« 2010年10月 | トップページ | 2010年12月 »

2010年11月30日 (火)

マナ識が自分をつくりあげる

 「一切種子識」と言われるように、アラヤ識からあらゆるものが生み出されます。たとえば、目の前の赤いボールペンを見たとき、そこに赤いボールペンがあると認識します。しかしその赤いボールペンは、その色や形が私の外に存在しているのではなく、私の心のなかにそれを作りあげるのです。
 「自分」というものも存在せず、ただ「自分」ということばの響きや思いがあるだけなのです。本来、無我であるのに、自我を作りあげようとするところに悩みや苦しみが生じるのです。

 ところが、私がおこなったすべての業が種子となってアラヤ識に蓄えられますが、その業の善悪や汚濁にかかわらず善でも悪でもない、汚れも濁りもないものになっているというのです。そんな種子が芽をふき、「末那(マナ)識」のはたらきによって、その種の特性があらわになってきます。
 「マナ」は、いろいろと思いをめぐらし考えるという意味です。芽を出した種子をあれこれと思いはかるのです。一つ一つ確かめながら見極め判断するのではなく、無自覚・無反省に思い込むのがマナ識です。ですから同じ赤いボールペンを見るだけで、一度も使ったこともないのに人によってさまざまな評価が生まれるのです。なぜか?過去の経験から自分のなかに同じパターンの思考や行動が植え付けられ、確かめもせず自動的にレッテルが貼られているのです。

 それは自分では気づかない心の奥底(マナ識)で、実体のない私を作りあげ、信じ込んでいるからです。このマナ識のことを「深層ではたらく自我執着心」「深層自我識」といわれるように、自分で気づくことはないけれど、常に「私が(は)」「おれが(は)」と自分中心にしか考えられないのです。

 私が自分を意識するのは、私の身体をみて、あるいは心の動きを感じるときです。もうひとつ、まったく私が意識することのできない潜在的なところで、マナ識がアラヤ識を対象にして存在しない自分を作りあげ続けているというのです。自分で意識するのは、この世に生まれて後、数限りない経験を通してできあがってゆく自分です。一方、マナ識が作りあげる自分は、過去世、現世、来世を通して絶えることはありません。これがいのちの根源です。
 この世に生まれ、言葉をおぼえ、経験を重ね、教育を受けるほどに、心の深層は見えなくなってゆくのではないでしょうか。ほんとうの自分を見失っているのではないでしょうか。

 理解不十分な唯識について、あえてことばにしているのは、マナ識によって見えない私がつねに強く自己主張していることに気づかされることへの驚きによります。誰がその私の相手をしてくれるのか?誰も相手にしてくれないから、あたりかまわず傍若無人にふるまうしかないのがこの私です。
 しかし三世を通して、私が気づくことなくとも私に寄り添い、願いはたらいてくださっている阿弥陀さまというお方がおられるのです。唯識という教えを通して教えてもらうことが、すでに阿弥陀さまの願いとはたらきを通して教えてもらっていることに気づかされる驚きでもあります。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2010年11月29日 (月)

アラヤ識は業の種子を蓄える蔵

 唯識に示された人間の心の「意識」の部分にある煩悩、特にたった10の随煩悩を一つ一つ具体的に教えられるだけでも、私自身、実に恥ずかしい姿をさらして生きていることを知らされます。またその随煩悩が、貪、瞋、癡は三毒の煩悩から起こってくるということに納得せずにはおれません。ふだんの生活のなかでも頻繁に起こる心ですし、そんな心でしか生きることができない私であることを知らされます。随煩悩はあまりにもリアルすぎるため、まともに向き合うことを避けているようでもあります。
 しかし六識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)の深層には、気づくことのない心があるというのです。それが第七識が「末那(マナ)識」、その深層ではたらく根源的な第八識が「阿頼耶(アラヤ)識」です。

