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2010年5月31日 (月)

久遠劫より流転せり

 念仏の教えの要である「他力」は、世間一般にはほとんど正しく理解されていません。辞書を引くと、最初に出てくるのは「自分以外のものの力」「他人の助力」とあります。仏教では、仏や菩薩の力であり、浄土教では阿弥陀仏の本願力のことを言います。辞書にもありますが、仏や菩薩がどのような方々なのかがわからない現代人には、ましてや阿弥陀仏を知らない人びとには、まったく理解できないことでしょう。

 自分で考え、自立し、自分でなんでもできるということがプラスの価値として評価され、自分以外のものや人の力を借りることは一段劣ったマイナスの価値としてとらえられがちです。しかしこの世に生を受けることも、成長してゆく過程においても、一人前と言われるようになって家庭や仕事に精を出すようになっても、一人で生きていくことなどできるはずはありません。ましてや老いて足腰が立たなくなってしまっては、多くの人に支えられて生きなければなりませんし、この世の最後の後始末まで、家族親族始め、まったくの見ず知らずの他人にも世話になるのです。
 社会というのは、人間が一人で生きていけないからできあがったしくみであり装置です。かつては人びとが気持ちや行為を深く交換し合うことでお互いを助け合ってきました。現在もそれが基本ですが、お金を使っての交換によって助け合いをする割合が大きく膨らんでいます。ただ、手段であるお金の交換が目的になってしまい、助け合って生きるという社会のしくみに歪みがでてしまうことも少なくありません。そんな状況がイヤだと思っても、一人で生きてゆくことなどできはしないのです。
 そう考えると、この世を生きてゆくために「自分以外のものの力」「他人の助力」に対して、もっと尊び敬わねばならないでしょう。ほんとに自分が一人で生きていると思うなら、それは傲慢でしかありません。「私がみんなを助けてる」と思いたくなるのは、完全に自分を見失ってしまっているということです。

 まして、輪廻の世界から解脱して阿弥陀さまの浄土に生まれさせていただくことを、自分の力で成し遂げられるものではありません。

  報土の信者はおほからず
  化土の行者はかずおほし
  自力の菩提かなはねば
  久遠劫より流転せり
    (『正像末和讃』註釈版p.609)
阿弥陀さまの浄土に生まれる他力の信者は多くはないけれど、方便化土に生まれる自力の行者の数は多い。自力の菩提心を起こしても成し遂げられなかったので、久遠劫からいままで生死に流転してきたのである。

 若いほど、健康で元気なほど、身も心も張りきっているほど、その自分の力を頼りにするのです。そんな自分に酔ってしまっています。久遠劫という遠い昔から今まで生死流転してきたものですから、「他力」を見る眼は失われてしまっているのでしょうか。しかし見ずとも、見えぬともはたらき続けてくださるのが「他力」です。

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2010年5月30日 (日)

まかせよのお心におまかせする

 仏教は、生死(しょうじ)を超える教えです。死んだ人をどうこうする教えではありませんし、死ぬことだけを問題にした教えではありません。この世に生きる人に向けて説かれていますが、生だけを問題としている教えではありません。
 しかし現代人が求める多くの声は、「死んだ人にお経をあげても意味はない。生きている者に教えを説いてほしい」「生きる力にならないと仏教は意味がない」「現代社会の問題をもっと積極的に関わり、役立つ教えであってほしい」などというものでしょう。仏法は少なくとも前者二つにはしっかりと対応していると思っています。仏法を知らない人が、あるいは正しく仏法を聞かない人が、仏教に対してもっている誤解や偏見からの声でしかありません。三つめについては、「現代社会の問題」のどこにかかわるのかという、かなり具体的中身をはっきりさせないと対応のしようがありません。ただ、現代社会の問題すべてを解決可能にする仏教などあり得ません。
 ただ、いま挙げた三つの問題に対応しているか否かという問題は、仏法に関わる僧侶や寺院を含めた教団の問題でしょう(これらについては、いずれ触れなければならない大事なテーマであると思っています)。

 仏法が生死を超える教えであるということは、この世で生きることに執着から離れることを教えているということでもあります。しかし、この世で教えられるプラスの価値観は、生きること、この世への執着が前提です。
 たとえば、私も末期ガンの友人を見舞ったことがあります。付き添いの人は、きょうはとっても調子がいいみたい・・・とその末期ガンの友人のその日の体調を説明してくれました。それでも、私の知っている友人に比べると顔色が悪く、覇気がありません。見舞いの言葉とも元気づけの言葉ともつかない声がけは、「しっかり養生して、退院して元気な顔を見せてよ」としか言えませんでした。あとで考えるほどに、白々しく感じてしまいました。結局、生きること、元気になることが見舞いであり、励ましだと思ってしまっているのです。生きることがプラスとみているのです。本人は、自分が末期ガンであることを知っていました。でも、それなりの治療を受けていますから、まだまだ生きよう、生きたい、生きられるに違いないと思いたいのでしょう。
 しかしそこで、「しっかり養生して元気になってほしい。でも死ぬことになったとしても心配することはない。阿弥陀さまに安心してまかせたらいい」とは言えませんでした。

 この世に執着していますから、万一、自分が死ぬことになったら、妻あるいは夫は、子どもは、親は、家庭は、仕事は、・・・と心配のタネは尽きないでしょう。安心することはできないのかもしれません。それじゃ、何ができるのか、どうすればよいのか。何もできることはありません。業にまかせるしかありません。
いま、私が思っていることが、いよいよ死を前にしたとき、どう反応するのか、自分自身にもわかりません。どうすることもできないでしょう。
 でもどうする必要もないのです。どうなったとしても、その業をしっかり引き受けてくださるのが阿弥陀さまです。阿弥陀さまにまかせるしかありません。安心できる世界は、阿弥陀さまの仰せにしたがって、阿弥陀さまのまかせよのお心におまかせするしかありません。

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2010年5月29日 (土)

物を申さぬものはおそろしき

 阿弥陀さまからいただいた心によろこんだところで、この世を生きていくために自分を飾りよく見せたいという心が優先するのです。念仏させてもらう身になっても、煩悩いっぱいの凡夫であることに違いはありません。自分の内に包み込んでおくだけではなく、他人に仏法を聞いてもらいたいと思ったときから、いままで以上に自性がよく見えてくるようです。

 そんなことを感じるなかで、私がいままで聞いてきたところを、また今、感じているところを書きたいと思うようになってきました。インターネット上で書けば、押しつけることもなく、読みたい人が読んでくれる。もし問題を感じた人は、メールで思いを寄せてくれるだろう、と思って。
 少々勇気がいりました。「そんな聞き方は間違っている」「その味わいのしかたはないのでは・・・?」という声があるかもしれないと思ったからです。そう言われて愉快になれるわけはありません。しかし、後生の一大事であれば、そんな自分の思いのところに止まっているのは間違いを指摘されるより怖いことです。
 念仏の信心は自分で創り出すものではありません。阿弥陀さまからいただいた「一味の安心」ですから、さまざまな聞き方などあろうはずはありません。しかし私の心できけば、間違った聞き方もあり得ることです。味わいはきわめて個人的・感覚的なところがありますが、同じ信心の人が違和感を感じるほどのことはないのでしょうか。もし、間違っていたり、違和感を感じるほどの味わいの違いがあったときは、それを言葉に出して確認し合うことが必要でしょう。それができるのが、御同行・御同朋といわれる人間関係でしょう。その人たちとの関係は、この世のなかの複雑な感情に心おだやかならぬ関係であったとしても、念仏の信心のところではつながりあっている関係です。そういう関係ができて、それがネットワークになったらどれほどうれしいことか、またありがたいことか。

 昨日書きましたように、日常生活のなかで信心の話をすることは難しい。なかでも、いちばん難しいのは、僧侶どうしで信心の話をすることです。僧侶であれば間違いのない信心があるということはありませんから、一人の凡夫として、阿弥陀さまの願いに出遇わなければならないのは言うまでもありません。だれよりも僧侶どうしが仏法談義、安心談義しなければならんと思います。このことについては、まだ書きたいですが、ここでは控えます。

 さて、このブログが、そんなにたくさんの人に読まれているわけではありません。しかし毎日のように読んでくださっている人も何人かいてくださっています。そのなかでも、声を聞かせてくださるのは、そのなかでもごく限られた人です。

 「蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ。」(『蓮如上人御一代聞書』註釈版p.1259)

 このブログ内に限らず、仏法について、信不信について、ぜひ物をおっしゃってください。私もどう読んでいてくださっているのかを、ぜひ聞きたいものです。

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2010年5月28日 (金)

つつんだよろこびをどうする?

