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2010年1月25日 (月)

【告】数日間、休みます

 休みたくはないのですが、数日間、
どうしても書けない状態となりますので、
休みます。

 ちょっとハードに書き続けてきたの
で、読み直したり、味わいなおしたり、
深めたり、反応を聞いたり・・・・と
いう必要性を感じていたところなので、
頭を冷やすのには、ちょうどいい
機会かもしれません。

 休んでいる間に、感想なり、ご意見
なりを、お聞かせください。

 gsaiko@gmail.com  まで。

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矛盾する社会のなかで合掌できますか?

 歴史のなかで長い間、非専門家である住民たちによる相互扶助的な共同によって社会生活が成り立ってきました。個人的なこと、たとえば家の普請や屋根の葺き替え、葬儀や結婚式も地域の助け合いでできました。道普請、農業用水路や生活排水路の掃除、公園の整備などもみんなで力を合わせてやりました。みんなで知恵、時間、労働、土地、道具、金銭を含む生活上の資源を出し合い、共通・共同の問題の処理にあたってきましたのです。

 しかし、最近では、共同で何かをするということはずいぶん減ってきています。時間的身体的に縛られるのを嫌い、お金を出して専門業者に頼めばいいという傾向が非常に強くなっています。素人(非専門家)がやるより、専門家がやる方がはるかに早く、粋に目的が達せられます。機能的、効率的、合理的であり、精神的身体的にはずいぶん楽ができるですから。

 専門業者に頼むことで、ずいぶん便利になった、楽になった、何もかも粋にきれいにできるようになったのですが、そのかわりに経済的負担が大きくなります。そのため、たくさんのお金を手に入れることが、便利で、楽で、粋にきれいに、さらには幸せに生きることだとさえ思い、人生の大きな目標になってしまいます。また、そういう生活を繰り返してゆくと、不便で、しんどくって、不細工で・・・という生活に戻るのは、みじめな気にさえなってしまいます。自らを人生の「負け組」に位置づけてしまう人もいるようです。


 相互扶助的な共同による社会生活と、専門業者に頼る機能的効率的合理的な社会生活のどちらがよいのか。いまはあまりに専門業者に依存する傾向がとても強くなっていますが、その反動で、人びとの人間関係がきわめて希薄になり、相互扶助的な連携の必要性が声高に叫ばれるようにもなっています。

 しかし個人的な思いと、社会全体から見た功罪が一致するとは限りません。個人的な好き嫌いは言えても、社会全体からの良し悪しを論ずることはむつかしいことです。 

 個人的には、上手に組み合わせることが必要だと思うのですが、どちらにもべったりと頼ってしまうとことがよいことではありません。世間では、どちらを選ぶか、あるいはどのようにこの両者を組み合わせるかということが大きな課題です。しかし、もうひとつ、どちらにも頼ることができないこともあるというのが世の常です。

 そんなことが無いように、社会的なシステムがしっかりと整備されなければなりませんが、いまのところ相互扶助的なしくみが壊れ、専門的な社会的システムが未整備という最悪の状態ではないでしょうか。

 結論から言うと、そんな実に不安定な世において、仮にどちらが欠けても、阿弥陀さまの絶対的な力によって絶対の安心を得ることができるのです。もちろん、物や身体や人間関係での苦労は絶えないでしょう。しかし絶えることのない苦労に手を合わせることができるのが念仏なのですから。

 ここでは書ききれません。この問題は、現代社会と仏法あるいは念仏との関係を考える序章だと思っています。

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2010年1月24日 (日)

法に促されて機に気づく

 念仏の教えは、機法一体の教えです。法とは、阿弥陀さまの教え、阿弥陀さまの願いです。阿弥陀さまが示してくださっている真実です。機とは、教えを聞く人のことです。あるいは教えを聞く人の持ち物のことです。持ち物といっても、自分の内側の持ち物ですから、なかなか自分でも気づかないことがたくさんあります。

 その機と法が一体となるというのが念仏の教えですが、放っておいたら勝手に一体になるというものではありません。阿弥陀さまの願いを受けないことには一体になることはできません。ところが、阿弥陀さまの願いを受けるということはとても難しいことです。
 阿弥陀さまの願いというのは、私の内側の持ち物をしっかり点検した上で、そこにある数々の問題を一つ残らず解決するためにできあがっています。阿弥陀さまがなぜそんなことされたのかというと、まず私は自分の持ち物のことを十分に把握することができないのです。それはほんとうのことを知らないということがあるでしょう。また他人に対する評価は厳しいけれど、自分に対しては実に甘いのです。これではほんとうの自分をみることはできません。だから阿弥陀さまが替わってやってくださったのです。二つめにはほんとうの自分を厳しく見つめ、次々に問題を発見したとしてもそれを解決する手だてを持たないから、阿弥陀さまが私に替わってその解決の手段を示してくださっているのです。

 私は何をすればよいのでしょうか。自分自身を知ること、我が持ち物をしっかり自覚することです。そのためには、阿弥陀さまが説かれたことを聞く以外にはありません。自分自身を身びいきする私ですから、都合のいい話は聞きますが、自分に都合が悪くなると耳をふさいでしまいます。
 自分の好きなこと、自分をほめてくれること、自分に都合のよいことは進んで聞くのですが、耳をふさぎたくなるような話しはなかなか聞けません。その場から逃げてしまいます。しかしそこを聞かねばならないのです。聞かねばならないのは「機」の話しなのです。
たとえば、私の思いどおりにしたいという思いいっぱいで生きている私。思い通りにならなければ腹をたて、不満いっぱいで生きていく私。いつもそんな思いいっぱいで生きているのだということを見ようとしない私、などなど。そんな自分に気づかないまま、意識することなく生きているのではありませんか。

 しかし先にも書いたように、自分の機をしっかり聞いて、自分の持ち物に気づいたからといって、どうなるものでもありません。恥ずかしさや愚かさを知り、少しは殊勝な気持ちになったところで、その自分の持ち物をすっかり変えることなどできないのですから。
 阿弥陀さまは、そんな私の姿さえも見通してくださっているのです。私はどうすることもできないのです。だから阿弥陀さまは、私がどうする必要もないように願いはたらいてくださっている。まずそのことを聞かせてもらうのです。

 私がどうすることも必要ないのに、機法一体となることができる。それは初めから終わりまで阿弥陀さまがはたらき続けてくださっているからです。その阿弥陀さまのはたらきを知らせてもらうためには、聞きにくいことではありますが、自分の機について知ることは一つの方法です。
 もちろん、阿弥陀さまの願いをそのまま受け止め、いただくことができるなら、それはとてもありがたいことです。方向や順番の問題ではなく、私と阿弥陀さまの心が一つにならせていただくことが大切なのです。

 一つにならせていただいた姿は、南無阿弥陀仏と称名念仏させていただく姿です。私が称えていると思っていますが、阿弥陀さまに教えられ、うながされたからこそ称えている念仏であることに気づかされるのです。

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2010年1月23日 (土)

墓・遺骨への思いを念仏に

 お墓を守るのは、かつては家長の役割でした。それは明治以降、「家」制度の名のもとに徹底されてゆきます。第二次世界大戦後、「家」制度がなくなり家長はいなくなりましたが、やはり長男が継ぐという形が続きました。それから大きく社会が移り変わるなかで、墓に対する価値観は実にさまざまです。
 墓に対する思いとは別に、遺骨をめぐっては、また違った人間関係をみることができます。遺骨の場合は、「家」という制度的な関係ではなく、情的なつながりが強く見られるようです。

 価値観は多様化したとはいえ、“○○家之墓”“○○家先祖代々之墓”という、「家」の存続を前提した墓存続のシステムと、情的な遺骨への執着が微妙に絡みあっていますから、お墓の需要はそう簡単に絶えることはないと思われます。
 また、その「家」が繁栄しているとき、個人的生活上、経済的・精神的な面に余裕があるとき、自分が墓参や管理ができなくとも替わって維持してくれる人間関係がある、などの条件がそろえば、お墓の維持はされていきます。
 しかし、昨今、子どもの数が減少し、家族や親族関係がきわめて薄くなっています。「家」を継承したくても一人っ子どうしの結婚となると、その継承は簡単なことではありません。

 寺院の墓地や霊園においても、何年かに一度は、無縁となったお墓の改葬がおこなわれます。毎年、墓地使用冥加(俗っぽく言うなら「管理費」)を納めることになっていますが、それが長年の滞納や、墓地の名義人が亡くなられたあとの後継者がいないお墓が対象となります。ストレートに言うなら、お墓の整理をし、遺骨を総廟(合同墓)に埋葬するのです。
 とても立派な墓なのに継ぐ人がいない。たくさんの人の遺骨が納められているのにだれもお参りにも来ない。まったく見ず知らずの人であっても、少し悲しい気持ちになってしまいます。

 遺骨を大切にお墓に納めても、何代もたつと古くからある遺骨は誰のものかわからなくなってしまっています。また、お墓の納骨室がいっぱいになるので、骨壺から遺骨を出して土に返します。そうなると、遺骨特定はできなくなります。
 墓を大事にし、遺骨に執着することは、いまの自分の気持ちの延長でしかありません。その気持ちは、いろんなできごとのなかで大きく変わってしまいます。この世で生きていたら、「家」がとても大事だと思う人もいるでしょうし、親や妻や子といった家族さらには親族との深い人間関係への執着もあるでしょう。しかしみんなこの世を生きていくための借り物なのです。
 それは墓や遺骨をおろそかにするということを言っているのではありません。大切にしていても、決して末通ったものではないということなのです。

