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2010年2月28日 (日)

まことの心をいただく過渡期

 3日ほど前に、厚生労働省が、多くの人が利用する公共的な空間での原則全面禁煙を求める通知を出し、都道府県などを通じて施設管理者に対策を促す、というニュースが流れました。飲食店や娯楽施設も対象の施設となっています。たとえば、居酒屋やパチンコ店などは、学校、官公庁、病院、公共交通機関、等の施設と違い、酒を飲みながら、パチンコをしながらたばこを吸うということを楽しみにしていた人たちも多く足を運びます。その人たちの足が遠のくことが予想されます。そのため、全面禁煙にすることで集客にも大きな影響を受けると、強く反対する経営者もいるようです。
 公共的な空間での全面禁煙は、受動喫煙防止の対策として世界的な動きであり、日本の対策は欧米諸国に比べると遅れをとっています。しかしいまの日本は、公共的空間での禁煙があたりまえになるまでの過渡的な時期にあるようですから、すぐに完全実施を命令したわけではありません。将来的に全面禁煙を目指すように求める努力義務であり、罰則規定もないものですから、その実効性を問う声も出ています。

 この件に限らず、過渡的な時期というのは、よりよき状況を創り出そうとしているのですが、それまで当然であったことを変えてしまうので、多方面にマイナスの影響が出てくることが多々あります。当然、リスクを背負う人たちは、反対したり抵抗したりという動きがあることは予想されることです。

 仏法を聞くことも、この状況ととてもよく似ているような気がします。聞法というのは、まことの心をいただく過渡期です。迷いのなかに生きる者が、真実の阿弥陀さまの心をいただく過程です。
 私は自分の姿、生き方にあぐらをかいてきました。あぐらをかいているものが、状況を変えようなどとは思いもしません。しかし阿弥陀さまから煩悩具足がおまえの姿だと示され、そのままではいつまでたっても心穏やかに生きることはできないとさとされてきました。このままでは、ほとりのない生死の苦海に沈み、浮かぶことすらないのです。それに気づかないことが迷いなのです。
 “その姿に気づけよ、間違いなく救うぞ”という、状況を一変させるような提案がなされ、それを実行に移すために阿弥陀さまは動き出されています。
 しかし凡夫にすれば、勝手にそんなことをやられても準備もできていないし、相談も受けていない。老・病・死を見よと言われてもイヤだから目をつむってきた。煩悩具足だ、罪悪深重だと、これまた気が重くなるような話ばかり。それらが私のありのままの姿であるとは思うけど、また問題があることはわかってはいるけれど、長年このままの姿できたのだから今さら言われても困る。阿弥陀さまにまかせと言われても、自分の心にバリケードを築いて抵抗するばかりです。

 でも、どれだけ反発し、抵抗したところで、迷い続けることには間違いがありません。煩悩という既得権益まで取り上げようと言ってるわけではありません。何もかも変えよと言われているわけではありません。既得権益をもったままでいいのです。煩悩具足のままでもいいのです。そのままで阿弥陀さまの心を聞かせてもらいましょう。ただただ、お念仏させてもらうほかはありません。

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2010年2月27日 (土)

聞光力のゆえなれば

 昨日の続きです。

  光明てらしてたえざれば  不断光仏となづけたり
  聞光力のゆゑなれば  心不断にて往生す
    (『浄土和讃』註釈版p.558)

 「聞光力」という言葉が出てきています。阿弥陀さまの智慧の光明のはたらきを聞信することです。親鸞聖人はこの言葉について、左訓で「弥陀の御ちかひを信じまゐらするなり」(本山蔵版本)と、また別の左訓では「聞といふは聞くといふなり。聞くといふはこの法を聞きて信じて常に絶えぬ心なり」(高田派専修寺蔵国宝本)と説明されています。

 聞光力の「光」は阿弥陀さまの誓いであり、法のことです。その阿弥陀さまの誓いを耳で聞いて、信じることができてはじめて「聞」といいます。
 親鸞聖人は、聞くということについて、『一念多念文意』のなかで「きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを『聞』とふなり。またきくといふは、信心をあらはす御(み)のりなり」(註釈版p.678)と示されています。また『教行信証』信巻では、「聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞き、疑心あることなし、これを聞といふなり」(註釈版p.251)と著されています。阿弥陀さまの誓願を聞いて、聞いて、聞き抜いて、疑う心がなくなるのが「聞」です。また疑う心がないのが信心です。
 もう一つ大切なことは、左訓にある「信じて常に絶えぬ心」となるということです。聞くのは耳での行為ですが、「香を聞く」「聞き酒」など耳以外の感覚を働かせて識別するときにも「聞」という言葉が使われます。これらのことは自分の感覚にまかせるほんの一時のことですから、法を聞くということとは根本的に違います。
 しかし耳で聞いて、聞いたことを頭で理解し、自分自身で納得して疑わない心となればよいということでしょうが、納得できる教えではありません。阿弥陀さまの誓願を聞かせていただくことで、疑うことができなくなる教えです。聞く側にまことがあるのではなく、それは教えが、阿弥陀さまの誓願こそがまことだからです。

 「心不断」についても、親鸞聖人は左訓をつけておられます。「弥陀の誓願を信ぜる心絶えずして往生すとなり」(本山蔵版本)、また別の左訓では「菩提心の絶えぬによりて不断という」(高田派専修寺蔵国宝本)とあります。信ずる心が絶えないというのも、阿弥陀さまからいただいたこころだから絶えない。断たれることはないのです。

 疑う心がなくなるまで聞かせていただくということは、わが身の上には、“いつまでもある、どこまでいっても変わらないということはない”、“絶えることはない”という妄想から解放されることです。
 その一方で、刻々と変わりゆくわが心、わが身のありようを常に引き受けてくださっている変わらない阿弥陀さまのはたらきがあるということを知らされ、変わらないまことをこの身にいただくことでもあります。

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2010年2月26日 (金)

光明てらしてたえざれば

 この娑婆世界は、何ごとも続かない世界です。続かないから常に新たなものを産みだし、衰退と発展を繰り返してきています。社会のありようは、続かないことをうまく利用することで作りあげられてきました。
 しかし、個人のところでいうなら、自分にとってイヤなことは続かないでほしい、早く終わってほしいと思い、自分にとって良い状態であればいつまでも続いてほしいと思っています。ところが、続いてほしいと思っていても、いつまでもある、いつまでも変わらない、いつまでも続くということが否定されてしまうという現実が必ずやってきます。わが思いほど確かなものはないという確信も、目の前で起こる予想外の現実によってひっくり返ってしまうというのが人生です。思いと現実のギャップが大きければ多いほど、悩み苦しみは大きくなり、手の施しようが無くなってしまうことさえあります。
 その一方、わが思いとは別に、確かなもの、変わらないもの、永遠であるものを求めているのも凡夫です。ところが確かなもの、変わらないもの、永遠なるものがいったいどういうものか見当がつかずさっぱりわかってはいません。かわらないけど、それでもそういうものがほしいのです。それも迷っている凡夫の姿のひとつでしょう。

 何ごとも続かない世を厭い、確かで変わらない永遠の世界を求めるなら、仏法に出遇うしかありません。凡夫の生活は、仏法と無縁の生活を過ごしています。娑婆世界が、何ごとも続かない世界である限り、仏法を聞くことなく心穏やかな生き方ができるはずはありません。この世に生まれることができたということは、“仏法を聞けよ”というお誘いなのです。

  光明てらしてたえざれば
  不断光仏となづけたり
  聞光力のゆゑなれば
  心不断にて往生す
    (『浄土和讃』註釈版p.558)
阿弥陀さまの光は絶えることがないので、阿弥陀さまを不断光仏と名づけられた。阿弥陀さまの名号の功徳を聞いて信ずることは、その信ずる心がいつまでも続いて断たれることがなく、浄土に往生することができる。

 仏法を聞くということは、絶えることのない阿弥陀さまの光に照らされることです。照らされることによってありのままの私の姿を知るということです。私はきまぐれですから、いつ、ありのままの私の姿に気づくことができるかどうかかわかりません。だから照らされ続けなければならないのです。照らされ続けられることによってわが姿に気づくということは、気づかせていただくということです。
 さらに、照らされ続けるのはわたしですが、阿弥陀さまが私を照らし続けてくださってきたし、照らし続けてくださるというはたらきがあるということでもあります。それゆえ、阿弥陀さまは不断光仏なのです。

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2010年2月25日 (木)

社会が変動しても、根底には念仏を

 一区画の墓域のなかに、境界を設けず、二つの異なった家の石塔を建てられる方がおられます。おそらく結婚した兄弟や姉妹が一緒に墓地を求め、そこにそれぞれの家の墓を建てたとか、夫婦が結婚前のそれぞれの家の墓を一つの墓域のなかに建てた、・・・というようなことでしょう。いずれにしても、とても仲がよく、お互いに良き理解者どうしなのでしょう。
 ところが、年月が経過し墓地の名義人が代を重ねてゆくと、墓を建てたときとは状況は一変してしまっているのを知ることがあります。たとえば、二つの墓を建っている墓地年次冥加(一般には墓地管理費)を一人で払っているというのです。同じ墓域にあるもう一方の墓の持ち主について会ったこともなくまったく知らないというものです。
 墓の竿石には、「○○家」という家名が彫られています。その墓は、家の記念碑と何ら変わるものではありません。

 「兄弟は他人の始まり」ということわざがあります。また少子化、小家族化が進んでいます。自分の利益になる人間関係だけを残し、それ以外は極力切ろうとする人たちは少なくありません。とくに、わずらわしいことには関わりたくないというのが本音のようです。
 いま、この世を楽しくおもしろく生きることができたら、それでいい。そういう考えが蔓延するなかでは、墓の名義人の承継というのはわずらわしいことなのかもしれません。そこには、祖父母なのかあるいはそれ以前の先祖なのかもしれませんが、墓を建てた人の思いに心を致すことなどありえないことのなのでしょう。

