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2010年3月31日 (水)

【お知らせ】ペースを落として書き続けます

 昨年の10月2日からブログを書き始めて、途中数日休みましたが、半年間、ほぼ毎日書き続けて来ました。始めてからしばらくたって、自分に一回1000字超を毎日書くというノルマを課しました。一回1000字というノルマを下げようかとも、毎日書くというペースも落とそうかとも思いましたが、緩めるとどんどん後退して、書けなくなる気がしましたので、とにかくそれを三ヶ月間続けようと思い、結局いままで書き続けて来ました。

 結局、ノルマが優先してしまいますと、味わったり、深めたりしたいということがおろそかになってしまいます。きわめて直感的で、余裕をもつことができませんでした。コメントをくださった方以外に、メールをくださった方、直接会ったときにご意見ご感想をくださった方々たちと意見交換なり、仏法を深めることもできましたが、そちらはちょっと軽かったことを悔やんでいます。

 いずれにしても、半年続けたのですから、これからは少しペースを落として書き続けたいと思います。止めるわけではありません。字数にもこだわることなく書きたいと思います。でも、タイトルどおり「畢竟依を帰命せよ―究極の拠りどころにまかせて生きることができますか?―」というところにこだわって書き続けたいと思っています。

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阿弥陀さまの耳と目をいただいて聞く

 お経に書かれていることは変わりませんが、それを人がそれぞれに解釈します。しかし、お釈迦さまから七高僧、親鸞聖人、さらには蓮如上人はじめ次第相承の善知識が共通して示されている肝心要の部分に変わりはありません。阿弥陀さまに帰依する」ということに尽きます。
 帰依するというのは、阿弥陀さまの願いを心から信じ敬うということです。阿弥陀さまの勅命を信じしたがうことです。心を阿弥陀さまにまかせるということです。阿弥陀さまのはたらきに疑う心が無いということです。そのほかにも、さまざまな表現がなされるでしょうが、みんな同じことです。法話においても、書かれたものでも、核心は「阿弥陀さまに帰依する」ということです。

 「阿弥陀さまに帰依する」という主語は、私です。私が帰依する。私が敬い信じる。私が信じ従う。私がまかせる。・・・というように。漠然と聞いてしまえば、知識として、“あぁ、そうか・・・”という程度に知ることになります。ところが、真剣に聞くと、単に知識ではなく、問いとしてわが身に響いてきます。ほんとに帰依しているのか? 敬い信じることができているのか? 阿弥陀さまの心を疑いなく、まかせているのか? と。
 求道というのは、法話を聞き、仏書を読めばよいというものではありません。問いのない求道はありえません。

 なぜ、問いが出てくるのか? それは、仏法は、凡夫が聞いてもわからない教えだからです。「阿弥陀さまに帰依する」といっても、帰依できるものではありません。阿弥陀さまの願いが、私の望んでいるものとは全然違うからです。私が求めるものをまったく無視して、帰依せよというのが阿弥陀さまのお心なのです。
 このように書くと、だんだん仏法がわからなくなってきます。そのわからないところが問いとならざるをえません。法話も、仏書も、わからないところがあれば、そこをサラリと流してはなりません。問いが生まれたとき、ほんとうの聞法のスタートラインに着いたのだと思います。その問いから仏法を深めのです。

 問いをもち、問いを深めて聞いてゆくことによって、仏法の聞き方が変わってきます。また、漠然としていた仏法の核心が具体的になってきます。
私の場合は、「私が阿弥陀さまに帰依する」ということが、「阿弥陀さまが私を帰依せしめる」と聞けるようになりました。また、「阿弥陀さまに帰依する」という言葉は、称名念仏するという具体性をもつようになってきました。それにともない、いままで流し読みしかできなかった仏書の言葉が、響いてくるようになっています。

我欲を抑えることのできないのが私の生き方ではありますし、我執にとらわれ苦しむ毎日毎時の生活は何も変わるところはありません。その耳で仏法を聞き、その目で聖教を読むことのおろかさに気づかせてもらわねばなりません。阿弥陀さまの耳と目をいただくことでしか、聞くことのできないのが仏法です。

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2010年3月30日 (火)

本願一実の大道を

 日本の道路はずいぶん整備されてきました。当初は舗装もしていないガタガタの地道でした。道幅も狭く、路肩に車が駐車されていたり、子どもたちが遊んでいたりして、スピードを出すことができませんでしたから、目的地への時間はずいぶんかかったものです。
 そのうち、幹線道路が整備されるようになってきました。また、東名・名神の高速道路ができます。そして次々に高速道路が造られました。ときどき渋滞することもはありますが、信号を気にすることもなく、スピードをあげて走ることができます。
 幹線道路、特に高速道路が楽なのは、一度そこを走り始めたら、目的地に近くまでほぼ迷うことなく行けることです。案内の看板が整備されていますし、分岐するところもそんなに多くはありません。

  万行諸善の小路より
  本願一実の大道に
  帰入しぬれば涅槃の
  さとりはすなはちひらくなり
    (『高僧和讃』註釈版p.586)
聖道自力の難行の小路を捨てて、他力本願の真実の大道に帰入すれば、往生と同時に涅槃の妙果は自然に開かれる。

 仏道を歩むということは、諸善を積み、修行をすることだと思っている方は少なくありません。そんな歩みは、少数の聖者だけしか修行ができないので、曇鸞大師は「小路」だと示されました。諸善や修行をまねごと程度のことをやってみよう思う人は多いようですが、人生をかけて真剣にその道を歩む人は少ないものです。

 小さい道は、分岐点も多く、勝手に判断して走ると、とんでもないところに着いてしまうことがあります。曇鸞大師は、自力・難行の聖道である「小路」ではなく、阿弥陀さまが指し示してくださっている「大道」を歩むことを勧められています。この「大道」に入れば、もう迷うことはありません。そのまま浄土という目的地まで通じているのですから、着いたところが浄土です。大事なことは、間違わぬように他力本願の大道に入ることです。入ることができれば、あとは道を踏み外さぬように歩むだけです。

 この世のことをあれこれと算段したところで、それが思うようにいくことは難しいことです。ましてや、後生のことをあれこれ考えても何の意味もありません。私が考えずとも、すでに準備された道があるのです。そこに気がつかず、行うことができない善や、修することができない行にとらわれてしまっては、まことの道が見えないのです。
 私が往生するためにすべき思案や努力は、すでに阿弥陀さまがなさってくださったのです。私がする万行も諸善も一切必要ありません。阿弥陀さまがすべて南無阿弥陀仏に込めて成就した。必ず往生させると誓われているのです。

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2010年3月29日 (月)

念仏者として日常生活をどう生きるか

 宗教が現代社会にどのように関わってゆくのかというのは、どの宗教にも共通した大きな課題です。当然、仏教においても同様のことが言えます。私は、宗教とか仏教という視点では広く大きすぎるので、語ることも実践することもできません。せめて真宗者あるいは念仏者としてどのように生きてゆけばよいか、ということを思うのです。

 「この世は虚仮だから、現代社会と関わってもしかたがない」「まことの念仏にまかせておけば、それでよい」という人がいるの知っていますが、現代社会に生きている以上、そんなことは言ってはおれません。私が生きていくためには、人との関係だけではなく、組織や制度とも複雑に絡み合っています。地域社会はもちろんのこと、国家や広く海外の国々とも関係なくしては生活していくことはできない時代になっています。
 しかし、いきなり真宗者・念仏者として国家や国際社会とどのような関係をもてばよいのか、と問われてみたところで、なかなかピンときません。これまで、念仏者が戦争、平和、靖国、さらには差別や女性、また臓器移植や自殺、などの問題にどう応えるのかということが語られてきました。これらのいずれもが、とても大切な問題ですし、現代社会を象徴する問題でもあります。しかし、腰が引けているのでもありませんが、個人の経験としての具体性がなく、実感できるものでもないと言うのが正直な気持ちです。

 ですから、”現代社会と真宗”という、見えにくいテーマとして設定するのではなく、まずは“日常生活と私”と考えてみると具体的で身近になってきます。実感もわくでしょう。ところが、それでは俗人のままの私の日常生活を考えることにしかなりません。ですから、“日常生活と念仏者としての私”として考えねばなりません。
社会問題としての戦争・平和、差別、臓器移植、自殺などのテーマには、とても関心があります。しかし、正直言って、日常生活とはずいぶんかけ離れています。ということは、“日常生活と念仏者としての私”としては縁遠い感じがして、机上の空論になりかねません。
また、議論することは、学問としたり、社会的に影響力を及ぼすための運動の方向性を定めるためには必要であっても、仏法を自分の心を見つめ、阿弥陀さまの真実の心と出遇い、対話させてもらうには必要ありません。私にとっては、家族や仕事やお金、健康やいのち・・・といったことのほうが、具体的で、強いインパクトを持っています。

 そんな私の個人的関心となっている日常生活はあまりにも個人的すぎますから、私自身しか経験することができません。それを仏法を通して生きるには、私自身が仏法を聞くほかはないのです。念仏をいただく人生を過ごすしかありません。

 そういうことから、「念仏者としてどう生きればいいのでしょうか」と問うより、自分自身が念仏者となって、自らが日常生活を送ることを通して示すしかないのです。

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2010年3月28日 (日)

思うた心が、みな自力

 禅の研究者である鈴木大拙師は、真宗の妙好人を紹介しています。そのうちの一人に、石川県小松市の森ひながいます。彼女は子どもを亡くし、寺へ行って説教を聞きました。しかし義母との仲がよくなかったようで、義母に知られないように寺参りをしたようです。それでも、仏法を深く聞いていきました。
 
 そのうち、いっしょに暮らしていた息子は年季奉公のため、家を出ることになったのですが、彼女は何とか真宗の信心を息子に得させたいと思いました。しかし、彼女は字が書けなかったため、自身の宗教的心情を書き表すことができませんでした。そこで、彼女が話し、それを息子に書き取らせました。
 以下、その文を紹介します。この文章の出処は、鈴木大拙『真宗入門』春秋社です。なお、( )のなかは、理解しやすいよう漢字にして補足しています。

  おもいだいては、き(気)はいそいそと
  うれしあまりに、うたをかく。
  われでか(書)かれず、わがこ(子)にかかす、
  ともによろこび、ふでをとる

  おさないときより、まいりはすれど、
  なんのきもなく、きいてゐた。
  われのこころの、なやみのために、
  おてらまいりに、ふみだした。

  きけばきくほど、ありがたうおもひ、
  こんなおやさ(親)まあるものか。
  まいる、まいると、しゅう[と](姑)にいへず、
  しのびしのんで、てらまいり。

  われのちからで、でるとはおもうた、
  そうじゃなかった、おやちから。
  たりき(他力)、たりきと、おもうてゐたが、
  おもうたこころが、みなじりき(自力)。
  じごくきらひの、ごくらくのぞみ、
  のぞむこころも、みなじりき。

