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2010年10月31日 (日)

わが心は、教えを通してみせられる

 仏教は心を問題にします。漠然と心を問題にするのではなく、また誰かの心を客観的に分析するのでもありません。ありのままのわが心をしっかりみつめるところからはじまります。他人が私の心をのぞくことができませんから、自分一人でわが心をみつめるというのは難しいことです。みにくいわが心なんてできることなら見たくはありません。かっこいいと思っている自分の心なら他人に披露してほめてもらいたいところでしょう。ところがかっこいいと思っている自分の心は、自画自賛にすぎず、それを披露することでかえってひんしゅくを買うことになってしまうことがあります。

 だれも知らない私の心だと思っていても、私の心の動きは阿弥陀さまによってしっかりみられていることに私自身が気づいてはいません。
 阿弥陀さまは、私の心もそれにともなう私の行為も十二分にご存じです。私のすべてをすっかり見ておられ知っておられるから、そんな私を救わずにはおかないと立ち上がってくださったのです。私が仏法を聞くということは、阿弥陀さまにお願いして私の願いを成就してもらうことではありません。阿弥陀さまが私に向けて、この阿弥陀仏が願い、励み、成就したはたらきを受け取ってくださいと頭を下げてくださっている心を受け取るのです。
 私の心は、その阿弥陀さまがみて、知ってくださっているそのままを聞くことを通して見つめることができるのです。

 このブログのある読者の方から、「毎日お念仏申しているのに、ご信心を得たという確信がもてない」「信心決定した瞬間を感じることができるのか?」という率直な思いがぶつけられました。まず後者の問いには、はっきりとその瞬間を認識する人がいるかもしれませんが、長いお育てのなかではっきり認識できない人もいる。人それぞれのような気がします。
 ただ、はっきり言えるのは信前と信後があることが認識できることでしょう。つまり仏法を聞いてもわからず、教えが腹の底に落ちない自分と、私の姿が教えを通して見えるし、その私にかけられた阿弥陀さまの願いに頭が下がる自分です。阿弥陀さまの願いにうなづけない自分か、うなづけるじぶんかという違いです。阿弥陀さまの願いを疑う自分か、疑いのなくなった自分かという違いです。自分で懸命に見つめてもわからなかった自分の心が、教えに私のありのままの心の姿や動きが示されていることを知らされるのです。

 生活のなかでは、阿弥陀さまのことより自分自身の心にまかせて生きることの方が多いですから、信前信後という違いも見失いがちになってしまうこともあるでしょう。それゆえ先達は、信心の溝をさらえて、弥陀の法水を流しなさいとおっしゃるのです。信心を得たらそれでよいのではなく、信心を得てからありのままのわが心を知らされ、本当の意味での仏法聴聞が始まるのです。

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2010年10月30日 (土)

称名念仏は自分の耳に届くように

 私はこれまで、念仏を称えること(称名念仏)をすすめてきました。大きな声で称え続けるということはできないから、心のなかでお念仏を称えているという人がいました。それがダメだというのではありませんが、できれば小さくても自分の聞こえるくらいの声で「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、・・・・」と称えるのがいいでしょう。称えた念仏が、自分の耳に届くことが大事なことです。

 南無阿弥陀仏は「帰命無量寿如来」と同義であり、「南無不可思議光」とも同義です。この二句は親鸞聖人がお作りになられた『正信偈』の冒頭の二句です。「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」と読み下されてます。
 南無と帰命は同じ意味です。南無はサンスクリット語のnamasやnamoの音を文字にしてあらわしたものです。帰命は自分の身を命を投げ出して仏に帰依することです。あるいは仏の教えにしたがう心です。親鸞聖人は「本願招喚の勅命なり」(『教行信証・行巻』註釈版p.170)と釈しておられます。

 南無阿弥陀仏は、自分の身を投げ出して真実である阿弥陀仏の教えにしたがうことを表明しているのですが、仏さまの話を聞いて、自分の身を投げ出して阿弥陀さまに帰依し、仏さまの教えにしたがうという純粋な心があったでしょうか? 口に念仏しても、身を投げ出してでも教えにしたがって生きるなどとはとても思っていない。念仏することを手柄にして、念仏しているから自分には何かメリットなり利益があるだろうと思ってしまいがちです。きっと良いことがある良いことがあってほしいとか、救われたい、浄土往生できるように・・・、などという思いが先立つものです。
 しかしこれではまったく自分の心にまかせた身勝手な心です。それは南無阿弥陀仏の心とは大きくズレたとんでもない勘違いです。

 南無阿弥陀仏は名号ともいわれます。名前のことです。仏さまの名前だけなら「阿弥陀仏」でもよいはずですが、あえて「南無」と付けて私に差し出してくださっているのです。阿弥陀さまが、私に対して、「私(阿弥陀仏)にまかせよ」という名号となって私のところに来てくださっているのです。ここに勝手な私の心にしたがいまかせるのではないことを知ることができます。
 この心をいただいて、称名念仏させていただくのです。私の心ではありません。阿弥陀さまからいただいた心なのです。その心に、私の身を投げ出し、したがうことが称名念仏でもあるのです。「私(阿弥陀仏)にまかせよ」の心一つをいただき、いつも自分の耳に届くように称えさせていただくのです。

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2010年10月29日 (金)

阿弥陀さまの智慧と慈悲は私のために

 「仏法を聞いてください」という僧侶は少なからずおられます。しかし何をどのように聞けばいいのかよくわかりません。仏法を聞くのにどのように聞くのかという指南はほとんどありません。「どう聞くのかなどという解説が必要なのではなく、とにかく聴聞するしかないのです、仏法をしっかり聞いてください」と言われるでしょう。そういわれればまったくそのとおりです。

 ところが、聞いても聞いてもまったく仏法の核心部分のところが何かわからない法話というのがたくさんあります。仏法をどう聞けばよいのかという指南が必要なのではなく、肝心要のところをズバリ聞かせてもらわなければ話になりません。
 話はおもしろい、例話も豊富、人生訓のようなものも挿入されている。でも、それなら別に仏法といわなくても倫理的や道徳的な講演と変わりはないでしょう。まったく仏法と縁のない人でも、人生を生きてゆくために役立ち、精神的に豊かになる話をする人はおられます。
 仏法は理屈っぽいし、わかりにくい、難しいといわれるから、それに応えるようにわかりやすい仏法の話、楽しい法話が工夫されます。これはとても大切なことではありますが、阿弥陀さまの本願が私をめあてにはたらいてくださっているところが抜けてしまっては法話にはなりません。

 仏法が倫理や道徳とまったく無縁ではありません。しかし仏法と倫理や道徳と決定的に違うのは、阿弥陀さまの願いとはたらきを聞かせていただくことができるのか否かというところにあります。
 阿弥陀さまは智慧と慈悲に限りのない仏さまです。限りない智慧と慈悲を有しておられるだけならそれは宝の持ち腐れですが、それがしっかりとはたらきとなっているところを聞かなければなりません。それもビーム光線のように私にめがけて発せられていることを聞かせてもらうのです。
 形があって目で見えるものなら信じられるが、話ばかりでは物語でしかない、と思われるでしょう。私もそんなとらわれの期間を長く過ごしてきました。阿弥陀さまのはたらきは、光にたとえられているというのは、形が無くてもはたらきがあることを示しています。光には人間の目では見分けることのできない光もあるのです。すべて私が認知しなければ納得しないということその思いこそが傲慢です。

 かたくなで決して開くことのない心が、人の優しさに触れることによって変わっていくということはよくあることです。限りない智慧と慈悲にどっぷり浸っていることに気づかずとも、どっぷり浸かっていることを教えられ続ければ早く気づくでしょう。教えられているにもかかわらず、そこに耳を傾けず自分勝手に生きていてはなかなか気づかないでしょう。
 それでも、どこにどんな縁があるかわかりません。まったく思いもよらなかった事態に至り、智慧と慈悲に気づかせてもらうこともあるでしょう。すでに阿弥陀さまに願われて生かさせてもらっているのですから。

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2010年10月28日 (木)

問題の根幹部分の解決は先送り

 人間の居住地域に熊や猪などの獣の出没が例年に比べると異常に多いとニュースを聞きました。今年の夏の猛暑に起因するとも、里山が機能しなくなっているという指摘もあります。