 亡くなった人も、私も、南無阿弥陀仏の喚び声にいだかれて生きていくしかないのです。それゆえ、浄土真宗のお墓は、原則として、竿石に「南無阿弥陀仏」と名号が刻まれています。石を拝むのでも、そこに納められている遺骨を拝むのでも、あるいは“○○家之墓”を拝むのでもありません。「南無阿弥陀仏」に手をあわせるのです。
 固いように見えても墓石は壊れることがあります。続くように思っても、「家」には盛衰があり、絶えることもあります。強い情的な思いも、長い人生や世代の移り変わりによって消えてしまうこともあるでしょう。ほんとに末通るものは、念仏しかないのです。

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2010年1月22日 (金)

大きな願いは成就しています

 一昨日、第十八願のなかの至心、信楽、欲生という三心は、阿弥陀さまの心だと書きました。しかし厳密に言うなら、これは法蔵菩薩の心です。
 『無量寿経』によれば、私たちの知るよしもない遠い過去に一人の国王がおられ、世自在王仏の説法を聞いて弟子となられました。なんとしても一切衆生を平等に救いたいと世自在王仏の前で四十八願を誓われた方が法蔵菩薩です。それから、また私たちが及びもつかぬほどの永い時間を費やしてご修行くださり、その願いを成就して阿弥陀仏となられたと説かれてあります。
 それは、四十八願の成就ではあるのですが、そのなかでも真実の願である第十八願を成就してくださったのです。

 第十八願が誓われただけではなく、それが成就したのです。それが「本願成就文」といわれる御文です。『無量寿経』下巻の冒頭に示されています。

  諸有衆生 聞其名号 信心歓喜乃至一念
  至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転
  唯除五逆誹謗正法
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。(『無量寿経』)註釈版p.41)

 この意訳は、「すべての人びとは、その名号のいわれを聞いて信心歓喜する一念のとき、それは、仏の至心から与えられたものであるから、浄土を願うたちどころに往生すべき身に定まり、不退の位に入るのである。ただ、五逆の罪を犯したり、正法を謗ったりするものだけは除かれる」(『真宗の教義と安心』本願寺出版,1995年,p. )

願いが成就した、つまり一切衆生が救われることになったのです。阿弥陀さまがするべきことはすべてなさってくださっているのです。これで私も救われるのです。それは、名号のいわれを聞いて信心歓喜する一念のときです。自分で信心を築きあげるのではありません。歓喜の思いを自分で創り出すこともできません。だから信心も、それに伴う歓喜の心も阿弥陀さまが与えてくださるのです。私はそれをいただくのです。
しかし与えられていることにも気づかず、いただいたおぼえもない・・・ということになれば、歓喜の心も起ころうはずはありません。本願は成就したけれど、間違いなく私を救ってくださることは決まったけれど、そっぽを向いてしまっていては救いようがありません。

 私が気づくとか気づかないというようなことは関係ない。もう、わたしは救われることは決まっているのだから・・・という方もおられます。救いは阿弥陀さまのおはたらきですから、間違いないことでしょう。
 ただ、いただいた信心は、あるいは歓喜の思いは、それぞれのなかでどのようにわきあがり、はたらいているでしょうか。「気づく」というのは、何もなかったのに与えられたことに気づいたり、阿弥陀さまからいただくことで今まで無かったよろこびを実感することです。その中身は、それぞれのいただきようによって、違いはあるでしょう。でも、いただきものに気づかないなんてあり得ないことです。

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2010年1月21日 (木)

阿弥陀さまは寸分の時間も休むことなく

 毎日食べるし、毎日寝るし、毎日呼吸しています。私はそれに加えて毎日出すし、毎日着替えますし、毎日しゃべります。これらはそんなにがんばらなくても実行できます。
 でも、それ以外のことを毎日続けるというのはたいへんなことです。とくに、毎日、阿弥陀さまの願いについて思いをめぐらすということは、私にとってはとてもたいへんなことです。すぐに忘れて、わが身を楽しますことしか考えないのですから。でも、たいへんだからこそ、毎日、一言でも一行でも聖典を読もうと、ちょっと負荷をかけないといけないと思うようになりました。でも、理解できなくても文字を目でなぞれば読んだことにしてしまいますから、書くことにしました。
 昨年10月2日からブログを書き始めました。10月13日から毎日書いて、昨日で100日でした。ちょっと疲れました。また、書いたものを読み直すと書き直したくなるものがいくつもあります。

 阿弥陀さまは、毎日、寸分の時間も休むことなく、立ちづめ、願いづめ、はたらきづめなのです。しかもそれは阿弥陀さま自身のためではなく、この私のためなのです。
 それも半年とか1年という単位ではありません。何百年、何千年という単位でもありません。人間の智慧でははかり知ることができないほどの前からズーッと続いていることです。歴史書には書かれていない以前からです。それは私が六道の流転輪廻を繰り返してきた年月でもあります。その長い間を、“今こそ救うぞ”と願いはたらき続けてくださったのが阿弥陀さま。そんな願いやはたらきがあることなどまったく知らずに迷い続けてきたのが、この私です。

 それでもやっぱり私の関心は、おいしいものを食べたり、自分の好きなことを見たり読んだり聞いたり。そして思い通りにしたい、イヤなことには関わりたくない、あれがほしい、これは嫌いと上手により分けています。
 学びを深める、自己を高める、感性をとぎすます、社会のために尽くす、・・・とかっこ付けたところで、わが身に叶えば精を出し、叶わねばそっぽを向くだけのことです。

 私と阿弥陀さまは、すべてのことに違いすぎます。だから、私が阿弥陀さまのことがよくわからないのはあたりまえです。違いすぎるからわからないのです。私が阿弥陀さまに近づく、私が阿弥陀さまを思う、私が阿弥陀さまの心を察する・・・ことはあり得ないことです。そうできるように思うこともありますが、次元の違う話でしょう。
 それゆえ、阿弥陀さまが私の心をよくご存じで、阿弥陀さまが私に近づき、阿弥陀さまが私を思い、阿弥陀さまがいつも私といっしょにいてくださるのです。南無阿弥陀仏の名号を口に出させていただくことができてこそ、そのことを知らさせてもらうのです。

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2010年1月20日 (水)

阿弥陀さまから賜った信心

 親鸞聖人は、凡夫が助かるのは、阿弥陀さまが立てられた四十八の願のうちの、十八番目の願(第十八願)で往生できると説かれました。この四十八願は『無量寿経』というお経のなかにしめされており、第十八願の原文と訓読は次のようなものです。

   設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國
   乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。(『無量寿経』)註釈版p.18)

 これを意訳すると「もし、わたしが仏になるとき、すべての人々が心から(至心)信じよろこび(信楽)、往生安堵の想いより(欲生)、少なくとも十声念仏して(乃至十念)、そして私の国に生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」(『真宗の教義と安心』本願寺出版,1995年,p.4)

 親鸞聖人は、その心を和讃で次のように述べておられます。

   至心・信楽・欲生と
   十方諸有をすすめてぞ
   不思議の誓願あらはして
   真実報土の因とする
     (『浄土和讃』註釈版P.567)
阿弥陀如来は、至心(ししん)・信楽(しんぎょう)・欲生(よくしょう)の三心をもって、十方衆生が浄土に往生できるよう呼びかけられた。凡夫が仏になるという不思議の誓願をあらわして、阿弥陀さまの浄土に往生できる因(=原因、タネ)を示してくださった。

 私が仏になるための正因として、阿弥陀さまの三つの心があることが示されています。一つは「至心」で真実心のことです。二つめの「信楽」は阿弥陀さまの願い(本願)にすべてをまかせたよろこびの心です。本願への疑いが晴れた心であるとも言えます。そして三つめの「欲生」は、浄土に生まれることを願う心です。
 この三つの心とも阿弥陀さまの心です。阿弥陀さまが私に受け取れと差し出してくださった心です。その心をいただくのです。そうでなければ、私の心のなかのどこを探しても、この心はありません。その心がないから迷ってきたし、迷い続けているのです。さとることができないのです。欲と怒りにまみれてしまっている凡夫なのです。ですから、阿弥陀さまのこの三つの心には見向きもしません。仏法をきかなければ、阿弥陀さまの心なんてまったく理解できないのです。

 この三つの心が「信心」です。阿弥陀さまからいただいた心です。まさに「如来より賜りたる信心」(『歎異抄』註釈版p.835)なのです。この心を受け取ってくれないときには、仏になってもさとりの位にはつかないと誓われているのです。私たちの頭で考えることができない、説明がつけられない、不可思議な誓願なのです。

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2010年1月19日 (火)

信は願より生ずれば

 「信じる」というのはとても難しいことです。「信じる」というのは、対象となった人あるいはものごとに対して、間違いがないと思うことです。だれもが信じたいと思っているでしょうが、信じるべき対象が完璧ということはありません。どこかに多少の間違やミスがでてきます。小さなものでも、間違いやミスが積み重なると信じられなくなってしまいます。また、過去に得た知識や経験を参考にして、目の前に現れる対象を信じる、信じないと判断するのです。複雑な思考のすえの判断というより、ごく自然に直感的にしているのです。
 信じるに足りないことでも、オレオレ詐欺や霊感商法などは、巧みなトリックや話術でついつい信じてしまうということもあるようです。じっくり考える時間を与えてもらえれば間違わないかもしれませんが、直感的な判断を迫られるので信じてしまうのでしょう。