 阿弥陀さまの心や、法然聖人や親鸞聖人の教えのなかに、墓を重視し先祖供養を奨励するようなものをみることはできません。それは、阿弥陀さまのおめあてが「わたし」一人であるがゆえですから、必然なのでしょう。しかし、仏壇や墓など形あるものが、形だけになったとしても、それが縁となって念仏の種になってゆくことが考えられます。
 浄土教の一宗派である時宗の開祖である一遍は、亡くなる前に、念仏以外には真実はないと、教典などを焼き捨てたと聞きました。そのことだけが理由ではないかもしれませんが、時宗の現在の宗教的勢力というほどのものはありません。細々と存在しているという感じです。反面、浄土真宗は、親鸞聖人始め、教典、絵像、名号、等々いろんなものが形として残っており、教勢拡大に重要な役割を果たしています。だからこそ、いま、私たちは念仏の教えを聞くことができるのです。

 先にも書いたことですが、社会の早く激しい変化は、人の生き方や心のありようまでも変えてゆきます。先祖を思い、代々の家筋を絶やさないようにという思いで墓を建て、守ってきた人は多いでしょう。しかし、その状況が一変しているなかでは、守りたいものが守れなくなってしまいます。
 自分自身の思いや、一つの家筋などにとらわれている墓ではなく、南無阿弥陀仏のもとに生き、死んで、また生まれさせていただくという仏法のところに基点を置いた墓を考えなければならないのではないでしょうか。
 父も母も祖父母もそれ以外の先祖も、そして子孫もすべて念仏の世界に生かさせてもらいたいものです。またその他有縁の人たちにも、他人の人であっても、しっかりと念仏の心を感じてもらいたいものです。そのためには、まず私自身がしっかりと南無阿弥陀仏を聞かせてもらうしかありません。

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2010年2月24日 (水)

おほきに所聞を慶喜せん

 念仏の教えは、阿弥陀さまとのコミュニケーションです。私は、コミュニケーションの至り着くところは、心を通い合わせるところにあると思っています。コミュニケーションは言葉だけがすべてではありません。表情とかジェスチャーなんかも心を通い合わせることができます。動物は鳴き声でコミュニケーションすることはよく知られています。人間も、泣き声や笑い声や叫び声で気持ちを察することができるのもその一つかもしれません。

 阿弥陀さまとのコミュニケーションは念仏です。しかし念仏は、言葉や表情やジェスチャーのようなコミュニケーション媒体ではありません。阿弥陀さまのお名前であり、真実そのものです。南無阿弥陀仏によって心を通い合わせるのです。南無阿弥陀仏によって阿弥陀さまと一つになってゆくのです。
 小さいときから、仏壇の前で南無阿弥陀仏と念仏しているけれど、阿弥陀さまと心が通い合っているようには思えないという人もおられるでしょう。それは記号としての念仏を称えてるからでしょう。記号としての念仏を、頭のなかでどのように理解し、解釈したところで、阿弥陀さまと通じ合えるはずはありません。ましてや、世間で使われている念仏理解では、生死をどれだけくり返しても阿弥陀さまの心を通い合わせることはできません。

 阿弥陀さまとコミュニケーションできる念仏は、阿弥陀さまからいただくのです。阿弥陀さまが「私の心を聞かせたい、南無阿弥陀仏の私の名を必ず聞かせてみせる」とはたらいてくださっているのです。そういうはたらきがあるから、この私自身が聞くことができるので。
 ふだんは自分のことしか考えていない私が、阿弥陀さまの御名を口にするということなどあり得ることではありません。しかし阿弥陀さまより真実の心が届けられたなら、その真実によって私の心が揺り動かされるのです。

  十方諸有の衆生は
  阿弥陀至徳の御名をきき
  真実信心いたりなば
  おほきに所聞を慶喜せん
    (『浄土和讃』註釈版)
十方世界にいるあらゆる衆生は、この上ない徳のすぐれた阿弥陀さまの御名を聞いて、真実の信心を得ることができたら、聞くことによっていただいた信ずる心をおおいに慶喜ことができる。

 この和讃の「真実」のところに、親鸞聖人は註釈を加えておられます。「まこと、実となる。真は偽ならず、仮ならず、偽はいつわる、へつらう。真は仮ならず、実は虚にならず、虚しからず」と。
 ふだん、ろくなことを考えない私の心が阿弥陀さまの真実によって揺り動かされるのは、真が実となって、私の心に至り着いたということです。南無阿弥陀仏をいただいたということです。阿弥陀さまと心が通じ合うということです。

 この世の喜びはたくさんあるでしょうが、「慶喜」する心は聞くこと、聞かせてもらうこと無くしてあり得ないのです。

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2010年2月23日 (火)

阿弥陀さまをほめ讃えるお釈迦さま

 十二光というのは、阿弥陀さまの智慧であり、はたらきです。阿弥陀さまのお徳です。「光」の部分を智慧と入れ替えて読むこともできます。阿弥陀さまはすべてのはたらきはあまりにも大きくて深いため、私たちの頭で一挙に捉えることはできません。
 「わかる」という言葉の元は「分ける」です。私の頭の混沌として理解不能なものでも、それを分けること(文類)によって少しずつ理解することができるのです。しかし、十二光は、すべてが阿弥陀さまの光(智慧)ですから、言葉で理解できたように思ってしまってはなりません。少しずつ身に感じていくしかありません。
 また、阿弥陀さまのお徳を分けることによって、部分的に見てしまうことがあるかもしれません。勝手に自分の思いに取り込まないことです。

 これまで、阿弥陀さまの光について、「浄土和讃」のいくつかを味わってきましたが、ここで十二光を列挙し、簡単にそれぞれどのような光明なのかをみてみます。

1)無量光(むりょうこう):過去現在未来の三世にわたって、いつどんなときでもはたらく、量(はか)りしることのできない光。
2)無辺光(むへんこう):空間的に、どこにどんなところにいてもはたらく、至り届かないところのない光。
3)無碍光(むげこう):どんな状態でも、何ものもさえぎられることのない光。 
4)無対光(むたいこう):代わるものや比べるものがない光
5)炎王光(えんのうこう):最高の輝きをもつ光
6)清浄光(しょうじょうこう):衆生のむさぼりを除くきよらかな光
7)歓喜光(かんぎこう):衆生のいかりを滅し、仏法をよろこぶ心をもたらす光
8)智慧光(ちえこう):無明の闇である衆生の迷いを滅し、諸仏の智慧をもたらす光
9)不断光(ふだんこう):途切れたり消えることのない、常に照らし、絶えることのない光
10)難思光(なんじこう):衆生の思いが及ばない光
11) 無称光(むしょうこう):説きつくすことができず、言葉で著し尽くせない光
12) 超日月光(ちょうにちがっこう):太陽や月の輝きも超えすぐれた光

 これらの阿弥陀さまのこれらの光明について、諸仏がその功徳を称揚し、ほめ讃える。さらにお釈迦さまも讃えても讃えきれないと言われたというのです。

 いつでも、どこでも、だれにでも、どんな状態になったとしても、常に私のうえにこれらのはたらきがあるのです。あまりにも阿弥陀さまの願いやはたらきを軽く考えてしまっています。あまりのすごさに、それを受け止めることができないのです。照らされているから、受け止めることなどできなくても許されている世界なんですけどね。どこまでいっても、摑みにかかろうとしてしまいます。

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2010年2月22日 (月)

どうする必要もないということ

 あるおばあさんNさんの話です。このNさん、細身で小柄なのですがとってもしっかりしておられましたが、歳とともに寝込むことが多くなってきました。しかしそれでも、用をたすときには、どんなことがあっても必ず身体を起こし、どんなに時間がかかっても自分の足で手洗いに行かれました。
 ある日、手洗いに行くのに時間がかかりすぎ、途中で漏らせてしまったのです。その時は80歳代後半でした。家族はやさしく対応し、おむつを着けるように勧めます。Nさんは自分のふがいなさを嘆きつつも、その日からおむつを着けるようになりました。しかしそれ以降も、おむつを汚したことがありません。おむつを着けていても、昼でも夜でも、自分で手洗いに用を足しに行かれるのです。
 そのうち、起き上がれなくなり、人の助けを借りてトイレに行かねばならなくなりました。そのことを気にされるようになり、手洗いに行くことをガマンされるようになり、そのことが身体の不調につながっていかれます。親身になってお世話をしていた孫が、「おばあちゃん、無理することはない。そのためにおむつしてるんやから」と何度も言います。それでもおむつに用を足すことはありませんでした。

 それからしばらくして、どうしても手洗いに行くことができなくなり、ふたたび孫が言います。「おばあちゃんはこれまでがんばってきたやん。もうガマンしなくてもええで。気持ち悪かったらすぐに取り替えるし。そこでそのまましたらええんやで」
 それに応えてNさんはいいます。「ほんまにええのか。ほんまにええんやな・・・」とか細い声でいい、その直後に、おむつに用を足されました。その数日後、Nさんは亡くなられます。

 みんな懸命に生きています。いい加減にみえたり、だらしなくみえていたとしても、また文句ばかり言っている人でも、その人なりに精一杯生きているという気がします。人の評価は外部に現れてくるものだけで他人がくだします。心の内や移り変わる心のゆくえは、夫婦親子兄弟姉妹の間柄で常に生活をともにしている人でも、いつも理解し続けることはとても難しいことです。

