいです。それがないという状態にするためには、経典に示されている釈尊や諸仏の言葉に従うことだと示されています。つまり、ものを見る視点や考えの基準を「自分」から「阿弥陀さま」に置き換えることなのです。

 置き換えることと言ってみたものの、人間である限りいつまでたっても自分中心の視点や考えを捨てることなどできるはずはありません。「自利利他」という言葉がありますが、必ずといってよいほど、「利他」よりも「自利」が優先します。「利他」は「自利」のみを隠す隠れ蓑のような使われ方をすることもあります。わたしには、自分のことを横に置いて「利他」なんてあり得ないことです。
「利他の信楽(=他力の信心)」は阿弥陀さまの心です。阿弥陀さまの願いです。そこにはわたしの利己的な願いなどはまったくありません。同時に、阿弥陀さまのはたらきでもあります。阿弥陀さまのはたらきによって、わたしは阿弥陀さまの心をいただくことができるのです。そして南無阿弥陀仏と念仏させてもらうことにより、阿弥陀さまがわたしのなかではたらいてくださるのです。

 この世は、わたしが中心にあるのではありません。簡単には見通せることのできない広大な世界のごくごく一部のわたしでしかありません。そんな存在のわたしが、強く自己を主張しても思い通りになるはずはありません。
 時間と空間の枠を超えた阿弥陀さまの願いにまかせたとき、「利他の信楽」をわが身に得ることができるのです。そのとき、真の意味で自由になれることができるのです。

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2009年11月 6日 (金)

百重千重に護られて

 この世に生きている限り、だれもが幸せを求めて生きています。幸せというのは、精神的に満ち足りているというそれぞれの人の心の問題ですから、どうなることが、何が幸せなのかということは百人百様です。また、それぞれの人のなかで、“これが決定的な幸せだ”というものが存在するわけではありません。

 たとえば、生きるために必要な衣食住を満たすための物が十分にあれば、それは幸せでしょう。でも、いつも満たされた状態にあるとそれがあたりまえのこととなり、幸せだと感じることは薄くなります。量的に満たされたら、同じ食べるならよりおいしいものを、デザイン性の優れたものを、より使いやすいものを、・・・・と質的に満たされることを求めます。衣食住が量的にも質的にも満たされたら、それ以外の領域で五感を楽しませることを求めるようになります。

 お釈迦様は、ヒマラヤ山に積もる雪をすべて黄金に変えて人に与えたとしても満ち足りることはない、と言っています。まさに人間の幸せ(=精神的な満足)というものは底なしであるということです。

 どこまでも求め続ける幸せを、社会的な仕組みとして複雑に機能させているのが、現代社会です。現代社会では、経済的にも技術的にも、その時々に考えられる幸せの極限状況を目指していますから、どこかで歪みを生みます。生まれた歪みの原因を探ろうとしても、社会の仕組みがあまりにも複雑になってしまっているために、特定できませんから次の手が打てないのです。
 その状況は個人の上にも、人間関係の歪みや、身体的疾患、精神的疾患などという形で現れます。問題は、それらの原因が容易に特定できない、原因不明という例が数多くあることです。
 この世のつながりあいの関係は、とても複雑です。うまく機能していた自然なつながりに、人間がさまざまに手を加えるほどに、自然なつながりに不都合ができたり、人やモノやコトとの関係に不信感や不安感を生じさせているようになっているのではないでしょうか。
 
  南無阿弥陀仏をとなふれば
  十方無量の諸仏は
  百重千重囲繞して
  よろこびまもりたまふなり
   (『浄土和讃』 註釈版p.576)

南無阿弥陀仏を称える人を、あらゆる場所におられる数多くの諸仏たちが百重にも千重にも取り囲んで、よろこんで護ってくださる。

 わたしは自分自身のことをほんとに欲深い人間だと思います。十分幸せを感じているときも、もっともっと欲しい欲しいと思って生きています。でも、手に入らないから不満たらたら。人間関係にもつまづき、社会への不満もいっぱいあります。でも、どうすることもできず、ただおろおろ、もやもや。
 そんなときは、シンプルに念仏させてもらいます。何がほしいとか、どうなりたいとかいうことを超えて、念仏によって生かさせていただいていることを感じるのです。
 諸仏が幾重にも取り囲んで護ってくださっている、というような実感はまるでありませんが、阿弥陀さまからいただいた念仏ですから、きっとそうなんでしょう。狭いわたしの心を念仏がなぐさめてくださるとともに、恥じずにはおれない自分を感じるのです。

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2009年11月 5日 (木)