 日常生活のなかで、仏法の話を当たり前のようにすることはとても難しいことだと感じています。仏教についての諸知識については、とても興味を示してくれる人は多いですが、ここでいう仏法というのはそういう類の話ではありません。生死いずべき道についてであり、後生の一大事であり、阿弥陀さまの本願の話であり、生活のなかで称名念仏すべきということであり、私がいただいている南無阿弥陀仏の話です。
 私は真宗僧侶ですから、仏事の機会が与えられたとき、仏法の話をする機会が与えられたときなどでは、抵抗なく話すことができます。おそらく聞く人たちも、それぞれに耳を傾ける準備ができていると思っていますから、かなり思いきった話をすることもあります。
 しかし、ほんとうに仏法が日常生活のなかに生きるものであれば、あるいは「いま」「ここ」で聞かねばらない法であるなら、僧俗にかかわらず、もっと日常生活のなかで仏法のことを話題するのが当然のことでしょう。

 蓮如上人が紹介されている「うれしさを むかしはそでにつつみけり こよいは身にも あまりぬるかな」という古歌にもあるように、自分のいただいた信心(南無阿弥陀仏)のよろこびが身にあまりあふれるようなことがないのでしょうか。いつまでも、袖の内につつみ隠さなければならない仏法なのでしょうか。よろこびも語れない、念仏も出ないのでしょうか?
 「みんな阿弥陀さまのひとりばたらき。阿弥陀さまによってみんなが救われていくのだから、私は何もしなくてもいいのではないか・・・」「信心はきわめて個人的なことだから、なかなか他人にはすすめられない」と言われる人がいます。もしそうなら、私は仏法に遇えていなかったかもしれません。阿弥陀さまの心を、ありがたいことであると伝えてくださった方がいてくださるのです。阿弥陀さまと私とのきわめて個人的な信心は、三千大千世界に満ちるよろこびの心でもあるのです。後ろ向きでいてはなりません。

 にもかかわらず、なぜ、日常生活のなかで仏法の話ができないのでしょうか。まずは、私たちが表面的な日常生活で求めているものとはかけ離れているということしょう。私たちが求めていることは、この世で、わが身を楽しませ、わが心を踊らせることでしかありません。
 ふたつめは、だれもが心の底から安心できる世界にいないため、あまり心の底を突いてほしくないという思いがあることを知っているからでしょう。そーっとしておいてほしいのです。
 みっつめは、私たちが直接に眼で、耳で、身体で確認できるものでないものは拒絶したくなるのです。これは、人間中心、科学万能の視点にうまく溶け込んでしまったからにほかなりません。自分で確認できないもの、科学で証明されないものについては話題になっても、まともに受けようとはしません。これらは仏法の話を受け取る側の話です。
 しかしその裏返しとして、仏法の話をする側の問題点があります。それは、私のよろこびや味わいと、仏法の話をしてどのように聞いてくれるのだろう・・・という不安を天秤にかけているのです。拒絶されるのではないか、まともに受けてもらえないのではないか、さらには嫌われるのではないか・・・等々。結局は自己保身です。阿弥陀さまからいただいた信心のよろこびが、自分を良く見せたい、悪くは見られたくないというところで、日常生活のなかで出せないのが私なのです。

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2010年5月27日 (木)

無始よりこのかた

 私たちはだれにも誕生日があります。長生きしてもせいぜい100年余りでこの人生を終えるのです。しかしこれらはこの世の誕生日であり、この世の寿命です。仏法では、六道を流転輪廻して、たまたま人間に生まれることができ、いのち終えれば解脱しない限りはまた六道をさまよわなければならないことを教えています。
 それでは、私が輪廻を始めたのはいつなのでしょうか。仏法では「無始」、つまり始まりはないと説かれています。始まりがないほどの遠い昔、永遠の昔から輪廻転生してきたのです。

 一方、阿弥陀さまは、光明無量、寿命無量の仏さまです。無量は「はかることができない」「かぎりない」という意味です。そのように聞くと、はかることができないというのはどれくらいの数なのか・・・と考えてしまいます。私たちは「無量」というものを見たことも、出遇ったこともありません。ただ言葉による説明によって、観念的に知るにすぎません。
光明無量はどれくらい明るいのだろう、太陽よりもまぶしいのか・・・と、何か比較対象できるものを持ち出して比べてみますが、とても比較できるようなものではありません。
 この世のなかで、最長の寿命をもつものは宇宙でしょう。現在わかる限りのところでは、約137億年前にできたということです。137億年という長さに実感がありません。しかしこの寿命は有限ですから、寿命無量とは比較にはなりません。

 無始以来悪業煩悩を重ねてきた私に、限りなきいのちをもった阿弥陀さまははたらき続けてくださってきたのです。でも、それにはまったく気づくこともなかったし、そんなはたらきがあることすらも知らないまま、迷いに迷って今の私がいるのです。そしてその今の私もまた迷い続けています。迷い続けてきたために、迷っているとさえも認識できないほど迷っているのです。
 このようなことは、この世のなかで教えてくれる人は滅多にいません。学校や企業や社会等々のどのような場面においても、この世の教育のなかではまったく学ぶことができないことです。学ばないから知るよしもありません。私も、仏法を聞き始めたとき、鼻であしらい、鼻で笑っていました。いったい何を言いたいのか・・・とも思いました。限られた私の経験と知識を超えたものごとを理解することができないから致し方ありません。私自身の狭い思いにとらわれ、「我」の殻を破り出ることを拒み続けているのです。煩悩に眼さえられてしまっています。

 阿弥陀さまは、私が悪業煩悩を重ねてきた無始以来、ズーッと私を待ち続けてくださっています。弥陀の本願がはたらいていることに気づいておくれ、そして南無阿弥陀仏を称えてくれよ、と。

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2010年5月25日 (火)

多劫衆苦にしづむなり

 私たちの住んでいる世界は、相対の世界です。有限の世界です。有礙の世界です。相対の世界とは、右を見て左を見て、上を見て下を見て、自分が損にならないような位置を確保して生きる世界です。有限の世界とは、終わりがある世界です。この世における私のいのちを含め、すべてが形を変えたり,こわれたり、無くなっていく世界です。有礙とは、さまたげがある、とらわれてしまうということです。
 そんな世界に住んでいますから、「絶対」「無限」「無礙」の世界を知りません。言葉のうえでの理解ですし、たくましい想像力によって理解しているように思っています。しかし相対的な見方しかできない頭です。どこかに区切りを付けないと考えられない頭です。とらわれずにはおれませんから、無礙が無礙と認識できません。

 さとりの智慧と慈悲を理解し体得するというのは、凡夫にはあり得ないことです。それを自力の修行によって得ようとすれば、一切の煩悩を捨てる必要があります。仏教にはそのための修行が定められています。しかしそれはできないことです。それは現代の楽で豊かな暮らしに浸ってしまい、さとりを得る心をなくしているからというわけではありません。真実信心を身に得ることに耳を傾けず、拒否し続けているのが凡夫なのですから。
 智慧あるものには、凡夫がそういう存在であることが見透かせるのです。そのなかでも、法蔵菩薩は、どうすればそんな凡夫が救えるのかを五劫もの間、考えに考えぬかれました。そして私たち凡夫を救うための願いを立てられ、それを成就するために兆載永劫の間のご修行がありました。私たちの思考が及ぶ時間ではありません。
 その結果、法蔵菩薩の願いが成就され、阿弥陀仏となられ、いまはたらいてくださっているのです。それが「わかる」か「わからない」のかというレベルで、判断しているのが私です。そのことが、おかしなことだとは思わない、思えないのが凡夫であることの証しです。

