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2010年7月21日 (水)

また、いずれ、どこかで・・・

 昨年、10月より続けてきました「畢竟依を帰命せよ」を、思うところあって、しばらく休止します。多くの方々に読んでいただき感謝しています。

 直接メールをいただいています方には、これまで同様、返信、配信はいたします。

 まだ書きたいことはあるのですが、それはいずれ・・・ということで。ここでこの続きか、また形を変えてなのかはわかりませんが、またみなさんと会えますことを期待しています。

  西光義秀 gsaiko@gmail.com

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2010年7月20日 (火)

すべておかませだから、すべきことがある

 日常生活のなかで、仏法を中心にして生きるということはほんとうに難しいことだと、つくづく思います。私はお寺に生まれ、お寺で育ち、僧侶となり、そしていま寺院にて仕事をしているわけですから、そこだけみればすっかり仏法に囲まれた生活のようにみえます。しかし思うことは、仏さまに深く帰依し、わが身を振り返り精進する生き方ではなく、仏法とかけ離れたことばかりです。いかに自分の身を守り、いかに仕事をうまくこなしてゆくかということにかかりっきりになってしまっています。形は僧侶であっても、内心はその形とはずいぶん違うことは多々あります。
 阿弥陀さまが私に対してかけてくださっている願いは、私が阿弥陀さまの願いとはまるで違う心でしか生きることができないからこそ、立ててくださったのです。阿弥陀さまが私にかけてくださっている願いを知らされるズーッと以前から、阿弥陀さまは私をめあてにしてはたらいてくださっているのです。

 でも、この世に執着し、わが身にとらわれてしまっている私には、阿弥陀さまの願いを知らされたからといって、深く帰依し、身も心も阿弥陀さまのために捧げるという生活はできたものではありません。もちろん、思い直してマネごとをしてみたところで、そのうちわが思いにまかせてしまい、長続きはしません。心を込めて、帰依した心を阿弥陀さまのお給仕にあらわそうという思いも、結局それは「マネごと」だったんだと明らかになってしまうのです。

 わが思いのなかから阿弥陀さまに帰依しようなどという心が出てくるはずはない。そんな凡夫だからこそ、阿弥陀さまは立ち上がって喚びづめに喚んでくださっているのです。阿弥陀さまの心と私の心は、まったく極にあるのです。それは阿弥陀さまの心を聞かせていただきながら、毎日のわが心のありよう、毎日のおこないを少し振り返ればすぐにわかることです。往生浄土においては、すべておまかせの世界です。
 そしてこの世を生きるというところでは、仏法とかけ離れた生活というところでわが心にまかせ、うわべを繕った姿・形とはまるで違う心のありようを許しているのです。「すべて阿弥陀さまのはたらきによる」「私のすべてを許してくださる阿弥陀さま」「どうしようもない私をめあてにはたらいてくださる阿弥陀さま」です。どうしようもないからその阿弥陀さまに甘えるし、甘えざるを得ないのです。そんな阿弥陀さまだからこそ甘えることができないというのが、阿弥陀さまの心を受けた者の感覚ではないのか・・・、という気がするのです。

 未信の状態で、阿弥陀さまの心もわからず、そんな意地の張り方をしていたらそれは明らかに自力の姿です。しかし、阿弥陀さまの願いをいただいた私が、すべてお許し、すべておまかせ・・・と座り込めない自分に気づくのです。だから何ができるのか・・・? 正直、何ができるというものはありません。ここであらためて、阿弥陀さまの願いにかなうこと、つまり称名念仏することしかないことを気づかせてもらうのです。称名念仏することを通して、私ができることを発見していくしかない。それが凡夫のすべきことのように思うのです。

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2010年7月19日 (月)

無礙光仏のひかりには

 阿弥陀さまの智慧の徳を知ることは容易ではありません。徳というものは、すぐに形になったり、具体的な成果となってあらわれるものではありません。そこで『無量寿経』のなかでは、阿弥陀さまの智慧を十二の光明であきらかにし、十二の光明を放つ仏さまですから「十二光仏」としてほめ讃えています。また、親鸞聖人が書かれた『正信偈』や『浄土和讃』にも、十二光が讃詠されています。十二光(仏)は、つぎのとおりです。
 1.無量光(仏) 2.無辺光(仏) 3.無礙光(仏)
 4.無対光(仏) 5.炎王光(仏) 6.清浄光(仏)
 7.歓喜光(仏) 8.智慧光(仏) 9.不断光(仏)
 10.難思光(仏) 11.無称光(仏) 12.超日月光(仏)

  無礙光仏のひかりには
  清浄・歓喜・智慧光
  その徳不可思議にして
  十方諸有を利益せり
    (『浄土和讃』註釈版p.566)
無礙光仏の光明のうち、清浄・歓喜・智慧光の徳が衆生の迷いをやぶってくださる。その徳は不可思議であり、十方諸仏が讃嘆される名号となって十方衆生を利益するのである。

 清浄光は、濁り多きただむさぼることしか知らない欲の心(貪欲)に向けて発せられる光明です。また瞋恚の心には歓喜光が、愚痴の心には智慧光が準備されています。
この三つの光明は、煩悩悪業の心にもさまたげられることのない光をもった無礙光仏のはたらきと重なっています。その無礙光仏のはたらきで十分であると思うのですが、あまりにも悪業煩悩が激しいからでしょう。清浄、歓喜、智慧の光明もはたらいてくださっているのです。また、貪欲が起こっているとき瞋恚は引っ込み、瞋恚が盛んなときは貪欲が身を潜めていて同時におこることはありません。どちらも愚痴から起こるのですが、まったくあらわれ方が違うのです。三毒の煩悩全体に、そしてまたそれぞれ個別にも応じた光明のはたらきです。

 凡夫の煩悩悪業ということは、この世で人に迷惑をかけたり、社会に悪影響を与えるような悪い思いや行いということではありません。阿弥陀さまのはたらきをさまたげる思いや所業です。
 それは、私の願いをも妨げていることでもあります。私が願うことのレベルはいろいろあっても、いずれもそう簡単には達せられるものではありません。私の願いというのは私の我執でしかないのです。
 仏法を聞き、阿弥陀さまの光を仰いで生きる者は、貪欲や瞋恚が起こらなくなるというのではありません。凡夫である限りつねに貪欲か瞋恚が起こってくるのがわが心です。そのように貪欲瞋恚を起こすのが盆夫の自性、そんな凡夫であるわたしにはたらき続けるのが阿弥陀さまの願いです。まさに不可思議な徳です。

