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2010年6月30日 (水)

虚仮なる世間のなかで

 昨年夏の衆議院議員選挙の結果、自民党中心の政権から民主党政権に変わりました。政権が変わるかもしれないという雰囲気が盛り上がっていたため、選挙自体への関心は高かったような気がします。それからほぼ1年後、7月に参議院議員選挙がおこなわれます。どの選挙も、私たちの生活を左右するものだと思うのですが、今回の参議院議員選挙はもう一つ盛り上がりに欠けるような気がしているのは私だけでしょうか。
 たとえば、昨年夏に政権の座についた民主党が野党時代にあった市民目線の政策や歯切れのよさは影を潜めています。政権が変わったことを実感するような政策を打ち出し、情報公開が十分になされ、議論を尽くすことに努めた一年ならそれなりの盛り上がりはあったのではないかと思います。しかし、私の目から見る限り、体質的には自民党や自民党中心の政権と違うとは思えません。政権の担当の経験がないだけ、混乱が大きいような気がします。それじゃ、自民党中心の政権に戻ればいいのか・・・?まったくそう思えないほど、自民党には迫力がありません。

 さて、今回の参議院議員選挙の争点は消費税と言われています。私の個人的な意見として、消費税上げの前に、財政支出の削減や予算の組み替え等の手順はしっかりと踏んだとしても、近い将来相当の負担を覚悟しなければならないとは思います。しかしそれまでには、することがあり、手順を踏んでほしいものです。ただ、今回の争点は消費税だけではないことは言うまでもありません。
 消費税に限らず、政策やそのやり方に正解はありません。その時々の状況に臨機応変に合わせなければならないことばかりです。1970年代や1980年代の経済成長というところだけで言うなら、どのような政策も経済成長に結びつく勢いがありました。もっとも環境や人心に大きな傷も残したことは、経済成長以外への配慮を欠いた結果です。そういうこともあり、一つの政策だけで突っ走ることには、一方で大きなブレーキがかかります。

 人類の歴史のなかでまったく変わらないのは、衣食住が安心して確保できることが望まれていることです。豊かになったから、問題がなくなったということはありません。現に住宅問題や食糧問題、農業問題は大きな問題です。
 また、いのちあるものの生老病死の苦しみを抱えているという姿も人類の歴史のなかで、まったく変わらないことです。政治だけではなく、経済、法律、医療、福祉、等々さまざまな分野がこの生老病死にかかわっています。しかしうわべはきれいにみえても、心の底からこれらの苦しみが抜けることはありません。深まることはあっても、軽くなることもはありません。一人ひとりが、自分にいただいたいのちをみつめるしかないのではないでしょうか。
 ただ、「自分のいのちをみつめる」とは、多くの人が発する言葉です。しかしその内実、真意が伝わってきません。このことは「阿弥陀さまの願いを聞くこと」でしか具体的にならないのではないでしょうか。

 真に豊かに、幸せにあることを求めるなら、政治や選挙が虚仮の世界であるからとあきらめ、無関心に終わることはあってはならないことです。そこに関わることなく生きることはできないのですから。そんな世界に生き、向き合うほどに、阿弥陀さまの願いがホンモノであること、念仏がまことであることを知ることができるのです。

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2010年6月27日 (日)

念仏するところがピーステーブル

 欧米の幼稚園・保育所には、部屋の片隅に「ピーステーブル」(peace table)というコーナーが設けられていているそうです。園児、幼児の間にトラブルが起こったとき、当事者たちはそのピーステーブルのところに行き、徹底的に話し合ってトラブルを解決するというのです。もちろん、暴力厳禁です。あくまでも話し合いで解決するのです。また大人は入らないというのです。
 園児、幼児にそんなことができるはずはないと思われるかもしれませんが、トラブルの当事者たちが自主的にそこに行って話し合うようになるし、また周りの子どもたちがトラブルを起こした子どもたちにピーステーブルへ行くように促すというのです。そうすると、大人が入らずとも、子どもたちが自主的に話し合って、たいていのトラブルは解決すると言います。日本でも、このピーステーブルを実践する幼稚園や保育所ができているということでした。

 この話しを聞いて、さまざまな思いが頭をよぎりました。たとえば、国家間のトラブルも、ピーステーブルで解決することができるのではないか。地域内でのトラブルや、家族間でのトラブルでも、トラブル解消のために使えるのではないか、と。政治的配慮から平和会談などが行われますが、どこの国にも、地域にも常設されたらどうでしょうか?子どもだから素直に実行できるけれど、大人同士ではどっちもズルくなってしまっているので、そう簡単なものじゃない・・・と思われますか?それなら、ちょっと悲しいですね。

 かつて、真宗門信徒の間では、ピーステーブルの役割を果たしていたのは仏壇ではなかったのでしょうか。家族内あるいは家族員どうしのもめごと、トラブルがあったときは、当事者が仏壇の前で話し合いをしました。阿弥陀さまの前で、ウソをついたり、カッコをつけたりすることがはずかしくてできなかったのではないでしょうか。
 それだけではありません。悲しいこと、腹の立つこと、つらいことなど、抑えきれなくなった感情を鎮めるため仏壇の前に行って、仏壇の前で手を合わせわが身を振り返ったという人生の先輩の話をよく聞きました。心の底にあるものを、みんな阿弥陀さまの前で吐き出し、相談し、懺悔したのでしょう。
 それは朝晩、阿弥陀さまの前で合掌礼拝し、自分の心の内をいちばんよくご存じのお方であるという思いがあるからではないでしょうか。

 仏壇はあるけれど、なかなか仏壇にお参りしないし、悲しいこと、苦しいこと、胸の内にあることを聞いてくれる人があちこちにいてくれる・・・から、仏壇はそんな場所ではなくなっているのかもしれません。
 それなら、もう一歩先進的に、仏壇の前でなくとも、自分の抱えた問題を解決するために称名念仏させてもらうというのはどうでしょうか。称えたところが仏壇と同じ阿弥陀さまのおられる空間です。腹が立ってしかたがなくても、念仏を称えさせてもらうことで心は次第に落ち着いてきます。最初の内は雑念が混じっても、阿弥陀さまの心に触れているのですから、とにかく称名念仏してみることです。

 日常生活に精を出しておれば、いつも念仏ばかりというのはとても無理のように思ってしまいます。しかし、うれしいとき、悲しいとき、怒ったとき、笑ったとき、等々、どのような状態であっても、思いついたとき口に念仏を称えることができるなら、そこがピーステーブルです。いつも阿弥陀さまが側にいてくださっていてくださるのです。

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2010年6月26日 (土)

講堂道場礼すべし

 「仏徳讃談」と言いますが、私たちがほんとうに仏徳を讃談できるほど感じ、わかっているのでしょうか。仏徳を無条件に受け入れ、何もかもまかせることによってしかできないことです。
 しかしなかなかそう簡単にはいきません。不十分であっても、またそれが仮のものであっても、その中身がわからなくても、教えられたとおり本尊を安置し、お飾りをして敬うという形から教えがわが身にみちてゆくのです。

  七宝講堂道場樹
  方便化身の浄土なり
  十方来生きはもなし
  講堂道場礼すべし
    (『浄土和讃』註釈版p.562)
七宝で飾られた講堂や道場樹は、方便化身の浄土である。あらゆる世界から方便化身の浄土に来生するものはまことに多い。この講堂道場を礼拝すべきである。

 七宝とは『無量寿経』に、金、銀、瑠璃(るり)、玻璃(はり)、硨磲(しゃこ)、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)と記されています。瑠璃は青色の玉、玻璃は赤・白の水晶、硨磲は白珊瑚や大蛤、
瑪瑙は深緑色の玉です。金、銀、珊瑚も加え、この世にある色鮮やかな貴重な宝物です。講堂は教えが説かれる場所であり、道場はさとりをひらく場所です。その道場に植えられている木が道場樹です。
 私たちの身近なところで言うなら、これはお寺であり、仏壇です。お寺も仏壇も、お経にある浄土を再現されています。とくに、浄土真宗の寺院や仏壇は金箔をふんだんに使い、仏華を立て、ろうそくを灯し、お香を焚いて非日常的空間をつくりだします。もちろんお寺も仏壇も浄土ではありません。方便化身の浄土です。
 方便はウソということではありません。凡夫に真実を伝えるための手段です。化身の浄土は仮の浄土のことです。浄土に往生することのできていない凡夫に、仮の浄土を、お寺や仏壇という形にして示してくださっているのです。

 博物館で特別展と称して仏像が安置され、拝観することができます。ライティングがなされ、仏像を360度のどこからも観ることができるように展示されています。仏像だけでも思わず手を合わせてしまいますが、どうも美術品としての展示であり、礼拝の対象となっているようには思えません。それは、仏像の背景、あるいは荘厳がとても大事な気がします。
 その条件が整っているのがお寺です。先に述べたような内陣の荘厳とともに、本堂外陣や庭、さらには参詣者の出入りされる空間も、それなりの雰囲気がかもし出されています。
 講堂も道場も、本堂も仏壇も、大工さんが建て、仏具屋さんが仏具をそろえられたのですが、教えに添って、教典に則ってできたのです。人間の力でできたのではありません。教えあってこその講堂であり道場であるのです。

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2010年6月25日 (金)

何にもまさる法話は?

 真実の教えに遇いたい!