  衆生有礙のさとりにて
  無礙の仏智をうたがへば
  曾婆羅頻陀羅地獄にて
  多劫衆苦にしづむなり
    (『浄土和讃』註釈版p.573)
衆生の浅はかな智慧で、阿弥陀仏の智慧である本願力を疑うと、曾婆羅頻陀羅地獄(びんだらそうだらじごく)に落ちて、長い長い間、しかも数え切れないほどの苦しみを受けることになる。

 曾婆羅頻陀羅地獄(びんだらそうだらじごく)について、親鸞聖人は真蹟本で「無間地獄の衆生をみては、あら楽しげやとみるなり。仏法をそしりたるもの、この地獄におちて、八万劫住す。大苦悩を受く」と左訓されています。地獄の最下層にある「無間地獄」が楽しく見えるのがこの地獄だとおっしゃる。
 つまり、仏法を疑い、そしる凡夫は、気楽にこの世をフラフラしているというにはとどまらないのです。そのことが見えないからこそ、できあがった本願です。はかりしれない時間を、また苦しみの世界に沈んでいかねばならないからこそ、阿弥陀さまははたらいてくださっているのです。

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2010年5月23日 (日)

具縛の凡衆をみちびきて

 煩悩をかかえる身、つまり心身が煩わされ悩んでいる状態では、仏法が指し示す道理を正しく認識することはできません。凡夫というのは「煩悩具足」ですから、正しいのか間違いなのかという区別がつかないのです。それでもその時々に、必要な判断が迫られますから、人生の中で身につけてきた価値観、世間の常識、自分の考えを総動員して判断するしかありません。価値観の多様化、自由な発想、個性的な考えということが認められるようになるほどに、ますます規準が無くなっていきます。

  四論の講説さしおきて
  本願他力をときたまひ
  具縛の凡衆をみちびきて
  涅槃のかどにぞいらしめし
   (『高僧和讃』註釈版p.582)
曇鸞大師は「四論」の講義をとりやめて、阿弥陀さまの本願他力の教えを説き始められた。そして、煩悩に縛られた凡夫が阿弥陀さまの願いを聞き、念仏を称える身となるよう教え導かれた。

 四論の講説とは、龍樹菩薩の『中論』『十二門論』『大智度論』、堤婆菩薩の『百論』の四つを基本の聖典として自力聖道門の教えを説くことです。曇鸞大師はその四論の研究者でしたし、『大集経』というお経の注釈書の作成にもかかられていました。ところが、その途中で病気になられたというのです。なんとか注釈書の完成をさせたいがために、不老長寿の術を教わり、そのすばらしさを感じられたようです。
 ところがインドからやってきた菩提流支にあったとき、長命を得てもこの世のいのちを終えればまた迷いの世界を輪廻するだけであるといわれ、浄土教の書物を授けられるのです。曇鸞大師は、それまで学んできた教えを捨てられ、他力浄土門の教えに帰依されました。

 弥陀の本願による救いのめあては一切衆生です。煩悩具足の凡夫です。「具縛の凡衆」なのです。「具縛の凡衆」とは、蓮如上人の言う「末代無智の在家止住の男女たらんともがら」のことです。しかしそれは、幸せを求めてこの世を生きるこの私のことでもあります。自分が煩悩に縛られて生きるしかない凡夫であると、少しでもわが身を知っていたら、考え方や生き方がずいぶん変わるでしょう。でも、凡夫と気づかないから迷い苦しみ続けるのです。
 しかしそんな者こそ、阿弥陀さまの本願によって導かれねばならないのです。凡夫と気づくこともできない者が十悪五逆、誹謗正法の者であり、阿弥陀さまのめあてはその者であると明らかにされました。自分がそんな凡夫であることを知らなくても、他力に照らし出されて知らされるのです。

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2010年5月22日 (土)

みてらん火をもすぎゆきて

 善導大師の二河白道のたとえでは、人間の貪欲(欲しがる気持ち、執着)は、何ものをも飲み込んでしまう水の河にたとえられます。また瞋恚(いかり、はらだち、うらみ)は何ものをも焼き尽くす火の河にたとえられます。何もなければ、穏やかな水の流れでしょうし、風に揺らぐことのない灯なのでしょう。しかし、貪欲や瞋恚の思いがいったんあばれ始めると、抑えようとしても抑えきれないことがあります。

  たとひ大千世界に
  みてらん火をもすぎゆきて
  仏の御名をきくひとは
  ながく不退にかなふなり
    (『浄土和讃』註釈版p.562)
もしこの大千世界が火の海となろうとも、それをかいくぐるほどの決意をもって阿弥陀仏の名号を聞かねばならない。その仏のみ名を聞くことができたら、その人は間違いなく浄土に生まれることができるという地位においていただくことができるのである。

 私は、これまでの人生のなかで、二度ほど燃えさかる火災現場にたまたま遭遇したことがあります。消防士たちは手際よく消火作業に当たっていますが、どこからともなく聞こえてくる鳴き声ともうめき声とも叫び声とも言えるような声に、その悲惨さを実感せずにはおれませんでした。おそらく火災にあった当事者たちの思いが声となっているのでしょう。
 しかしそこにいる私は、たまたまの遭遇者であり野次馬にすぎません。世界各地の戦渦や大火事の現場をテレビのニュース番組で見ているのと比べるとはるかに緊張感があり、恐ろしさを感じはしますが、当事者には申し訳ありませんが傍観者でしかありません。

 このご和讃では、たとえ三千大千世界が火に満ちたとしても…という仮定のこととして表現されています。もしそういうことがあったとしても阿弥陀さまのはたらきはそんな災難をもろともしないと説かれているのですが、三千大山世界が燃えさかるというのは仮定の話ではないということに気づかねばなりません。わが身を振り返ると、毎日、瞋恚の火が燃えさかっています。そして、私の心のがあらゆるものを燃やし尽くしてしまっているのです。瞋恚の火が燃えさかる私の心は、日常茶飯事のことあたりまえのことになってしまい、そのことを恥じたり悔いたりすることなど及びもつかなくなってしまっているのです。

 仏法はそんな心を静めよ、変えよというのではありません。そんな怒り、はらだち、憎しみのなかでも「南無阿弥陀仏」ははたらいてくださいます。自分は気づくことができなくても、「南無阿弥陀仏」のよって、貪欲も瞋恚も気づかされるのです。そういう持ち物しか持っていない私自身であることも教えてくださいます。
 私の力ではありません。お念仏、南無阿弥陀仏の力です。阿弥陀さまのはたらきの力なのです。

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2010年5月21日 (金)

若不生者のちかひゆゑ

  若不生者のちかひゆゑ
  信楽まことにときいたり
  一念慶喜するひとは
  往生かならずさだまりぬ
    (『浄土和讃』註釈版P.561)
阿弥陀さまの第十八願文のなかに、「若不生者 不取正覚」(もし生まれずば正覚をとらじ)と誓われている。これはわが誓い(阿弥陀仏の誓い)を信じ念仏する者を浄土に生まれさせることができないなら仏のさとりをとらない、との誓いである。それゆえ、本願のいわれを信ずる時節が到来し、その一念のよろこびを得る人は、阿弥陀さまの浄土に生まれさせていただくことが間違いないという身にさせていただくのである。

