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2009年12月31日 (木)

厭離穢土 欣求浄土

 源信僧都(942~1017年)の書かれた『往生要集』の冒頭に、「厭離穢土(おんりえど)」「欣求浄土(ごんぐじょうど)」という言葉をみることができます。浄土教の根底にある思想であり視点です。私たちが住むこの世界は苦悩に満ちた穢れた世であり国土であり、それを厭(いと)い離れることを願うことであり、心からよろこんで浄土に生まれることをねがい求めるということです。

 今の日本や欧米諸国では、おもに経済的な問題に端を発した苦悩の解決が課題だと指摘されてはいますが、源信僧都や親鸞聖人が生きられた時代とは比べものにならない豊かさを享受しています。しかし、争いごとは日常茶飯事に起こっています。絶対的貧困は無くなっても相対的貧困となって私たちを苦しめています。どれだけ科学が進んでも、相変わらず老いや病気から解放されることはありません。
 また、現代の世においても、いまだに戦渦におびえ、貧困にあえぎ、饑餓に苦しむ人たちが絶えない国や地域があります。「そんな所に生まれなくてよかった」「私とは関係のないこと」と引くのではなく、同じ時代に、同じ地球上に生きる者として痛みをどこか感じないと、人間では無くなってしまうという気がします。国際化の流れのなか、資源のない日本では、そういうところとの関係無しには生きてはいけないのですから。

 社会が発展するということは、うわべを飾り、多くの楽しみが享受できるような社会になってゆくことです。しかし苦しみ悩みが多少やわらぐことがあったとしても、根本から解決できる世になるわけではありません。
 むしろ、苦悩から目をそらして、苦悩の本質を見失ってしまうことによって、心の底から晴れ晴れとした人生を送ることができない人が増えているのではないでしょうか。それゆえ、心の底にある闇を解決しようと、薬物やバクチなどの中毒に陥ってしまう人の数が増えているというのは、私の杞憂でしょうか。
 また、日本が繁栄し、楽しみを享受しているということは、どこかでそれらを支えている人や地域があるということも忘れてはなりません。

 この浄土教の「厭離穢土」「欣求浄土」という視点は、この世の本質を見通し、時代や社会を貫き通した真実です。それは私の身の上に知らされる真実でもあります。この世が絶対ではありません。社会的セーフティネットがどれほど整備されたとしても、どうしようもない事態が起こるというのがこの娑婆世界であることを知らねばなりません。
 自分の頭ではおよびもつかないからとか、どうしようもない事態は起こってからしか対処することはできない・・・・と、無視してしまいがちです。それの方が、今の自分には楽なのですから。しかし、それこそが人間の愚かさなのだと、仏法によって教えられるのです。

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2009年12月30日 (水)

出離の強縁しらざりき

 私がどこからやってきて、この世が終わったらどこへ行くのでしょうか。この世を生きることがすべてであると思っている人たちには、そんなことを考える人はおられないでしょう。考えないというより、考えてもわかりません。

 生きることしか考えていない人でも、多くの人たちの死に遇わねばなりません。そんなことがあってはならない、あってほしくないと思っても、必ず遇わねばならないのです。大切な人、身近な人の死であればあるほど、言葉に現すことができないような大きな衝撃があるでしょう。そんなときの悲しみは、この世での数々の思い出を振り返っての思いであり、もう会えなくなったことへ落胆からくるものです。亡くなった人がどこへ行くのだろうという思いも無いことはないでしょうが、わからないからすぐにそんなことは考えないようになってしまいます。考えられなくもなってしまいます。

 そんなわからないことを仏法を通して聞かせてもらわねばなりません。私が六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を生まれ変わり死に変わりして、いまこの人間の世にいるということを。そしてまた、六道輪廻していかねばならないということを。
 そのことを信じられるか信じられないかではなく、仏法が示した真理であるというところを起点にするのです。多くの疑問や反発する心はとても大切です。仏法のなかには、そんな心に確実に答えてくれるところがあります。疑問や反発だけではなく、自分の心の内に起こってきた思いをうち捨てないないで、暖めておくことが必要でしょう。

  曠劫多生のあひだにも
  出離の強縁しらざりき
  本師源空いまさずは
  このたびむなしくすぎなまし
    (『高僧和讃』註釈版p.596)
はかり知ることのできない遠いむかしから何度も生死をくり返すなかで、生死流転の迷いを断ち切ってくださる阿弥陀さまの本願力を知らないできた。もし源空聖人がおられなかったら、この一生をむなしくすごしたことだろう。

 これまで蓄積されてきた人間の知識や技術は膨大なものがあります。まだまだこれから新しい知識の蓄積があるでしょうし、技術の開発があるでしょう。そのすべてをこの世に生きている間に身につけることは不可能です。知らないことがいっぱい、見えないものわからないことが山ほどあるのです。にもかかわらず、自分の思いと力がこの世を生きてゆく頼りなのです。
 そのことが迷いであり、迷いの世を生きていることだとはわからない。また六道輪廻を経巡ってゆくことだとは夢にも思っていないのです。

 阿弥陀さまの願いは、そんな私のためにあることを聞かねばなりません。阿弥陀さまの願いについて、何度聞いてもそのことがストンと腹の底には落ちません。迷っているから聞けないし、聞こえないのです。

 この和讃では、親鸞聖人の師源空(=法然聖人)がおでましにならなかったら、とおっしゃっていますが、お釈迦さまや七高僧すべての先達たちにも持っておられた思いではないでしょうか。

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2009年12月29日 (火)

大心海より化けしてこそ

 親鸞聖人の書物のなかに「海」という言葉をよく見ることができます。聖人が使われる「海」には二つの意味があります。
 ひとつは、「難度海」や「愚痴海」、また「苦海」「生死の大海」などのように使われて、人間の苦悩を、あるいは宿業を現しておられます。沈んでゆく海であり、荒れ狂う海です。
親鸞聖人が35歳のとき、親鸞聖人が越後へ流罪になったとき、生まれて初めて海を見られたと思われます。それも2月初旬の日本海ですから、きっと暗く曇った空と同じ鉛色をした不気味な海だったのではないでしょうか。
  “人生は荒波だ”というたとえがありますが、そのとおりです。聖人はこの世を生きる自分自身のほんとうの姿や生き方とともに、生死をくり返し六道を輪廻してゆかねばならない衆生をも視野にいれておられます。
 そんな海のなかで、自分を救ってくれるのは阿弥陀さまの本願という船のみだと示されるのです。

  生死の苦海ほとりなし
  ひさしくしづめるわれらをば
  弥陀弘誓のふねのみぞ
  のせてかならずわたしける
   (『高僧和讃』註釈版p.579)
生死をくり返しながら六道を輪廻する苦しみは果てしなく限りがない。その苦しみの海に永く沈んでしまっている私たちを、阿弥陀さまのなからず救うと誓い願ってくださっている船のみが、私を乗せて救ってくださる。

 もう一つは、「大心海」「信心海」「本願海」「真如海」「一乗海」あるいは「宝海」「智海」のように、阿弥陀さまの本願、智慧、お心を示しているものがあります。「弥陀智願の広海」とも使われています。広くて深いいのちの根源でもあり、とてもすべてを知り尽くすことができないのが海なのです。
 この場合の海は、聖人がご覧になった夏の穏やかな海ではなかったのかと思うのです。その海からは海の幸がふんだんに獲れます。いのちをはぐくむ海であり、人間のいのちをつなぐ海です。
 この海は、阿弥陀さまの心そのものであり、阿弥陀さまのはたらきそのものだと理解されたのではないでしょうか。

  大心海より化してこそ
  善導和尚とおはしけれ
  末代濁世のためにとて
  十方諸仏に証をこふ
    (『高僧和讃』註釈版p.589)
大きな海のような心をもつ阿弥陀さまが、善導大師になりかわってこの世に出現された。末代濁世のために弥陀の本願を説き、『観無量寿経』を註釈され、十方の諸仏に証明を請われた。

 親鸞聖人は、『観無量寿経』の注釈書『観経疏』を著された善導大師を阿弥陀さまの化身と見ておられるのです。『観経疏』のなかに、阿弥陀さまの広大な深い心を感じられたのでしょう。一般的な末代濁世という時代や世相が問題になっているのではなく、親鸞聖人自身の生きられた時代や世相が視野にあり、親鸞聖人に向けて書かれた『観経疏』であるがゆえに、感じられたに違いありません。
 「海」というのは、一つの物のように手にいれるものではありません。私が飲み込まれていく、包み込まれてゆくとてつもなく空間であるのです。まさに、その「海」に身をまかせてゆくしかない、そういう感覚であったのではないでしょうか。

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2009年12月28日 (月)

聖教と自身と同行に問う

 自分自身が聞いている念仏の教えを、正しく聞けているかどうかということを自分自身で判断することは容易ではありません。“自分の信心が正しいかどうかの判断がつかないなんて、ありえないこと”と思っておられる方もいるかもしれません。
 念仏の信心は、阿弥陀さまからいただいた信心です。凡夫のなかには、どのような努力をしようとも有り得ない心です。その心を正しいか否かがわかるはずがありません。

 しかし、阿弥陀さまからいただいたまことの心をよくよくたずねてゆくと、その味わいを深めてゆくことができます。
 いままでの自分では気づかなかった自分を見せてもらうことができる。外にしか向いていなかった自分を振り返るようになる。私ひとりで、自分の力で生きているということがいかに不遜な思いであったかということを思い知る。阿弥陀さまとともに生かさせていただいていることを感じる。等々、そのときどきに、とても私のなかから出てきたとは思えないことを感じるのです。

 そんな思いが、仏法を聞かせてもらったがゆえの思いなのか、それとも単なるきまぐれなる思いなのか?その思いがホンモノか、ニセモノか、判断をつけたい。これがまた凡夫の心です。
 それならば、ほんとうの教えを聞かせてもらったのかどうかもわからないまま、自分の心との葛藤を繰り返してゆくだけなのでしょうか。そうではありません。正しい智慧に遇えたのか、阿弥陀さまの願いにまかせることができたのか、疑いの心がすっかりなくなっているのか、など肝心なところを知る手だてがあるのです。それが三量(さんりょう)、三つの量(はか)りです。「量」というのは、もともと目盛りとか基準という意味があります。

 ひとつめは、聖教量です。教典などに示されている、さとった者の言葉です。この言葉に自分の心の動きを照らし合わせたとき、一致するものなのか、まったくかけ離れているのかを問うのです。
 二つめは現量です。いま、ここの、わたしの思いです。心が阿弥陀さまと向き合っているのか否か。阿弥陀さまに照らされているのか否か。念仏が私の心のなかではたらいてくださっているのか否か、等々、私が仏法をどのように知覚しているかという判断基準です。
 そして三つめは比量です。私の信心を、私と同じ教えを聞いた人たちの信心と比較をするなかで、正しいものかどうかを確かめるのです。阿弥陀さまの心の受け取りようを聞き合い話し合うことが必要です。

 自分の信心がこれでよいのかどうかと、とらわれてしまうのは凡夫の心ではありますが、いい加減にしておいてよいというものでもありません。それゆえ、このような三つの量りがあるのです。しかしこの量りは、台の上に乗せたら数字で結果が出るというようなものではありません。それぞれが、聖教に問い、いま・ここの自分自身に問い、そして同じ教えを聞く人たち言葉や生き方に問い続けなければ量れないのです。その過程は聞法の過程でもあるのです。

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2009年12月27日 (日)