 仏法を真剣に聞こうと思う人に限らず、人生をあゆむなかで大きな行き詰まりを感じたとき、真実の教えに遇いたいと思うでしょう。当初は、真実が何かわかりませんから、手探り状態でしかありません。本を読んだり、人の話を聞いたりして求めます。突然自分で悟ることがあるかも知れないと思う人は瞑想をするのかもしれません。
 しかし、真実を求める人は、途中で自分をごまかさない限り、真実とは何かをかぎ分ける能力を身につけるような気がします。カッコをつけたり、飾り付けたりしたところで、ホンモノのにおいがしないものは捨ててゆくことになります。カルト宗教などは精神的な興奮のなかでのめり込んでゆくようです。しかし興奮が醒めると、元の状態に戻ってしまいます。難儀なのは、興奮に導かれるまでの人間関係がなかなか捨てられないことです。しかしここを真実と勘違いしては真実を求めることはできません。
 真実とは、興奮状態から醒め、冷静になればなるほど間違いないことを確信するものです。たとえ、この世で結んだいかなる人間関係を捨てることになったとしても、真実のなかに生かされていることをよろこべるのです。

 真実の教えに遇うためには、すでに真実に遇った人から話を聞くのがいちばん早いでしょう。真実と出遇った経験者、信の体験者です。真実に遇った人の話を聞いた人は、どこかに恐いと感じたり、近寄り難いと感じたりする人がいます。自分が執着しているものを壊される、あるいは奪われるという直感的な感がはたらくからではないでしょうか。別に人がそんなことをするはずはありません。怖ろしいと思う自分の問題が、真実に出遇う出発点かもしれません。

 ひとりで真実に遇うことはできないのか・・・?とても難しいかもしれません。確かにお釈迦さまなどはひとりで真実に遇った方でしょう。そういうことからすれば皆無ではないでしょうが、凡夫には、導いてくださる人が必要でしょう。
 しかし、導いてくださる人いわゆる善知識に簡単に遇うことができるとは限りません。ここが難しいところですが、仏法を聞く上での相性というのがあります。真実に出遇えば、相性の違いを認識しつつ真実を聞くことができるのですが、聞法過程では結構大きな障害になるかもしれません。

 それなら、いつでも、どこでも、だれでも、間違いのない教えを聞くことができないのではないか?そんなことを思われる人もおられるでしょう。ひとり暮らしだったら聞けないわ。病院生活が長かったら聞けないじゃない。聞きたいときに正しい教えを説いてくれる人の話があるかどうかわからない。等々・・・・
 そんなときこそ、念仏させていただく他はありません。念仏は阿弥陀さまの喚び声です。念仏は、間違いなく救うという本願そのものです。これ以上の法話はありません。私が称えた念仏によって、私が聞かせていただけるのです。
 私の信心はまだはっきりしていないから、念仏を称えてもホンモノじゃない・・・なんて言わないでください。自分の信心が定まっていなくても、念仏は阿弥陀さまから振り向けていただいた願いであり、はたらきです。ホンモノではない私が念仏させてもらうことが有り難いことなのです。南無阿弥陀仏を聞くこと。これ以上の法話、説法はありません。そして南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称名念仏する。これ以上のお味わいはありません。

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2010年6月24日 (木)

超世無上に摂取し

 私たちは日常生活のなかで、最上級に位置する言葉を使います。たとえば、「絶対」「必ず」「超」「最高」「二度と~しない」などなど。しかし人間世界におけるこれらの言葉は実にいい加減です。これらの言葉を頻繁に使う人ほど信用できません。こんな言葉を使う約束は、破られることを前提にしておいた方がいいでしょう。
 しかし仏法の上ではその言葉のとおりの教えです。阿弥陀さまの教えは、たとえ天地がひっくり返ることがあっても間違いのない、「絶対」の教え、「二度と迷い流転することのない」教えです。ところが、私たちがいい加減にしか受け取っていないのです。いい加減にしか受け取れないから、説かれている内容をそのまま受け取ることができないのです。それが疑いの心です。疑いの心は阿弥陀さまの教えに問題があるのではなく、いい加減な私が問題であるのです。しかし、阿弥陀さまはそのいい加減な私がめあてです。疑いの心がなくならないから着いて離れることができないのです。

  超世無上に摂取し
  選択五劫思惟して
  光明・寿命の誓願を
  大悲の本としたまへり
    (『正像末和讃』註釈版p.603)
この世を超えた、この上ない摂取不捨のお誓いは、阿弥陀さまが法蔵菩薩の時に諸仏の願行のなか五劫という長い間の思惟されたうえで選び取られた光明無量の願と寿命無量の願を、衆生を救う大悲の誓願の根本とされた。

 「超世」は、偽であり仮であるこの世のあらゆるできごとやありさまを超えているということです。この世に身を置く者には想像しようもありません。また「無上」はすべてのものごとを超えて、これ以上のものはない、最高の位置にあるということです。「摂取」は「摂取不捨」のことです。摂め取って捨てないと誓われ、はたらいてくださっているのは阿弥陀さまだけです。
 それは数限りない諸仏の願いとはたらきのなかから、思惟に思惟を重ねて「選択」された願い(「選択本願」)です。その結果、四十八願のなかから第十二願の光明無量の願と、第十三願の寿命無量の願が阿弥陀さまの大悲の根本の願を立ててくださいました。光明無量というのは、空間的に照らさぬところはなく大悲の光が至り届くということです。寿命無量は時間的に絶えることなく大悲のいのちが続くということです。共時的、通時的という言葉がありますが、それらの言葉の対象はこの世に限られます。それを超えている願いであり誓いであるのです。

 この光明無量、寿命無量であるからこそ、私たちは全面的に頼りにできる、まかせることができる、信順することができる、帰命することができる、・・・のです。限りがあるもの、壊れるもの、なくなるものは頼りにできません。“おぼれる者はわらをもつかむ”のですが、それでは沈むのを待つしかありません。何がよいのか悪いのかがわからない私がつかむものは、だいたいわらの類です。
 私がつかまずとも、阿弥陀さまが抱き取ってくださいます。それが「超世無上」です。「選択本願」です。「摂取不捨」です。「光明無量」です。「寿命無量」です。真宗の法話のなかでよく耳にする言葉ではありますが、あまりにもおろそかに聞き流しているに過ぎません。聞いても聞ききれないお心の結晶です。

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2010年6月23日 (水)

念仏は日常の仏教生活

 仏教の教えを日常生活のなかに生かしたい、というのは現代人が求めていることの一つではないでしょうか。この世を快適に、よりよく生きるために、仏教の使えるところがないか・・・という視点です。たとえば『ダンマパダ』(『法句経』)では、生き方や心の持ち方などを示していますから、とてもわかりやすい、身近な仏教として味わうことができましょう。しかし書かれていることはわかりますが、それを実践することはそんなに簡単なことではありません。

 仏教でいちばん大切なことは、「わかる」ことではありません。どれだけわかっても、わかったことが実践できなければ意味がないのです。だからといって、仏教で大切なことは行や実践を「する」ことかと言えばそうでもありません。どれだけ行じてみても、実践してみても中途半端なものであればこれまた意味がありません。仏教でいちばん大事なこと、究極の到達点は、仏に「なる」ことです。涅槃あるいはさとりを「得る」ことです。
 この世で生きている者にとっても、理解→実践→到達(~になる)というプロセスがあることをだれもが知っていますから、目標地点に到達する前に理解や実践が重視されます。なかなか容易に到達することができませんから、「結果よりもプロセスが大事だ」という意見も出てきます。この世の生き方を考える上ではそれを否定しませんが、仏道を歩む者にとっては仏になる(成仏)ことできなければ、人間に生まれ生きることの意味はないのです。

 だからといって、何も知らずにさとりの世界に到達することはできないでしょう。また何もしないで成仏することもあり得ないことです。ただ、どれだけ知っても限界があり、仏教の教えのすべてなど知りえること、わかりうることなどあえりえないということです。どれだけ実践してもさとりの境地に至るまで徹底することはきわめて難しいということです。
 念仏の教えは、その難しさを如何に乗り越えるかという阿弥陀さまの工夫と努力の結晶なのです。つまり、理解が浅くても、実践が及ばなくても、仏にしてみせるという強い願いから始まっているのです。私たちが日常生活しながら教えを生かしたい・・・という中途半端な思いではなく、日常生活することのなかで阿弥陀さまの智慧と慈悲を実践させ、仏に成らせてみせるというのです。
 それは念仏することです。称名念仏、つまり「南無阿弥陀仏」と声に出して念仏することです。それが阿弥陀さまの願いにかなうことなのです。称える者を仏に成らせる、念仏する者が仏であるというはたらきをつくりあげてくださっているのです。
 冒頭に書いた、仏教の教えを生活のなかに生かしたいという思いをもつなら、自ら実践しなければなりません。何もしないで「~になる」ことはないのですから。でも、それが仏教者にとっての到達点ではありません。何もできない凡夫こそ、仏に成らせてみせると誓っておられるのが阿弥陀さまなのですから。それを私自身で確認することができます。それは念仏することです。
 日常生活のなかで念仏することができれば、教えが日常生活のなかで生きてきますし、日常生活の一コマ一コマが教えそのものになってきます。それがこの世における念仏の功徳ですし、日常生活のなかで生きる仏教(=念仏)でもあります。