 このNさんも、自分のいのちの続く限り、頑張られたのだと思います。プライドがあったり、迷惑をかけてはならないとか、不安とか心配もあったでしょう。自分で頑張れるだけ頑張ったけども、やさしい家族に見守られて、安心して最後の最後は頑張り続けてきた力を抜いたのです。抜かざるを得なくなったのかもしれません。抜いたというより、抜けていったのかもしれません。
 このように、しっかり頑張って生きていた人も、どこかで力を失ってゆきます。自分の力には、もう頼ることはできないのです。その時、ほんとうに頼りにできる状況にあるのか、頼りになるものがあるのか。とても大切な気がします。しかしこの世のことは、想像することはできても、思い通りにならないことがいっぱいです。
 たまたま、Nさんの場合は、やさしい家族のもとで、自分ではどうすることもできなかったけれど、それはどうする必要もなくなったということでもあるでしょう。

 しかしこれまでの話は、みんなこの世のことです。「後生は確かか?」と問われたら、どう答えられますか?阿弥陀さまのお力にまかせるしかありません。自力を捨て、おまかせすることで、阿弥陀さまの願い通りに間違いなく往生浄土ができるのです。どうする必要もない世界なのです。

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2010年2月21日 (日)

清浄光明ならびなし

 私たちの住む娑婆世界は、すべて比較することによってしか理解することができません。たとえば、試験で55点を取ったとしても、それだけではどれぐらいのできであったのかということを知ることはできません。平均点が30点で最高点が62点、受験者100名のなかで2番めであったという比較情報があれば、それは優秀な成績です。逆に平均点が85点で、100名の受験者のなかで60点未満の者は5人しかいなかったとなれば、もっと頑張れと先生からハッパがかけられることでしょう。
 私たちが頼りにしている光にも、明暗があり、日常生活のなかではそれらを上手に使い分けています。本を読むところの明かりとトイレの明かりは違うでしょう。明るく照らされたところに泥棒は出にくいでしょうし、映画館は暗くないと用をなしません。

  清浄光明ならびなし
  遇斯光のゆゑなれば
  一切の業繋ものぞこりぬ
  畢竟依を帰命せよ
    (『浄土和讃』註釈版p.557)
清浄なる阿弥陀さまの光明は他に比べるものがない。私たちがこの光に出遇い、阿弥陀さまの心をいただくとき、煩悩によってつくりだされた悪業の束縛からのがれることができる。究極のよりどころである阿弥陀さまに帰命すべきである。

 この光は「無対光」阿弥陀さまの光明は比較するものがありません。明るいとか暗いという比較することができないのです。私たちの頭のなかにある光という概念を超えた光です。仏法のうえでは、「智慧」といわれることがあります。すべてを明らかにする光です。また「慈悲」ともいわれます。すべてを慈しむ光です。くらべるものが無いということは、たった一つということでもあります。間違いのない真実ということです。この世のなかにはない、絶対ということです。
 そんなものとはまったく無関係の生活をしていますから、そんな話しを聞いても自分の耳に入ってこない。絶対のものを受け付けるような教育も、生き方もないまま、今日に至ったのです。しかしたまたま、どんな因縁があったのか、偶然にその光に出遇ったのです。

 たまたま出遇ったのですが、阿弥陀さまからすればそれは必然のこと。阿弥陀さまは万全の態勢で待っていてくださっていたのですから。私がそっぽを向き続けているだけのことです。いつ気づくのか、いつ飛び込んできてくれるのかと、あらゆる機会を仏縁に変えて呼んでくださっていたのです。私がお願いするのではなく、すべて準備し尽くして願い続け、喚び続けてくださっている阿弥陀さまこそ、究極のよりどころです。
 にもかかわらず、あっちこっちと自分の生き方を探しまわり、他と比べてみるとそっちに目移りしてきました。迷い、悩み、うろうろと人生を過ごしてきました。そして残ったもの過去の思いでだけであり、それすらも失せてゆくのが人生です。そんなこと、だれよりもよく知っているのに、まだ相対の世界にしがみついて、どこへいくのでしょうか。

 まかすべきは阿弥陀さま。畢竟依に帰命するほかはありません。南無阿弥陀仏。

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2010年2月20日 (土)

光沢かぶらぬものぞなき

 第一線で活躍するスポーツ選手の体力、技術、精神力は鍛えに鍛えぬかれたもので、人間の限界に挑戦している人たちであると、つくづく感じます。自分自身がスポーツはできなくとも、トップレベルのスポーツを見ることで、鳥肌が立つほど感動することがあります。たった一瞬のパーフォーマンスであっても、言葉によって表現することはできませんが、大きな力をもらいます。
 1年に1回ある大きな大会や4年に1回のオリンピックに、心・技・体すべての状態をベストにもっていくことはたいへんなことでしょう。一人ではできないことでしょうから、心・技・体に関わる専門家がチームを組んで、選手たちを支えているのです。見えないところでのはたらきを知って、その感動も一朝一夕にできあがったものではないことを感じます。
 そんな選手たちでも、その日のコンディションや試合前のちょっとしたアクシデントによる微妙な変化が、身体や心に影響をおよぼすことがあるといいます。また、超一流選手もあとから出てくる後輩選手に追いつき、追い越されていきます。そして必ず引退するときがあります。

  光雲無礙如虚空
  一切の有礙にさはりなし
  光沢かぶらぬものぞなき
  難思議を帰命せよ
    (『浄土和讃』註釈版p.557)
阿弥陀さまの光明は、雲が何ものにもさまたげられることなくあまねくゆきわたるのは、虚空のようにはてしがない。この光明はあらゆる障害をのりこえて、どこで、どのような場合でも、阿弥陀さまの光を受けないものはない。この難思議の阿弥陀さまに帰依せずにはおれない。

 私たちがもっとも望むことは、人生のなかで自分の思いがさまたげられることなく成就するということではないでしょうか。実際は、思ったことがその通りにならないことの方がはるかに多いのが人生です。思い通りにならないことが苦ということです。
 仮に思い通りに満足感、達成感を得られたときは、この上ない幸せを感じます。それだけでも人間に生まれてきてよかったと思うことさえあるのです。しかしその思いも一瞬です。

 阿弥陀さまの願いは、一瞬のできごとで終わってしまうものではありません。阿弥陀さまの願いは、阿弥陀さまの思いにとどまったものではありません。一切衆生、すべての凡夫の願いなのです。
 単なる個人的な思いであれば、それぞれの思いが対立し、それぞれの思いどうしがさまたげあうのです。しかし普遍的な願いであるからこそさまたげるものは何もありません。凡夫の私は、そのことに気づいていないだけのことです。
 この和讃の三行めの「光沢」に、親鸞聖人は「光に当たるゆえに智慧の出でくるなり」という註釈(左訓)されています。阿弥陀さまの光明に照らされなければ、ほんとうのわたしの姿も、普遍的な願いも見えてこないということでしょう。照らされることによって、私たちが本来もっている願いを発見するということです。
この光は、難思議(不可思議)の阿弥陀さまの、何ものにもさまたげられない光(無碍光)なのです。

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2010年2月19日 (金)

有無をはなるとのべたまふ

 この世に生きている限り、知識を身につけ、技術を磨き、身体を鍛えて、人に負けないようにと、いろんなところで競争していきます。その司令塔になるのは脳です。
 いま、脳をどのように使うか、鍛えるか、活性化するか…ということが、多くの人の関心を引いているようです。また、脳科学という脳と心を関連づけて論考がずいぶんもてはやされてもいます。もっとも、脳のすべてが開明されているわけではありませんから、わずかな事柄であったとしても、脳のはたらきが明らかになることに関心をもつのでしょう。

 しかし仏法では、脳の重要なはたらきである「分別」があるゆえに、苦悩が生まれるというのです。人間の分別のことを「虚妄(こもう)分別」という言い方をするのです。嘘、偽りの分別ということです。
 仏教では、分別するということは、私が自分自身に執着し、分別するものやことを我がものとし、自分の判断を押しつけているに過ぎないと説きます。言葉によって自分の思いに合致した虚構の世界を創り出しているだけなのです。まさに煩悩を生み出しているのです。
 社会において、分別のある人だと評価されるのは、たまたま同じ思いの人がたくさんいて、多くの支持を得られているというにすぎません。少数派の人も、それなりに分別しているのですが、社会的に受け入れられないだけのことです。社会の大勢派となろうが、少数派となろうが、虚妄分別を繰り返し、それぞれにそれぞれの苦悩を深めているに過ぎないということでしょう。

 そう言われても、私たちは有無、優劣、上下、強弱、勝敗、善悪、…と、分別することなくしては生きることができません。

  解脱の光輪きはもなし
  光触かぶるものはみな
  有無をはなるとのべたまふ
  平等覚に帰命せよ
    (『浄土和讃』註釈版p.557)
束縛され続けている煩悩から解放してくださる阿弥陀さまの光明は際限なく十方を照らしている。その光を受ける者はすべて、有無の邪見を離れ超越する。それゆえ私たちは、平等の真理をさとられた阿弥陀さまに帰命するほかない。

 阿弥陀さまの「無辺光」についての徳をたたえられたものです。無量光は過去・現在・未来の時間を超えて照らす光に対し、無辺光はすべての空間を照らし出す光です。
 この世の小さなできごとに、ああでもない、こうでもないととらわれていることから解放されてゆく光です。我執に気づき、我執を離れることでもあります。私のなかの分別の世界を超え、無分別智をいただくしかありません。

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2010年2月18日 (木)

智慧の光明はかりなし

 阿弥陀さまが私に呼びかけづめでいてくださいます。聞いておくれ、めざめておくれ、われを頼りにしておくれ、ここ(浄土)に帰れっておいで、…と。

  智慧の光明はかりなし
  有量の諸相ことごとく
  光暁かぶらぬものはなし
  真実明に帰命せよ
    (『浄土和讃』註釈版p.557)
阿弥陀さまの智慧の光明は凡夫が容易にはかり知ることができない。世間のありとあらゆるいのちあるものは、この光明を受けて迷いの闇が晴れて仏となれないものはない。阿弥陀さまの真実の光明に信順せよ。