  こうかあゝかと、はかりてゐたが、
  はかるが(の)ではない、ただのただ。
  ああ、ありがたい、なむあみだぶつ。

  われが、めくらのこしぬけゆえに、
  おやの、ちからで、よがあけた。
  ああ、ありがたい、なむあみだぶつ。

  われとめくらを、めくらとしらず、
  おもうたこころの、はずかしさ。

  となえるしょうみょう(称名)、われかとおもうた、
  そうでなかった、みだ(弥陀)のよびごえ、
  ああ、ありがたい、なむあみだぶつ。

  じごくいちじよ(一定)と、おもうてみれば、
  じごく、ごくらく、ようじなし。

  だれのおかげで、このみになれた、
  ごかいさい(御開山)さま、れんによ(蓮如)さま、
  しだいしようじよう(次第相承)の、ぜんちしき。
  ごおん、とうとい、なむあみだぶつ。

  あるは、ないはと、くろう(苦労)はすれど、
  あみだによらい(如来)と、ふたりづれ、
  ああ、ありがたい、なむあみだぶつ。

  あみだによらいと、おやこになれど、
  ときどき、ぼんのう(煩悩)が、でてならん。
  ああはづかしや、なむあみだぶつ。

  おもうまいとは、おもうてみれど、
  おもうや、おもうほど、ましてでる。
  ああ、はずかしや、なむあみだぶつ。

  わがけ(我が機)、ながめりや、あいそもつきる、
  わがみ(我が身)ながらも、いやになる。
  ああ、はずかしや、なむあみだぶつ。

  いやになるような、ざまたれ、ばば(婆)に、
  ついて、はなれぬ、おやござる。
  ああ、ありがたい、なむあみだぶつ。

  あみだによらいと、つきひをおくる、
  いつの、なんどき、ひがくれようと。
  ああ、ありがたい、なむあみだぶつ。

  あみだによらいと、つきひをおくる、
  いつの、なんどき、ひがくれようと。
  ああ、ありがたい、なむあみだぶつ。
  ごおん、とうとい、なむあみだぶつ。

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2010年3月27日 (土)

法話は聞かねばならない話、聞くべき話

 仏法聴聞というのは、浄土真宗の要です。真宗寺院などで、「法話」とか「仏さまの話」という形で教えを聞く機会が設けられています。法話を聞かれる方は、決して少ない数ではないと思っています。しかし聞き方のレベルはさまざまです。聞き方の焦点の当て方もさまざまな気がします。
 長い間聞いておられても、おもしろい話、わかりやすい話、難しくない話を求めておられる方がおられます。話す側はこれらについてそれなりの工夫が必要ですが、聞く側がこのような話を求めることはまったく筋が違っています。仏さまの話は「生死を出ずる道」ですから、おもしろいはずはありません。私の智慧では思いつくことも考えることもできませんから、わかりやすいはずはありません。決して難しくないのですが、自分が難しくしてしまっていることに気づかないのですからどうしようもありません。

 生きるのに役立つ話、元気が出る話を求めておられる方がおられます。人生長く生きてもせいぜい100年。そんな短い期間の役立つ話を説いているわけではありません。仏法は現世のみならず来世にもわたるしあわせについて説いているわけですから、今しか見えない者には聞くことができません。現世と来世にわたるしあわせが説かれているのですから、生きるのに役立つ話、元気が出る話と限定せずとも、正しく教えが聞けたら望みは実現するでしょう。というより、自分の望み方が間違っており、阿弥陀さまの心に従って問題が解決するでしょう。

 心に抱える苦しみを軽くしたいあるいは無くしたいと思う人、よりよき人間関係を仏法に求めようという人がいます。この世で努力してお金を儲けたり、地位を上げる方がみんなからの注目度は高いかもしれません。病院やカウンセラーの力を借りる方が解決は早いかもしれません。部法が聞けたから、よりよき人間関係ができるともいえません。ここで勘違いしてはならないのは、仏法を聞くことは健康な人間、善い人間になるためではありません。“実際、そういう人がいる”というなら、そうでない人もいますから。
 むしろ、仏法を聞くことによって、いままで気づかなかった心の苦しみを敏感に感じるようになったり、それまでには感じなかった仏法をめぐる微妙な人間関係に悩むことも少なくはありません。仏法を知ったが故に、仏法を聞いたが故に、私のなかの違った煩悩が目覚めるのです。

 仏さまの話を聞くということは、親鸞聖人のお言葉にあるように「仏願の生起本末を聞く」ことです。つまり阿弥陀さまには仏願を立てなければならない理由があったのです。それは私が生死(まよい)を繰り返し、沈み続けているということを見抜かれたからです。私の思いなどどこにもないところから始まった願いです。私は無自覚のまま生死(まよい)をくり返して、目覚めよと言われても疑うしかないのです。
 仏さまの話は、阿弥陀さまの願いを聞くことですが、実は迷っている私をみせてもらうことでもあるのです。仏さまの話は、落語のような演芸でも、講演会でもありません。聞きたい話しを聞くのでもありません。人間に生まれてきたがゆえに、聞かねばならない話しを、聞くべき話しを聞かせていただくことなのです。

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2010年3月26日 (金)

ムダと思う人生も念仏のタネになる

 とっても忙しい1週間が終わり、「あぁ、ムダな1週間やったのぉ。もっと勉強しとったら、こんな人生を送らんでもよかったのに。今になって後悔しても始まらんけど、しゃぁないわなぁ・・・」と、A氏が言われました。それなりの役割が与えられている方でしたので、少し驚きではありました。それを聞いていたB氏は、「そう言うてしまったら、人生って何をしてもムダじゃないですか・・・」と言葉を返しました。それに対してA氏は無言のままでした。

 勉強とはどのようなことを言っておられるのか、今となっては確かめることもできませんが、もっと勉強していたら、ムダな1週間を過ごすことはなかったのでしょうか。
 Aさんのこの言葉とは逆に、意味のある1週間というのはどういう日々なのでしょうか。のんびりとした1週間を送るということでしょうか。読書にふけり、内容的にもたいへん満足感を味わうということでしょうか。気の合う人と語り合うことができたということでしょうか。
 もちろん、そんな時間を過ごすことができれば意味あることかもしれません。しかし、これらはいずれも人生のなかの一コマであり、そんな時間がズーッと続くわけではありません。

 なかには、志をもち、それに向かって精進し、人生をかけて誰からも認められるような成果を挙げた人が、充実した自分の人生をインタビューや書物で語っておられることがあります。とてもうらやましいし、尊いことだとも思います。一方で、とても特別な方たちでもあることを感じます。
 そんなすばらしい生き方ができなくても、だれもが充実したい人生を送りたいと思っているはずです。でも、なかなかそうとばかりはいきません。振り返った1日を悔い、1週間を悔い、1ヶ月を悔い、1年を悔い、・・・。そして死ぬ間際に一生を悔いるのが人生かもしれません。
 自分の人生ですから悔いのないように生きたいと思います。いつもピーンと張りつめた気持ちで生きていくことなどできようはずはありません。だら~っとすることも、結構手抜きもあったりします。人間関係でつまずくことも、ずるい心、ねたみそねむ心、いやらしい心、かっこ悪い心、・・・などが次々に出てきます。あとで、しまった、と反省することもあるでしょうが、まったく気づかずに人に不快な思いをさせ続けることもあるかもしれません。

 しかし、どのような心が起ころうとも、どのような人生を送ろうとも、いつも変わらず、そんな私に寄り添い、そんな私を認めてくださり、南無阿弥陀仏と呼びかけてくださっている方がおられます。「ムダな人生は過ごさせない。生まれ、そして生きてきたことをよろこぶことのできる生き方を与えてやろう。ぜひとも与えたい」というのは、阿弥陀さまの誓いです。
 私がムダに過ごしたと思う時間も、勉強してこなかったことも、後悔の連続の人生も、すべて含めて阿弥陀さまの南無阿弥陀仏とともに生かされていくのです。

 阿弥陀さまのまことの心を疑いなく聞きひらくことができれば、人生はムダでも、むなしくもありません。どんな生活、どんな人生を送ろうとも、阿弥陀さまの心をいただき、南無阿弥陀仏とともに生かさせてもらうことを、ことあるごとに味わうことができるのですから。どんな思いも、どんな行為も、念仏よろこぶためのタネになるのです。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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2010年3月25日 (木)

われらこそ、浄土の自然にいたるなれ

 善因善果、悪因悪果というのは仏教が示す因果の道理です。因というのは心に蒔かれる種です。つまり人間の思いのことです。その種(思い)が生長し、口や身体を通して行為となって表に現れます。さまざまな縁が重なって花が咲きます。そして最期に「果」となります。結果には善し悪しがありますが、すべてどのような種を蒔いたのかというところに関わっているのです。

  五濁悪世のわれらこそ
  金剛の信心ばかりにて
  ながく生死をすてはてて
  自然の浄土にいたるなれ
    (『高僧和讃』註釈版)
劫濁(時代の悪化)、見濁(意見対立)、煩悩濁(道徳悪化)、衆生濁(心身劣化)、命濁(短命化)という五濁にまみれた悪世に生まれた私たちにとって、それこそをめあてとした阿弥陀さまの大悲心が、名号として廻向されるとき、金剛の信心と名付けられる。その金剛の信心によって、ながく生死の苦海をすてはてて、ついに阿弥陀仏の願心で荘厳してくださった無為自然の浄土に生まれることができるのである。

 五濁の悪世は衆生がつくりだしてきた世界です。その世界に私が生まれ、その世界をますます濁らせてきました。私も五濁悪世をつくりだす衆生です。あいつが悪い、政治が悪い、社会が悪い・・・と、厳しく批判するのは、私の外の世界ばかりです。「五濁悪世のわれら」とは大勢の人、あの人もこの人もという不特定多数の人たちを言っているのではなく、この私のことを指しているのです。
 金剛はダイヤモンドのことです。信心は阿弥陀さまからいただいたまことの心です。五濁にまみれた私であるからこそ、まさにそのまみれた私をめあてとしてはたらいてくださるのが阿弥陀さまです。五濁悪世を生きなければならないからこそ、こわれることのない阿弥陀さまのまことの心をくださるというのです。
 でも、この阿弥陀さまの心が聞けません。阿弥陀さまの心を、私の心に届く前にはじき飛ばしてしまっています。それもほとんど、自分では無意識のうちにはじき飛ばしてきました。

 阿弥陀さまは、善いことをしたからまことの心をあげようというのではありません。五濁にまみれた私にくださるというのです。因果の道理にかなうことではありません。
 しかし私の心のなかに蒔く種を因とするなら、果は悪しかありません。私の因は、すべて阿弥陀さまが引き受けてくださり、阿弥陀さまの因を私にあげようという心が阿弥陀さまの心です。

 生死(まよい)の世界からはすっぱりと離れることができるのは、阿弥陀さまの心にすっかりまかせることしかありません。聞けるはずのない阿弥陀さまの心がいただけるのです。いただくのです。愚かな私の力によるのでありません。何から何まで、すっかり阿弥陀さまがはたらき続けてくださっているからです。

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2010年3月24日 (水)