 かつては里山に生える落葉樹の枝木を燃料にし、そこ育った草を刈って肥料にし、さらに山菜や木の実など食糧を供給してきました。また子どもたちの格好の遊び場で、里山の環境を考え活かし工夫して遊びました。秘密基地を作ったり、木の実・山菜を採ったり、ふんだんにあるおもちゃの材料を集めたり、・・・・。ときには獣に出遇うこともありました。
 豊かさと便利さを求める生活は、里山の燃料を化石燃料に変え、里山からの肥料は化学肥料にしてしまいました。自然の山菜も人工栽培されていきます。里山は荒れはててゆくと、子どもたちは部屋にこもってゲーム機で遊ぶようになります。里山の必要性はなくなり、里山を顧みることもなくなっていったのは、いわゆる高度経済成長以降でしょう。
 まったく人間の都合だけによるものでしかありません。山の獣たちとの緩衝地帯であった里山の自然が荒廃することで、獣たちは直接、人間の住む集落や街にでてくるようになっています。

 野生の獣が人里に出てくることは人間の生活圏が荒らされるということですし、もしかすると身体への危害も心配されます。危険ですから殺すのです。人間が生きていくためには、危険を回避しなければならないのは当然のことのように思えます。しかし人間の都合は、自然を壊し続けてきました。また殺す必要のない獣も殺さざるを得ない状況を作り出してきたことに気づかねばなりません。
 豊かで便利な社会というのは、人間だけが、もっと言うなら私だけが豊かで便利に生きることができる社会と思い込んでいるのではないでしょうか。自分一人だけではもちろんですが、人間だけでも生きることができることはできるはずなどありません。人間の理性を失い、我執にとらわれた本能のまま生きるようになっているからでしょうか?

 だれもが、幸せになろう、豊かに生きたいと思い、便利な生活を望んで生きています。その前に「私たちは」とか「人間は」とか「すべてのいのちあるものが」という主語を付けて言いますが、それはきれいごとです。本音は「私は」という主語が付くのです。豊かさと便利さを求める社会や生活は、だれよりも私が望んでできあがった社会です。またその社会を経験した以上、その豊かさや便利な生活から後退することはできません。
 都会に生まれ育ったのだから里山の存続に直接荷担したわけではないとも思っておられるかもしれませんね。ましてや、今年の夏の猛暑は自然現象だから、人里や街中への獣の出現など知ったことじゃないのかもしれません。
 ・・・と言いつつ、だれもがそう言ってややこしい問題を端に押しやって、だれも責任を取らないまま、先へ先へと問題を先送りしていくのです。先へ先へと・・・。いつまで生きるつもりなのでしょうか? もっとも自分の後生の一大事だって、先送りし続けてきたのですからね。

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2010年10月27日 (水)

阿弥陀さまの合理性

 近代社会というのは理性を重んじ合理的であることを目指してきました。ここで合理的であるというのは、「形式ではなく実質を重んじる」「義理人情や感情に流されず、必要なことだけ行う」「ムダなことをしない」「効率第一」という意味のことです。
 江戸時代やそれ以前の日本社会のなかでも合理性は追求されていました。ただ、社会の動きや時間の流れがゆっくりしたものでしたから、時間をかけて徐々に練り上げられた合理性であったのではないかと思うのです。
 明治時代以降、近代社会の歩みとともに合理性の追求は加速されます。さらに現代社会のなかの合理化は、一切のムダは許さないという空気さえも感じられます。長らく続く経済的な疲弊は、その流れをより鮮明にしているのではないでしょうか。
 そういう傾向が社会全体の傾向としてみられることに、私は息が詰まりそうな気がします。これは私だけではないでしょう。

 合理性を求め合理的であることが悪いこととは思っているわけではありません。問題は、その合理性の基準にあります。人間が生きてゆくということは、形式、義理や人情、感情、ムダなことがいっぱいあります。しかしそれらばかりが表に出ると、社会生活がコントロールできません。ムダをはぶくことによって生まれる関係や文化は、洗練されたものを感じます。その基準は人間の感性であり、人間の非合理的な感覚ではないでしょうか。そんな合理性には感動してしまします。
 ところが息が詰まりそうな合理性には、人のにおいをあまり感じません。基準は「お金」や「規則」です。これらはもともと人間が作り出したものですが、一人歩きし、人間をコントロールしているのです。人間が作り出したロボットがどんどん発達して、そのうちロボットが人間をコントロールするようになるのではないか・・・という話を聞いたことと重なって見えてしまいます。

 人間の思い、思考によってつくり出された合理性によって幸せを感じ、苦悩を味っていることを感じます。そんななかに生きていることを思いますし、そうとしてしか生きられないということも思うのです。
 今の日本社会のなかで息が詰まりそうになっている人たちが求めるのは、非合理的な生き方のような気がします。そのように生きて安堵感を得たとしても、やっぱり苦悩を抱えつつ生きなければなりません。

 阿弥陀さまの願いは、私たち人間からすれば非合理的と映るのでしょう。それゆえ現代社会には受けません。教えを聞き、教えに信順する人たちが少なくなっているから、何とかしなければならないと危機感を抱く人がいます。多くの人たちにご縁をもっていただくための創意工夫は必要ですが、阿弥陀さまの願いが変わるわけではありません。
 勘違いをし、間違っているのは教えを聞く側にあり、教えを説いている人の側にあるのです。基準は阿弥陀さまであり、阿弥陀さまの願いにあります。私たちが聞くべき、頼るべきは「阿弥陀さまの合理性」なのです。

(政府による「事業仕分け」第3弾が始まる日に)

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2010年10月25日 (月)

ジレンマのなかで判断して・・・

 マイケル・サンデル著の『これから「正義」の話をしよう』(早川書房)という本は、すでに60万部売れているといいます。政治哲学の本で、サラリと読める本ではありませんが、そこで示される問題は、とても考えさせられるものがあります。そのうちの一つを紹介しましょう。

 あなたは路面電車の運転士で、時速100キロ近いスピードで走っている。前を見ると5人の作業員が線路上で作業をしている。止めようと思うがブレーキがきかない。このままだと5人の作業員をはねて即死させることになる。しかしその作業員のいる手前に右側にそれる待避線がある。そこにも作業員がいるが1人だけ。その待避線にそれると1人はねることになるが5人は助けることができる。さて、あなたはどちらを線路を走ることを選択するか。

 続いて次のような話が出てきます。

 今度は運転士ではなく傍観者。線路を見下ろす橋の上から暴走する路面電車が走ってくる。その前方の線路上には5人の作業員がいるが、電車に気づかない。ブレーキもきかない。そのとき、橋の上に太った男がいるのに気づく。その男を橋から突き落とせばその男は死ぬが、電車は止まって5人の作業員は助かる。自分が飛び降りてもいいが、小柄なので、それでは電車は止まらない。あなたはこの男を突き落とすか、それとも5人を見殺しにするか?

 この場合は、誰もが男を突き落とすことは許されないというかもしれません。しかし1人を救うより5人を救う方がよいとすれば、なぜ先の例を許せても後の例は許せないのか。橋から人を突き落とすのが残酷なら、線路で1人がはねられるのは残酷ではないのか。橋の上の男は本人の意志に反して利用されてしまうというなら、前者の待避線の作業員も同じではないのか・・・・。

 こんな問題提起がなされるのです。前者の例では運転士、後者の例では橋の上の傍観者の思いと行為によってことが決まるのです。サンデル教授は、このように問題提起し、対話型授業によって「正義」の考え方を深めていきます。

 ここでは、政治哲学の話をしたいのではありません。人間のありのままの姿をみてみたいのです。私たちはこんなギリギリの選択をする場面はたくさんあります。すっきりといくことばかりではなく、ジレンマのなかでの判断を迫られます。自分の思いを基準にしてものごとを判断し、自分で納得して生きています。もちろんすべてがそうではありませんが、あとで自分を納得させるのです。自分の判断・行動はすべて自分を守るためのものです。それが自分の思いのままであれば言うことはありません。
 しかしそれらのことが許されないことがあるのです。自分を守るためと思っていたことが、自分を悩ませ、苦しませることにもなるのです。
 それらの思いや行為に対する善悪の判断が社会的に為されます。また道徳・倫理的な判断もあるでしょう。自分が有頂天になったり、落ち込んだりすることもあります。それらの思いも行為もひっくるめて、阿弥陀さまはそのままの私を受け入れてくださるのです。

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2010年10月24日 (日)

後生=来世を言い換えることができるのか?