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2010年7月18日 (日)

阿弥陀仏の御名をきゝ

 生まれたときから、まわりに祖父母、両親はじめ、念仏を称える人に囲まれて育った人がいます。仏壇にお参りすること、手を合わせること、念仏すること、仏法の話しを聞くことなど、仏縁深き人がおられます。阿弥陀さまはわたしを救ってくださる仏さま、阿弥陀さまの智慧と慈悲をいただいて念仏させていただく、いつでもどこでも側に阿弥陀さまがいてくださる・・・などの話をよくよく聞いて育った人もいます。
 しかし、そういう環境に育ったからといって、また阿弥陀さまの願いを何度も聞いてきたからといって、自身の後生を阿弥陀さまにすっかりおまかせすることができるというわけでもないようです。“ただなんとなく救われると思う”とか、“私はいつもそっぽをむいているけれど阿弥陀さまのお助けは間違いないと聞いている”という曖昧さは、凡夫である私と阿弥陀さまの間には「すき間」があるということです。その「すき間」は凡夫の思いで埋められてしまうのです。

  阿弥陀仏の御名をきゝ
  歓喜讃仰せしむれは
  功徳の宝を具足して
  一念大利無上なり
    (『浄土和讃』註釈版p.695)
南無阿弥陀仏の名号を聞信させていただき、歓喜讃仰すれば、自然と功徳の宝を身に与えられ、聞信の一念で涅槃をうることができる無上の功徳をそなえさせていただく。

 南無阿弥陀仏のいわれを疑いなく聞くことができたなら、歓喜讃仰、つまり心には歓喜、口に讃談、身に讃仰となって現れてくるのです。
 世間一般に言われている信心というのは、自分の思いや願いをかなえることが目的であり、私の思いからでてきた心です。我執です。自分の思いや願いがかなえば歓喜し、讃談するでしょう。しかしかなえることができなければ、落胆するかもしれません。そんななかからは、歓喜も讃談もないでしょう。歓喜、讃談、讃仰も自分の思いや気分で、そのようにできたりできなかったりすることがわかります。

 南無阿弥陀仏のいわれを疑いなく聞くということは、自分の思いで聞くのではありません。みんな他力。阿弥陀さまから疑いなく聞く心をいただくのです。つまり、阿弥陀仏の御名を聞くというのは、阿弥陀さまのはたらきでしかありません。私の思いや願いがかなうか否かというのとはまったく異次元の話です。
 歓喜、讃談、讃仰というのは、阿弥陀さまの心です。阿弥陀さまからの心が届くのが一念。それはこの上ないこと、つまり無上です。それは大利です。阿弥陀さまがさずけてくださった「利」です。私の思い描く「利」ではありません。

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2010年7月17日 (土)

他の方便さらになし

 「嘘も方便」ということばがあります。嘘をつくのは良いことではありません。悪いことですし、罪でもあります。しかしよい結果を得るため、ものごとをうまく運ぶための手段として時には必要であるということです。この「方便」ということばはもともと仏教のことばで、さとりへ近づくあるいは近づかせる方法のことです。そのための方法として「嘘」もOKということです。
 お釈迦さまが使われた方便の例で、多くの人たちがしっているのはキサーゴータミーの話でしょう。子どもを亡くしたキサーゴータミーが、なんとか子どもを生きかえらせたいという一心でお釈迦さまのもとに行きます。お釈迦さまは「今まで一度も死者(葬儀)を出したことのない家からケシの実をもらってきなさい。そうすれば子どもを生き返らせてみせよう」と言われた。キサーゴータミーは一軒一軒尋ね歩きます。しかし一度も死者(葬儀)をだしたことのない家なんてあるはずはありません。嘆き悲しんでいるのは、自分だけでは無いことを知った・・・、という話です。

 ところが、いつのまにか「嘘」が方便とはならず、そのまま正しい教えと受け取られてしまうことがあります。仏教のなかには、時代や社会とともに、本来の教えがずいぶん間違った方向に曲がってしまったものがあります。

  極悪深重の衆生は
  他の方便さらになし
  ひとへに弥陀を称してぞ
  浄土にうまるとのべたまふ
    (『高僧和讃』註釈版p.595)
極悪深重の衆生が生死の迷いを離れるための方法は、弥陀の名号を称えるほかに方法ない。ただ本願を信じ、称名念仏してこそ浄土に往生することができるのだと、源信僧都は述べられた。

 仏教本来の教えが、時代の移り変わりや社会ありようによって変わってしまうのです。しかし、それでも、極悪深重という凡夫の姿に変わりはありません。極悪深重の衆生ということばは、そのほかにも「極重悪人」「極悪最下の人間」「罪悪深重の凡夫」などというように使われています。十悪五逆をおかす人というだけにはとどまりません。正しい智慧がなく、仏智を疑う自力いっぱいの凡夫のことです。そんな極悪深重の衆生は、どんな手段を使おうとも、さとりに近づくような方法はどこにもありません。救われる余地などあろうはずはないのです。極悪深重の衆生が、どこかにいるのではありません。いま、ここにいる、この私が極悪深重の衆生です。程度の問題ではなく、「極悪最下」という定位置にいる私がそこを離れる手だてはないのです。

 しかし阿弥陀さまは方便でも、お上手でもなく、ただただ、阿弥陀さまの本願を疑うことなく、阿弥陀さまの喚び声である念仏「南無阿弥陀仏」を称える者のみが浄土に生まれると、実にストレートに示してくださっています。どこにも妥協はありません。

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2010年7月16日 (金)

仏法を聞くのに、性格や相性はあるのか?