 「無量光」について述べられた和讃です。無量光は過去世、現世、来世の三世をつらぬいて照らす光で、凡夫では量(はか)ることできない阿弥陀さまの徳です。
 これまで気づくことはありませんでしたが、私はその無量光を過去世からずーっと受け続けてきたのです。無量光によって必ず本願に出遇うことができることが保証されているのです。
 
 親鸞聖人は、真実明について、真は「いつわりへつらわぬ」こと、実は「もののみとなるをいう」のだと左訓を付けておられます。阿弥陀さまの心にも言葉にも偽りはありません。偽りがないということは、へつらいがないということです。へつらうというのは、人の気に入るように振る舞うことです。真実に対して真向かいになることです。真実に真向かいになることで、「実」となる。
 阿弥陀さまが実と示される反対の言葉は「虚」です。「不実」です。私の思いが、私の行為が、そして私そのものが、虚であり、不実です。そこに、阿弥陀さまの真実の光明が届くことによって、実になるのです。阿弥陀さまの智慧がはたらくからです。
 そこには私の思いや力などどこにもありません。もしあったとしても、真実のさまたげとなることばかりです。

 「帰命」は、阿弥陀さまの命に帰することであると同時に、阿弥陀さまの心に帰することを命ずるという、阿弥陀さまからの直接の喚び声でもあるのです。
 これまで、念仏することなど、たいした意味を感じなかったけれど、ここで阿弥陀さまがわたしによびかけてくださっている心は、どうかわが名を称えておくれ、南無阿弥陀仏と称えておくれという喚び声そのものなのです。

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2010年2月17日 (水)

阿弥陀さまは光の仏さまです

 阿弥陀さまのお徳を、願いをそのままこの身をもって受ければいいことでしょうが、それがなかなかできません。さとりを得たいと思い、頭で理解しようとしたり、心で感じようとしたり、体得しようとしたり、それぞれの思いのところで悩みつつ道を求める人がたくさんおられるようです。
 しかし教えをしっかりと聞くこともなく勝手に道を歩んでみても、さとりを得ることはできません。さとりへの道は、阿弥陀さまが示してくださったように歩ませていただくしかありません。その道は、私が気づく以前から、はっきりと示されています。しかし暗闇のなかで、迷っている私にはその道が見えないのです。

 見えない道を歩むのは恐ろしいことです。それゆえ、阿弥陀さまは光によって、私を導いてくださるのです。智慧の光です。それが光明です。
 阿弥陀如来の光明に限らず、光には多くのはたらきがあります。私たちの日常の生活のなかでも、太陽や月やあるいはさまざまな光によって快適な生活を送っています。阿弥陀さまの光は、この世だけではなく、過去世も来世をも見通しています。まず「破闇の光明」。私たちの煩悩(暗闇・迷い)を破るはたらきです。つぎに「調熟の光明」です。阿弥陀さまの心をいただき、信順する心をいただくように導くはたらきです。小さくて堅い実のような心に光を当てて、それを熟すように力を与える光です。そして「摂取の光明」です。阿弥陀さまの心をいただき念仏を称える身となった者を摂取して決して捨てないというはたらきです。

 『無量寿経』や『観無量寿経』でも、阿弥陀さまのお徳を十二の光で示されています。親鸞聖人も、『正信偈』のなかで、また『浄土和讃』のなかでも十二の光について記されています。

  無量光、無辺光、無碍光、
  無対光、光炎王、清浄光、
  歓喜光、智慧光、不断光、
  難思光、無称光、超日月光

 光には形がありません。見える光もありますが、見えない光もあります。しかしだれもが光があることを知り、光のはたらきを感じています。私が気づかないような大きなはたらきが、この地球上の隅々にまで及んでいるのが光です。その光に育てられ、生かされて続けているのです。安心して生きることができるのも、気持ちが明るくなるのも、元気が出てくるのも、光があればこそです。その光をも超えた光が阿弥陀さまの光明です。

 どこにいてもさまざまな光を受けずには生きることができないのですが、そのことをあまり意識していません。まして、阿弥陀さまの光明を意識することなどほとんどないのではないでしょうか。とどまることを知らず、浴びるように受けているにもかかわらず。

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2010年2月16日 (火)

いまに十劫をへたまへり

  弥陀成仏のこのかたは
  いまに十劫をへたまへり
  法身の光輪きはもなく
  世の盲冥をてらすなり
    (『浄土和讃』註釈版p.557)
法蔵菩薩が衆生を救うために仏のさとりを開かれて阿弥陀仏となられてから、すでに十劫という長い時間が経過した。阿弥陀さまの光明は十方世界を照らしきわまりがなく、煩悩のために智慧の眼をさえられ、闇に迷い、愚かで闇を破る智慧のないものを守り照してくださっている。

 阿弥陀さまが仏のさとりを開こうと願いをたてられた理由は、迷いの世を輪廻し続けているこの私を救いたいと考えられたからです。いつまでたっても無明の世界から出ることができず、苦悩の世界に沈み続ける私を発見されたからなのです。それゆえ、自らご修行され、さとりを開くことによって、その願いを成就されました。成就された願いはすべて念仏に込めて、阿弥陀さまのはたらきとして私に与えてくだいました。
 それから十劫という、私たちの常識では考えることができないほどの長い長い時間が経過しました。しかし、それから今日までの十劫もの間、私は迷いの世界を経巡ってきたのです。なぜか?迷いの世界のなかで、阿弥陀さまの願いを聞こうとしなかったからです。受け取ることを拒否し続けてきたからです。
 そんなことがあっても、阿弥陀さまは、私のことをひとときも休まず、忘れず、必ず仏にすると誓い、はたらき続けてくださいました。いまも、私に寄り添ってはたらき続けてくださっています。私の側から見れば、常に智慧の光明によって照され続けているのです。

 そういう物語があるのではありません。それは宗教的事実として、私の身の上に顕現するのです。そうとは思えないという人は、まだ、自分の身の上には起こっていないということにすぎません。浅原才一さんの歌に、次のようなものがあります。

  弥陀成仏の このかたは
  わしの心に経たまえり
  なむあみだぶつ なむあみだぶつ

 阿弥陀さまが仏のさとりを開かれたことを、「どうやら、そうらしい」とか「そんな話しを聞いたなぁ」というのではなく、わが身のうえに成就した事実として受け取られたのです。また、同じく才一さんは次のようにも歌っておられます。

  弥陀成仏の このかたは いまに
  十劫をへたまへり
  わしの心に経たまえて
  くださる慈悲が なむあみだぶつ

 阿弥陀さまの願いとはたらきには、まったく気づかなかったこの私が、阿弥陀さまの智慧の光明によって気づかせていただいた。闇のなかで、何も見えず気づくこともなかったのに、照らされてはっきりと見えてきた。それは、三毒の煩悩にまみれていたほんとうの私自身の姿をはっきりと知らされたということであり、その私が阿弥陀さまに照らされ続けてきたということです。
 そしてもうひとつ、十劫もの間、まことを聞くことなく、阿弥陀さまを待たせ続けてきたということです。そんなことに気づいてでてくるものは、南無阿弥陀仏しかありません。わずか六字の簡単なものです。しかしその南無阿弥陀仏がでてこなかった。
 よびかけ続けられていた私が、長い時間を経てようやく気づかせていただき、やっと南無阿弥陀仏と応えることができたのです。

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2010年2月15日 (月)

長時に慈恩を報ずべし

 ふだんあまり仏教に縁のない人でも、「お釈迦さま」という言葉はご存じだと思います。そしてお釈迦さまと仏教という言葉が二つあれば、点線くらいででも結ぶことができるのではないでしょうか。
 でも、「お釈迦さまって、どんな人?」と問うと、意外と答えられる人は少ないかもしれません。ましてや、お釈迦さまが説かれた教えはどんな教えかを問うても、ほとんど答えられないと思います。

 学校では、お釈迦さまは歴史上の偉人であったり、仏教の開祖であることを教えられます。しかし、私自身にとってお釈迦さまがどんな方であるのかということは、なかなか教えてもらうことはありません。おそらく、お釈迦さまって自分自身にとってどんな人なんだろう、という立場にたってお釈迦さまを語る人が少ないからではないでしょうか。
 また、浄土真宗ではお釈迦さまを大切にしないという人もいます。真宗寺院のなかで、お釈迦さまを安置しているところを、私は知りません。もちろん、阿弥陀さまのおはたらきによるお救いではありますが、お釈迦さまが世に出られこの世に阿弥陀さまの願いを説いてくださったからこそ、その教えを聞くことができることをもっと深く味わうことが必要なのではないでしょうか。

  娑婆永劫の苦をすてて
  浄土無為を期すること
  本師釈迦のちからなり
  長時に慈恩を報ずべし
    (『高僧和讃』註釈版p.593)
娑婆世界の苦しみからはなれて、何ものにもとらわれない浄土のさとりを期待する身となったのは、お釈迦さまのご苦労のおかげである。それゆえ、常日頃から、慈悲をかけてくださるご恩には報謝しなければならない。

 親鸞聖人は、「釈迦弥陀は慈悲の父母」(『高僧和讃』註釈版p.591)と、お釈迦さまを父、阿弥陀さまを母とたとえられ、このお釈迦さま阿弥陀さまを二尊として仰がれました。前日は和讃は阿弥陀さまの報恩を、そして本日の和讃はお釈迦さまの恩徳を報ずべきことを明らかにされているのです。