 まずアラヤ識を見てみます。アラヤには、蔵・倉庫という意味があり、「蔵識」とも言われます。そこに貯蔵されるものは「種子(しゅうじ)」です。私がおこなったすべての業(=行為)が種となって、このアラヤ識に蓄えられるのです。ということは、私が心の中に思ったこと、発言したこと、また行為となったことが時間の経過とともにどこかに消え去ってしまうのではなく、それらが種となってアラヤ識がすべて受け止め、貯蔵しているのです。この種子が縁によって芽をふけば、それは顕在的な業としてあらわれてくるのです。
 アラヤ識は、深層ではたらく心というより、潜在的にはたらくこころであり、自分ではコントロールすることはもちろんのこと、認識することもできない心です。私はそのアラヤ識のなかに貯め込まれた種子の性質のとおりに生きているのです。
 親鸞聖人が「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(『歎異抄』註釈版p.844)とおっしゃったことは、自分ではどうすることもできない自身のふるまいがある可能性を常に感じておられるのでしょう。

 ふだんは自分で意識しコントロールしながらなんらかの行為をしているけれど、たまたまアラヤ識のなかの種子がはたらけば何をするかわからない・・・というのではありません。自分で意識しているコントロールしているという思いをも含めて、アラヤ識のなかの種子によって私は生かされているのです。それゆえ、アラヤ識の別名は「一切種子識(いっさいしゅうじしき)」とも言われます。「一切」です。
 純粋に美しい心、誰からも賞賛されるようなすばらしい行為をすれば、それに応じた種子となってアラヤ識に蓄えられるでしょう。そんな種子がどれだけ蓄えられているかは、自分自身の思い、口から出てくる言葉、さらには行為から推し量ることができるのではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月28日 (日)

小・中・大の随煩悩

 意識のなかにある煩悩は、根本煩悩と、そこから派生して起こる随煩悩があります。根本煩悩は貪(むさぼり)、瞋(いきどおり)、癡(おろかさ)、慢(たかぶり)、疑(うたがい)、悪見(あやまった見方)の六つです。そのなかでも、貪、瞋、癡は三毒の煩悩とも言われます。

 随煩悩は、小、中、大の三つ分類することができます。分類して挙げてみます。
<小随煩悩>
忿(いかり)、恨(うらみ)、覆(ごまかし)、悩(なやみ・なやませる)、嫉(ねたみ)、慳(ものおしみ)、誑(だますこと)、諂(へつらい)、害(傷つけること)、驕(おごり)
<中随煩悩>
無慚(内的無反省)、無愧(対他的無反省)
<大随煩悩>
掉挙(のぼせ)、惛沈(おちこみ)、不信(まごころのなさ)、懈怠(おこたり)、放逸(いいかげんさ)、失念(ものわすれ)、散乱(気が散っていること)、不正知(正しいことを知らないこと)

 小というと、小さくて軽くたいしたことはないとみてしまいます。しかし他の煩悩との共通点が少なく、単独でフットワーク軽く、しかもピンポイントではたらくのが小随煩悩です。それぞれに強い特徴をもっています。それだけに、わが身を振り返ったとき、身近であり実感のあるのはこの小随煩悩でしょう。
 この小随煩悩は、貪、瞋、癡は三毒の煩悩から起こります。つまり、10ある小随煩悩は三毒の煩悩に集約されるのです。
 「貪」から生じる・・・覆(ごまかし)・悩(なやみ)・慳(ものおしみ)・
             誑(だますこと)・諂(へつらい)・喬(おごり)
 「瞋」から生じる・・・忿(いかり)・恨(うらみ)・悩(なやみ・なやませること)・
             嫉(ねたみ)・害(きずつけること)
 「癡」から生じる・・・覆(ごまかし)・悩(なやみ・なやませること)・
             誑(だますこと)・諂(へつらい)
 この小随煩悩はすべて、第六識である意識とのみ強く結びついて、前五識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)のはたらきとの結びつきはないというのです。これも、小随煩悩がなかなかコントロールの効かないことの理由の一つかもしれません。

 中随煩悩は三毒の煩悩などの不善の心の根底に共通する心です。他の煩悩とともにはたらく煩悩です。中随煩悩は「無慚」「無愧」の二つです。このことばをみると、次の和讃を思い浮かべます。
  無慚無愧のこの身にて  まことのこころはなけれども
  弥陀の回向の御名なれば  功徳は十方にみちたまふ
   (『正像末和讃』註釈版p.617)