 仏法の目的は「後生の一大事」を解決することと言えるでしょう。それは人生の目的と同じだと私は思っています。となると、後生の一大事の解決なしに人生の目的を達することはできないということです。
 ところがこの「後生の一大事」ということばは、とくに「後生」というのはたいへんあいまいなとらえ方をされています。後生は死後の世、来世のことです。現在という時点から後の世を後生という人もいますが、それは違います。生きている間の問題を仏法で解決するという考え方そのものが、仏法全体の見方を間違わせているのです。

 それでは仏法によってこの世の問題は解決できないのかと問われると、「No」とは答えられません。しかしこの世の問題を解決するために仏法を聞くのではないということは、はっきりしておかなければなりません。この世は五濁悪世ですし、そこに生きる私は濁悪邪見の衆生であると明らかにされています。
 仏法を聞き、後生の一大事の解決に至ったときに、何につけても自分中心にしか見ることができなかった私が、仏法という鏡に映し出された自分を見ることができるようになる。それはこの世を生きる力となることもあります。阿弥陀さまからいただいた視点で見ることができたがゆえのおかげです。それはまことを聞くことによる「おまけ」でしかありません。
 仏法を聞き、後生の一大事を解決したとしても、五濁悪世を生きる濁悪邪見の衆生であることには変わりないのですから、この世を生きる限り悩み苦しみを抱えながらの人生であることに寸分の狂いはありません。

 仏法を多くの人に聞いてもらいたいと願う人のなかには、後生が死後の世、来世であると説いたところでまったく通用しないという人がいます。そこで、たとえば、今の生きているそれ以降の生を後生と説くのです。このように説いて、後生=来世はわからないが、これなら後生を理解できるという人がいたとしても、それは意味がありません。「方便」として許されるでしょうか?
 ここは基本的な世界観の話ですから、このような言い換えは方便にはならないし、むしろ仏法によって何を聞くのかがまったくあいまいになってしまいます。
 たくさんの人に仏法の縁をもっていただきたいという思いはとても大事なことだと思いますが、こういう時世のなかでたくさんの人に聞いてもらうことはとても難しいことでもあります。いかに話すか、それによって一人でも多くの人に仏法の縁をもっていただきたいという思いより、一人でもいいから、ご縁のある人との出遇いを大切にし、「後生の一大事」の解決を果たすことしかできないのではないでしょうか。 

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2010年10月23日 (土)

遺影が教えてくれること

 葬儀の時は正面に大きな写真が飾られますが、年忌法要の時に遺影を飾ってほしいと持ってこられる方がおられます。なかには叙勲や表彰の時に撮られたと思われる立派なものがあります。威厳があって、社会的にたいへん活躍されたのだろうと思わされます。またニコニコ笑っておられ、親しみやすく多くの人から慕われただろうなぁと思うような写真もあります。どこかの集合写真からとったためでしょうか、写真の粒子が粗く、ピントが合っていない写真の人もおられます。さらに、とてもいい写真なんですが、亡くなられた年齢からするとあまりにも若く写りすぎの写真もあります。葬儀のための写真なんて、あまり考えておられなかったのでしょう。

 そんなさまざまな写真を見るにつけて思うことは、人生のある一コマを切り取った写真にどのような表情で写っていても、だれもがこの世のなかで身につけていたものを一切置いてこの世の命を終えていったという事実です。遺体は時間ととも腐敗し、火葬後は骨と灰が残っているだけです。
 蓮如上人は、『御文章』のなかで「朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり」(註釈版p.1203)と述べられています。このことばで聞くだけで人生のはかなさやあわれさを感じます。それよりも亡くなられた人とついこの間まで話をしたことを思い出しながら通夜、葬儀、収骨、納骨等々を経験する人たちは、蓮如上人のことばを実感するしかありません。悲しみにくれ、食事も喉が通らなくなったり、憔悴しきって日常生活に支障をきたす人もいます。

 しかしそれは、これまで続いてきたこの世のなかでの親密な関係が切れたことへのショックでしょう。あるいは亡くなった人への不憫と思う気持ちが強いからでしょう。死という現実が自分にもやってくることへの驚きであることはないでしょう。
 生・老・病の苦しみを、どれだけ聞かされても他人事です。しかし人生のどこかで必ず経験します。しかし死苦は、生きている限り自らの死を経験することはありません。すべて人の死を見て過ごすだけです。

あらためて蓮如上人の『御文章』の「白骨の章」をみると、「おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり」「われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげし」(いずれも註釈版p.1203)と示されています。
 誰のことか? 私のことです。このことがピンとこないということが、三毒の煩悩の「愚痴」です。物事を正しく認識したり判断したりできないという私の姿であり、一切の道理にくらいことです。

 遺影は、威厳を保っていても、ニコッとほほえみかけていても、「この世のいのちは終わるよ」「うかうかしてたら虚しく人生が過ぎてゆくよ」「持って行くものは罪業だけよ」と、私自身に教えてくれているように見えるのです。

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2010年10月21日 (木)

亡き人と心を通わす

 形だけの儀礼を派手にやるためには、大きな経済的にも時間的にも大きな負担を背負わなければなりません。かつてはそれが力を示す一つのバロメーターでした。また儀礼を執行するための準備の段階で、また儀礼そのものによって多くの人たちの気持ちが一つにする効果もあります。このように社会的行為として儀礼を分析することができます。
 しかし儀礼にはきわめて重要な宗教的な要素もあります。人が持っている強く、そして深い思いを何とか形に顕したいとして、洗練され続けてきたものが儀礼です。どんな種類の儀礼であるのかに合わせて衣装や飾りは儀礼にふさわしい美しさをもち、そこに似合いの音楽も入り、行為に意味を持たせてできあがっています。直感的・感覚的に何かを感じ取れるものに仕上がっています。それは儀礼に参加しなければ感じ取ることはできません。

 葬儀はその儀礼の一つです。具体的に、親の葬儀ということを考えてみるなら、小さいときからの数限りない思いだけではなく、自分が気づくことができない親の恩、親の心情、さらには親とのさまざまな関係を振り返る機会でもあります。
そんななか、できるだけたくさんの人に来ていただき、多くの人に最後の儀式を見届けていただきたいという人がいるでしょう。一方、あちこちからわざわざ来ていただくことが迷惑をかけることになる。親の恩や心情、さらには親との関係を大事にするなら、親の生前にほんとうに親を慕い、関係の深い人たちだけでしんみりとした式をあげたいと思うかもしれません。また、念仏一つが大切であり、その他のものは一切必要ない。親鸞聖人も屍は加茂川の魚に与えよといわれたくらいだから、葬儀をしないで献体することですませたい・・・など割り切ることができればそれも一つかもしれません。今では葬儀への思いは千差万別かもしれません。

 どのような形を取ってもそれはそれでよいと思うのですが、親あるいは高齢者との人間関係が生前中から良くなかったり、親との人間関係が希薄であったり、高齢者を大切にすることができないというケースは決して少なくありません。そんな人たちが親、さらには高齢者とのこれまでの関係を振り返りつつ葬儀について考えるとは思えません。
 さらには、ふだんから仏法を聞くこともなく、念仏の心を知らない人が、われら凡夫のあわれな姿をみつめ続けてくださっている阿弥陀さまのお慈悲に心が向くはずはありません。
 そうなると、イヤイヤ葬儀などの儀礼を行うことになります。気持ちが入っていないから面倒くさいとしか思えないでしょう。そんな葬儀はしなければならないつまらん演出としか見ることができないし、火葬も遺体処理でしかありません。

 生きて私に恩恵を与えてくれるからではなく、亡くなった人であるからこそ心を通わさないと私自身が人ではなくなってしまう。それは親に育てられ、阿弥陀さまに手を合わせ、阿弥陀さまの願いが常に私に向けてはたらいていてくださっていることを気づかされたことです。

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2010年10月20日 (水)

どうしますか?葬儀は?墓は?

 ここ1~2年の間に、葬儀、戒名、墓関係の書籍がかなり出版されているようです。また雑誌の特集や新聞のコラム・評論記事でもたくさん目につきます。すべてに目を通しているわけではありませんが、多くはこれまでの葬儀、戒名、墓などのあり方が壊れていく様を紹介するものが多いようです。
 このような議論や評論は今に始まったものではありません。1960年代後半、医師の太田典礼氏は「葬式無用論」なるものを公にして以降、この種の主張は消えることはありません。しかしそんなに多くの人たちに支持されたわけではありません。
 ところが近年の議論は、ここ数年のうちに首都圏を中心に始まったとみられる直葬、ごく少数の近親者による家族葬、散骨などの現象が目に見えて増えていることにあるでしょう。さらに、希薄化する人間関係、一向に良くならない経済状況が長期に及んでいること、まったく先が見えない日本社会の行方、資本主義的合理性の浸透、現世完結主義、仏教を含めた宗教教団および聖職者・僧侶への不信、その他の多くの要因が複合的に絡み合ってでてきた現象です。
 しっかり現実を見ていたら当然予測できたであろう現象ではないでしょうか。それに対して、宗教教団、特に既成仏教教団は、葬儀、戒名、墓などについて何十年あるいは何百年もむかしのまま、何の検討も変更も加えてこなかったがゆえの帰結でもあります。