 人にはそれぞれ、性格があります。自分の我をとことん通す人がいて、もう少し柔らかくなったらいいのに・・・と、よけいなお世話を焼いてしまうことがあります。私はできることなら、自分の性格に好き勝手に任せてしまうのではなく、ちょっとセーブしたり、できないことを無理にやってみる・・・ということをしてみたいとも思うのです。それで見えなかったものが見えたり、感じなかったことを感じたりすることがありますから。
 でも、それは簡単なことではありません。自分の性格のまま、心の動くままに行動し、生きる方がはるかに楽に違いありませんから。

 人と人との関係には相性があります。私自身のところで言えば、人嫌いではありませんし、すぐにうち解けることができなくてもゆっくりでもうまく人間関係を作っていけると思っています。私と気が合わないイヤな奴でも、イヤな奴だという思いを持つ私の了見が狭いのだ・・・と思って、なんとかいい関係を結びたいと工夫をします。自分の性格や心の動きに添わないことをすることだってあります。そのことでストレスを感じない人間関係を結ぶことができるようになった人もいます。しかし、何をしてもどうしてもダメな人がいます。イヤな奴と激しいケンカをしたわけでも、何かたいへんな被害をうけたわけでもないのですが、とにかくイヤ。そんな人がいます。

 人はそれぞれに、自分の性格や、自分と人との相性はで苦しむことが多々あります。この問題は、一朝一夕には解決することはできないでしょう。それぞれがいろんな試みをして、少しでも良き自分を発見するしかありません。また、少しでも良き関係を結ぶことができるよう試行錯誤を重ねるしかありません。

 そんなことを考えたとき、阿弥陀さまと私の関係はどうなのか・・・という思いに至り着きます。けっこうクセのあるわたしに対して、阿弥陀さまは何もかも合わせてくださいます。どのような容器であっても、水はその容器に合わせて、まったく隙間をつくることなく私と一つになってくださる。そんなイメージがあります。
 一方、たとえば、ガラスのコップの底を下にして、ある形の容器を水に浸けると、容器が水をはねのけます。我を通そうとする私の姿です。しかしそのコップから手を離すと、コップはころっとひっくり返って、コップの中にもまわりも水で覆われてしまいます。ガラスコップでなくとも、どのような容器でも同じことが起こります。
 仏法を聞かせてもらうのは、私の性格じゃない、私と阿弥陀さまの関係でもないのです。それらを超えて、阿弥陀さまの願力によって、信知せしめられるのです。

 ※木のコップならどうか、プラスチックの皿はどうか・・・などと言う人もいるでしょう。
   ま、そこまで言われたら、「縁無き衆生は度し難し」という他はないのでしょうね。
   凡夫の頭で考えつくことは、問う方も、答える方も、その程度でしかないのです。

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2010年7月15日 (木)

本師源空ひろめずは

 「生死いずべき道」を仏法に求められていた親鸞聖人ですが、比叡山での修行生活のなかでは解決できないと思い定められて比叡山を降りられました。そして不思議のご縁によって師・法然聖人とお会いになります。しかし法然聖人に会われた瞬間に、念仏に帰依することができたのではありません。100日の間、法然聖人の元を訪ねられ聴聞を重ねられたのです。
 親鸞聖人と法然聖人の年齢の違いは40歳です。親鸞聖人が法然聖人に初めて会われたのは29歳のときですから、そのとき法然聖人は69歳です。親鸞聖人35歳のとき越後流罪となります。同時に法然聖人は讃岐に流罪となります。それ以降、この世でお二人が会われることはありませんでした。親鸞聖人が法然聖人と過ごされた6年ほどの期間は、親鸞聖人にとっては、とても充実した至福の時であったに違いありません。

 阿弥陀さまからの願いをいただくのに、自分の力をはたらかせる余地はありません。何から何まですっかり阿弥陀さまが準備くださり、称える念仏さえ阿弥陀さまからいただくのです。むしろ、自力によって阿弥陀さまの願いを妨げることになります。
 比叡山で聖道門の修行を続けてこられた親鸞聖人にとって、法然聖人と会わることによってそのことが知らされたのでしょう。その道を、具体的に、しかもどんな人とも膝をつき合わせて語り、導かれた方が法然聖人だったのでしょう。

  善導・源信すすむとも
  本師源空ひろめずは
  片州濁世のともがらは
  いかでか真宗をさとらまし
    (『高僧和讃』註釈版p.596)
もし、善導大師や源信僧都が念仏をすすめられても、源空(法然)上人が念仏をひろめられなかったら、仏教の始まったインドからみればほんの片隅の五濁悪世の人びとは、どうしてこのまことの本願念仏の教えにあうことができようか。いや、あうことはできなかっただろう。

 親鸞聖人は比叡山で大乗仏教の教えを深く学ばれ、実践されたでしょう。数多くの教典や高僧たちの書物を読まれたに違いありません。そのなかには、念仏を勧められた善導大師や源信僧都の書かれたものも読まれ、強い影響を受けられたと思われます。
 それでも、親鸞聖人にとっては、源空(法然)聖人によって弥陀の本願が説かれ、念仏を勧められたからこそ、聞くことができた教えです。讃えずにはおれなかったのでしょう。

 来年は、浄土真宗各宗派において親鸞聖人750回大遠忌法要が勤められます。また法然聖人800回大遠忌法要が浄土宗各宗派において勤められる年でもあります。遠忌は50年に1回の法要です。ぜひ、お近くの寺院へお参りください。
 その前に、阿弥陀さまの願いを聞かせていただき、心の底から報恩謝徳の念仏が称えられる身とさせていただけるようご聴聞ください。それが法然聖人、親鸞聖人を大遠忌を迎えるにあたって、いちばんの御恩報謝だと思います。

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2010年7月14日 (水)

供養は心を込めて敬う気持ちから

 おそらく、日本人が思っている仏教の中心にあるのは先祖供養、死者の追善供養の手段ではないでしょうか。仏教の対象者は、少年や青年より、老人や死者との結びつきの方が強いようです。仏教はさまざまな人生儀礼にかかわりをもちますが、誕生や結婚というより、葬儀や葬後儀礼とのイメージの方がずっと似合っているというのが多くの人びとの思いではないでしょうか。
 供養ということばだけでも、死者や祖先に供物を供え、死者や祖先の冥福を祈るという意味としてとらえられているのだと思っています。