 いずれにせよ、上記のような信じる・信じないという判断は、私の脳のはたらきです。私は自分の脳を信じていますが、悲しいことにいちばん信じることができないのが私の脳なのではないでしょうか。ですから、信じられないこと、信じるべきではないことを簡単に信じてしまいます。逆に、信じなければならないことが信じられないのです。
 私がこの世に生を得て、信じるべきは間違いのない真実です。それは阿弥陀さまの願いとはたらきです。それしかないのです。
 
   信は願より生ずれば
   念仏成仏自然なり
   自然はすなわち報土なり
   証大涅槃をうたがはず
     (『高僧和讃』註釈版p.592)
信心は阿弥陀さまの本願によって生ずるもので、念仏によって仏になるのは阿弥陀さまの願力による自然のはたらきであり、願力によって当然うまれるべき世界が阿弥陀さまの浄土であるから、そこに生まれると、大涅槃の仏果をさとることにはまちがいがない。

 蓮如上人が伝えたかったのは親鸞聖人が説かれたことです。親鸞聖人が説かれたことは法然聖人が明らかにされたことです。法然聖人が明らかにされたのは念仏の教えです。念仏の教えというのは、まさに阿弥陀さまの願いとはたらきです。先師の言葉に微妙な違いはありますが、阿弥陀さまの願いとはたらきを説いておられるのです。
 これらの聖人が説かれた信心は、私が信じる心ではありません。阿弥陀さまからいただく心です。私が信じる心は何かが起こるとすぐ変わります。いただいた心は、私の心でありながら、阿弥陀さまの心です。ですから、阿弥陀さまの願いとはたらきが間違いないと知ることができるのです。

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2010年1月18日 (月)

社会のできごとは念仏のタネ

 昨日の政治ネタに引き続いて、もうひとつ。

 今日の政治的な状況をみて、だれもが自己を振り返らない政治、恥も罪も感じることのない政治が続いているのはとても気になることです。問題が起こって追及されたら、ひたすら隠すのみ。追求する方は、“攻撃は最大の防御”と、ただ突っ走るのみです。それは社会全体の体質の反映であるのかもしれません。

 政治に直接携わっているわけではありませんが、マスコミもいまの政治状況に大きな責任を負っています。連日、おもしろおかしく番組をつくり、誌面を作成します。決めつけてつくられている番組が多いような気もします。コメンテーターに好き放題発言させるだけで、その責任は所在が不明です。マスコミの報道が、社会や政治へどれだけの影響があるかという検証もなされません。静かに見守って状況を判断するとか、マスコミの責任として具体的な提言をするというようなことはありません。報道にミスがあっても、一瞬のテロップか、小さな囲み記事で終わりです。
 マスコミ各社がほしいのは高い視聴率、多くの購読数だけです。現場の記者は客観的に事実を追ってみても、編集の段階で各社のフィルターにかけられてしまい、なかには興味本位の誇張とさえみえてしまうこともあります。火事場の見物人なら黙ってみていますが、火に油を注ぐような番組や紙面が無きにしもあらずです。そこには、自分を振り返る目も、振り返る気持ちもあるようには思えません。
自分の外に問題の原因があると指摘して、相手を責めるだけ揚げ足をとるだけでは、状況も関係もよくなりません。責められ揚げ足をとられた人は、よろこびを感じることなどありえません。

 それぞれの立場で、世のなかに貢献してゆくための方法論は、さまざまなものがあるでしょう。しかしどこかに自己を振り返り、他を認め合うところがないと、欲と怒りの海に埋没してしまします。
 この欲と怒りの海に埋没してしまうのが娑婆世界です。「国民のために」「社会のために」という言葉を錦の御旗として、それを口癖とし、我欲を隠す言い訳になってしまっています。その巧みさは、だれに教えてもらったのかよくわかりませんが、名人芸です。

 しかし、政治もそれを報じるマスコミのはたらきも、その他社会のさまざまなできごとも、みんな私の生き様そのものを映し出してくれている鏡です。それらを鏡としてみると、日常生活のなかで、同じようなことを繰り返していることを知るのです。その鏡は自分の欲と怒りをみごとに映し出してくれています。そんな自分の姿はみたくはありませんが、それこそが念仏のタネとなります。
 その念仏のタネに触れることによって、念仏させてもらうことができるのです。この世のこととしてではなく、仏法の上から政治やマスコミやその他社会のできごとをみれば、私が念仏するためにあるといえるのでしょう。

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2010年1月17日 (日)

さるべき業縁のもよほさば

 長い間続いた自民党政権が、昨年夏の選挙で民主党政権に変わりました。社会の大きな変化に対応できなかったという不満が爆発した結果でしょう。しかし積極的な民主党への支持ではなく、消去法でいけば自民党ではないというのが国民の判断だったような気がします。
 政権が誕生すると、ちょっと不安げに支持した人たちも、大きな期待をしたようにうかがえます。加えて、鳩山首相の温暖化ガス25パーセント排出削減宣言という先制パンチと、事業仕分けというこれまでになかったパフォーマンスによって高い支持を得ました。
 その一方で、日本の抱える大きな財政赤字と景気の大幅後退のなかでの税収減によって、民主党の政権公約(マニュフェスト)の完全実施は難しい状況になってきます。こんなに厳しい経済状況のなかではマニュフェストの一部不履行も致し方ないという人と、マニュフェストで言った限りはどんなことがあっても実行するのが政権政党等だとハッパをかける人や、これで民主党は信用できなくなった・・・とまで言う人が出てきました。
 そこに出てきたのが政治とお金の問題。すべてが明らかになったわけではありませんが、いまのところの空気は、お金の問題は自民党と変わらないなぁと思い、政治権力を握る人間は庶民の気持ちとはズレていると、落胆とあきらめです。
 この3~4ヶ月、すっかり元気がなく、霞のなかに消えそうな感じにみえた自民党も、少し元気になってきた感じです。

 民主党は野党の時に自民党の数々の問題を厳しく問い、自民党に上手にあしらわれてきました。それを国民は知っていますから、昨年の選挙で自民党には投じなかった。しかし、民主党が政権党となっても、出てきた問題は自民党時代と同様のお金の問題です。また、事業仕分けを否定するわけではありませんが、議員の歳費や特権にはまったく切り込まれていません。
 自民党はすぐに始まる通常国会で民主党の政治とお金の問題を追及する構えです。しかし、自らのこれまでの金権体質については、何の反省もありませんから説得力がありません。日本の社会をよくしよう、高い理念を実現しようというふうにはみえません。ただ民主党にダメージを与えたい、やっつけたいとしかみえません。

 だからといって、政治にたずさわる人は、みんな問題のある人でしょうか? 人間に生まれたら、よい子に育つようにと親をはじめ、まわりの人びとや社会から願いがかけられます。だれも問題を起こそうと思って大きくなるわけではありません。また、政治にたずさわろうと思う人たちは、「国民のために」「社会のために」という高い社会的使命も感じておられるのでしょう。
 そんななかで、ある地位に就きある役割を担うのです。希望する地位や役割があるでしょうが、まったく予期しない地位や役割が与えられることもあります。自分の才能や努力で力が発揮できるかもしれませんが、まったく自分の意思とは違うはたらきをしなければならないことも少なからずあるでしょう。それが「業(ごう)」です。その原因はどこにあるのか、どの行為がいまの自分の業を生んだのかを知るよしもありません。
 親鸞聖人が、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(『歎異抄』註釈版p.844)というのは、間違いがないことを味わいます。また、さるべき業縁は、わたしの上にも現れて生かさせていただいていることを感じるのです。

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2010年1月16日 (土)

うれしいときも悲しいときも南無阿弥陀仏

 親鸞聖人は、何百人もの人たちの前で仏法の話しをされたことはないと思うのです。質素な草庵で、せいぜい30人くらいだったのではないでしょうか。しかし草案は念仏の声であふれていたのではないかと想像するのです。
 いまではマイクもスピーカーも高性能なものがありますから、何百人、何千人というホールがいっぱいになって、そこで法要や法話がなされることがあります。ところが、お寺の本堂や大きなホールを埋め尽くす人がいても、人の数に見合うような念仏の声が聞こえてきません。多くの人にお参りしていただいて、その集まりが盛会であることは喜ばしいことです。だからといって、たくさんの方が寄れば教えが繁盛していることではありません。

 蓮如上人が『御文章』のなかで紹介された「うれしさをむかしはそでにつつみけり こよひは身にもあまりぬるかな」という古歌は、念仏してうれしさが身にあまるようなよろこびを感じ、またそのよろこびが念仏となって口に出てしまうということをたとえておられるのでしょう。しかし、いまではそういうことがなくなってしまっているのでしょうか。儀礼の一つとしての念仏、行事進行のプログラムの一つの念仏、形ばかりの念仏、習慣の念仏・・・とはなっていないでしょうか。
 一人ひとりが・・・というより、この私が、阿弥陀さまの真実信心をどのようにいただいているのかしっかり確かめる必要があります。

 真実信心をいただいていないから、念仏が口に出ないとか、不浄念仏は口に出さない、あるいは念仏してはいけないとさえ思っている人もいるようです。どうしてそのようなはからいが必要なのでしょうか。
 親鸞聖人も蓮如上人も念仏せよとおっしゃっておられます。それも称名念仏です。南無阿弥陀仏と口に出すことによって、真実信心の心を知らせてもらうこともあるのです。それは念仏は阿弥陀さまの念仏だからからこそです。
 確かに自力称名の念仏では救われてはいきません。しかし、何よりも自力であっても称名念仏させていただける身になるまで育てていただいたのです。自力の念仏も、称えることによって気づかされていく世界があります。念仏の声を聞いて、また育てられてゆきます。疑問や不信や疑いが出てきたとしても、念仏を称え、念仏を通して聞かせていただくなら、必ずそれらをはらしてくれるのが念仏です。