  蛇蝎奸詐のこころにて  自力修善はかなふまじ
  如来の回向をたのまでは  無慚無愧にてはてぞせん
   (『正像末和讃』註釈版p.618)

 大随煩悩をみてみると、そんなに悪い心だとは思えません。しかしこの心が他の煩悩を生じさせる煩悩です。他に危害を加えることはなくても、結果として正しい道を歩むことをさまたげる心です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月27日 (土)

唯識による善と煩悩のリスト

 人間として生まれてきたときから、今日に至るまで、だれもが善いことをするように、悪いことをしないようにと教えられてきます。善いことをしたときにはほめられ、悪いことをしたときには怒られます。善いことをしたときは人に自慢したくなるし、誇らしくおもうのではないでしょうか。逆に、悪いことをしたと自覚したときはそれを隠そうとします。自らを悪とあまり認めたくはありません。自分自身は悪者なりたくありませんから、自分以外の人やものやこと悪いんだと言い張るのです。それによって多くのトラブルが発生します。

 しかし善と悪の境界は、決して明瞭ではありません。時代によって、社会によって、善と悪の基準が違います。また立場が変わっても善悪の基準が違うことがあります。善と思ってしたことが、立場の違う人には悪であるということはよくあることです。政治活動は善かれと思ってなされたことでしょうが、反対する人にとっては悪なのかもしれません。

 仏教の唯識という教えからすると、善に対するものは悪ではなく、「煩悩」だというのです。それであれば、悪いことをせず善をなすのではなく、煩悩を断って善をなすということになります。それの方がはるかにわかりやすい。ものやことには煩悩はありませんから、そこには責任転嫁はできません。煩悩を抱える自分自身が問題になるしかないのです。

 天親(世親)菩薩の『唯識三十論』には、意識のはたらきとしての善と煩悩のリストがあります。
 善は、信(まごころ)、慚(内的反省)、愧(対他的反省)、無貧等の三根(むさぼらないこと、いきどおらないこと、おろかでないこと)、勤(努力)、安(さわやか)、不放逸(なまけないこと)、行捨(落ち着き)、不害(傷つけないこと)です。
 煩悩は、貪(むさぼり)、瞋(いきどおり)、癡(おろかさ)、慢(たかぶり)、疑(うたがい)、悪見(あやまった見方)です。この六つを根本煩悩と言います。さらに、その煩悩に付随する随煩悩が次のように挙げられています。忿(いかり)、恨(うらみ)、覆(ごまかし)、悩(なやみ)、嫉(ねたみ)、慳(ものおしみ)、誑(だますこと)、諂(へつらい)、害(傷つけること)、驕(おごり)、無慚(内的無反省)、無愧(対他的無反省)、掉挙(のぼせ)、惛沈(おちこみ)、不信(まごころのなさ)、懈怠(おこたり)、放逸(いいかげんさ)、失念(ものわすれ)、散乱(気が散っていること)、不正知(正しいことを知らないこと)と示されています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月26日 (金)

心の底にある心

 私たちは外に向かって、眼(視覚)、耳(聴覚)、鼻(臭覚)、舌(味覚)、身(触覚)という器官をアンテナにして情報を収集しています。感度は人によって多少の違いがあるようですが、感度の劣っている部分に器官については他の器官などでカバーしたり、複数の器官を総合的にはたらかせて高性能アンテナにしています。この器官を五官といい、そのはたらきを五感といいます。仏教で五感に相当するものを「五識」といいます。

 しかし五識がはたらいただけではものごとがわかるわけではありません。私の外部にあるものを五識によって受動的にうけとめたものを、能動的に分別、判断などして分別する必要があるのです。そのはたらきをするのが「意識」です。
 意識は情報をことばにし、考えるのです。この意識のはたらきはかなり高性能ではありますが、間違いもかなり多いのです。なかなか気づくことはできないのですが、ここでの間違いが人間の迷いや苦しみを発生させることになります。