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2010年6月21日 (月)

かなしきかなや・・・

 親鸞聖人は、自身のことを僧侶と意識してはおられませんでした。自ら「非僧」といいつつ、「非俗」であるともおっしゃっています。こだわりはなく、ただ法を聞き、法を説くという仏道を力強く歩まれるのです。

 私たちも自分の思いや信念にしたがって力強く生きていきたいと思っています。自分の思い通りになることや、自分の思いが多くの人に受け止められたり理解してもらうことは大きな快感ですから。ところが、思いや信念を曲げなければならないときがあります。最初から信念を曲げようとは思ってはいないのですが、自分を守るために、できるだけ好条件で生きるために、目の前に迫ってきた事態に本能的に自分の思いとは違った発言や行動をしてしまうときがあります。とっさに自分を守るだけなのです。そのときは、そのような対応をしたことが後々、どのような結果を生むのかということを考えるといったことはありません。
 ところが、そんな対応の結果が、必ずしもよいものとは限りません。どうせよい結果とならないのなら、もっと自分の思いを強く主張すればよかった・・・と思います。しかし、後悔先に立たずです。
 いずれにしろ、そのときどき、自分の能力の及ぶ範囲で自分の思いを基準にして生きているのが、この私です。私たちには先を見通す力など何もありません。なるようになる、としか言いようはありません。なるようになるということは、結果がどのようのものであったとしても、そのことをすっかりと受け入れることができる度量が必要です。なるようにしかならないのだから、受け入れなければしかたがない・・・と思っている人は、かなりの不安を抱えている人でしょう。
 受け入れなければならないと思っていても、もしかして受け入れられないかもしれないかも・・・なんて思ってしまうと、次の瞬間を祈るしかありません。“思い通りになりますように。”“何が起こったとしても、想定内で収まりますように”などと。

  かなしきかなやこのごろの
  和国の道俗みなともに
  仏教の威儀をもととして
  天地の鬼神を尊敬す
    (『正像末和讃』註釈版p.618)
悲しいことに今日の日本の僧侶も俗人もともどもに、表面は仏教の衣をまとい威儀をととのえてはいるけれど、心の内では天地の鬼神をうやまい、現世の祈祷につとめている。

 信心の有無、僧俗の違いに関わらず、凡夫である限り、必ず次の瞬間に期待し、期待しないことが起こらないようにと望んでいるのです。仏事を執り行うときも、形にこだわり、世間体にこだわります。仏事をしないときも、しないことにこだわり、自分の思いにこだわります。よいことがあってもこだわり、悪いことが起こってもこだわります。次の瞬間にもこだわり、その先の私のありようにもこだわります。これらもすべて「現世の祈祷」でしょう。いつも、自分中心にこだわりをもち、いつもよい結果が出ることを望んでいます。私にはそれしかないのです。天地の鬼神を尊敬する思いではないでしょうか。

 そんな私の思いや行為とはまったくちがうところで、どんなことがあっても安心してまかせよ、と寄り添ってくださる阿弥陀さまがおられるのです。この阿弥陀さまの心に、私の心が向かないことが「かなしきかなや」というお心でしょう。これこそ阿弥陀さまのお心です。

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2010年6月20日 (日)

一切鬼神をあがむめり

 「浄土真宗は占いも現世の祈祷もおこないません」ということをよく聞きます。これは教科書どおりの答えではありますが、それを教えている人の答えではありません。教えている人の自分の思いを好きなように話すのがよいと言っているのではありません。教科書の答えが、その人のなかを通って出てきた答えであることが大切なのです。
 占いも現世祈祷もおこなわないのではなく、占いも祈祷もする必要がなくなるのです。ことばで説得して理屈はわかっても、占いや祈祷に頼らなければならない心があるのなら、この説得は意味がありません。むしろ、この説得が心を逆なでして反発となってしまうこともないとは言えません。
 聞き、読んできたことを、そのままオウム返しのように話をすることは可能です。ただ、勘違いしてならないのは、人に教えることが優先する前に、自分自身がどう聞いているのかということが大切なことです。

  外道・梵士・尼乾志に
  こころはかはらぬものとして
  如来の法衣をつねにきて
  一切鬼神をあがむめり
    (『正像末和讃』註釈版p.618)
姿は僧侶であっても、その心は外道の梵士や尼乾志と変わるものではない。外見は仏教の法衣を身につけてはいるが、あらゆる鬼神を拝み、現世を祈っているのである。

 外道は仏法とは違う教えです。お釈迦さまご存命のとき、当時のインドで盛んであったバラモン教の聖典であるヴェーダ中心とした教えを批判した自由な考えをもつ思想家たちが、いろんな教えを説きました(六師外道)。それに対して、お釈迦さまはそれらの教えのよいところは認めますが、極端であったり、不完全であったりしますから、仏教とは一線を画します。
 梵は清らかなという意味があって、梵士(ぼんじ)は天の神に仕えるものです。インドでベーダーを読んで祭祀をおこなうバラモンのことです。尼乾志(にけんじ)は裸になって修行を行う人です。梵士も尼乾志も外道の代表として挙げてられます。

 阿弥陀さまの心は、私の心とは裏腹ですから、自分の心にまかせてしまうと外道の教えに流れていってしまいます。外道であったとしても僧侶の姿をすることはできます。訓練すれば、僧侶らしく振る舞うことも可能です。格好、姿が大事なのではありません。大事なのは阿弥陀さまに帰依することができるかということです。
教科書を覚えるほど読み、阿弥陀さまの心を覚えるほど聞いても、自分の心のおもむくままに鬼神、つまりインド、中国、日本の神々をあがめ拝んでしまっています。阿弥陀さまに心が向いていない自分に気づかされないと、いつまでたっても教科書を棒読みすることで終わってしまいます。

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2010年6月19日 (土)

僧こそがいやしきもの

 かつて、医者、弁護士、政治家、警察、学校の先生などの人たちは、偉くて尊敬に値する人たちでした。将来、あんな立派な○○になりたい・・・という、そういう仕事でもありました。もちろん今でも人びとの上に立ち、私たちを導いてくれる人たちには違いありません。ところが、その重みは年々軽くなっているような気がしてなりません。すべての人たちではなく、ごく一部の人たちが、道徳的、倫理的に道を踏み外す人がいるからです。社会的な地位も高く、その影響力が大きいものですから、道を外した行為があると大々的にマスコミが取り上げます。ある事件なり問題が生じ、大騒ぎになっても時間の経過で多くの人は忘れてゆくのですが、忘れる前にまた次の事件や問題が起こるものですから、人びとの頭のなかには悪い印象が残り続けてしまうようです。

 先に挙げた職業は、きわめて専門性の高い仕事です。しかしそれは近代社会になって、職業の分業化が進むなかで鮮明になってきたことでした。それまでは、専門性が高いだけではなく、さまざまなことに精通し、幅広い人間性をもつ人が多くの人たちに慕われていたのではないでしょうか。その代表はやはり医者であり、僧侶であったと思います。医者は身体の側から、僧侶は心の側から人間全体をサポートしたのでしょう。

  僧ぞ法師のその御名は
  たふときこととききしかど
  提婆五邪の法ににて
  いやしきものになづけたり
    (『正像末和讃』註釈版p.618)
僧や法師という名は尊いものだと聞いていたけれど、提婆がお釈迦さまの戒律に背いてつくった五つの邪法に似て、いやしい者に尊い名前をつけたようなものだ。

 親鸞聖人ご存命の頃、僧兵とも山法師ともいわれた奈良仏教や比叡山の武装した僧侶たちが悪名をとどろかせていたようです。白河法皇(第72代白河天皇)は、賀茂川の水(鴨川の流れ)・双六の賽(の目)・山法師(比叡山の僧兵)」を天下の三不如意(自分の意のままにならないもの)として挙げているほどです。

 提婆はお釈迦さまのいとこです。お釈迦さまの教団にいたのですが、お釈迦さまと対立して弟子を引き連れて別の教団をつくります。そこで提婆がお釈迦さまが示し実践されていた以上にきびしい行を行います。しかしお釈迦さまはそれを「五邪の行法」だとされました。なぜなら、お釈迦さまには負けるものかという心、お釈迦さまよりもきびしい行をおこなうという評判、名声を気にし、いつまでたってもこの世のなかでよりよく評価され、尊敬され、自分が際立ちたいという思いから離れられないのです。これはじつにいやしい心です。
 同じような人たちが、親鸞聖人の時代にもいたのです。いやしい心からはなれるべく道を歩む人であるはずの僧や法師が、名前だけになってしまっていたのです。それは親鸞聖人の時代だけではなく、社会がどれだけ変わっても、この世に執着し、自分の貪欲と瞋恚にとらわれた愚かな僧侶がいるのです。
 「それはまさに私である」。まさにそうとしか聞こえてこないし、そうとしか言えないのが私自身の心です。

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2010年6月18日 (金)

仏法の第五の道としての「聴聞」

 現代の日本人は仏教についてほんとうに無知だと思います。公教育のなかでは宗教教育はできないことになっていますから、生徒や学生たちはもちろんですが、先生も仏教についての基本的な知識すらもっていません。育った家庭のなかに仏教的なものがなければ、もう風聞もしくは市販の本で身につけるしかありません。ところが、風聞は、まちがいだらけで、きわめていい加減としか言いようがありません。市販の本も、形が中心になり、知識も断片的なもので終わってしまいます。ハウツーもののような本1~2冊で仏教が理解できようはずはありません。