 大きな本堂やホールでの大法要であっても、少人数の家庭法座であっても、お参りの人数にかかわらず、そこにおられる方々の声が響き渡るような念仏をともに称えさせていただきたいものです。
 また、みなさんといっしょに念仏するだけではなく、ひとりでいるときも念仏させてもらいましょう。うれしいときも、悲しいときも、さみしいときも、腹立つときも、口に南無阿弥陀仏ととなえさせていただくところに阿弥陀さまがおられるのですから。

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2010年1月15日 (金)

無眼人・無耳人は私のこと

 なにげなく言ったひとことが、人の心を傷つけるということがあります。言った人は、傷つけようなどとはまったく思ってもいなかったのに。言葉の行き違い、思いの行き違い、当事者同士の人間関係のありよう、等々さまざまな要素があるでしょう。当事者同士はそうは思えないかもしれませんが、ちょっと引いて見ると、そういうめぐりあわせ、そういう因縁だったんだなぁと思わずにはおれません。ただ、この場合は、発言した人があまり相手に対しての配慮はそう深いものではないように思われます。
 一方、人のためになると思って言ったことあるいは行ったことを、相手にはその真意がまったく通じないということもあります。この場合は、発言者や行為者が、相手に対してかなりの配慮があるようです。その最たるものは、阿弥陀さまの慈悲ではないでしょうか。

 阿弥陀さまの慈悲は、私に対して一方的にはたらきます。なぜ一方的にはたらくのかをたずねてみると、私には阿弥陀さまのような智慧がないからです。智慧がないから、私は自分自身の迷いの姿が見えないのです。迷っていることがわからないから、迷いの境涯から出ようとしないのです。「煩悩にまなこさえられて」いるのです。
 智慧がある阿弥陀さまには、私がまた迷い続けていかねばならないあやうさがみえるのです。それゆえ私への阿弥陀さまの慈悲を一方的にはたらかせざるをえないのです。その慈悲に気づかないままだと、またこれから先、生死流転の迷いを繰り返してゆくことは間違いありません。

 だからこそ私に阿弥陀さまの慈悲がかかっている。それに気づかせていただくためには、ただその慈悲の心を聞くしかありません。お経に説かれています。また菩薩たちがその心をわかりやすいように説いてくださいました。たしかに、お経は、あるいは諸菩薩の解釈でも難しいです。智慧のないものが、智慧のある方々の話を聞くのですから、あたりまえのことです。
 しかし、なんとかその智慧と慈悲の心を伝えたいという方々は少なくありません。自分が気づかないだけで、探せば必ずそのようなところはあります。すでに阿弥陀さまの智慧と慈悲の話は、あちこちで聞いてこられているのかもしれません。それが聞こえていないだけなのかもしれません。

   大聖易往とときたまふ
   浄土をうたがふ衆生をば
   無眼人とぞなづけたる
   無耳人とぞのべたまふ
     (『浄土和讃』註釈版p.572)
大聖釈尊は阿弥陀さまの浄土をすすめて、信じやすく往きやすいところだと説かれた。しかし、この浄土を疑って信じない者は、目があっても無きに等しい者、耳があっても無きに等しい者と戒められている。

 仏法を聞くためには、耳だけで聞くのではありません。耳だけでは聞くことはできません。仏法の話をしてくださる方をしっかり見ることも必要です。あるいは、しっかり聞こうという気持ちも大切でしょう。聞くためには、それなりの体力も必要です。疲れて眠っていては聞けません。目にはみえないような縁も大切です。
 それらがそろって、仏法は聞けるのです。すでに聞いてきたのに、いい加減な聞き方をしてきたり、疑い続けてきたこともあるはずです。そのことにも気づいていないだけです。

 仏法を聞くことができたら、この耳が仏法を聞くためであったことがわかります。聞くことができて初めて、自分には耳があり、はたらいてくれていたことがわかるのです。仏法を聞くことができて初めて、阿弥陀さまを見る目があり、阿弥陀さまを見ることに気づけるのです。

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2010年1月14日 (木)

信ずることもなほかたし

 私たちはいろんな機会を通してさまざまな学びをします。しかしそのほとんどが「人」を通して学びます。人の話を聞いたり、行為を見たりすることが多く、ときには書かれたものから学ぶこともあります。学ぶ「人」との関係が深ければ深いほど、多くのことを学びます。また多くのことを学ぶ「人」との関係は、ますます深くなり、信頼関係も増します。

 “一つでも二つでもよいから、多くの人の話を聞いて自分の血や肉となればよい”というのはこの世の生き方のひとつです。人それぞれに違った人生を歩むのですから、性別や年齢に関わらず、他人の考えや体験から学ぶべきことは数多くあります。それぞれに目を開かれるような考えであったり、貴重な体験であったりもします。それらのことが心に響き、元気づけられることもあるでしょうし、心が明るくなったり、前向きに生きることができるきっかけになることもあるでしょう。
 しかしそのことが、私の生死の迷いの根を切ってくれるかというと、そこまでのことはありません。迷っている私に、「私が生死の迷いのなかにいる」ということに気づかせてくれることすらできないかもしれません。

 ただ、私が迷っていることを教えてくれるのも、迷いの根を切ってくれることを教えてくれるのも「人」なのです。それは、自らが阿弥陀さまのお慈悲によって救われた人です。その人によって、導かれて阿弥陀さまの願いに気づかさるのです。その「人」のことを、「善知識」といいます。
 
  善知識にあふことも
  をしふることもまたかたし
  よくきくこともかたければ
  信ずることもなほかたし
    (『浄土和讃』註釈版p.568)
善知識に遇うことは容易なことではないが、善知識が人びとを教化することはなおさら難しい。たとえ善知識に遇ったとしても、その教えを聞くことは難しいし、信ずることにいたってはなおさら難しい。

 私を、阿弥陀さまの願いに気づけよ、と導いてくださる善知識の人と出遇うことはとても難しいことではありますが、みずからが真実信心に遇うことを求めるなら、必ず出遇うことができます。もしたまたま善知識とであうことがあっても、なかなか聞くことができる仏法ではありません。私の機嫌をとってくれるわけではありません。自分に都合の善いことを言ってくれるわけではありません。私が望むようなこの世の利益を与えてくれるわけでもありません。
 都合のよいことは聞きますが、自分の得にはならないこと、自分にとって都合が悪いことはなかなか聞けないのです。それが真実であるにも関わらず。
 ましてや、阿弥陀さまの大きな願いを信ずることはとても難しいことです。難しいから、阿弥陀さまが、その信ずる心さえも与えようとおっしゃってくださっているのに、それが聞けないのです。信じられないのです。

 私は幸せになりたい。この世に生まれて大きな宝物を手にしたい。苦悩から救われたい。等々、欲深い思いをもっています。それらをすべて引き受けることを誓い、菩薩も善知識も私をその方向に導いてくださっているのに、まったく耳を傾けないのがこの私なのです。

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2010年1月13日 (水)

無量劫にもまれらなり

 私たちが求めていることは、この世を幸せに生きたいと願っているということです。健康を、お金を、地位を、名誉を求めていますし、障りのない人間関係を持ちたいとも思っています。幸せだと描いた状況が実現することを望んでいます。このことは、仏法を聞いたことがない人も、仏法をよく聞いている人も変わらないと思います。また、仏法を聞いたことがない人も、よくよく仏法を聞いている人も、病むことも老いることも、あるいは死なねばならないことも知っています。それでは、仏法を聞いていない人と、よく聞いている人はどこが違うのでしょうか。

 仏法を聞いていない人は、なかなかほんとうの自分を見ようとしません。見たくはないのです。あってほしくないことには蓋をして、瞬間的なこの世の幸せに賭けているようです。南無阿弥陀仏は、死者供養のとむらいの言葉としてしか理解されていないのではないでしょうか。
 たしかに、仏法を聞いている人も、病むこと老いることもちろん死ぬこともイヤです。そんなことがあってほしくはないとも思っています。しかし、この世が無常であること、世のなかにまことがないこと、何よりも自分自身が煩悩にまみれた凡夫であることなどを、常に阿弥陀さまに教えられています。最初は、この世の幸せがすべてだとは思っていたけれど、この世でどれだけ豊かに、幸せそうに生きても、それは無常の世界に生きていることだと気づかされるのです。

 教えられる、気づかされるというのは、私の努力の結果ではありません。自分に都合がよければ有頂天になり、都合が悪いことには目をつむるだけでした。
 
 すべての凡夫を救うと誓ってくださった阿弥陀さまとのご縁に遇うことはとても難しいことです。この世においてもさまざまな生老病死に出遇ってきました。また仏さまの前で何度も手を合わす機会がありました。そのほかにも数多くのご縁に遇ってはいるのですが、遇っていることに気づくことができないのは、遇っていないのと同じことです。

  如来の興世にあひがたく
  諸仏の経道ききがたし
  菩薩の勝法きくことも
  無量劫にもまれらなり
    (『浄土和讃』註釈版p.568)
仏がこの世に出られるのに遇うことはとても難しいし、諸仏の教えを聞く縁にもなかなか遇うことができない。菩薩のすぐれた教えに遇うことも、どれだけ生まれ変わりし続けてきてもまれなことである。