 供養のもともとの意味は、「尊敬をもってねんごろにもてなすこと」です。仏教では、「仏・法・僧の三宝や父母・師長・亡者などに、香華、灯明、飲食、資材などのものをささげること」(いずれも『岩波仏教辞典』p.214、「供養」の項目)です。死者(亡者)に対しても、お供えをし敬うという意味はあります。ただ、それはほんの一部です。
供養が死者に対するものだけになってしまうと、霊魂だとか幽霊だとかが出てきて、うらみやたたりや恐れにしか結びつかなくなってしまいます。お経は鎮魂や慰霊のため、僧侶はそのためのお経を読む人という図式でしかみられなくなってしまうと、それではまったく仏教ではなくなってしまいます。
 経典には「恭敬供養(くぎょうくよう)」という使い方がされます。恭敬は相手を尊敬しつつへりくだることです。もともとの供養の意味と同じです。つまり、仏・法・僧に対して、父母・師長に対してはもちろんのこと、亡き人に対しても、さらには縁あって出遇う人に対する心のありようであり、向き合う姿勢です。

 心を込めて尊敬すること、尊敬しつつへりくだるということばは簡単に出てきますが、なかなか実践できることではありません。もっとも、仏教によって示された徳目は、うわべや形を整えても、心の底から、心を込めてすることは容易ではありません。
 社会的な地位や人間関係のなかで、つねに上に立ちたいと思い、見栄を張り、思いっきり背伸びしてみせて生きる私ですから、尊敬やへりくだるということは真反対の生き方です。自分の思いを満たしてくれる人に対しては心を込めて尊敬します。同じ人に対して、思いを満たす人でなくなれば尊敬の念は消えます。また、自分の置かれている境遇やころころ変わりゆくさまざまな思いでどうにでもなる心でもあります。そんな危ういところを綱渡りするような心でいるのが私です。

 恭敬も供養も、私のなかからわき上がってくる心ではないようです。阿弥陀さまと遇い、阿弥陀さまに教えられてゆくことで気づかされていく心でしょう。出遇うことなく、わが心にまかせてしまう心は、恭敬も供養とはまったく正反対の心になってしまいます。

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2010年7月13日 (火)

迷いの凡夫が、亡者を供養?

 東京のお盆は7月13~16日です。たくさんの人たちがお寺やお墓にお参りされます。今年はお盆の期間中はすべて平日ですので、お盆の前の土曜(10日)日曜(11日)はたいへんな人がお参りされました。その分、初日のきょう13日のお参りの人数は少なかったような気がします。
 東京の以外の地方のお盆は8月13~16日です。ところが、東京では8月でもお盆のお参りは少なくはありません。それは地方から東京に出てきて東京に定住して間もない人たち、出身地の地方の風習にこだわりをもっている人たちが8月にお盆参りをされるのです。そのため、築地本願寺などでは、7月も8月もお盆参りがあり、お盆の法要が勤まるのです。

 このお盆期間中は、仏教の作法や儀礼をめぐってさまざまな質問が出てきます。「精霊棚は作るのか?」「ご先祖は帰ってくるのか?」「迎え火・送り火はどうするのか?」などなど。真宗ではまったく問題にしないことを、真剣に聞いてこられます。
 何もわからないから、どうしていいのかわからず尋ねてこられるのでしょう。また、この一年以内に家族や身内の者が亡くなられた人が、周りの人から新盆を迎えるにあたっての儀礼や作法についてあれこれと耳にする。周りの人というのは、生まれ育った地域も違う、宗教も違う、儀礼や作法の意味を知っているわけではない、自分はこのように聞いてきた、見てきた、やってきた・・・という経験をもとにしているだけのことです。
 日常生活の儀礼や作法ならいざ知らず、家族や身内で亡くしたとても大切な人をめぐる儀礼や作法ですから、何も知らなくてもおろそかにはできないと思うでしょう。ところが、考え方もやり方も違うさまざまな方法がしめされれば示されるほど、何も知らない人にとっては混乱するばかりです。

 浄土真宗の教えを聞き続けてきた人たちは、 「門徒もの知らず」と言われるほど、一般の人たちがお盆に死者を迎え送るとか供養するといった儀礼や作法には無頓着です。そんな儀礼や作法を必要としないのです。
 「本願を信じ、念仏を申さば仏と成る」(『歎異抄』第12章 註釈版p.839)教えです。仏と成るというのは、阿弥陀さまによって仏に成らせていただくということです。凡夫の私たちが精霊棚を作る必要もありませんし、送り火・迎え火をする必要もありません。お盆のときでなくとも、時にとらわれず、場所にかかわることなく、この世に還り来るのが成仏したものです。そして未だ浄土に往生できず、この世で迷いの人生を送る私たちを仏道に向かわせようとはたらいてくださるのです。

 亡くなって迷いの世界を出ることができない人を亡者といいます。人間の間に、本願を信じることができなかった人です。そんな亡者に対して、お盆の供養することは必要なのかもしれません。でも、その前に、仏法に触れ、「わが信やいかに?」と問うことが、お盆の意味かもしれません。迷いの凡夫が、亡者を供養したところで、共に迷いをくり返すだけでしょう。亡くなった人を通して、まず私が、阿弥陀さまの心に遇わせていただくことしかありません。お盆に限らず、平生の称名念仏と聴聞によるのです。

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2010年7月10日 (土)

すすめて浄土に帰せしめり

 私たちが生まれた時は白紙の状態です。何も知りませんし、何もできません。それを親から、家族から、近隣の人たちから、学校の先生や友達から、さらには社会のさまざまな人から直接・間接にいろんなことを教えられ、それを学び、身につけて一人前の人間になっていきます。何度も同じことをくり返し作法や技術を身につけます。よりよく生きるためです。悪を身につけよう、罪を造ろうということを目的で生まれてきたわけでも、生きるわけでもありません。しかしいつのまにか、悪の道を歩み、罪を罪とも意識しない生き方をしてしまっているのです。
 それでも、理性をはたらかせ、心穏やかに人生を歩みたいとも思っています。ですから、四六時中つねに悪ではありませんし、罪をつくっているわけではありません。

  濁世の起悪造罪は
  暴風駛雨にことならず
  諸仏これらをあはれみて
  すすめて浄土に帰せしめり
    (『高僧和讃』註釈版p.588)
五濁悪世の衆生が起こす悪や造る罪は激しい風とにわかに降る大雨のようなものである。十方の諸仏はそんな衆生をあわれんで、弥陀の本願を信じ、浄土に往生するようにすすめられた。