西路を指授せしかども

 私はお寺に生まれ、お寺に育ったので、みんなから「お仏飯(仏さまにお供えするご飯)で大きくなった」と言われました。お仏飯は冷たくて、かたくなってしまっていてあまりおいしくないので、炊きたてのあつあつのご飯で育つ方が良いに決まっている・・・・と思ったものでした。
 「寺の跡継ぎ」だと言われ、それより自由に生きたいと思いました。何になりたいとか、どのように生きようかということを考えてもいなかったのに。
 そんな環境のなかで、浴びるように仏法の話しを聞かされてきました。何が変わったというわけではありませんでした。私は私、仏法を聞いて生き方や考え方が変わるわけじゃなし・・・・、そんな思いで聞いてきました。

 私は気づいてはいませんが、ずいぶん以前から、多くの先達たちが真実を示してくださっていたのです。阿弥陀さまの念仏を、この身にしっかりと聞けよと教えてくださり、浄土に生まれる道こそ間違いのない真実であることを説いてくださっていたのです。しかし、そんなことには一向に気に止めようとはしませんでした。逃げてきましたし、バカにして見下してきました。いい加減にしてくれよ、もっと大事なことがいっぱいあるのだから・・・・と思ってきました。無用の長物というようにしか思えませんでした。

  西路を指授せしかども
  自障障他せしほどに
  曠劫以来もいたづらに
  むなしくこそはすぎにけれ
    (『高僧和讃』p.593)
私たちは西方浄土に往生する道を仏法の先達に示されたけれども、自力によって本願を疑うだけではなく、本願をそしって他の人の往生をもさまたげてきた。このため、はるか遠い昔から、むなしく生死を流転してきたのである。

 冒頭で書いたことは、私がこの世に生を受けて後のことです。私にはわかりませんが、私の過去世のいたるところで、西方浄土に往生する道を聞かせてもらうことがあったようです。それを無視し、阿弥陀さまの言葉を疑い、阿弥陀さまの本願をさまたげてきたのです。それにとどまらず、他の人にかかっていた阿弥陀さまの願いをもさまたげてきたのです。それゆえ、私は迷い続け、むなしく生死流転してきたということを、この和讃で教えてもらいました。

 私はこれまで迷い続けきましたし、そして今もまだ迷いのなかにいるようです。この状態を迷いとは思いたくはありませんが、阿弥陀さまは、迷いの凡夫だと教えてくださっています。それがなかなか聞けません。
 自分で言うのもおかしいかもしれませんが、私はこの世を生きるのにとてもがんばっていると思っています。でもこの世でがんばっているか否かということは、阿弥陀さまが私を見て、いま迷い苦しみ続けている、ということとは何ら関係のないことなのです。私には、自分の姿が見えていないのです。阿弥陀さまの心を聞かないと、ほんとうのことは何も見えないのです。

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2009年12月26日 (土)

ながく三塗にしづむなり

 どのような者でも必ず救うというのは、阿弥陀さまのお心です。そのために願をたてられ、長いご修行の末に成就されたのです。願が成就したということは、すべての人が救われたということです。ところが、浄土真宗の門徒であれば救われるということではありません。仏法をめぐって祖父母、父母の深い因縁があっても、自身が阿弥陀さまのお心を頂戴しているということとは同じことではありません。ましてや、どんな宗教を信じていても、救われるということもありえないことです。実際、浄土真宗の門信徒であると名乗っても、またこの世を生きる者すべてが救われているとは思えません。
 しかし、阿弥陀さまの願いは、一切衆生、どんな者でも救うというところにあるし、そのためにいま、はたらいてくださっているのです。しかしすべてのいのちある者が救われてはいないし、このままでは救われてもいかないのです。

  本願毀滅のともがらは
  生盲闡提となづけたり
  大地微塵劫をへて
  ながく三塗にしづむなり
    (『高僧和讃』註釈版p.593)
阿弥陀さまの本願を悪く言い、ほろぼす人たちは、生まれながらに本願を信ずる目をもたないし、仏になるタネをもっていない闡提(せんだい)だと言われている。これらの者は、大地微塵劫という長い長い間、三塗に沈んでゆく。

 この和讃はむつかしい言葉が出てきます。まず毀滅の毀はこわすこと、そこなうこと。滅はほろぼすこと、なくすこと。阿弥陀さまの願いに対して反発し、攻撃し、無きものにしようとするということです。どこにそんな悪い奴がいるのか、と他人事のように思ってしまいますが、仏法を聞くまではそんな心で満ち満ちていたのが、この私です。
 闡提は、「世俗的な快楽を追求するのみで正法を信ぜず、さとりを求める心がなく、成仏することができない衆生のこと」(註釈版p.1462)です。「信不具足」と漢訳されています。
 大地微塵劫というのは、三千世界の大地の微塵を砕いて、その一塵を一劫とかぞえ、それが無くなるまでの長い年月のことです。
 三塗は、地獄道、餓鬼道、畜生道の三悪道のことをいいます。死んだ者がゆくべき場所なのです。

 ここではっきりと、阿弥陀さまの本願をそしる者、壊す者、信じない者が三悪道に堕ちていくということがわかります。阿弥陀さまが必ず救うという願をたて、はたらき続けてくださっているにもかかわらず、それに気づかないで堕ちてゆくのです。

 「縁無き衆生は度しがたし」ということが言われてきました。しかし、縁が無いことは無いのです。これまでにどこかで必ず出遇ってきたのです。しかしそれに気づくことができなかったのです。阿弥陀さまの願いが見える目をいただき、聞けるようにとの耳もいただいていたのに、見なかったし、聞かなかっただけのことです。その、見なかっただけ、聞かなかっただけのことで、いままで迷いに迷って、六道を、三悪道を経めぐってきたのです。

 しかし、なぜなのかさっぱりわからないけれど、いま、私はこうして人間に生まれることができた。なぜなのか説明することなどできないけれど、今、私は仏法のご縁に遇うことができた。仏になるタネをもっていなかった闡提が、阿弥陀さまに願われて願われ続けて、いま、本願に遇うチャンスをもらっているのです。
 千載一遇どころか、億載一遇どころか、大地微塵劫一遇であることを知らせてもらうのです。いまこそ聞けよ、いましか聞けぬぞ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・・・・というのが、いま、私にかけられている阿弥陀さまの心です。どのような者でも必ず救うというのが、阿弥陀さまのお心ですから。

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2009年12月25日 (金)

無上上は真解脱

 「絶対に・・・・」ということを口癖のように言う人がいます。「絶対に約束は守るから」「絶対にあいつとは口をきかない」というように。絶対に守る約束を四回も五回もしたり、絶対に口をきかない相手と口げんかをしているのです。
 あることを強調したいときに、絶対という言葉を使うようです。しかし、人間の思いや行為のところに絶対ということはありえません。軽い気持ちで使っているのかもしれませんが、絶対という言葉を頻繁に使う人はあまり信用できる人ではない気がします。

  無上上は真解脱
  真解脱には如来なり
  真解脱にいたりてぞ
  無愛無疑とはあらはるる
   (『浄土和讃』註釈版p.572)
無上上の仏果は真実の解脱であり、これが阿弥陀如来である。この真解脱にいたったときには、執着の心を離れ、もはや執着する心もなければ疑う心もない。

 仏教では、「絶対」や究極の状況を強調することがよくあります。上記の和讃は、そのうちのひとつでしょう。「無上上」は、上の無い上ですから、てっぺん、頂上ということです。最上でも無上でもいいのですが、念押ししているようです。また、解脱というのは煩悩の世界から解放された状態、つまりさとりですからそれ以上のものはありません。解脱は真に間違いなのに、それをあえて「真解脱」と強調しているのです。
 ひとつには、無上とか解脱と言ったとき、ほんとうの意味とは違ういい加減な使われ方がしていることが少なからずあるので、そんな使い方とは一線を画する意味もあるのでしょう。だからあえて念押し、強調されるのでしょう。
 もうひとつは、いずれも人間の思考にとどまってしまっているような状態、私たちの頭で理解できるような世界ではないということを、「無上上」や「真解脱」という言葉によって伝えようとしているようにも思うのです。

 これ以上ないさとりをえられ、ほんとうの解脱の世界におられるのは阿弥陀さまです。凡夫がどれだけがんばってみても、決してそんな世界にいたることはできないのです。経済に左右されるような力、時間の経過によって変化する力、年齢を重ねることによって失われてしまうような力・・・・などは、いずれも相対的な力であり、絶対ではないのです。

 無上上や真解脱である阿弥陀さまから、真解脱(=まことのさとり)をいただくのです。私がいただくようにできた(私が受け取れるように仕上げてくださった)のが、真解脱である阿弥陀さまの願いであり、はたらきです。
 仏法を聞いてゆくと、ありがたくなったり、もったいないという気持ちが起こったりします。いままでとは違った気持ちから、つい「信心をいただいた」「阿弥陀さまの心がわかった」「これが阿弥陀さまのはたらきか・・・・」などと思ったり、またそのように口にしたくなる心も起こってきます。しかし、その心こそ、阿弥陀さまに問うてみることがとても大事なことです。

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2009年12月24日 (木)

追善報恩の志あらん人はただ念仏を

 法然聖人が80歳で亡くなられる直前に書かれた『一枚起請文』は、お弟子さまに請われて書かれたもので、ご遺言であるとも言われています。
 それより以前、法然聖人66歳のとき(1198年)、この世の命を終えるか否かという重い病気になられたそうです。そのとき、遺言状を書かれました。それは「起請 没後二箇条事」と題するもので、その内容はタイトル通り、二つのことを言い残されました。

 第一条には、法然聖人のお弟子やお同行が一ヶ所に集まらないで、別々に居住し、会わないようにするのがよいでしょう。いっしょにいたら、仲良く見えても争いごとを起こすから、というものです。
 法然聖人のこの真意を、私ははかりかねています。ともに念仏し、ともに仏法讃談するためには、争いごとを起こしても相集うことが必要に思うのですが・・・。このことについて、法然聖人がおっしゃった意味をご存じの方は、どうぞご教示ください。

 第二条は、法然聖人な亡くなったあとの追善として、図仏・写経・浴室・檀施などの善行を禁止するというものです。「浴室」というのは大衆に対して風呂を沸かして身を清めてもらうという供養です。また「檀施」は、大衆に対して食事をだすことです。図仏・写経とともにこれらは、大きな法要のときの善行として、法然聖人以前の仏教ではよく行われていたようです。
 しかし、法然聖人はそれらのことを否定し、そのあとにもし「追善報恩の志あらん人は、ただ一向に念仏の行を修すべし」と記されています。余計なことをしなくても、追善のためにはただ念仏せよとおっしゃっている。

 亡き祖父母や親を偲んで年忌法事のおつとめをお坊さんにおつとめをしてもらってそれで終わり。あとは、祖父母や親のことを思い出しつつ、お参りくださった親戚の人たちと思い出話しに花が咲きます。いちばん大切なことは親戚の人を食事でもてなし、年忌法事の供養の品を持って帰ってもらうこと。それが終われば、懸案の年忌法事が終わってやれやれ。あとは次の年忌法事まで・・・・。そんな感じではないでしょうか。
 年忌法事をつとめる立場として気づかうのは、亡くなった人のことでも、自身の後生でも他人の後生でもなく、自身のこの世での体裁や見栄です。だから、お参りしてくださった方に、たいへんな気遣いをするのです。 
 そういう心遣いは、この世でのつきあいからすればとても大切なことです。それに加え、「みなさん、亡き者を偲び、自分の後生を考えたら、ただただ念仏させてもらうしかありません。今日のお参りは、念仏一つを心にかけてお参りしてください。また、お帰りの節は、念仏しつつお帰りください。さらに、これからの日常生活も称名念仏の生活をしてください」などと伝える必要があります。