法をよりどころにした自らをよりどころとせよ

 お釈迦さまの最後の教えだと言われているのが、「自灯明・法灯明」の教えです。

  自らを灯火とし、自らをよりどころとせよ。他をよりどころと
  してはならない。法を灯火とし、法をよりどころとせよ。他
  の教えをよりどころとしてはならない。(『長阿含経』)

 浄土真宗の教えでは、自力はダメと言われる。それなのに、お釈迦さまは、自分を頼りとせよとおっしゃっている。矛盾するのではないか・・・と読めるかもしれません。
 とにかく、ここでは、自分を頼りに生きることを説いておられます。この世に生まれ、だれとも変わることのできない人生です。生まれた境遇は私が受けていかねばなりません。しかしその境遇を自分のがんばりによって変えてゆき、創りだしてゆかねばなりません。

 福祉の世界では、「自助」、「共助」、「公助」ということが言われています。自分のことは自分でやる、共に助け合う、自分だけではできないあるいは家族や地域などによって助け合うことができないところは公的なシステムとしてサポートするということです。これらがバランスよく機能することが求められているのです。
 このことが大きな声となり、それなりの工夫が重ねられてシステムができあがっていますが、一方では家族や地域が壊れたり、財政難を理由に公的サービスが削られたりすることも見えます。また、たとえ、「共助」、「公助」がうまく機能しても、自分のことを自分でできるの満足度が高いのではないでしょうか。

 ところが、その自分というのは実に頼りないものです。苦しみ迷いのなかを生きているわけですし、一寸先は病気が、老いが、そして死があります。アッという間に状況は一変します。そんな自分を頼りにもよりどころにもなりません。

 それゆえ、お釈迦さまは、法をよりどころとせよと示されるのです。前半部分と後半部分は全くの別物ではありません。私が頼りにする自分は、法をともしびとして生きよと言うのです。つまり、法をよりどころとすることのない自分は、頼りになどなるはずはありません。頼りない私であっても、真実の法に支えられるからこそよりどころとなるのです。真実の法以外に何もよりどころとはなりません。

 ここまでくると、親鸞聖人のお心と何も変わるところはありません。私は煩悩具足であり、火宅無常の世界を生きるしかないのです。その私も、念仏によって生かされ、阿弥陀さまの願いに抱かれるからこそ、生きる意味をみいだせるのではないでしょうか。そのほかに、何をよりどころに生きることができるのでしょうか。

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2010年3月23日 (火)

唯仏一道きよくます

  九十五種世をけがす
  唯仏一道きよくます
  菩提に出到してのみぞ
  火宅の利益は自然なる
    (『正像末和讃』註釈版p.602)
仏教の教え以外の九十五種の外道がはびこって世人をまどわしけがしている。しかし弥陀の本願だけは清浄にしてけがされることがない。ゆえに私たちは、生まれ変わり死に変わるということをくり返す苦しみ迷いの世を離れ、浄土に往生してのみ、娑婆世界で衆生を教化することが如来の願力により自在である。

 お釈迦さまがこの世に出る前から、六師と言われる反バラモン的な自由思想家6人が活躍ました。これらの六師は、それぞれサンガをもち、集団のリーダーとして活躍し、高い知識をもち、教祖として多くの人から尊敬されていたといいます。お釈迦は、これらの教えを、実でも真でもない、虚であり偽なる教えであり、この六師とその弟子たちの教えも含め九十五種の外道・邪道と示されました。

 どの時代も、多くの人びとに支持されることがあります。多く人に支持されたら、それがよいことであり、間違いのないことであり、しあわせに導いてくれる方法であるかのように勘違いしてしまうことがあります。たとえば、唯心論や唯物論にしても、資本主義や社会主義にしても、それなりに核心を突いているように思えますが、説明できない部分があったり、実践するなかで大きな矛盾が出てきたりします。しあわせに導くどころか、社会的矛盾を噴出させてしまい、多くの不幸を生み出してしまったりもするものです。
 それはなぜか?私たちの社会のなかで起こることだからです。人間の考えることだからです。私の思いであり、私の行為となるからです。

 間違いのないこと、真実、まことというのは、仏さまの心、阿弥陀さまの願いだけです。阿弥陀さまの世界だけです。なかなかそう思えないのですが、そこを外してしまうと仏教ではありません。「唯仏一道きよくます」なのです。だからこそ、仏さまの話を聞かねばならないのです。阿弥陀さまの喚び声である念仏を称えるのです。この世のなかのどこを探ってみても、決してほんとうのことはありません。そこのところに、基準をはっきり定めねばなりません。思考の方向も、生きる方向もそこに思い定めるのです。

 この世でどのように生きるのか・・・ということは、「唯仏一道きよくます」と定まれば、それぞれの思いや関心に応じて、おのずと決まってくるのではないでしょうか。あとは、どのような展開があろうとも、自然(じねん)なのです。自然の「然」は、「そうなることが当然だ」という意味です。自然は、私のはからいではないということを、よくよく知らねばなりません。

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2010年3月22日 (月)

かつてあった無墓制の村

 墓所を多く抱える寺院というのは、春秋彼岸とお盆というのは、おそろしく忙しいものです。とくに春秋彼岸というのは、「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、厳しい冬に寒さや夏の暑さから開放されるからでしょうか、気候も良くなり、多くの人を墓参に誘うのでしょう。

 1980年代前後、滋賀県のいくつかの無墓制の村落を訪れ、調査をしたことがあります。無墓制というのは参り墓を持たないのです。全国的な状況を知るわけではありませんから、滋賀県の場合について紹介します。
 亡くなった人は土葬されます。一定の広さの土地に、その村で亡くなった人の順に埋葬してゆきます。そこには木の墓標を建てます。その後7日ごとに49日まで、また100ヶ日あるいは1周忌くらいまではお参りをします。しかし木の墓標は朽ち、そのうちどこに埋葬したのかわからなくなります。それで終わりです。年忌法事を家の仏壇にておこなうことはあっても、墓に参ることはありません。
 亡くなった人を拝むことはしないのです。近親者が亡くなることに無常を感じることはあっても、亡くなった遺骨や遺髪に執着することはありません。その無常観は仏法を聞くという方向に導かれてゆくのです。無墓制は、そのためのシステムとして機能していたと思います。
 無墓制の村は、浄土真宗の寺院を中心にできあがっている真宗の村がほとんどなのですから。

 しかし時代の流れのなかで、複数の自治体によって、広域火葬場が造られて、葬儀の後は火葬されるようになります。最初は、火葬された遺骨を、昔からの埋葬墓に埋められていたといいます。また、京都の大谷本廟に納骨されました。火葬が始まっても、しばらくの間は参り墓が建てられませんでした。そのうち、村の自分の家の敷地内に参り墓を建てるようになりました。そしていまでは無墓制の地域をみることはできません。
 なぜ、無墓制だったのかということについて、社会学的な理由付けはいろいろあります。参り墓を建てる土地が無かったとか、参り墓を建てるほど経済的余裕がなかったとか、・・・・。しかし、私は個人的には、第一の理由は、真宗の教えによるところがとても大きかったと思っています。

 東京の墓所は、とても多くの人が参拝されます。親を想い、先祖を敬う気持ちもあるでしょう。もちろん、悪いことではありませんし、ある意味日本人の美徳かもしれません。
 しかし、浄土真宗のお寺にあるお墓にお参りしても、本堂に足を運び、本尊(阿弥陀如来)にお参りする人は必ずしも多いとは思いません。

 親を想い先祖を敬うことは、どのような宗教の人でも、また無宗教の人でも、人間として生まれたからには当然のことでしょう。しかし、念仏を聞かせていただくものにとっては、そこにとどまっていては教えは届きません。親を想い先祖を敬い手を合わすことによって、心は安らぐでしょう。しかし、そのことが私の後生が明るくなることとは直接関係がありません。
 わが身は、墓石に刻まれている南無阿弥陀仏の名号に帰らせていただける身とさせていただいているのかを問わねばなりません。なにより、阿弥陀さまに手を合わさせ、念仏させていただくことが大切であると心得ねばなりません。

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2010年3月21日 (日)

業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのむ

 しあわせって何?人それぞれに違うというしかありません。また、ひとりの人のなかでさまざまに生起するできごとも、その時々の気持ちや状況によって、しあわせに感じたり感じなかったりするのではないでしょうか。ということは、いつ、どこで、だれが経験しても感じる絶対的なしあわせというものはないということです。しあわせも相対的であるということでしょう。だからしあわせは、自分自身で切り開かなければならない・・・ということになるのです。

 自分が切り開くしあわせであれば、何ものにもさまたげられず、自分の思い通りになることがしあわせとも言えるかもしれません。しかし思い通りにならないのです。
 知識を身につけ、技術を身につけ、身体を鍛え、あるいは自分の持っているさまざまな能力開発をすることはすべて、自分の思い通りに生きるためです。日頃精進していても、精神的な弱さのためか、その努力が発揮できず、思い通りにならない場合も多々あります。そのためにイメージトレーニングなどして、思い通りになることを事前に思い浮かべるという方法も、思い通りになることの確実性を高めようとしているのです。

 それでもうまくいかないことはいっぱいあります。それであれば、思い通りにしたいという気持ちも、実現できなければあっさりと忘れてしまい、気持ちを上手に切り替えることができればとても楽に生きることができるはずです。しかし忘れることができず、やっぱり思い通りにしたい気持ちがわき上がり、そのことにとらわれてしまいます。それが執着です。

 親鸞聖人の言葉として、『歎異抄』第13章のなかで次のように示されています。「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(註釈版p.844)。また、「されば善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらすればこそ、他力にては候へ」(註釈版p.845)とも言われています。
 これらのことは、自分の思い通りにならない現実を指し示してくださっています。だからといって、何でもかんでも業縁という成り行きにまかせるとういことではありません。自分の意思に基づいて思いを果たしたいと思う気持ちを無くすることなどできません。無くせないから、精進・努力するのです。それにもかかわらず、その成果が出ないのは、業縁にしばられて生きている証しです。そのことを知らせてもらう、気づかせてもらわねばなりません。
 業縁によって生きるしかない私であることに気づけば、善い結果に至らなくても、たとえ悪いことが起こったとしても、おそれることなく、心配することなく、さしまかせてゆくことができるでしょう。それは自分自身の精神的な強さを誇っているのではありません。むしろ、わが意思ではコントロールすることのできない、どのようなふるまいをもするかもしれないのが私だから、まかせざるをえません。

 誰にまかすのか? 私のことにかかり果てて、ずっと寄り添い、心配し続けている方にしかまかせることはできないでしょう。親であったり、兄弟であったり、親友であるのかもしれませんが、その人たちとの絆は、現世だけのものです。後生をもまかせることができるのは、本願他力しかありません。

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2010年3月20日 (土)

念仏成仏自然なり

 人間の、信じるという行為には、信用とか信頼という言葉があります。これはきわめて主観的な思いです。神さまや仏さまを信じる心は、信用でも信頼でもなく、信心という特別な言葉を使います。この言葉も主観的な思いです。つまり私が仏や神を信じるということです。信じる主体は私ですし、仏や神は信じる対象です。