 この五識と意識をが人間の表層心です。私たちは日常的に「第六感」ということをいいますが、直感、ひらめき、インスピレーション、あるいは虫の知らせなどのことを言います。五感については理解できるところですが、第六感は理屈では説明のつかない感覚とも、またものごとの本質をつかむ心のはたらきだとも思われているのではないでしょうか。もっとも、この第六感については、科学的に肯定・否定の両方の見解もあるようです。
 私たちが日常生活のなかで感じる心のはたらきというのは、このあたりまでではないでしょうか。しかし、ふっと立ち止まってわが身を振り返ってみると、どうも自分の心はそのあたりのところでとどまるものでもないという感じもするのではないのでしょうか。

 「無意識」とか「深層心理」ということばを聞くことがありますが、よくわからなくてもなんとなく、そこのところを知りたいと思う人はたくさんおられるのではないでしょうか。それは、無意識や深層心理のところに、ほんとうの自分自身を発見できるような気になってしまうのでもないでしょうか。
 仏教では、そこのところを微に入り細に入り明らかにしています。五識と意識の深層はたらく第七識が「末那(マナ)識」、さらにその深層ではたらく根源的な第八識が「阿頼耶(アラヤ)識」です。これらは科学的に明らかにされたのではなく、さとりによる智慧から明らかにされたのです。
 近年では、人の心における科学的研究をすすめるなかで、仏教による心の見方(唯識)への学びを深めようとする人たちもおられます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月24日 (水)

存在しない自分をもっとよく知るために

 私たちは自分のことは自分がいちばんよく知っている、と思っています。だから自分の思いや行動に他の人が介入してくると、“余計なことを言わないでほしい”“いらないお節介だ”と不快な思いをするのです。
 長い付き合いの友人だからといってみても、自分は生まれてからずっと自分なのです。一時も自分から離れたことがない。この顔も、身体も自分のものです。もちろん社会のなかで生きていますから、いろんな影響を受け、自分の心にないことを思ったり態度を取ったり行動したりすることもある。しかしそれも自分だし、一度もだれかに代わってもらったわけでもありません。

 確かにその通りですが、それでは「顔も、身体も自分のもの」というその「自分」というものは一体何もので、どこに存在するのでしょうか。その「自分」を探しても、それを見つけることはできません。「自分」というものは存在しないのです。ただ「自分」ということばの響きがあり、「自分」という思いがあるだけです。

 自分を強く意識し、「自分探し」「自己啓発」などと強く自分を意識し、主張する時代ですが、仏教はもともと「自分」がないと示しています。それを示すことばが「無我」です。
 どこを探しても「自分」というものが見つからないのですが、「自分」が存在しないと言われてもどうも腑に落ちないと思われる人は多いと思います。「無我になれ」と言われるけれど、そうなれないというのは、「自分」があるからなれないのだ・・・というのは正直な思いでしょう。

 ここまでのところを振り返ってみて気づくことは、無いものを有るように思っているだけなのです。思っているのは、私の心がそう思っているのです。存在しない自分なのに、自分の心が存在する・・・。理屈を超えて不思議なことです。

 科学的学問研究によって明らかにされたことはたくさんありますし、それら科学的学問研究の成果の恩恵によって今の生活があることは間違いありません。しかしそれはうわべだけのことであり、時代や社会の変遷によって歴史的遺物になっていくものも数限りなくあります。私たちはそんな社会的経済的状況に左右され一喜一憂して生きているのです。
 しかし仏教は、そんな状況に左右されずに、無我になることができない私たちのありのままを映しだし続けてきたのです。経済活動の停滞とともに、人の心に関心が向いています。科学的な心理研究や実践も有用ではありますが、もっと仏教に謙虚に学ぶことがとても大切な時代であるし、もっと意識し、積極的な関わっていくことが求められていることに、間違いはないと思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月23日 (火)

六時礼讃「南無至心帰命礼 西方阿弥陀仏」

 お寺では、法要の時間のお知らせを、たとえば「○月16日 親鸞聖人御命日日中法要」などと記します。それを見られた方が、「日中法要ってなんですか?親鸞聖人は中国と深い関係があるのですか?」と聞かれました。
 中国という国家との関係は深くはありませんが、中国にお生まれになりご活躍された、道綽、曇鸞、善導という先師を敬われましたので、深い関係があるのかと問われれば「ある」と答えてもよいかもしれません。しかしこの「日中法要」といっても、日本と中国が関係する法要ではありません。