 法然聖人の心は、称名念仏することのない年忌法事など何の意味もない、ということではないでしょうか

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2009年12月23日 (水)

炎魔法王尊敬す

 今の時代、「地獄に堕ちるぞ」という言葉は脅しにもなりません。まず地獄があるとは思っていません。惨事のあった現場で、レポーターの“まるで地獄のような惨状です”という報告からは、まったくそのリアリティを感じることができません。地獄=悲惨な状況にある場というイメージから出た言葉なのでしょう。あるいは過去に見た地獄絵図の悲惨な姿と重ね合わせているのでしょう。

 地獄はその人の持つ罪業の軽重に応じて、それぞれに地獄に堕ちてゆく。生前に殺生を犯した者は等活(とうかつ)地獄に、殺生と盗みを犯した者は黒縄(こくじょう)地獄に、殺生、盗み、邪淫、飲酒、妄語、邪見の罪を犯した者は焦熱(しょうねつ)地獄、父母殺害などの五逆罪を犯し、因果の理や仏法の教えを否定・誹謗するなどの重罪を犯した者は阿鼻(あび)地獄に、等々。
 どうしてそんな責め苦を負わなければならないのか?因果応報、私がつくってきた思いや行為の結果の責任をとるということでしかありません。
 たいていの人は、何も悪いことをしていないのに・・・というに違いありません。私がこの世を楽しく、幸せにありたいと思って生きてきただけなのに・・・・とも。だれもがそのように考えるのはあたりまえのことです。何よりもいのちを食べずには生きていけないのです。人をおとしいれようとしてではなく自分の身を守るためにウソをつくこともあるのです。邪見な生き方などしたいと思ったことはありません。信じられないから仏法を否定し、誹謗せずにはおかなかっただけのこと。致し方ないことです。
 しかしそのことが罪なのです。殺される側にすれば、ウソをつかれる側にすれば、仏さまの心に背いてきたことは、「致し方ないよね」ですまされないのです。そこのところを罪だとは感じないし、痛みをともなうこともない。そこのところが邪見であり、愚かなのです。

 冒頭に示した、悲惨な事態に陥った現場からのレポートにリアリティを感じないのは、その場の悲惨な状況を見た目だけで伝えているからでしょう。そこでは、救助しようとする人や、お互いを気遣う人たちがいるわけですから、決して地獄ではありません。
 恐ろしいのは、その惨事の場を、テレビの画面を通して冷静に見ている、私自身の内に感じるのです。くり返されれば「あぁ、またか」と素通りしてしまう鈍感さがとても怖いのです。

 10世紀末に源信僧都が書かれた『往生要集』には、次のように記されています。

火の焼くはこれ焼くにあらず。
  悪業すなはちこれ焼くなり。
火の焼くはすなはち滅すべし。
  業の焼くをば滅すべからず。
    (『往生要集』七祖版p.813)

 地獄の火によって焼かれるのは私の悪業なのです。しかし火に焼かれても燃え尽きないのが私の業なのです。また、「火の車 造る大工はなけれども おのが作りておのが乗りゆく」という古歌は、自省の句です。
 地獄は、単なる作り話ではなく、私のいまの生活のありようをそのまま映しています。今の生活を楽しさや幸せと考え、あるいはその手段としか考えられないことが、地獄行きの姿です。そんな自身の思いや行為を見つめながら地獄のことを聞くと、ほんとうに地獄は恐ろしいところです。炎魔(閻魔)法王は怖いし、地獄の鬼も不気味です。しかし必ずしもそうでもないのです。

  南無阿弥陀仏をとなふれば
  炎魔法王尊敬す
  五道の冥官みなともに
  よるひるつねにまもるなり
   (『浄土和讃』註釈版p.575)
南無阿弥陀仏を称える人を、炎魔(閻魔)法王は尊敬するし、地獄、餓鬼、畜生、人間、天上の五道の人びとの罪を裁く役人もみな、夜も昼も関わりなく護ってくれる。

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2009年12月22日 (火)

末法から滅法の時代に

 仏法は、お釈迦さまが説かれた教え(教)を、正しい行う(行)ことによって、さとりに至りつく(証)教えです。お釈迦さまご在世のときは、お釈迦さまの教えを聞き、それを行じて、さとりに至りつく行者はたくさんおられたでしょう。しかしお釈迦さまが亡くなられ、時代が経過するほどに、さとる人がなくなり、さらに時代が経過すると正しく行じる者がいなくなっていくというのです。
 教・行・証の三つがそろっていた時代を「正法」の時代、証が無くなり教・行だけの時代が「像法」の時代です。そして、行も証もなくなり教だけが残る時代が「末法」の時代といわれたのです。

 いつから末法に入るのかは諸説があるところですが、日本では、1052年から末法に入るという説が一般的だったと言われています。それが単なる説であれば、人は聞き流すのかもしれませんが、現実に地震、水害、干ばつ、大火、飢饉、疫病、等々、当時の人たちには制御することのできない惨事が繰り返されることにより、「末法」ということが強く意識されたようです。人びとは、地獄絵図に示されているような状況を、常に目にしていたのではないでしょうか。
 そういうところから何とか抜け出したいと思っても、とても教えを行じるような状況にはありませんでした。僧侶の堕落も目にあまるものがあり、救済というところからはほど遠いものだったのでしょう。行じることも、さとりを開くこともできない僧侶への信頼もなかったのでしょう。

 そんななかで、人びとの心をとらえたのが浄土教です。人間のはからいをこえた、ただ阿弥陀如来の願いのなかに生きるという教えです。
 末法の世に入るといわれた1052年には、藤原頼通が宇治の別荘を寺院とし平等院を創建し、翌年には鳳凰堂が造営されています。貴族は、西方極楽浄土を願い、阿弥陀如来を安置した仏堂を盛んに造営したのです。

 今の時代、「地獄に堕ちるぞ」という言葉は、脅しにもなりません。地獄というのは観念的な空想の世界としか思っていないのですから。しかし当時の人たちには、現実がすでに地獄だったのです。今の世は地獄とはほど遠い時代・社会のように見えます。しかしうわべは美しくとも、人の心のなかは、地獄が渦巻いているのです。だれもそんな地獄を見たくはありませんから、内なる地獄を覆い隠しているだけです。毎日のようにマスコミに露出する悲惨な事件は、そんな人の心の反映だとしか思えないのです。
そういうところから何とか抜け出したいと多くの人が思っています。しかし、とてもそんな状況にはありません。現代の仏教そのものが、もうひとつ何を伝えようとしたいのか、見えてきません。インパクトのある救済が打ち出せていない、というのは言い過ぎでしょうか。

 ある人は言いました。末法の世は、滅法の世に移ってしまった、と。それでも阿弥陀さまははたらいてくださっています。・・・・ということは、末法や滅法というのは、人間の認識であり、阿弥陀さまの心ではないようです。

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2009年12月21日 (月)

弥陀をほめんになほつきじ

 仏法を聞くというのは、二つのことを聞かねばなりません。ひとつは、「機」とも言われる、私のありのままの姿です。もうひとつは「法」です。阿弥陀さまの心、阿弥陀さまの願い、阿弥陀さまのはたらき、などなど阿弥陀さまの徳を聞くのです。しかし「機」と「法」を別々に聞いているだけではどうしようもありません。

 私のありのままの姿をみるといっても、反省するとか、心理テストをしてみるとか、まわりの人の評判を聞いてみるとか・・・・いうことをするのではありません。仏法に照らして、仏法を鏡にして自分自身のありのままの姿を見るのです。真実の光に照らされて、真実の鏡に映し出されてるから、ありのままのを見ることができるのです。

 そんな話しどこで聞くことができるの? と思われる方もたくさんおられるかもしれません。説教、法話、仏さまの話というのは、「機」と「法」の両方が説かれています。
 仏さまの話をたくさん聞いているけれど、そんな話はあまり出てこないように思うけど・・・・というのは聞き方が間違っています。
 私は聞かなければならないことを聞くのではなく、聞きたいことだけを聞いているのです。耳に心地よく響いてくれる話し、自分の利益になる話し、自分をほめ・持ち上げる話し、などはヒソヒソ話でも聞き分けることができます。しかし、大きな声で強調して言われても、ありのままの私のありのままの話しは、聞けないし、聞いてもすぐに忘れてしまいます。
 阿弥陀さまの願いやはたらきも、法話のなかにはたくさん出てきます。しかし、阿弥陀さまも、その願いやはたらきを聞くと、そんなのはあり得ないことだと聞いてしまっていはいませんか。

 それにもかかわらず、阿弥陀さまは長い長い時間、辛抱強く私につき合い続けてくださっています。そしてことあるごとに、「ほんとうの自分に気づけよ」「私の願いを受け取っておくれよ」「念仏称えてくれよ」と願い、私がそうなることを待ち続けてくださっているのです。

  百千倶胝の劫をへて
  百千倶胝のしたをいだし
  したごと無量のこゑをして
  弥陀をほめんになほつきじ
   (『浄土和讃』註釈版p.572)
無量無数の時間を経て、無量無数の仏さまの一つ一つの口から、その一つ一つの舌ごとに無量の声を出して、阿弥陀さまの徳をどのようにほめ讃えようとも、とてもほめ尽くすことはできない。

 阿弥陀さまの徳をほめ讃えることができるのは、阿弥陀さまの徳に触れた経験がなければほめることなどできません。しかし、不可称不可説不可思議の教えが阿弥陀さまの願いであり、はたらきですから、仏さまの話しをわかりやすくして聞くことなどありえないことかもしれません。
 それで仏法は聞けなくなるというのではありません。「百千倶胝の劫」というとてつもない時間を費やして私に念仏をすすめてくださり、いまも念仏をすすめてくださっているのです。
 

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2009年12月20日 (日)

香光荘厳ともうすなる

 人間には、五感(視、聴、臭、味、触)を楽しませるということがあります。みなさんはどの感覚が一番敏感でしょうか?またどの感覚を楽しませることが好きですか?