  信は願より生ずれば
  念仏成仏自然なり 
  自然はすなはち報土なり
  証大涅槃うたがはず
   (『高僧和讃』善導讃)
私たちの信心は、わが心なのではなく、弥陀の願より生ずるものであるから、念仏によって成仏するのは自然のはたらきである。阿弥陀仏の願力によって成就された無為自然の世界が報土であるから、そこに生まれると、大涅槃の仏果をさとることはまちがいない。

 また、蓮如上人は、御文章(御文)のなかで、「信心といえる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず。如来の他力のこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころと申すなり」(註釈版p.1106)と記しておられます。

 信心について、親鸞聖人は阿弥陀さまの願から生じたものであると言われ、蓮如上人は行者の自力の心ではなく、阿弥陀さまの他力の心であると述べられています。どちらも信心は私の心、思いではないし、私が起こす心ではないのです。また、蓮如上人は、信心はまことの心であるとおっしゃていますから、私の心はまことの心ではないのです。
 信じる心は私の心ではないにもかかわらず、私の価値観を入れて聞いてしまうのです。私の価値観を入れた時点で、それは阿弥陀さまの心ではありません。

 「念仏成仏自然なり」は、念仏によって仏になるということは、阿弥陀さまの本願力のはたらきであるということであり、娑婆世界にみられる生滅変化するということはなくおのずから存在する真理ということです。その自然によってできあがったのが真実の浄土です。

 この世に生きて、私の思いを反映させることができないなんて、生きている意味はないと思ってしまいます。強い自分の思いを反映させることがしあわせであり、豊かさであるとさえ思ってしまうのではないでしょうか。私の思いをいかにうまく反映させるのかという競い合いが、世のなかの繁栄でもあるといえるでしょう。
 冒頭に挙げた、信用、信頼も、さらに信心さえもが自分の思いを反映させるための手段でしかないとは言えないでしょうか。みんな自我を張り合って生きている。それが娑婆です。みんなしあわせになりたいのに、みんな苦悩を深めてゆく姿でしかありません。

 阿弥陀さまの願から生ずる信をいただくこと。それは念仏のなかに込められていますから、念仏の心をそのままいただくことしかありません。

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2010年3月19日 (金)

ひさしくしずめるわれらをば

 春分の日と秋分日を中日とし、その前後各3日を合わせた7日間が「彼岸(ひがん)」です。その期間中は、「彼岸会」という仏事が営まれます。
 煩悩や迷いに満ちたこの世はこちら側の岸ですから「此岸(しがん)」といいます。まさに私たちが住む現世を指しています。それに対して彼岸とは、向こう側の岸ということです。煩悩や迷いを脱したさとりの境地のことを指し、西方浄土のことを言います。
 かつて人びとは、真西に沈む太陽に手を合わせ、西にあるとされる浄土(西方浄土)に生まれることを願ったといいます。季節と仏教がとみごとに融合したきわめて日本的な行事です。

 しかし現在では、西方浄土を願うという人はあまりおられないようです。ふだん、ほとんど仏教と縁をもたない人も、春秋の彼岸やお盆には墓参りをします。これも「葬後儀礼」です。それらはほとんどすべて亡くなった人のためです。此岸と彼岸を想定し、私は此岸に、先祖は彼岸にいるという思いでおられるのでしょう。日本の宗教的・文化的伝統となった彼岸が、まるで遺伝子に組み込まれたように無意識のうちにそのように思わせ、行動させているかのようでもあります。

  生死の苦海ほとりなし
  ひさしくしづめるわれらをば
  弥陀弘誓のふねのみぞ
  のせてかならずわたしける
    (『高僧和讃』註釈版p.579)

 この和讃から、親鸞聖人のなかには、生死の苦海にほとりがあるという思いをみることはできません。彼岸も此岸ということも、基本的に想定されていないということでしょう。そのほとりのない苦海に沈むのは、「われら」であるという認識です。つまり、沈むのは私であり、私たち凡夫なのです。この世に生を受けたものは、幸せを求め、心の平安を求めようと必死になって生きても、沈みゆく存在でしかないということです。
 しかも、ひさしく、つまりズーッと長い間沈んできたというのです。苦しみつづけ、迷いつづけてきたということです。ほとりがないのですから、これからもまた苦しみ、迷うことをくり返していかなければならないということでもあります。もっと大事なことは、いまもほとりなき苦海に沈んでいるということです。ほんとうのことが見えないということです。ですから、毎日が苦しい、つらい、しんどい、気が重い、・・・という思いさえも、ほんの一部分だけしか見ているにすぎません。

 そんな状態であることを知って、弥陀弘誓のふねははたらいてくださるのです。大海に放り出された人が、いつ助けに来てくれるかわからず、不安の日々を送るのではありません。ただちに、しずめるわれらにふねを寄せて、乗せたもうのです。
 迷いの身には、沈める身には、そのことが何を言っているのかよくわかりません。伝統や習慣によって、彼岸をつとめるだけになってしまいがちです。そのことを、その真意は、聴聞することによって知らせてもらうしかありません。

(この和讃は2回め。前回は、2009年12月19日)

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2010年3月18日 (木)

念仏成仏これ真宗

 浄土真宗の教えをひと言でいうなら、『歎異抄』第12章のなかに示されている「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」(註釈版p.839)といえるのではないでしょうか。たったこれだけの短い文ですが、そこから他の宗教との違うことがわからなければ、真意を理解することはできません。「本願」「信じる」「念仏を申す」「仏に成る」という一つひとつの言葉の意味は、聴聞することを通じてしかわが身には響いきません。

 さまざまな善をおこない、さまざまな行を修することが、人間のもっとも尊い姿であると多くの人が信じています。そんな人たちは、たとえそれが自分自身にはできないことであれ、理想に近づくと思っているはずです。しかし、「本願を信じ、念仏を申さば仏に成る」という言葉は、本願を信じることができない者、念仏を申すことができない者は仏にはなれないということです。仏になれないということは、迷い苦しみの世界からのがれることができないということでもあるのです。

  念仏成仏これ真宗
  万行諸善これ仮門 
  権実真仮をわかずして
  自然の浄土をえぞしらぬ
    (『浄土和讃』註釈版p.569)
本願を信じ念仏し、浄土に往生して弥陀同体の仏になるのが真実の宗教である。一方、諸善万行をすすめる自力聖道の成仏の法は、真実に導くために仮に設けられた法門である。真実と権化との区別をつけないなら、いつまでも真実の報土に往生することは不可能である。

 「権実真仮」、つまり「権仮」(聖道門)と「真実」(浄土門)をはっきりと分けることが必要なのです。今流に言うなら、仕分け作業でしょう。その仕分けは、基準をはっきりさせ、基準に厳格にしたがっておこなうことが求められます。でも、いろんな例外が出てきたり、さまざまな事情を察して特例を適用します。作業の途中で、基準が変わることもなきにしもあらずです。仕分けする側とされる側の力関係で決まることもあります。
 しかしこの場合は、とてもはっきりしています。念仏のみがまことなのです。念仏は阿弥陀さまの願いです。喚び声です。私のなかではたらく阿弥陀さまです。それ以外は、世間でどれだけ評価され、賞賛されることであっても諸善万行と切り捨てられるのです。ここのところに気づくことができないのが凡夫にほんとうの知恵が備わっていないことです。

 自然の浄土というのは、阿弥陀さまによってできあがった真実の報土です。人間のはからいによってつくられたものではなく、阿弥陀さまのはからいによってできた浄土ということです。原因や条件によって作り出されものではなく、おのずからそのような浄土ができあがったのです。
 それを人間のはからいで理解しようとしてもわかるものではありません。どれだけ考え、学びを深めたところで、それははからいでしかありません。わがはからいを離れ、ただ念仏に帰依することなくしては開けることのない世界です。それが念仏成仏の世界なのです。

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2010年3月17日 (水)

真の知識にあふことは

 何かを身につけようとしたとき、独学自習という方法もありますが、よほど好きなことでなければ続きません。相当のやる気や忍耐力など強い意志も必要です。そこで、学校とか教室とか道場とかに通って知識や技術を身につけることになります。学ぶための場所まで足を運ぶという気持ちがやる気を生み出します。また、共に学ぶ仲間たちからも刺激をもらうことができます。
 それより先生から直接教えてもらえるというのは、とても効率的に学ぶことができます。知識や技術を習得するスピードや深さも違います。

 これらのことは、仏法を聞くということにも共通したところがあります。ひとりでお聖教を読むという方法がありますが、読みこなすことは難しいものです。しかし、お寺に足を運び、少し手ほどきを受けると、ぼちぼち読むことができるようになるものです。また、お寺では、多くの同行(聞法仲間)からもさまざまなことを教えられます。
 しかし、仏法を聞くというのは、阿弥陀さまの願いを聞くということです。その願いを聞いて、阿弥陀さまの心をいただかなくてはなりません。知識を聞くのでも、技術を身につけるのでもありません。何よりも大事なことは、阿弥陀さまの願いを正しく伝えてくださる方と出遇うことができるか否かということです。

  真の知識にあふことは
  かたきがなかになほかたし
  流転輪廻のきはなきは
  疑情のさはりにしくぞなき
    (『高僧和讃』註釈版P.597)
真の師に出遇うということは、とても難しいことである。迷いの世界にとどまり、苦しみをくり返すのは、自分の執着が捨てられずに、本願を心の底から信じられないからである。

 「真の知識」は善知識ともいわれる人です。無明の闇を破るために阿弥陀さまのお心に、私を導いてくれる人です。念仏を称える私に育て上げてくださる方です。その人は、どれだけ話が上手でも、人柄がよくてもダメです。なんといっても、しっかりと信心の人、つまり阿弥陀さまのの心をいただいた人でなければなりません。

 「疑情のさはり」は、阿弥陀さまの本願を疑う心です。疑う心ひとつで流転輪廻をくり返してきたのです。その疑いは、阿弥陀さまの願いを聞かせていただくことでしかはらすことはできません。阿弥陀さまの願いを、あれこれ装飾されたり脚色されたものでなく、阿弥陀さまからストレートにいただくのです。
 そこまで導いてくださるのが、真の知識です。聞法の過程のなかでは、真の知識かどうかという判断をすることもできませんし、そんな余裕もありません。仏法に遇うことはとても難しいことですが、真の知識に遇うこともたいへん難しいことです。だから何もしないのではなく、仏法に遇うことを求め続けなければなりません。求め続ければ、必ず出遇うことができるのが善知識であり、阿弥陀さまの願いであるのです。

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2010年3月16日 (火)

信心かけなば、その詮なし

 『歎異抄』は、仏法を聞く人たちの心の内をありのままに問いとして投げかけ、それに対して親鸞聖人も自然体で答えておられることを随所で感じさせてくれます。浄土真宗の門信徒でなくても、多くの人たちが読んいることでも知られる超ベストセラーの一冊でしょう。