 これまで葬儀を執行し、お墓を維持してきた人たちの側からすれば、これまでの形が崩れてゆくことに対してはたいへんな危機感があります。宗教的意義がまったく失われますし、教えその者の継承がきわめて困難になります。経済的な影響も大きい。伝統や文化さえも否定されかねません。
 日本人すべてが一挙に葬儀をせず、戒名を拒否し、墓を持たないということにはならないでしょう。しかし「死」への関わりは希薄化し、遠ざけられ、消し去ってしまいたいという現象に他なりません。

 新聞、雑誌、書籍での議論では、いまのところ社会現象として論じられるばかりです。一方、僧侶や教団の側からは伝統的・宗教的立場から述べられていて議論はかみ合っていません。しかしそれは今に始まったことではありません。仏教の教えという核心部分が、社会と大きく乖離しているのですから。
 ただここでそのことを議論しようとは思いません。葬儀も墓も、私が死んだときには私自身が関わる余地はありませんから、身内の人かだれかがなんとか対処してくれるでしょう。それではどうしてほしいのか、しっかりと意志を伝えておかなければなりません。ただの儀礼執行としてとらえるのか、その機会が何らかの仏法のご縁となるような機会とできるのかというところにも関わってくるでしょう。私の仏法のいただきようが反映される機会でもあります。家族や周囲の人たちと腰を落ち着けて話し合うことが必要でしょう。

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2010年10月18日 (月)

こんな日もあります

 このブログの管理者のページから、何人が読みに来てくれているのかということがわかります。それがだれかということを特定することは困難ですが、毎日のように読みに来てくださっている人たちが20~30人、1週間で100人前後の人たちが訪れてくれています。そんな人たちに支えられて、書けるような気がしています。
 思いついたことを思いついたまま書くだけですし、話の筋も文章も十分に検討する時間もありませんから、“粗製乱筆”気味だと反省しています。また仕事に追われるとそちらに気が行ってしまいますし、仕事が終わってちょっといっぱい飲んでしまうとすっかり書く気力は失せてしまいます。なかなか書けずに時間ばかりが経過するときは、もう少し時間がほしいと思います。
 こんな反省は、私の人生のなかで何度もしてきたことです。何をやっても粗製乱造、あれもこれもと気が散り、身を楽しませることを優先し、最後に、もう少し時間があったらと思う。これまで何度も反省をくり返してきたことですが、一向に変わらないいつものパターンです。

 もっとも書く気になるのは人と接したときです。何かピピピィと伝わってくる人と接したときです。ネット上でも感じることがありますが、対面関係のなかで、目を見て息づかいを通して伝わってくるものは多くあります。どんなことが、あるいはどんな人がピピピィと伝わってくるかはわかりません。これがおもしろいところです。
 ピピピィと伝わったことを書く気になって書くときは、一気に書けます。そんなときの感じは実にシンプルです。疑うことも、理屈っぽく考えることもなく、スーッと文章になるという感じがします。
 なかなか書けないときは、頭がけっこう理屈っぽくなってます。この調子じゃ、きっと伝わらないだろうな、とも思います。

 いつもスイスイ書いているわけではありませんから、読んでくださる方も結構しんどいこともあるでしょう。ましてや伝わらないだろうな、と思いながら書いている文章を読むなんて迷惑千万ですよね。ただここに書くときは、私が南無阿弥陀仏と念仏させてもらう機会でもあります。いっしょに念仏してくださったらありがたいです。

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2010年10月16日 (土)

「事柄」よりも「思い」を聞く

 「人の話を聞く」とき、何を聞いているのか意識して聞いていますか?
 たいていの人は、自分は人の話をしっかり聞いている、と思っているようです。ところが、どんな話を聞いたのかを聞いた人の口からことばにしてもらうと、話した人の話とピントがずれていたり、まるっきり聞けていないということがよくあります。
 厳密に言うなら、Aさんの話を聞いたBさんは、Aさんに対して”あなたの話を・・・・・のように聞きました”と返し、Aさんから間違いのないことを確認して初めて正確に聞いたということができるのです。聞き手のBさんが、勝手に”聞いた”と思い込んでしまってはなりません。
 聞いた話の内容を間違わずに相手に返すというのは、とても面倒ではありますが効果は絶大です。ごく簡単な話でもいいですから、ぜひやってみてください。
 
 もうひとつ、何を聞くのかということを意識しながら聞くという訓練も効果があります。とにかく話の内容を聞こうとしても、焦点を絞れずに話を聞いていると、話し手が話す内容に聞き手が触発されてしまい、自分の知識や経験や思いばかりがわき上がってきます。そのうち自分の思いばかりがふくれあがり、その自分の思いをことばにして話したくて仕方がなくなってしまいます。そうなるとますます相手の話が聞けなくなってしまいます。
 それでは、意識して聞くというのはどういうことでしょうか。話の内容から「事柄」を聞くのか、話している相手の「思い」を聞くのかということです。前者は物事の事実を客観的に聞くということです。後者は相手の身になって、その心の内を聞こうとしているのです。話の内容は「事柄」と「思い」が混然一体のものとして聞き手の耳に届きますので、どちらかを切り捨てることなどできません。どちらかに重きを置いて聞くということです。

 カウンセリングで聞くということ、あるいは傾聴は、「思い」のところに焦点をあてて聞きます。話し手が話す「事柄」にも「思い」がこもっていることに気づけるでしょう。しかし勝手に思い込んではなりません。

 仏法を聞くということも、ここのところは同じではないでしょうか。何よりも阿弥陀さまのこころを聞くのです。阿弥陀さまの願いとはたらきも、「事柄」としてではなく、阿弥陀さまの「思い」のところで聞くのです。聞いたら、それを自分の心の内におさめてしまわないで、ことばに出してみてください。正しく聞けているかどうかを確かめてみてほしいと思います。阿弥陀さまは何と応えられるでしょうか。

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2010年10月15日 (金)

究極の拠りどころは、わが思いが尽きたところに

 このブログのサブタイトルは、「究極の拠りどころにまかせて生きることができますか?」と付けました。仏教(真宗と読み替えてもOK)を、研究対象として客観的にみているわけでも、議論のネタとしているわけでもありません。このブログを読んでくださっている人に、またこれを書いている私自身に、このサブタイトルのまま問うているのです。
 このサブタイトルについて、これまで誰からも何の質問も指摘はありません。何のわだかまりもなく納得いただいているでしょうか。ひとつは「究極の拠りどころ」ということば、もう一つは「まかせて生きる」ということばは、サラッと流し読めないことばだと、私は思っているのですが、いかがでしょうか。

 自分自身のものの見方、考え方に頼り、それにともなう態度や行動をくり返して日々を過ごしています。ためらうことなく過ごす時間もありますが、ドキドキしたり、おどおどしたり、地に足がついていなかったりして、どうしたらいいのかさっぱりわからなくなる私でもあります。一人で生きることはできませんが、自分の人生は、自分で生きてゆくしかありません。
 またいつまでも生き続けることもできません。いのちを終わってこの世を出て行くときには、いままで作り続けてきた罪業をすっかり背負って迷い続けてゆかねばならないというのが、仏教が示す因果の道理です。そのときは、自分自身の考えも態度も行動も何の役にもたちません。ただ力なくこの娑婆世界を出て行くだけです。
 そこに「究極のよりどころ」が必要です。つまり死の問題をどう解決するか。後生は一大事であると、自分のこととして向き合うからこそ、拠りどころが必要となるのです。その問題を遠ざけよう、考えないことにしよう、目を向けないようにしようという生き方そのものが、不安のまま人生を送るということでしょう。

 生きるということは、だれも代わってはくれませんから、まかせて生きるなどというのは無責任で都合の良い話です。しかしわが力ではどうすることもできない後生の一大事を「究極の拠りどころにまかせる」というのは、この世の何かに頼ることではありません。死の問題の解決までをも遂げるとてつもない力が「究極の拠りどころ」なのです。それを阿弥陀仏といい、阿弥陀仏の願いとはたらきこそが究極の拠りどころとなるのです。
 老い、病み、そして決して避けることのできない死という不安を未解決のまま引きずっている人生の問題の解決は、人生のもっとも根源的な不安が除かれるということでもあります。まかせるのは私の後生です。後生をまかせて、今を生きるのです。

 しかし“後生の一大事をまかせる”ことほど難しいことはありません。阿弥陀さまの願いを聞いて聞いて聞いて聞いて、聞き続けたときにしかまかせることができないです。究極の拠りどころにまかせるということは、わが思いが尽きた時でもあるのです。
 

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2010年10月13日 (水)