 この和讃で、起悪造罪は、暴風であり、駛雨(にわかに降る大雨)だと示されています。穏やかな自然のなかで、一度吹き荒れると止めることができないのが暴風であり、駛雨です。それなりの覚悟や備えをしていても、それらが過ぎ去ったあとは、どこから手を付けてよいのかわからないほど周りは荒れ果ててしまっていることがあります。事前にこれらの自然現象をコントロールすることができません。
 仏法のうえでは、貪欲のことを次から次へと押し寄せる大水にたとえたり、瞋恚のことをメラメラと燃え盛りどんなものをも焼き尽くす火にたとえられます。貪欲の心を振り返り、また瞋恚のわが心を振り返ったとき、そのたとえはなんと的確な比喩であると知らされます。同時に、穏やかに冷静に保っていると思っていても、潜在的には恐ろしいものなのです。この和讃に示されている暴風駛雨というたとえも、同様の感覚があります。

 それをだれが止めることができるのか。だれも止めることはできません。条件さえ整えば、いつでもどこでも、自分が意識するしないに関わらず荒れ狂う心であり、行為です。私自身がそんな心や行為をつねに自覚することができません。そんな心や行為をあわれんでくださるのは、諸仏です。そんな私に、阿弥陀さまでなくとも浄土往生をすすめてくださるのです。ほかに手立てはありません。

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2010年7月 9日 (金)

仏心よりさづけられるのが信心

 覚如上人は、『最要鈔』という書物のなかで、次のように述べられています。

  この信心をば、まことのこころとよむうへは、
  凡夫の迷心(めいしん)にあらず、またく仏心
  なり。この仏心を凡夫にさづけたまふとき、
  信心といはるるなり。

 世間一般では、信心は「私が、神や仏を、信じる心」と認識されています。そこのところを聞きたださない限り、いつまでたっても肝心なところが聞けません。上の覚如上人の言葉を箇条書きにして示すと、次のようになります。
 1)信心はまことのこころである。
 2)信心は凡夫の迷心ではない。
 3)信心はまったく仏心である。
 4)仏心が凡夫に授けられたものが信心である。

 まことのこころというのは凡夫のなかにはありません。やさしい心になろう、思いやりの心を持とう、決してうそをつくことなどしない、悪には組みしない、心を清くして良い人間になろう、等々、この世を生きていくためにこれらの思いをもつことは立派なことです。そのような思いをもって生きなければならないとさえ思います。だれもそのことを否定する人はいないと思います。
 ただそれらの心は、凡夫の迷心であるということを知っておかなければなりません。そう思ったところで、いつまでもそのように思い続け、実践できる心ではないのです。時と場合によって、それらとまったく反対の思いをもち、まったく違った行動をとることがあります。その時は、そんな自分を正当化しているのですから。立派な思いも迷心であり、そんな心をもって生きるのが凡夫です。

 まことのこころは仏心しかありません。いつも、どんなことがあっても変わらないこころであり、はたらきなのですから。にもかかわらず立派な心と胸を張ったり、人からほめられて有頂天になったりするようなわが心に酔うことがあります。それを迷心とは思わない思えないことが、迷っている証拠です。凡夫が仏心を起こすことなどあり得ないことなのです。
 凡夫である私が、神や仏を信じる心を起こすときは、五欲を満たすためです。つまり煩悩によるはたらきです。

 まことのこころは、仏心より授けられなけれない限り、阿弥陀さまよりいただかない限り、私には無いのです。
ところがそんなに簡単に受け取ることができるものではありません。都合が良ければ受け取りますが、都合が悪ければ受け取ることはしません。その前に、次元の違う仏心を受け取るか受け取らないかというような判断などできようはずはありません。
 そんな私の思いによって信心の有無が決まるものではありません。私の思いがどのようなものであったとしても、仏心は授けられるのです。受け取るか否かという私の意志によるものではありません。授けられている凡夫であることを聞かせてもらわなければなりません。
 

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2010年7月 8日 (木)

初めての阿弥陀さまとの出遇い

 世のなかに争いごとが無く、穏やかに平和になるためには自分のことを中心に考えていては成就するはずはありません。自分の思い通りにならないものを思い通りにしたいから、争いごとにして実現しようとするのでしょう。冷静に考えれば、争いを起こせば思い通りになるというのが実に浅はかです。たとえ、争いを起こして思い通りになったとしても、人間関係が壊れたり、それ以降の諸事につまずきがでることは少なからずあることです。
 自分のことだけを考えるのではなく、相手の立場・他人の立場になって、わがことのように考えてみるということが必要でしょう。たとえば、親であれば子の立場に立ってみることです。子であれば親の立場に立ってみることです。ただ、子は親の立場に立って考えきれないことがありますが、子を経験して親になったものは子のことをよりリアルに考えることができます。しかし、「お父さん(お母さん)が子どもの頃は・・・」と、ここでも自分の立場を正当化してしまいがちです。
 男であれば女の立場に立ってみる、女であれば男の立場に立ってみる。これはどちらも経験したことがありませんから、都合が悪くなると、それぞれの立場をうらやんだり、非難したり、蔑んだり、してしまいます。ここでも自分の立場を正当化しているのです。
 それでも、それぞれの立場をなんとか理解し合いつつ、よりよき関係をつくりあげる関係も無いではありません。

 ところが、仏法のおける阿弥陀さまと凡夫である私との関係は、なかなか人間関係のようにはいきません。凡夫が相当の勉強や修行を積んだところで阿弥陀さまの立場を思いはかることができません。ですから、阿弥陀さまのことを「親さま」と呼び習わしてきました。私を産み、育ててくださった親の深い愛情から、阿弥陀さまの慈悲と智慧を推し量ろうとしたのです。
 阿弥陀さまは、つねに私の立場に立って共に苦しみ、共に涙を流し、共にほほえみ、共に歓喜してくださる方です。何をしようと、どこへ行こうと、つねに寄り添ってくださっている方です。私がどんなことを考え、何をしでかしても、そのままを許し見守り続けてくださっている方です。