 七高僧第五祖の善導大師が著された『往生礼讃偈』(『六時礼讃偈』とも言われる)は、一日24時間を六つに区切って読誦し礼拝がおこなわれていました。『往生礼讃偈』は「日没礼讃偈」「初夜礼讃偈」「中夜礼讃偈」「後夜礼讃偈」「晨朝礼讃偈」「日中礼讃偈」と六つに分けられています。
 この六つはそれぞれの時刻を現して、その時刻を現在の時間に現せば、次の通りです。
   1)日没(にちもつ):申~酉の刻(15時~18時59分)
   2)初夜(しょや):戌~亥の刻(19時~22時59分)
   3)中夜(ちゅうや):子~丑の刻(23時~2時59分)
   4)後夜(ごや):寅~卯の刻(3時~6時59分)
   5)晨朝(じんじょう):辰~巳の刻(7時~10時59分)
   6)日中(にっちゅう):午~未の刻(11時~14時59分)

 このことからもわかるように、日中法要というのは、午~未の刻につとめられるのです。お寺のおつとめの時間は、朝のおつとめは「晨朝勤行」、夕方のおつとめは「日没勤行」などといまでもこの時刻表示が使われています。

 『往生礼讃偈』の内容は、阿弥陀仏の功徳をほめたたえるとともに、阿弥陀仏への帰依し、往生浄土することをすばらしいこととすすめています。何度もでてくる「南無至心帰命礼 西方阿弥陀仏」というフレーズと旋律はとても印象的で、耳に残ります。
 この旋律は、法然聖人によってつけられたと聞いたことがあります。後鳥羽上皇の寵愛を受けた松虫、鈴虫という二人の女官が出家したことにより、後鳥羽上皇の怒りとなり、念仏弾圧、諸僧の処刑、法然聖人親鸞聖人の流罪に至ったと言われています。鈴虫、松虫を出家させた一因は往生礼讃の旋律だったかもしれません。

 現代人は理屈をいっぱい並べ立て、教えを頭で理解しようとし、“わかった”“わからない”という判断が先に立ちます。しかし、理屈抜きに、教えられるとおり阿弥陀仏に自身をまかせていったのではないでしょうか。ことばに、美しい旋律をつけて読誦することを通して、身体をとおし、感覚に訴えかけて教えに触れていったのでしょう。
 こんなことから、浅薄な私の思慮・分別が及ばないところに仏法があることを感じるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月22日 (月)

生は偶然、死は必然

 阿弥陀如来にもさまざまなお姿があります。しかし浄土真宗の阿弥陀さまはすべて立っておられます。私たちが接する阿弥陀さまはどうして立っておられるのでしょうか。簡単に言えば、驚かれているからです。驚かなければならないことがあるから立ち上がらざるをえなかったのです。
 座ったまま驚くこともあるでしょうが、それはたいした驚きではありません。寝ていても座っていても、驚きが大きいと無意識のうちに立ち上がってしまうのです。私たち人間は、驚きが大きすぎて腰を抜かすことで立てなくなることがあります。また、あまりにも驚きが大きくて、居ても立ってもおられないという状態になることもあります。こういう状態は、人間の予測の範囲を超えているから起こるのでしょう。
 ところが、阿弥陀さまは腰を抜かすことなく立ち上がられました。しかし動揺されているわけでもありません。阿弥陀さまの予測を超えるほどではなかったのでしょう。それでも阿弥陀さまが立ち上がり、立ち続けなければならないほどの驚きがあるのです。私たちはその驚きの元を聞かねばなりません。