 五感のなかで、臭覚についての研究はもっとも遅れている分野だそうです。この情報化社会のなかでも、一番情報量が少ないのが臭覚についてかもしれません。さらに、臭覚を楽しませるためのグッズなり、商品は、他の感覚器官を楽しませるものに比べると数少ないかもしれません。
 それでも、ハーブやアロマテラピーなど、香りを楽しむ人が、年々増えていると聞きました。芳香剤市場も年々大きくなっているとも聞いたことがあります。よい香りをもとめるばかりではなく、消臭剤のようににおいを消すための商品も増えているといいます。

  染香人のその身には
  香気あるがごとくなり
  これをすなはちなづけてぞ
  香光荘厳ともうすなる
   (『浄土和讃』註釈版p.577)
よい香りがしみこんでいる人は、その身から香り高きにおいを放つから、念仏を称える人は阿弥陀さまからいただいた智慧のかおりがにじんでいるので、このような人を香光荘厳の行者と言うのである。

 この世の行為や現象は、何もないのに突然現れるということはありません。それぞれの行為や現象にはそれぞれのタネ(種子)があって、そのタネが発芽する条件が揃うと、芽をだして行為あるいは現象となって現れます。それを仏教では「種子生現行(しゅししょうげんぎょう)」と言います。
 その行為や現象は一回きりのものですが、かならず行為や現象のタネ(種子)がどこかに薫習されるのです。香りが衣服に染みついて残るように。これを仏教では「現行熏種子(げんぎょうくんしゅうじ)」と言います。
 たとえば、私の煩悩による悪行は、どこかで薫習されたタネによるものです。またその煩悩による悪行が、次のタネをどこかに薫習するのです。それが、私の意思とはまったく関係のないところで、気づかないうちになされていることに、ちょっとゾーッとしてしまいます。

 上記の和讃は、智慧の念仏をかおりにたとえています。その如来の智慧の香りのしみこんだ念仏を称える人は、自然と智慧の念仏の香りがしてくるというのです。つまり、智慧の念仏が薫習されたからこそ、念仏することができるのです。念仏すれば、念仏の香りがただよい、またそれがどこかに薫習されてゆく。

 「染香人」とは念仏の教えが身体全体に染みわたり、生活のなかで念仏している人のことです。自力いっぱいに生きていても、不平不満はいっぱいあっても、阿弥陀さまに受け入れられているから念仏できるのです。言葉に出して説明できなくても、阿弥陀さまによって、香りと光で荘厳されているのです。

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2009年12月19日 (土)

如来の回向なかりせば

 ボランティアというのは、意味も活動も多様化していますが、自発性、無償性、利他性というのが基本的な活動原則であると言われてきました。日本では、ボランティアという言葉を「奉仕活動」と同じ意味で使ってきました。自発性、無償性、利他性を有しています。しかし、強制的に動員されて奉仕させられるという面も否定できません。
 強制といわないまでも、まわりから、なんとなく加わらなければ気まずくなるような雰囲気を敏感に感じとってしまい、イヤイヤ参加するというほどでもないけれど、あまり乗り気じゃなく、どこかにわだかまりを残しながら「奉仕活動」に参加した・・・・という経験はありませんか。終わってみれば、結構、満ち足りた気持ちになることもあるのですが。

 タダ働きはイヤ、自分の時間を無駄にするだけ、などと嫌う人がいないでもありません。しかし、ボランティアをすることによって、新たな視野が開けたり、教えられたり、金銭には換えられない利益を得ることがあります。

 仏教との関わり合いでは、ボランティアを「慈悲」という言葉で説明する人もいます。慈悲の「慈」は苦を抜くという意味、「悲」は楽を与えるという意味があります。
苦を抜くのは「慈」というのはわかるけれど、どうして楽を与えるのが「悲」なのでしょうか。それは、自分自身が悲しいということを知り、悲しい存在であることを自覚することによって初めて他人の悲しみがわかるのです。苦しみを共有することができるのです。ともに悲しみ、ともに苦しむ思いが、他人に対する与楽の思いとなってはたらくというのです。

 自分の思いが、他人への思いとなってひろがってゆく世界があるのですね。 

  往相回向の大慈より
  還相回向の大悲をう
  如来の回向なかりせば
  浄土の菩提はいかがせん
(『正像末和讃』註釈版p.608)
往相回向の大慈から、還相回向の大悲を起こすのである。もし阿弥陀さまの回向がなかったら、私たちはどうして、菩提の証果をうることができようか。

 大慈大悲の「大」は、大願、大行、大心海、大菩提心、などのようにも使われているとおり、阿弥陀さまの徳であることを表しています。
 浄土へ往生してゆくことは、阿弥陀さまによって一切の苦がなくなるというのです。つまり、阿弥陀さまは私の悲しみ、苦しみを知り、共有してくださっているのです。そのうえでのはたらきだと知ることができます。
 そして、往相回向の大慈がはたらくから、浄土からこの世にもどって衆生教化するという楽しみを生み出すことでもあると言われています。浄土に往生したら休むことなく還相回向しなければならないの?あぁ、しんどいなぁ・・・・、というのは凡夫の心です。

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2009年12月18日 (金)

まうあはぬ身となりにせば

 親鸞聖人の教えのなかには、凡夫が阿弥陀さまに回向するということはありません。凡夫の側からは「不回向」だとおっしゃるのです。

  往相・還相の回向に
  まうあはぬ身となりにせば
  流転輪廻もきはもなし
  苦海の沈淪いかがせん
   (『正像末和讃』註釈版p.608)
阿弥陀さまの往相・還相の二種の回向に遇うことができなかったら、私たちはいつまでも流転輪廻の苦しみをつづけなければならない。生死の苦海に沈むのを何としようか。

 回向は、凡夫のすることではなく、阿弥陀さまのはたらきです。私が仏さまに、あるいは亡き人に、回向するようなものを持ち合わせていませんし、回向するような力もありません。
 阿弥陀さまからの回向は、往相(おうそう)回向と還相(げんそう)回向という二つに分けることができます。

 衆生が浄土へ往生するためには、往生するためのタネ(因)が必要です。それは「行」であり「信」です。行じることも信じることもなしに、浄土へいけるはずはありません。行じ、信じることの結果が、浄土に生まれ、仏になるということです。しかし行じることも、信じることも簡単なことではありません。そんなことよりも、おいしいものを食べ、快楽を求めて楽しく生き続けることが優先しますから、浄土往生を願うことなどあろうはずはないのです。
 しかし、阿弥陀さまは、私のことを、いつまでもおいしいものが食べら続けられることはないし、一時の楽しみはあっても末通るものではないと見てくださっている。必ず、自分の思いがまったく通じなくなってしまうことがくるぞ、と教えてくださっているのです。それでも、私はそのことに気づこうとしません。ですから、行じようとすることも、信じようとすることもあり得ないのです。

 智慧と慈悲に満ちた阿弥陀さまは、そんな私を放っておくことができない。生まれ死に、生まれ死に、生まれ死に、・・・・の苦しみを繰り返し、決して浮かび上がってくることはない私を見捨てることができないのが阿弥陀さまです。
 それならばと、「行」も「信」も、そしてそれによって浄土に往生するという結果も、すべて準備して、私に与えよう、私に振り向けようということまで考え、願い、実行してくださっている。そのはたらきが往相回向なのです。

 往相回向の結果、浄土に往生したら、それで何もかも終わったわけではありません。浄土に往生したものは、“やれやれ”と腰をおろすことなしに、今度は、この世界に、流転輪廻の苦しみに沈んでいる衆生を救済にいくのです。それは往生することができた者の力ではなく、阿弥陀さまからそのようなはたらきを与えられるのです。それを還相回向と言います。

 私ががんばって聞法して聞き開いた教えだ、というのはとんだ勘違いです。どこにも私が真実信心を聞くのに、“私”が入る余地などないのです。お膳立てから最後まで、すべて阿弥陀さまに依っているのです。

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2009年12月17日 (木)

如来の作願をたづぬれば

 浄土真宗では仏法は聴聞に極まると言われています。阿弥陀さまの願いを起こしてくださったその一部始終(=仏願の生起本末)を聞いて、阿弥陀さまの願いとはたらきに疑う心がなくなるまで聞くことが大切です。
 しかし、疑う心がなくなるまで聞くというのはとてもむつかしいことです。仏法を、疑いがなくなるまで聞く必然などどこにもないと思っている人は多いように思います。それより、そもそもなぜ仏法を聞かなければならないのか・・・・という人は、もっと多いのではないでしょうか。

 仏法を聞くより、今の世を楽しく暮らすことができればよいという思いの方が優先しているし、悩み苦しむ人は、仏法よりももっと大事なことがある、解決しなければならない問題がある、仏法が何をしてくれるのだ、と思っているのです。
 いずれにしても、仏法を聞くことは、急を要することではないし、重要度のランクからすればずいぶん下位のことだと思ってしまっているのが、私たちの生活ではないでしょうか。

 多くの問題を抱えている人、人生に悩み苦しむ人はもちろんですが、脳天気に毎日を過ごしている人もまた、「仏願の生起本末」を早く聞かねばならないと教えているのが仏法なのです。

  如来の作願をたづぬれば
  苦悩の有情をすてずして
  回向を首としたまひて
  大悲心をば成就せり
   (『正像末和讃』註釈版p.606)
阿弥陀さまが衆生を救わずにはおかないという願いを起こされた本意をたずねてみると、悪業煩悩によって苦しんでいる衆生を救うためであった。阿弥陀さまの功徳のすべてを一切衆生に差し向け与えることを第一として、大慈悲心である名号を成就された。

 阿弥陀さまが救わずにはおかないという願いは、「苦悩の有情」のためにあるのです。苦悩の有情とは、毎日悩み苦しむこの私のことです。自分自身は、いつもなんとかならないものかと悩み苦しんでいるのです。一つ解決してもまた次に問題が起こる。一つ苦しみが去ってもまた次に苦しみがやってくる。人生を通じてみると、決定的な解決の手だてを見いだせないまま、いつまでも悩み苦しみ続けているのです。
 それをよくご存じなのはが阿弥陀さまです。私が自分の悩みや苦しみに気づく以前に、すでに悩み苦しみのなかにいることをご存じだったのです。そして、そのままでは何も解決できないまま、ますます沈んでしまうばかりの私の姿をよく知っておられる。

 迷いのなかにいる私は、迷いのいることに気づかないのです。もちろん迷いから出るために修することもしようとはしません。自分の楽しみのことしか考えないのに、ほんとうの楽しみ幸せがなにかわからないのです。そのこともわかっておられるから、そんなわたしを「摂め取って捨てない」と誓い、願って、はたらいてくださっているのです。
 阿弥陀さまの大きな慈悲の心は、念仏となって、はたらいてくださっているのです。

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2009年12月16日 (水)

弥陀回向の法なればこそ聞ける法

 回向という言葉があります。「振り向ける」「差し向ける」という意味があるようです。そのとき、誰が、何を、どこに振り向けるのかということを考えなければなりません。

 一般的には、「仏事供養をすること」や「自分の修めた善行を他にも差し向けること」を意味しているようです。このような使い方をするときの主語は「私」です。つまり、私が、亡くなられた人のために、法要・法会を行うのです。仏事供養であれば、僧侶に依頼すると思われますが、そのお布施は私が出すのです。また、私が、自分で積んだ善根功徳を、他の人に分け与えるというのです。
 このときの力関係をみてみると、明らかに回向する側、差し向ける側の立場の優位性があるという前提があるのではないでしょうか。回向する側がまさっているというより、振り向ける相手が亡くなった者であったり迷いのなかにいる者という、あわれな存在とみてしまっている。そんな思いを無意識のうちにもっているのではないでしょうか。
 しかし、ほんとうに回向することができる立場にいるのか、他に差し向けるだけの功徳を有しているのか、ということを問う人はほとんどおられないでしょう。

 回向について、親鸞聖人の思いは、自分の力で回向などできるものではない。阿弥陀さまからみた一切衆生という視点は、みんな同じレベルにいるいのちというものです。とても危ないところを綱渡りをしているようないのちと見ておられるのです。
 ですから、私が回向などできるはずはありません。阿弥陀さまがこの私に対して行われるものなのです。

  真実信心の称名は
  弥陀回向の法なれば
  不回向となづけてぞ
  自力の称念きらわるる
    (『正像末和讃』註釈版p.607)
真実の信心をえたうえでの称名は、阿弥陀さまから私に回向された法だから、凡夫の方から阿弥陀さまへは回向しないから、不回向と名付けられる。もし自力の心によって称える念仏であれば、それは仏さまの心にそわないものとしてきらわれる。

 真実信心の称名というのは、凡夫の側から回向ではない。だから「不回向」なのです。自らの思いを交えて念仏、自らの力で称える念仏は、真実信心ではない称名なのです。
 疑いの思いを持ち続けるなかでしか仏法を聞くことはできませんでした。しかし阿弥陀さまの心が、私の疑いの心に振り向けられているからこそ、聞ける法であったと知らされます。

