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2010年7月20日 (火)

すべておかませだから、すべきことがある

 日常生活のなかで、仏法を中心にして生きるということはほんとうに難しいことだと、つくづく思います。私はお寺に生まれ、お寺で育ち、僧侶となり、そしていま寺院にて仕事をしているわけですから、そこだけみればすっかり仏法に囲まれた生活のようにみえます。しかし思うことは、仏さまに深く帰依し、わが身を振り返り精進する生き方ではなく、仏法とかけ離れたことばかりです。いかに自分の身を守り、いかに仕事をうまくこなしてゆくかということにかかりっきりになってしまっています。形は僧侶であっても、内心はその形とはずいぶん違うことは多々あります。
 阿弥陀さまが私に対してかけてくださっている願いは、私が阿弥陀さまの願いとはまるで違う心でしか生きることができないからこそ、立ててくださったのです。阿弥陀さまが私にかけてくださっている願いを知らされるズーッと以前から、阿弥陀さまは私をめあてにしてはたらいてくださっているのです。

 でも、この世に執着し、わが身にとらわれてしまっている私には、阿弥陀さまの願いを知らされたからといって、深く帰依し、身も心も阿弥陀さまのために捧げるという生活はできたものではありません。もちろん、思い直してマネごとをしてみたところで、そのうちわが思いにまかせてしまい、長続きはしません。心を込めて、帰依した心を阿弥陀さまのお給仕にあらわそうという思いも、結局それは「マネごと」だったんだと明らかになってしまうのです。

 わが思いのなかから阿弥陀さまに帰依しようなどという心が出てくるはずはない。そんな凡夫だからこそ、阿弥陀さまは立ち上がって喚びづめに喚んでくださっているのです。阿弥陀さまの心と私の心は、まったく極にあるのです。それは阿弥陀さまの心を聞かせていただきながら、毎日のわが心のありよう、毎日のおこないを少し振り返ればすぐにわかることです。往生浄土においては、すべておまかせの世界です。
 そしてこの世を生きるというところでは、仏法とかけ離れた生活というところでわが心にまかせ、うわべを繕った姿・形とはまるで違う心のありようを許しているのです。「すべて阿弥陀さまのはたらきによる」「私のすべてを許してくださる阿弥陀さま」「どうしようもない私をめあてにはたらいてくださる阿弥陀さま」です。どうしようもないからその阿弥陀さまに甘えるし、甘えざるを得ないのです。そんな阿弥陀さまだからこそ甘えることができないというのが、阿弥陀さまの心を受けた者の感覚ではないのか・・・、という気がするのです。

 未信の状態で、阿弥陀さまの心もわからず、そんな意地の張り方をしていたらそれは明らかに自力の姿です。しかし、阿弥陀さまの願いをいただいた私が、すべてお許し、すべておまかせ・・・と座り込めない自分に気づくのです。だから何ができるのか・・・? 正直、何ができるというものはありません。ここであらためて、阿弥陀さまの願いにかなうこと、つまり称名念仏することしかないことを気づかせてもらうのです。称名念仏することを通して、私ができることを発見していくしかない。それが凡夫のすべきことのように思うのです。

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