 しかし、親鸞聖人の時代も、人びとの仏教に対する思いや仏教的行為は、現代社会とそれほど違っているようではありません。現代社会に限らず、いずれの時代もこの世のなかで自分を中心に置いて、自分のためにものごとが成就することを願っているのです。

  五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく
  外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり

  かなしきかなや道俗の 良時・吉日えらばしめ
  天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす
    (『正像末和讃』註釈版p.618)

 このように自分のなかにある欲を満たしてゆくための教えが仏教ではありません。浄土に生まれたい、阿弥陀さまの願いを聞きたい・・・というのは、元より私のなかにある欲ではありません。仏法に出遇い、阿弥陀さまの願いを聞き続けることによって、何が大事なものなのかを次第に感じるようになっていくのです。
 仏法は、仏さまの願いを知ることであり、その願いをいただくことです。仏さまのいのちをいただくものとも言えましょう。そのいのちをいただくためにはどうすればよいのか?
 戒・定・慧の三学が常に語られます。「戒」は十悪をおかさず、自分の生活を正しく保つために常に戒めをもつことです。戒律を守って修行をすることです。「定」は心が散らぬよう、いつも安定した穏やかな心を保つことです。内観することです。「慧」は智慧を身につけることです。研究することとでも言い換えられましょうか。それともう一つ、祈祷によるという仏教があります。たとえば、護摩をたき、真言(マントラ)を唱え、祈るのです。

 だれもが仏道のこの四つの入り口を求めて、また仏道を深めてゆくためにこの四つの道を修めようとします。法然聖人も親鸞聖人も、この四つを求め、真摯に修められました。これらの道を歩まれたことは、決して無駄ではなかったでしょう。しかしこれらの道をどれだけ深めていっても、阿弥陀さまのまことに遇うことはできなかったのです。
 親鸞聖人は「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」(『教行信証』註釈版p.472)と述べられ、これら四つの道が雑行であり、阿弥陀さまの本願に出遇われたのです。四つの道ではなく、聴聞という道を歩み始められたのです。すべて阿弥陀さまが仕上げてくださっているのですから、それを聞く(聴聞する)しかないと徹底されたのです。

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2010年6月17日 (木)

大切なことを聞き逃している

 「阿弥陀さまっておられるの? 阿弥陀さまって、木を彫ってあるか、絵に書いてあるだけじゃない」
 「浄土や地獄って、ほんとにあるの? 行って帰ってきた人はいないじゃない」
 「念仏でほんとうに助かるの? 念仏を称えたところで、何も起こらないし、助かった気持ちになれないよ」
 「自分の五感で感じることでないと納得がいかないし、実証されなければ信じられない。そうでなければ、ただの物語でしかないでしょ」
 仏法を聞き始めたとき、こんな疑問が次々に湧いてきました。観察し、実験をすることで世のなかの事実を確かめることを学んだので、見えないもの、聞こえないもの、触れないものは存在しないし、不信や疑いの対象としかなりませんでした。過去・現在を問わず、世間一般にそう思っている人たちはたくさんおられたし、現におられるでしょう。

 それでは、法然聖人や親鸞聖人が帰依された阿弥陀さまはどんな存在だったのでしょうか。あるいは浄土や念仏は、空想や妄想あるいは物語だったのでしょうか。京都・比叡山で長年にわたって勉学・修行に励まれてもさとることのできない自身から目をそらさず、ごまかさずに自身をみつめられたのは、法然聖人にも親鸞聖人にも共通したところです。
 ごまかさずに自身をみつめるというのは、とても怖いことです。基本的に自分が善なる人であるという思いがありますから、善を行うことのできない自分であることを知らされるとがっかりしていまします。さらに十悪五逆の身であるとか、罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫だとみせられたら堂々と生きることに後ろめたさを感じてしまいます。しかしそれは私の胸の内に感ずることですから、黙っていればいいことです。他人にはけっしてそんな自分ではないと繕い、演技してみせています。
 それだけではもの足りませんから、誰かのあら探しをして、あの人よりはマシ、この人に比べたらまだ善い方、などと自分を正当化する道を探そうとします。

 それでも仏法を聞き続けると、たいへんなことがわかってきます。たとえば、罪悪深重ということばは、誰かと比較して、あの人よりも罪悪が重いとか深いという比較しているのではないということです。また、煩悩熾盛は、静まっている煩悩が何かの縁で突然に燃え盛るという過程や程度を示すことばでもないということです。罪悪なしには生きることができないし、無始以来の煩悩を引きずり続けているということでしかありません。
 ありのままの自分をごまかさずにみつめるということをしなくても、仏法によって目をそらすことのできない自分自身が明らかになってくるということなのです。冒頭に挙げたような疑問は、仏法から目をそらすための言い訳、逃げ口上でしかありません。
 
 自分に向けられているのは、善を行うことができない罪悪深重・煩悩熾盛の自分の姿が示されているだけではありません。怖ろしいものを抱えているありのままの私だから、放ってはおけない、摂取不捨せずにはおかないと、念仏を成就し与えてくださっているのです。その阿弥陀さまの心もいっしょに聞かせていただかなければ、仏法を聞いたことにはなりません。もしかすると、聴聞しているようでも、大切なことを聞き逃してはいませんか?

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2010年6月16日 (水)

安養にいたりてさとるべし

 民主主義の理想は、自由と平等を実現することです。しかしこの二つが人間社会のなかで完全な形で両立することはとても難しいことです。社会的に自由や平等が実現されることの難しさは、その社会を構成する人間の一人ひとりに問われるものでしょう。私も自由と平等の実現を問われています。その私のありようをみるなら、自由であることと平等であることを強く求めます。同じように他のすべての人が平等であり、自由であることを望んでいるでしょうか。これまでの学びや経験から、すべての人が自由であり、平等であってほしいと願い、行動もしてきたつもりでいます。
 “つもり”であるというのは、私自身の気持ちに余裕があるとき、私の自由と平等が決定的に脅かされることのないなかでの思いや行動であったからでしょう。

  平等心をうるときを
  一子地となづけたり
  一子地は仏性なり
  安養にいたりてさとるべし
    (『浄土和讃』註釈版p.573)
一切の衆生に平等な心で向かうことができるときを一子地という。一子地は仏の心そのものである。その平等心は安養浄土に往生させていただいてはじめて得ることのできる境地である。

 ここで平等心というのは、どのような人をみても愛憎も離れ、わけへだてることなく接する心です。それを一子地とも表されています。一子地は、すべての衆生をわがひとり子のように思う慈悲の心です。
 自分の大切な子どももイヤな感じのする他人の子も、同じいのちをいただいている子ども。・・・と思いたいのですが、心の奥底では、どこかでこの二人の子どもを私の天秤にかけています。それがこの娑婆を生きてゆく私の心です。
 浄土往生を遂げさせていただくことで、私の思いへのとらわれから解き放たれ、慈悲による平等が実践できるのです。

  如来すなはち涅槃なり
  涅槃を仏性となづけたり
  凡地にしてはさとられず
  安養にいたりて証すべし
    (『浄土和讃』註釈版p.573)
如来はそのまま涅槃である。涅槃は仏の心そのものである。その究極の境地は、この娑婆世界に生きる凡夫ではさとることはできない。浄土に往生してさとることができるのである。

 さとりの究極の境地が涅槃です。仏の心です。その心はこの娑婆世界ではさとることができないというのです。この世を頼り、わが身を頼ることができないということです。この世、この身でさとれないものが往生浄土をさせていただくことによって、涅槃の証をこの身にいただくことができるのです。

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2010年6月15日 (火)

無明の大夜をあはれみて

 お釈迦さまはこの世において初めて阿弥陀さまの真実と出遇われ、阿弥陀さまのはたらきを体現され、阿弥陀さまの願いを説かれた方です。阿弥陀さまの願いとはたらきは、お釈迦さまがこの世におでましになられる前からあったのです。阿弥陀さまの教えは、お釈迦さまがまったく新たに創り出されたものではありません。
 しかしそのお釈迦さまが説き明かしてくださったがゆえに、私たちは阿弥陀さまの願いとはたらきを知ることができたのです。そしてお釈迦さまがお説き示してくださったように、阿弥陀さまの願いとはたらきはいまも絶えることなく、休むことなくはたらいています。

  無明の大夜をあはれみて
  法身の光輪きはもなく
  無礙光仏としめしてぞ
  安養界に影現する
    (『浄土和讃』註釈版p.572)
真如の世界を知らない無明の衆生をあわれんで、御身から限りない光を放たれ、何ものにもさまたげられることのない無礙光仏となって、安養の浄土にあらわれてくださったのが阿弥陀仏である。

 自分にふりかかる苦しみの原因は世間や他人によって押しつけられたものだと思い、世間や他人を憎み、うらみ、不平・不満いっぱいの毎日で、心が安まることがありません。しかし凡夫の苦しみはすべて無明を根源とする煩悩から発生します。となると、苦しみはふりかかるというより、わが身からわき出してくるということではないでしょうか。
 苦の原因が自分の内にある煩悩にあって、それは無明というのは、ほんとうのことがみえない、事の事情を正しく理解できない私のありようをいうのです。それは「大夜」、真っ暗闇の長い長い夜にたとえられています。そのままで決して明けることはありません。
 それゆえ阿弥陀さまとなって願い、はたらき続けてくださっているのです。阿弥陀さまは、私がそのことを知っているか否か、わかるか否かということを問題にしておられるわけではありません。