人間というのはいい加減な存在

 人間というのは実にいい加減な存在です

 だれでも、いちばん大切なのは自分だと思っています。病気にはなりたくありませんし、老いたくもありません。健康であることが良いことであることも知っているし、何が身体に害があるかも知っています。にもかかわらず、タバコを吸うし、酒を飲みます。タバコも酒もダメな人は、カロリーの高いものがやめられなかったり、甘い物が好きであったり、とにかくからい物が好きであったりするのです。
 「少しぐらいはいい」「がんばったから自分へのごほうび」なんて言い訳をしながら、飲み食べるのです。その食べたり飲んだりしている姿を見ていると、「少しぐらい」という量がこんなにたくさんのことを言うの、って驚くことがあります。またどれだけ頑張ったのかはよくわかりませんが、毎日のように自分へのごほうびがある人もいます。「身体に悪いのはわかっているけれど、これだけは止められないもんなぁ~」とも言うのです。そこまで好きなら仕方がないと思っていたら、そんな人に限って健康診断の2~3日前から、悪い数値が出ないようにと、酒の量を減らし、甘い物を控えるのです。

 完璧な人というのはいませんから、師や先輩、さらには同僚や後輩からいろんなアドバイス、忠告、注意、指導等がなされます。気分や体調がよいときには、未熟である自分を自覚し忠告に感謝するのですが、そうでないときはカチンときてしまいます。しかしムシの居所が悪いと、それ以降の話が聞けなくなってしまいます。
 まったく逆に、他人の欠点を見つけるのは気分・体調のいかんにかかわらずとても上手です。それをアドバイス、忠告、注意して、ともに成長することができればいいのですが、言わなくてもいいのに陰でこそこそ話すから、つまらんうわさ話になって広まってゆくのです。そんな話は、だれもがすごい集中力で聴きますが、「そんな話は止めた方がいい」と抑える人はほとんどいません。
 「人間だからしかたない」「それが凡夫よ」と言う人もいますが、他人ごとです。他人の欠点、問題点はよく見えるのです。世のなかの人はすべて問題だらけです。でも“世のなかの人”のなかに私は入っていません。殊勝な気持ちで反省したところで、「Aさんほどひどいことはないよ」「Bさんよりはマシだと思う」と比較して、よりよい自分を演出しようとします。自分を守るための言い訳はとても上手です。

 他人を見て欠点を挙げ、茶化したり非難していること、それはそのまま自分自身の姿です。「ひどくはない」「~よりマシだ」と思うのは、そう言っている自分だけです。“人間というのは実にいい加減な存在です”というのは、“私というのは実にいい加減な存在です”ということです。でもその自覚がない。仏法の鏡の前に立ったときはじめて、いい加減な自分が映し出されるのです。

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2010年10月12日 (火)

阿弥陀さまの心を「傾聴」する

 これまで多くの人とであってきました。同じ人間であるとはいえ、十人十色、百人百様であることをつくづく感じます。でも、違いばかりを見ているだけでは、共に生きるということはありえません。一人では生きていけないのですから。一人で生きているように思ってしまうことこそが大きな勘違いでであり、罪でもあります。どこかで共にいのちをいただき、共に生きるものとしての共通点を見つけることが必要でしょう。
 そのためには、関わりのある人の気持ちをその人の身になって理解することが求められることです。完璧なことは望むことはできませんが、自分なりに相手の身になって相手の話を聞くことが第一歩でしょう。そして「あなたのことを、いま、~のように理解しています」ということを相手に伝えることがとても大切なことです。必ずしも完璧に理解することはできませんから、時には間違いがあるかもしれませんが、その時は修正してもらえばよいことです。

 近年「傾聴」ということばを良く聞きます。傾聴とは、こちらの聞きたいことを聞くのではなく、相手の言いたいこと伝えたいことを聴くことです。それも受容的かつ共感的態度で聴くことです。目と耳と心できくのが傾聴の基本だという人もいます。しかしそれだけでは傾聴ではなく、「あなたのことを、いま、~のように理解しています」と相手に伝えて、相手がそのとおりであると聞いてくれてはじめて傾聴が成立するのです。
 ということになると、仏法を聞くということは、まさに阿弥陀さまの心を傾聴することです。阿弥陀さまの身になって聞くことはできませんが、阿弥陀さまと私はまったく次元の違う存在ですから同じ人間の話を聞くのとは違います。しかし私は阿弥陀さまと無関係ではありません。常に寄り添ってくださり、常にお慈悲をかけてくださっている方です。しかも、私に向かって「今現在説法」してくださっているのです。途絶えることはありませんから、いつでもその説法を聞くことができるのです。阿弥陀さまの心を傾聴するのです。私の聞きたいこと以前に、阿弥陀さまが私に伝えたいことをまず聞くのです。その内容を、阿弥陀さまに返さねば、聞いたことにはなりません。

 阿弥陀さまに、私のことばであれこれとつぶやいたところで阿弥陀さまには伝わりません。法蔵菩薩であった仏さまが阿弥陀さまとなられ、この私に南無阿弥陀仏ひとつを受け取ってもらいたいと、今も御説法中なのです。阿弥陀さまには「南無阿弥陀仏」と返すしかありません。だからといって、形だけ、ことばだけ、口先だけで「南無阿弥陀仏」と返してみても、阿弥陀さまの心を聞いたことにはなりません。
 「南無阿弥陀仏」と返すことのできる阿弥陀さまの心を、しっかりと聞けているか、わが心に届いているか否かが仏法を聞く者には問われているのです。

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2010年10月11日 (月)

自己を交えずに最後まで聞き取ることは難しい

 話している人の話を途中で切って、自分の考えを一方的に話す人がいます。たびたびそういう経験をすると、イライラしてきます。あまりにひどいと、話を途中で切らずに最後まで聞いてくれるように伝えることがありますが、相手が話を途中で切り一方的に話していることを自覚していなければ、気まずい思いになってしまうことも少なからずあります。
 しかし、話を切る人は決して特別な人ではなく、私も日常生活のなかでついやってしまうことです。話を途中で切るのはマナー違反であり、結果的には相手の存在を軽く見てしまっていることになります。そのことを十分にわかっていても、最後まで話を聞ききるというのは難しいことです。

 難しくとも大事なことであれば、聞くことを訓練しなければなりません。言語を使う行為のなかで、読むこと、書くこと、話すことについては学校教育のなかに位置づけられており、それなりに教えられ、訓練していますが、国語の授業でも、道徳の時間でもありません。外国語を学ぶとき見知らぬ言葉に慣れるため、hearingやlisteningということを訓練として行いますが、日本人なら日本語は聞くことができるというのが前提なのでしょう。そこに落とし穴があります。

 話を聞くと言ってみても、ことばを聞く、話の内容を聞く、話をしている人の気持ちを聞くと、大きく三つの聞き方があると思われます。普通はそんなことを意識しながら聞いているわけではありませんが、この三つの聞き方のどこに焦点を当てるのかということによって、聞き方も変わってきます。
 ところが、その三つの聞き方のいずれかを意識して聞くのではなく、話をしている人のことばにとらわれ、声の大小、ことばの調子を聞いて、しゃべる人の表情や態度などを見て、自分のなかに起こってくる気持ちばかりに反応してしまいがちです。
 聞く(聴く)訓練をするということは、上記の三つの聞き方を意識しながらすすめていくことですが、聞く過程で自分のなかにさまざまな思いがわき上がってくるということに素直に気づくことでもあるように思います。

 これは日常生活のなかでの話だけではありません。仏法聴聞の時も、私の姿勢は常に自分の思いばかりが、聞いた話の内容に反応する自分にとらわれ、あるいは阿弥陀さまの心を凌駕してしまっているのです。自分を振り返ることなく、自分の業の言い訳に終始し、教えの内容をあれこれと批評するのです。
 仏法を聞いてさまざまな思いがわき上がってくることを否定しているわけではありません。人間としては当たり前のことです。その心の任せてしまっているから仏法が聞けないのです。

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2010年10月10日 (日)

なぜ、念仏をとなえない?