流転輪廻は疑情ゆえ

 仏法に一番近いと思われるお寺の本堂でも念仏の声が小さく、少なくなってしまっています。なのに、善知識という人がいるの?そんなことを思う人がおられるでしょう。どこで仏法の話しを聞くことができますか、という質問を何度か受けたこともあります。それほどまでに、現代社会においては仏法が縁遠くなってしまっているのでしょうか。
 人間に生まれ生きる意味を仏教に求めている人は少なくないと思われますが、仏教ブームに乗って出される出版物に、そこまで迫る内容のものはそう多くないような気がします。仏教入門の知識をどれだけていねいに解説しても、知識の蓄積はできても、救済にはなりません。
 しかし、現代社会においても念仏の教えに信順し、日常生活のなかで念仏を称えておられる方がいます。その人は善知識に遇っておられるのです。

  真の知識にあうことは
  かたきがなかになおかたし
  流転輪廻のきはなきは
  疑情のさわりにしくぞなき
   (『高僧和讃』 註釈版p.597)

真実の道を直接教えてくださる真の善き師に出遇うことは、難しいことのなかでもこれほど難しいことはない。煩悩を起こしては苦しみまた煩悩を起こして苦しむという迷いを繰り返して、六道輪廻することから離れられない。それは、阿弥陀さまの願いを疑う心そのものである。

 この和讃は、法然聖人を讃えられたもののうちの一首です。「真の知識」は法然聖人のことでしょう。師法然聖人と遇えたことの不思議をしみじみと味わわれたのではないでしょうか。親鸞聖人が法然聖人との出遇いがなければ、私たちも念仏の教えを聞くことができなかった・・・・ということになっていたかもしれません。
 もし教えを聞くことができなかったら、輪廻をくり返すということです。正しく導いてくれる人がいないのですから、疑いの心をひるがえすことができない。阿弥陀さまの願いを疑うのですから迷うのです。

 よく勘違いされるのは、罪悪深重・煩悩熾盛だから迷うと思われることです。そこはとても大事なところで、凡夫の罪悪や煩悩こそ阿弥陀さまのめあてなのです。阿弥陀さまはそこをめがけて飛び込んで来てくださっているのです。にもかかわらず、疑いの心が起こる。その疑いの心こそが、阿弥陀さまの願いとはたらきを妨げているのです。
 そのことを教えてくださるのが、善知識(真の知識)であるのです。

 善知識に遇うのはほんとうにむつかしいことではありますが、仏法を求めてゆけば、必ず善知識はおられますし、出遇うこともできます。

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2009年11月 4日 (水)

聞くことも信じることもむつかしい

 人間には相性があります。教えは人間の知性や感性を超えたものですが、聞く人にとって、教えを説き導いてくれる人との間に相性があるようです。教えを説く者も聞く者も凡夫なのです。

 教えを説き導いてくれる人を、善知識と言います。しかし、善知識に遇うことができるか否かということは、わたしがコントロールすることができません。一生のうちに多くの人に出会うことはあっても、正しく自分を導いてくれる善知識に遇うことは、「縁」あるいは「宿善」によるものとしか言いようがありません。

  善知識にあふことも
  をしふることもまたかたし
  よくきくこともかたければ
  信ずることもなほかたし
   (『浄土和讃』 註釈版p.568)

真実の道を直接教えてくださる善き師に出遇うことも、善き師がその道を人びとに教えることも難しい。しかし、そのような善き師にめぐり遇うことがなければ、真実の教えをしっかり聞くことも難しく、それを信ずることもなおさら難しい。

 善知識に遇うことは難しいことですが、教えを伝えることも難しいのです。体系化された知識は、教え方を工夫さえすれば、少々難しくても伝えることができます。仏法というのは、教えを知識として伝えるのではありません。さとりそのものを、宗教体験をとおして伝えるということです。
 お釈迦さまの時代は、出家をし、まったく個人的な修行によってそれぞれが宗教体験を得ようとしました。しかしそれはだれもが歩める道ではありません。念仏の教えは、阿弥陀如来の心を聞くことです。だれでも聞くことができますが、阿弥陀如来の心は人間の言葉を超えています。それを人間の言葉で伝えるというのはとても難しい。
 しかも、聞く側は、説かれた教えをそのまま聞くのではなく、それぞれが自分のさまざまな思いを入れて聞きますから、ていねいに言葉が費やされても、そのとおりには聞けません。聞くこともたいへん難しいことです。