 にもかかわらず、私は仏法に遇うことができたのです。ほんとうに滅多にないことです。遇わなければ、人生のいたるところで遭遇することを、自分に合うとか合わない、あるいは好きとか嫌いとかで私の意志で仕分けをしていたでしょう。仏法に遇うことができたがゆえに、仏法まことと知らされたのです。何よりも、口に念仏をさせてもらうことができるのです。

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2010年1月12日 (火)

本願寺の報恩講インターネット中継

 信心の中身を深く問うてゆくと、念仏一つで救われてゆくというのが、浄土真宗の教えです。雑行を廃し、純粋なものだけを示しています。しかし人間の世界では、遊びもなく、純粋なものだけで生きるということはできません。だから阿弥陀さまの本願が、そのまま念仏となって私に回向されなければ、私が救われる余地などどこにもありませんし、純粋な阿弥陀さま誓願にすべてをまかせることしかないのです。どうしようもない私が、どうする必要もなく救われていく。これが念仏の教えです。

 生死の迷いをくり返し、人間として生まれたこの世においても迷っていることに気づくことはありませんでした。ですから、私が救われたいと希望を出すこともありませんでした。どうすることもできない状態なのです。だからこそ、阿弥陀さまは私を救わずにはおかないと立ち上がってくださった。そのことになかなか気づかなかったのが私です。しかし仏法を聞いてみると、そんな私をすっかり見抜いてくださっていたことを知らせてもらうのです。
 私は何もしなくてもよいのです。しかし、何もしなくてもよいのではなく、救われたことのよろこびを精一杯の形で現したい。救われたことの報恩感謝の思いを最上の形で示したい。なんとかせずにはおれないのです。そして、阿弥陀さまの大きな願いを一人でも多くの人に伝えたい。この上のないよろこびがあれば、そんなあふれるような思いが出てくるのではないでしょうか。

 もちろん念仏をすればいいわけですが、凡夫とすれば、“もっともっと・・・”という思いにあふれたのが、「報恩講」という法会ではないでしょうか。正直、私は、毎年毎年、たいそうな行事をするものだ、と思っていました。しかし、できる限りの荘厳(お飾り)をし、洗練された声明(おつとめ)で仏徳を称える「報恩講」は、人の心を揺さぶると、最近強く感じています。

 毎年、西本願寺では、1月9日から16日まで、御正忌報恩講が勤まっています。本願寺の大きな御堂はとても寒いですし、1週間続けてお参りすることはなかなかできません。しかし、本願寺では、インターネット中継(Web TV中継)がおこなわれています。下記の御正忌報恩講総合案内ページから入ることができます。このページには、法要日程も記されています。

 http://www.hongwanji.or.jp/event/post-8.html

 とくに、午前10時からの日中法要、午後2時からの逮夜法要は圧巻です。毎日違った声明がおつとめされます。法要の中継だけではなく、布教もあります。
 全国の真宗寺院でも報恩講はつとめられますが、やはり本願寺の報恩講は洗練されている感じがしますし、規模も違います。実際につとめる僧侶の方々は、たいへんだろうと思います。

 儀礼や儀式が真実そのものでないことは言うまでもないことです。しかし「報恩講」のようなたいそうをしておつとめをするという思いを、インターネットの画面を通してでも感じることができると思います。

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2010年1月11日 (月)

五濁の世ゆえに、念仏を

 濁った水をきれいにするのはたいへんなことです。またきれいな水をいつまでもきれいなままで保つことも至難です。いつもきれいなままの水が保てるようなシステムがあればいいですが、どこにでも簡単につくれるものではありません。そんなシステムができたとしても、常にていねいな保守、点検がなされないと維持し続けることはできません。
 人間世界も同じようなところがあって、いつまでも望ましいと思う世のなかが続くわけではありません。望ましい世を続けようと思っても、それを実現する人間が入れ替わるのですから、常に望ましいと思われる価値観や望ましい社会を維持してゆくための方法を教育する必要があります。ところが、激しく移り変わる世のなかですから、人びとのいだく望ましさに違いが出てきます。また教育も追いつかないほどの早さで現代の世は変わっていっています。

  像末五濁の世となりて
  釈迦の遺教かくれしむ
  弥陀の悲願ひろまりて
  念仏往生さかりなり
    (『正像末和讃』註釈版p.603)
正法の時代が終わり、像法そして末法の五濁の世になると、お釈迦さまの遺された教えである聖道の教えはすっかりすたれてしまった。ただ阿弥陀さまの大悲の本願のみがいろまって、念仏によって浄土に往生するという教えだけが盛んになっている。

 お釈迦さまの教えに従って行じ、さとりの境地を得た修行者たちが出た正法の時代から、教えに従って行じることはあっても、その形だけが残り、さとりの世界に至りつくる人が出なくなる像法の時代となっていくというのは、仏教の一つの世界観です。さらに、末法とは仏さまの教えはあるけれど、それを行ずる人もさとる人もいない末法の時代がやってくるというのです。
 末法の世においては、避けることのできない社会的、精神的、生理的な五つの汚れがあるというのです。それが、劫濁(こうじょく)、見濁(けんじょく)、煩悩濁(ぼんのうじょく)、衆生濁(しゅじょうじょく)、命濁(みょうじょく)の五つです。
  劫濁:戦争、飢饉、疫病など、それぞれの時代を反映する社会・時代の濁り。
  見濁:邪悪な考えや見解がはびこり、思想が乱れること。
  煩悩濁:貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の煩悩が盛んになること。
  衆生濁:衆生の資質が低下し、十悪への痛みを感じなくなってしまうこと。
  命濁:衆生の寿命が次第に短くなること。

 この五濁を、「確かにそういう傾向にあるなぁ」「なんとかしなければ」というだけでは何も変わることはありません。それだけでは、わが身の上にはまったく切実感がありません。いまや、そんな切実感のなさが、変わることのない価値観になってしまっているかもしれません。

 こんななかでは、少なくとも精神的には先達の道を歩まない限り、短い人生のなかでは自らも、社会もけがれのままで終わるとしか考えられません。しかし、その先達の道を歩むことができないのが、五濁の世です。
 私が努力をして先達の道を歩むことができなくても、阿弥陀さまによって願われて生きることしか私にはできないのです。この身このままで念仏させてもらうことしかありません。
 

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2010年1月10日 (日)

いかでか発起せしむべき

 「他力本願」という言葉が、他人の力を借りてものごとを成就する、つまり他人まかせという意味で使われることがしばしばあります。辞書にも誤用が定着した言葉として、そのように記されています。
 この現世を生きることしか考えずこの世に執着する人にすれば、そういう風にしか解釈・理解するしかないかもしれません。

 しかし仏法の世界観は、過去世、現世、来世という三世を見通しています。その三世をずーっと迷い続けているのが凡夫であると示しています。凡夫というのはこの私であると教えていることをきちんと受け止めなければなりません。
 生死をくり返しつつ迷い続けている私が、その迷いの世を出たいという思いをもつことが、「発菩提心」です。それは仏のさとりを得るということです。

  正法の時機とおもへども
  底下の凡愚となれる身は
  清浄真実のこころなし
  発菩提心いかがせん

  自力聖道の菩提心
  こころもことばもおよばれず
  常没流転の凡愚は
  いかでか発起せしむべき
    (『正像末和讃』註釈版p.603)
たとえ正法の時期に生まれたとしても、いやしく愚かな凡夫である身で清浄の心も真実の心もないから、どうして自力で自利利他円満の仏のさとりを得ようとする心(=菩提心)を起こすことができようか。
自力聖道の菩提心は心に思うこともできず、言葉にも表すことができない。常に生死の迷いの世に沈み、六道を輪廻している愚かな者は、どうしてこの菩提心を起こすことができようか。

 仏道を志すものは、願いを成就させるという四つの誓いを立てます。四弘誓願(しぐぜいがん)と言われます。
   衆生無辺誓願度(生きとし生きるものすべてを悟りの彼岸に渡そうと誓う願)
   煩悩無数誓願断(あらゆる煩悩を断とうと誓う願)
   法門無尽誓願学(仏の教えをすべて学び知ろうと誓う願)
   仏道無上誓願成(無上の悟りに至ろうと誓う願)

 この心は凡夫には起こすことができません。しかし菩提心を起こすことなく迷いの凡夫を離れることはできません。自力というのは自分の力だといっても、そこから菩提心が出てくることはとても難しいことであることがわかります。
 この誓願は、阿弥陀さまのものでしかありません。すべての凡夫、一切衆生を救おうという願い、もしそのことが成就できなければ自らは仏とならないと誓われた阿弥陀さまの心なのです。

 迷いのなかから出ようにも、その心さえも起きることがない、どうすることもできないのがこの私の姿です。ほんとうに自力が頼りになりますか?この世では精一杯がんばれても、老い、病ん、この世を力なく終えてゆかねばならないこの身をどこまで頼ることができますか?だからといって他人の力を借りたところでどうなるものでもありません。菩提心を起こすことができる阿弥陀さま、その菩提心を成就された阿弥陀さまにまかせるしかないのです。

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2010年1月 9日 (土)

名号不思議の信心をすすめしむ

 「今年もよい歳でありますように」と記された年賀状をたくさんいただきました。個人的にもよい歳でありたいとは思いますし、国内外の厳しい社会状況がすこしでも明るい方向に向かうことを念ずるよりほかありません。そのために、私は何ができるだろうか・・・・と問い、行動したいとも思っています。