 「正信偈」のなかで、「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」(釈迦如来がこの世にお出ましになったゆえんは、ただ弥陀の本願海を説かんがためなり)と記されています。
 お釈迦さまの教法は多いけれど、そのなかでもその要は阿弥陀さまの本願であったと、親鸞聖人はおっしゃっているのです。そしてまた、七高僧として敬われた先達は、お釈迦さまの教えのなかから、その要の部分を選び出されてこられた方々であるのです。

 「長時に」とは、不断に、常日頃からという意味です。いつも、そして途切れることなくそのご恩を報いよとおっしゃっておられます。それを聞いた私の気持ちはいつも”そんなことはできるわけがない”。実際、まず、できないでしょう。
 しかし、よくよく知らねばならないのは、願いは途切れることなくかかっているということです。私のために。

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2010年2月14日 (日)

つねに弥陀を念ずべし

 しあわせそうにみえる人を見てうらやむことがあります。その人がほんとうにしあわせなのかどうか知らないのに、わたしにはそうみえるということだけで、ねたみ、そねむのです。しかし、40年50年あるいはそれ以上の人生は、それぞれにたいへんな荒波であったに違いありません。ふだんはそんなことをひとつ一つこと細かく聞くことはありませんが、たまたまぽつりぽつりと語られ始める話しからそれを感じます。
 人生の岐路での立ち往生、多くの人との葛藤や争い、さまざまな力に押し潰されそうなことに耐えられないしんどさ、自分自身の病気に苦悩したり、肉親の介護に向き合っての心身の疲労、難問がやっと解決したと思った次の瞬間から次の重い課題を背負うのです。こんな状況も時間が解決してくれるとなぐさめてみても、事態はますます悪くなり、苦しみを深くしてゆくこともあります。
 そんなこんな経過があっても、いま、その人がしあわせなら、ともに喜び合うのが情のある人間の生き方でしょう。でも、喜び合うことができず、うらやみ、ねたみ、そねむ自分自身を振り返るほどに恥ずかしさを感じずにはおれません。
 しかしそこで喜び合ったとしても、いのちある限り、次から次へと、際限のない苦しみ、悲しみを抱えて生きているのです。

 いったいどうしたらこの世のこの苦しみを抜くことができるのでしょうか。自身のそしてこの世の苦を抜くというのは、お釈迦さまが出家なさった目的そのものだったのです。この苦しみを抜くことがさとりであるのです。

  弘誓のちからをかぶらずは
  いづれのときにか娑婆をいでん
  仏恩ふかくおもひつつ
  つねに弥陀を念ずべし
    (『高僧和讃』註釈版p.593)
阿弥陀さまの本願力に救われることがなければ、いつまでたってもこの苦悩に満ちた娑婆世界を離れることはできない。念仏の教えを伝えてくださった釈尊のご恩を心深く感じつつ、つねに阿弥陀さまの本願を憶念し念仏しつづけなければならない。

 ほんの一瞬でも、笑顔を見せて生きていこうとする姿に、元気をもらうことがあります。笑顔を見せる方も、元気をもらう方も、ほんとうの意味ですべての苦が抜かれ、変わらぬ楽を与えられたわけではありません。
 この娑婆世界に生きていることそのものが、本質的には苦であると仏教では教えます。ほんの一瞬の笑顔に満足するのではなく、あるいはそれでごまかしてはなりません。

 「つねに弥陀を念ずべし」とは、私たちの日常生活のなかの思いとは大きくかけ離れた思いであり、行為です。しかしこのことばは、阿弥陀さまの願いが、お釈迦さまを通して私たちに示され、親鸞聖人によってこれ以外の方法はないゆえに、ご自身に示された命令なのです。上からおしつけられたのではありません。親鸞聖人の思い、生き方のすべてなのです。

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2010年2月12日 (金)

【ひと休み】日本の謎の鳥

 いま、インターネット上に流れている「日本の謎の鳥」という文章です。どうやら作者不詳のようです。内容的にうんぬんのすることは横に置いて、表現的にはとってもおもしろいと思いますね。こういうのが書きたいのですが・・・。

・・引用始め・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  日本には謎の鳥がいる。
  正体はよく分からない。

  中国から見れば「カモ」に見える。
  米国から見れば「チキン」に見える。
  欧州から見れば「アホウドリ」に見える。
  日本の有権者には「サギ」だと思われている。
  オザワから見れば「オウム」のような存在。
  でも鳥自身は「ハト」だと言い張っている。

  それでいて、約束をしたら「ウソ」に見え
  身体検査をしたら「カラス」のように真っ黒、
  釈明会見では「キュウカンチョウ」になるが、
  実際は単なる鵜飼いの「ウ」。

  私はあの鳥は日本の『ガン』だと思う。

・・引用終わり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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自障障他せしほどに

 私たちが生まれてきたときは何もかも白紙状態です。何も知りませんし、何もできません。阿弥陀さまの願いがどのようなものであるのかということも、その願いが私に久遠劫のむかしからかかっていることも知りません。そののち、学校教育のなかで教えてもらったことはありませんし、新聞やテレビでもとりあげられることはありませんから、知らないし、わからないのはあたりまえのことでしょう。
 世間の情報からすると、阿弥陀如来、念仏、浄土、などという言葉は、人が亡くなったときや葬儀にイメージされるものではないでしょうか。願いや光明や歓喜というような、明るいイメージの言葉とは結びつかないようです。これが末法の世の一面を明らかに示しているのかもしれません。

 その一方、生まれてから後、「うそをつかないように」「腹を立てないように」「みんな仲良く」というようなことを、家庭でも学校でもくり返し巻き返し教えられてきました。ところが、どれだけ教えられても、自分自身で反省をしてみても、なかなか身につきません。こんなことはいけないことだとわかっているのに、ついついしてしまうのです。
 何でも生まれてから身につけると冒頭で書きましたが、もしかすると、うそをついたり、腹を立てたり、仲良くできないというのは、私が本来もっている自性なのかもしれません。

 私は気はつきませんが、長い間流転輪廻するなかのどこかで、阿弥陀さまの本願について聞かされることや、西方浄土や念仏を知らされたことがあったでしょう。しかし無視し続けてきたのです。それだけではなく、他人が教えを聞くことをどれだけ邪魔をしてきたかもしれないのです。
 そんなことがあったかも・・・、というのではなく、それはとても恐ろしいことをしてきたことを知らねばなりません。まことに逆らってきたのですから。もっとも、それゆえ流転輪廻をくり返してきたのですけど。

  西路を指授せしかども
  自障障他せしほどに
  曠劫以来もいたづらに
  むなしくこそはすぎにけれ
    (『高僧和讃』註釈版p.593)
西方浄土への道を示されたけれども、自ら妨げて阿弥陀さまの願いを疑い聞こうとせず、また他の人に対しては本願をそしって浄土往生の道を妨げてきた。そのため久遠劫のむかしから今日に至るまでむなしく過ぎ、生死流転してきたのである。

 私が仏法を求めてきたことは一度もありません。しかしそんな私だからこそ照らさずにはおかないという光に照らされ続けてきたのです。それにも気づかないまま、いまここに至ったのです。
 私には何がどうなったのか、何をしたわけでもないし、どうなろうと思ったわけでもありません。しかし、照らされ続けてきたからこそ、いま、ここで仏徳讃談させていただけることだけで不思議なことです。南無阿弥陀仏。

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2010年2月11日 (木)

まことの道は無理な教えではない

 小さいときから、朝夕お仏壇にお参りし、仏法聴聞が大切なことを教えられるような家庭に生まれ育つ人は、必ず仏法を聞けるのでしょうか。必ずしもそうとは限りません。確かに、法義の厚い地域や家庭に育ち、家には仏壇があり、手を合わすことを教えられた人の仏縁は尊いものです。しかし阿弥陀さまが、すべてまかせよと願いをかけ、それを浴びるように受けていても、それぞれの因縁によって、受け取ることができない人がいるのです。
 阿弥陀さまの願いは、何ものにも妨げられずにはたらくと聞かせていただきますが、ただ一つ凡夫の邪見・驕慢の心は、その阿弥陀さまの願いをはねのけてしまうのです。それが疑心です。阿弥陀さまを無視する心です。あるいはあざけり笑う心です。

 家が浄土真宗の門信徒で、仏壇があり、手を合わせた経験のある人なら、そんな縁に恵まれたところから逃げてしまっていることを嘆き悲しむべきでしょう。嘆き悲しむことができないのなら、そのことに痛みを感じるべきでしょう。痛み悲しむことができなければ、・・・とどれだけ追求しても、キリがのないことかもしれません。それが凡夫なのですから。だから阿弥陀さまがいてくださることを聞かねばならないのです。
 そのありのままの凡夫の姿を、仏さまの話を聞かせてもらうことによって知らせてもらうのです。お経に書かれていることですし、念仏の教えを聞いてきた先達たちが実感してきたことでもあります。

 山口県六連島のお軽さんは、浄土真宗の寺のご門徒でありながら仏法とのご縁は無かった人のようです。そのお軽さんが、あることを機に、ありのままの自分の姿とそのほんとうの自分にかけられている阿弥陀さまの願いを聞かせてもらうことになります。その後、たくさんの歌を残されましたが、次の歌は私にはとても刺激的な歌です。

  聞いてみなんせまことの道を 無理なおしへじゃないわいな
  まこときくのがおまへはいやか なにがのぞみであるぞいな

 生まれ育った環境、仏縁の有無、自分の心の動き、等々も仏法を聞く上では大切な要素ではあるのかもしれませんが、何よりも重要なことは「まことを聞くこと」です。まこととは阿弥陀さまの願いです。
 阿弥陀さまの願いがまことであると知ることができるのは、阿弥陀さまの願いをいただいたときです。阿弥陀さまの願いに出遇わせていただいたときです。私たちがふだん使っている言葉で言い換えたら、実感したとき、直観したときです。

