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2010年9月30日 (木)

物を申さぬものはおそろしき

 きょうで9月が終わります。このブログは昨年の10月2日から始めましたので、まもなく書き始めて1年が経過します。気持ちの上では、「一区切り」という気持ちになっています。だからといって、休むことはあっても止めようとは思っていません。

 このブログ上でもたくさんコメントをいただきましたし、直接メールで何度もコメントを送ってくださった方もいます。直接会ったときに感想を聞かせてくださった方もいます。ありがとうございます。
 定期的に読んでくださっておられる方もたくさんおられます。その人たちににも感謝します。読んでくださっていることはわかるだけでも励みにもなります。でも、ただ読むだけで何を思っておられるのでしょうか・・・? そこはちょっと不気味ではあります。

  蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を
  申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信不信ともに、
  ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、
  また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ。
(『蓮如上人御一代記聞書』註釈版p.1259)
仏法について語り合う場では、すすんでものを言え。黙って何も言わないものは何を考えているかわからず、おそろしい。信心を得た者も得ていない者もともに、ともかくものを言え。ものを言えば、心の底で思っていることも聞こえ、また間違って聞いていることにことがあれば人に治してもらえる。だからものを言うことが大切である。

 蓮如上人のおことばです。自分の思いのところをさらっとながすことも、ひとり思案をすることも、仏法聴聞の上からは何にもなりません。心が動けばその動きを、心が動かなければその様子を話せばよいのです。そんな人間的なつながりが、「お育て」となってゆくのでしょう。
 「ものを言えば心底もきこえ」というのは、日常生活のなかではよく経験することです。「言うべき時に、言うべきことを、言うべきことば」で言うというのが理想です。冷静で、理性的であればそういう対応ができるでしょう。しかし、なかなかそうはいきません。「言わなくてもいい時に、言わなくてもいいことを、言ってはならないことば」で言ってしまうのです。そのことで人間関係に影響を及ぼしますが、そんなことを言ったその人の心の底が見えてくるのです。よけいなことは言わない方がいいのです。
 しかし、仏法を語り合う場というのは「お育て」の場です。冷静で理性的になって状況を読み、ことばを選ぶのではなく、心底をあらわにだすことが必要でしょう。

 いろんなコミュニケーション手段が次々に出てきますが、自分からコミュニケーションしようという気持ちがなければ、どんな手段も無益です。このブログで言えなければ、法を語り合える友・同朋に同行に、自分の心底を話してみてください。怖い気がしますが、それが自分を守る鎧です。

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2010年9月29日 (水)

仏教者としてどう生きる?(3)

 一昨日の「仏教者としてどう生きるか(1)」について、複数の人からご意見をいただきました。「教条的できれいごと」「ピンと来ない」「私はそのように生きることはできない」「本音とたてまえを使い分けることか」「仏教者って僧侶のことならわかるが、私は僧侶じゃない」等々。

 まず、日本社会のなかでは、仏教者や念仏者と意識している人はそんなにいないと思われます。聞法に励み、聖教をよく読んでいる人についても、第三者が「あの人は仏教者だ」と思ったとしても、当の本人は自分をあえて仏教者と言うことはないかもしれません。念仏者にしてもいつも念仏しているからとして、自ら念仏者だというのを聞いたことはありません。
 私も普段は使わないことばです。しかしここでは使うのは、仏教者や念仏者とあえて意識してみたいという思いからです。ことばは「聞法者」でもいいし、「念仏する者」でもいいのです。

 私たちは「いかに生きるか」と問わなくても生きることができます。私も人生の重大問題として「いかに生きるか」と問うてはきませんでした。それでも、私が求めたわけではないのに、仏法に出遇い、念仏を称えていました。だからといって、私の何かが変わったわけではありません。相も変わらず「いかに生きるか」といつも考えているわけではありません。それなら仏法と出遇う前の私と同じです。
 それが大きなよろこびというほどのことはありません。日々の生活のなかでしみじみと自分を見せられハッと気づかされ、念仏している。はっきりことばにもできないようなかすかな思いのなかで念仏しているということもあります。普段はろくなことしか考えていないつまらん奴ですが、そんな私に阿弥陀さまがつねに寄り添っていてくださっている。よろこびは大きくなくとも、これはたいへんなことであると感じます。

 そんな思いは、何も考えず、ただ自分の思いだけにまかせて生きているだけではすまない自分がどこかにいるのです。どう生きればいいのかと考えるのです。しかし自分の思いのままに生きるのではなく、どこかで仏法と出遇い、念仏が口から出るようになった身とさせていただいた者として、「いかに生きるか」なのです。
 誇るわけでも、押しつけるわけでもありません。聞かせていただいた自覚としての「仏教者」であり「念仏者」です。また僧侶だから仏教者でもないでしょう。仕事としての僧侶もいるのですから。

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2010年9月28日 (火)

仏教者としてどう生きる?(2)

 “仏教者あるいは念仏者であれば、自由奔放にどのように生きようが許される。そのような者でさえ救うというのが、仏教の自在性だ”。このような考え方は、現代日本社会のなかでは受けるでしょう。一方、戒律を重んじる生き方は、現代日本社会のように規範が崩れつつあるからこそ、そんな仏教に期待するという、根強い賛成者がおられます。
 しかし、私がここで仏教者・念仏者の生き方と問うのは、社会的に受けるとか、根強い賛成者の人たちへの影響力を考えているのではありません。昨日、仏教者の生き方を具体的に例をあげて、「少欲知足」という価値観の実践、日本国憲法第九条の具体化ということを書きましたが、社会的な運動が必要だと提起したのではありません。仏教者・念仏者としての私のきわめて個人的な思いであることをお断りしておきます。

 人間が社会的な環境や状況の影響を強く受ける社会的存在であることは承知しています。僧侶のなかでもそういう思考は強いとさえ思っています。社会や組織が教えを変え、人間をつくりだすことに間違いはありませんし、その教えや人間によってまた社会や組織が形作られてゆく。そんなことを寸分も疑ってはいません。
 にもかかわらず仏教者・念仏者としての個人的な生き方だというのか? それは、“私が生きてきた”という強い思いばかりでしたが、さまざな経験のなかで“生かされてきた”という思いも次第に大きくなりつつあるということにあるような気がしているからのように思うのです。