 仏法の言葉は、日常生活のことばとかけ離れたところがありますから、聞いたことがあることばでもその真意がわからないことがあります。「阿弥陀さま」がわからない、「浄土」がわからない、「誓い」とはどんなものなのかわからない、「本願」がわからない、等々、キリがありません。
 それではその一つ一つをていねいに説き話せばわかったように思いますが、それは知的理解にすぎません。仏法についての視点を頭でわかったということでしかないのです。だからといって、なかなか心が揺さぶられるようなものがわき上がってくるということもありません。
 しかしそれは無理もないことです。意識することもなくいつの間にかこの世に生まれ、いつかわからないけどこの世のいのちを終えてゆくであろう…という程度にしか考えていないし、考えられないのですから。苦悩の世界を流転し続け、真実の親さまに遇わせていただいていることに気づかないのですから。この人間界を終えてまたもや流転輪廻しつづけること必定の私に気づくこともないのですから。

 何もわからない私が、穢土を離れたとき初めて阿弥陀さまの誓いを知ることができます。阿弥陀さまの誓いを知らされたとき、初めて穢土を離れることができます。…ということは、どちらが先か? 「卵が先か、鶏が先か?」という問いと同じように、頭のなかはわけがわからなくなります。私が穢土を離れるということは…? 私が阿弥陀さまの誓いを知るということは…? と、私がその問いに答えを出し、何とかしようとしているのです。
 誓いをたて、成就された阿弥陀さまが、私の思いの先手を打ってすでにはたらいてくださっています。それは既定のことです。それを信じる信じない、疑う疑わない、などと勝手に采配しているだけのことです。私は何を望んで、そんな采配しているのでしょうか。

 阿弥陀さまの願も行も欠けることなく整っていますから、阿弥陀さまは、私が本願のいわれを信ずる時節がくることを、ただただ待っていてくださるほかはないのです。本願の誓いに間違いが無く、ゆらぐ余地などどこにもありませんから、私たちの疑いやはからいも必ず晴れてゆくのです。

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2010年5月20日 (木)

いまに十劫とときたれど

 真宗では阿弥陀さまのことを「親さま」と言い習わしてきました。私の両親とはこの世で初めて遇い、この世限りで別れていきます。
 しかし阿弥陀さまは、過去世・現世・来世にわたる三世の「親さま」なのです。十劫の昔からいっしょに寄り添ってくださっています。でもその「親さま」の心がわかりません。「親の心子知らず」というのは、いつまで続くのでしょうか?
 この世では「子を持って知る親の恩」と言いますから、自分が親になる必要があるのでしょうか。しかし、三世の親になれるはずなどありはしません。それなら、「親さま」の心を直接聞かせていただき、そのまま直接いただかなければなりません。

 自分にとってわけがわかりませんから、阿弥陀さまという存在は、この世では必要ないけれど、あの世でお世話になろう・・・と考えてしまいます。私たちのこの「この世」と「あの世」という認識で仏法を推し量ろうとしているのです。ところが、阿弥陀さまがはたらいてくださる場所に、この世もあの世もありません。苦しみの世界「この世」、苦しみのない「あの世」に生まれるという認識でもありません。阿弥陀さまの願いとはたらきが私のところに届かなければ、「この世」も「あの世」も切れ目のない苦しみの世界なのです。私たちはずいぶん認識違いをしています。
 阿弥陀さまが示してくださっている世界は、「穢土」と「浄土」です。「穢土を離れて浄土に生まれよ、必ず浄土に生まれさせる」という願いにうなずかさせていただく教えなのです。

 私たちが十劫の昔から住み続けているのは「穢土」ですから、「浄土」を知りません。ですから「浄土」の話はピンときません。親鸞聖人でさえ、『歎異抄』のなかで「安養の浄土は恋しからず」とおっしゃっておられるくらいですから。

  弥陀成仏のこのかたは
  いまに十劫とときたれど
  塵点久遠劫よりも
  ひさしき仏とみえたまふ
    (『浄土和讃』註釈版p.566)
阿弥陀さまが仏になられたのは十劫の昔と説かれているけれど、それは塵点久遠劫という長い時間よりも、もっと遠いむかしに成道されたようである。

 迷いの私のために阿弥陀という仏になられたのは十劫という考えられない昔だった・・・と説かれているけれど、それよりもっと前であった。あぁ、勘違いであった…という話ではありません。もっと前から私は迷い続けてきたということです。
 あまりにも長く「穢土」にいるものだから、この「穢土」が住みやすいのでついつい安住してしまっているのでしょうか。しかし、これほど阿弥陀さまを泣かせることはないのです。

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2010年5月19日 (水)

いまに十劫をへたまへり

 だれでも誕生日があります。この世に生を受けた日です。しかし母親の胎内に宿ったときはそれより10ヶ月ほど前です。数え年は、母胎に宿った時を誕生の基準としていますから、母胎から出てきたときを1歳と数えます。
 しかしこの世に生を受ける以前にも、私たちはどこかで生きてきました。どこでどのようにあったのか私には記憶はありませんが、仏法では六道をさまよい続けてきたと教えてくださっています。誕生日というのは、この世を生きるための便宜的なものでしかありません。

 六道をさまよい続けている間、ズーーッとつきあってくださっているのが阿弥陀さまです。多くの仏さまがおられますが、阿弥陀さまだけが私に寄り添って迷いの世界から離れることを願いはたらいてくださっていました。しかし私はそのことに気づかぬまま、輪廻をくり返してきたのです。

  弥陀成仏のこのかたは
  いまに十劫をへたまへり
  法身の光輪きはもなく
  世の盲冥をてらすなり
    (『浄土和讃』註釈版p.557)
阿弥陀さまが仏になられてから十劫という長い時間が経過して今に至っている。その身は尊く、ひかりといのちにかぎりがない。真実を見ることができないこの私たちを常に照らしまもってくださっている。

 「劫」というのは時間の単位です。私たちの頭では思いもつかない単位です。宇宙が誕生したのは今から130億年以上前だと言われていますが、「劫」という時間単位からするととても及びません。仏教では「劫」という時間を次のように説明します。1辺が1由旬(約7km)の城壁のなかに芥子粒を満たし、100年に1粒ずつ取り出してついに芥子粒がなくなる時間が一劫である、と。十劫はその10倍の時間です。
 阿弥陀さまが仏になられたときから、苦悩の世界に沈む私に寄り添ってくださり、今日に至ったのです。
どんな業を果たしてきたのかよくわかりませんが、いま、たまたま私は人間界に生まれることができました。人間界に生まれることができたということは、ようやく阿弥陀さまの話が聞けるということであり、阿弥陀さまの願いに気づかせてもらうことができるということです。阿弥陀さまの心も知らず、私は十劫の間、阿弥陀さまを待たせて末、ようやくいまそういう条件が整ったのです。
 そのご縁は、はかり知ることができないほど貴重なものです。その貴重さがわかるのは仏法を聞いて初めてわかるのです。人間界にいる今が、再び迷いの世界を経巡ってゆくのかの分岐点です。私が仏法を求める気持ちが起こるかどうかという前から、私の願いを聞いてくださいと、阿弥陀さまが頭を下げてくださっているのです。十劫の昔から。

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2010年5月17日 (月)

正覚のはなより化生して

 葬場勤行の「正信偈」に添えられる和讃は、「本願力にあひぬれば」と、もう一首あります。

  如来浄華の聖衆は
  正覚のはなより化生して
  衆生の願楽ことごとく
  すみやかにとく満足す
    (『高僧和讃』註釈版p.581)
阿弥陀さまの浄土の蓮華に座しておられる方々は、仏のさとりをひらいて生死の迷いの世界を離れてそこに生まれられた。浄土に生まれたいという衆生の願いがことごとく、すみやかに満たされたすがたである。