 家に仏壇はなく、仏さまに手を合わせるということを教えてもらったこともない。そんな人でも、阿弥陀さまの心が届き、手を合わせ念仏を称える身となることができます。それは阿弥陀さまの心を聞き、そのまま受け取ることができたときです。

 仏法を聞く人に分け隔てはありません。「私は聞けない」「私にはわからない」と言う人は、仏法の聴聞が足らないということです。聞けるようにできているのが仏法です。無理な教えではありません。

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2010年2月10日 (水)

仏智を信ずるのが報土の因

 仏教という教えは、私が仏を信ずる教えです。しかし信ずるだけではダメで、それを行じ、修することで、教えにある救済に至り着くのです。精神的にも身体的にも行じ、修することは難しいことです。それをさとりに至り着くまで行じ、修し続けるというのが一つの道筋です。ところが、行じ、修することすることの延長線上にさとりがあるかというと、必ずしもそうではありません。行じ、修し続けるどこかで人間の思考、行動を超えるのがさとりです。

 私たちがこの世のなかで自分がやろうと決断し始めたことでも、なかなかやり遂げるというのは簡単なことではありません。ましてや、仏になろうという道を極めるのは、並の人間の力で行じ、修しつづけることはできません。
 そのことがわかっているから、立ち上がってくださったのが阿弥陀さまです。仏さまの教えを、凡夫である人間が信じ、行じるのはあまりにも難しすぎる。多くのすぐれた修行者がいたとしても、どれだけの人がさとりの境地をえることができるのか、と。それゆえ一念発起してくださり、自ら行じ、自らさとりの境地に達してくださった阿弥陀さまの徳をに与えてくださったのです。
 私が聞かせていただくのはこの「仏願の生起本末」です。聞いても聞いても、そのまことが簡単に聞けるわけではありません。容易に信じることができるわけではありません。

 ここで阿弥陀さまはひと工夫してくださっているのです。“行じられない、信じられないのなら、私が必ず救うと誓い、願を立て、みずから行じて成就した。その徳を振り向けよう。その徳も難しいものではなく、一切の徳を「南無阿弥陀仏」として仕上げた。なにもいらない。ただこの南無阿弥陀仏を受け取っておくれ。南無阿弥陀仏と称えておくれ”と。

  不思議の仏智を信ずるを
  報土の因としたまへり
  信心の正因うることは
  かたきがなかになほかたし
    (『正像末和讃』註釈版p.608)
人間の智慧ではおよびもつかない不思議の仏智を信じることが、真実報土に往生する因であるとされた。まことの信心をうることは、むつかしいなかでもなおむつかしいことである。

 聞くだけ、称えるだけのことです。しかし私の頭では、人間の智慧では受け取ることが難しいのです。しかし、その仏智を受け取ること、つまり「仏願の生起本末」を疑いなく受け取ることが報土の因なのです。
報土は阿弥陀さまの国である浄土です。私たちの頭のなかにも浄土がつくられます。それは方便化土(ほうべんけど)です。阿弥陀さまの心を聞くこともせず、自分の力を頼りにする者はこの化土にしか生まれることができないのです。

 虚仮の世における凡夫である私が、迷うことなく報土に生まれることができるのは、阿弥陀さまが示された道を聞くしかありません。聞いて、阿弥陀さまの心に疑いなく信順するしかないのです。とても難しいのはわかっています。私が迷いのなかにいるのですから。迷いのなかにいるから、阿弥陀さまの智慧をいただくまで聞かせていただき、称名念仏するしかないのです。

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2010年2月 9日 (火)

本願毀滅のともがらは

 あなたは両親をどれくらい信用していますか。100%信用しているというのがあたりまえ・・・と言いたいところではありますが、そう答えられる人は意外と少ないかもしれません。それではどれくらいの信用しているのかと、その程度を問うてもはっきりと言えないのではないでしょうか。
 心のはたらきは微妙ですから、容易に判断できなかったり、はっきりと結論を出すことができないことがたくさんあります。それだけ心は揺らいでいるのです。その日の気分によっても違うでしょうし、あるできごとを巡っての対応のありようによってもイヤになったり、好きになったりするのです。
 さらに、妻(もしくは夫)に対して、子どもに対して、さらに上司は、友人は、・・・・など、どれくらい信用し、心を許しているかを問うてみてください。いずれの場合も、なかなか定まった答えを出すことは難しいのではないでしょうか。

 阿弥陀さま本願を信ずる心、あるいは本願を疑う心もそうでしょうか。「だいたいは信じられるのだが」「法話を聞いているときには、本願に間違いないと思うのだけれど」「疑う気持ちはないけれど信じられない」など、わかったのかわからないのか、なんともわかりにくい答えが返ってきます。しかし阿弥陀さまの本願に対して、わかりにくいという答えはありません。その日の気分で違うというようなことはありませんし、信じる疑うというところにレベルは存在しません。本願を信じる心か、疑う心かのどちらかしかないのです。
 阿弥陀さまの本願に対して、揺らぎがあるというのは私の心で聞いているから揺らぎができるのです。その日の気分によって違う、あるできごとを巡って気持ちも変わる・・・というのも、私の心がそう動いているということにすぎません。

  本願毀滅のともがらは
  生盲闡提となづけたり
  大地微塵劫をへて
  ながく三塗にしづむなり
    (『高僧和讃』註釈版p.539)
阿弥陀さまの本願をそしり滅ぼす人たちは、生まれながらにほんとうのことを見ることができず、仏になる種を持たない闡提(せんだい)だと言われる人である。大地微塵劫というはかり知ることのできない長い時間が過ぎても、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に沈み、迷い続けることになる。

 阿弥陀さまにいただく信心は、阿弥陀さまの心をいただくのです。私の心とは別物です。生まれながらにほんとうのことをみることができないというのは私のことです。仏になる種を持たない闡提というのは私のことです。三悪道に沈み続けてきたのがこの私です。
 それがいま、何の因果か、人間界に生まれさせていただき、阿弥陀さまの心を聞かせていただくようになったのです。しかし自分の心で揺らぎながら聞いていては、またまた三悪道を経巡るしかありません。

 はっきりと、間違いない阿弥陀さまの心を聞かせてもらうしかありません。南無阿弥陀仏の心をいただき、往生間違いなしと聞かせていただくことしかありません。揺らぎのない心をいただくのです。それ以外の心は疑心でしかありません。私には疑い心はないと思っている心は、阿弥陀さまの心ではありません。

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2010年2月 8日 (月)

五濁増のときいたり

 国会や地方議会の議員、公務員、医者、弁護士、教員、警官、などといった人たちは、社会的に高い地位にいる人たちであると考えられています。尊敬されてきた人たちです。もともと高い地位にいたわけではなく、自分を律し、社会的にプラスの影響力をもっていたから尊敬され、高い地位として認められてきたのでしょう。僧侶も、その一翼を担う人たちであったと思います。
 ところが、近年、これらの人たちの一部に不祥事を起こす人が出て、それがマスコミで大々的に取り上げられるようになりました。高い知識や技術を身につけてはいるけれども、自己に甘く、人間的に優れているとは認めがたいという空気が広がっているようです。

 ・・・というように、他人のことをとやかく言うのはたやすいのですが、どのような地位、どのような立場にあったとしても、自分のことをありのままに見るのはとても難しいものです。また、自己に厳しく、常に自分を律するということも容易なことではありません。

 人間の目は外向きについていますから、いつも自分の外の世界を見ています。また人間の耳も外向きについていますから、いつも自分の外の声・音を聞いています。ですから、自分以外のことは見えるし、聞こえるけれど、自分のことはよく見えないし、聞こえていないことが多いのです。

  五濁増のときいたり
  疑謗のともがらおほくして
  道俗ともにあひきらひ
  修するをみてはあだをなす
    (『高僧和讃』註釈版p.538)
末法の世となって五濁が盛んな時代となると、阿弥陀さまの本願を疑いそしる者が多くなり、僧侶も俗人も互いに憎み合い、念仏する人を仇のように嫌い邪魔をするようになる。

 親鸞聖人の和讃のなかに、「五濁(ごじょく)」という言葉が出てくるものは十数種あります。それだけ世の濁りや汚れを感じ、嘆かれていたのでしょう。しかし、外の世界を嘆いておられたのではありません。常に、自分自身の思いや生き方を、嘆かねばならない外の世界と重ね合わせておられるのです。
 いま、念仏に生かされているけれども、少し人生の軌道がずれれば、私が念仏を疑謗し、私が僧俗の争いを起こし、私が念仏とは違う世界を生きるだろう。そう思っている次の瞬間、私は何をしでかすかもわからない・・・、というのが親鸞聖人のお気持ちではないでしょうか。

 他人のことを言うのはたやすく、自分のほんとうの姿を知ることは難しいのに、どうして親鸞聖人は常に自分の振り返ることができるのでしょうか。それは仏法という鏡をとおしてご自身をごらんになっておられるからです。
 上記の和讃を見たとき、これは誰のことだろう・・・と、あれこれと勝手に想像してしまいますが、実は私自身に向けられたお言葉なのです。この和讃に限らず、お聖教はそのために書かれ、私たちに示されているのです。

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2010年2月 7日 (日)

変わらない真実はどこにある?