 我執も、煩悩も一向に衰えはしません。むしろ激しさを増しているとも思います。ただ以前と違うのは、我執や煩悩がよく見えるようになってきたということです。私の我執や煩悩の全貌が見えているわけではないでしょうし、それで我執や煩悩が弱くなったり無くなってるわけでもありません。
 阿弥陀さまには我執も煩悩も許されています。我執や煩悩こそが阿弥陀さまのお目当てだと聞き申し訳ないと思い恥るのです。しかし許されたからといって、我執や煩悩が善でもありませんし、人に勧められるものでもありません。にもかかわらず恥じたとしても、我執や煩悩を無くしたり減じたりするようなことを考えたり行動するかというと、まず無いでしょう。「恥ずかしい」「もったいない」「ありがたい」ということばだけです。むしろ「それが凡夫の姿だから」なんて居直ってしまう。

 私たちの祖父母にあたる真宗同行たちは、禁欲的とさえ思えるほどの生活をしていたように思います。社会が貧しかったから、厳しい時代のなかを生きてきたからということもあるでしょう。しかしあまりにも豊かになりすぎた社会や時代のなかでうかれ、おぼれてしまっているしまっているわが身です。社会や時代が豊かになっても、同じ人間としての本質は何も変わっていないのですから。

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2010年9月27日 (月)

仏教者としてどう生きる?(1)

 仏教徒として、あるいは念仏者としてどう生きるか? これは、若いときからの私の課題で、たびたび考えてきたことです。機会があれば、関心を持っている人たちと話したり、関連する本を読んだりしてきました。しかし実際に行うことなしに頭のなかで考えるだけでは意味がありません。考えていることができないのが人間だ・・・と言われればそれまでですが、だからと言ってそういうことばに乗り切ってしまうこともできません。
 もともと、生きるということは、多くのいのちを奪い、犠牲にし続けるということです。たとえば、仏法の十悪に示された最初の「殺生」を犯さずには生きられません。いのちをつなぐための食べるものは致し方ない・・・と、自分で納得させてしまうしかありません。

 私たちは何もできない凡夫。そうとしてしか生きられない。だから阿弥陀さまにすべてをまかすしかない。この世でどう生きるかということなど、阿弥陀さまは問題にされないのだから、どう生きてもいい。許されて生きるのだから。一つの考え方かもしれません。実際の私の生き方はまさにこの生き方です。しかしそれではどうも居心地が悪い。
 法律さえ犯さなかったら、この世で何をしてもよいだろうという考え方を持った人は少なからずおられるでしょう。自由を謳歌していると言えば格好いいかもしれませんが、そのために多くの人たちに迷惑をかけ、人間として生きるための関係があちこちでこわれ、問題が噴出します。
 阿弥陀さまに許されて生きるということと、自由を謳歌して生きるということは次元が違う、という言われる人もいるでしょう。しかし私にはどこか共通点があるように思えて仕方ありません。

 そのような考えの極にあるのは、上座部仏教的戒律の重視です。たとえば「不殺生」の実践です。いのちを奪うことなく生きることなどできようはずはありません。しかし粗食、少食にして、しかも完全に動物性の食べ物を断つという生き方です。またどのような戦争であれ反対します。しかし社会のなかで生きていれば、争いごとは絶えませんから戦争状態となることだってあることです。その場合でも、決して人を殺すことなどしない。それはいつ殺されるかもしれないということにつながっています。たとえ殺されることになったとしても、決して相手を怨まない、傷つけることはしない、ということでもあります。

 いま、私は前者的な生き方をしていますが、仏教徒としてあるいは念仏者として生きる生き方は後者の方であると強く思うようになっています。後者のような極端な生き方はできなくとも、「少欲知足」という価値観の実践であったり、日本国憲法第九条の具体化であったりするのだと思うのです。
 もちろん、他人に強制したり、組織的に義務づけるというようなことではありません。もちろんどのように生きようと念仏を口にして生きることしかないのですが・・・・。

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2010年9月26日 (日)

こうも聞こえにゃ 聞かぬがましよ

 いまから約200年ほど前、現在の山口県下関市にある六連島にお軽という真宗の同行がいました。妙好人と呼ばれる篤信の婦人です。彼女は次のような歌を残しています。

 こうも聞こえにゃ 聞かぬがましよ
 聞かにゃおちるし 聞きゃ苦労
 今の苦労は 先での楽と
 気やすめいえど 気はすまぬ
 すまぬこゝろを すましにかゝりや
 雑修自力とすてられゝ
 すてゝ出かくりゃ なほ気がすまぬ
 思えば有念 思わにゃ無念
 どこにお慈悲があるのやら
 どうで他力になれぬ身は
 自力さらばとひまをやり
 わたしが胸とは手たたきで
 たった一声聞いてみりゃ
 この一声が千人力
 四の五の云うたは昔のことよ
 ぢゃとて地獄は恐ろしや
 なんにも云わぬが こっちのねうち
 そのまま来いのお勅命
 いかなるおかるも 頭がさがる
 連れて行かうぞ 連れられましょぞと
 往生は投げた投げた

 阿弥陀さまのお慈悲を聞きたいけれど、自力の心にとらわれてなかなか聞けないという経験をした人には、響くものがあるのではないでしょうか。聞きたいし聞かねばならないという思いばかりが先にたつばかりで、聞けない。聞くのをやめようとも思うけれど、やめられない。自力の心にほんろうされ、「思えば有念、思わにゃ無念」です。「どこにお慈悲があるのやら」とも言いたくなりますが、言ったところでどうなるものでもありません。ほんとうに難儀です。
 
 阿弥陀さまのお慈悲を聞くのは易き道と思ったけれど、そう簡単には聞けません。阿弥陀さまのお慈悲が無理難題なのではなく、聞く側がお慈悲を真受けすることができないだけのことです。
 いまの時代、勅命にしたがうなんて誰も望まないでしょう。教育を受け、技術を身につけ、社会で認められる存在になるほど、自分でがんばれるし、自分でできると思っています。自分が頼れるものは自分自身以外にないと思ってしまうのでしょう。この世を生きるにはとても力強い生き方です。

 しかし、いつもそんな計画通りにいくとは限りません。だれでもそんな生き方ができるとも限りません。まさか、私に限って・・・、なんてことが、次々起こるのです。
 そんな私を見透かし、見通してできあがったのが阿弥陀さまのお慈悲、誓願です。そのお慈悲を、誓願を、「たった一声」聞くのです。
 お軽同行は、最後に「往生は投げた投げた」と。往生は阿弥陀さまのおはたらきによるものです。「そのまま来いのお勅命」があったから、それにすべてをまかせた。お軽同行とって一番の問題であった自分の往生をあれこれ心配する必要などなくなったのです。
 
 さて、あなたは、お軽同行のこの歌のどこに居ますか? 