 仏法では、いのちが生まれる方法は四つ、胎生、卵生、湿生、化生(けしょう)があると説きます。胎生はほ乳類など母胎から出生するもの。卵生は卵からふ化するもの、湿生は湿気のなかから出生するものです。そして、業によって夢のように忽然とあらわれるものだというのです。極楽浄土に往生する「蓮華化生」もありますが、迷いの世界への化生もあります。
 最初の三つの生まれ方は生物学的説明にも近く、理解できるものです。ところが「化生」というのは、もうひとつピンときません。過去世の業によって化生するというのです。

 この世のなかで生きるということは、実にどろどろしています。何よりも自分の思いや行いがどうしようもなくどろどろしているのですが、自分のことはいつも棚上げにしています。世間を嘆き批判し、また他人を嘆き批判するばかりです。そしていよいよ自分が当事者になったときに苦悩の深みにはまり込み、そこから抜け出せないのです。
 仏法のさとりは、泥のなかから咲き出でる蓮の花にたとえられます。泥のなかに育ちますが、咲いた蓮の花には泥ひとつ付いてはいません。罪悪深重・煩悩熾盛の泥凡夫が浄土の蓮華の上に座することなどできようはずはありません。私自身はその因も縁も持ち合わせていないのですから。迷いの世界に化生するものでしかありません。
 しかしその私を蓮華化生させようと誓い、はたらいてくださっている方がおられます。「もし衆生が浄土に生まれなかったら、正覚を取ることはない」というのは、泥中で身動きの取れない状態の私にかけられた願いであり、はたらきなのです。

 このご和讃には、私がするべきことなどどこにも書かれていません。すべて阿弥陀さまのはたらきが示され、それによって衆生が満足するというのです。その満足も衆生が何かをして得た満足ではありません。何もみえず何もわからないまま、ただおろおろと為すすべを知らなかったわたしが浄土に生まれさせていただくことでできるのです。
 葬儀というのは、ただ形ばかりの儀式・儀礼が執行されているのではなく、いま生きている者が聞くべき法話として生まれる世界を示してくださっているのです。そんな私は何をすべきなのか?いのちのあらんかぎり、阿弥陀さまの喚び声に応えて、称名念仏するしかありません。

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2010年5月13日 (木)

受け止めてくれる人を探すことから

 私は、20代30代のときは、心ひそかに仏法への反発心を抱いていました。私の周りにはたくさんの僧侶がおられましたが、すでに僧侶になっていた私が仏法へのさまざまな疑問を話すことはできませんでした。それは、すべての僧侶が「世のなかに真実信心はない」「人間の基準で当てになるものは何もない」「まことなるものは仏法のみ」「真偽善悪の基準は阿弥陀さまにある」・・・などと思っているのではないことを感じていたからでしょう。また、話をしたところで、しっかりと受け止めてはもらえないであろうと思ってもいました。
 もっとも、仏法への反発心を受け止めてくれる僧侶というのは誰か、ということがわからなかったからでしょう。唯一、話をすることができたのは父でした。どんな話をしたのか、詳細におぼえているわけではありませんが、たとえば、次のようなことを話したように思います。

 <その1>
 確かにこの世に真実はないかもしれない。でも理想を掲げそれに邁進してゆくことが人間の生き甲斐につながったり、やる気を起こしたりするのではないか。努力し、がんばり、いろんなものを工夫し、発明して、よりよき社会を築こうとしているのに、そのことに水を差すような話に違和感をもってしまう。
 <その2>
 人間の基準はあいまいだけど、清く正しく生きようとする人もある。それにもかかわらず、真偽善悪の基準について、阿弥陀仏こそ間違いのない基準を示しているという(その阿弥陀仏も架空じゃないの?)。あいまいであっても、秩序が保たれる程度に真偽善悪が意識され、それなりに守られていたらそれでよいではないか。いろんな人がいて、ウソもあり悪もあって、多少の混乱があるから世のなか楽しい。毎日のニュースも、小説も映画も、みんなその混乱を楽しんでいるのではないか。
<その3>
 仏教は「死」とのかかわりはとても深い。法話のなかにも死の話が出てくる。しかし、その実感をもつことができる人はどれだけいるのか。それより、今を、懸命に生きることの方が大事だと感じている。「死」の暗い面ばかりをみているから、生きている者には魅力がない。「生」を問題にして、どうして生きている者の悩み苦しみを救う仏教にならないのか。

 仏教は、現実を直視しているかのようにみえて、実は現実離れした話に終わってしまっているのではないか・・・とも。そのうち、いろんな縁によって聞くことができた仏法から、現実をみる立ち位置も、真実を見る視点も、まるっきり違っていることに気づかされました。
 私の基準は「私」の内にありますが、年齢や生活環境、さらには出遇う人やできごとによってその基準はどんどん変わってゆきます。自分で掲げる理想もかわってゆきますし、「私」が考えるよりよい社会のありようも、その姿を変えています。それともう一つ、見ている先は、常に私の「外」です。私の思いを基準として、私の外の世界を見ているのです。

 だからと言って、いきなり「それは自分を基準にして、外の世界を評価しているだけ」と言われたら、かえって反発となってしかならなかったような気がします。聞いて尋ね、尋ねて聞くということをくり返すことで、気づかせていただくことなしに、疑いの蓋、強い思い込みは無くならないのです。

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2010年5月12日 (水)

腹底に落ちるまで聞く

 仏法を聞くということは、仏さまの願いを疑いことがなくなるまで徹底的に聞くということです。聞法過程においてはさまざまな思いがでてきますが、その思いにまどわされてはなりません。とは言ってみても、仏法を聞いてはいるけれど心の底までスキッと晴れない人、仏法に惹かれるけれど自分の疑問が先に立つ人、何とはなく仏法大事と教えられてきたけれど何が大事なのかよくわからない人、等々の方はたくさんおられると思います。どこかモヤモヤしておられることと思います。
 そんな思いをもつことはダメなのではありません。求道中の人は必ず通るところです。そこのところを口に出してみることが大切です。ところが、口に出してみても、ここのところを一般のカウンセラーの受け止め方と、すでに仏さまの願いをいただいた人の受け止め方には違いがあるように思います。

 求道に関する悩みや思いも、人間の心のはたらきですから、一般のカウンセラーでも受け止めることができるように思います。しかし、「世のなかに真実信心はない」「人間の基準で当てになるものは何もない」「まことなるものは仏法のみ」「真偽善悪の基準は阿弥陀さまにある」・・・などというところが、腹底にストンと落ちないということを、一般カウンセラーに話してみたところで、その先の展開はないのではないでしょうか。
 仏さまの願いをいただいた人は、聞くほどに共感するところが多いはずです。求道中に、同じようなところを歩んできたのですから。仏教や真宗を学問的に勉強して、頭でそれを理解しても、その人が仏さまの願いをいただいているとは言えません。頭で理解することと、仏さまの願いが腹底に落ちることとは違うのですから。
 ・・・となると、仏さまの願いを疑うことがなくなるまで聞くためには、仏法求道中の悩みや思いを間違いなく受け止めてくれる人と遇うことがとても大切なことのような気がします。受け止める人がいないから、仏法についての心の底にある思いを口に出すことができない。今、そういう状況にあるのではないでしょうか。

 阿弥陀さまの願いとはたらきに間違いはありませんが、凡夫が凡夫の自覚もなく、フラフラしていてはいつまでたっても心の晴れぬまま、仏法を聞くチャンスを失ってしまいます。仏法を聞かせてくれる人、心の底を信心の問題として聞いてくれる人を求めるべきです。

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2010年5月11日 (火)

わが身に向かって「わが信や如何に」と問う

 時代は激しく動いています。世俗化といわれたり、宗教離れと言われたかと思うと、一転して宗教回帰と言われるようになります。しかし、一貫しているのは、組織や制度に縛られ、教えが生きていない宗教が凋落の一途をたどっているということではないでしょうか。
 そういう状況になると、組織の変更、制度の見直し、法規の改革などがおこなわれます。その組織や制度を動かす人たちにとってみれば、そこに問題があると感じているのでしょう。なかなか困難なことではありますが、会社や団体などでは英断を振るう強いリーダーがでてきて成功を収めるケースは少なくありません。
 しかし、宗教教団の力が衰える大きな原因は、教えが生きていないからにほかなりません。組織、制度、法規等の見直しは不可欠のことかもしれませんが、そのことだけで活性化するようには思えません。
 