 一昨日、昨日と「なぜ、念仏が聞かれなくなった?」と問うたアンケートの回答を紹介しました。それらの多くに心当たりがあり、異論を挟む余地がない・・・という思いの人は少なからずおられるのではないでしょうか。きょうは、「なぜ、念仏が聞かれなくなった?」の続きのつもりです。念仏がもっと聞けるようになるにはどうすればよいのか、ということを考えてみたいのです。

 浄土真宗も含め、一般に既成仏教と言われている日本の仏教教団は、程度の差こそあれ伝統・文化を重視してきました。そうすることで教団の秩序を保ち続けることができました。荘厳、作法、声明(しょうみょう)などは洗練され、重厚、荘厳で、とても美しいものです。伝統文化としてみれば、多くの人に注目されるでしょうが、宗教的な行為となると内向きとみられてもしかたありません。伝統文化がどれだけすばらしくても、それは教えから派生したものです。
 そこのところだけを守るだけでは、宗教としては時代の動きに取り残され、社会からは見向きもされなくなってしまいます。

 それでは何か新しいことが必要かというと、そうではありません。念仏はいのちをもってはたらいています。いのちをもっているということは、わが心とともにあるいは血肉のように私のなかではたらくということです。しかし念仏が生きていないから、取って付けたような念仏になってしまうのです。どこかよそよそしいのです。
 自分自身が念仏をどのようにいただいているのかと問えば、自分のことですから、自分が一番よくわかるはずです。そこのところを問題にせず、「なぜ、念仏が聞かれなくなった?」という問いに答えているだけでは、安っぽい評論家でしかありません。この問いを締めくくるには、自身に「なぜ、念仏をとなえない?」と問うしかありません。

 なぜ、念仏を称えないのでしょうか?答えは簡単です。仏法を聞いていないからです。阿弥陀さまの願いがいただけていないからです。阿弥陀さまも教えも疑い続けているからです。

 自分自身が阿弥陀さまの本願を聞き、念仏を称えさせていただける身とさせていただければ、念仏を称えさせていただくしかない私であることに気づかされます。他人事のように「なぜ、念仏をとなえない?」と問うのではありません。私自身に向かって問うのです。

 私が称えれば、「なぜ、念仏を称えない?」などとは問われないでしょう。阿弥陀さまからいただいた念仏が、私のなかで血肉となって燃えさかり、火が燃え移るようにご縁のある人たちを育ててゆくのです。

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2010年10月 9日 (土)

なぜ、念仏が聞かれなくなった?(下)

 次に、同じく「最近お念仏が聞かれなくなった。それはどこに原因があるか」という問いに、浄土真宗の門信徒で、とくにお寺の法座や行事によく参加している人たちから、記述式で答えてもらったものです。

・門徒さんもコンサート慣れしてか寺でも拍手し、念仏しなくなっている。住職さんも何も言わない。
・寺でも本山でも「合掌・礼拝」と号令をかけるので、号令のないときは何もしなくてもよいと思っている。
・法話を聞いても難解な専門用語をつかい、話が難しいので寺へ行くのが苦痛になった。
・お寺は、地域の権力者との関係が深いので、準邪にも関係することになっている。
・寺自身権威主義的雰囲気があって嫌い。
・寺も事業と同じもうけ主義の傾向がある。
・僧侶の話は独善的排他的カラーが強いので念仏もしたくない。
・寺に参っても念仏している人がいなくなった。
・寺は風景の一部にしか見えなかったというオウム信者のことばには考えさせられる。
・浄土真宗なのに浄土の話を聞いたことがない。
・僧侶自身、倫理道徳にはずれたことをやっている時代になったので、宗教不信である。
・宇宙の時代に宗教は無用。
・価値観の多様化で宗教への関心度は低くなっていく。
・寺自身世俗の権力にふり廻されている。
・念仏についてたずねるとすると、真宗は報恩の称名ですとのこと。何のことかわからない。
・念仏してたら、いよいよボケてきたねと言われる。
・念仏しなくてもよい宗教もあるでしょう。
・僧侶界の俗化に接すると念仏したくなくなってきた。
・仏前結婚式はうよいが念仏はその雰囲気にあいにくい。
・寺に参っている人が参らない人の悪口をいっているので、念仏するのがいやになってきた。

 真宗門信徒で、とくにお寺の法座や行事によく参加している人たちの回答を見て、一般の人たちの思いとほとんどかわらないのではないか、という思いです。これが現状なのです。お寺の法座や行事に参加する人は、仏法を聞くご縁が恵まれてはいますが、そのことが仏法を聞くこととイコールではないということがわかります。
 それぞれの寺院のありようが、あるいは仏法に対する住職・寺族の姿勢が問われているということでしょう。それは門信徒法に向き合う姿勢に反映してきます。
 行事は長い間の伝統やそれぞれの地域の文化とともにできあがっていますから、むかしどおりに執行する行事を全面的に良しとしているところがあります。しかしそのなかでも、念仏の声が聞こえなくなってしまっています。
 また法座においても、聞きやすい話、受ける話に人気があり、それも一方的な法話で終わってしまっています。説くものも聞くものもともに厳しく仏法と向き合い、共に称名念仏しあう機会は減っているようです。

 念仏は生きています。伝統や文化としてではなく、激しく揺れ動く心に寄り添うものです。わが身の血や肉のようにはたらくものでなければ意味はありません。

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2010年10月 8日 (金)

なぜ、念仏が聞かれなくなった?(上)

 本願寺派布教使で、同時に中央仏教学院の通信教育部の講師をしておられる豊島學由先生の著書『認められた人生』(自照社出版,2008年)のなかに、興味深いアンケートの結果がまとめられていますので、紹介したいと思います。
 それは、これから仏教を学ぼうとしている人たち、中央仏教学院の通信教育生へのアンケートです。「最近お念仏が聞かれなくなった。それはどこに原因があるか」という問いに、記述式で答えたものです。以下は、ふだん浄土真宗とはまったくといっていいほど関係をもたないごく普通の人たち、あるいは家の宗教は浄土真宗だけれど葬儀や法事くらいしか浄土真宗に触れる機会がない人たちに答えてもらった回答です。

・念仏は葬儀や法事、墓参りの時、僧侶がとなえるもの。
・念仏をとなえるのはカッコ悪い。
・日常生活の中で念仏をとなえてる人にあったことがない。
・僧侶に念仏のわけを聞いてもわからない。
・念仏は死を連想するのでとなえない。
・念仏で救われるという話は子供だましのように思う。
・僧や寺の人さえ日常はとなえていない。
・アミダさんと言われても架空の人だから信じない。
・葬式、法事等がセレモニー化している。
・念仏の声が聞こえないのがなぜ問題になるのか。
・タクシーに乗って念仏したら、「心配せんといて、安全運転しまっさかいに」と言われた。
・生活に必要を感じないのでとなえない。
・葬式さえ無宗教かが進み、念仏不要時代がきている。
・日常生活が順調なのにとなえる方がおかしい。
・家に仏壇がないから念仏は無関係。
・無宗教の方がカッコいい。
・老人さえ念仏しなくなっている。
・説教を聞いても念仏の意味がわからない。
・題目は元気がいいが念仏はイメージが暗い。
・死後のことは考えないので念仏はいらない。
・遺骨さえ海に撒く時代だから葬式も念仏も不要である。
・念仏は古くさい。
・念仏も呪文でしょ。
・念仏してもしなくても死ぬのは一緒。
・念仏は心の中でとなえておればよい。
・日常の悩みに対して即効性がない。
・念仏は死者を弔うためのものである。
・念仏するのが恥ずかしい。
・念仏している人に魅力がない。
・テレビやドラマで念仏を茶化しているのでとなえたくない。

 それぞれの思いのところで、ずいぶん思い過ごしや勘違いしておられるようなところがみられますが、これが現状なのです。
 これを読まれたみなさんは、それぞれの現実や思いに、どのように応えられますか?

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2010年10月 7日 (木)

「聴聞」ということ

  浄土真宗のことを「聞の宗教」と言い表すことがあります。「聞法」「聞信」「聞思」「聞知」「聞名」などと使われていますし、親鸞聖人も「聞」についての解釈は、浄土真宗の要を示されたものとしてよく知られています。「聞」は浄土真宗のキーワードのひとつであることは明らかです。
 「聞く」は、音や声を耳に受けること、話などを情報として受け入れることですが、「聴く」とも表記されることがあります。このことばの使い分けは、音やことばをただ単に「きく」場合は「聞」を使い、注意深く内容を理解しようと思って進んで「きく」時には「聴」を使うようです。「聴」も、お聖教のなかで「聴受」「聴許」「諦聴」などと使われています。

  いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて
  候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまること
  なりと云々。(『蓮如上人御一代記聞書』註釈版p.1292))

 このように蓮如上人が示されたことからも、「聴聞」ということばは、浄土真宗の「きく」ことの大切さを如実に示されたことばです。

 大切な教えであれば、常に注意深く聴かねばなりません。聞き流していてはわかるものもわかりません。実際、私たちは日常生活のなかでは、自分にとって必要なことだけを聞いて、そうでないものは耳に届いていても聞いてはいないのです。たとえば、雑踏のなかではさまざまな音やことばが行き交っています。音やことばがいちどに耳に届いているのです。それをすべて聞くことは不可能です。意識して聴こうとするか、自分勝手に上手に聞き分けているのです。そんな雑踏のなかで、「○○さん!」と自分の名前を呼ばれたら、聴こうとしていなくても、十中八九は聞き取れるといいます。
 でも、仏法は注意深く内容を理解しようと思って聴いていても、なかなか私のところには届きません。ことばが難しいから、内容が高度だからという問題もあるかもしれません。しかしやさしいことばで、これまで何度も耳にしてわかっているつもりの内容でも、受け取ることができない。