 若いときは、おじいさんが入院した、おばあさんが亡くなった・・・という話しを聞くことが多かったのですが、10年ほど前から父が亡くなった、母の介護が必要になったという話しを聞くことが多くなってきました。
 いのちあるものは必ずいのちを終えるというのは自明のことですが、日常生活のなかではほとんど意識しないことです。また意識したくないことです。ところが、テレビから流れてくるニュースのなかに、無常を感じドキドキすることがあります。それも次第にマヒして聞き流すようになってしまっています。

 しかし、身近な人の無常を知ることで、いつまでも当たり前である日常生活が変わらないと思い込んでしまっている世界観が揺らいでしまいます。さらに、それが自分の肉親であるとなると、その動揺も半端なものではありません。
 仏法を聞かせていただくと、老いる、病む、死ぬという、聞きたくない話がでてきます。聞きたくないということは、そこから目をそらしたいからでしょう。それを、身近な人が目の前で知らせてくれているのです。目をそらせたくても、そらせることができません。そんなことあってほしくないと思う余裕すらありません。聞きたくないほんとうのことを、ここで聞かせてもらうのです。しかし、ふだんから人生が無常であることを聞き、愛別離苦や求不得苦のなかを生きていることを聞いていなければ、この縁が教えを聞く機会にはなりません。

 ところが、時間の経過とともに、その感覚、思いが薄らぎ、消えてゆくのです。ときどき思い出すのですが、思い出す間隔がだんだん空いてゆくのです。諸行無常を聞かされ、仏法大事と知らされ、病み亡くなってゆく肉親を目の前で見せられて、そのことが間違いのないことだと知らされているのに、そのこと思いが消えてゆくのです。
 変わらない真実ってどこにあるのでしょうか? どれだけ学び、経験し、強い思いをもったとしても、私のなかに無いのは明らかです。間違いのないまことって何でしょうか? 仏法を聞いて聞いて、念仏させてもらうことができる身とさせていただいても、私自身でないことはあきらかです。

 目の前で老い、病み、亡くなってゆく姿が私の姿です。そのことを思い知らされ、涙が出なくなってしまうほど泣いたとしても、その真実さえも忘れ去ってしまうのがありのままの私なのです。仏法を聞いているといっても、実にいい加減な聞き方でしかないのです。
そこをめがけて南無阿弥陀仏がはたらいてくださっているのです。いい加減な聞き方しかできないから、阿弥陀さまが願いを立て、そんないい加減な私の腹の底に飛び込んできてくださっているのです。

 その願いとはたらきを聞かせてもらう、知らせてもらうことだけで、私の身に何が起ころうと、大きな宝物をもらうことのできた人生であることを思うのです。

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2010年2月 6日 (土)

「無縁社会」のなかでも

 2010年1月31日にNHKスペシャルとして放映された「無縁社会」を見ました。

 http://www.nhk.or.jp/special/onair/100131.html

 人間は社会的動物です。社会のなかで生まれ、育ち、社会のなかで生きていきます。社会というのは、人と人との関係があって初めて成立します。人と人との関係から集団が生まれ、組織が生まれ、あるいは制度が生まれます。社会が発展するということは、集団や組織や制度が複雑になっていく過程であるということもできます。
現代日本の組織や制度はとても複雑で高度にできあがっていますから、何か事を為すために電話一本で、インターネットのメール一本で済ませることができます。その代わり、その事を為すための代価をお金で支払うことになります。

 複雑な組織や制度によって動くということは、その組織や制度からはずれてしまうと、孤独な人生を送ることになります。そんな簡単に組織や制度からはずれるはずはないと思ってしまいます。社会的人間なのですから。
ところが、少子化、小家族化、核家族の現象が、そのきっかけになります。さらに地域社会の崩壊があります。いずれにしても人間の根幹となる組織なのですが、それが小さくなり、崩壊しているのです。さらに、未婚、離婚は拍車をかけます。定年退職も人間関係が切れてしまう大きな要因です。
 組織や制度は複雑に高度にできあがっても、社会が成立するためのもっとも基本的な形である人と人の関係が切れてしまえば、社会とのつながりも切れてしまうのです。

 これまでも、独居老人が亡くなったあと、何日も発見されないままでいたという話しがあります。兄弟姉妹がいない、両親もいないし結婚もしていない、地域社会の人間関係は希薄、等々の状況が重なれば中年、若年層でも一人寂しくしんでゆく可能性がないこともないのです。それほどまでに、現代の日本社会の人間関係が希薄になっているということです。
 人間関係が希薄であっても、組織や制度がしっかりできていますから、買い物はできるし、さまざまなサービスを受けることもできるのです。そこにお金が色濃く介在しますが、濃密な人間関係はありません。自動販売機、コンビニ、ネット通販、等々はそれらの象徴的なもののひとつでしょう。ほんとに冷たい社会、温かい縁が切れてゆく社会です。

 お釈迦さまは「独生独死独去独来」と、人間は一人であることを示されています。幸い、この世で多くの人とのご縁をいただいて生きることができても、一人でこの世を出て行かねばなりません。看取りや葬儀に多くの人に泣いてもらっても、この世を出て行くときはだれもついてきてはくれません。
 真宗には御同行、御同朋といわれる人間関係があります。人には見せたくないような、醜い、弱い、悲しい、・・・、そんな面をともに理解し合いつつ、念仏とともに生死いずべき道を念仏とともに歩ませてもらう仲間です。どのような生き方、そして死に方をしたとしても、いつも阿弥陀さまといっしょであることをよろこばせてもらう仲間です。
 たとえ家族がなくとも、地域のなかで生活できなくとも、阿弥陀さまとその願いのなかで生きているのです。南無阿弥陀仏は、その阿弥陀さまの願いそのものであり、私が決して一人ではないという味わいでもあるのです。

 私自身が、だれも看取る人がいない、世間で言う無縁仏となって葬られてゆく、というようなこともあるかもしれません。たとえ、そうであったとしても、念仏させてもらうことしかありません。
 無縁社会のなかであっても、いのちをいただき、念仏させてもらうことをよろこびたい。そんな思いを持ちつつ、番組を見終わりました。

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2010年2月 5日 (金)

本願相応せざるゆえ

 この世を、何ものにも妨げられず自分の思い通りに生きることができ、それがいつまでも続いたら、きっとしあわせを感じるに違いありません。ところがどんなに恵まれている人であっても、そんなしあわせなど手に入れることなどできようはずはありません。
 生きている間に、ほんの一瞬、自分の思い通りになったと思い、心が躍ることもあるでしょう。それがしあわせだと思い、その一瞬のために悩み苦しみつつも生きている人は多いとのではないのでしょうか。思い通りに生きようと思っているにもかかわらず、そのように生きられないことこそが苦しみの原因なのです。

 それに対して、思い通りに生きることなどできないのだよ、と教えてくださっているのが阿弥陀さまです。その真実は阿弥陀さまの智慧です。思い通りに生きることができない私に、阿弥陀さまの慈悲は、いつでも、どこでもかけられていますし、いつまでも、そしてどこまでもかけつづけられているのです。初めがどこかわからないような遠いむかしからかけ続けられてきたにもかかわらず、そのことを感知することすらなく、今日に至ったのです。阿弥陀さまの智慧にも慈悲にも気づかず、いま、私はこの娑婆を生きているのです。
 
 真実の願いが私にかかり、迷いを離れる道が示されているにもかかわらず、気づくどころか、それを無視し、あるいはその願いに背いて、自分の思い通りに生きてきたのです。そしていまも自分の思い通りに生きたいし、これから先も生きてゆこうと考えているのです。

  本願相応せざるゆゑ
  雑縁きたりみだるなり
  信心乱失するをこそ
  正念をうすとはのべたまへ
    (『高僧和讃』註釈版p.592)
私の思いが、阿弥陀さまの願いと離れたところにあるから、雑行・雑修に誘われ、心が揺れ動いてしまう。そんなときは信心が乱れ失われてしまい、阿弥陀さまの願いを感じられず、まことの念仏ではなくなってしまうと、善導大師は述べられた。

 「雑」というのは、念仏の道を外れた雑行・雑修のことです。つまり阿弥陀さまの願いに背を向け、ほんとうのことを見ようとせずに生きてきました。その「雑」を助長するさまざまな縁が「雑縁(ぞうえん)」です。仏縁のなかで生き、生活をしている者でさえ、雑縁に引っ張られ、流されて生きています。その主人公は常に私であり、この世だけのしあわせしか考えられず、そこから離れることができないのです。

 さまざまな誘惑に惑わされ、仏法聴聞し、仏徳讃談して念仏することなど、眼中になくなってしまうのです。仏さまのことなどはすっかり忘れて、“放っとけさん”です。そんなとき、信心は乱れてしまうという。それは自分で作りあげた信心だから乱れるのです。

 阿弥陀さまから間違いなくいただけばそれは金剛の信心です。雑縁で乱れることはありません。

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2010年2月 4日 (木)

一念無疑の人は希有最勝人

 真実の教えを聞いても、それをそのまま疑うことなく受け取るということはとても難しいことです。「阿弥陀さまの願いには間違いはないと思うのだけど・・・」「疑っているつもりは無いのだけど・・・」という、正直な心の底を吐露する人の声を聞くことがあります。「~だけど・・・」のあとが続かないのですが、心のなかはスキッとしていないことがわかります。何かがひっかかっているのでしょう。
 人間の心はとても複雑ですから、真実の教えをしっかりと受け取ったかどうか、当の本人もはっきりしないこともあるのではないか、という人もいるかもしれません。

  真宗念仏ききえつつ
  一念無疑なるをこそ
  希有最勝人とほめ
  正念をうとはさだめたれ
    (『高僧和讃』註釈版p.592)
真実信心である本願他力の念仏を聞いて、一念の疑いもない人を希有の人、最勝人であると善導大師はほめられた。本願を信じて疑わない他力の信心をえた人だと定められた。

 私たちは自分の力で生きていると思っています。しかし実は自分の力も、さまざまないのちを食べ、いろんな人に支えられて生きることができているのです。しかしさまざまないのちも、いろんな人の力も阿弥陀さまの大きな願いのなかにあることに気づかせてもらわねばなりません。そのことを理解できないから、心のなかがスキッとしないのでしょう。
 しかしそのことがわかる、つまり、阿弥陀さまが私を必ず救うという一念の思いに疑いをもたないということはとても難しいことです。ですから「希有最勝人」だと言われるのです。まれにしかいない最高に勝れた人です。