 「お念仏をいただいて生きる」「本願に生かされている」「生かされていることに感謝して生きる」等々の言葉を聞きますが、この言葉がどれだけ人の心を打つのでしょうか?この言葉を口にした人たちが、ほんとうにそのように生きているのでしょうか?そのようにいきることができなくとも、痛みを感じ念仏するでしょうか?そんなところを、もっと真摯に、謙虚に、素直に、ありのままに・・・見ていかなければなりません。
 私も僧侶の末席に座らせていただいていますから、「おまえはどうなのか?」と問われることを覚悟して書いています。

 阿弥陀さまの願いには、駆け引きも損得も本音たてまえもありません。率直に、ズバリと核心を突いてきます。それを、私たちは、実にいろんな思い、はからいで受け取るのです。それをまた、実にいろんな思い、はからいをもって人に伝えようとします。それはもう、阿弥陀さまの純粋な願いではありません。そんなものを、どれだけくり返したところで、人の心を打つはずはありません。
 そんな思いを、御同行・御同朋といわれる人たちの間で、それぞれに口にして、純粋なものかどうか確認しなければわからないことです。確認しなければわからないというのは、御同行・御同朋というのは凡夫なのです。その凡夫が、宗教教団の世俗の部分に手を加えても、教えが伝わるかどうかというところの根本解決にはならないということです。

 たとえば、蓮如上人は、教団の制度、組織面を整備されました。それによって教団勢力が大きく伸びたと言われています。しかし、蓮如上人のご教化は、一人ひとりが「わが信や如何に」と厳しく問い、阿弥陀さまと向き合うことを説いておられます。
 世俗面の厳しさではなく、自己を問い本願に問うことによって、「お念仏をいただいて生きる」「本願に生かされている」ということを実感した人びとの集団、組織となったことによる勢力拡大であったのです。ただ世俗的諸条件の整備であったのではないということです。

 念仏に力がないのではないのです。念仏をいただいていないから、力にならないのです。念仏を聞かない人がいるのではなく、伝える側に伝えるべき念仏がないのです。それはそのまま、私に向かって、「わが信や如何に」と問うべきことです。

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2010年5月10日 (月)

「仏法聞けよ」「念仏称えよよ」

いとこの長男の結婚披露宴に出席しました。新郎はお寺の長男で、背が高く、陽気で明るい性格に加え堂々とし、物怖じしたところがなく、社交性のある好青年です。「おめでとうございます」「誠に喜ばしい」「これほどの良縁はない」等々の声があちこちで交わされていました。また新郎新婦には、お祝い、期待、励まし、等の言葉がかけられていました。
ほんとにしあわせそうで、若々しくはつらつとしたな新郎新婦新郎に比べ、いとこ(新郎の父)はずいぶん疲れ気味のようでした。その同い年のいとこの結婚式は28年前。その時にも出席していますので、その28年間が一瞬にして過ぎ去ったような気分になり、いろんな場面が重なって見えたりもしました。

 人生のなかでの節目というのが、いくつかあります。結婚はそのひとつでしょう。かつてのように、個人が犠牲になっても家と家とが結びつくための結婚ではなくなりましたし、披露宴も若い人たちが自由にアレンジするようになっています。まわりから祝福され、当人たちもしあわせを感じるでしょう。私も、そのなかにどっぷりと浸ることができた時間でした。
 でも、そんなしあわせ感というのは、人生のかなでほんの一瞬のできごとという気がしたというのも正直な気持ちです。よくよく考えてみると、何がめでたくて、何が喜ばしいのか・・・とも。 この世にしがみつき、この世の快楽を求め、この世を思い通りに生きていきたいという思いのなかでのめでたさや喜ばしさは、その直後に空しさや悲しさや後悔などが押し寄せてきます。そこは問題にせず、次のめでたさや喜ばしさを求めるしかありません

 結婚披露宴が終わってから、新郎に、思わず「しっかり仏法聞かなアカンで」と言いました。彼は、自分の祖父や父親の姿を見ているでしょうから、そのことが何を意味するのかわからないことはないと思っています。
 しかし、仏法を聞くことが大事だということを知っていることと、実際に仏法を聞き、疑いなく阿弥陀さまの願いを受け取ることができることとは大きな隔たりがあります。そのことがわかっていたとしても、その隔たりを埋めることはとてもとても難しいことでもあります。だから、「仏法を聞けよ」「念仏称えよよ」と教え導き続けられなければならないのです。

 夫婦が、親子が、兄弟姉妹が、親戚が、あるいは友人知人がお互いに、「仏法聞けよ」「念仏称えよよ」と励まし、励まされることは、この世のことにかかりっきりの私に対する、もっともやさしい声がけなのです。

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2010年5月 9日 (日)

本願力にあひぬれば

  
  本願力にあひぬれば
  むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて
  煩悩の濁水へだてなし
    (『高僧和讃』註釈版p.580)
本願力に遇い信ずることができれば空しく時を過ごすものはいない。南無阿弥陀仏の功徳がその身に満ち、煩悩の濁水も功徳と一つになってわけ隔てられることもない。

 浄土真宗本願寺派の葬儀には「正信偈」をおつとめし、念仏と和讃二首を添えます。その一首めがこの和讃です。この和讃は、始めて聞いた(見た)ときから、とても気になるものでした。

 「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき」ということは、本願力に遇わなかったら、空しく人生を過ごしてゆくということになる。この世は、空しく時間を過ごしている人ばかりです。もちろん、この私も、今こうして生きていく時間を楽しんだり苦しんだりしている。ここで笑ったり泣いたりしているけれど、これも阿弥陀さまの目から見たら空しく過ぎていることなのです。私は懸命に生きていると思ってみても、阿弥陀さまはそのことを充実した、意義ある人生だとはおっしゃってくれないのだとしか思えなかったのです。

 空しく過ぎることなく生きるということは、「本願力」に遇うことだとおっしゃっている。本願は阿弥陀さまが私のためにたててくださった願い、十八願です。誓いや願いはたくさんあるけれど、形となって目に見えるようになるのは、それらが成就したときです。どんなにすばらしい誓いや願いであったとしても、誓いや願いのまま終わってしまうということはたくさんあります。
 その誓願が、力となってはたらいているのが「本願力」でしょう。人生を空しく過ぎることなく生きるための「本願力」という力なんて、どこにあるのでしょうか?
 功徳の宝海と煩悩の濁水がへだてることがないというのも、「本願力」に遇うことができれば、という条件付きです。

 功徳の宝海と煩悩の濁水をへだてているものは、煩悩だらけのわが力にしがみつき、阿弥陀さまの本願を信じることもなく無視する心です。それは我執であり、はからいです。耳を傾けることすら、拒む心です。はたらいている力さえも無視し、逃げ、拒んでいるのです。

 この和讃の冒頭をあらためてみてみると、「本願力に遇うことができれば」という仮定形です。つまり大切なことは、本願力に遇うことです。空しく過ぎることはないというのも、宝海と濁水が一つになるのも、本願力に遇うことができれば成就することなのです。それは自然です。
 本願力に遇いたい、遇おう、遇わねばならないと本願力を求めることです。そして本願力に真向かいになることです。それが自力か否かを問う必要はありません。はたらく力は、阿弥陀さまのものでしかないのです。そのことを知らせてもらうのです。

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2010年5月 8日 (土)