  久遠実成阿弥陀仏
  五濁の凡愚をあはれみて
  釈迦牟尼仏としめしてぞ
  迦耶城には応現する
    (『浄土和讃』註釈版p.572)
始めもわからないほどの遠い昔に阿弥陀さまは仏となられた。しかし五濁悪世の凡夫をあわれんで、この娑婆世界にそのはたらきを示すために、お釈迦さまとなって今から約二五〇〇年前にインドの迦耶城にあらわれてくださった。

 親鸞聖人はお釈迦さまのことを、経典に書かれているとおり、阿弥陀仏の化身であるとおっしゃるのです。「応現」とは、衆生の機に応じて形を表されることをいいます。つまり阿弥陀さまのお心は、お釈迦さまの姿となり、説法という形をとってこの世に現れ出ずることが、私が教えを聞くにはもっともふさわしいことであったのです。ですから、私は仏法と出遇うことができたのです。
 お釈迦さまがお生まれになり、出家、成道され、入滅されたというのは、歴史的な事実ではありますが、それは同時に私に仏法を聞かせるための宗教的な事実であるのです。

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2010年6月14日 (月)

阿弥陀仏の御名をきき

 教えを聞くというのは、名号のいわれを聞くのだと教えられます。南無阿弥陀仏の生起本末を聞くということです。阿弥陀さまが、なぜ南無阿弥陀仏の名号を仕上げてくださったのかという理由を聞かせてもらうということです。それがどのようにはたらいているのかということを聞くということです。
 私たちが教えを聞くときには、私の思いと私の都合が優先してしまいます。その時の気分、体調に左右されてしまうこともあります。だれが話をするのか、話を聞くときに横にだれが座っているのかということも気になることもあります。私のなかにそんなものが詰まっていると、聞くべき話が聞けません。

 名号のいわれを聞くということは、名号の歴史を聞いて知識を増やすことではありません。名号の物語をおもしろおかしく聞くことでもありません。名号、南無阿弥陀仏というのは、阿弥陀さまが私のために仕上げてくださったものです。私に向けて、私の身にかけて聞き遂げねばならない話であると心得て聞く話なのです。

  阿弥陀仏の御名をきき
  歓喜讃仰せしむれば
  功徳の宝を具足して
  一念大利無上なり
    (『浄土和讃』註釈版p.562)
南無阿弥陀仏の名号のいわれを聞かせていただき、よろこびとなり、讃談し、合掌礼拝すれば、名号が功徳の宝となって、これ以上ない涅槃という大きな利益を得るのである。

 南無阿弥陀仏の話をどれだけ聞いても、心によろこびが湧くわけではないし、口に仏徳讃談をすることばが出てくるわけではないし、身をもって合掌礼拝するようなこともない・・・という人は数多くおられるでしょう。聞くべきことが聞けていないのです。聞くべきことが話されていても、それをわが身に受けて聞けていないのです。心の底からよろこべないのに、仏徳讃談などできようはずはありません。ましてやよろこべない心での合掌礼拝は形だけです。周りを見て、みんなに合わせて合掌礼拝することはあっても、スキッと晴れた心ではないでしょう。

 南無阿弥陀仏のいわれを聞けば、私のよろこびとなるように仕上がっているのです。今風にいうなら、過去世から迷いに迷ってきた私自身の現状分析がなされ、重要課題が指摘され、その問題解決のために為すべき処理がすべてなされています。それを聞いてうなづけばよいのです。
 ただ、あまりにも間違いのない現状分析ですから、それへの驚きや反発があります。課題はあまりにも重く、深刻なので受け入れたくはありません。解決処理は、課題が重く深刻なだけに簡単なものではありません。とてもわが身に受けてできるようなものではありません。それを阿弥陀さまが換わってやってくださっていることも信じられません。いわば、絶対治らぬ難病を告知され、それを艱難辛苦の道を歩んだ名医が治療してやろうと申し出てくださったことに、不信を抱くようなものです。

 凡夫には難しいことはよくわかりません。法蔵菩薩のお力をしても五劫もの長い間の思惟によるものですから,わからないのが当然のことでしょう。阿弥陀さまは、そんな難しい問題を解決された智慧と光の仏であるがゆえに、諸仏諸菩薩から敬われるのです。

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2010年6月13日 (日)

専修の人は千無一失

 人生のすべてがバラ色に輝いている人はいないのではないでしょうか。だれもが重さ、暗さ、苦しさなどを抱え、そこから逃げたくてなるようなことが何度も経験されてきたと思います。これからも、そんなものとたびたび出遇っていかなければならないでしょう。

  専修のひとをほむるには 千無一失とをしへたり
  雑修のひとをきらふには 万不一生とのべたまふ
 
  報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる
  化土にうまるる衆生をば すくなからずとをしへたり
    (『高僧和讃』註釈版p.594)
専修の人をほめて、千人中一人も往生しないものはないと言い、雑修の人をきらって、万人中一人も往生するものがいないと述べられた。
専修念仏の人は少ないため、報土に往生するものがまれであり、自力雑修の人は多いため、化土に生まれるものが多いと嘆かれた。

 「専修」とは、他の行にはめもくれずにひたすらある特定の行を修することですが、ふつうは念仏を修することをいいます。もちろんここでの「専修のひと」は念仏の行者のことをいいます。それに対して「雑修」は念仏以外のさまざまな自力聖道の行を修することです。「雑修のひと」が報土に往生することは万人に一人もないというのです。
 報土往生のためにどの道を選び取ってゆくかということが重要なことですが、それは不必要なことを捨ててゆくということでもあります。この捨ててゆくことがなかなかできません。自分で間違いがないと信じ、善いと思うことを捨てるというのはとても難しいことです。阿弥陀さまの願いにかなわないことにどれほど力を入れても、詮ないことです。

 阿弥陀さまの願いにかなう称名念仏を修する人は多くありません。称名念仏できない時代ですし、社会です。そして称名念仏できない私です。その身をまかせよ、という阿弥陀さまの声を聞けないまま、ただただ自分の力を頼り信じているのです。
身体のどこかで、自分の力に頼りきっていることで力が入り、かなりの無理をしながら生きていることを感じています。そんな生き方に、あるいは人生の歩みにしんどさを覚えています。今生の生きる様と、後生の浄土往生とは別物であろうはずはありません。苦しみや悲しみ、自分の抱える業、さらには心の闇や重さを、念仏とともに阿弥陀さまにまかせればよいのです。それは自分の人生から逃げることではありません。阿弥陀さまとともに生かさせていただくことです。

 阿弥陀さまとともに生かさせていただくためには、阿弥陀さまにわが身をまかせることができるか否かということは、きわめて重要なポイントではないでしょうか。この世を生きる限り、我執を離れることはできませんし、いつまでたっても自分を信じて生きようとも思います。しかしその自分をしっかり支えてくださっている阿弥陀さまがいてくださるのです。
 ことばのレベルではなく、南無阿弥陀仏とまかせることができたときにわかることです。人間の知的な営みではなく、阿弥陀さまの慈悲のはたらきなのです。

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2010年6月12日 (土)

【ひと休み】AMD48

 「AKB48」というのはいったい何ものか?その正体を知りませんでした。

 ネットで調べたら、女性アイドルグループで、秋葉原に専用劇場をもち、そこで毎日公演をおこなっているようです。「会いに行けるアイドル」がコンセプトで、メディアを通した遠い存在だったアイドルを身近に感じ、ファンも彼女たちの成長過程を見て、ともに成長してゆくというプロジェクトだというのです。
 プロデュースは秋元康。放送作家と称していますが、作詞家、音楽・テレビ・映画プロデューサー、脚本家、映画監督、漫画原作者、タレント、さらには京都造形芸術大学副学長兼芸術学部教授を務める時代の寵児の一人です。

 「AKB48」は知りませんでしたが、「AMD48」は知っていました。「阿弥陀さまの四十八願」です。阿弥陀さまは、すべての有情が生まれるべく浄土という国土を自らプロデュースされました。それだけではなく、いつでも、どこでも、だれにでも通用する、量り知ることのできない48の願いをたてられ、すべての衆生に寄り添い、念仏する身となれとはたらいておられます。
 人間世界では、ともに成長するということがとても大切にされますが、一方が無関心であったり、そっぽを向いてしまうと「ともに」という世界は生まれません。そこで、条件を付けず、私のところに「会いにきてくださっている阿弥陀さま」なのです。

 「AKB48」も魅力があるのかもしれませんが、せいぜい数年でしょう。メンバーの代替わりによって、時代の流れによって、その神通力も失せていくでしょう。
 しかし「AMD48」は、無始以来、つまり始まりがいつかもわからない昔から今日に至るまで、いっぱいの魅力を詰めて、私を喚んでくださっているのです。

 「AMD48」は、私たちがファンクラブに入らなくても、阿弥陀さまが私の親となってくださっているのです。

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回向句

 回向(廻向)は、振り向けるということです。仏教では、教典の功徳や善行による功徳を他に振り向けようと願うことです。回向句あるいは回向文と言われるものは、読経のあと最後に称える偈文です。一般には、功徳となる仏事を行い、それを自己のためだけではなく、有縁の人々に振り向けるために読誦されると考えられています。特に故人に振り向け、その力よって故人を弔う、つまり追善供養のための偈文と考えられています。