 親鸞聖人は「『信心』は如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」(『一念多念証文』註釈版p.679)と記されています。「信じる」という言葉では簡単ですが、実に多義的に使われています。「疑うこころのなきなり」という言葉は、多義的なあいまいさを排除しています。

 近年、宗教が厳しく批判されることがあります。ごく一部の宗教のなかに、根拠もなく、疑いもせずに信じ込んでしまうことにより反社会的な側面が問題になることがあります。そんな宗教の信心と、疑う心のない念仏の信心はどこが違うのでしょうか。
 それは、念仏の教えは、「正しい教えである」とか「疑ってはいけない」など自分で信じ込むのではないということです。自分の思いや煩悩が混じらない心なのです。そんな心は人間の心ではありません。阿弥陀さまからいただいた心なのです。

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2009年11月 3日 (火)

願われているわたしの値打ち

 「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生」(『歎異抄』 註釈版p.831)と言われますが、この言葉の重みをどこまで受け止めているでしょうか。語調がよいものですから、心地よく(?)耳を通り過ぎてしまうだけでは、教えに触れていることにはなりません。

 もし、奉行所の白州で、遠山左衛門尉景元から「罪悪深重の極悪人」と判断されれば、打ち首獄門の沙汰は間違いなしです。画面を通り越して、私自身に宣告されても何もおかしなことはありません。
 罪悪深重は外に現れているわたしです。もし、少しでもそれなりの事情があれば、遠山の金さんなら情状酌量してくれるでしょう。しかし、心の奥底から燃え上がっている煩悩が根源ですから、酌量の余地があろうはずはありません。そのくせ、外面をきれいに飾り、良く見せようとするのです。

  外儀のすがたはひとごとに
  賢善精進現ぜしむ
  貪瞋邪偽おほきゆゑ
  奸詐ももはし身にみてり
   (『正像末和讃』 註釈版p.617)

外面に現れた身のふるまいは、かしこぶり、善人ぶって、つとめてよいことをはげむようにみせかけている。むさぼり、いかり、よこしまないつわりのこころにみちている。わるがしこく(奸)、いつわりだます(詐)ことばかりおこなうことが身についてしまっている。

 遠山奉行の沙汰は、世法を破った者への裁きです。しかし、ここで問題にすべきは仏法の上でのことです。仏法は世法と重なる部分はありますからそれを守ることは当然ですが、世法を守り、よりよき社会にしようと努力しそれが成就したとしても、過程においてはどれだけ複雑に心が動くことか。まさに上記のご和讃のとおりではないでしょうか。
 しかし、他人は許せなくとも自分自身は許せる。悪いとか申し訳ないなんて思わないし、それを正す気持ちなどどこにもありません。ちょっとバツが悪いなと思っても、忘れるか、無視するか、気にしないようにする。
 そんなわたしに値打ちをつけようなどというのは、筋違いもいいところです。

 阿弥陀さまのお慈悲には、この人なら救う、この人はダメというような分け隔ては一切ありません。私たちが自分の値打ちの有無・程度を論じても、阿弥陀さまからみれば、みんな地獄行きのタネでしかないのです。どう考えてみても救われようのないのが凡夫です。

 救われようがないから阿弥陀さまが願いをたて、はたらいてくださっているのです。一切衆生のため、凡夫のためという漠然としたものではありません。わたしのためなのです。阿弥陀さまの願いがわかるかわからないか、念仏がありがたいかありがたくないか、信心がいただけたかいただけてないか、・・・・と詮索することなど、わたしの頭のなかでの堂々巡りでしかありません。そういうことしか考えられない凡夫だということがわかってたてられた本願であり、念仏であるのです。それを知らないというのが、わたしの値打ちなのです。

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2009年11月 2日 (月)

念仏して成仏するのがまことの教え

 “死んだらだれでもホトケになる”ということはありません。亡くなった人は、それまではどのような人生を過ごしてきた人であっても、腹もたてないし、文句も言わない。安らかな顔をして横たわっておられる。“あんなに気性が激しかったのに・・・・。それに比べたら、いまはホトケさんのようだ・・・・。”そういう風に感じるところから、勝手にそう思ってしまうだけのことでしょう。

 それじゃ、どうして仏になることができるのでしょうか。親鸞聖人は、明確に、「他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ、念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや」(『歎異抄』第12章 註釈版p.839)と述べられています。つまり、他力の教えを説くお経や七高僧の書かれものには、本願を信じ、念仏をもうせば仏になる、と示されており、そのほか、どんな学問も往生(=仏になって浄土に生まれる)には必要ない。とおっしゃるのです。