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2010年9月25日 (土)

阿弥陀さまから差し向けられて

阿弥陀さまから、
いのちを差し向けられ、
願いを差し向けられ、
仏法を聞くご縁を差し向けられ、
念仏を差し向けられ、
共に聞く同行を差し向けられ、
聞く時間を差し向けられ、
帰命するこころをさしむけられ、
念仏する口を差し向けられ、
手を合わすことを差し向けられ、
・・・・・
・・・・・

 阿弥陀さまの心をいただくための、すべてのものが差し向けられているにもかかわらず、疑う心一つで、阿弥陀さまから差し向けられたものすべてを無為にしているのです。もったいないとも、申し訳ないとも思わず、わが思い一つですべてをはねつけているのです。

 それでも阿弥陀さまは、いままでとかわらず、つねに私に向かって大きな願いを差し向けてくださっています。

 なぜ聞かぬ、なぜ聞けぬ、なんて責められることはありません。これまでズーッと見捨てることなく差し向け続け、待ち続けてくださいました。そしてこれからも決してあきらめることなく差し向け続け、待ち続けてくださるのが阿弥陀さまです。
 阿弥陀さまのいのちは途切れることはありませんから、いつまでも差し向け続け、待ち続けてくださいますが、この世の私の命がいつまでももちません。今、聞かないと聞けないのです。

 「やっぱり私は聞けないわ」「どうしたらいいの?」って、自分ばかりを見ないでください。阿弥陀さまが差し向けてくださっている心を、願いを見て(聞いて)ください。
 念仏する者を必ず浄土に生まれさせると誓われて、いま念仏を称える条件を整えてもらって、念仏するまでに育ってもらっているではありませんか。それも、自分ががんばったからじゃない。阿弥陀さまから差し向けられたから整ったのです。

 念仏の一声が、阿弥陀さまから差し向けられた阿弥陀さまの願いです。私の思いに何の用事もありません。念仏の一声だけを阿弥陀さまが待っておられるのです。

 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、・・・・・・・

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2010年9月24日 (金)

必ず救う、われにまかせよ

 「帰依」「帰命」は仏教を理解する上でのキーワードの一つでしょう。「優れたものに帰投し、伏依すること」「自己の身心を捧げて信順すること」「絶対の信をもってよりどころとすること」さらには「まかせること」などと説き明かされます。
 浄土教のなかでは、「帰命」を「帰投身命」(自らの身命を阿弥陀如来にささげて救いを請う)、「帰還命根」(迷いの命を捨てて阿弥陀如来のさとりの命に帰る)、「帰順勅命」(必ず救う、われにまかせよ)などと解釈されています。これら浄土教の教えでは、“優れたもの”とは阿弥陀如来のことです。“信順”し、“よりどころ”とするのは阿弥陀如来以外にはありません。

 このように、阿弥陀仏に身命をささげ、救いを請い、迷いを捨て、まかせる・・・ということばが続くと、私が阿弥陀仏に対して能動的にはたらきかけ、自分で主体的にやっていかなければねばならないと読めるでしょう。
 他の宗教においては「信仰」とも言われています。仏教においては「信心」ということばでもあらわされます。これらのことばからも、能動的、主体的に信仰すること、信心することが必要であると一般には考えられているでしょう。

 どうしてもそこのところにつまづくのが、浄土真宗の安心を求めている人です。能動的、主体的に求めるほど迷路に入ってしまうのです。身命をささげきれないし、まかせきれないのです。
 しかし阿弥陀さまはそのようなことを願いも望みもしておられません。阿弥陀さまの願いはただ一つ、すべての衆生を救いたいのです。救わねばならないと思い、居ても立ってもおられずはたらいてくださっているのです。
 「必ず救う、われにまかせよ」と思っておられるだけではなく、その受け皿をしっかりと準備してくださっています。この受け皿に飛び込めとおっしゃってくださっている。どこへ、どのように飛び込んだらいいのか・・・? そりゃぁ、わかりませんわねぇ。一か八かで岩場から飛び込むのと同じではありません。「必ず救う、われにまかせよ」と聞かされたら、その阿弥陀さまの呼びかけに「ハイ」とそのまままかせるだけのことです。

 そんなことを考えてみると、どの宗教、宗派の人の中でも、神や仏の前にぬかずき頭を下げる敬虔な人がいます。命がけで自分の信仰、信心を求め、神や仏まえで真摯に向き合っている姿に感動することがあります。しかしそれは他人のことです。
 自分が敬虔で、真摯に阿弥陀さまと向き合って、「まかせよ」といわれたら「ハイ」とまかせることができますか。とても簡単そうですが、自我にとらわれてガチガチになって苦しむ。また我執の壁に阻まれ、身動きとれなくなってしまっています。まかせることができないのが「疑心」です。まことがまことと感じられない心です。凡夫の心です。迷いの心です。帰依できない心です。

 いくら聞いてもなかなか聞けないのが阿弥陀さまの心です。阿弥陀さまの心(願い)が届いたときが、帰依できたときです。私の中にはない心ですから、私ががんばってもしかたありません。

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2010年9月23日 (木)

仏教の繁盛は?

 仏教の繁盛って何でしょうか? たくさんの人が集まり、多くのお金が寄付され、大きな伽藍や聖堂を建て、そこにまたたくさんの人を集めることでしょうか。 マスコミをたびたびにぎわし、多くの人の注目を浴びることでしょうか。
 いずれにしても、たくさん、多く、大きなという形容詞が並ぶだけで繁盛していると感じることには違いありません。かつて、私もそのように思っていたことがあります。高度経済成長の中で育ちましたから、“重厚長大”が繁盛であると。
 大切なことは、誰にとっての繁盛か、ということです。上記の繁盛は、社会的繁盛として見ているということでしょう。日本の仏教各宗各派も、社会から注目される工夫をしています。社会的繁盛は決して無駄ではありませんが、行き過ぎると目が社会にばかり向いてしまい、人のことが見えなくなってしまいます。