煩悩成就のわれらには

 日本には「家」の宗教というのがあります。宗教は個人の内面を問うというイメージがありますが、先祖代々にわたり個人の意志とは無関係に受け継がれ、「家」という集団を守り続けてきた宗教です。一般的に既成仏教が多く、民衆の側から日本的仏教や仏教的日本人を育て上げた土台となったとも言えるでしょう。
 ここでいう仏教や仏教的というのはきわめて広い意味があります。儀式などの伝統や習慣を守ることを大切にする仏教があります。先祖を弔うことが第一義であるとする仏教もあります。墓も仏壇も先祖祭祀のためにあるのです。さらに、仏教寺院に関わることを通して地域社会を盛り上げることを通して、「家」の繁栄させてゆくという側面もあります。

 そのなかから、儀式の意味を考え、先祖祭祀を通して無常を感じるなかから、仏教の教えに関心をもち、仏教は「私に何を教えているのか」と問う人が出てくるのです。代々続く「家」の宗教に疑問を持ち、反発する人もいます。しかし、その疑問や反発をきっかけに、教えを学び、帰依してゆく人たちもでてくるのです。何がそのようにさせるのか、そのことに法則やルールがあるわけではありません。不思議のご縁としかいいようがありません。

  釈迦の教法おほけれど
  天親菩薩はねんごろに
  煩悩成就のわれらには
  弥陀の弘誓をすすめしむ
    (『高僧和讃』註釈版p.580)
お釈迦さまが50年間にわたって説かれた教法は多いけれど、天親菩薩は『浄土論』によって貪欲、瞋恚、愚痴などの煩悩を欠けることなく具えている私たちには、阿弥陀さまの本願を信ずることしかないとすすめられた。

 お釈迦さまの教え(=仏教)は、それぞれの人の機に対して説かれているので、数限りがありません。当然のことながら、お釈迦さまが説かれた多くの教えには、何一つ無駄はありません。だからといって、お釈迦さまの説かれた教えのすべてを受け入れることなどできようはずはありません。それは教えが間違っているからではなく、私に受け取る度量がないからです。
 度量の無い者のことを「煩悩成就のわれら」と表現されています。成就というのは、望んだとおりに完成することです。煩悩は貪欲、瞋恚、愚痴など私の身も心も煩わす迷いの根源です。つまり、心身を煩わす煩悩というのは、私が望んでつくりだし完成させたものだというのです。毎日、せっせと精を出して迷いをつくりだしているに過ぎないと教えてくださっています。

 お釈迦さまの教えを何一つ受け取る度量の無い者ではありますが、迷いをつくり出すプロフェッショナルであり名人であるのがこの私です。そんな者に与えて効果があるのは、阿弥陀さまの本願しかありません。これしかないと、阿弥陀さまの願いを南無阿弥陀仏として、私にすすめてくださっているのです。

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2010年5月 7日 (金)

おほそらごとのかたちなり

 私たちは社会的人間であって、社会との関わりのなかでしか生きることはできません。社会の力によって自由に生きることが抑圧されるようなことがあってはなりませんが、社会を無視して自由だけを主張するばかりというのも問題です。善悪の基準は、時代によって、社会によって変化します。それは、社会の既存の体制や規範と、新たに生まれてくる自由な考えや行動とのせめぎあいでもあります。
 現代日本社会の不幸は、その基準が明確ではないということではないでしょうか。日本の社会文化のなかで作り上げられてきた善悪の基準があったのですが、民主主義の世のなかでは過去の基準が人びとに受け入れられなくなってしまったのです。人びとの考えは十人十色、百人百様ですから簡単に決められるものではありませんし、あえて善悪の基準を整備しようなどという状況でもありません。それぞれの人生のなかで、自分が学び経験したことが最善の基準となってしまっていますし、他の基準を簡単に受け入れることができなくなってしまっているのではないでしょうか。

  よしあしの文字をもしらぬひとはみな
  まことのこころなりけるを
  善悪の字しりがほは
  おほそらごとのかたちなり
(『正像末和讃』註釈版p.622)
善いとか悪いという文字さえも知らない人は、ウソ偽りのないまことの心をもった人である。善悪の字をいかにも知っているかのような顔をしているのは、虚偽の姿をあらわしているのである。

 この和讃の詳細は、『歎異抄』のなかで、親鸞聖人の言葉を引用して、詳細に述べられています。

 聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。
(『歎異抄』註釈版pp.853-854)

 民主主義の社会によって善悪の基準が変化するというのは、人間の都合のよいようになるということでしかありません。でもそれは違う。はっきりしているのは、阿弥陀さまが善であるとされるものが善であり、悪とされることが悪であると親鸞聖人は言い切っておられます。
 そんなことを知らない人は、自分こそが善悪を判断する基準であるがごとく、自己主張し続けています。そして自分の主張が通ることによろこびを感じ、しあわせを感じているのです。それこそが「おおそらごとのかたち」であるということとは思いもせずに。そういう人こそが「凡夫」なのです。

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2010年5月 6日 (木)

名利に人師をこのむなり

 愚かな人間というのは、世間から見下げられる存在です。愚かというのは、現状認識の甘さもあるでしょうし、判断の間違いもあるでしょう。行動が未熟であることから、そういうふうにみられることもあります。多くの人たちが描いているある漠然とした基準に達していないというイメージにあてはまるのが、愚かな人間なのでしょう。ある分野においては賢者ぶりを発揮しても、別の分野においては全くの無知であり、愚かであることもあるでしょう。年齢には関係なくても、経験や習熟度の有無はあるのかもしれません。
 自分のことを愚かであると感じても、心の中で軽くつぶやく程度で、他人にそのことを公表したりはしません。ところが、他人に対して「愚かな奴」というレッテルを貼るときには、自分のことを棚に上げ、得意満面になってしまっている自分を発見します。

 親鸞聖人はご自身のことを「愚者」「愚禿」と言われ、自分を恥じ、慚愧されています。日本人特有の、謙遜ではありませんし、決して卑下されているわけでも、反省されているわけでもありません。ある特別な領域について愚かであると言っておられるのでもありません。
 阿弥陀さまの光に照らされて、ありのままの自分自身を、ありのままに見ておられるのです。阿弥陀さまの光に照らされたら、自分の本質的なところが愚かであったとしか見えてこないからこそ出てきたことばなのでしょう。
 でも、いま、親鸞聖人のことを「愚かな人間」「愚者」という人は誰もいないでしょう。心・技・体のいずれをみても、“すごい人”です。浄土真宗の宗祖であるということや、800年も前の時代を生きた方ですから、正直、多少の先入観や勘違いなどもあるのかもしれません。しかし、親鸞聖人が直接書かれたものを読むほどに、思索の深さや重さを感じることができます。

  是非しらず邪正もわかぬ
  このみなり
  小慈小悲もなけれども
  名利に人師をこのむなり
    (『正像末和讃』註釈版)p.622)
ものごとの是非を知らないし、邪正も判断できないのがこのわたしである。小さい慈悲さえももつことができないけれど、自分の名誉や利益を求め、人の上に立ち師になることを好んでいる。まことにはずかしい私です。

 親鸞聖人の著書『愚禿抄』には、「賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」(註釈版p.501)と書かれています。聞いて、学んだ結果は、ますます賢くなり、立派な人間になってゆくことではなく、ますます愚かで、外に対して見栄をはり、格好をつけて人の上に立ってゆくことを望むものでしかないことを知らされたのでしょう。
 阿弥陀さまの光によって照らされて自身を知るとともに、愚身であるがゆえに救わずにはおれないとはたらいてくださっている阿弥陀さまの光に帰依されたのです。

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2010年5月 5日 (水)

自力諸善は仏智を疑うこと

 これまで何度か念仏を称えることが大切だと書いてきました。もちろん念仏をまったく称えないより称えた方がよいことは明らかです。だからと言って、称えないより称えた方がよいからという理由で称える人はいないような気がします。また、現代人が、何でもいいから、ただ念仏を称えるという環境にはないと思っています。
 小さい頃から仏壇の前では合掌して念仏を称えるのが習慣。おつとめが始まる前に、合掌して念仏するのは作法のひとつ。みんな念仏を称えるときに、自分も称えるのはあたりまえ・・・、なんていう理由があるでしょう。また、真宗の僧侶が念仏を称えないというのは形にならない、という人もいるかもしれません。