 しかし浄土真宗では、読経も回向文も追善供養のためのものとは考えません。阿弥陀さまの徳が自分に振り向けられていることを知らされ、確認するためにおつとめされるのです。
 浄土真宗の回向の文は、善導大師の『観無量寿経疏』という書物のなかにある「帰三宝偈」の末尾の文言がもっとも親しまれています。

<原文>
 願似此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国
<読み下し文>
 願はくはこの功徳をもって 平等に一切に施し
 同じく菩提心を発して 安楽国に往生せん
<現代語訳>
 願いとすることはこの教えの功徳を、わけへだてなく平等にあらゆる人びとに伝え、ともに阿弥陀如来よりたまわる同一の信心をおこして、浄土の往生する道を歩んでいきたい。

 これ以外の回向句も使われます。たとえば、「出棺勤行」の経文は「帰三宝偈」ですから、最後に「願以此功徳」の文が出てきます。重なることを避けて、龍樹菩薩の『願往生礼讃偈』の「十二礼」の最後の四句が用いられます。

<原文>
 我説彼尊功徳事 衆善無辺如海水 所獲善根清浄者 迴施衆生生彼国
<読み下し文>
 われ、かの尊の功徳の事を説くに、衆善無辺にして海水の如し
獲るところの善根清浄なれば、衆生に回施してかの国に生ぜしめん
<現代語訳>
 私は、かの如来の功徳のことをこのように説く。そのもろもろの善がはてしなく広がるさまは、大海の潮のようである。如来より賜る善根は清浄であるから、この徳を多くの人びとにも分かち伝え、ともに阿弥陀如来の浄土に往生しようと願うものである。

 そのほかに、次のような回向句が使われています。一般にはあまり知られていませんが、私は夕方のおつとめの時、父や母が称えているのを聞いて覚えてしまいました。

<原文>
 世尊我一心 帰命尽十方  無碍光如来 願生安楽国
  (『無量寿経優婆提舎願生偈』天親菩薩・浄土論)

<原文>
 其仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国 自致不退転
  (無量寿経下巻)

<原文>
 光明偏照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨
  (観無量寿経)

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2010年6月11日 (金)

仏法は初ごとと聞け

 講談や落語などの起源を訪ねると、それは浄土真宗の僧侶の説教にありました。かつて、講談師や落語家は、浄土真宗の説教を聞いて、その間を真似、技を磨いたといいます。それほど浄土真宗の説教がおもしろかったし、説得力を持っていたのでしょう。
 また、今から半世紀前までは、浄土真宗のお寺には、老若男女を問わず、多くの人たちがお参りされたとも聞きます。
 ここで、浄土真宗のすべてがすばらしかった・・・とほめちぎろうとしているのではありません。現代のように、多くの娯楽が身近にある時代ではありませんでしたから、お寺に楽しみを求めて行ったということも否定できません。お寺の大きな行事、法要のときには、田舎の小さな寺の門前にもいくつもの店が臨時に出店したようです。また、多くの人が集えば、そこで多様なコミュニケーションもできたのでしょう。

 その後、街に娯楽施設があふれ、家のラジオやテレビに釘付けになり、車の普及で行動範囲が広がりました。そのほかにも多種多様な楽しみ方が生まれていきます。飽きればまたすぐ新しい娯楽が生まれ、底なしの人間の欲も、次々に満たされ続けました。
 しかし満たされ続けることに飽きた人たちは、フッと人生を振り返ります。「これでいいのかしら?」「ほんとうに私ってしあわせなのかなぁ?」「何のために人間に生まれてきたのだろう?」「いつまでこうして生きることができるのか?」などと。

 仏法は阿弥陀さまが説かれた真実、まことです。その説かれ方がどのようなものであれ、二つも三つも真実があるわけではありません。そのことがわかってくると、仏法は説き方の上手下手、おもしろいか否か、わかるかわからないか・・・という問題を超えてしまいます。いつも私に変わることのない阿弥陀さまの願いがはたらいているだけです。
 この身を楽しませるための聴聞ではありません。阿弥陀さまの智慧の光に照らされてみえる私は、じつに醜悪です。楽しむどころから、悪業煩悩を暴かれ、その罪業に苛まれます。しかしそれが私のほんとうの姿です。そんなものは聞きたくも観たくもありません。つまり、仏教はおもしろおかしいという話ではありません。
 にもかかわらず、多くの人たちが寺に足を運び、仏法を聴聞したのでしょうか。阿弥陀さまの願いとはたらきを聞かずにはおれなかったのです。

 「ひとつことを聞きて、いつもめづらしく初めたるやうに、信のうへにはあるべきなり。ただ珍しきことをききたく思ふなり。ひとつことをいくたび聴聞申すとも、めづらしく初めたるやうにあるべきなり」(『蓮如上人御一代記聞書』註釈版p.1274)

 ちょっとだけ聞いて、飽きて、また次のおもしろいものを求める。珍しくなければそれを捨てて、また次のものを求める。そんな連続によってわが身を楽しませているだけのことです。しかし阿弥陀さまの願いとはたらきは変わりません。
 それを何度聞いても初めてのように聞くことが必要だと蓮如上人は申されています。阿弥陀さまの願いほど、私の思いと違い、世の動きと違う珍しいことはないのです。それを、すでに聞いたこと、知っている、わかっている、・・・という聴聞のしかたが間違っているのです。

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2010年6月10日 (木)

聴聞はかどをきけ

 私たちは、新しく聞いたことすべてが頭のなかに入るわけでもありませんし、すべてが身に付くわけではありません。大事だと思った話は真剣に聞いているつもりで、よくわかったとも思っていても、後で思い起こすとほとんど抜けてしまっていて、頭には残っていないということがよくあります。
 講演の聴衆者から、よくわかったと高い評価を受ける話は、聴衆者がすでに知っている内容が8割、初めて聞く内容が2割だそうです。逆にすでに知っている内容5割、初めて聞く内容が5割でも難しい話だと思われ、居眠りする人も続出すると聞きました。

 ただ、仏法というのは人間が蓄積した知識の体系ではありません。阿弥陀さまの智慧によって見通されたまことです。ですから、“だんだんわかってきた”“理解が深まってきた”という知識の蓄積が増えれば必ず「信」となるというわけではありません。
 阿弥陀さまの願いは、お経に書かれているだけではなかなかわからないものを、先師方によって、懇切ていねい、こと細かに述べられています。必ず理解できるように書かれています。それを噛みくだいて阿弥陀さまの願いを説いてくださっても、心がスキッと晴れないのです。それが説かれていることへの不信であり、自力疑心です。

 仏法を真剣に聞いているのに、どうして心が晴れないのか? 仏法の話題の絶えぬ家に生まれ、長い間聞いてきたのに、どうして自力疑心のままなのか? わが身を深く見つめ、仏法と真向かいになる人のなかには、そんな思いをもっている人が少なからずおられます。
 蓮如上人は、「いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと云々。」(『蓮如上人御一代記聞書』註釈版p.1292)と述べておられます。ただ仏法を聞くしかないのです。しかしただ漠然と聞いておればよいというものではありません。「讃嘆のときなにもおなじやうにきかで、聴聞はかどをきけと申され候ふ。詮あるところをきけとなり」(『蓮如上人御一代記聞書』註釈版p.1249)とも言われています。

 「かど」「詮あるところ」というのは要点です。つまり、いちばん大事なところを聞き逃しているのです。大事なところは心に響いてくるところです。響くように説かれているのに、そこを聞き逃してしまっています。
 教えの「かど」は、ことばを換えて書かれていますし、また観る視点を変え、さまざまな比喩を用いて説かれています。大事なところに気づくための工夫は、ありとあらゆる方法でなされています。私の思いにとらわれてしまっていますから、私の思いから出ることができません。いつまでも自分の思いのなかでぐるぐるまわって、出口がありません。阿弥陀さまの歯車とかみ合わず、空回りしているのです。

 阿弥陀さまの心が私に向かって発せられているのです。私の心を一方的に阿弥陀さまに向けても聞ける法ではありません。

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2010年6月 9日 (水)

私は教えと真逆に生きている

 仏教は「仏」になることが目標であり、この世の理想の生き方は「仏」になるために示された生き方をするということです。それは善を為し、悪を為さず、心を浄くすることです。
 その反対の生き方は、教えとは真逆の生き方です。つまり自分の心にすべてをまかせて生きる生き方です。

 私たちは生まれてから後、さまざまな教育を受けてきましたから、理性をはたらかせて生きることができます。理性によって、すべてを自分の本能的な思いにまかせるという生き方にブレーキをかけています。他人の目を気にすることもあります。そうしないと、社会的秩序が乱れてしまいますから、結局は自分自身に多くの問題が返ってくることを知っているからです。ところが、人生のなかで、ブレーキの効き方がだんだん甘くなってしまうことがあります。教育、理性、秩序というものに問題があるわけではなく、私の側の問題のようです。
 ブレーキの効きの甘さは、地域的なつながりや、家族親族や師や友人などによって指摘されることがあります。しかし、お互いが気づかいあう関係は、時には鋭く対立することもあります。だからといって、なにもかもほんわかムードで進まないのが人間社会です。いつもきびしいところにだけ身を置くことは、絶えられませんから、だれかにほめられ、はげまされ、なぐさめられ、・・・といった経験も大事になってきます。こうしてみると、どのようにでも生きることができるのです。