 確かに、阿弥陀さまの心を、親の愛情を通して感じることはとても理解しやすいことではあります。しかし、阿弥陀さまが私への関わりが、この世の親と子の関係でも、他のどんな人間関係とも違うのは、この世だけで終わるものではないということです。
 もうひとつ、私と共に~してくださるだけではなく、阿弥陀さまから一方的にはたらいてくださっていることがあるということです。自分のことしか考えられない私には、阿弥陀さまが共に~してくださることも、つねに寄り添ってくださっていることも気がつきません。一方的に、願いをかけ、南無阿弥陀仏を与え、迷いの世界に落とすことはしないとはたらいてくださっていることなど知るよしもありません。
 私が年齢を重ね、いろんなことを教えられ経験を積んだとき、親の思いに気づいたとき、初めて親と会うのです。それと同じように、仏法を聞き、本願のいわれを聞き、その本願がいま”私のためにはたらいてくださっている”ことに気づかせていただいたとき、初めて阿弥陀さまと出遇ったことになるのです。

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2010年7月 7日 (水)

仏教の基礎、初級からさとりまで

 私たちが何かを身につけようとすれば、基礎から初めて、初級、中級、上級へと学びを重ねたり、経験を深めたり、技術を高めたりします。仏教も知識や、儀礼・声明(しょうみょう)を身につけるにはこのような道をたどるでしょう。また聖道門の修行も、一定のところまではこのような手順を踏むことが求められるのかもしれません。ところが、念仏の信心を得るためには、この手順を踏まなければならないというようなことはありません。

 知識を蓄え、経験を深めてもなかなか仏法が聞けないと、もう一度、基礎から学びなおして・・・と思いがちです。もし基礎から学びなおして仏法が聞けるというなら、念仏の信心を得るための基礎って何なんでしょうか?
 基礎と言えるのかどうかは定かではありませんが、いま私が生きていること。そして生き物のいのちをいただいて生きていること。自分こそ・・・、私だけは・・・と強く私自身に執着して生きているということ、罪悪深重・煩悩煩盛であること。等々、そんなありのままの自分自身を知らせてもらうことでしょう。もうひとつ言うなら、そんな私に阿弥陀さまがいつも寄り添って、ほんとうにこの世に生まれてきたことの意味を知ってほしい。そして阿弥陀さまが私にかけてくださっている願い(本願)に気づき、そのまま受け取ってほしいと、阿弥陀さま自らがはたらいてくださっているということです。
 しかしこのことは、基礎ですが、これ以下のこともこれ以上のことはありません。これが念仏の信心をいただくための中級であり、上級でもあるのです。問題は、これらのことを知っているか否かではありません。そのままの自分に気づき、阿弥陀さまの願いをそのままいただくことしかないのです。

 お釈迦さまは、それぞれの人の素質や能力さらには性格や気質までをも見抜き、それぞれの心の居所に合わせて教えを説かれた(対機説法)と言われています。それぞれの人に合わせて教えを説くことの大切さは、多くの人が感じることでしょうが、そう簡単なことではありません。お釈迦さまだからこそできたことでしょう。お釈迦さまの対機説法は、初級、中級、・・・といった手順を踏むものではなかったでしょう。それは仏法が知識や経験や技術によるものではないことを示しています。
 私が基礎から初めて、初級、中級・・・という手順を踏むのではなく、そのすべてを阿弥陀さまが準備して、それを私に与えてくださっているのです。お経にすれば、百万の法蔵と言われるほど多くの教えがあります。それを準備して与えてくださると言っても、受け取るだけのキャパシティはありません。だから、それを要約して、南無阿弥陀仏として与えてくださいました。要約というと、要点だけであとは省略ということになりますが、そうではありません。阿弥陀さまの願いとはたらきをすべて、もらさず、欠かさず、薄めずに封じ込められています。基礎から上級そして願いとはたらきをも含めた阿弥陀さまのおこころがすべてなのです。

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2010年7月 6日 (火)

まず、仏智を疑う身となれ

 仏智を疑う罪は深いですが、仏智を疑うということは、仏法に相当深いご縁をいただき、聴聞を重ねているということです。仏法を聞き始めても、なかなか仏智を疑っているとは思えません。第一、仏智を疑うということがどういうことなのかわかりませんから。
 だからといって、まったく仏法に縁のないように思う人であっても仏智に遇っていないということはありません。遇っているのですが気づくことがないのです。阿弥陀さまの側からすれば、はかりしれないむかしから、本願に気づいておくれ、南無阿弥陀仏の心を聞いておくれと喚びつづけ、はたらきつづけてくださっているのですが、私は遇っていないのです。

 仏智に遇うということがないから、この世の価値観、自分の価値観でものごとを判断します。それしか判断する基準がないのですから。その典型的な例は、現世利益を求めるという思いです。 現世の利益のために祈るのは、現在のわが身を守り、それ以降のわが身がよりよき状態にありたいと思う心です。自分の力で何もかもできる、切り開くことができると思えば、祈るというようなことはしないでしょう。がんばっても、努力してもどうすることもできないから祈るのです。
 しかし、祈ったところで願うことが成就するわけではありません。実際に現世を祈る者でさえそれで必ず良い結果が得られるとは思っていないでしょう。よい結果になってほしい、良い結果であればいいな、少なくとも悪い結果がでないでほしい・・・という思いでしょう。でも、祈るのです。そうすることで、精神的に落ち着くのでしょう。
 これはもう、理屈の世界ではないでしょう。ごくあたりまえのように、本能的に反応する世界です。そんな自分の姿に気づかさせてくれるのが仏智です。

 この世のために、この身のために祈ってみても、この世もこの身も借り物です。いつか必ずすっかり返して、この世を出て行くのです。この世を出て行くということは、頭で理解してもほとんど意味はありません。親の死にあり、親族、親しき友人・知人の死にあって何となく感じる不気味さ、先の見えない不安、自分の行く末の暗さ、・・・。それこそが、この世の価値観、自分の価値観だけではみえない世界を示しているのです。でも、そこから目をそらそうとするから遇えないのです。
 目をそらそう、忘れたいという私の思いがいかに貧弱で、頼りにならないものか・・・、それをいちばんよく知っているのは自分自身のはずです。でも、阿弥陀さまは喚びつづけ、はたらき続けてくださっていますから、この世のために、この身のために祈ることの意味の無さを、私たちはどこかで感じるはずです。
 おそらくそのときから、仏智を疑うわが身となるような気がします。この世に浮かれ、この世におぼれてしまっている間は、私にとって仏智は無用です。それではアカン!
 「宝の山に入りて、手を空しくして帰ることなかれ」というのは、この世に生きる私に示してくださった、仏法の先達のお言葉です。