 それでは、阿弥陀さまは何をそんなに驚いておられるのでしょうか。それは私の今の姿を見られて驚いておられるのです。
 私たちは、毎日自分が生きているのは当たり前のことだと思っています。そんな者にとっては、死ぬことが驚きです。しかし、この世にいのちをもらって生まれてきたということは、必ず死ぬということです。いつ死ぬのかはわかりませんが必ずこの世でのいのちを終えるときがくるのです。生きていることが当たり前なのではなく死ぬことが当たり前なのです。
 生まれてきたものは必ず死ぬ。そんなことはだれもが知っていることですし、これまでも多くの人たちが死ぬのを見てきています。しかし「私が」死ぬということに驚き、身を震わせて悩むことはありません。頭で知っていても、どれだけの死に出遇っても、わが身に受けることができず、のほほ~んと生きているのです。
 驚くべきことは生きることです。死ぬことなどは当然のことであり、驚くべきことではないのです。しかし私たちは、身近な人が亡くなったときには大いに驚くのです。

 このことを、金子大栄師は、「生は偶然、死は必然」と示されています。生のみを基準にし、生きることだけを全面肯定している人には心に響かない言葉かもしれません。反発の心で受け取ってしまうかもしれません。しかしこのことばを目にし、耳にしても驚かないことが、阿弥陀さまにとっては驚きなのです。立ち上がるほかなかったのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月19日 (金)

相手を尊敬し、共感する態度を失っていない限りにおいて・・・

 「人の話を最後まで聴く」というのは、カウンセリングや傾聴の場でなくとも必要なことは、おそらくだれもが知っていることではないでしょうか。まず人間関係上のマナーの問題ですから理屈なし守らねばならないことでしょう。
 人間理解、円滑なコミュニケーションには必須なことです。人の話を最後まで聴けない人は、信頼を失ったり、人間的に軽くみられたりすることもあります。そんなことがよくわかっていても、なかなか黙って聴くことはできないのです。どうしてもしゃべりたくなります。それは、私も誰かに私を知ってほしい、理解してほしいという強い思いをもっているのが人間だからでしょう。

 しかし、ここは傾聴について考えているわけですから、人間の本性にまかせることを善しとするわけではありません。とにかく黙って聴くということが第一です。
 真剣に相手に関わろうとするほど、何か言わなければならないと思ってしまうのですが、傾聴においてそれは不要です。相手が沈黙してしまうと、なんとか場をつながなければならないと言葉を発してしまいます。それもまったく不要です。
 「相手を理解する」ということのために傾聴するのです。傾聴者が話すのは、相手の言ったことを正しく受け止め、理解しているか否かを確認するための時のみと限定してもいいでしょう。それ以外のことでしゃべるのは余計なことです。
 話している人は、しっかり受け止め理解してほしいと思っているだけなのですから。専門的なアドバイスや解決策がほしいなら、それぞれの用件に合った専門家のところに行くでしょう。ですから、傾聴者として関わるなら、話せば話すほど聴いてもらえないという不信が相手につのっていくと思っておいた方がよいでしょう。

 そういうことを十二分にわかっているつもりでも、しゃべりたくなるのです。それをひたすら辛抱してただ傾聴に徹するということは、これまた難しいことです。たまったものはどこかで吐き出してからっぽにすれば、リセットできて、また傾聴に徹することができるようになります。だからといって、たまった思いをそのまま吐き出すことはよくありません。それではどのような状況で、言いたくなったことを話せばよいのでしょうか。
 それは相手を尊敬する心と共感的理解の態度を失っていないという条件があります。傾聴者としてあるべき基本的な姿勢が失われていないということです。それをふまえたうえで、目の前の人との関係のなかで、いま言う必要であれば話すことができるのです。

 もちろん、ここに書いたことが絶対的条件ではありません。もっとも効果があると考えられ、さまざまな経験のなかからその有効性があきらかにされていることです。あとは自分自身が実際に試して確かめてみてはいかがでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月18日 (木)

共感的理解はあたかもクライエントのように理解すること

 カウンセラーの態度として、「自己一致」「受容」「共感」の三つが大切であるとカール・ロジャーズは明らかにしています。ここでは共感について触れてみます。ロジャーズは「共感的理解」と言っています。また「感情移入的理解」という人もいるようです。