 「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(註釈版p.833)という歴史や倫理の教科書にも出てくるような有名な箇所や、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(註釈版p.854)というような、よく耳にする文章が散りばめられています。
 でも、この書は、信仰の書です。「信心の異なることを嘆く書」ということで『歎異抄』という書名が付けられているわけですから、正しい信心をこの書から読み取らなければなりません。

  いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなば、
  その詮なし。一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころ
  をなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。
    (註釈版p.851)
(寄進は、仏になるための布施行でもあるのだが、)どれほどの財宝を仏前にささげ、師に施したとしても、本願を信じる心が欠けていたなら、何の意味もない。寺や僧侶に対して、たとえ一枚の紙やほんのわずかな金銭を寄進することすらなくても、本願のはたらきにすべておかませして、深い信心をいただくなら、本願のおこころにかなうことであろう。

 阿弥陀さまへの深く信順するなら、それをなんとか誰かに伝えたい、多くの人に同じ教えを聞いてもらいたいと思います。その教えを聞いた人は、法をともに語ることができる友となります。そんな友がひとり、またひとりと増えてゆき、グループができます。数人のグループが次第に大きくなってゆくと、組織として整備する必要が生じてきます。みんなで集う場所を確保することとか、額は多くなくてもお金もメンバーから集めることが必要になってきます。約束事も必要でしょう。メンバーには何らかの役割が付けられ、実行に移すことがもとめられます。もっと大きくなると、制度として社会に影響を及ぼすようになります。当初の思いがここまで大きくなることは、なかなかむつかしいことではありますが、そこまで大きくなり、社会に影響力を及ぼすことは、一つの目標かもしれません。

 ところが、その反面、ずいぶん大切なものが失われることも知っておかなければなりません。組織が大きくなり、制度が整備されてくると、個人あるいは数人で活動をしているときとは比べものにならないお金が必要になります。一人でも多くの人に伝えたいと始め、それが組織に、制度にとなって社会に影響力をおよぼすようになると、どうしても、一人の人間的・感覚的な距離は遠くなってしまいます。大勢の人に教えを知らせることができても、仏法そのものが「我がこと」であると自身に問う機会をつくれないまま過ぎてゆきます。

 私自身は何を求めているのか? まずそこから出発です。「信心かけなば、その詮なし」なのです。どんな場合も、凡夫の心に従うのは、苦しみを増し、悩みを深めるだけです。

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2010年3月15日 (月)

「慢」:果てしない思いあがり

 中年以上の人たちが多く集う席で、おもしろさ半分、なんとかしてよ・・・という気持ち半分になることがあります。上座の席を譲り合って、なかなかみんなが着席されません。そこに集う人たちのもつ属性、たとえば男女、年齢、その集団に関わりを持った年数、その集団内での役割、それぞれの性格、他の人からのそれぞれにどう評価されているか・・・等々、そりゃぁもういろんな要素と、心の動きの総合的判断が必要なようです。
 日本人は奥ゆかしくて、みんな譲り合ってるから席が決まらない・・・。そうじゃありません。この場面をみるだけで、人間の「慢」の煩悩がはたらいていることがとてもよくわかります。「慢」とは、簡単に言えば、うぬぼれであり、思い上がりです。三毒の煩悩に「疑」「悪見」それにこの「慢」を加えて、六大煩悩とも根本煩悩とも言われます。

 上座に座るというのは、その場における地位や立場が上にあると考えられています。“私はあの人より上に座るのが当然”(慢)、“なぜ、私があんな劣った人より下座に座らないといけないの”(過慢)、“少なくても、同じあたりの席に座らせてもらわないと…”(慢過慢)、“最上席に座るのが当たりまえ”(増上慢)、などの思いがわき上がっています。
 これらのいずれもがうぬぼれ、思い上がりです。自分よりも劣っているか否かということを決める客観的な手立てはありません。二人の人を比較した場合、一人の人がすべての面ですぐれている(あるいは劣っている)ということなどありません。ある点ではすぐれているけれど、ある点では劣っているのです。ですから、ある人をすぐれている(あるいは劣っている)と見るのは、自分の勝手な思いでしかありません。でも、ほとんど無意識のうちに判断しています。

 うぬぼれ、思い上がりは、自分に執着することから起こります。これが「我慢」です。その「我慢」は、ずいぶん偏っています。批判を受けることもあるし、嘲笑されることもある。でも「ごめん、私が間違ってた・・・」とは言いません。間違っていても、あれこれと理屈をめいっぱい並べ立てて正しいと言い張るのです。うぬぼれる値打ちのないものを誇るのです。これが「邪慢」です。第三者から見たら、かっこ悪いことこの上ありません。
 
 近頃は、自分の思いをストレートに出してみんなに評価してもらうことが、むしろ歓迎される状況になっています。上記に示したようなうぬぼれや思い上がりも、それなりに受け入れてくれるかもしれません。
 ところが一筋縄ではいかないのです。うぬぼれているとは思われたくないので、私ほど頭の低い人はいないでしょ・・・と思い上がるのです。「どうぞ、上座へ・・・」というのが、先の「慢」「過慢」「慢過慢」「増上慢」の度合いが高ければ高いほど、ますます強い「卑下慢」となってはたらきます。

 「私なんかに聞ける仏法ではありません」「聞いても心に響いてくるものがありません」「こんな私が救われるはずはありません」なんて、とっても殊勝に聞こえるし、態度もそのように見えます。卑下することが美徳であり、それを私は実践しているのだ・・・という思い上がりなのです。その「慢」が仏法を聞くことを妨げています。

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2010年3月14日 (日)

この世の頑張りは,迷いを深めること

 仏教の教えを日常生活のなかでどのように生かせばよいのか、どのように生かすことができるのか、と考える人は多いのではないでしょうか。最近、仏教の立場から、どのように心を静めるか、どのように生きるかという本が多数出ています。
 それらの本の基本的なところは、お釈迦さまが説かれた八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)や六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の実践、さらには十悪(殺生・偸盗・邪婬・妄語・両舌・悪口・綺語・貧欲・瞋恚・愚痴)を反省する生活です。仏教の基本で、初めて聞く人にとってもとてもわかりやすい話ですし、できるところから実践しようという気を起こさせます。

 しかし、仏教のこれらの実践は、道徳的徳目として示されているわけではありません。仏道修行として実践するために示されたものです。それゆえ、ちょっとやってみようという中途半端な気持ちでさとりが得られるものではありません。
 “そんなたいそうなことは考えていません”“何もしないよりする方がいいでしょ…”という程度の取り組みだと思われます。確かに,何もしないよりもいいかもしれませんが、何のためにするのかということを見定めておくことが必要な気がします。中途半端であっても、とにかく教えられたことをやってみるのがよいと思われるのは、“たしなみ”なのでしょうか。たしなみであっても、長く続けることができるなら、それなりに表面的には良い人になるでしょう。しかし、本質的なものが変わるわけではありません。
 もしこれらの実践を通して変わろうとするなら、家族を捨て、仕事を捨て、世間との縁を切って出家し、勉学・修行の道を歩むほかありません。実際、その道を歩み極めようと思ったけれど、そのようにできないと見定められたのが法然聖人であり親鸞聖人です。さぼったのではなく、勉学に励み修行を積むほどに、煩悩がなくなるどころか、その煩悩をますますはっきりと自覚するようになられた。ますますさとりとはほど遠くなってゆくことに気づかれたのです。救われようもありません。

 阿弥陀さまという仏は、消えない煩悩、救われようもない凡夫とわかっているから、願いを起こしてくださったのです。私が何をしてもさとりの世界にいたりつくことができないから、立ち上がってくださった。この阿弥陀さまの思いを聞かずして、いただかずして、迷いのなかでどう生きるかということを考えることが迷いです。

 どのように心を静めるか、どのように生きるかということも、まずは迷いから出ることを考えるべきです。“迷ってなんかいないよ”“迷わないように学歴を付け、社会で認められるよう頑張っている”と言っている自分の迷いの深さを知るべきです。

 それじゃ、八正道、六波羅蜜などを実践し、十悪を反省する生活はダメなのでしょうか? そうではありません。一つでも二つでも意識してやることは大切なことです。徹底してやってみて、どのような心が出てくるのか確かめ、味わってみるのです。意外としんどいものです。しかしそこを通り越さない限りは、心は静まりませんし、よりよき生き方も見えてこない気がするのです。

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2010年3月13日 (土)

ふだんから念仏を、聴聞を

 身内の者が亡くなり、葬儀をおこない四十九日の法事、そして納骨するまでという経験は、そうたびたびするというものでないでしょう。特に、準備する余裕もなく急に葬儀を出さなければならなくなると、とても戸惑われているということがよくわかります。調べる余裕もありませんから、葬儀社や隣近所や親戚からの情報が優先されるようです。
 ふだん何気なく聞いている友人や知人との世間話で出てくるような情報、マスコミや書籍から得た情報は切迫感がありませんから、いざというときにはほとんど役に立たないようです。その点、葬儀社のアドバイスは、具体的・実践的ですし、臨機応変に対応してくれますからとても有効なのでしょう。

 多くの情報があふれている社会ではありますが、思いや状況にピタッと合った情報を得るのはとても難しいものです。そんななかで、なんとか葬儀、四十九日、納骨までを終えておられるようです。
 ただ、ここで気になるのは、儀礼だけでは、そのプロセスのなかに仏法が無いままに終わってしまうということです。確かに仏壇の前で、またお寺の本尊の前で読経するでしょうし、儀礼は仏式でおこなうでしょう。しかし、それだけでは死の意味を自分なりに深めることができるようには思えません。
 お釈迦さまが出家し、さとりの道を歩むことを決意されたのは、自分自身の生老病死の問題を解決するためだったのでしょう。しかしそれまでに、生老病死を気にかけ、常に生老病死を見つめてきたのです。

 ふだんからお寺参りをし、僧侶との交流があれば、僧侶もその機会に生老病死の話を深めることができるでしょう。また遺族としても、いろんな疑問も僧侶にすることができるはずです。ふだんの関係がまったくできていないから、「お経がわからない」と不平が出る。法話をしても「意味のわからない長い話が無駄だ」「遺族の気持ちを考えた話をしてほしい」等々という声が出てくるのです。僧侶がそれなりの準備をしても、聞く耳がなければ、聞く姿勢がなければ、法話は聞けません。
 日常生活とは一線を画す儀礼や法話だけに慣れないことばかりです。自分自身のなかには、どのような儀式儀礼をすることが望ましいのかという判断をするための根拠となるものが無いのです。あるいは、せっぱ詰まった状態のなかで、気持ちの余裕もないのでしょう。だからこそ、ふだんから仏法に触れることが必要なのです。

 葬儀社などからの情報だけでは、教えとは関係無しに葬儀がすすめられることが、往々にしてあります。隣近所のアドバイスには習俗に迎合してしまっているところもあります。
 家の宗教に頼っていると、あるいは浄土真宗の門徒だというところでとどまっていては何も聞けません。ふだんから念仏し、聴聞することを通してしか、無常とは向き合えないと思います。突然、身内から葬儀を出さなければならなくなったということになっても、慌てふためくだけのようです。