 そういうことからすると、仏教の生き方に妥協はありません。さとりに至ることができなければ、「仏」にはなれないということです。つまり迷い苦しみの輪廻転生の世界を経巡るということです。
 そんなことを聞いた世間の人びとは、「それでもしかたがない」「私はさとりなど求めているわけではない」「迷い苦しみの世界を輪廻転生するなんて信じられない」などと言うでしょう。目先のことにとらわれ、先を見通すことなどできない私たちは、仏教の教えをとても軽く見ています。何を教えているのかを知らない人、間違った教えを身につけている人たちもずいぶんいます。
そういう凡夫に、阿弥陀さまは南無阿弥陀仏を与えて、称えよと教えてくださっています。

 「称えて何になる」「それは呪文か?」「いいことがあるのか?」「どんな意味があるのか」「気持ち悪いなぁ・・・」「ダサイ!」等々、おそらくマイナスイメージの方が多く出てくるでしょう。これらはすべて、教えの中身も聞かずに世間の間違った知識に翻弄されているに過ぎません。
 この世をいかに快適に生きるかということには血眼になっても、自分の出て行く後生はみえないのです。時代や社会に対応する教えであるということを望む前に、自分自身のことを気づかわねばなりません。ようやく人間に生まれることができたのに、また苦悩の世界を流転することなどだれも望むはずなどありません。私も、人間に生まれて、やっとそのことを知ることができました。
 私が、教えとは真逆の生き方をしていることに気づかせてもらうこと、それが時代と社会に対する強烈なメッセージであり、教えです。虚仮なる世間に生きているのです。仏教の真実に触れて、目を覚まさせてもらうしかありません。

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2010年6月 8日 (火)

仏教者としてどう生きるか?

 一般の人たちから仏教に対する要望を聞いてみると、「時代に対応する仏教」「社会の問題と取り組む仏教」「市民と共にある仏教」というようなものが挙げられるように思います。現代に限ったことではありませんが、時代が汚れ、社会が混乱し、人びとの生活のあちこちに不具合が生じているわけですから、そこに何とか対応してほしいと願う気持ちはとてもよくわかります。
 仏教が時代や社会に対応するということは、仏教の教えそのものが時代や社会に合わせるということではなく、時代や社会が教えに合わせるべきということでしょう。しかし教えよりも、この時代や社会で生きる人びとの思いが優先されている時代ですから、生き方を教えに合わせるということが簡単に受け入れられるとは思えません。
 そこで宗教教団や僧侶、さらには教えをしっかりわが身にいただいた人たちが、どのように時代や社会と接するかということが問題になります。

 しかし、現代社会を生きる人たちはこのように生きるべきだという明確なものがあるわけではありません。そこで、教えをしっかりわが身にいただいた人たちが思いを出し合い、念仏者はどのように生きるべきかという共通項を探るべきではないか・・・と思うのです。

 教えをわが身にいただいた者の思いではなく、教えそのもののとしてどのように説かれているのかといわれる方も少なからずおられるでしょう。
 仏教の理想は「仏」となることです。生きるということは「仏」になるための道を歩むことです。具体的に「仏」になるための道筋も示されています。悪を犯さず、善をなすことです。何よりも心を浄くたもつことでしょう。具体的には十悪(殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、両舌、悪口、貪欲、瞋恚、愚痴)を犯さないように生きることです。それは、この時代、この社会に示す生き方でもあります。現に、この十悪をおかす者も、他人がおかした十悪を被る者も、ともに苦しみを受け、嘆き悲しんでいるのですから、十悪をおかさないということは、時代を救い、社会を救うことでもあります。
 ところが、言うは易いことですが、行うことはとっても難しいことです。いのちを奪わずには生きていけませんから、食べることそのものを止めなければなりません。社会のなかで争うことなくともに生きるためには、「ウソも方便」を実践することも必要でしょう。貪欲があるからこそ、現代の豊かさや便利さを手に入れてきたのではないでしょうか。

 だからといって、仏教は非現実的だとうち捨ててしまうことはできません。わが思いで突っ走る生き方しかできない者だからこそ、わが身を振り返らせてくれますし、教えの通りに生きることができない愚かな自分を知らせてくれるのです。そこに痛みを感じることで、時代や社会のなかでの私の立ち位置を知ることができるのではないでしょうか。
 そんな教えを受け取る者も、拒否する者もいるでしょう。しかし決して強制するようなことはありません。真実に気づくことができる縁に遇えるかどうかということなのですから。

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2010年6月 5日 (土)

無明のやみをてらしつつ

 私たちの日常生活のなかには不安がいっぱいあります。その原因を探ってみれば、自分のいまの居場所がわからないということが主要因の一つにあるのではないでしょうか。空間的な居場所がわからないということなら、磁石を使ったり、地図を見たり、人にたずねたりして、いまどこにいるのかを知ろうとします。現在の居場所がわからないということは、これから先が見えない、読めないということでしょう。お先真っ暗…ということでもあります。
 これが、心の居場所がわからないとなると、なかなか面倒です。引きこもりになったり、情緒不安定になったり、心療内科を訪ねたり、…と。しかしそんな人は特別の人ではなく、心身ともに健康で気になるようなこともないと思っている人にも襲いかかってくることがあるようです。病院に行けば必ず病名がつきますから病気とも言えるのでしょうが、だれもが抱えている「業」でもあるような気がしてなりません。

  尽十方の無礙光は
  無明のやみをてらしつつ
  一念歓喜するひとを
  かならず滅度にいたらしむ
    (『高僧和讃』註釈版p.565)
十方世界をあまねく照らす無礙の光明は、疑いの無明の闇を破って他力の信心を与えてくださる。その信心をえた人は、必ず生死の迷いを超えた浄土に生まれさせていただくのである。

 無礙光は何ものにもさえぎられることのない光です。その光があらゆるところを照らし、その光の届かないところはありません。もちろん今の私も照らされていますし、これから先の私の行き先も照らされています。居場所のわからない私の心も、そのまま照らし出しています。どこにも暗やみはありません。そんな光につつまれているにもかかわらず、その光が仰ぐことができません。
 無明は、あかりが無いことです。しかし漠然とあかりが無いということではなく、「私にはあかりがない」と知らせてもらわねばなりません。つまり私が目をつむっているということでしかないのです。目をつむっていることがわかりませんし、その状態が暗やみであるということもわかっていないのです。よろこべないのは当たり前です。
 目をつむっている私も照らされています。そのことに気づかせてもらうのが聞法です。無礙光によって照らされていることを知れば、喜ばずにはおれないでしょう。それは私の力で目を開くのではなく、教えられ、うながされることで目を開かせていただくのです。

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2010年6月 4日 (金)

念仏者は無碍の一道

 鳩山首相が辞任しました。鳩山氏のことをよく知るわけではありませんが、とても善い人だろうと思います。しかし政治的トップリーダーともなれば、善い人が勝れた手腕を発揮するというわけにはいきません。かなりの権限も与えられてはいますが、難問が山積するなか、一人で何もかも決めることができるはずもないでしょう。機関・団体・組織、さらには国民や国家との関係のなかで決断しなければならず、すばらしい理念をもち、具体的な道筋を自分なりに描いてみても、最終的には思うようにいかなかったということではないでしょうか。「政治的決断」って、良い人にはできないのかもしれません。

 首相辞任という事態に対して、さまざまな評価がなされています。来月には参議院議員選挙が控えています。日本の経済的な状況にも影響があるでしょうし、外交上の問題点を指摘する人もいます。さらには、今後の日本の行方を案ずる人たちも少なくありません。良いことだ悪いことだと、正しい選択間違った選択だと、などとそれぞれの立場から発言しています。また、今後の行方については、自分たちの思いを通そうとする人たち、自分たちの思いと反することには抵抗・排除しようとする人たちがせめぎ合いが続くでしょう。
 これらの基準は自分の思いや都合に合致するか否かということでしかありません。その基準に依る限り、この世は不都合だと歎き続けなければなりません。それぞれの思いが強い自分の信念であったり、正義だと思えば思うほど、その嘆きは大きくなるでしょう。

 しかしそれは身勝手なことです。かといって、なかなか自分で気づくことはできないことでもあります。阿弥陀さまの智慧に照らされて、このわが身の姿をみせてもらわないと気づきようがありません。ずーっとみせられているのに、気づけない私ではあることも阿弥陀さまは教えてくださっています。

 『歎異抄』のなかで親鸞聖人は、「念仏者は無碍の一道なり」(註釈版p.836)と述べておられます。何が起ころうと、どのような結果が出ようと、たとえそれが自身の思いや信念とは違うものであったとしても、そのままを受け止めていくことができる生き方です。
 「無碍」は、何にもとらわれないこと、さまたげられないことです。それは、さまたげ、邪魔をしている何かが無くなるというのではありません。それらは形を変え、姿を変えて次々と現れます。しかしそれらをそのまま受け入れることができるようになる、つまりさまたげではなく向き合えるということです。

 それなら、念仏者になろう、なりたい、なれるかな、なれるでしょ、なりましょう・・・なんて思案は必要ありません。念仏することしかありません。念仏した心をもって聴聞すればよいのです。そうしないと動く心ではありませんし、気づかされる心でもありません。