 私にとって仏教の繁盛は、私が教えに従って生きることだと思うようになっています。また教えに従って生きる人と思いを交わし合うことだとも思っています。
 教えに従って生きる人がたくさんいて、一度に100人が集まったとしても、思いを交わし合えません。同じ思いの人が1000人いても1万人いてもいいですが、一度に思いを交わし合えるのはせいぜい10人くらいの範囲ではないでしょうか。できれば2人~数人ならより深く思いを交わし合えるでしょう。
 教えに従って生きるというのはとても難しいことです。たとえば、八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)です。見ることも思惟することもことばを使うこともできます。しかし“正しく”実践することが大事なのです。涅槃に至る基本的な実践(あるいは修行)です。読み聞いて頭で理解することはできてもなかなかできませんが、同じ道を歩む人がいればともに仏教繁盛につながると思うのです。

 しかし完成度の高い実践ができれば、繁盛の度合いはさらに高まるでしょう。それは称名念仏です。すでに阿弥陀さまによって願いが込められ、働きが込められ仕上げられた念仏を称えるだけです。ところがこれができない。口にするのはとても簡単なのに。
 難しいことは考えずに、だまされたと思ってまずは称えてみよう・・・というのも一つの方法かもしれません。ただ、疑心暗鬼のまま称名念仏では、教えに従っていません。念仏しながら、私を生かしめてくださっている阿弥陀さまを疑いだましながら称えているのですから。「私は疑っていません」「念仏はありがたいというのは、私の正直な気持ちです」というのはよく聞くことばです。
 他人はだませても、自分で間違いないと思い込んでも、阿弥陀さまからの念仏のいただきようを、教えに従って生きる人たちと交わし合えばわかることです。

 いま、仏教の教えに従って生きている者たちが、ともに教えのいただきようを交わし合えていない。仏教に魅力を感じる人が多いのに、教えに従って生きようとする者に魅力がないから引いてしまう。腹を割って、格好つけずに教え(念仏)のいただきようを交わすことなくして、仏教の繁盛はありえないことではないでしょうか。

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2010年9月21日 (火)

真言を採り集めて、往益を助修せしむ

親鸞聖人の『教行信証』は、自身の信心を教典や先師たちの論によって論理的に間違いないことを明らかにした書物です。その最後に、七高僧第四祖道綽禅師の『安楽集』のご文を引用されています。

  真言を採り集めて、往益を助修せしむ。いかんとなれば、
  前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、
  連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。
  無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり。(『教行信証』註釈版p.474)
真実の言葉を集めて往生の助けにしよう。なぜなら、前に生まれるものは後のものを導き、後に生まれるものは前のもののあとを尋ね、果てしなくつらなって途切れることのないようにしたいからである。それは数限りない迷いの人びとが残らず救われるためである。(『顕浄土真実教行証文類』現代語版p.646)

 ちょうど今、秋のお彼岸期間中ですから、「前(さき)に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪(とむら)へ、連続無窮(れんぞくむぐう)にして、願はくは休止せざらしめんと欲す」という文章だけをみると、先祖供養を代々にわたって執り行うことが勧められているように読めてしまいます。しかしその部分だけでも注意してみるなら、「後に生まれんひとは前を訪へ」と記されています。とむらうは、「弔う」ではなく、「訪う」となっています。弔うは「死者の霊を慰めるために追善供養を営む」ことです。訪うには、弔うと同じ意味がありますが、訪問する、安否を問う、見舞うという意味とともに、探し求めるという意味があります。

 道綽禅師は、先に生まれ私を導いてくださった真言(真実のことば)を往生の助けにしよう、と言うのです。また、先に生まれた者、後に生まれた人というのは、単純にこの世の生まれた順番を言うだけではないでしょう。
 私を導いてくださった真言に気づくことができないまま、ただ漠然と日を過ごしてしまいがちです。だから「前を訪へ」と言われる。先達のおっしゃったまことのことばを探し求めなさい、と言われているのです。

 まことのことばですから、連続無窮、つまり果てしなくつらなり途切れないようにしたいとも言われているのです。またそれは、親や親族、師や先輩諸氏を情のところでのつながりではありません。
 死者や先祖を追善供養するという凡夫の思い上がりを厳しくいましめ、先達たちの思いを心に刻み、その人たちが示されたまことのことばをたずねてゆくという謙虚さを述べられています。

 先祖供養・死者の追善供養は、日本人の持つ精神的な美しさであると、私は思っています。しかしオブラートのような皮一枚めくれば、思い上がり、傲慢の思いなのです。真言さえも往生の助けでしかないのです。思いを超えて、行為を超えて、称名念仏させていただきましょう。それしか、無辺の生死海を尽くすためにも、それしか道はありません。

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2010年9月20日 (月)

自動誘導されてゆく仏道

 仏の教えを求めることを「求道(ぐどう)」と言います。野や山の道は、多くの人が同じところを何度も歩いて通って踏みしめられたところにできます。求道も、すでに多くの人が歩まれた道をたどってゆくことです。ただ、道は一本ではありませんから、あれこれと求める過程で迷うことがあります。そこで、すでにその道を歩いた先達に導いてもらわねばならないのです。求道とは、私の歩む道を導いてくださる先達に出遇うことなのかもしれません。

 ところが、求道の過程でさまざまな思いがあらわれてきます。たとえば、多くの法話を聞き、先輩の求道者の姿や言動に接し、「~のようになりたい」「~のようにならねばならない」などと、つい勝手に思い込んでしまうものです。信がないからそのように思い込まないと落ち着かないのでしょう。歩むべき道を求めているのではなく、歩んでいる人の姿や言動にとらわれてしまうのです。
 あの人と同じようになりたいと思ってみても、その思いは自分の頭のなかに作りあげた妄想や虚像でしかありません。歩むべき足もとを見ていないから、道を踏み外していつのまにか迷い続け、出口の見えない迷路に入り込んでゆくばかりです。
 自分の好きな道を歩むのではありません。指し示された道を歩むのです。教えのなかで「・・・せよ」と示されているのならそのとおり素直に従えばよいことです。しかしそのとおりできないことばかりです。

 私を導いてくださる多くの先達たちも、先輩の求道者たちも、阿弥陀さまによって導かれてきた人たちです。ということは、私も阿弥陀さまに導かれているということです。そこを聞き違えてはなりません。
 阿弥陀さまは、「念仏せよ」という道と歩みを同時に示してくださっているのです。「~のようになりたい」「~のようにならねばならない」と思う必要はありません。踏み外して迷う余地はありません。念仏するという歩みをさせていただくことが、浄土への一本道なのですから。
 そう言われてもあれこれ自分の思いがでてきます。そのことが道を踏み外すことではありません。自分の思いによって念仏しないことが道を踏み外すことです。念仏によって踏み外そうとすることに気づかされます。始めのうちはかなり意識しながら念仏している私が、いつのまにか念仏によって、自動誘導されていくのです。