 蓮如上人は、『御一代記聞書』のなかで、この和讃をとりあげ、次のようにおっしゃっています。
「弥陀のかたより、たのむこころも、とふとやありがたやと念仏申すこころも、みなあたえたまうゆゑに、とやせんかくやせんと、はかろうて念仏申すは、自力なれば、きらうなり」(註釈版p.1244)と。

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2009年12月15日 (火)

聖教はよみやぶれ

 先日、東京・渋谷の青山劇場で、前進座公演『法然と親鸞』という芝居の観劇に行ってきました。本格的な舞台での演劇を見るのは初めてでしたので、とても新鮮でした。舞台装置は安っぽかったですが・・・・

 上演時間は途中2回の休憩を含め3時間半。法然聖人と親鸞聖人の「教え」のエッセンスがギュッと詰まった劇だったと思います。脚本家は、かなりよく教えの内容をご存じの方ではないかと思いました。とくに、親鸞聖人の台詞には、『歎異抄』の言葉がふんだんに出てきます。華やかな舞台で、役者の間合いの取り方や、しぐさ、動きのおもしろさに目を奪われてしまいますが、一般の人にとってはちょっと難解だったかもしれません。繰り返し説教を聞いたり、お聖経を何回も読んでいる人でないとわからないのではないでしょうか。

 以前、築地本願寺で真宗大谷派の広陵兼純師の「節談説教」を聞いたときにも同じようなことを感じたことがありま。話しの筋、間合いの取り方、ユーモアの挿入、通った声の強弱、等々、実に洗練されているということを感じました。初めて聞いた人は、それだけで酔う人がいるかもしれません。しかし話しの内容、使われている言葉は難解です。聞き慣れている人が、教えの内容を再確認したり、聞き続けるなかで新たな気づきに出遇うためにあるような気がしたものです。

 それ以前に、広陵兼純師と少しの時間、お話をさせていただいたことがあります。そのなかで、こんなことを言われたのが非常に印象的です。おおよそ次のようなものです。
 「最近の布教使は、いつも新しい話をしようとする。説教というのは、同じ話を何度も何度もすることで、その話しの内容が自分のものになってゆく。節談説教は、口伝によって練り上げられてきたもので、それを何度も聞き、何度も同じ話をくり返してゆくなかで自分のものになってゆく。それでようやく人に伝える話しになる」と。

 『法然と親鸞』も節談説教も、演ずる方たちは、繰り返し読み、口に出し、よどみなく演ずることができるまで事前に練習されるのでしょう。初めて見た人聞いた人には、内容的に難しくても、演者のその他の部分の練り上げられたところに引き込まれていくのでしょう。何度も内容に触れてきた人は、同じことを何度も聞いてきたのに、また新たな共感を得るのだと思います。

 蓮如上人は「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ」(『蓮如上人御一代記聞書』註釈版p.1233)とおっしゃっています。本尊を一ヶ所にじっと掛けているだけでは破れないでしょう。どこへでも行くところに持っていってかけることを言っておられるのではないでしょうか。聖教は、読んで読んで読んで読んで・・・・、読み破るのです。いつも阿弥陀さまのことを思い、念仏し、聖教に親しむ生活をすすめておられるのでしょう。
 私の生活は、あちこちに心を散らしすぎです。いろんな経験をすることは確かに大切なことです。また、それは結構楽しい。しかし、そのなかではなかなか仏法第一と心得ることはできません。聴聞する、お聖教を読む、仏書に親しむことが、いろんな経験のなかなか組み込めません。

 そうであったとしても、念仏をとなえることは、いつでもどこでもできることです。あれもこれもと興味を示しても、称名念仏することはできます。そんな生活をせよとの教えが、『法然と親鸞』のメインテーマであったように思いました。

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2009年12月14日 (月)

唯仏一道きよくます

 みなさんも、これまでに多くの講演を聞かれてきたと思います。講演と限定せずとも、学校の授業、講義、さらにはお説教なども聞いてこられたでしょう。そのなかで、どのような講演が、あるいはお説教がよかったでしょうか。
 あまりにも難しい講演、つまり自分の知らないことばかり、聞いても理解できない内容の講演は、途中で聞けなくなってしまう。居眠りをする、他のこと考える、席を立つ・・・・というのです。一方、聞いた内容が聞いたことがある話しばかり、知っていることばかりの講演というのも、だんだんおもしろくなくなり、最後は時間の無駄だと感じるといいます。とても評判の良い講演は、知っていることを7割くらい、初めて知る内容を3割くらい盛り込まれているといいます。ふんふん・・・・とうなずき、知っている内容を再確認する。しかしそれだけではなく、ところどころで知的好奇心を満たしてくれれば満足度が高いといいます。
 つまり、自分が物知りであることを確認し、自分の聞きたい話し、知りたい話しが聞ければよいのです。なんのことはない、講演を聞くというのは、自分の聞きたいことを聞くだけのことなのです。

 そういうことを知ると、真実を聞くということがいかに難しいことかということがよくわかります。おいしいもの、健康で美しく若返る、金儲け、自分の役に立つ、などの話しはよく聞けまるのですが、迷いのなかにいるぞ、罪いっぱいにしか生きることしかできないぞ、病むぞ、老いるぞ、死ぬぞ、なんて話しは、気にはなっても、聞きたくはないし、聞こうともしません。

  九十五種世をけがす
  唯仏一道きよくます
  菩提に出到してのみぞ
  火宅の利益は自然なる
   (『正像末和讃』註釈版p.602)
末法五濁の世になると、仏教以外の九十五種の仏教以外の教え(=外道)がはびこって世を悪くし、人びとをまどわしている。ただ弥陀の本願だけは清浄にしてけがれることはない。迷いの世界を出てさとりの世界に至り着くことだけが、この娑婆世界を救うことは、阿弥陀さまの願力のはたらきによって、自然に成し遂げることができることができるのである。

 外道は仏教以外の教えです。仏教の姿・形をとっていても、お守りを売り、占い・祈祷をするのは外道です。これら外道の教えが、楽しみや息抜きや癒しとなってしまっているのです。それをどれだけくり返しても、迷いから抜け出せることはありません。「世をけがす」断定されているのですから。
 その一方で、「唯仏一道」と、ただ一つ仏さまが示された道のみが正しいと、はっきりと示してくださっているのです。ほかに何を聞く必要があるでしょうか。

 親鸞聖人は、「菩提に出到してのみぞ」に「ほとけになりてぞ、うじやう(有情)たすくべき」と、その言葉のこころを記しておられます。阿弥陀さまの願いとはたらきによれば、この世で迷っている者がほとけになれるのです。しかもそれは道理にしたがったもので、きわめて自然なことだと言われています。知らないのは、わからないのは、迷っている私だけなのです。

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2009年12月13日 (日)

出離その期はなかるべし

 昨日の『正像末和讃』の第四首(「大集経にときたまふ・・・・」)は、末法の第五の五百年は、自分の考えを主張するばかりで相手にゆずらない時代であると示されていました。そのため聖道自力の教えは廃れてゆくというのです。

 自分が正しいと思っていることは、どのようなことであれ、人に伝えたいと思うことはよくあることです。また、他人の間違った考えを正したいということもあるでしょう。しかし、私が正しいとこもっていることを、すべての人が受け入れてくれるわけではありません。むしろ、正反対の思いを持っていて、激しく対立することも多々あるのです。
そこで、柔軟に「そういう考えもあるのか・・・・」と考えたり、受け入れたりすることができれば悩み、苦しくこともないのでしょうが、自分の考えが正しいと思えば思うほど、引き下がることをしません。一人で腹をたて、勝手に相手を憎んだり恨んだりすることすらあるのです。

 そんな時代をどのように生きればよいのか、何を指針にして生きればよいのかということが次の和讃で示されています。

  末法第五の五百年
  この世の一切有情の
  如来の悲願を信ぜずは
  出離その期はなかるべし
   (『正像末和讃』註釈版p.602)
今の世は末法第五番目の五百年である。この世に生まれあわせたすべてのいのちあるものは、ただ阿弥陀如来の願いを信ずるほかに、生死の迷いから出て離れることはない。

 どれだけ立派に、またどれだけ穏やかに、豊かに生きようと思ったところで、そう簡単なことではありません。第一、いのちを奪い食べないと生きていけないのですから。生きていくためには他のいのちを犠牲にしている。うそをつき、悪口を言い、憎しみをあらわにして生きているのです。生きていくために人の心をいっぱい傷つけているのです。
 立派に、穏やかに、豊かに生きるためには、自分のしていることが問題であると考えないことです。自分の行いを振り返らず、すっかり忘れてしまうことです。他のいのちへのこだわりをもたないことです。他人との関係に気遣いしてはなりません。
 しかし、そんなことはできないでしょう。どのようなものであれ、阿弥陀さまの智慧と慈悲のこころで願いをかけてくださっているのですから。

 末法の世であるのは、仏法を修する者の姿であり、人間の社会の状況を現しています。阿弥陀さまの誓いが揺らぐことでも願いが無くなることでもありません。堕落してゆく凡夫を、もう迷わさないという阿弥陀さまの願いに変わりはありません。迷わさないという願いは、生まれ死に、生まれ死に、生まれ死にというわが身のありようを断ち切るということです。迷いから出て、そこから離れるということなのです。

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2009年12月12日 (土)

自己主張し、引き下がらない時代

 日常生活のなかで、自分で所有する物、自由に使える物が増えることは、ひとつの幸せのバロメーターなのかもしれません。さらに、その物がとても便利で効率よく使える物であれば、なおさら満足度は高くなります。日本は、その両方を、ずいぶん次元の高いレベルで満たしてきました。その代償として失ったのが、「物」としては現すことができない「心」だという指摘を多くの人がしています。

 しかし現代の人たちに「物」と「心」という二次元的な現状分析あるいは問題提起だけでは、何もわからない、何も変わらないと思うのです。もうひとつ、私たちの視野から完全に消えてしまっているのは「法」(=仏法・教え)です。
 「物」は形となって現れますからとてもわかりやすい。それに対する「心」は、形になってはいませんから見失いがちではありますが、私自身のなかで起こりはたらくものですから、振り返ったり気づいたりすることができます。
仏法らしきものは、祖先崇拝や現世利益のところで見られます。また、お寺の伽藍や儀礼などが仏法そのものだと思っておられる方がいるのかもしれません。しかしそれらへの認識をよくよく聞いてみると、いまだ手に入れられない物を満たすための、あるいは心の不安を解消するための手段でしかないことがわかります。

 すべてが「私のため」なのです。

  『大集経』にときたまふ
  この世は第五の五百年
  闘諍堅固なるゆゑに
  白法隠滞したまへり
   (『正像末和讃』註釈版p.601)
『大集月蔵経』というお経によれば、この世は仏滅後の年月を500年ずつににわけた第五番めの500年である。自説が他説よりもすぐれているとして、仏弟子たちの言い争いが盛んになるから、自力諸善の法は隠れすたれてゆく。

 仏教では、お釈迦さまが亡くなられてから正法、像法、末法という三つの時代が来ると説かれています。正法の時代は、仏の教えと修行とさとりの三つがそろっている時代。像法の時代は教えと行は残るが、さとる者がいなくなる時代。末法の時代は、教えは残るが、行もさとりもなくなる時代だというのです。
 もう一つ、五つの時代に分ける考え方があります。それによると、①解脱堅固:解脱することが盛んなる時代、②禅定三昧:心を静め統一し、真理を観察することが盛んなる時代 ③読誦多聞:よく読みよく聞き、学ぶことが盛んなる時代、④多塔多寺:多くの塔を建て、寺院を造立し、善をなし懺悔することが盛なる時代、⑤闘諍堅固:自分の考えや教えが正しくすぐれていて、他は劣っていると主張し、互いにゆずらない時代、だというのです。