 その一方で、どれだけがんばってみても人力の及ばぬ事態ということがあります。私たちの思いというのは、努力してなんとかしよう、してみたいという思いとともに、人力の及ばぬところのありようを見定め、できることなら思うようになってほしいと願うのです。人力の及ばぬところを見定めるのさえ難しいのに、それが思うようになるはずはありません。それを何とかしようとして、占いや呪術や祈祷などといったややこしい行為に頼ろうとしてしまいがちです。
 人力の及ばないところに自分の思いを介在させ、思うようにしたいというのは、まったくのエゴでしかありません。しかしそれは叶わないエゴでもあります。

 仏法のうえから見れば、自力をはげみ、諸善を積み、万行を果たしたとしても、我が往生は叶いません。もちろん自力による諸善万行が末通るものなら、往生も可能ではありましょう。しかしこれまで迷い続けてきたということが自力であり続けてきたという証しでしょう。そしていま、人間界に生まれることができ、自力を離れることを教えられているのです。

  恒沙塵数の如来は
  万行の少善きらひつつ
  名号不思議の信心を
  ひとしくひとへにすすめしむ
    (『浄土和讃』註釈版p.571)
ガンジス川の砂の数ほどおられる十方世界の仏さまがたは、自力の行を励む諸善の行(=少善)をどれくらい積んでも往生できないと嫌われ、名号の不思議のはたらきによる信心のみがただ浄土往生の道であると、すべての仏さまがひたすら私に勧めてくださっている。

 「信心」というのは、私が励みつくりだした心ではありません。蓮如上人は「信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑにまことのこころとは申すなり」(『御文章』注釈版p.1106)とおっしゃっておられます。それは南無阿弥陀仏の名号によってはたらく心です。

 「今年もよい歳でありますように」という願う心は、凡夫の内から出た心です。しかしこれだけでは、漠然としていて、どのように問い、どのように行動してよいのかもわかりません。それぞれがもっている、この世における切実な思いに置き換えるしかありません。
 同時に、切実な思いは無いけれども、我が身の上にもそして広く社会にとっても、よい歳としたいと願うなら、仏さまがたが勧めてくださっている念仏をとなえさせていただく他に、思うこと、することはないのです

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2010年1月 8日 (金)

「十人十色」は認め合う関係

 むかしから「十人十色」「百人百様」といわれ、金子みすゞは「みんな違ってみんないい」という詩を残しました。ひとり一人が個性をもち、悩み苦しみつつもそれぞれの人生を生きることはとても尊いことです。にもかかわらず、その違いを認めず、自分の思い通りにしようというところから、権力の行使、権威的態度、傲慢な言動などが発生します。
 何でも自分の思い通りにしようと思う気持ちが起こるときは、自分の考えていることが正しいと思っています。自分の思い通りになることで、高い満足感が得られると思っているのです。「これは他人のため、みんなのためだ・・・」と言いつつも、自己満足の世界に入り込もうとしてしまっています。どこかでだれかにブレーキをかけられない限り、そこからなかなか抜け出すことはできません。

 自分が正しいあるいは善いことだと思っていることでも、立場が違った人から見ると正しいことでも善いことでもないことがあります。やっていることが正義であるとどれだけ正当性を主張しても、その正義をまったく受け入れることができない人がいるのです。そんな人には、私とは違った正義があることを忘れてはなりません。
 「そういうことを言うのなら、いったい何をすればよいのか」「自分が正しいこと、善いことだと思っていることを否定されているみたいで不愉快」と思われる方もおられるでしょう。

 視野を広め、現実を直視するなかで、まじめに正しいこと、善いことだと信じて実行することにケチをつけているわけではありません。そういう活動をされている方には頭がさがりますし、多くのことを教えてもらいます。なかなかそういう行動を起こすことができない自分を恥じることもあります。
私も正しいあるいは善いことだと思ってやっていることについては、信念に満ちたものがあります。無関心な人に、どうしてみんなこんな大切なことがわかってくれないのか・・・と嘆き、冷ややかな態度をとる人には文句の一つも言ってきました。

 親鸞聖人は、「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」とおっしゃっています。続いて阿弥陀さまの心にあうなら善であるとも言われています。
 私という存在は、阿弥陀さまによって凡夫と見定められています。信念を持って正しいこと、あるいは善いことと思っている私は、煩悩具足の凡夫でしかありません。そのことを常に阿弥陀さまから教えられるからこそ、わが思いにおぼれず、とらわれずにいることを肝に銘じなければならないのです。
 同時に、まったく反対の立場にある人、違う考えや思いを持つ人、あるいは無関心な人、批判をする人をも含めて、思いに耳を傾けることができるようになりたいと思うのです。とても難しいし、できないこともあります。しかしできないからダメなのではなく、できないから少しでも耳を傾けることができるようになりたい、そういう姿勢をもとうと思うところから、初めてほんとうの人間になれるような気がするのです。

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自分の好き嫌いを超えて聞く

 人間の心の内はとても複雑なような気がしますが、単純化してしまえば「好き」か「嫌い」かの世界に生きています。自分に気に入ったことであれば好き、自分には気にくわないことであれば嫌いということです。「楽」は好きで「苦」は嫌い、「喜」は好きで「悲」は嫌い、自分の思い通りになれば好き、思い通りにならなければ嫌い、すばらしい人間関係によって、力をもらったり、ホッとしたり、なぐさめられたりすれば好き。望まぬ人間関係によって傷つけられたり、不快になったり、生きる気力が萎えたりすることは嫌い。
 もうひとつ例を挙げると、自分の心をなぐさめ、慈しんでくれる仏法、あるいは自分の都合の悪いところに触れない仏法ならそんなに抵抗はありませんし、好きという部類に入ります。一方、私のほんとうの心のあり様をズバリと指摘する仏法は嫌いです。逃げたくなりますし、認めたくはありません。

 私たちの生活は、自分のありのままの心にまかせてしまうことで、「好き」と「嫌い」を無意識のうちに巧みに使い分けてしまっています。しかし仏法のうえからすれば、そのように使い分けることにほとんど意味がありませんし、むしろ迷いをくり返し、苦しみを深めてゆくばかりです。
 阿弥陀さまは、自分では見たくないような私のほんとうの心、自分では気づいているけれども決して他人には見せたくない気づかれたくない私のみにくい心の底を見抜いたからこそ、衆生救済、凡夫往生の願いを立てずにはおれなかったのです。
 自分の心をなぐさめ、この世に生を受けたことが幸せであったと感じてほしい。そんな阿弥陀さまの願いを聞かせてもらうための出発点は、みにくい自分の心を知ることです。見たくなくても、阿弥陀さまの光に照らされると、見せられてしまうのです。

 貪欲(とんよく:欲しいという思いに底がない心)や瞋恚(しんに:怒り、腹立ちが燃え上がり、消えない心)という言葉があります。「これがおまえの腹底だ」と言われたら、決して気分のいいものではありません。何度もこのことを聞いている人にすれば、「またあの話か。何度も聞いた・・・」ということになります。いずれにしても、貪欲や瞋恚が、自分のことだと、わが身に染み込むことがないまま、どこかに流れてしまっているのではないでしょうか。

 わが身のこととして聞けば、日常生活のなかで、この貪欲や瞋恚の二つの心が相互に、絶え間なくはたらいていることがわかります。そんな話を聞くのは快いことではありません。それを聞いて何の役に立つのか・・・とも思ってしまいます。つまりそんなことは嫌いなのです。しかし、その心があるから阿弥陀さまの智慧と慈悲がはたらくことを知らねばなりません。阿弥陀さまの智慧と慈悲の心だけを聞いたとしても、ピ~ンときません。自分には無い心なのですから。
 阿弥陀さまは貪欲や瞋恚など、私が聞きたくない、知りたくないと思い、まともに見ようとしない私の心がめあてなのです。ほんとうの私は何者なのか、どんな心を持ちどんな振る舞いをしているのか、つまり仏さまがめあてにしてくださっているところを見なければなりません。それが嫌いなところであったとしても。

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2010年1月 7日 (木)

あなたの人生は、いま何時?

 自分の年齢を3で割る。出てきた数字が、その人の一日24時間のうちのどこにいるかを示しています。みなさんも、自分の年齢を3で割ってみてください。

 たとえば60歳の人であれば、3で割ると20になります。つまりその人はいま、午後8時を過ごしているというのです。午後8時といえば、一仕事を終えて、お風呂も夕食も済ませ、ホッとしているときでしょう。
 それでは30歳の人はどうでしょう。3で割ると10になります。その人は午前10時のところにおられます。午前10時といえば、午前の仕事に拍車がかかってきた頃です。買い物をする人なら、10時頃にお店が開きますから、当日のバーゲン商品を買おうと意気込んでおられる時です。

 前日の仕事の具合、その日の体調などにもよりますが、一般的には、起きてしばらくたつと元気が出てきて、お昼やおやつ時に休みを取りながらそれぞれの仕事をこなす。しかし夕方になるとだんだん疲れが出てきて、夕食をいただき、お風呂にはいるとホッと一息。家族での団らんや、テレビを楽しんだり、読書などで自分の時間を過ごします。しかし午後10時あるいは11時となってくると、眠くなり、布団のなかに入って一日を終えるのです。
 人生も同じです。しかし人生は何十年という期間がありますから、なかなか自分がいま、どのようなところにいるのかがわかりません。それを一日24時間のなかの位置に置き換えてみようという作業です。
 
 この作業のなかで、一日のうちの午前中を生きていると診断できる人であっても、まだまだ午後もそして夜もある・・・と油断することはできません。風邪をひいて、大事な時間を布団のなかで養生しなければならないかもしれません。また、思いがけない不慮の事故にあって入院を余儀なくされることもあるかもしれません。
 一応、目安は平均寿命あたりまでは生きるという仮定のもとでできていますが、だれも平均寿命まで生きると保証してくれたわけではないことは、しっかり肝に銘じておいてください。