 私を導いてくださる先達ってどんな人、って思い悩むこともありません。日々念仏しつつ生活する人であり、念仏せよと勧めてくださる人です。

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2010年9月19日 (日)

願いのなかに取り込まれていく私

 仏法を聞くということは、真実に目覚めた仏が示された教えを聞くということです。阿弥陀さまのはかりしれない願いを聞かせていただき、うなづき、疑いの心がないということです。はかりしれない願いというのは、私の智慧や知識の範囲をはるかに超えた願いであり、社会的な常識をも越えた願いです。ですから、仏教や真宗、あるいはさまざまな分野の勉強をコツコツすれば聞けるというものでもありません。また、教えを聞くということは、賢くなるわけでも、偉くなるわけでも、すばらしい人格者になるわけでもありません。
 これらのことは、なかなか社会のなかで広く受け入れられにくいところなのかもしれません。空気を読み、社会の常識に従い、多くの知識を蓄え、さまざまな経験をすることがとても重視されます。賢く偉くなることが、できるなら人格者といわれるようになることが、この世のなかでの立派な人なのです。

 そういうことからすれば、仏法を聞くということは、この世の価値観をいったん捨てないと聞けないということです。私の頭のなかにあるこの世の価値観は、仏法を聞く上には役にたたないどころか、むしろ邪魔にさえなっているのかもしれません。仏法を聞くことは、この世の価値観は何の役にもたたないと知らされることでもあります。
 とはいっても、人間である限り、また生ある限り、この世の価値観など捨てることなどできません。この世の価値観が仏法を聞くために役にたたなくとも、この世を生きる人間である限り必要なのです。それではこの世に生きる限り仏法は聞けないのか、と思ってしまいます。

 はかりしれない願いを聞いているのですが、私の頭のなかのフィルターを通して理解しようします。わかろう、わかりたい、わからねばならないと頭をはたらかせて、私の智慧や知識のなかにはかりしれない願いを押し込めようとしているのです。そうなるとはかりしれない願いではなくなってしまっています。
 聞きたいという私も、聞かねばならないという私も、聞けないのかもしてないという私も、もしかするとすでに聞いているというこの私も、迷いの根は同じです。どこまでも私に頼って、私の思いにとらわれてしまって、私からでることができない私です。仏法を聞くことは、その私の執着に気づかせていただき、阿弥陀さまの願いを聞かせていただくことです。私のなかに願いを取り込むのではありません。私がはかりしれない願いのなかに取り込まれて(抱かれて)いくのです。

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2010年9月17日 (金)

王舎城の悲劇(5) 恩徳広大釈迦如来

  恩徳広大釈迦如来
  韋提夫人に勅してぞ
  光台現国のそのなかに
  安楽世界をえらばしむ
   (『浄土和讃』註釈版p.569)
釈迦如来は、韋提希夫人のために光明を放って、そのなかに十方諸仏の国土を現わされ、そのなかから韋提希に阿弥陀仏の浄土を選ばせ、願生させた。まことに釈迦の恩徳は広大である。

 この和讃は、観経和讃の冒頭の和讃です。この「王舎城の悲劇」に関する和讃の一番最初にある和讃です。

 お釈迦さまは韋提希夫人の苦しみを知り、『法華経』をお説きになっておられる途中にもかかわらず中断されて、韋提希夫人に諸仏が建立されたありとあらゆる浄土を見せられたのです。それらを見られた韋提希夫人は、そのなかからもっともすぐれた阿弥陀さまが建立された浄土を選ばれました。
 「勅してぞ」というのは、命令してという意味で、「えらばしむ」は選ばせたという意味ですが、決してお釈迦さまが命令して選ばせたのではありません。どれもすばらしい浄土でしたが、阿弥陀さまの浄土を選ぶしかなかったし、選ばずにはおれなかった。命令はしていなくとも、数ある浄土のなかで、阿弥陀さまの浄土を選ぶのは必然だったのです。
 これはお釈迦さまだからこそできたことです。恩独とは、たとえようもなく大きな利他のはたらきです。お釈迦さまは韋提希夫人のためだけではなく、すべての衆生にも、同じような恩徳をあらわしてくださるがゆえに、「広大恩徳」なのです。

 お釈迦さまは、ここが機縁の熟したところと見通されたのです。親鸞聖人は『教行信証』総序のところで、「浄邦縁熟して、調達(提婆達多)、闍世(阿闍世)をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり」(註釈版p.131)と述べておられます。
 悲劇が転じられて、韋提希夫人は浄土への道を歩まれることになるのです。それは韋提希夫人だけではなく、この物語に出てくるすべての人たちが歩まれる道でもあったのです。

 自分にふりかかってくるさまざまな苦しみや不幸の原因は、自分以外の人や物やことがらにあるのだと責任転嫁をしてしまっています。さらに、責任転嫁した人や物やことがらがに怒り、恨みをいだき、簡単に消えることはありません。そしてその怒りや恨みがまた次の苦しみや不幸を生み出しています。その姿(=心)が愚かであることは当事者にはわからないのです。
 愚かな姿を知らしめてくれる、わが心の内を映しだす鏡が仏法でしょう。韋提希夫人もお釈迦さまにその仏法を示され遇われたのです。仏法を聞くということは、教えという鏡の前に立たされるというなのです。

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2010年9月16日 (木)

王舎城の悲劇(4) 方便引入せしめけり

  大聖おのおのもろとも  凡愚底下のつみびとを
  逆悪もらさぬ誓願に   方便引入せしめけり
   (『浄土和讃』註釈版p.570)

 「大聖」はさとりを開かれた聖者のことです。聖者となって敬われ尊ばれるだけではなく、還相回向され、人間として姿をあらわして、凡愚低下の罪人・十悪五逆の衆生をひとりももらさず救いとげようとはたらいてくださっているのです。韋提希も頻婆娑羅も阿闍世王も提婆達多も、さらにこの「王舎城の悲劇」に登場した人たちはすべて「大聖」です。
 それぞれに役割を演じることでこの私の姿を示すとともに、その私にこそ阿弥陀さまのはたらきがあることを知らせてくださっているのです。