 時代は①から⑤へと流れています。私心を捨て仏さまに帰依する時代から、私を知的に鍛え善を行う時代へ、そして私の考えを主張し自分が正しいと自己主張する時代へ、とでも言えるのではないでしょうか。それは個々の人の問題だとは言い切れません。時代や社会に応じた人間が生み出されるのです。
 その結果、強い自己主張によって他者を傷つけ、自己を忘れてるばかりで、「法」を見失ってしまっている時代。それが現代社会といえるのではないでしょうか。

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2009年12月11日 (金)

末通った慈悲ではないけれど・・・

 私には末通った慈悲はない。凡夫が起こすという小慈悲といわれるものもない。そんなことをつくづく、しみじみと感じます。

 たとえば、テレビで自然の大きな力に逆らうこともできず、なすすべもないまま身内の人たちと別れ、家財を失い、途方に暮れる人びとの姿を見ることがあります。また、海外から、戦場地域と化した街のなかの悲惨な状況とともに、そこにおののき、泣き叫ぶ人たちの映像が配信されるのを見ます。
 驚きとも、怒りとも、悲しみとも、なんとも表現のしようのない思いがわいてきますが、正直、なすすべをもちません。後日、わずかなお金を災害見舞として、また海外支援のNPOやNGOに寄付させてもらうことはあります。しかし、それもたまたま、テレビで悲惨な状況を目にしたから起こった気持ちで、たった1回きりのものでしかありません。私の知らないところで、もっと悲惨な状況があると思いますが、それは知るよしもないし、関わることはありません。

 また、私の生活を振り返っても、ぜんぜんやさしくない、無慈悲な生き方を感じてしまいます。
 暑いときは涼しく、寒いときは暖かくして過ごす。お腹がすいたら食べたいものを選択して満腹にできる。求めるものがあればそれなりに手に入れることができる。そんな生活があたりまえだと思ってしまっています。しかしそんな生活ができるということはあたりまえではないのです。
 夏の冷房、冬の暖房のために、どれだけのエネルギーが使われ、どれだけの二酸化炭素が排出されているかということに心を配ったことがありません。お腹いっぱいに食べたものは、すべていのちであったということをほとんど考えたことがありません。あたりまえの生活というのは、私の認識でしかありません。私がそう思っているだけなのです。そのあたりまえの生活のための舞台裏では、壮大なムダが生まれ、数限りなく奪われているいのちがあるのです。
 でも、自分が得する、私たちの利益だ、と思う限り、自分の生活を否定することはありません。逆に、自分が損をする、自分たちが不利益をこうむることについては、猛烈に否定し、反発し、反撃さえ加えようとします。

 「如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき」という親鸞聖人の言葉を、あらためて深く味わうしかありません。私にとっては、そういうはたらきによって生かされているとしか言えません。

 しかし、それだけでは、現代の人に対して何が伝わるのか・・・・というのが、私のなかでの問題でもあります。私がすることに慈悲はなくとも、有情を利益することはできなくとも、さらに私のすることが末通らないことであるから、何もしなくてもよい、ということではないはずです。何かすべきことはあるはずです。
 それは、この世に生きる者すべてが共通した同じことではないかも知れません。人それぞれの思いのところですればよいと思っています。それは、一人ひとりが考え、動かなければならないことです。

 私は、たまたま、阿弥陀さまの願いに出遇わせていただき、わが身の至らなさを、仏法という鏡に映されることで知らせてもらいました。そのことを知らされたからこそ、おごらずに、わが身にふさわしい小慈悲ができないかと求めるべきだと思っています。不十分でも、不完全でも、それは致し方ありません。そこは凡夫の慈悲なのですから。

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2009年12月10日 (木)

如来の願船いまさずは

 『愚の力』のなかで、大谷光真門主は、わが身は末通らぬものという自覚が必要であることを述べられています。

  小慈小悲もなき身にて
  有情利益はおもふまじ
  如来の願船いまさずは
  苦海をいかでかわたるべき
   (『正像末和讃』註釈版p.617)
小さな慈悲さえも持ち合わせていないわが身だから、いのちあるものすべてを利益しようとなどとは思いもよらない。阿弥陀如来の大きな願いがなかったなら、生死の苦海をどうしてわたることができようか。

 慈悲には、大慈悲、中慈悲、小慈悲があります。大慈悲は仏さまの慈悲です。仏さまの智慧によって、どのような人、どのようないのちに対しても、平等にはたらく慈悲です。どんな制限もありません。無限の慈悲なのです。
 中慈悲は、修行者としてひたすら道を求め、人びとを導く菩薩の慈悲です。自分の思いによって起こす慈悲ではなく、仏法を知った者が仏法に照らされることによって起こる慈悲です。
 上記のご和讃のなかにある「小慈小悲」というのは小慈悲のことです。小慈悲は、われわれ凡夫が起こす慈悲で、衆生のあまりにも気の毒な姿をみて起こす慈悲です。しかしその慈悲には、差別の心、見下す心が下地になっています。嫌いな人や憎い奴に対しては起こりません。また、長続きすることはありませんし、とても複雑な思いや計算が無意識のうちに混じってしまっています。瞬く間に消えてしまい、濁ってしまうのが小慈悲なのです。

 親鸞聖人42歳と59歳のとき、衆生利益のためにということで、浄土三部経(『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』)を読まれています。とくに1230年(親鸞聖人58歳のとき)は厳しい冷害におそわれ、翌1231年は未曾有の飢饉がおとずれ、多くの人びとが亡くなっていくのを見られたでしょう。親鸞聖人は、そこで何としようとされ、思い立たれたのが三部経の読誦だったです。おそらく、比叡山の修行中、「~のために」三部経を読誦されることが何度もあったのでしょう。そのすることを教えられ、そうすることを身につけてこられたのです。
 しかし、ハッと気づかれ、突然それをやめられます。小慈小悲もないものが経文を読誦したからといって、それが衆生利益のための末通った救いになるのか、と。

 阿弥陀さまの願いがあり、その願いによって気づかされたのです。自分が凡夫であり、小慈小悲もない身である知らされ、阿弥陀さまの大きな願いのなかに生かされること。それしか末通った慈悲はないのです。
 「如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき」というのは、大慈悲に出遇った親鸞聖人のよろこびの叫びとして聞こえてくるようです。

 何もできないから、無力だから、それで何もしないのではありません。多くの人に末通った阿弥陀さまの願いを聞いてもらいたいと願い、一人でも多くの人が大悲に出遇う縁をつくるため、関東での伝道を続けられたに違いありません。

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2009年12月 9日 (水)

『愚の力』の書誌データ

これまで9回に分けて、『愚の力』を見てきました。本というのは、積んどく、放っとくというのを別にして、サラッと読む本、熟読する本、繰り返し読む本、いろいろありますが、あなたはどのような読み方をされる(された)でしょうか。
いずれにしても、このような現代社会と仏教の接点を常に見つめながら、多くの人に仏教を知ってもらいたい、聞いてもらいたいと、強い願いが伝わってくる本というのは、そんなに多くはないと、私は思っています。まずは、まだ読んでおられない方は、読んでください。

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  書  名:『愚の力』
  著  者:大谷光真
  発 行 所:文藝春秋(文春新書)
  発 行 日:2009年10月発行
  ページ数:224ページ
  版  型:新書版
  定  価:819円(税込)


 とってもいい本であっても、1冊読んだら仏教がわかった、真実信心を体得できたということは、まずまずあり得なえないでしょう。しかし、1冊の本によって衝撃を受けることや、人生が変わるということはあると思います。そんな本に出遇えたら、とっても幸せかもしれません。そんな本に出遇えるかどうかは、読んでみないとわからない。

 でも、もしかして、たまたま出遭った本が、そんな本であるかもしれません。とてもワクワクするじゃないですか。

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『愚の力』第6章から(下)

 大谷門主は「小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ 如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき」(『正像末和讃』註釈版p.617)という和讃を引用され、次のように述べられます。

 「自分の行動は『小慈小悲』や『有情利益』と呼べるものではない、とつねに自己を厳しい視点から問い直しているのです。真の意味で相手の身になるのはそれほど難しい。善意であればあるほど難しい。他者の苦悩に対する感受性が鈍ると人を傷つけることに直結します。善意が一番厄介です。自分自身が善である、善人であるという思いが問題なのです」(p.183)
 「自分を善人の側に置いている限りは、やはり見えてこないものがある。末通らぬもの、愚者としての自分は見えてこないのです」(p.184)
 私の生き方は、自分で善いことをしたと思い、他人から立派なことをしたと持ち上げられたら「善人」に舞い上がってしまいます。それが問題だと指摘されているのです。どこまでいっても「善人」にはなれないのだというのです。

 「親鸞聖人は人間性というものを素直に受け止められました。無理に強がりを言ったり、都合の悪いことを隠したりしません。自分の愚かな姿をそのまま認められました」(p.185)
 ありのままの人間をありのままに受け止める。これができればいいのですが、社会を生きていくためには、自分を善くみせたり、飾ったりするだけではなく、都合の悪いところを隠したり、ウソで固めたり・・・・ということをしてしまいます。よくないこととわかっていても、そうせずには生きていくことができないこともたくさんあります。それは学校や会社だけではなく、身近な家族・親族あるいは地域のなかでさえもそうしているのです。よく考えてみれば、実に愚かにしか生きることができていないということではないでしょうか。

 親鸞聖人も、最初は、ありのままの人間を(=自分を)ありのままに受け止めることができなかった。しかし、ありのままの自分を、遠い過去からそのまま受け入れてくださっていた方がすでにおられたことに気づかれたのです。それこそ、何もかも知り、受け入れてくれているほんとうの親に出遭われたということです。強がりを言ったり、悪いことを隠したりせずとも、知っていてくださっているのですから、強がることも隠すことも必要なくなってしまったし、愚かな自分を認めずにはおれなかった。そういうように私は感じています。

 「科学的思考・実証主義的精神に基づく現代社会は、真実を必要のないものとして排除しているように思います」(p.186)
 まず、科学的思考や実証主義が真実ではないということを知らねばなりません。この世のことは相対的です。科学的に証明された真理といわれているものでさえ、時代の経過とともに見直されたり、あらたな発見によって書き換えられたものも数多くあります。
 しかしここでいう真実とは、時代が経過しても、社会が変わって状況が移り変わっても、決して変わらないもののことを言うのです。「そんなものどこにある?」と思ってしまうことが、すでに真実が必要ではないものとして排除していることではないのでしょうか。真実のある・なしを問うのではなく、真実そのものを求めるしかありません。

 「人間中心であればあるほど私という人間を失っていくのです」(p.186)
 人間中心というのは社会のめざすもの。私がめざすのは「わたしが中心」という生き方です。人間中心がめざした社会は人間を失い、わたしのことしか考えない私は、私を見失ってしまっているのです。

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2009年12月 8日 (火)

『愚の力』第6章から(上)

 浄土真宗本願寺派大谷光真門主の著書『愚の力』(文春新書)本編の最後、第6章です。

 「仏教とは世の中は思い通りにならないという視点と、思い通りにするところに苦が生じるという人間存在について考えるものです。仏教の基本は「苦」であり、その実践道としての四諦がある」(p.172)
 この部分は、どの仏教であるかぎりどの宗派にも共通した基本的認識です。実践道としての四諦については、本書においても165~168ページにも記されているところです。もう一度読み直してみてください。そこに示されているように、苦しみを克服した安らぎの状態である「苦滅」のためには、八正道を実践してみるということ以外にはないのです。ちなみに八正道とは次の八つです。
  ① 正見(正しく見る)、
  ② 正思惟(正しく考える)
  ③ 正語(正しい言葉を用いる)
  ④ 正業(正しく行動する)
  ⑤ 正命(正しく生活する)
  ⑥ 正精進(正しく努力する)
  ⑦ 正念(正しい思い気づかう)
  ⑧ 正定(正しく精神を統一する)
言葉のうえからするととても簡単。幼稚園や小学生の実践徳目のようです。この八正道に真向かいになることが仏教です。これが「今を生きる私にとっての教え」です。それしかありません。