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2010年7月 5日 (月)

本願こころにかけしめて

 この世に生きる者は、だれもが幸せになりたいと思っているでしょう。ささやかな幸せなら、ものごとの見方やとらえ方、さらには心の持ち方次第で感じることができるのではないでしょうか。もう少しハードルを上げて、ほのぼのと幸せを感じたり、さらにす~っごく幸せと思うことはあっても、その幸せ感がどれだけ続くでしょうか。いつまでも変わらない幸せであるに越したことはありませんが、一瞬の幸せであっても時間に関係なく幸せを追い求めるのが私たちです。
 ところが私たちの追い求める幸せは、一瞬にして苦しみに変わったり、迷いの変わります。それがこの世を生きるということにほかなりません。ほんとうの幸せということを教えてもらうことはありませんし、知らないのです。ただあてもなく、何かにしがみつくように幸せを求めているにすぎません。仏法に出遇うことなくして、そのほんとうの幸せの求めようがないのです。

  本師龍樹菩薩の
  をしえをつたへきかんひと
  本願こころにかけしめて
  つねに弥陀を称すべし
    (『高僧和讃』註釈版p.579)
龍樹菩薩の教えを聞かせていただく人は、阿弥陀さまの本願にこころをかけ、つねに念仏を称えるべきである。

 インドの龍樹菩薩は、すべてに優れた才能をもち高い教養と学問を身につけた方でしたが、享楽の生活におぼれられたようです。しかしその享楽は一瞬にして苦しみに変わることをさとり出家されたと伝えられています。
 龍樹菩薩についての伝記はほとんどありませんが、『中論』『大智度論』『十住毘婆沙論』など、「千部の論主」といわれるほど多くの著作を残されました。中国や日本では、大乗仏教「八宗の祖」と仰がれています。歓喜地といわれるさとりの地位にまで達していた龍樹菩薩も、最後に至り着かれたのは、阿弥陀さまの本願に帰依してゆくということです。

 つねに阿弥陀さまの本願にこころをかけることを、憶念といいます。苦しいこと、悲しいことがいっぱいある者が、そこのところに縛り付けられるように逃れられなくなるのです。ほんの一瞬のなぐさめの時間が幸せというなら、それこそ悲しいことではありませんか。だからといって、心のなかにある苦しみ、悲しみをすっかりなくすことなどできません。しかし心のなかを阿弥陀さまの心で満たすことができれば、苦しいときも悲しいときもいつも阿弥陀さまといっしょです。どのような境遇にいようと、憶念の心をもち念仏させていただくしかありません。それゆえ「本願こころにかけしめて、つねに弥陀を念ずべし」と示してくださっているのです。
 念仏する者は、阿弥陀さまだけではなく、諸仏諸菩薩に護られ、生かさせていただいているのです。いっぱいある苦しいこと、悲しいことは生かされているなかのほんの一コマでしかありません。憶念し念仏させていただくことにより、苦しいこと悲しいことはそのなかに解かされてゆきます。決して変わらない、消えない幸せです。

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2010年7月 4日 (日)

仏教の示す自利・利他

 大乗仏教の理想は、自利利他の実践です。自らを利するとともに、他をも利するという両方がともに完全におこなわれることです。近年、企業活動、さらにはボランティアなどの社会的実践においても、この自利利他ということはよく使われる言葉です。しかし仏教の理想と社会的な理想は似ているものの、格段の違いがあります。
 「利」は利益(りえき)のことです。社会で一般的に使われている利益は、得すること、儲けのことであったり、役に立つこと、ためになることです。役に立つというのは、利益を得るという目的を達成するための手段や方便として用いることができるということでしょう。
 しかし仏教のうえからみると、得する、儲ける、役に立つ、ためになるという「利」とは次元が違います。はっきり言うなら、仏教、とくに念仏の教えのなかにはこのような「利」を直接的に求めても、その期待は裏切られるだけです。真宗の教えを聞いたからといって、また念仏を称えたからといって、商売が繁盛して儲かった、病気が治った、病気もせず健康で長生きできている、効率が良くなった、などはっきり利益となるものが結果として現れるわけではありません。

 仏教の「利」も利益と漢字で書きます。しかし「りやく」と読むところが違います。神や仏にお願いすれば、得する、儲ける、自分の思い通りになるということが御利益であるとする教えはたくさんあります。これが結果的に、迷いを深めることになるのです。
 仏教で言う正しい利益(りやく)は、仏になること、迷いの世界を離れることです。こう聞くと、つい、それも得したことであり、役に立つことであると思われるかもしれませんが、そういう次元から離れることなのです。しかし、どっぷりとこの世になかの損か得か、有用か無用かという世界に浸っているのですから、仏教そのものが役に立たないものになってしまっています。

  われもと因地にありしとき 念仏の心をもちてこそ
  無生忍にはいりしかば いまこの娑婆界にして

  念仏のひとを摂取して 浄土に帰せしむるなり
  大勢至菩薩の 大恩ふかく報ずべし
    (『浄土和讃』註釈版p.577)
勢至菩薩が言われるのに、私がまだ超日月光仏のもとで修行をしているとき、仏を憶し念仏する心をもって無生忍をさとって往生浄土の身となったので、いまこの娑婆世界にあらわれて念仏の教えを説き、念仏する人を導いて浄土に往生させたいという願いによって弥陀の浄土に連れ帰るのである。大勢至菩薩の広大なる恩徳に対し深く感謝し報わずはおれない。

 勢至菩薩がご修行をされていたときに、念仏に遇われて無生忍という地位に至られたというのです。「無生」は姿・形にとらわれる心から離れることです。「忍」はものごとの道理を知り、こころを道理にまかせて心が動かないことです。くり返しますが、念仏されることでそのような境地に至ったのです。まさに自利の世界です。そして浄土往生されたのち、再びこの娑婆世界にもどって念仏の教えをすすめ、念仏する人を浄土に往生せしめることが利他なのです。
 とても私の業ではありません。しかし、私はいま、念仏させていただくことができています。それがどんな「利」なのかを知ろうとも知らずとも、自利利他が実践できるのです。念仏が私の自利利他を成就してくれるのです。

