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2010年5月22日 (土)

みてらん火をもすぎゆきて

 善導大師の二河白道のたとえでは、人間の貪欲(欲しがる気持ち、執着)は、何ものをも飲み込んでしまう水の河にたとえられます。また瞋恚(いかり、はらだち、うらみ)は何ものをも焼き尽くす火の河にたとえられます。何もなければ、穏やかな水の流れでしょうし、風に揺らぐことのない灯なのでしょう。しかし、貪欲や瞋恚の思いがいったんあばれ始めると、抑えようとしても抑えきれないことがあります。

  たとひ大千世界に
  みてらん火をもすぎゆきて
  仏の御名をきくひとは
  ながく不退にかなふなり
    (『浄土和讃』註釈版p.562)
もしこの大千世界が火の海となろうとも、それをかいくぐるほどの決意をもって阿弥陀仏の名号を聞かねばならない。その仏のみ名を聞くことができたら、その人は間違いなく浄土に生まれることができるという地位においていただくことができるのである。

 私は、これまでの人生のなかで、二度ほど燃えさかる火災現場にたまたま遭遇したことがあります。消防士たちは手際よく消火作業に当たっていますが、どこからともなく聞こえてくる鳴き声ともうめき声とも叫び声とも言えるような声に、その悲惨さを実感せずにはおれませんでした。おそらく火災にあった当事者たちの思いが声となっているのでしょう。
 しかしそこにいる私は、たまたまの遭遇者であり野次馬にすぎません。世界各地の戦渦や大火事の現場をテレビのニュース番組で見ているのと比べるとはるかに緊張感があり、恐ろしさを感じはしますが、当事者には申し訳ありませんが傍観者でしかありません。

 このご和讃では、たとえ三千大千世界が火に満ちたとしても…という仮定のこととして表現されています。もしそういうことがあったとしても阿弥陀さまのはたらきはそんな災難をもろともしないと説かれているのですが、三千大山世界が燃えさかるというのは仮定の話ではないということに気づかねばなりません。わが身を振り返ると、毎日、瞋恚の火が燃えさかっています。そして、私の心のがあらゆるものを燃やし尽くしてしまっているのです。瞋恚の火が燃えさかる私の心は、日常茶飯事のことあたりまえのことになってしまい、そのことを恥じたり悔いたりすることなど及びもつかなくなってしまっているのです。

 仏法はそんな心を静めよ、変えよというのではありません。そんな怒り、はらだち、憎しみのなかでも「南無阿弥陀仏」ははたらいてくださいます。自分は気づくことができなくても、「南無阿弥陀仏」のよって、貪欲も瞋恚も気づかされるのです。そういう持ち物しか持っていない私自身であることも教えてくださいます。
 私の力ではありません。お念仏、南無阿弥陀仏の力です。阿弥陀さまのはたらきの力なのです。

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