 カウンセリング(傾聴)では、事柄よりも思いを聴いて、クライエントの気持ちを理解することが大事なことだと、以前にも書いたと思います。事柄を中心にして聴いてゆくと、クライエントが抱えている問題を、クライエントの外から客観的に分析する材料を集めることになります。学校教育の多くは、外から客観的に分析する姿勢や態度が養われることではないでしょうか。事柄を聴くことがダメだと言っているのではありません。しかし人と人との関係は、事柄について分析によっては深まってはいきません。
 クライエントの思いを理解することが共感的理解ですが、それは決して同情ではありません。カウンセラーはクライエントに寄り添って気持ちを理解するのですが、決してクライエントとの感情に巻き込まれてはなりません。
 共感的理解を示す例として、カウンセラーはクライエントの靴をはいたような感触でクライエントのことを理解すると言われます。みなさんもその感じを味わってみてください。

 「う~ん、わかるなぁ・・・」なんて、つい言ってしまいます。いかにも相手のことを受容し共感しているようですが、これだけではよくわかりません。相手の靴を履いて「あぁ、こういう感覚ね」と言っているのと同じです。
 クライエントは、目の前にいるカウンセラーのしぐさや表情あるいは雰囲気から、敏感に私を受け入れ、理解してくれている人か感じとるでしょう。しかし自分自身をどれほど正確に受け入れ、理解してくれているかは、カウンセラーが受容し共感したことを言葉にして返してもらって始めてわかることです。

 カウンセラーがクライエントをそのまま受け入れ、正しく理解したと思っても、クライエントがカウンセラーに受け入れてられ、わかってもらったと認識しなければ、この両者の関係は不安定なままです。たとえ熟練、ベテランのカウンセラーといえども、何もかも完璧というわけにはいきません。何よりもクライエントの思いが中心ですから、ていねいにクライエントに寄り添っていくカウンセラーの姿勢や態度が必要です。

 カウンセリング(傾聴)のおけるカウンセラー(傾聴者)は、いつもクライエントの心を正しく映しだす鏡にならなければならないと思っています。その鏡は、クライエントの前にあって、曇っていてはならないし、ゆがんでいてはなりません。しかしカウンセラーがいつも完璧な鏡であることは難しい。そのため、カウンセラー自身が自分の鏡の大きさや映り具合をよく知っておかねばなりません。また、今日は鏡がゆがんでいるとか、曇っているというようなその日の状態もわかっていることも求められているのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月16日 (火)

無条件の肯定的配慮はクライエントに対して

 正直な自分を感じながら、目の前の人を傾聴し「受容」するのです。この受容とは、ロジャーズの言葉では、「カウンセラーは、クライエントに対して、無条件の肯定的配慮を経験していること」いう表現で示されていることです。
 「無条件の肯定的配慮」とは、批判や評価をせず、クライエントのありのままを受け止めることです。クライエントがどのようなことを経験し、何を思っていようとも、それもクライエントの一部であることと認めることです。「無条件」と付いていますから、私の先入観の入る余地はどこにもありません。
 このように学んで人の話を聴き始めるのですが、どうも話し手の内容が気になって仕方がないということが続くと、聴き手の思いを刺激するのです。刺激された聴き手の思いはムクムクと自分の思いが湧きあがり、ふくらんでくるのです。当然そこには自分の価値観がはいっています。当然それは「無条件の肯定的配慮」ではありません。

 受容することがとても重要だと学び、頭のなかにしっかりと入れて、実践にのぞんでみたら、自分が納得でき受け入れやすい話はスイスイ聴けているようです。でも、自分の価値観と大きくズレていたり、私の許容範囲を超えた話が続くと、その話は聞きたくない、あぁしつこい話やなぁ、それウソ違うか、みんなに迷惑かかるからそれはダメ、こちらの方向に歩めばいいのに・・・などの思いは次から次へと出てきます。どこが受容なのかと思い直してはみても、なかなかうまく聴けない。
 聴く訓練をするようになって、そういう思いから次第に解放され、次第に受容することができるようになってきます。だからといって、これらの自分の思いが皆無になることはありません。受容しなければならないと思えば思うほど、受容できなくなってゆくというのもおもしろいところです。

 傾聴というのは、クライエントの言いたいこと、思いを聴くことです。関心はクライエントにあるのがけいちょうです。そして聴いたことや、聴いたことを通して理解したクライエントのことを、クライエントに返すことです。そのなかに私の偏見はもちろんのこと、思いや価値観など入れる余地などどこにもありません。クライエントを受け入れることなく、聴き手が自分の思いや偏見を差し挟んだところで、クライエントに何のメリットもありません。

 理屈で聴けるものではありません。うまく聴けないから聴くためのトレーニングが必要です。わが身を通してしか聴くことがどういうものかは理解できません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月15日 (月)

正直な自分を感じながら聴けますか?