  信心よろこぶそのひとを
  如来とひとしとときたまふ
  大信心は仏性なり
  仏性すなはち如来なり
    (『浄土和讃』註釈版p.537)
真実の信心をよろこぶ人は、阿弥陀如来と等しいものだと説かれている。他力の大信心はそのまま仏性であり、仏性はそのまま如来なのである。

 信心をよろこぶ人は、その信心を阿弥陀如来より賜るので、如来と等しいものだと説かれているのです。凡夫が如来と等しいというのは、希有なことであり、最勝人とたたえられることに何の不思議もありません。
 信心をよろこぶというのは、疑いもなく阿弥陀さまの心をいただいたからこそわき出す心です。疑いをもつ心は、如来の心ではありません。正念ではありません。正念は阿弥陀さまの心ですし、それはあれもこれもという心ではありません。その心は一念ですから、疑いの心は阿弥陀さまの心ではないということです。

 だからといって、スーパーマンになるわけではありません。凡夫のまんま、人間のまんまです。人間のまんま、阿弥陀さまの大きな願いに気づくほんとうの人間になるのです。

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2010年2月 3日 (水)

利他の信楽うるひとは

 「自利利他」の教えが大乗仏教の理想であると言われます。自分を利するということは他を利することであるとか、これがボランティアの根本精神である、などとも言われます。この言葉を根拠にして、社会的実践をする仏教徒も少なからずおられるようです。
 しかし私にはもうひとつこの言葉がピンとこないのです。私の場合、自利(自分を利すること)については、どんな場合でも、考えも行動もそうなっています。何の無理もせず、きわめて自然に振る舞えるのは自利のところです。しかしなかなか利他(他を利すること)は滅多にありません。利他のように見せかけて、実は自分の利を企んでいるのです。大げさなものではありませんが、ほめてもらいたいとか、満足感を得たいとか、自分の地位を確保したいとか・・・。
 自利のための利他という、本来の意味とはまったく違った「自利利他」になってしまっています。

  利他の信楽うるひとは
  願に相応するゆゑに
  教と仏語にしたがへば
  外の雑縁さらになし
    (『高僧和讃』註釈版p.592)
他力回向の信心を得た人は、阿弥陀さまの本願にかなっているから、お釈迦さまの教えと諸仏の言葉にしたがうならば、そのほかのさまざまな雑縁にさまたげられることはない。

 「利他の信楽」というのは、私の思いがまったく入っていない阿弥陀さまの心です。他を利するという心を持ち、はたらく心は楽しい心だから「信楽」というのでしょう。他のためにはたらいても、はたらくものが我慢したり、不快になったりすることなどない心です。
 私が、他のためにはたらいて楽しい心になるのは、私の心が満足されたときです。満足されなければ、文句を言い、他のためにはたらくのをやめてしまいます。条件のついた利他は、大乗仏教でいう利他ではありません。理想に向かって自利利他の精神をこの世の中で生かしたい、という気持ちはとても尊いものではありますが、問題は思いのどおりにできるかどうかということです。

 「利他の信楽」は、阿弥陀さまにいただく心です。その心をいただくためには、条件のついた利他の心(=自利の心)をうち捨てない限りいただくことはできません。自分自身に執着し、自分の利を優先するような利他などあり得ないのです。
 真なる利他は、阿弥陀さまの願いになかっていることです。阿弥陀さまの願いは、お釈迦さまが示してくださり、お経という形で伝えられています。さらに、その意味を理解できるように、多くの菩薩、聖人たちが解釈を加えて教典として残してくださいました。

 世のなかには、さとりとはまったく無縁の、迷いを深めてゆくような情報に惑わされ苦しんでいます。まずは、阿弥陀さまの心をいただいた菩薩や聖人のお心に触れさせていただくほかはありません。

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2010年2月 2日 (火)

自信教人信でなければ・・・・

 仏法を聞くことはとても難しいことです。教えを聞いている人にとっては、説く方がもっと難しいと思われるかもしれませんが、説く方は聞くことより難しいことではありません。もちろん、聞く人に正しく教えが伝わるように、努力や工夫は必要です。そういう意味では難しいことかもしれません。しかし、正しく教えが伝わるように、努力や工夫をしても、仏法を正しく聞いていない人には仏法を説くことはできないのですから、説く側に立つ前にしっかりと仏法を聞き、領解(りょうげ)をすることが必要です。それが難しいのです。

 正しく教えを聞いて、阿弥陀さまのほんとうの願いを受け取ることができたなら、この教えを聞いてほしいと思うでしょう。何かを得るための手段として教えを伝えるのではなく、教えを伝えることそのものが目的であれば、いきいきと仏法を語ることができるのではないでしょうか。
 ところが、教えを伝えることが仕事になると、仕事の対価としての報酬があります。もちろん、この世を生きていくためには、仕事の対価としての報酬なしには生きていくことはできませんから、それがダメだというのではありません。しかし、報酬が目的になってしまうと、正しい教えを伝えることが手段になってしまいます。
 目的は非常に絞られたものですが、手段は多様です。ですから、正しい教えでなくとも、おもしろかったり、多くの人に受ければよいということにもなりかねません。

 教えを説く立場に立つ人が、いい加減な話しをしているというわけではありません。しかし、ほんとうに説く人が正しい教えをしっかりと受け取っている(いただいている)かどうかは、とても大きな問題です。
 たとえば、「ありがたい」話しをされるのですが、どのようにありがたいのか、さまざまなありがたさがあります。まず、経典を読んで解釈して、こんなにありがたいことが書かれている・・・という話しがあります。経典がありがたいのはあたりまえです。そのありがたいところをわが身がほんとうに受け取れるのか否かというのが大きな問題です。
 次に、□□さんはこの教えをとてもよろこんでおられる・・・という話しがあります。これは第三者がありがたいという話しです。もちろん深く共感する人もいるでしょうが、多くの人にとっては他人ごとでしかありません。
 三つ目はこの世のなかの人間関係やこの世のできごとをありがたいという話しです。それは仏法の要を説くための導入や例話ではありえても、阿弥陀さまの願いやはたらきではありません。
 さらに、「阿弥陀さまの教えはありがたい」と話ししても仏法は伝わりません。阿弥陀さまの教えは、私のためにできた願いであり、その願いにしたがって私の上ではたらいていることを伝えなければピンとこないのです。そのためには、説く者が、実際に教えを身に受け、そのありがたさを体験することなしにはあり得ません。

 阿弥陀さまの願いをいただいた人には、説いている人が、ほんとうに阿弥陀さまの願いを正しくいただいているのかがわかるのです。それは自分がつくりだしたものではなく、阿弥陀さまからいただいという証なのです。

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2010年2月 1日 (月)

競争社会の篩は私の視点

 「勝ち組・負け組」という言葉の意味を、だれもが知っています。好ましいことではないし、ずいぶん不快な気持ちになる言葉です。それだけいまの日本社会の状況は良くないし、その状況が広範囲に広がっているということでしょう。
 このような状況がどこから出てきたのか、何が原因なのかということを、多くの人が語っています。私は、この半世紀の日本社会を席巻してきた価値観の結果だと思っています。

 日本が経済成長してきた時代は「競争社会」と言われてきました。当初は、競争することで切磋琢磨して社会の成長がありました。能力、努力がものをいう時期でしたし、程度の差こそあれ、だれもが恩恵を被る時期でした。
 それでもまだ「競争社会」は続きました。そのなかで、歴史的・社会的に抑圧され差別されてきた人に対して、決して十分ではなかったけれど、競争のスタートラインに平等に付けるような努力や工夫もなされてきました。しかしやっぱり「競争社会」が続きます。 「負けるな」「頑張れ」と励まし続けられてきたのが日本人です。

 競争が続くイメージは、かつては甲子園の高校野球のように勝ちあがってゆくというイメージが強くありました。しかし、最近は負けたチーム(者)が競争の舞台を去ってゆくというイメージの方が強くあります。もう一つ、土や粉を何度も篩(ふるい)にかけるイメージもあります。最初は粗い篩にかけられ、そのうちどんどん目の細かい篩にかけられてゆくたびに、厳選されたものだけが残ってゆくのです。厳選の目安は、篩の目の細かさだけです。水分の量や硬さ柔らかさなどの特質などは考慮されません。ただ篩の目の細かさだけで土や粉が振り分けられるのです。
 つまり、競争を繰り返せば、勝った者と負けた者とのグループが明確になり、固定化するのです。

 この問題が深刻なのは、苦心惨憺しつつ福祉だとか共生だという社会づくりをめざし、セイフティ・ネットというような装置をつくろうとしてきました。それがはたらいているように見えないことです。問題が起きてからの政治的な施策も、靴の上からかゆいところを掻くような感じです。

 これが娑婆の世界だと冷ややかにみるわけではありませんが、阿弥陀さまが示してくださった世界を味わわさせていただくのです。
 阿弥陀さまの世界は勝つことも負けることもない世界です。篩にかけることもかけられることもない世界です。しかし社会にも、そして私にも、善いとか悪いとか、好きとか嫌いとか、役に立つとか立たないとか、…、偏った篩の目を通して判断します。競争して、自分が勝つことだけが目標になっています。
 阿弥陀さまの目を、心をいただいて、この娑婆世界を生きることが求められている時代であることを強く感じます。娑婆世界だからどうしようもないというのではなく、娑婆世界だからこそ阿弥陀さまのは心とはたらきを深く知らせていただくことが、とても大事であることを感じるのです。

 そんなことがわかっているのに、競争して勝ち残ることが幸せになるだろうとしか思えず、あくせくして自分の首を絞めてしまっている。これが自業自得ということです。でも、その自業自得が理解できないことが娑婆世界に生きている証でもあるのですね。

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