 仏法を自分の意志で聴くことはとても大切が、その気になるのは難しいことです。自分にとって満足度の高い話、おもしろい話は山ほどありますから、仏法よりもそちらの方に耳を傾けるのです。また聴く気になっても、その人が阿弥陀さまの願いをいただけるわけではありません。しかし聴く人には、阿弥陀さまの願いが聞こえてきます。また聴く気のない人にも聞こえてくることもあります。
 「聴聞」は聴くことであり、聞こえてくるということでしょう。この法は、すべて阿弥陀さまが準備してくださり、聴く気があってもなくても関係無しに私に届けようとしてくださっていることを知らねばなりません。だから聞けるのです。私の思案は役には立ちませんが、阿弥陀さまの願いを聴こうと、阿弥陀さまと真向かいになることは大切なことです。

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2010年10月 6日 (水)

連続無窮にして(3/3)

<2010年8月研修原稿>  3/3

 それはここに出てくる子どもたちに限らず、私自身も天地がひっくり返ることも、阿弥陀さまのお慈悲ということも自分で気づくことはありませんでした。学校でも教えてもらえないし、社会に出てもなかなか気づくことは難しいことでした。世間一般には、科学的に証明されない阿弥陀さまのお慈悲はほとんどかえりみられることもありません。
しかし、法然聖人や親鸞聖人や蓮如上人は、あるいは仏法を聞いてこられた先達たちは、浄土から呼びかけられている阿弥陀仏の喚び声に呼び覚まされたのです。呼び覚まされ、気づかせていただくことができたが故に、仏さまの智慧と慈悲が私のなかではたらき、ほんとうの自分自身がみえてきたのです。阿弥陀さまの慈悲がなければ、迷い続け、苦悩の海に沈んでいく自分に気づくこともなく、その迷い、苦しみの一生を送るしかなかったのです。

「無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり」と締めくくられています。ほとりのない苦しみの海の中で、迷い苦しみもがいている人びとが一人残らず救われるまでは、永遠に説き続けられるというのです。
この世の楽しみに浮かれ、自分の身を楽しませることなら懸命になってしまっている私は、老や苦や死という現実からは目をそらし、逃げようとします。しかし無辺の生死海が済度されて尽きることがない限りは、阿弥陀さまの願いも尽きることなく、はたらき続けるというのです。

ほんとうの私、ありのままの私底の底を見抜いて、はたらいてくださっている阿弥陀さまがおってくださるのです。
そんな阿弥陀さまの願いに出遇うためには、なによりも教えを聞かせていただくこと、聴聞の機会に出させていただくことです。そして口に念仏を称えさせていただくことです。口に念仏を出させていただくことによって、さまざまな思いがわき上がってきます。ありがたい思いだけではなく、これでいいのだろうかとか、ときには疑問や不信も出てくるでしょう。そんなさまざまな思いをもって、また聴聞させていただくのです。
どんな思いをもったとしても、私たちひとり一人に阿弥陀さまの願いがかけられいることに間違いはありません。そのことひとつを聞かせていただくために、今日まで先達たちが届けてくださった阿弥陀さまのお慈悲を聞かせてもらうことこそ、この世にいのちをいただいたと味わわさせていただくのです。

(終わり)

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2010年10月 5日 (火)

連続無窮にして(2/3)

<2010年8月研修原稿>  2/3

 そんな日曜学校は老僧が亡くなる直前まで続きました。それから二十年余の時間がたちました。子どもたちは学校を卒業し、就職や結婚のためにムラを離れていきました。しかしお盆の時には、みんなムラに帰ってきますので、ある年、老僧の息子である住職の呼びかけで日曜学校の同窓会をしました。おつとめのあと、みんなが丸くなって座り、近況報告などをしました。そのうちある人から、「前の御院さんの日曜学校で正信偈のおつとめを覚えたし、法話もズッーと耳に残ってる」「私も亡くなった友だちの家でおつとめしてよろこんでもらえたわ」と。またある人は「御院さんの話は短くていつも同じやったなぁ」と言うのです。するとやんちゃもんのA君が話し始めました。「俺は、たとえ天地がひっくり返っても・・・の話をいつも思い出す。あの話を聞くたびに、阿弥陀さまってどこに居るんや、お慈悲ってなんや、としか思わんかった。でも、今になったら、悲しいことや苦しいことがいっぱいある人生のなかで、どんなことがあっても、阿弥陀さまに護られて毎日過ごさせてもらってるんやなぁと思うことがある。たとえ天地がひっくり返っても阿弥陀さまのお慈悲には間違いないという御院さん言葉は深い言葉やなぁと感じるわ。あの続きの話を聞きたいと思うんやけどなぁ・・・」と言うのです。すると、他の人たちも、同じようになことを感じていることをしみじみと話し合ったのでした。

 私たちは小さいときからさまざまなことを教えてもらい、経験して一人前の人間として成長していきます。しかし世の中の膨大な知識や経験をすべて自分のものにすることはできません。頭の中におさまること、身につけられることは限られます。私たちはその範囲内の知識や経験をもとに、ものごとを考え、判断しています。
 この老僧の「たとえ天地がひっくり返っても阿弥陀さまのお慈悲にだけにはまちがいありません」という法話は、A君だけではなく、そのほかの多くの子どもたちも、そのまま素直に受け入れることはできなかったかもしれません。しかし理屈を超えて、老僧の法話がそれぞれの身に浸む込んでいったのです。

(つづく)

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2010年10月 4日 (月)

連続無窮にして(1/3)

<2010年8月研修原稿>  1/3

前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、
連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。
無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり
  『教行信証・後序』(註釈版474頁)

 ただいまいただきましたご文は、七高僧第四祖の道綽禅師の『安楽集』にあるお言葉を、親鸞聖人が教行信証の最後のところで引かれたものです。
「前に生れるものは後のものを導き、後に生れるものは前のもののあとを尋ね、果てしなくつらなって途切れることのないようにしたい」とおっしゃっているのです。これだけを聞くと、そうでなければ人類の歴史は途絶えてしまう、ごく当たり前のことのように思えます。ただ、それは私たちの浅い思いであって、そこには阿弥陀さまの深い願いとはたらきというものが述べられているのです。

 いまから四十数年前の話です。ある老僧が日曜学校を始めました。オルガンも音楽テープもありません。ゲームもできません。ただ、阿弥陀様の願いを聞いてほしいという思い一つで日曜学校を始めたのです。
 始めた当初は、興味津々で多くの子どもたちがお寺にお参りしてくれました。子どもたちの中でもやんちゃもんのA君たち数人は、本堂のなかには入らず、何をするのか恐る恐る向拝の柱の陰から本堂の中をのぞき込んでいました。「そこにいる子も、本堂に上がっておいで」という誘いをかけたら逃げてしまう、でもしばらくしたらまた柱の陰からのぞいているのでした。老僧の調声で正信偈をおつとめし、短い法話をして日曜学校は終わるのです。あとは本堂の中で、境内で自由に遊ぶだけというものでした。
 その法話はいつも決まっていました。「たとえ天地がひっくりかえっても、阿弥陀さまのお慈悲には間違いはがありません。たとえ天地がひっくり返っても阿弥陀さまのお慈悲には間違いないはないのです」という話を二回、三回と話すだけのものでした。ひと月かふた月に一回の日曜学校ですが、法話は変わらず、「たとえ天地がひっくりかえっても、阿弥陀さまのお慈悲には間違いありません。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ・・・」というものでした。
 いつも同じ法話ですから、子どもたちはその法話を覚えてしまいます。いつまでたっても本堂にあがらないやんちゃもんのA君たちは、「またいつもと同じあの話やで。たとえ天地がひっくり返っても阿弥陀さまのお慈悲には間違いない・・・・や」。それでも老僧は、いつも以上に真剣な顔をして、「なぁ、みんな、よう聞いておくれ。たとえ天地がひっくりかえっても、阿弥陀さまのお慈悲には間違いがありません。たとえ天地がひっくり返っても阿弥陀さまのお慈悲にまちがいはありません。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ・・・」と話すのでした。

(つづく)

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2010年10月 3日 (日)

如来の作願をたづぬれば(3/3)