 現代社会のなかで私たちは、マスコミを通じて社会に起こるさまざまな問題や事件を知らされます。その原因や真意を確かめることなく、善し悪しや好き嫌いの判断をし、他人事のように世間話のネタにしています。しかし心の奥底のどこかで、むなしさや悲しさを感じているように思います。それは、一つ一つの問題や事件のなかに、法のはたらきを感じないからです。
 この世に起こるあらゆるできごとが、縁があれば次の瞬間は問題や事件の主人公になってしまっているかもしれないのです。そのように自分をみることができれば、他人事にはならないでしょう。

  釈迦韋提方便して
  浄土の機縁熟すれば
  雨行大臣証として
  闍王逆悪興ぜしむ
   (『浄土和讃』註釈版p.570)
お釈迦さまや韋提希夫人が善巧方便をくわだてて、浄土の法門を説く時が来て、その教えを聞く根機が熟したのである。雨行大臣が頻婆娑羅のことばを証言することによって、阿闍世の逆害であるこの悲劇が始まったのである。

 私がどうこうすることができるわけではありません。根機が熟す、縁が到来するのを待たねばなりません。しかし人生のなかで、他人には口には出せないが、親しい人にも相談もしにくいし・・・という問題がヤマほどあります。常に私の物語は進行しています。
 せっかく仏法と出遇う機縁が熟しているのに、そのことにさえ気づかない人は少なくないでしょう。そのことに気づくためにも、日常生活の常に仏法受信のためのアンテナを建てておくことが必要でしょう。それは聴聞させてもらうことです。聖典を読み、仏前でおつとめをさせてもらうことなど、さまざまな仏縁に触れることでしょう。そしてなにより称名念仏させてもらうことです。

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2010年9月15日 (水)

王舎城の悲劇(3) 弥陀・釈迦方便して

 仏法を聞くことは簡単なことではありません。どこからでも仏法の縁に遇うことができますが、せっかく出遇った縁を縁として受けることができないのです。遇わせていただいているのに遇っていないのです。

  弥陀・釈迦方便して
  阿難・目連・富楼那・韋提
  達多・闍王・頻婆娑羅
  耆婆・月光・行雨等
   (『浄土和讃』註釈版p.570)
阿弥陀さまとお釈迦さまは、いろんな方便をもって衆生に『観無量寿経』を説かれた。阿難・目連・富楼那の尊者をはじめ、韋提、達多・闍王・頻婆娑羅さらに耆婆・月光・行雨などの大臣はみな聖者として王舎城の悲劇を起こされたのである。

 「王舎城の悲劇」というのは文字通り「悲劇」です。この物語の中心になった韋提希夫人、頻婆娑羅王、その息子の阿闍世王、阿闍世をそそのかし逆害をおこさせた提婆達多という人たちは、それぞれがもっている悪業をぶつけあい、肉親のなかで争いを繰りひろげました。さらに、阿闍世王の逆害をいましめた耆婆大臣と月光大臣、阿闍世の悪逆の縁をつくった雨行大臣などの人たちが物語を展開してゆきます。
 これらの人のそれぞれの業に対し、多聞第一の阿難尊者、神通第一の目連尊者、説法第一の富楼那尊者は、いずれもお釈迦さまの十大弟子の三人が、韋提希夫人や頻婆娑羅王に法を説かれた方々です。

  大聖おのおのもろともに
  凡愚底下のつみびとを
  逆悪もらさぬ誓願に
  方便引入せしめけり
   (『浄土和讃』註釈版p.570)
これらの聖者たちは、それぞれの役割を果たされ、無知な凡夫愚人の私たちを、もらさず阿弥陀さまの大きな願いのなかに引き入れようとされた。

 私たちの生活も、さまざまな人たちが反発し合い、絡み合って繰りひろげる物語です。私たちの関心は、その物語が悲劇ではなく喜劇で終わってほしい、いつもハッピーエンドを期待しています。しかし仏法の上では、すべてのことは縁が重なり合って起こると教えてくれます。縁というのはよいことばかりが重なり合ってよい結果が出るということではありません。あってほしくない、あってはならないと思うようなことが次々と重なりあうこともあります。しかし結果はとても満足できるものであることもあるし、そうでないこともあります。私たちの知識や経験だけではとても見通せるものではありません。

 この「王舎城の悲劇」は、阿弥陀さまとお釈迦さまがいろんな方便を用いて、愚かで十悪五逆の凡夫も救い遂げる誓願に引き入れられたのです。

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2010年9月14日 (火)

王舎城の悲劇(2)

  阿闍世王は瞋怒して
  我母是賊としめしてぞ
  無道に母を害せんと
  つるぎをぬきてむかひける
   (『浄土和讃』註釈版p.569)
閉じ込められた父王に食べ物を運び延命をはかった母に対しても、阿闍世王は顔色を変えて怒った。我が母もこれ賊であると、剣を抜いて、道にそむいて母をも殺そうとした。

 頻婆沙羅王は牢獄に閉じ込められ、食事も与えられませんでした。そのことを知った韋提希夫人は、全身に蜜を塗り、身につけた装飾品に飲み物を隠して密かに頻婆沙羅王のもとへ足を運んでいたのです。そのことを知った阿闍世は、母に対しても怒りを示し、剣を抜いて母を殺そうとしたのでした。

  耆婆・月光ねんごろに
  是旃陀羅とはぢしめて
  不宜住此と奏してぞ
  闍王の逆心いさめける
   (『浄土和讃』註釈版p.570)
耆婆(ぎば)と月光の二人の大臣は、実母を殺すことはいやしい者たちでさえも恥ずべきことである。そのようなことをするなら、国王としてこの国にとどまるべきではないと、阿闍世王の悪逆心をいましめた。

  耆婆大臣おさへてぞ
  却行而退せしめつつ
  闍王つるぎをすてしめて
  韋提をみやに禁じける
   (『浄土和讃』註釈版p.570)
阿闍世をいさめた耆婆大臣は、刀の柄に手をかけながら、後ずさりして退出した。阿闍世は剣を捨て、母を殺すことをやめた。しかし怒りはおさまらず、母・韋提希夫人を牢獄に監禁することとなった。

 阿闍世は、母の殺害を思いとどまりましたが、母を牢獄に閉じ込めました。父に対しても警護を厳しくし、飲み物・食べ物をさえも与えることを禁じました。そのため、王は牢獄のなかでなくなったのでした。
 父の死を知った阿闍世は、ようやく自らの罪に気づき、後悔します。阿闍世の身体には腫れ物がができ、自身が地獄におちてその報いを受けなければならないことを恐れます。母の韋提希夫人は、阿闍世の病を気遣い、お釈迦さまに救いを請います。