 そんな人たちが、念仏を称えようという気持ちになるのは、それなりの心の動きがあるのではないでしょうか。そのなかで、自分が念仏することで、何かよいことが起こるのではないか、あるいはよいことを起こすことができるのではないかと考えている人がいたら、それは大きな間違いです。それは、念仏が「呪文」であったり、「いのり」の方法として受け止められているからでしょう。
 念仏が「呪文」や「いのり」ではないのは、念仏する者の心やパワーが念仏に込められるものではないからです。

  自力諸善の人はみな
  仏智の不思議をうたがへば
  自業自得の道理にて
  七宝の獄にぞいりにける
     (『正像末和讃』註釈版)
自力の諸善をおこなうことで往生しようとする人は、仏智による本願を疑っている人である。その人たちは、自業自得の道理によって、七宝の牢獄に閉じ込められる。

 念仏は南無阿弥陀仏です。阿弥陀さまの願いです。阿弥陀さまが「私にまかせよ」「私の心をうけとってください」という呼びかけです。それに対して、私の思いを込めるのではなく、「はい、わかりました」と私の心を阿弥陀さまにまかせるのが念仏です。もっと積極的、能動的な言い方をするなら、とらわれの私の心を阿弥陀さまに対して解き放つことです。それができないのは、阿弥陀さまを疑っているのです。
 誰もが言います。「疑うというほど強い気持ちではない」という言い訳を。それからしばらく話すと、たいてい「よくわからないけど・・・」と言うのです。自分の気持ちを探ってみたら、ホントはどうなのかよくわかっていない。それが私の心です。

 自分の心を確かめようと、心のあちこちをたずねまわってみても、疑っていることすらもわからないのが私の心です。それは自業自得の道理によって、阿弥陀さまの心が届かぬまま迷い続けるのです。自業自得は、みずからのおこないによってつくった業によって、みずからその報いを受けることを言います。仏智を疑いの報いです。
 そんな凡夫が生まれるところは「七宝の獄」。なんとも微妙です。

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2010年5月 4日 (火)

無過此難とのべたまふ

 人間のありようや生き方を示してくれる人たちは数多くおられます。その人たちの言葉や生き方から多くの大切なことを教えられます。うれしくて有頂天になっているときや、悲しくてどん底に沈んでいるときだけではなく、かなり冷静であると思っているときでも、たまたま出遇った言葉や生き方ハッと気づかされることがあります。
 なかでもお釈迦さまの言葉や生き方は教え(仏法)となっています。人生の一部分を断片的にみているのではなく、私のありようを過去世、現世、来世の三世を通して、付け加えるわけでも差し引くでもない、ありのままの私の姿を示してくださっています。それゆえ、教えは「鏡」にたとえられます。教えのなかに、私のありのままの姿が映し出されているのです。

 ありのままの私の姿は、いろんな分野の学問で明らかにされています。とくに近代以降の学問は、実際に起こっていることを事例として集め分類し、積み上げることを繰り返して証明する形をとります。しかし仏法は、事実の積み上げではありません。お釈迦さまのさとりによっています。試行錯誤するのでもなく、仮説を立てて証明しようと試みるのでもなく、迷うことなく真実を見通すことができるのがさとりです。

 お釈迦さまは30歳におさとりになられ(成道)、80歳で涅槃に入られました。その間50年、一時も休まれることなく教えを説き続けられました。その内容は多岐にわたり、量は膨大です。お釈迦さまの教えを断片的に聞いたり学んだりすることはあっても、すべてを理解する、すべてを信ずるということは難しいことです。普通に生きる者にとっては、あり得ないことです。
 そのなかから、インドの龍樹、天親、中国の曇鸞、道綽、善導、日本の源信、源空(法然聖人)の七高僧や親鸞聖人、さらにはその後の先師がたによって今日にまで受け継がれた阿弥陀さまのお心、念仏の教えは、お釈迦さまの説かれた教えの要です。阿弥陀さまは、この世に執着し、煩悩の限りを尽くして生きる私こそが正客であるとお考えになっておられることが示されています。私が救われるためのすべてが阿弥陀さまの側で準備されており、その願いとはたらきを受け取ってください、と阿弥陀さまが頭を下げてくださっていることに気づかされる教えです。

  一代諸教の信よりも
  弘願の信楽なほかたし
  難中之難とときたまひ
  無過此難とのべたまふ
    (『浄土和讃』註釈版p.568)
お釈迦さまが一代で説かれた教えを信ずることは難しいけれど、それ以上に難しいのは阿弥陀さまの他力の信をいただくことである。それを『無量寿経』には、難中之難と説かれてあり、またこの難に過ぎたる難はないと説かれている。

 一般的には、私が私のために仏に願うのです。それが仏教だと思っている人がほとんどでしょう。しかし阿弥陀さまは、私のために、私が願わずとも願ってくださり、はたらいてくださっている。阿弥陀さまにはそうせずにはおれない私がここにいるのです。
にもかかわらず、それがわからない、信じることができない、心に響かないと無視して、気候ともしない。阿弥陀さまの心を聞き、受け取ることは難しく、この難に過ぎたることはない難しさだというのです。

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2010年5月 3日 (月)

みなそらごとたわごと

 あなたには、座右の銘がありますか。座右の銘は、常に自分の心にとめておいて、戒めや励ましとすることばです。
 中学校のとき、野球部のピッチャーをしていた先輩は「百戦錬磨」とすべての持ち物に書いていました。口癖は「明日は明日の風が吹く」だった友人はいつも明るくマイペースでした。明石家さんまは座右の銘は「人間、生きてるだけで丸もうけ」と聞いて、笑ったり、うなずいたり・・・。自分を戒めたり、励ましたり、なぐさめたり、・・・という言葉のもつ力を知らせてくれます。

 私はいろんな格言やことわざにいろんな力をもらってきましたが、座右の銘として常に心にとめたり、口にしたりするようなものはありませんでした。ところが最近、「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」ということばが出てくるのです。
 ニュースをみても身の回りのできごとにふれてもそらごとばかり、自分の心のなかをみてもまことあることなしをイヤというほど感じていることは確かです。そらごと、たわごとを何とかまともに軌道修正するために現実のものにしようと動き、働きかけるのが政治であり、経済であり、仕事をすることであり、またこの世を生きるということでしょう。しかしそれはほんのわずかなことでしかありません。ほとんどは、そらごとたわごとを隠すために、またそらごとたわごとで処理しているにすぎません。
 「真実一路」「至誠一貫」ということばなどは、少なくとも私の座右の銘となろうはずはないと感じるのです。

 そう考えるのは、厭世的で、なにもできないじゃないか・・・な思った時期もありましたが、「そらごとたわごと、まことあることなき」に続くのは、「ただ念仏のみぞまことにておわします」ということばです。
 生きるなかで、そらごとたわごとにばかりに目がいって、そこで喜び笑い、嘆き悲しんでいるのです。でも本質的なところがそらごとたわごとですから、そこでじたばたしたところで、ことの解決が図られるわけではありません。やっぱり、そらごとたわごとで覆い隠し、まずいところは見ないようにするのが精一杯なのです。
 まことにておわすのは念仏だと、はっきりと示してくださっている。これこそを、座右の銘となるべきことばだと身にしみています。

 「ただ念仏のみぞまことにておわします」と、そのことばをくり返しても致し方ありません。念仏だけがまことですから、私は称名念仏させてもらうことしかありません。考えていてもどうにもなりません。称名念仏することが善いとか悪いとか、私はすぐに思案してしまいます。私が思案することではありません。阿弥陀さまの心にかなえば善なのです。その阿弥陀さまが善であり、まことであるとおっしゃっているのは「念仏」なのです。


聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。
(『歎異抄』註釈版pp.853-854)

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