 ところが、その道を真剣に歩もうと、八正道の実践を始めてもなかなか難しい。「言うは易く、行うはきわめて難し」です。そこのところを「末通らぬ者」という言葉で示されています。末通らぬ者であるから八正道を実践しなければならないのですが、末通らぬ者であるから八正道を実践することができないのです。まさに迷いであり、そのままではいつまでたっても苦から脱することはできません。だから次のように言われています。

 「不完全な存在であるという自覚をもとに、できることからやるのです。そうした反省なしに、ただ他力に頼るというのは違います」(p.181)
 ここの部分の前半だけを見ると、仏教書でなくとも、何かのハウツーものの本にも書かれているようなことです。ものごとを成就するための基本的な方法です。
 ところが、念仏の教えを聞く人たちのなかでこのような話しをすると、「それは自力であって、他力の教えに背くのではないのか」という質問や話題になります。確かに、念仏の教えでは自力・他力の違いを厳格に分けますが、自力と他力の違いを見極めることが目的ではありません。
 聞くための道程が自力か他力かを、仏法の求道者が問う必要はありません。阿弥陀さまの願いが聞けたとき、間違いないと信順できたとき、弥陀の本願に帰依することができたとき、自分の力ではなかったことをはっきりと知るというだけのことです。末通るものが何であるのかをはっきり知らせてもらえるのです。その部分をつぎのように著しておられます。

 「浄土真宗には伝統的に『お育てに遇う』という言葉があります。慈悲のこころをもつ自分自身が不完全なものであると知ることで、自分が深まっていく。それが『育てられる』ということです」(p.182)。
 仏法には縁があろうはずのなかった者が、阿弥陀さまの慈悲に照らされることによって、私が育てられ、阿弥陀さまのこころに少しずつ気づかせていただくようになっていくのです。
 

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2009年12月 7日 (月)

『愚の力』第5章から(下)

 『愚の力』第5章の後半部分です。

 「自らが『末通らぬ者』であり、個人で償ったり改めたりできない大きな課題を担わざるを得ない存在でもあることに気づかさねばなりません。商品の消費者ではなく、いのちの消費者として生きているという観点を深めていくことが大切です。個人で償ったり改めたりできない大きな課題を担って生きているのがまさに私たちであること、生きるとはそうしたもの抜きには在り得ないことが明らかになってくるのです。そこで初めて『悪人』とは何者かと問うことができるのです」(pp.148-149)
 「末通らぬ者」「個人で償ったり改めたりできない課題を担わざるを得ない存在」「いのちの消費者」。いずれもそれぞれに深く味わうべき言葉です。深めるほどに、“私って、いったい何者?”という思いに至ります。

 「親鸞聖人の教えをいただく場合は、一つ一つも大事には違いないのですが、その一つ一つが悪なのか善なのかという問題にはなりません。人間全体が背負っている、どうにもならない問題こそが問われるべきなのです」(p.150)
 親鸞聖人は、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり」(『歎異抄』註釈版p.853)とおっしゃっておられます。“「どうにもならない問題」って何?”って、ここでも問いが出てきます。もちろん私自身の問題なのですが、私自身では答えがでない。そこの部分を引き受けてくださるのが阿弥陀さまなのです。

 最後のところで、仏教の基本的な視点が、大谷門主の視点、言葉で表現されています。その一部を紹介します。

 「お経の言葉を人のこころに置いていく。理解するのではなく、こころの中に言葉を置くことが大事なのではないかと思います」(p.161)

 「『思い通りにならない』ことが苦であると同時に、『思い通りにしようとする』ところに苦が生じるということもあります」「思い通りにしたいと思う人間存在そのものが苦であるとも言えます」(いずれもp.162)

 「人間としてのありのままの姿、存在構造を苦と見極め、苦の原因を煩悩であると明らかにして、その上で求められるべき理想の姿としての苦滅を願うという、現実から理想へと向かう軸を立てるのです。そして、その軸に照らして現実の自分の姿が、一体何に向かおうとしているのかが問われねばなりません。私は問われねばならないというそのことに、まず気がつくというのが仏教なのです」(p.168)

 この章は、読み返すほどに、いろんなことを味わうことができます。含蓄のある文章が、あちこちに散りばめられています。輪読会などして、思いを分かち合うのはとても意味のあることだと思います。私もまだまだ紹介したい部分、思いを述べたい部分はたくさんありますが、あえて省略しておきます。ぜひ読んでいただいて、いろんな思いを巡らしていただきたいと思います。

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2009年12月 6日 (日)

『愚の力』第5章から(上)

 大谷光真門主の『愚の力』(文春新書)の第4章は、親鸞聖人の生き方を通して、聖人の教えが示されていますが、後日、少していねいに触れてみたいと思っています。ここでは第5章に進みたいと思います。私は、この第5章がこの書の核心部分だと感じています。

 「『愚者の自覚』が難しいのは、仏法に出遇うこと自体が難しいのだと捉え直してみるべきでしょう。『どうすればいいか』とか『こうすれば上手くいく』という方法論を語るのではなく、そもそもが難しい、だから出遇うしかないのです」(p.130)
 真剣に仏法を聞いている人から、「仏法って難しい」ということを聞くことがあります。いろんな話しを聞いてきたけれど理解ができない、ということでしょう。歴史をたどることも、意味を知ることも、教学を学ぶことも、説教を聞くことも、みんなとても大切なことです。だからと言って、そういうことに精進したらどうにかなるのではなく、「出遇うしかない」。この言葉に尽きるように思います。

 「私の内側に私の力の及ばないものがある。自分が外側からかき集めてきたものは実はまったく役に立たない、そういう存在である自分を自覚すること、それが『愚者になる』ということなのです」(p.134)
 内側に力の及ばないもの、外側からかき集めてきたものが役に立たない、って絶望です。そんなことを感じて、安閑と生きることができるはずはありません。しかしその絶望に至るのことが怖いと、なんとなく感じてしまう。だから、この世の快楽を求めることでごまかしてしまっているのではないでしょうか。それが私の姿です。私は「愚者」などとは思えないし、思いたくもない。でも、その私の姿を「愚者」だと阿弥陀さまは見てくださっている、知っていてくださっている。私が自覚するか否かということとは、まったく関係なしに。
 私は「愚者」とは思えなかったけれど、阿弥陀さまが私のことを「愚者」と見ていてくださっている、知っていてくださっていると知らされることで、頭を下げずにはおれませんでした。
 
 経済のグローバル化によって、世界全体が豊かになり、賃金格差もなくなり搾取もなくなるという人もいるけれど、「それまで地球上の食糧や資源、エネルギー環境がもつとはとても思えません。となれば豊かな国は今より生活水準を下げないと成り立たないでしょう」(p.143)
 「競争原理に基づいてグローバル経済を推進する人たちは、本気ですべての人類が豊かになるのを望んでいるのでしょうか」(p.144)
 だれもが豊かに暮らしたいし、景気が悪くなったらよくなってほしいと思うのはあたりまえのことでしょう。もちろん私もそう思っています。しかし今の日本の贅沢三昧の生活が、いつまでも続くものではないということも、だれもが感じているのではないでしょうか。
 今より生活水準を下げなければならないとか、すべての人類が豊かになるのを望んでいるのか、というメッセージの厳しさを、私が受け止めなければなりません。

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2009年12月 5日 (土)

『愚の力』第3章から

 浄土真宗本願寺派大谷光真門主の著書『愚の力』の第2章についての記述が少し多すぎました。第3章は、コンパクトに書きます。

 「自分の限界がいかなるものなのかは自分自身ではわからないものです。だからいつの時代でも、『やる気があれば何でもできる』とか『できないのはやる気がないからだ』といった精神主義が一定の影響をもつのでしょう。こうした精神主義は励ましとしては有効かもしれませんが、実際にはあまり役にたちません」(p.65)
 漠然と人間が死ぬことは知っていますが、親が死ぬことも、夫や妻が死ぬことも、子どもが死ぬことも、そして自分が死ぬことも知らないのです。仕事も生活も、それらの人たちが生き続けることを前提にしているのですから。
 “そんなこと言ってたら、何もできない・・・・”と流すのではなく、だからこそ「生死いづべき道」を求めねばならないのです。
 がんばることも大事ですが、それ以上に大事なのはがんばれなくなる自分でもあることを知っておくことです。自分ではわからなくても、人生のなかで、教えられたり、フッと気づかされることがあります。でも、その受け皿を準備しておかなければ、せっかくの機会を受け入れられずに苦しんだり、反発して逃してしまいます。

 親鸞聖人が教える「罪悪」は、それが「阿弥陀如来の救いのめあてである」ということと、その罪悪を戒めておられるという二つの意味があり(pp.72-74)、また、「救いとは、自分の姿を知らされると共に、阿弥陀如来によって支えられているという深い自覚が伴います」(p.74)
 ここは念仏の教えのとても大切な部分です。私は、親鸞聖人はこの部分を明らかにされるために数々の著書を書かれた、と思っています。しかし、大切なことは、いくら理屈を知っても何の力にもなりません。この部分は宗教体験できてのみ、納得できるところです。それは阿弥陀さまへの絶対的な帰依であって、人や組織への帰依でないことは言うまでもありません。
 人間の世界では、「絶対的」という言葉は言葉としてあるのみですが、阿弥陀さまへの帰依は「絶対的」なのです。仏法不思議のゆえんです。私と阿弥陀さまとの間にはまったく隙間がないということでもあります。

 「人間だれしも自分が悪人だとは思ってはいません。しかし、自分が善人の側、裁く側に立っているかぎり、世の中は怪しからん事ばかりで、世の中を温かくみつめることは難しい。すべて都合の悪いことは他人のせいにしてしまいます」(p.76)
 人間が「偉くなってきた」のだと思います。それは教育レベルの上昇、科学の発達と無関係ではない気がします。その結果、人間に自信がついてきたのだと思います。しかし、人間の全面的肯定(=人間中心主義)が、自信を過信に、過信を傲慢にしてしまった結果ではないでしょうか。
 
 浄土真宗の説教では、「『凡夫にめざめた、喜びと慚愧の生活』というところの後ろの『慚愧』の部分だけが強調されてしまい、なかなか親鸞聖人が喜ばれた、法然聖人が喜ばれた境地にまでは辿りついていないわけです」(p.85)
 不特定多数の人に向けては、なかなかはっきりと示すことは難しいところだと思います。いろんなことから(という表現しかできない)、またいろんな思いがあって、それなりにオブラートを包むことになります。しかし、私は、そういう部分を振り切って、「阿弥陀さまの願いに遇うとことによらなければ、その喜びがわからない」と言い切ります。

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2009年12月 4日 (金)

『愚の力』第2章から(下)