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2010年9月13日 (月)

王舎城の悲劇(1)

 親鸞聖人の和讃のなかに、『観無量寿経』を讃談するものが9首あります。そのなかで、「王舎城の悲劇」と言われている物語についての和讃が8首を占めています。和讃とともに、この物語を見てみましょう。

  頻婆娑羅王勅せしめ
  宿因その期をまたずして
  仙人殺害のむくひには
  七重のむろにとぢられき
   (『浄土和讃』註釈版p.569)
頻婆娑羅王は、修行中の仙人が三年後に亡くなり、その代わりに世継ぎが生まれるというお告げを待つことができず仙人の殺害させた。その報いとして七重の牢獄に閉じ込められた。

 お釈迦さまご存命中、マガダ国に頻婆沙羅(びんばしゃら)という王様と、韋提希夫人(いだいけぶにん)という妃がおられました。このお二人の間には子どもがなく、早く世継ぎがほしいと願っておられました。頻婆沙羅王が占い師に相談すると、「山中で修行する一人の仙人が三年後に亡くなります。その仙人の生まれ変わりとして王子様がお生まれになるでしょう」と言うのです。
 頻婆沙羅王は三年も待つことができないから、すぐにその仙人を殺すよう命じます。仙人は殺される前に、「私が殺され生まれ変わって王の子どもとなるなら、王を殺すだろう」と、王を恨みます。直後に韋提希夫人は男の子を懐妊します。頻婆沙羅王は喜びますが、一方で不安な思いがふくらんでいきます。そして生まれたとき、高い楼閣の上から落とすことを考え、その通り実行します。しかし小指を折っただけで命は助かります。その子が阿闍世(あじゃせ)です。
 あるとき、阿闍世は、頻婆沙羅王のことをよく思っていなかったお釈迦さまのいとこであった提婆達多(だいばだった)に自分の出生の秘密を聞かされます。そこことを知った阿闍世は、父・頻婆沙羅王を七重の牢獄に閉じ込め、自ら国王の地位につきます。

 二千数百年前のインドのたんなるできごとではありません。今の世でもこのようなことが毎日毎時くり返されています。それも、どこかで起こっている他人事ではなく、私の身の回りで起こっていることです。また心のなかは、頻婆沙羅王であり、韋提希夫人であり、阿闍世であるのです。それぞれの立場や状況に応じて、起こってくる思いや行動を示してくれているのです。

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2010年9月12日 (日)

自分に惑わされて、大きな勘違い

 聖徳太子の「世間は虚仮なり。唯仏のみ是れ真なり」というおことばは、仏法の基本的な視点を端的に示したおことばでしょう。ところがそのおことばを、私はまともに受けることはできませんでした。まず、世間が虚仮であるとは思えませんでした。いま生きているこの世(世間)が真実ではない(虚仮)世界であったとしてもその世を生きてゆかねばなりませんが、虚仮を前提にして生きることなどできようはずはないと思いました。その後、虚仮の世間の諸相を何度もみることはありましたが、仏のみがまことであるとはとても思えませんでした。

 念仏の教えに接する人も、仏法を聞く人もこんな思いを持つ人は少なからずおられることでしょう。しかし、そんな勝手な思いをひっくり返してしまうのが念仏の教えであり、仏法です。
 学ぶときも、思うときも、考えるときも、行動するときも・・・、いつも中心になるのはこの世であり、私たち人間です。さらにそのなかでも、いま生きている私自身です。念仏も救いも、仏もまことも、すべてが“間違いのない”自分自身の存在が前提です。
 そのことが迷いであり、虚仮だと教えられているにも関わらず、肝心の教えには一向に目を(もちろん心も)向けようとはしないのです。勝手な思い込みで狂ってしまっているのです。

 仏法で示されているわが姿について聞かず、見ず、知ろうとしないまま、自分が頑張らないと道は開けないと思ってしまっている。しかし頑張っても道が開けないことがあるし、頑張って開けたような道が夢幻のようなものでしかありません。第一、頑張ろうという思う気持ちはすぐ折れてしまいます。そして行き着くところは、生老病死の苦に至り着かないのです。仏法はそうとしか説いていません。

 自分の思いに合わないから、あるいは自分の思いを逆なでするから、仏法をまともに聞く気にはなれないと思っておられる人が多いのでしょう。自分の思いをかなえてくれる、自分の役にたつ、自分によろこびや楽しみを供してくれるのであればいいけれど、そうでなければ聞きたくもない、知りたくもないというのではないでしょうか。
 確かに、私たちの日常生活というのは、教えに逆らう生き方しかできません。好き嫌いではなく、冷静に考えても、私の生き方と教えのどちらが正しいことなのかはすぐにわかることです。にもかかわらず教えに逆らうのは、私が狂っているからでしょう。念仏・仏法が悲観的で暗いのではありません。そうとしか見えない私の色メガネの仕業でしょう。
 仏法が示す道こそが、ほんとうのこと(まこと)でしかありません。必ず気づくことなのですが、自分自身に迷わされ、大きな勘違いをして生きているに過ぎません。

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2010年9月11日 (土)

念仏する者におのずとそなわるものは?

 「自分らしく生きる」いうと、誰もがそういう生き方をしたいと思っているし、多くの人たちから肯定される生き方だと思われているのではないでしょうか。その生き方は、ことばを換えてみれば、「自我をむき出しにして生きる」ことでもあります。
 自我をむき出しにして生きるということばの響きはあまりよい印象はありませんが、阿弥陀さまから見た念仏者の生き方は、そんな生き方も含め、どんな生き方も許されているのです。

 ポイントは「阿弥陀さまから見た念仏者の生き方」という条件が付いていることです。だからといって、この社会のなかで何をしてもよいということではないことは言うまでもありません。
 社会のなかで何をしてもよいというわけではないけれど、念仏者であれば許されるということは、阿弥陀さまの願いにかなうからです。阿弥陀さまの願いにかなうものであれば、念仏する者におのずとそなわるものがあるのではないでしょうか。
 念仏する者におのずとそなわるはたらきは、阿弥陀さまにどんな生き方も許されつつも、単に自我むきだして生きるだけではない「自分らしく生きる」ことにつながっているのです。