<2010年1月研修原稿>  3/3

 その浄土は、私たちの日常生活や感覚の中では、見ることも聞くことも感じることもできません。科学的にはそういう世界は証明されないから無いとされます。しかし法然聖人や親鸞聖人や蓮如上人は、阿弥陀如来の智慧に呼び覚まされ、浄土に生まれる道を歩まれたのです。
 また、浄土から私に対してはたらく仏様の智慧により、深く自分自身を見つめ、ほんとうの自分を発見することができるのです。仏様の智慧がなければ、迷い続け苦悩の海に沈んでいく自分に気づくこともなく、ただおろおろと一生を送るしかないのです。しっかりしているつもりが、物忘れがひどくなり、思考力が劣り、心身ともに衰えてゆくのが人間の姿です。自分の頭で理解し、自分の力でなんとかしようとするその私が、老い、病み、そして最後は力なく死んでゆかねばならない。
 人生の壁にぶつかり、生老病死の人生をみつめたら絶望しかないでしょう。それを、仏さまの智慧によって、解決させてもらうのです。仏さまの智慧をいただくには、何よりも仏様の話を聞かせていただくということしかありません。

 親鸞聖人は「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ることなし。これを『聞』といふなり」(『教行信証・信巻』註釈版二五一頁)と述べられています。
 聞くというのは、私の聞きたいことを聞くのではありません。なぜ仏様の願いができたのかを聞かせてもらうのです。私が幸せになりたい、苦を解決したいと思うズーッと以前から、私のことを心配してくださり、そんなおまえを救わずにはおかない、必ず救ってみせる、という阿弥陀如来の願いを聞かせていただくのです。そんな私に対して、いつも仏様は先手をうって、私の人生(今生)を、そして後生を案じてくださっているのです。
 仏法を聞くなかで、疑問や不信も出てくるものです。しかしそれらが無くなるまで聞かせていただくのです。聞くことで、必ず阿弥陀様の願いが届くのです。迷い続け悩み続け、絶望する私自身の底の底を見抜いて、はたらいてくださっている阿弥陀如来の願い(本願力)にであわせていただくことは、呼び覚まされることなのです。
 私が身につけてきたさまざまなこの世の知識は、いつか必ず役に立たなくなります。一番頼りにしているこの身この心さえもが頼りにならなくなる。しかしこの身この心に頼ること無しに生きることはできません。そんな私の愚かな姿を見通して、迷い苦しむおまえを放っておくことはできないと、阿弥陀如来が立ち上がってくださり、南無阿弥陀仏の名号を私に与えてくださったのです。
 聞けよ、受け取れよという願いに呼び覚まされ、南無阿弥陀仏のお心をいただき、必ずお浄土に生まれさせていただくのです。阿弥陀様のお心を聞かせていただくことが、人間に生まれさせてもらったもっとも大切なことであり、このうえなく尊いことだと味わわさせていただくのです。

(終わり)

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2010年10月 2日 (土)

如来の作願をたづぬれば(2/3)

<2010年1月研修原稿>  2/3

 仏教では、生きることと死ぬことを分けてはいません。「生死」とコインの裏表のように切り離すことのできないこととみています。
ところが、私たちは死に対して目をつむり、苦を遠ざけたいと思って生きています。この世を幸せに、楽しくおもしろく生きたいと思っているのです。一回きりの人生ですから、楽しくおもしろく生きることはとても大切なことですし、私もそのように生きたいと思います。でも、老いや病いがやってきますし、必ず無常の死がやってくるという心のひっかかりを無視することもできません。この地球上に人間としていのちをいただいたということは、その問題を解決するために、この世に生まれさせていただいたのです。
その問題の解決のために、どうすればいいでしょうか。一般的に、どこかへ行こうとするとき、何かを成し遂げようとするとき、次の三つのことが必要です。
 一つは、どこへ行きたいのか、成し遂げたいことは何かということをはっきりさせることです。旅行をするためには北海道へ行こうとか、ある展覧会に書道の作品を出品しようとか、具体的な目標を設けることです。
 二つめは、目的地に行くため、また目標を達成するために、その手段を講じることです。北海道旅行をするためには、北海道への航空券や宿を手配することです。書道の作品を出品するために、筆や紙をそろえることなどでしょう。
 そして三つめは、そういう準備をした上で、目標に向かって一歩踏み出すことです。どれだけ綿密な計画を立てても、頭の中で思い描いているだけでは何も成し遂げることはできません。北海道に向かって家を出発することが必要なのです。何度も何度も筆を持って字を書くことを繰り返して、始めて満足のゆく作品ができるのではないでしょうか。
 このようなことは、仏法を聞くうえにおいても必要なことです。仏法を聞くきっかけは、家の宗教が浄土真宗であったとか、お念仏を歓んでいた家族の影響という人が多いようです。確かにそういう環境はとても大切なことです。しかし家族や親族の縁がなくとも、ほんとうの自分自身を知り、ほんとに真実信心に出遇うことを求める方もおられます。人間として生まれてきて、はっきりとした自分が至り着く目的地を定めることは現代人が忘れてしまったことです。そこのところを見失ってしまったが故に、場当たり的な人生や今がよければそれでよいという過ごし方をついついしてしまってはいないでしょうか。
 それでは、私の人生の目的地とはどこなのでしょうか。親鸞聖人は、それを「浄土」だと示されました。この時代に浄土と聞いてもピンと来ないと言われるかもしれませんね。浄土は架空の理想世界でも、漠然とした世界でもありません。ほんとうのことを私に知らせてくれる智慧の世界なのです。浄土は生死をとおしての自分の拠りどころとなる絶対の世界なのです。浄土を知らないのは現代人だけです。過去のどの時代の人たちも浄土を知っていました。それを見失ってしまったことが、現代人の最大の悲劇ではないでしょうか。

(つづく)

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2010年10月 1日 (金)

如来の作願をたづぬれば(1/3)

 2010年10月1日付で、本願寺布教使に任用されました。布教使になるための研修と試験が8月末に6日間がありました。このブログを7月からしばらく休ませてもらった理由のひとつは、その研修の準備のためでした。

 研修内容は、「伝道」「仏教要論」「真宗要論」などが座学としてあります。また「話し合い法座」の時間もあります。
 さらに、13分以上15分未満の布教実演があります。その実演原稿を研修前に提出しなければなりません。その提出原稿をもとに話の筋や内容についての指導があります。そのうえで、実演の時は何も見ず布教実演をします。これも試験で、作法20点、表現20点、内容60点という点数配分のようです。これが緊張するのです。
 本願寺布教使に任用されたからといって、私のなかで何かが変わるわけではありません。これまでも布教に出させてきたのとスタンスは同じです。もちろん、より高いレベルをめざして研鑽を続けなければならないことは言うまでもないことですが。

 そこで、本願寺布教使任用記念(?)として、布教実演のために前もって提出した法話原稿を3回に分けて掲載します。
 私の今年の1月末にもあった同研修にも出ましたので、その時にも法話原稿を提出しています。まずは、その原稿から掲載します。


<2010年1月研修原稿>  1/3

  如来の作願をたづぬれば   苦悩の有情をすてずして
  回向を首としたまひて    大悲心をば成就せり
           『正像末和讃』(註釈版606頁)

 私のよく知る人で、よくはたらき、よく飲み、よくしゃべって、とても陽気で、そしてまたよくお寺参りもされ、みんなから「よっしゃん」と慕われている方がおられました。
 稲刈りなど米の収穫がすっかり終わったある秋の夕方、仕事を終えたよっしゃんが、お寺に来られてこんなことを言われました。
 「これまで五十回以上、稲刈りをしてきたけど、あと何回稲刈りができるやろか。十回、いや二十回できるかな。一所懸命やってきて、アッという間やったなぁ。若い時のように身体は動かんようになった。さぁ、これから身体ますますが衰えて、死んだらどうなっていくんやろなぁ」と。
 その年の報恩講にお参りされましたが、次の年、よっしゃんは不慮の事故でなくなられました。よっしゃんを慕っていた多くの人たちは、突然の死にとても驚かれました。私も、諸行無常、愛別離苦を強く感じたものでした。
仏法のご縁があるなしに関わらず、必ずこの娑婆と別れていかねばなりません。だれもが、どこかで、必ず死と向き合わねばならないのです。誰も死を見たくはないし、関わりたくもありません。しかし、生まれ生きるということは、いつか必ず死を迎えるということです。人生のどこかで、「わが身はどうなっていくのか?」と真剣に問う生き方と、気になりつつもそのことに蓋をしてしまう生き方があるのではないでしょうか。先ほどのよっしゃんは、人生を振返り、残り少ない人生を気にしつつ、自分の行き先(後生)を案じておられたのではないでしょうか。

(つづく)

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