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2010年6月 3日 (木)

有情の邪見熾盛にて

  有情の邪見熾盛(しじょう)にて
  叢林棘刺(そうりんこくし)のごとくなり
  念仏の信者を疑謗(ぎほう)して
  破壊瞋毒(はえしんどく)さかりなり
    (『正像末和讃』註釈版p.602)
五濁の世には、有情の邪見が火のようにもえて、叢林のようにはげしく燃えさかり、とげのついたいばらのようにおそろしい。念仏の行者をみるとこれを疑いそしり、いかり、腹だって破壊しようとするのである。

 邪見というのは、よこしまな見方や考え方のことです。この「よこしま」とは正しくないこと、横道にそれていることです。正しいか否かの基準は仏法です。阿弥陀さまの教えです。その教えのとおりに見ることができないというのが邪見です。悲しいかな、人間として生きる私たちは邪見しか持ち合わせていません。毎日毎日、どの場面においても、火が燃え上がるような勢いで邪見を押し通そうとしているのです。
 阿弥陀さまの目、つまりほんとうにものが見える目があれば、仏法の教えにある八正道のひとつ「正見」が実践できるのです。

 この和讃は、親鸞聖人の目によるものではなく、阿弥陀さまの目によって見えてきた自己の姿であり、阿弥陀さまの心にそむく世の姿でしょう。
 叢林はくさむら・はやしのことで、雑草や雑木が盛んに生い茂る様をたとえています。棘刺はいばら、からたちのことで、そのトゲのある激しさ、厳しさをたとえているのでしょう。親鸞聖人は「悪のこころしげきなり」と示されています。

 信者というのは、とてもあいまいなことばです。深い信仰をもつ人も、信仰の有無ではなく宗教教団や組織への何らかの関わりをもっておれば、信者と位置づけられます。しかし親鸞聖人は、「念仏の行者」と言われることもあります。何でもいいから念仏すればいいのだろう・・・というのではなく、念仏という阿弥陀さまの示してくださった道を行じる(実践する)者という意味です。仏道を歩む者として念仏しているのです。つまり、向いている方向は、私でも社会でもありません。阿弥陀さまの方を向いているのです。そんな念仏する者に対して、疑いそしり、破壊し、いかり腹立ちの心を起こす者がいるというのです。そんな人たちに、「毒」という一文字を付けて表されています。念仏の破壊し、いかり腹立つという、毒の心をもっているのだとおっしゃっています。

 善導大師も法然聖人も親鸞聖人も、念仏を疑い、そしり、そして弾圧する世を生き抜かれました。それほど世に念仏が満ちていたということです。また弾圧され、疑謗されても念仏とともに生きられた方々がおられたのです。
何も言われないのに念仏もしないし、念仏せよと教えられ聞かされても念仏できない私こそ、念仏を疑謗する破壊瞋毒の身ではないのでしょうか。

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2010年6月 2日 (水)

苦楽も正邪も阿弥陀さまの願いのなか

 日本の経済状況がなかなか上向きになりません。もし上向きになったとしても、かつてのように年率10%の経済成長などというのはとても期待できないでしょう。経済を支える社会的状況がすっかり変わっているのですから。
 経済的な豊かさが進むと、必要な家電製品や家具などの耐久消費財は一通り行き渡ります。その後は買い換え需要が中心です。給与の上昇も頭打ちとなり、むしろ減額される人も数多くいます。1990年代以降の度を過ぎたぜいたくやムダな事業のツケがまわってくるようにもなっています。そして何より、日本全体の人口が減少傾向に移っているということです。
 ところが、かつて豊かさを享受し、ぜいたくに慣れた日本人にとって、そのレベルを落とすことはなかなかできません。収入源や資産の目減りなど、豊かさのレベルを落とさざるを得ない状況になって致し方なく量を減らし、質を落として節約に努めているにすぎません。精神的にはかなりのストレスがあるとも思われます。

 しかし人間が求めたものは、経済的あるいは物質的豊かさだけではありません。同時に精神的な自由や平等も強く希求しました。それは権力からの自由であり、虐げられ差別された境遇から解放でした。
 日本では、それらのいずれの領域においても改善、達成されてきたと言えましょう。もちろん、個別に点検すれば問題は残っており、今後はより自由に、より平等に生きることができる社会であることを求めなければならないことは言うまでもありません。いま、私が気になるのは、目に見える豊かさや、形や制度になる改善はおこなわれても、心の内に常にさざ波が立ち、決して落ち着けない自身への対応に為すすべを失ってしまっていることです。
 この世を懸命に生きれば生きるほど、苦悩は深くなるものです。よりよく生きたいと社会システムを整備するほどに人間関係も複雑になり、なかなか心安らぐことが難しくなってしまいます。だからといって、一人で生きていくという孤独に耐えなければなりません。

 いま、心の内に潜む正体不明の何かに対応しようとしているのが心理学的療法でしょう。しかしそれらは現世的対象療法です。過去世を背負い、この世に生き、そして来世に出て行かねばらない私の問題が根本的に解決しているわけではありません。過去世や来世なんて信じることはできないし、私にとっては不用であり、問題にもならない…という思いへのとらわれそのものが、出口の見えない苦悩の根源なのです。
 どのように生きても、またどのように死んでも、心の奥底にあるすべてを阿弥陀さまにまかせることができる人だけが、苦悩の世界にあり苦悩を抱えながら、それらをよろこびとすることができるのです。それは南無阿弥陀仏という阿弥陀さまの願いに生かさせてもらうことです。
 何かが改善され、大幅に良い方向に向かう・・・といった話ではありません。盛衰も、苦楽も、喜悲も、正邪も、不自由不平等も、不具合不都合も、等・・・、すべてが阿弥陀さまの願いのなかで生かされ、はぐくまれていくのです。

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2010年6月 1日 (火)

阿弥陀さまのお慈悲に矛盾なし

 沖縄の普天間基地の移転の問題で、日米政府の間で辺野古近辺への移転が合意されました。辺野古への移転に強く反対してきた福島民主党党首は、鳩山内閣の大臣を罷免され、民主党は連立政権を離れることになりました。
 これら決定までのプロセスの一部は毎日ニュースで報道されました。客観的にみればどうなるのか・・・と注目してきたことですし、評論家的にみれば自分なりに対応の正否を得意気に語りたくなるようなことでもあります。それとも、難しいねぇ・・・というところで終わってしまうかも。
 しかし、政策決定の当事者としてみれば、この普天間基地の移転問題は政党を超え、今の日本が抱える超難問のひとつで、たいへんな迷いつつ決断しなければならないことでしょう。大局的にみれば、日本の安全保障の問題ひいては極東およびアジアの平和問題でもあります。しかし地域的にみれば、この60年以上犠牲を強いられてきた沖縄の問題でもあります。

 しかし前政権から引き継いだこの案件についての現政権の決定は、多くの人が薄々予想していたことではないでしょうか。それは、現在の民主党を中心とした政権のなかには明確な安全保障政策がありませんし、沖縄の人たちの願いである沖縄からの米軍撤退あるいは米軍縮小についての中長期のプランがあるわけでもありません。前政権も、他党からアメリカ追従外交と言われ、沖縄の犠牲を放置・先送りしてきましたが、相当の時間を費やし検討してきたはずです。わずか数ヶ月でひっくり返すことなどできないというのがあったように思います。
 そういう意味で社民党の方向性は、これまでの政府の姿勢からするとずいぶんおもいきったところがあります。だからと言って、社民党がどれほど具体的な案をもっていたのか、またもっているのかについては疑問符のつくところですが・・・。

 自民党政権下では、国家間の対立があり、自国を守るために一番都合のよい態勢を60数年から徐々に作りあげてきました。しかしそれは、アメリカやその時の日本政府が国家のことを第一に考えた結果です。沖縄の地元住民の意思は、ほとんど無視されてきたと言っても間違いではないでしょう。米軍基地のため土地を強制的に取り上げられることはあっても、基地を誘致したことはないのですから。
 いままでの、そして今回の結論が、良いのか悪いのかは、どの立場から見るかによって評価は違ってくるでしょう。ただ今回の政府の結論がすんなりいくようには思えません。あちこちに不具合や矛盾があふれています。
 でも、どのように揶揄されようと、鳩山首相が日本を悪くしようという意思をもっているわけはないし、社民党も、他の野党もそれぞれの立場から正論を述べているのです。これが娑婆世界なんでしょう。どの道を歩んでも、苦難の連続でしょう。真実などどこにもありません。でもそのなかで、自分の正しいと思うところを支持し、生きてゆくしかありません。現にそうして生きているのです。そうしなければ生きていけないのです。
 
 阿弥陀さまのお慈悲には、矛盾はありません。ウソもないし、先送りもありません。駆け引きもないし、反旗をひるがえすことも裏切りもありません。良し悪しもないし、不具合もありません。歴史や地域性も関係なく、私にはたらいてくださっています。
 世間のことに悩み迷い苦しむのは、衆生・凡夫の営みだからです。そこに身を置いてしか生きることはできません。そしてそこで懸命にもがき、我を出してもどうすることもできない現実のギャップに出遇い、そんな世のなかをみせてもらっているから、阿弥陀さまのまことが真実であると知らせてもらうのです。

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