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2010年3月12日 (金)

七難消滅の誦文は南無阿弥陀仏

 親鸞聖人は、20年間比叡山で修行されました。比叡山は、伝教大師(最澄)によって開かれた天台宗の要地であり、修行の場です。また、日本仏教の開祖・宗祖の多くはここで学び、修行されています。親鸞聖人も比叡山で20年間、学び修行されました。そのなかで、伝教大師の書かれたものを読まれ、またその教えも学ばれたことでしょう。

  山家の伝教大師は
  国土人民をあはれみて
  七難消滅の誦文には
  南無阿弥陀仏をとなふべし
    (『浄土和讃』註釈版p.574)
比叡山の伝教大師は、災難があえぐ日本の人びとをあわれんで、七難消滅のための誦文に南無阿弥陀仏を称えることをすすめられた。

 念仏は衆生救済の正定業であることは、浄土教の流れのなかで、とくに善導大師によって明らかにされたことです。しかし念仏は数々の経典に説かれ、初期仏教の時代から称えられていました。比叡山においても常行三昧堂にて、口に念仏を称え、心に阿弥陀さまを念じながら歩く常行三昧の行がおこなわれていました。ですから、伝教大師も念仏されたことでしょう。
 比叡山においては、七難消滅のためには、経典とともに伝教大師の『七難消滅護国頌』が読誦されたようです。誦文というのは呪文ではありません。声をだして読む文のことで、経文や偈頌のことです。そのなかに、「依正安穏にして念仏を修せよ」という一文があります。自分の生活するまわりの環境も自分自身の身体も穏やかに静めて念仏しなさい、と示されているのです。

 仏法のうえから七難とは、災難やそれに伴うさまざまな困難のことをいいます。経典のなかにもいろんな説かれ方がされています。たとえば『仁王般若経』では、日月失度の難(日食や月食)、宿星失度の難(彗星が現れること)、災火の難、雨水変異の難、悪風の難、亢陽の難(旱魃)、悪賊の難があげられています。また、『法華経』のなかでは、火難・水難・羅刹難・王難・鬼難・枷鎖難・怨賊難を七難としています。
 これらはいずれも人間の力ではどうすることもできない大自然の難です。また、現代の日本ならさることながら、いまから数百年あるいは千年以上前のことですから、避けようにも避けることができなかった災いのようです。それらの七難を避けるには、仏に頼るより道はなかったということでしょう。

 『法華経』の七難は、火難は次々と欲が発する難、雨水変異の難は欲におぼれる難、羅刹難は欲に流される難、王難は自分自身を信じきることができない難、鬼難は欲の流入による難、枷鎖難は欲に捉われることによる難、そして怨賊難は欲を畏れることによる難と示されてありました。
 これらはきわめて個人的な難ですが、その難を解決するというのは、それらの欲を満たすことではなく、自分に襲いかかる欲を滅するというように味わえば、南無阿弥陀仏を称えることはそれにかなうのではないでしょうか。そのように読ませていただいても、親鸞聖人のおこころとはまったく違うことではありますまい。

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2010年3月11日 (木)

延命息災のためにとて

 私たちは誰もがしあわせになりたいと思っています。しあわせになりたいから懸命にがんばります。がんばっても、結果はどうなるかはなかなか見えません。だから、がんばりを確実にしあわせにつなげたいという気持ちが起こります。でも、がんばってもうまくいかないかもしれないという不安もあります。そこで、自分の力の及ばないところを、何かのパワーで力づけようとします。深く考えず、ついついそういう力に頼ろうとするのです。それがお札、お守り、占い、祈祷、などといった“しあわせ引き寄せツール”です。
 ところが、このツールはそんなに威力を発揮してくれるわけではありません。気持ちを落ち着かせてくれたり、安心感を与えてくれることがあるかもしれません。そうなると、必ず持っていないと落ち着かなくなります。麻薬みたいなもので、無いと不安でしかたがないということに成ってしまいかねません。

 しかし、仏法の上からみると、しあわせになるために、自分のことしか考えられなくなってしまっていることが問題です。自分がしあわせになるために、どれだけの人が、あるいはいのちが犠牲になるのか…ということも考えることも必要でしょう。自分のしあわせのことだけを推奨しているような“しあわせ引き寄せツール”は問題多しです。それに頼らずにはおれないというのは貪欲のあらわれでしかありません。
 念仏の教えはそんな私を見せてくれる教えです。一切衆生に同じようにはたらく阿弥陀さまの願いが念仏となってはたらいてくださるのです。

  阿弥陀如来来化して
  息災延命のためにとて
  『金光明』の「寿量品」
  ときおきたまへるみのりなり
    (『浄土和讃』註釈版p.574)
阿弥陀さまがこの世におでましになって衆生を教化することは、災いを除いて寿命を延ばすために、『金光明経』の「寿量品」をお説きくださった。

 阿弥陀さまが延命息災のためにお経を説かれていると親鸞聖人もおっしゃっているのだから、延命息災を願うことは、阿弥陀さまの心にかなうことだ…ということではありません。阿弥陀さまのこころを矮小化してはなりません。
 阿弥陀さまの願いは、凡夫を仏にするという願いです。その願いを聞き、阿弥陀さまが成就してくださった念仏によって、迷いの世界から出させていただくのです。私にはとても理解することができないパワーが、三世にわたってはたらくのです。この世で息災延命のはたらきがあっても当然のことです。
 しかし、私が、自分の欲で「息災延命」を願うのとは違うでしょう。阿弥陀さまが「延命息災」を願われるのは、この私がこの世を生きる間に仏法に出遇い、念仏する生活をすることを勧めるためであるといただくのです。

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2010年3月10日 (水)

死ぬぞ、おちるぞ、われをたのめ!

 自分にとって、この身体はとても大切なものです。疲れれば休みます。体調の不具合を感じれば病院へ行きます。病気と診断されれば薬を飲みます。しかし、身体を楽しませる欲がムクムクと起こってくるとき、大事な身体の大切さと天秤にかけるのです。
 たとえば、タバコは身体によくないとわかっていても、この1本くらい、この1本くらい、この1本くらい・・・と思ってなかなかやめることはできません。何かをきっかけにしてやめようとも何度も決心してもやめることができない。身体にそんなに不調が出ているわけではないので、止める気はあっても止めることはありません。また、好きでたまらないお酒をやめなさいと医者に指示されても、“たくさん飲まない。ほんの少しくらいなら、むしろ薬だから”なんて理由にもならない言い訳を付けて飲むのです。
 タバコを吸い続けることは、身体に害を与えると知っているのに吸う。医者から酒を止められたのに飲まずにはおれない。これはまだ、自分の身体が壊れるほどのことはない…と思っているからでしょう。自分の身体の不調、不具合、違和感などを感じることができなくなるほどマヒしている状態ではないでしょうか。

 ところがいよいよ体調が不調になり、医者から、“このまま吸い続けると(飲み続けると)、いのちの保証はできません”とか、“すぐやめないと、死にますよ”といわれ、その深刻さを知って目が覚めるのです。

 私たちは小さいときから、悪いことはするな、善いことをするように、と教えられてきました。しかし悪いことと善いことの境界線を自分で勝手に引いてきましたし、その境界線も自分の思いを満たすためにいつでも引き直します。社会的な常識と自分の善悪の判断基準を常に天秤にかけ、自分に害を及ぼさなければ自分の善悪の判断基準が優先されるのです。
 いつも自分の判断基準を優先させるというのが私の姿。それが良いとか悪いとかいうことではなく、そうせずにはおれないのが私です。しかしそれをあいまいにするのではなく、はっきりとさせることです。そういうものがらであるのが、この私であると。とはいうものの、それはとても難しいことです。

 この世に生を受けたら必ず死がやってきます。だれでもが知っていることですが、それは頭のなかだけのことです。ですから、死を想定した生き方をする人などいません。働いている人なら定年を迎えたり、年齢による引退ののち、余生をそれなりに楽しく暮らし、平均寿命あるいはそれ以上に生きるという前提があります。周りの人の死によって無常を感じますが、まだまだ生きるという自分の前提には勝てません。
 そのうち同年の者の死が相次ぎ、後輩が亡くなってゆく姿を見て胸騒ぎはするものの、一時の驚きであり、時間の経過とともにうやむやになっていくのです。ほんとうのことが見えていない。これこそ迷っている姿です。
 名医である阿弥陀さまは、常に、「死ぬぞ、落ちるぞ」と叫び続けてくださっていることに耳を傾けようともしません。この世で悪業煩悩の限りを尽くし、落ちてゆかねばならない深刻な私の姿にいつ気づくのでしょうか?「われをたのめ!」と願い続けてくださっていることに、いつまでそっぽを向け続けるのでしょうか。

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2010年3月 9日 (火)

父の7回忌をつとめさせてもらいました

 いろんな方の年忌法事を数多く何度もおつとめをさせてもらいますが、父親の7回忌は初めてのことです(…あたりまえといえば、あたりまえですが)。1周忌(亡くなってから1年め)、3回忌(亡くなってから2年め)とはまた違った思いがあります。6年もたつと日常の生活のなかから父を思う回数は次第に少なくなってゆきます。しかしその一方で、父の死を通して思ったことを、いろんな生活のできごとを通して思い出し、あらためて教えられ、強烈な思いとして焼き付けられていることに気づきます。

 たとえば、人間の身体というのは、生きるための借り物でしかないということです。父が危篤の知らせを聞いて、急いで帰省しました。しかし途中でなくなったことを携帯メールで知らされました。病院のベッドに横たわっている遺体は、亡くなっていても父です。ですから、しゃべらなくても、動かなくても、亡くなった父の身体への執着は消えません。いまにも生き返って動き出すような気がするというのは、そういう思いの延長線上にあるのではないでしょうか。
 しかし、葬儀が終わり遺体の火葬することになったとき、いよいよこの世の別れがきたという感じを強くします。愛しさは残っても、どうすることもできず、焼かれて、骨と灰になります。幾片かの骨を拾いますが、あとは掃き集めて、捨てることになります。そうなると、骨も灰も父のものなのですが、それはもう父という感じはありません。
 怒られたり、教えられたり、わらったり、けんかしたり、たくさんしゃべった父は、父の身体を借りていただけでした。それはそのまま、私自身についても感じることです。身体がだるいとか、痛いとか、心地よいとか、空腹を感じるとか・・・も、すべて借り物の身体によるものです。私の本質ではありません。

 日常生活のなかで大事にするものは、それぞれの人によって違うでしょう。なかには骨や灰をとても大切にする人もいますし、亡くなった遺品を大事にする人もいるでしょう。しかしそれらのものが、過去現在未来の三世にわたって、あるいは十方世界を覆うほどの力を持つものではありません。
 何よりも自分が生きることが大事ですから、父といえども亡くなって時間が経つと父のことは忘れてゆきます。しかし自分の口から念仏するたびに、同じ念仏を称えていた父を思い出します。同じ念仏を通して父と響き合っています。