ちなみにこの作業は、人間の平均寿命が70歳過ぎの頃に考えついたことなんでしょう。いまは、平均寿命が女性の場合は85歳を超えているといいますから、3で割ると28を超えます。午前4時頃を生きているということになります。その時間まで起きていると、体力的にも限界に近づいてるでしょうし、思考能力もほとんどはたらかない・・・と考えると、まだ有効な目安かもしれません。

 さて、あなたの人生を一日に置き換えてみたとき、あなたが今いる時間帯をどう思い、どのように生きますか?懸命に生きても、だらだら生きてもそれぞれみな一生です。長い人生もあれば、短い人生もあります。
 しかし、長ければよいというものでもありません。人間に生まれて、真実に遇わなければ、むなしく過ぎてゆく人生です。一生のなかでも、一日のなかでも、真実として変わらないのは、阿弥陀さまの本願だけなのです。

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2010年1月 6日 (水)

休息あることなかりけり

 だれも本気で自分のことをアホだとかバカだと思っている人はいないと思います。「俺はアホや」とか「私はバカですから・・・」とは言うことはあったとしても、それにまじめな顔で「そうね、ほんとにあなたはアホや」「そうそう、バカを絵に描いたような人ね」なんて言葉が返ってくると、腹が立ちます。それは、アホやバカとは言ってみたものの、どこか善いところがあると思い、少しは賢いとほめてほしいと思っているからでしょう。だれもがそのことを知っているので、そう思っていても言わないだけの話しです。

 アホ、バカではなく、少しくらいは善いところがあると思うのは人情です。しかし、善いところが長続きするわけではありませんし、いつでもだれの前でも同じように振る舞えるというわけではありません。生まれてから後の家庭環境やさまざまな人間関係のなかで制約されたり、成長過程のなかの社会関係のなかで拘束されるのです。
 それでも小さいときから意識して、あるいは無意識のうちに磨いてきた善いところは、まず自分のためです。余裕ができたら、自分のできる時間に、できる限りのところで、家族のために、地域のために・・・、と少し分け与えます。それも最終的には、自分のために見返りがあればとてもうれしいのです。

  観音・勢至もろともに
  慈光世界を照曜し
  有縁を度してしばらくも
  休息あることなかりけり
    (『浄土和讃』註釈版p.559)
いつも阿弥陀さまの左右におられる観音菩薩と勢至菩薩の慈悲と智慧の光明は、いつも十方世界に輝いている。阿弥陀さまに縁のある衆生を救済するために、休むことがないのである。

 「阿弥陀三尊」と言われるのは、阿弥陀如来と観音菩薩と勢至菩薩のことです。阿弥陀三尊が安置されているお寺では、中央に阿弥陀如来、その阿弥陀さまから見て左側に観音菩薩が、右側に勢至菩薩がそれぞれ控えられています。観音菩薩は阿弥陀さまの慈悲を象徴し、勢至菩薩は智慧を象徴する化身です。

  弥陀・観音・大勢至
  大願のふねに乗じてぞ
  生死のうみにうかみつつ
  有情をよばうてのせたまふ
    (『正像末和讃』註釈版p.609)
阿弥陀さま、観音菩薩、勢至菩薩の三尊は、第十八願の信心一つで救うという大願の船に乗って、生死の海に浮かびながらおぼれ迷っている私たち衆生を呼び招き、その船に乗せて救ってくださる。

 この和讃でも、阿弥陀三尊の衆生救済のはたらきは、生まれ変わり死に変わって迷いの海におぼれている衆生(=私)がめあてであると示されています。

 自分のことをアホだ、バカだと人に対して言う前に、阿弥陀さまの心からの喚び声である「南無阿弥陀仏」を称えることです。慈悲と智慧の光によって、ほんとうの愚かなわが身が映し出されます。いつでも、どこでも、何ものにも制約も拘束もされることなく輝き続けるのが、阿弥陀さまの智慧と慈悲の願いなのです。
 正月に、現世利益の寺や神社にお参りして、さまざまな願いをしなくとも、いつも阿弥陀さまに願われているのですから、これほどの現世利益はありません。

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2010年1月 5日 (火)

心理学ではなく、「実践仏教」を

 電話カウンセリングの先駆け的存在で、真宗高田派の僧侶でもある西來武治先生は、30年以上も前から「実践仏教」を提唱しておられます。医学には基礎医学と臨床医学があり、双方が互いに連携しながらレベルを高めあっているように、仏教も同様に、理論的な仏教研究とともに、臨床仏教が必要であるとおっしゃっています。

  西來武治のホームページ(「臨床仏教とは?」)
  http://www5f.biglobe.ne.jp/~nishirai-plan/

 臨床系の心理学でも、理論と実践の連携があってこそ、深まりとともに広がりがあったのだと思います。カウンセラーの養成も、資格制度などができ、専門性も高くなっています。クライエントの側にも、家庭や学校や会社などの日常生活のなかで起こるさまざまな心の問題解決のためのプログラムが公的にも私的にも提供されるようになっています。

 かつては、臨床心理学もなかったし、専門のカウンセラーもいませんでした。ふだんの日常生活のなかでできる人間関係のあり方や悩みの解決のしかたを、小さいときからことあるごとに学んできました。それは家族や地域のなかでの人間関係がふんだんにあるからこそ可能でした。
 しかし今日のように、小家族化・核家族化するなかでは、また地域社会の結びつきが量的にも質的にも希薄化するなかでは、現実の人間関係を学ぶことがとても難しくなっています。そんな今日の社会のなかでは、どこかで体系的な学びが必要になっています。座学とともに、訓練、演習、ワークショップなどの実技をふんだんに取り入れて。しかしそのような体系的なプログラムは、いまのところないのではないでしょうか。(もしあることをご存じの方がおられれば、教えてください)

 仏教は心を問題にしますから、心理学とは非常に相性がいいようです。とくに臨床系の心理学は仏教が問題にする心ととても近いところを問題にしています。「仏教カウンセリング」「真宗カウンセリング」という領域の開拓あるいは研究・活動もなされています。
 カウンセリングのための仏教や真宗ではなく、仏教や真宗のためのカウンセリングと理解すれば、西來先生が提唱された「実践仏教」の試みの一つとも考えられます。

 ここでも、いままで問題にしてきた「仏教とは何をめざしているのか?」「真宗とはどのような教えか?」ということがとても重要になってきます。
 私は、教科書的になりますが、仏教は「転迷開悟」を、真宗は「本願を信じ念仏を申して仏となる」ことをめざしていると思っています。言葉は違っても、この二つのことは同じことです。カウンセリングのための仏教や真宗では、転迷開悟などありえません。
 心理学も仏教も同じ心を問題にしていますが、そのレベルが違います。たとえば、「癒し」は心理学にも仏教にもありますが、根本から苦を抜くことができるのは仏教でしかありえないことです。根本から苦を抜くとは、人間の抱える四苦の解決です。なかでも、「死」の問題の解決であることは言うまでもありません。

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2010年1月 4日 (月)

「ありのままの私」という居直り

  「いま、ここの、わたしを大事にする」
  「ありのままに生きる」
  「自分の気持ちにすなおになる」

 初めてこのような言葉を聞いたときには、とても新鮮に聞こえました。そういう具合に生きることができれば、とても楽なことがわかりました。またそういうふうに受容したり、共感することによって、人の心が開かれてゆくことも感じてきました。

 『一夜賢者経』というお経では、次のように記されています。
  過去を振り返るな
  未来に思いはせるな
  過去はすでに過ぎ去りし
  未来は未だ至らず
  されば、ただ現在するところのものを
  その所においてよく観察すべし
  揺らぐことなく動ずることなく
  それを見極め実践すべし
  ただ今日なすべきことを熱心になせ
  たれが明日の死のあることを知らんや

 過去にとらわれて未来が不安になり、未来に思いをはせて現在の生き方がおろそかになってしまうことは、私の生活のなかで何度も経験していることでもあります。過去でも未来でもなく、現在の状況、いまの自分をしっかり見よとの教えです。
 同様のことはカウンセリングを学ぶ過程のなかで何度も気づかされました。とくにエンカウンターグループのなかで、生身の人の思いがぶつかり合う場面を通して、いま、ここの、自分をしっかり見ておかないと、ぶつかり合うことなどできるはずもない、と。

 しかし、ここしばらく、「いま、ここの、わたし」なんてどこにいるのという感じがあるのです。また「ありのままに生きる」という生き方などあるのだろうか。また、「自分の気持ちにすなおになる」というのはわがまま放題の生き方ではないか、とも。それが自由になることだと思ってましたが、それがほんとうの自由でしょうか。
 そういう態度や生き方は、楽だとも思いますが、決してかっこいいとは思わないし、人前でそういうことを披瀝するのは醜悪だとも思うようにもなっています。

 阿弥陀さまの願いを聞くことは、そんないい加減な自分の思いに気づくことです。ただ自分の勝手な思いに信順し、それを善しとすることにはとても不快です。凡夫だから、そういう思いが起こるのは当然・・・・なのかも知れません。しかし、阿弥陀さまの願いを聞かせてもらって、勝手な自分の思いを「それは凡夫であるなら当然、あるいは致し方なし」というのは居直りでしかありません。