 浄土真宗本願寺派大谷光真門主の著書『愚の力』の第2章の後半です。

 仏壇のある生活をすすめられています。そして、
 「合理的に考えると無意味に思われるようなことに、大切なものが宿っていることがあります。お仏壇を迎える、お仏飯を供える、手を合わせる。そういう形が大事なのです。自分の立っている場所を確かめ、世界と向き合う態度を決め、仏教の価値観を内面化する大きな意味があるのです」(p.59)
 これまで、形式的なものの大切さは感じていますが、必要以上に軽くみていました。しかし伝統や家庭のしつけのなかで、知らず知らずのうちに手を合わせる自分がいました。人生のどこかで、知らず知らずのうちに、あるいは形式的に手を合わせてきたことへの反発みたいなものがありました。しかしそれは、わけがわからずとも手を合わせてきたという事実があったからこそわき出てきた反発です。
 仏壇に手を合わせるということは、そういう伝統や習慣を経験することの無かった人にすれば、私が思う以上に難しいことなのかもしれません。しかし、難しくとも、手を合わせるということを形からでも始めることが、阿弥陀さまの願いを知り、わが身を知るための近道であることを思います。

 金子みすゞの詩のなかに、「お仏壇」というのがあります。作者の思いがとても強くでています。そこには、仏さまと心が通い合わせていることを感じます。

   お仏壇(金子みすゞ)

  お背戸でもいだ 橙も、
  町のみやげの花菓子も、
  仏さまのを あげなけりゃ、
  私たちにはとれないの。

  だけど、やさしい仏さま、
  じきにみんなに下さるの。
  だから私はていねいに、
  両手かさねていただくの。

  家には お庭ないけれど、
  お仏壇にはいつだって、
  きれいな花が咲いているの。
  それでうち中あかるいの。

  そしてやさしい仏さま、
  それも私にくださるの。
  だけどこぼれた花びらを、
  踏んだりしてはいけないの。

  朝と晩とに おばあさま、
  いつもお燈明あげるのよ。
  なかはすっかり黄金だから、
  御殿のように、かがやくの。

  朝と晩とに忘れずに、
  私もお禮をあげるのよ。
  そしてそのとき思うのよ、
  いちんち忘れてたことを。

  忘れていても、仏さま、
  いつもみていてくださるの。
  だから私はこういうの、
  「ありがと、ありがと、仏さま。」

  黄金の御殿のようだけど、
  これは、ちいさな御門なの。
  いつも私がいい子なら、
  いつか通ってゆけるのよ。

 自然のなかで四季を感じることの大切さも語られています。そして、次のように記されています。
 「一切衆生として、いのちがつながっているのが見えにくい。本当に難しい時代だからこそ、改めてその感受性を回復しなければならないのです」(p.61)
 花は観賞するもの、牛や魚は食べるもの、ハエやゴキブリは害虫、夏は冷房するもの・冬は暖房は暖房するもの・・・・というのが、私たちの常識になっています。生かされているという思いも、いのちそのものを感じる余地などもどこにもありません。音や色やデザインなどには敏感になっても、人間として生きてゆくための肝心な感受性を失ってしまっているようです。

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2009年12月 3日 (木)

『愚の力』第2章から(中)

 浄土真宗本願寺派大谷光真門主の著書『愚の力』の第2章の中頃です。

 「『私』ということがらは、広いつながりを抜きにしては瞬時も成り立たないのです。私は決して中心ではないのです」(p.49)
 太陽を中心にして地球が回っているということは誰もが知っていることですが、現実世界では自分を中心に社会が動いていると思って毎日の生活をしている。これは本能的ともいう思いのような気がします。私の生は、自然とのつながり、人とのつながり、物とのつながりがなかったら、一日たりともありえません。それ以前に、いま、ここにこうして存在することすらないのです。それらのことを、真実だなぁ~、という具合になかなか思えないことが迷いということなのです。

「自分以外はすべて利用する対象、『物』なのです。他者は利用すべき対象でしかない、人間がいて人間以外は消費する対象でしかない」(p.50)
 大谷門主のこの本で問題提起をされているひとつが、人間中心主義となっている日本社会の現状です。きっと“そんなこと言われても、そうしなければ生きていけない”という思いを抱いてしまいます。まったくそのとおり。今の日本の繁栄も、人間による英知の結晶だと思います。しかしそれが当たり前のことではない、人間に与えられた特権ではないことを十分に肝に銘じなければなりません。

 「『持続可能性』という言葉も、あくまで人間の生活が持続するというのが眼目なのですから。一切衆生という考え方は、そうした人間中心の考え方に大きな転換を与える可能性があると考えます」(p.50)
 環境問題を考える上に、「持続可能性」というのはキーワードです。私の尊敬する研究者や市民の人たちも、そういうことを強く意識され、わが身にかけた実践活動をされ、多くのことを教えていただきます。ただ、それも人間の生活が持続するという視点の延長です。一切衆生という視点のもとでは、共感してくださっても、なかなか具体的実践にはならないようです。だからといって、しかたがない・・・というのではなく、叫び続けていかなければならないようなだと思っています。

 「一切衆生は原理原則ではありません。『一切衆生なのだから』という生き方と、『一切衆生なのだけれど』という生き方があるのです。可能な部分と不可能な部分、両方がある。人間として生きていく以上、すべて一切衆生というわけにはいきません」(p.52)
 これは、私にとってはとってもありがたい言葉です。こういう視点と表現は、自分の一切衆生としての立ち位置を、あざやかに示してくださっています。一切衆生は仏教理解の分析の言葉ではなく、私のことそのものなのです。

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2009年12月 2日 (水)

『愚の力』第2章から(上)

 浄土真宗本願寺派大谷光真門主の著書『愚の力』の第2章では、現代社会に生きる人間のごく身近な生活の問題点に触れられています。

 「自分とつながっている周囲が存在するという手応えがない現代の孤独には、『自分探し』が必要になるのです」(p.36)
 家族や地域の人、そのほかさまざまな人との関わりなしに生きることができないのが人間社会です。それを一人でも生きることができているように錯覚させてしまう社会システムを作りあげてきたのです。言い換えるなら、人と人との関係をすべてお金で精算してしまうという社会システムです。そこでは「人」も「つながり」も見えなくなってしまっています。
 何も手がかりもなく「自分探し」ができるのでしょうか?人とのつながりのなかで自分が見えてくるのではないでしょうか。

 「個性や多様性が大事だと育てられ、本人たちもそれを求めているのに、いやそれを求めるがゆえに、かえって画一的で独善的な生活に陥って孤独感を深めてしまうのです」(p.38)
 個性や多様性と口にするのは簡単ですが、画一的で独善的に生きる方がもっと簡単だと思います。画一的で独善的に生きるような社会装置ができあがってしまっているのですから。しかしそこでは、深呼吸することをすっかり忘れてしまっていることを、フッと感じるのです。

 「社会をつくるために一人一人のなすべき役割が、わからなくなってしまったのが現代です」(pp.39-40)
 自分が見えない、人が見えない、つながりも感じなくなってしまっている現状では、自分の居場所もわかっていない。そんななかでは、自分が社会で何をすべきかも見えないのは当然のことでしょう。結局、自分自身と自分をめぐるさまざまなことは何もわかってはいないのです。

 「仏教の根本は個人の問題です。『私』の救いであり、『私』のさとりなのです。自分のいのちの問題を解決するのが基本です」(p.43)
 何もわかってはいない「私」でも、つながりのなかで自分を知らされることは多々あります。しかしほんとうの自分を見せられるのは、仏法という真実の鏡を通してです。そこで初めて自分の「いのちの問題」を知るのです。そこからほんとうの人間としての歩みが始まるように思います。

 「自分の今を考えるときにも、『一切衆生』に照らせば、『人間の絶対化』は許されないことになります。現在生きている人間だけが楽しければよいのではない。狭い『今』ではなくて、大きないのちのつながりの中にある『今』であるとも言えます。」(p.45)
 自分自身を見るとき、「一切衆生」という視点と、「いま、ここの、わたし」という視点があります。「一切衆生」は、すべていのちあるもののことですから、あまりにも漠然としていて、なかなかピンときません。一方、「いま、ここの、わたし」というのは、ピンポイントの狭い一点だけが見えているだけで、ほかのものがまったく見えなくなってしまっています。
 「一切衆生」というのは、阿弥陀さまの目から見える私です。「いま、ここの、わたし」というのは、私が自分のことを見ているのです。この視点が交わらないと、ほんとうの自分が見えてきません。それは、両者の合体の世界ではなく、双方が溶け合ったところにしか見えてこない世界です。そんな力は凡夫にはありません。阿弥陀さまの心を聞いて知らされたところにしかでてこないのです。

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2009年12月 1日 (火)

『愚の力』第1章から

 浄土真宗本願寺派大谷光真門主が、『愚の力』(文春新書,2009年10月)という本を出版されました。

 まず第1章から。ここは現代日本の現状分析を中心に論をすすめられています。気になるところを引用させていただき、私見を述べてみたいと思います。

 「心を滅ぼさないと物は栄えない」(p.16)
 しかも、心を滅ぼして栄えたら、容易に心を取り戻すことはできません。とらわれの心が物によって増幅されていくのでしょう。

 「便利になればなるほど、豊かになればなるほど、長生きすればするほど、私たちの不安は取り除かれるどころか、増大していることに気づきます。そしてお互いがその不安を利用してさえいることに気づくのです」(p.22)
 便利さというところをみると、おそらく現代の日本は、世界のどこと比べても、歴史のどの時点と比べても、これほどの便利さを備えた社会も時代もなかったのではないでしょうか。経済的に大きな問題を抱えても、物にあふれ、ゴミもあふれています。また、世界に誇る長寿国であることも疑いようがありません。しかし、現状の生活レベルを自ら下げることを望む人はいません。下がることにを恐れています。「お互いがその不安を利用してさえいる」ことに気づかないことに問題の深刻さがあります。

 「あってもなくても生存そのものに関わらないものを、あたかもそれがなくては生きられないかのように、上手に誘導されて商品を買わされているように思います。大量生産、大量消費社会の中で欲望を満たす存在でしかない人間になってしまっているということです」(p.24)
 日本の資本主義社会に対する、あるいは地に足のつかない“虚業”への辛辣な批判です。日本が大量生産、大量消費の社会になって、地域的な誤差はあるとしても40年は経過するでしょう。虚業が虚業と思えないほど、精神的な麻痺状態にあるのではないでしょうか。

 「現代における『豊かさ』とか『成功』は、自分の視野をせばめることで、かろうじて成立しているのです」(p.28)
 たとえば、豊かになることは自由に使えるお金をたくさんもっていると思い込めば、また高い地位を得ることが成功と思い込めば、それを目標に邁進する人が立派な人で、尊敬される人です。しかし、そうならなかった人は、不幸のどん底かもしれません。
 生きているなかで、いろんな豊かさや成功があることを楽しむことを忘れています。どんな状態になったとしても、いつも阿弥陀さまに願われている自分であることには、まったく気づかないのです。

 「不安の時代を生きるには、不安であってもその不安を簡単に解消しようとはせず、不安に耐えることが必要なのです。浄土教の教えの『凡夫』や『愚者』の自覚はその一助になるのではないかと私は思います」(p.31)
 手軽に幸せを求め、不安を起こさないような社会システムをつくろうとしています。それはちょっとした不安にも耐えられない人間をつくり出しているのではないでしょうか。そのはけ口は、すぐに他人の責任にし、自分には問題のかけらもないという思いに変わっていくのです。
 他人を見て愚か者とさげすみ、私はそんな輩ではないと思いこんでゆくのです。不安を共有したり、痛みを分かち合うというようなことは徹底的に拒否する。それを180度ひっくり返さえるのが浄土教の教えではないでしょうか。

 これらのことは、あの人この人のことではなく、自分自身の生き方や暮らしぶりであると読まねば、光真門主の意図をくみ取ることはできない。私はそう思うのです。

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