 父の晩年は、念仏を称えることをよろこび、多くの人たちが念仏に出遇う縁をつくることを楽しみにしていました。そういう風に考えると、父が念仏をしていた心は、7回忌にお参りいただいた人たちには受け継がれています。少なくても、父の念仏を称えつつ生きていた姿への関心をもってくださっている方々です。
 そういう意味で、父親のための7回忌という感じではなく、お参りしてくださった方々への7回忌であったという感じでした。あらためて父の称えていた念仏を思い出しつつ、念仏させてもらった私自身に向けての7回忌であったと思わずにはおれません。

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2010年3月 8日 (月)

仏慧功徳をほめしめて

  仏慧功徳をほめしめて
  十方の有縁にきかしめん
  信心すでにえんひとは
  つねに仏恩報ずべし
    (『浄土和讃』註釈版p.565)

 正体が何ものなのかよくわからないから、その対象に対して気持ちも態度も粗末ぞんざいになってしまうことはよくあることです。しかし、阿弥陀さまというお方は、どんなお方なのかよくわからないけれど、敬い、最高の礼儀を尽くして給仕させていただくという伝統が,家族のなかに、地域のなかに存在しました。浄土真宗では、檀家とか門信徒というつながりがあり、それは単なる血縁や地縁によるというものではなく、阿弥陀さまのお心をいただくことを受け継ぎ、次に受け渡すという縁をもった者どうしのつながりでした。

 阿弥陀さまの心を深くいただき、その言動、生活態度、などの生きる姿すべてで有縁の人たちを教化してゆく人たちもたくさんおられました。阿弥陀さまの心が、仏法の価値観が、念仏に生かされているという思いが、世の中のどんな価値よりもすぐれていることを示した人たちです。
 そんな価値観や生き方が、この半世紀あるいは四半世紀の間に急激に失われていると感じます。念仏の声は聞こえませんし、阿弥陀さまの心や仏法の価値観が広く宣布される機会も縮小してゆくような気がしてなりません。

 教団や寺院も手をこまねいているわけではありません。多くの人を集めることができたとしても、大きな花火がド~ンと上がった感じはしても、それでおわり。花火が終われば、しばらくのあいだ余韻を楽しむことがあっても、腰を落ち着けて仏法に向き合おうとする人は皆無に近い気がします。

 一人ひとりが、阿弥陀さまの心をいかにいただいているかということが大切なことです。集団や組織を通して、いかにご縁を結ぶのかという工夫は大切ですが、一人ひとりに向き合って、「わが信やいかに」と問い合う関係なしに心は伝わらない気がしてなりません。
 まさに、「信心すでにえんひとは つねに仏恩報ずべし」というところが問われているのだと思います。その前提にあるのは、まず私が自分に向かって“ほんとうにすでに信心を得ているの?”という問いでしょう。
 親鸞聖人も、蓮如上人も、いくつになってもそこが原点であったのだと知らされるのです。しかしそれは親鸞聖人のことであり、蓮如上人のことです。仏法をどう聞いているのか、念仏をどういただいているのかを、つねに私自身に問い続けるほかありません。そうできる生き方が、仏慧功徳ではないのでしょうか。

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2010年3月 7日 (日)

信心歓喜慶所聞

 人間が頭を下げるときは、自分の思いを実現させたいときです。それと、自分の思いが実現したときもお礼や感謝の意を表す意味で頭を下げます。しかし前者の頭の下げようと後者の頭の下げようは、気持ちの、態度もずいぶん違うような気がします。
 前者は欲がいっぱいですが、その思いを実現するための思いはとても純粋な気がします。その純粋性は、自分の欲の強さと比例するのではないでしょうか。自然と深く頭が下がります。後者は、すでに実現したのちのことですから気持ちに余裕があります。自分がやってきたことへの満足感に酔いしれたなかで、頭は下がっても、気持ちはずいぶん上の方にあるかもしれません。自分の力だけで思いを実現することができたのではないことはわかっていますから、感謝の思いもありますが、いちばん心配し、だれよりもがんばったのは自分自身だと思っているのが本音です。

 どうしようもない状態に追い込まれ、自分も精一杯努力したけれどもそれが何の役にたつこともなかった。そのなかで、たまたまいろんな偶然が重なり、多くの人たちが迷惑をかけつつ,九死に一生をとりとめた…という人の話しぶりは、少し違います。たとえば、戦争を体験した人、山で遭難し厳寒のなかで食糧も底をつきかけたときに救出された人、海難事故からの救出者などです。
 私たちはそんな人たちを、「かわいそう」「たいへんやね」「助かってよかった」と冷静にみていますが、決して他人事ではありません。戦争もないし、山にも登らないし、船にも乗らないから大丈夫なのではありません。
 老い、病んでいく私はどうしようもない状態に追い込まれていくということでしょう。そして自分の頑張りが何も役にたたないのが死です。力なくこの世の縁を終え、また生死の海に投げ出されていくほかはないのです。ところがそこから救い出されてゆくことができるなら、信の一念で永劫の苦から救われるのであるなら、言葉にできないほどのよろこびがあるのではないでしょうか。

  信心歓喜慶所聞
  乃曁一念至心者
  南無不可思議光仏
  頭面に礼したてまつれ
    (『浄土和讃』註釈版p.564)
名号のおいわれを聞いて疑いがはれ、信心歓喜して真実信心の念仏を称える者は、南無不可思議光仏と、頭を阿弥陀さまの足に頭をつけて、最敬礼し、阿弥陀さまをおがむしかない。

 しかしこのことがわかるためには、聞くことしか、聞くことによる宗教体験しかありません。教学を深く学んだということが、儀礼・儀式をていねいに執行するということが、僧侶の経験が長いということが阿弥陀さまの心にかなうことでもありません。阿弥陀さまのお心を聞く、「仏願の生起本末」を疑いなく聞くことしかないのです。

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2010年3月 6日 (土)

弥陀の浄土に往生すれば

  弥陀の浄土に帰しぬれば
  すなはち諸仏に帰するなり
  一心をもちて一仏を
  ほむるは無礙人をほむるなり
    (『浄土和讃』註釈版p.564)
阿弥陀さまの浄土に往生すると信ずれば、そのまま諸仏に帰命することになる。他力の一心をもって阿弥陀如来一仏を讃嘆するということは、すなわち諸仏を讃嘆することである。

 江戸の時代劇をみていたら、「ホトケが岸に流れ着いた・・・」というセリフが出てきました。仏像が流されてきたのではありません。簀巻きにされた死人が流れ着いたのです。亡くなった人を「ホトケさんになったのだから…」と表現することがありますが、諸仏の仏とはまったく違います。
 生きているときは、欲が多く、口も達者、怖い顔でみんなをにらみ、どちらかというとみんなを困らせて、存在そのものがうっとうしかった…。そんな人でも、亡くなってしまうとものも言わず、何の危害も加えることもなく、横たわっている。むしろ、穏やかな顔つきをみていると、何かを諭しているようにもみえる。生前のいろんなことが次々と思いだされ、残された者にとってみれば、ホトケさまのようだとさえ思えてしまう・・・ということがあるのかもしれません。でも、亡くなった人がホトケではありません。

 弥陀の浄土に帰することなく仏となることはありません。仏とはさとった人のことをいい、この世を生きる者は、どれほどすばらしい生き方をしている人でも凡夫です。いのちを食らわずには生きてはいけないのですから。
 浄土に帰するということは、阿弥陀さまの国に生まれさせていただくということです。阿弥陀さまの国に生まれるということは、仏さまとして生まれるということです。仏さまとして生まれるということは、仏さまの心をいただいているということです。仏さまの心は阿弥陀さまのこころです。その心ひとつしかありません。龍樹菩薩はじめとした七高僧も、法然聖人も、親鸞聖人も、蓮如上人もいただかれた心です。そんな高僧方だけがいただけるというのではなく、難しい聖教を読めずとも阿弥陀さまの心をいただくことができるのです。阿弥陀さまの心は、南無阿弥陀仏です。

 仏法を聞き始めた頃は、その南無阿弥陀仏がわからないですね。阿弥陀さまの心ですから、簡単なものではないでしょう。しかし、南無阿弥陀仏は頭で理解したところでわかったことにはなりません。一心ですから、わが身のすべて一身で受けとめさせていただかなければなりません。
 理屈抜きに、あれやこれやと思案すること無しに、心に口に南無阿弥陀仏と称えさせていただく他はありません。私の思案も南無阿弥陀仏になってしまことが一心でしょう。

(このご和讃を出させてもらうのは二回めのようです・・・・)

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2010年3月 5日 (金)

摂化随縁不思議なり

 阿弥陀さまの智慧は、私たちの日常生活とはるか遠くにかけ離れてものではなく、密接に関わり合ってはたらいてくださっています。それを見たり感じたりすることができない私の方に問題があるのですが、「わからない」「難しい」「感じない」…などと、思い、言いふらしているのです。心の奥の声を正直に聞いてみると、仏法を聞こうとする気がないのです。
 低血圧だから朝起きるのが苦手だと言ってる人でも、大好きなスキーに行きたいと思えば、早朝出発のスキーバスに間に合うように起きて行くのですから。お金がないと細々と生活している人でも、大好きな酒を飲むお金はパッと使ってしまいます。それと同じように、ほんとに聞く気があるのなら、わからなくても、難しくても、聞こうという気になるものです。むしろ、わからないから、難しいから懸命に聴聞して、その壁を破ろうとするはずです。
 しかし、仏法の好きな人などいません。だれもが、最初は、仏法に反発し,背を向けているのです。仏法を勧めてくれる人はイヤな存在とも見てしまいます。それにもかかわらず仏法を聞く人は、阿弥陀さまはじめ、諸仏諸菩薩に見守られ、育てられてきた賜物という他はありません。

  十方三世の無量慧
  おなじく一如に乗じてぞ
  二智円満道平等
  摂化随縁不思議なり
    (『浄土和讃』註釈版p.564)
十方世界と三世におでましになるすべての諸仏方は、すべてみな阿弥陀さまと同じ真如に乗じて成道された。権智と実智の二智を完全にそなえ、すべては平等であるというさとりを得られた。衆生救済のためには、教化し、救済し、利益する縁が、それぞれにであう機(縁)に応じてはたらくことは、凡夫でははかり知ることのできない徳である。

 私たちが遠いところに置いてしまっている諸仏方は、十方三世におでましになるのです。十方というのは東西南北の四方と、東南、南西、西北、北東、さらに上と下の方向を指します。すべての空間を表しています。三世は過去、現在、未来というすべての時間を示しています。つまり、仏さま方は、どこでも、いつでもおでましになられるのです。
 そして、どこでも、いつでもおでましになっておられる諸仏たちのはたらきは、二つの智によっていると説かれています。権智は世間の事柄、私たちの煩悩と結びつく智です。差別界の衆生を方便をもって救済する智慧です。それに対して、平等の真如をさとる絶対の智慧が実智です。権智と実智が欠けることなくそなわるからこそ、仏法を無視し続けててきた私にも教えが届くのです。平等であるさとりが得られるのです。