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2010年7月 2日 (金)

不可称不可説不可思議の功徳

  五濁悪世の有情の
  選択本願信ずれば
  不可称不可説不可思議の
  功徳は行者の身にみてり
    (『正像末和讃』註釈版p.605)
五濁悪世の衆生でも、選択本願を信じさえすれば、称えることも説明することもできない功徳が、その行者にえられることである。

 「称」は天秤などではかることをいいます。ですから、不可称ははかることもできないということ。不可説は説くこともできない、そして不可思議は思い議することもできない、つまり考え議論することもできないということです。つまり、阿弥陀さまのご本願を信ずることは、人間の営みによる理解ではとても及ぶことができない功徳があるということです。

 人間の理解することのできない功徳を理解するというのは無理な話です。感じたら、わかったら、納得したら・・・信じようというレベルの教えではありません。
 わかって信じるのでなければ、わからなくても信じるよというのではありません。わからなくても信じることのは妄信です。妄信は迷いです。それじゃどのように選択本願を信じるのでしょうか?

 私は五濁悪世に身を置いています。その反対の世界は浄土、きよらかな澄んだ世界です。泥臭く生きる、泥にまみれて生きる・・・という生き方は、ちょっと野性味があってたくましく生きる姿のように表現されています。しかしこの世で生きるためには、好むと好まざるとに関わらず、泥にまみれて生きるしかありません。一部分だけがそうではなく、身も心も、私を取り巻く空間もすべてが泥のなかです。そこで必至にもがくのが生きる姿です。生きる現場が泥のなかであるということ、自分の姿を冷静に見つめることも、自分がおかれている環境を知る余裕もないままにとにかく一日、一日が過ぎてゆきます。正しくものが見えようはずがありません。
 この世を生きていくことは、濁りもあるが、美しくさわやかな面もある・・・と見たいものです。しかし何が濁っているのか、何が浄らかなのかさえもわからないのが凡夫です。有情です。そんな者に、浄土を思い浮かべ、観じることを勧めています。しかしそれも簡単なことではありません。いくらお経に浄土の姿がえがかれていようと、見たことのない世界を思い浮かべるというのは、ありえないことです。

 親は自分自身の経験や知識を総動員して、わが子の将来を案じ、あのようにこのように育ってほしいという夢をもち願うもち、子どもは親の手を離れるまで、親の思いつくあらゆるものを与え、あらゆる手段をこうじます。子どもが気づこうが気づくまいが、親には関係のないことです。
 浄土真宗では、阿弥陀さまのことを「親さま」と言い習わしてきました。人間の営みを阿弥陀さまの選択本願と比べることなどできようはずはありませんが、それでも不可称不可説不可思議の功徳を何とか知らしめたいと、人間の親をとおして気づかせようという工夫です。

 私が五濁悪世を生きるからこそ、親さまである阿弥陀さまはご本願をたて、南無阿弥陀仏を成就して与えてくださったのです。五濁悪世にまみれた私をすっかりそのまま抱きとってくださる心であり、はたらきでもあるのです。
 
  なお、同じ和讃が『高僧和讃』の終わりにかかげられています。

  五濁悪世の衆生の
  選択本願信ずれば
  不可称不可説不可思議の
  功徳は行者の身にみてり
    (『高僧和讃』註釈版p.599)

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2010年7月 1日 (木)

臆念の心つねにして

 念仏の信心をいただくということは、世間一般に、神仏を信心するというのとは「信心」のベクトルが180度違います。ここのところを、腹底に落とすことが念仏の信心の要です。腹底に落とすというのは、知識として理解することでも、情的に感じることでもありません。阿弥陀さまの願いと出遇い、その願いを疑いなくこの身にいただくことです。
 念仏の信心は、阿弥陀さまからいただく信心です。出遇うというのは、私の意志が入っていません。私の側からみるとたまたまのであいです。しかし阿弥陀さまからすれば、待って、追いかけ、さまざまな縁をとおして知らしめようとし、し続けてくださっているであいです。阿弥陀さまがつくろうとしてくださっているであいです。阿弥陀さまの願いが私に一方的に届けられるのです。信心のベクトルは阿弥陀さまから私に向かっています。
 それに対して世間一般の信心は、神仏に対して、私の方から出会いをつくろうとしています。その心の底には、私の思いや望みをかなえたいという欲があります。欲の心を満たすために神や仏に頼み願う心です。私が出会いをつくろうとし、信心のベクトルは私から諸仏、神々の方向を向いています。

 何が違うのか?と思われる方もおられるかもしれません。まず後者の私から諸仏、神々に向かう信心は、すべて私の思いに左右されてしまいます。「困ったときの神頼み」はその代表的なものでしょう。願いがかなわなければ「神も仏もあるものか!」となり、自分を励まして「鰯の頭も信心から」というところに落ち着こうとするのが関の山です。
 私の側から見れば、幸せになるために、あるいは懸命に生きるためには必要なことではあるのですが、私のことしかみえていない、わがままで自分勝手な心でしかありません。その心の延長線上には、幸せになるどころか、自分が迷い苦しみ続けるだけではなく、他人も社会にも迷い苦しみを押しつけ、広げてゆくものでしかありません。

  弥陀の尊号となへつつ
  信楽まことにうるひとは
  憶念の心つねにして
  仏恩報ずるおもひあり
    (『正像末和讃』註釈版p.605)
弥陀の尊い名号である南無阿弥陀仏をとなえて疑うことなく本願を受け取れる人は、心にいだいた信心がいつまでもたえることがないので、仏恩を報ぜずにはいられない。

 私がつくりだす信心ではなく、阿弥陀さまから賜る信心であるからこそ間違いないのです。自分の思いがどこにあろうと、つねに阿弥陀さまに願われ、護られているのです。そんな阿弥陀さまからの心が届いて通じ合えたら、忘れることはあっても、絶えることはありません。どんな思いで称えていた念仏であっても、報恩感謝の念仏となってくださるしかありません。

 なお、同じ和讃が『浄土和讃』の巻頭第一首にあります。

  弥陀の名号となへつつ 信心まことにうるひとは
  憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり
    (『浄土和讃』註釈版p.555)

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