 念仏する者にそなわるものは何か? それをうまくことばにできませんが、感覚的に「徳」「痛み」「振り返り」などと表現できるような気がします。これに限定されるわけではないでしょうが、きわめて精神的、内面的なものです。
 いただいた念仏と念仏が届いた自分のありようを、ていねいに見たい・感じたいという思いがあります。

 そんなことを思うのは、念仏の者はどんな生き方も肯定され、何でもお許しというところに腰をおろしてしまっているのではないかということを感じるからです。私自身のなかにもそういう部分があります。
たとえば、教えに照らされ、念仏しつつ「申し訳ない自分であった・・・」と感じ、ことばにしつつも生活態度は一向に変わらない。また「変わらないのが凡夫」と居直り、甘えてしまっている。
 凡夫ではダメだから阿弥陀さまは立ち上がり、はたらき続けてくださっているのです。凡夫であること、罪悪深重であることが阿弥陀さまのめあてです。だからといって、凡夫であることに居直り、罪悪深重であるところに腰をおろしてしまうことに、大いなる違和感を感じるのです。ましてや聞き慣れた誰かの味わいのことばの上に安易にのってしまうことに何の意味もありません。

 念仏する者におのずとそなわるものをしっかりと確かめつつ、そこのところを、念仏する者たちが腹を割って、自分のことばで分かち合い・交換するという機会が必要なのではないでしょうか。

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2010年9月 9日 (木)

功徳のうしおに一味なり

  名号不思議の海水は
  逆謗の屍骸もとどまらず
  衆悪の万川帰しぬれば
  功徳のうしほに一味なり
   (『高僧和讃』註釈版p.585)
海水は死骸をとどめず岸に打ち上げるように、南無阿弥陀仏の不思議の功徳は五逆や謗法のものも浄土の岸に打ち上げて、さとりの世界に至らしめる。多くの川が大海に注いで潮となるように、どんなな悪人でも、ただ弥陀の名号を信じるところにすべてを転じて功徳の一味の水となるように、弥陀同体のさとりをひらかせていただくのである。

 「逆謗の屍骸」の逆謗は、五逆罪をおかす人と誹謗正法の人のことです。これらの人を「死骸」であると示されました。
 近代社会以降、人間そのものが尊重され、人間として生きることはすばらしいことであるとされてきました。この世で生きることだけに目が向けられ、成長し、向上し、成功することが人間としてよりよく生きることであると考えられてきました。しかしだれもが成長し、向上し、成功するとは限りません。衰退、低下、失敗することが必然であることもあるのです。それでも「いただいたいのち」「いかされて生きる」などと、いま生きるそのことを全面的に肯定しています。それぞれの生き様によって人間の価値が変わるわけではありませんが、阿弥陀さまの願いとはたらきをいただくことによって、初めて人間として生まれ生きる喜びに遇えるのです。そうでなければ「死骸」だとおっしゃる。
 この言葉は、曇鸞大師の『往生論註』のご文によるものですが、教えと向き合う厳しさをみることができます。

 また、聖人は、お手紙の中で、議論したり賢こぶって振る舞うより、しっかり信心を定めよと述べられています。「信心の定まらぬ人は正定聚に住したまはずして、うかれたまひたる人なり。(『親鸞聖人御消息』註釈版p.772)とも示されています。楽しみを求め、スリリングに生きることをひたすら求めて生きるのが現代人です。しかしそれだけでは決して安心して生きることはできません。信心によって揺るぐことのない心の落ち着きどころこそ大切なことだと示されているのです。

 衆生として生きることそのものが悪なのです。いのちを奪うことなく生きることができませんし、そのほか十悪に示されているどれ一つとも縁無しに1日を過ごすことなどありえないのです。そんなさまざまな悪も、阿弥陀さまのすべての徳をおさめた名号の功徳におさまってしまいます。そのことを誰にもわかるように例を挙げられるのが、数多くの川が海に流れ込むという例です。どんな川も海に流れ込めば、潮水となります。その味は「一味」だと表しておられるのです。
 マスコミに影響されたり、流行に左右されたり、あるいは自分の思いに翻弄されたり・・・・という生き方から、名号の功徳による一味を味わいつつ生きたいものです。

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2010年9月 6日 (月)

いただく念仏

 本日より、ブログを再開します。休んでいる間にいろんなことを考えることができました。「下手の考え休むに似たり」なんて言葉がありますが、よくできたもので、いろんな人から刺激を与えていただきました。怠け者の私に休むなというお諭しなのでしょう。

 私が休んでいる間も阿弥陀さまは休んではおられません。それが単なる知識であれば、ここに書くほどのことはないのですが、阿弥陀さまが「南無阿弥陀仏」とはたらいてくださるから「南無阿弥陀仏」と称えさせてもらっていました。
 よく聞く表現では、“阿弥陀さまがいてくださるように思う”とか、“阿弥陀さまがはたらいてくださっていることを感じる”となるのでしょうが、「思う」のでも「感じる」のでもないのです。はたらいてくださっている阿弥陀さまを感じて称名念仏しているのではない。だからといって、習慣の念仏でもありません。

 「思う」とか「感じる」という言葉の主語が「私」であれば、果てしない時間をかけて思惟され修行された結果のはたらき(=本願)を、休んでいる間に感じるなどということはあり得ないことです。あまりにも傲慢が過ぎます。そういうことからすると、「知らせてもらう」「気づかせていただく」あるいは単に「いただく(戴く)」という先達の言葉の使い方はかなり正確です。
 知らせてもらい、気づかせていただいた結果、阿弥陀さまから与えられた「南無阿弥陀仏」に気づくことができる、称えることができる、心が動かされるということにもなるのでしょう。いあやぁ、阿弥陀さまの願力に驚くほかはありません。
 これらはいずれにしても、私の意思とは無関係にはたらいてくださっているのです。私の意思がまじることのないのが「南無阿弥陀仏」です。

 “阿弥陀さまが感じられない”“阿弥陀さまがはたらいてくださっているとは思えない”ということは、それなりの聞法歴のある人からもよく聞くことです。自分の腹のなかを、あるいは頭のなかを探っているから、そういう言葉になって心が表現される。
 それもこれも凡夫のはからいです。凡夫がはからって、あれこれ好き勝手なことを思ってることがすべてとんでもない的はずれです。それをはずれていないと思っているから凡夫なんでしょうけど。
 でも、その凡夫に、決して間違うことなく願いはたらき続けてくださっているのが阿弥陀さまなのです。疑いという蓋がはずれたなら、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、・・・と称名念仏させてもらうほかありません。

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