 知りたくもない、聞きたくもない仏法に出遇い、合わせることを知らなかった手を合わせ、称えることを知らなかった名号を称え、気づくことのなかった本願に気づかされてきたのです。いま、聞法の過程にいて、わからないことがいっぱいある…と言う人もおられるでしょう。でも、意識するしないにかかわらず、確実にそこまで育て上げられてきているのです。不思議としかいいようはありません。

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2010年3月 4日 (木)

但有自然快楽音

 人間の楽しみの一つである食べることや寝ることであっても、それが苦しみに変わることがあります。食べ過ぎで腹痛や下痢を起こすことがあります。疲れて寝るときは幸せを感じても、いつまでも寝続けることは腰も痛くなるし絶えられるものではありません。お金や財産をもっておれば持っていることで悩み苦しみ、無ければないことで悩み苦しまなければなりません。
 悩みもなく幸せそうに生きている人の姿をみてうらやむことはあっても、その人の悩みや苦しみを察することなどありません。そんな私自身を振り返ってみると、目の前の人によって、またその日その時の気分によって、不幸を演じたり、幸せを誇ったりを繰り返す人生です。その生き方そのものが、迷いという他はありません。
 迷いは途切れることはありません。せっかく人間に生まれることができたのに、またまた三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に帰ってゆかなければならないのです。

 それを断ち切るべく立ち上がってくださったのが阿弥陀さまです。阿弥陀さまの四十八の願いの一番めに、もし国に地獄・餓鬼・畜生があれば仏のさとりをとらないと誓われています(無三悪衆の願)。そして二番めには、いのち終わって三悪道にかえるようなことがあれば仏のさとりをとらないと誓われています(不更悪趣の願)。

  三塗苦難ながくとぢ
  但有自然快楽音
  このゆゑ安楽となづけたり
  無極尊を帰命せよ
    (『浄土和讃』註釈版p.564)
浄土は三悪道の苦しみが打ち止めされたから、迷い苦しむことがない。宝池からは、ただ自然の快楽の音のみが聞こえてくる。それゆえここを安楽浄土と名付けられたのである。その安楽浄土の極まりなき尊い阿弥陀さまに帰命するしかない。

 万人が認めるようなおいしいものであっても、とても心地よい環境が整っていても、そのことが幸せなことではありません。自分がそんな状況や環境を、とても心地よいと感じ、幸せを味わうことができるか否かにかかっています。
 しかし、浄土というところは迷い苦しむことがないところです。迷い苦しむという選択肢がありませんから、私があれかこれか、不幸か幸せか、どという迷いもないのです。快楽の音のみがあって、苦痛という選択肢もありません。
 凡夫にすれば、そんな状態はもの足りない…、と感じるかもしれません。それも迷いです。ですから、凡夫の頭で、感覚で浄土を考えることなどできません。お経に書かれたとおり、説教で聞くとおりの世界であっても、私の想像する世界とはまるで別物です。

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2010年3月 3日 (水)

八功徳水みちみてり

 私たちは毎日の生活のなかで精を出してすることは、自分の身を楽しませることです。自分の五感を満足させることです。いっしょにいる人たちとともに楽しみ、満足することもあります。その一方で、相手をおとしめたり、悪くいうことで満足することもあります。そんな相手と比べて自分自身に優越感を感じたりもするのです。自分ではそう思っていても、第三者から見るとそんな私が愚劣と見えてしまっているだろうことは、後々になって気づくのです。でも、その後も、懲りもせず、同じようにして自分の身を楽しませてしまっているのです。

 そんな楽しみ方は、仏法を聞くことのさまたげにこそなれ、社会生活のなかでも何の得にもなりません。むしろ、他の人からさげすまれ、悪くいわれるタネをつくっているようなものです。
 阿弥陀さまがつくられた浄土にほんとうの楽しみを求め、観想することはお経のなかでも勧められていることです。ところが、見たこともない浄土を思い浮かべることなどできもしません。そんなことを考えたことがないのが凡夫のあさはかなところです。

七宝の宝池いさぎよく
  八功徳水みちみてり
  無漏の依果不思議なり
  功徳蔵を帰命せよ
    (『浄土和讃』註釈版p.564)
浄土の七宝でできた池はけがれがなく、すがすがしい。八つの功徳の水が満ちており、煩悩のけがれを離れた阿弥陀さまの智慧でできあがった浄土の荘厳であるから、不思議な徳がそなわっている。阿弥陀さまの功徳に帰命するほかはない。

 浄土の宝地の水は、八つの徳があるというのです。
  1)清浄潤沢:清らかでうるおいがある
  2)不臭:臭みがない
  3)軽:軽やか
  4)冷:冷ややか
  5)軟:やわらか
  6)美:うまい
  7)飲時調適:のどごしがよい
  8)飲已無患:飲んだ後にわずらいがなく、さわやか
 このようにみてみると、最近のビールの広告のようです。しかしそれは発酵させたり、濾過したり、加味された加工した味です。私たちの味覚に味が合わされているからおいしいと感じるのです。市販されている天然水、健康水などとどこが違うのかと思われるかもしれません。加工されていなくても、はるばるヨーロッパから運ばれているものもあります。ペットボトルに詰められ、多くの燃料と人の手をわずらわせた水です。環境に大きな負荷をかけている水です。
 八功徳水が、ビールやペットボトル入りの市販の水と違うのは、何よりも違うのは、煩悩をかき立てる水ではなく、さとりに導かれる水であることです。

 浄土というのは、私たちの日常生活のレベルと決して同じではありませんし、私たちの知恵、知識で考えられるようなものではありません。そんな世界を観想して、わが身を楽しませてみるのはとても素敵なことではないでしょうか。

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2010年3月 2日 (火)

一々のはなのなかよりは

  一々のはなのなかよりは
  三十六百千億の
  光明てらしてほがらかに
  いたらぬところはさらになし
(『浄土和讃』註釈版p.563)
一つ一つの蓮華からは、三十六百千億の光明が光り輝き、その光が至り着かないところはない。

 浄土の蓮華には百千億枚の花びらがあるといいます。その花びらは青、白、玄(くろ)、黄、朱、紫の六つの色があり、その花びらが同じ色の光を放ちます。その光が相互に照らし合うから、6×6=36の光となります。それが百千億の花びらの色となるのですから、三千六百千億の光明となるというのです。
 これから暖かくなり、百花繚乱季節を迎えます。三千六百億の光明となってこの世を照らしてくださるというのです。まぁ、なんと気持ちのよいことでしょうか。届かぬところはないとおっしゃっているのですから、暗く沈んでいても、負けて落ち込んでいても、そこにも阿弥陀さまのお光は届いているのです。阿弥陀さまの光明に照らされることで、どんなものでもほがらかに、晴れやかになってゆくのです。

 暗がりのなかでは私の生地はよく見えません。ましてや、歳を重ねると暗がりではホントに者が見えません。しかし、しっかりと照らされることで、そのままが見えてしまいます。見たくないもの、隠したいものでも阿弥陀さまの光明にさらされるのです。隠していた私だけではありません。隠すつもりもなかった、私の知らない私まで、照らされてみせられるのです。

  一々のはなのなかよりは
  三十六百千億の
  仏身もひかりもひとしくて
  相好金山のごとくなり
    (『浄土和讃』註釈版p.563)
一つ一つの蓮華からは、三十六百千億の光が放たれ、そこから仏さまがお出ましになる。三十二相・八十随形好の荘厳さは、金色の山のような荘厳さがある。

 先の和讃を受けています。三十六百千億の光の一つ一つから仏さまが出てきてくださるというのです。つまり三十六百千億の仏さまがおでましになるということです。

 これを読まれた方は、どういうことを、またどういうふうに感じられるでしょうか。
 「なぁ~んや、そんなことか」でしょうか、「あほらしい、何言うとるんや」でしょうか?

 私は浄土に生まれたことはありませんから、浄土のことはわかりません。しかしこの世では見ることも感じることもできないような光景のなかにある蓮の華から、阿弥陀さまがおでましになるのでしょう。
 音や光をテーマにしたイベントがあり、引き込まれていくことがあります。音楽を楽しみ、気づかなかった光の美しさに心躍ることがあります。それはこの世のできごと。言葉にならない阿弥陀さまのはたらきを、言葉で表すには、こういう表現になるのか…という思いです。

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2010年3月 1日 (月)

善悪の基準は、阿弥陀さまのお心

 親鸞聖人のお言葉として、『歎異抄』に次のような一文があります。

  善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。
    (『歎異抄』註釈版p.853)

 何が善であり何が悪であるのかを知らない、とおっしゃっています。続いて、阿弥陀さまの心で善とお思いになるほど善を知り尽くしているなら善を知ったといえるだろうし、阿弥陀さまが悪とお思いになられるほど悪を知り尽くしたのなら、悪を知ったと言える、と言われています。つまり、善と悪を判定できるのは、阿弥陀さまの心によるのだということです。

 しかし日常生活のなかでは、私たちは善か悪かの判断をしています。ある程度、社会の常識に従って善悪の判断をしていますが、最終的な基準の基準になるのは私の価値観です。
 個人的な善悪の判断は私がしますが、家族のなかではすべて私が善悪を判断するわけではありません。家族のなかの力関係で決まることもあるものですから。また、地域のなかでの善悪の価値判断は、私の家族の価値観によって善悪が決まるものではありません。国家はまた違った論理で善悪を決めます。こうしてみてみると、社会全体でみんなが納得する善悪の基準というのはあり得ないのです。
 また、これらの善悪の判断は、いずれも判断を下した時のものですから、時の流れのなかでは対応しきれないこともあります。
 特定の権力者が支配し、その権力者によって善悪が判断されることもありました。しかしその時も、必ず違った価値観を持った組織や集団のものに権力の座を奪われると、善悪の判断基準も変わるのです。ましてや、価値観の多様化する現代社会のなかでは、何が善なのか悪なのかの判断は次第に難しくなっています。

 しかし仏法の上から善悪をみると、親鸞聖人がおっしゃっておられるように、阿弥陀さまのお心によるのです。具体的に言うなら、仏法の教えに従うこと、仏道修行をすること、聞法することが善であり、それ以外は善とは言いません。また、悪とはその教えに従わないこと、仏道修行や聞法することの障害となったり、妨げたりすることです。殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒が五悪とされるのも、そういう理由によります。たとえば、飲酒そのものが悪ではなく、酒を飲むことによって仏道修行や聞法ができなくなってしまうことが悪であると心得なければなりません。

 阿弥陀さまの教え、お心が善悪の基準になるというのは、こんな世だからこそ見直す必要があるように思います。人や社会の善悪の基準が揺らいでいるし、とんでもないものであるのですから。
 それは、人や社会の価値観に左右されない、絶対の価値観だからです。ましてや、私の善悪の価値判断基準から離れているということは、私自身にとってはとても有効ではないでしょうか。そんなこと、社会を生きていく上では通用しない・・・と決めつけるのではなく、仏法の価値基準によって生きてみることを試みてみてはどうでしょうか。

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