 ただ念仏(南無阿弥陀仏)を称えればよいのではありません。「本願を信じ」ることが必要なのです。だからといって、簡単に信じられるものではありません。それは、阿弥陀如来や、阿弥陀如来の本願がわからないから信じられないのです。問題は阿弥陀仏の側ではなく、わたしにあることを知らねばなりません。
 死んだらホトケになるなんて、どのお経を探しても出てこないし、得体の知れないニセの坊さん以外は言うはずもないのに、勝手にそう思いこんでしまっているのです。その一方で、阿弥陀さまの話しは、何度も聞いていてもなかなかそのとおりには聞けてはいないのです。それでは、何が正しくて何が間違いなのか、ほんものは何でニセものはなにか・・・・ということも見分けがつくはずはありません。

  念仏成仏これ真宗
  万行諸善これ仮門
  権実真仮をわかずして
  自然の浄土をえぞしらぬ
   (『浄土和讃』 註釈版p.569)

本願を信じ念仏して仏になるのがまことの教えである。さまざまな善根功徳を積んで往生させようというのは仮の手だてである。仮の教えと真実の教えの区別をわきまえないままでは、私たちのはからいを超えた境地(=無為自然の浄土)を知ることはまったくない。

 「念仏成仏これ真宗」の真宗は、一宗派を指しているのではありません。まことの教えの意味です。仏になるためには念仏すること、それがまことの教えなのです。念仏せよと教えてくださっているのです。でも、念仏が出ない、出せない、出さない。
 わたしの頭のなかには、善い念仏、悪い念仏というような区別をしているのでしょうか?そのまま、教えのとおり、示されたように念仏する。それしか、わたしの仏道はないのです。

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2009年11月 1日 (日)

出る息は、入る息を待たずして、命終わる

 「いつまでも有ると思うな親と金、無いと思うな火事と借金」ということを聞いたことがあります。なかなか当を得た言葉だと思いますが、自分自身のことは横に置いて語られています。

 自分はいつまでも有ると思っているけれど、どれくらい生きることができるのかというひとつの目安は、平均寿命だと考えられています。2007年の時点で、日本人の平均寿命は、男79.2歳、女86.0歳だそうです。女は世界一、男はアイスランドに次いで世界第二位の長寿国です。
 これらはあくまでも統計的な数字であって、わたしはどこまで生きることができるかわかりません。たとえば、40歳女性が、「わたしは、あと46年程度生きることができる・・・・」と思うのは、まったくあてになりません。いまは元気に生きていても、次の瞬間は、生きているか死んでしまったかのどちらかなのですから、わたしが次の瞬間に生きている確率は50%なのです。

 でもそんな悠長なことすら言ってはおれません。蓮如上人が書かれたお手紙には、次のような文章があります。

  朝には紅顔ありて夕には白骨となれる
  身なり。すでに無常の風きたりぬれば、
  すなはちふたつのまなこたちまちに
  閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、
  紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを
  失ひぬる・・・・
    (『御文章』 註釈版p.1203)

 さらに、お釈迦さまの言葉として、「出息入息 不待命終」(出る息は、入る息を待たずして、命終わる)という言葉もあります。

 だれもが自分にイヤなことが降りかかってくることなど考えたくもありません。若いときは老いることなど考えませんし、健康なときは病気のことなど考えはしません。ましては死ぬことは、他人事でしかありません。だからこの世の楽しみや喜びだけを追求することで一生を終えようと考えるようになるのでしょう。
 これらのことをあいまいにして生きることは、結局、せっかく人間に生まれることができた意味を無視してしまっているのです。

 この世で多くのいのちを奪うことでしか生きることができないということは、あたりまえのこととして許されるのでしょうか? 人に対して憎しみを持ち、罵詈雑言を浴びせたことは人生の思い出で終わるのでしょうか? この世は死んだらおしまい、と割り切っておもしろおかしく人生を過ごすことができるでしょうか?
 それに対して、人間の知恵と知識からでてくるのは、「それじゃ、どうしたらいいのよ」「そんなこと考えたって、解決するわけじゃなし」という程度のことではないでしょうか。因果応報、これは間違いのないことですが、迷いのなかにいるから、どうすればいいのかわからないという心の底にある不安さえもあいまいになってしまうのです。

 阿弥陀如来の願いとはたらきは、お釈迦さまによってこの世に明らかになり、その後の七高僧や親鸞聖人を通して、私たちにも理解できるよう届けられてきたのです。その

 どうすることもできない迷いの世界から、どうする必要もない世界に出させていただくことが、人間に生まれてきた意味なのです。それは阿弥陀如来のただひとつの願いなのです。

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