 過去に固執せず、未来に思いをはせることなく、現在を観察し見極め実践せよとの教えは、仏法という鏡に照らされてということでしかありえません。
 ちょっと洒落た真宗談義(?)のなかで、安易に使われて、ついつい「そうだ」とひざを打ちたくなる冒頭の言葉に浮かれてはなりません。仏法を聞く過程のなかで、それらのことがまったく否定され、ただ阿弥陀さまの心だけをいただくことしかない、という世界があるのです。摂取不捨というのは阿弥陀さまの心でありはたらきです。それを私の側から見たら、我が心に依存している私がぶちのめされてしまうことでしかないのです。

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2010年1月 3日 (日)

本願宣布のために人を集める

 日本におけるコンビニエンスストアの第一号店ができたのは、1969年と言われています。“よろずや”の進化形・現代版のようにも思いますが、原型はアメリカのようです。

 学生が下宿を探すとき、コンビニエンスストアの近くを借りたいと希望する人が多いということを聞いたことがあります。どこの銀行の口座も利用でき、お金の出し入れができる。インターネットで注文した本や物品を受け取れる。総菜・飲み物・アイスクリームなど自分用の大型冷蔵庫を備えているようなものです。雑誌の立ち読みもできる(してはダメですが・・・・)。とそんな便利な機能が24時間稼働しているのですから、一人暮らしにはとても便利です。一人暮らしでなくともよろずやの機能をはるかに超えていますから、多くの利用者がいます。ほんとうにコンビニエンス(convenience:便利、好都合)です。

 多くの人に利用してもらうようになると、新しい店舗ができます。それがどんどん増えていけばいくほど便利になります。それがネットワーク化されると効率化されたり、あらたな機能が付加されるようになり、ますます便利になって多くの人を呼び込みます。これでは、これまでのよろずやでは、とても太刀打ちできません。

 そんなコンビニエンスストアの日本での全店舗数は4万数千件あるそうです。コンビニ密集地では、徒歩5分圏内に5~6軒の店があるというところもあります。それに対して日本の全宗派の仏教寺院の数は約7万7千件あるのだそうです。
 かつて、僧侶は地域社会において多方面でリーダーシップを発揮していました。また仏教寺院は地域社会の「総合文化館」でした。もちろん現在でもその役割を果たしている僧侶がいますし、そんな寺院はあります。しかし、
  ・上田紀之『がんばれ仏教!』
      NHK出版(NHKブックス),2004年
  ・高橋卓志『寺よ、変われ』
      岩波書店(岩波新書),2009年
などの本が出版されるのは、その役割を果たしていない多くの住職や寺院にハッパをかけているという感じがしてなりません。

 マニュアルがあって、それに従って僧侶としての役割を果たし、寺院が活況を呈すというのではありません。それぞれの地域あるいは宗教的風土を読み取り、そこでどのように活動してゆくことが望ましいのか、そこに住む住職が、また門信徒が考えなければなりません。
 上記の二冊の本は、多くのアイデアや示唆を与えくれますが、それをそのまま使えるわけではありません。

 コンビニエンスストアが多くの人たちの支持を得て広がり、ネットワーク化することによって機能を広げたことを参考にすることは必要でしょう。全宗派のネットワークは無理でも、同宗派だけでも緻密なネットワークとそれを利用したサービスを提供すれば、多くの人の関心は向くでしょう。
 ただ、世俗的サービスの提供だけに終わってしまって人を集めても意味はありません。それをきっかけにしてどのように阿弥陀さまの願いを伝えるかにかかっているのです。伝えるべき阿弥陀さまの願いは、私がいただいた願いそのものを伝えるだけです。いただけていない願いは伝えようにも伝えられませんから。

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2010年1月 2日 (土)

浄土真宗の「おでん」は何?

 コンビニエンスストア(=コンビニ)のおでんは売れ筋商品のひとつだそうです。しかしその味は、それぞれの会社ごとによって違いがあります。また全国にチェーン店をもつコンビニであっても、エリアごとにおでんのつゆの味や具材を変えているというのです。地域の総体的な好みを探って、できるだけ売れるように工夫しているようです。しかしつゆの味や具材が変わっても、コンビニが売りたいのはおでんなのです。

 首都圏に浄土真宗の教えを伝えるためには、西日本と同じ味付け、同じ具材ではなかなか飛びついてもらえないということを感じます。首都圏には首都圏の好みがあるのですから、その好みにあった味付け、具材が必要です。
 しかし、コンビニは、味付けを変えても売りたかったのは「おでん」です。だれが見ても、「これはおでん」というものを売っているし、買っているのです。同じように、浄土真宗の教えを伝えるためには、その地域に応じた味付けや具材が必要ですが、「何を伝えたいのか」ということを明確にしなければなりません。

 よく「親鸞聖人のみ教え」とか「念仏の教え」を伝えたいといわれます。しかしそれだけではよくわかりません。もし、理解できたとしても、説く側と聞く側との間にズレが出てくること必至です。
 そのため、「教え」の中身をはっきりさせる必要があります。その上で、人によって、教えを伝える相手との関係によって、地域によって、それぞれの状況のなかで、味付けや具材を変えなければなりません。そのためにも、「教え」の中身をはっきりさせておかなければなりません。
 あちこちに寄り道しても、最後にたどり着くところを、教えを説く者がしっかりと心得ておかなければ、寄り道して好きなところに留まってしまうことになってしまいます。親鸞聖人は方便だと言われていますが、たどり着くところが明確だから方便だと言えるのです。

 私が昨年10月から12月末まで書いてきた、この「畢竟依に帰命せよ」はかなりそのことを意識してきました。初めて読んだ人には「わからない」「むつかしい」と言われました。しかし私の聞法のなかで、とても大切だと思ったところ、押さえなければならないところは押さえたつもりです。
 ここのところは、何度も何度も、「しつこい」と言われるほど繰り返さなければならないところだとも思っています。

 もちろんこの押さえねばならないところは押さえ続けつつも、少し大胆に味付けや具材の変更を提案することの必要性も感じています。
 私たちは現代社会に生き、その現代社会の変容ぶりは大きく、しかもどんどん早くなっています。お釈迦さまの時代、親鸞聖人の時代、あるいは祖父母の時代でも、「原子力発電」も「脳死」も「臓器移植」も「裁判員制度」もありませんでした。さらにはこの時代の政治や経済への関わりも、経典や聖教からは見いだすことができないことが数多くあります。

 それは「世間虚仮」「厭離穢土」「よろずのことみなもてそらごとたわごと」ではあるのですが、だからといって逃げたり、無関心であってはなりません。真正面から向き合うことによって、自己の腹底を見せてもらうことができるのです。念仏まことであることを深く味わわせていただくことができると思うのです。
 そんなことにも、今年は触れてみたいと思っています。もちろんそれは凡夫のたわごとであることを承知で。

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2010年1月 1日 (金)

西日本と首都圏の真宗のイメージ

 私はこれまで関西、九州で、そしていま首都圏で真宗門徒といわれる方々とご縁を結ぶことができました。同じ浄土真宗の教えを聞いてこられた門徒の方でも、その受け取り方がずいぶん違うような気がします。そこにはおそらく宗教的風土の違い、ご縁の濃淡というものがあることを強く感じます。

 たとえば、西日本には、数十世帯の小さなコミュニティのなかで濃密な人間関係があり、そこでお寺を中心に一年の行事が催され、それぞれの家庭では仏壇を中心にした生活が営まれている地域があります。こと細かに仏事の荘厳・作法について説明せずとも、小さいときから見よう見まねで身についてきた人たちが生活する地域があります。
 一方、関東の地では、家に仏壇もなく、まわりに仏教寺院もない。生まれてからほとんど仏教的なことに触れたことがない。仏教の教えを聞いたこともない。まわりにはそんな話しをする人もいない。仏教のイメージは、現世利益あるいは死者儀礼。しかし家族の者が亡くなったとき、初めて自分の家の宗派を意識したら、それがたまたま浄土真宗だった・・・・、そんな人が多くおられるようです。ですから、真宗門徒であっても、関東に広がる他の既成仏教や、いわゆる新興宗教といわれる宗教との違いが明確になっていません。

 西日本と関東という形で示した浄土真宗の門徒を示しましたが、あくまでもこれは私がイメージとして描くものであり、これが西日本あるいは関東の門信徒のすべてではないことは言うまでもないことです。
 関東にも篤信の方もおられますし、西日本でもコミュニティのつながりが希薄になり、寺院を支える人は70歳以上の人たちで、若い人たちは仏教には目もくれず、ひたすら幸せに生きることだけを考えているという傾向にあります。

 そんななか、浄土真宗の教えはどのような教えなのか、おそらく多くの真宗門徒の人たちにも明確な形で伝わっていないという感じもします。
 これまでの伝統的な寺檀関係とともに、生死を問題と感じる人、その他さまざまな人生の悩みや苦しみを抱えている人、この世を力強く生きたいと思っている人、等々をも巻き込むようなご縁を結ぶしくみが必要です。
 たとえば、寺院とは一線を画したカウンセリングルーム、教えを一方的に伝えるだけではなく自己を振り返るための内観や瞑想の場、念仏を通して自己を探求する念仏道場など。これまで浄土真宗があまりやってこなかったことです。もちろん反発の声もあるかもしれません。そのために、あくまでもこれらは方便であり、最終的には、深く掘り下げた自己の内に阿弥陀さまの願いがあることに気づいてゆくプログラムが必要になります。そんなプログラムが、一朝一夕にできるわけではありませんが、試行錯誤のなかで作り出さねばなりません。

 そのためには、一人ひとりが阿弥陀さまと出遇わなければなりません。真宗門徒だから、寺族だから、住職だから信心があるとは言えないのですから。

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