 人間はだれもがクライエントではありますが、ある場面ではクライエントがカウンセラー役をすることがあります。カウンセラーの役割はいくつもあげられるでしょうが、傾聴がもっとも大切な役割といっても間違いありません。
 カウンセラーには三つの基本的な態度が必要です。それが「自己一致」「受容」「共感」です。傾聴するんだから「受容」「共感」が大切だというのはイメージ的にも理解できると思います。しかしそれ以上に、「自己一致」が大事なことだと私は思っています。

 それでは、自己一致というのはどういう状態でしょうか。昨日、クライエントは不一致の状態にあると書きましたが、カウンセラーなら不一致でない状態、つまり自己一致していないとカウンセラー役は果たせません。
 「一致している」というのは純粋である、透明である、真実である、統合されている、裏表がない、などという意味を含んでいます。もう少し具体的に言うなら、ありのままの自分をさらけ出しいいかっこをしていない、裏表の使い分けをしない、仮面を脱ぎさって素面をみせる、自分の感情や態度を隠したりしていない状態です。現在の自分のことが自分でよくわかっていることです。これがとてもむつかしいことなのです。だからだれもが不一致な状態にあるクライエントなのです。

 そんなに自己一致することが難しいのなら、カウンセラー(傾聴者)になることなどはできないと思う人もおられるもしれません。そうですね、常に自己一致できておれば、それは人格者であり、覚者であるかもしれません。
 でも、ここでカウンセラーが自己一致することを求められているのは、カウンセラーとクライエントとの二人が心理的な関係を持っている場面に限定されています。つまりきわめて非日常的場面であるということでしょう。確かに、立ち話ではなかなか傾聴はむつかしいし、カウンセリング関係においては生活の喧噪のなかから離れた場面が設定されるのです。

 精神的に安定していて、とっても自分のことがよく見えているから、今日はきっとうまく聴けるだろう・・・と思ってクライエントとの心理的な関係を持ちます。ところが、話しを聞いているうちに、話しの内容に動揺することがあります。話が聴けなくなって、自分の動揺する思いに振り回され始めます。そんな場合であっても、それもそのまま、ありのままの自分としてしっかり認識できるのが自己一致です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月14日 (日)

人間だれもがクライエント

 上手に傾聴するためには、聴き手どのような態度で聴くのかというところにあるようです。傾聴関係の講座でも本でも、必ず出てくるのが、傾聴者は「受容」「共感」「自己一致」が大切であるということです。
 カール・ロジャーズが1957年に書いた「治療上のパーソナリティ変化の必要にして十分な条件」という有名な論文がもとになっていて、その後の多くケースや経験から、このことはきわめて有効性が高いということがわかってきています。パーソナリティ変化の必要にして十分な条件は次の6つです。

 1)二人の人間が、心理的な接触をもっていること
 2)クライエントは不一致の状態にあって傷つきやすいあるいは不安の状態にある。
 3)カウンセラーは、この関係の中で、一致しており、統合されている。
 4)カウンセラーは、クライエントに対して、無条件の肯定的配慮を経験していること。
 5)カウンセラーは、クライエントの内部的照合枠について共感的理解を経験しており、そしてこの経験をクライエントに伝達するように努めていること。
 6)カウンセラーの共感的理解と無条件の肯定的配慮を、クライエントに伝達することが最低限に達成されること。

 このなかで、カウンセラーの態度を示しているのは3)~5)です。このことは後ほど検討することとして、まずは1)と2)をみてみます。
 その前に、カウンセリングなど心の支援において、助けを求めたい人のことは「クライエント」、助けに応えたい人のことを「カウンセラー」と言います。ここでは傾聴しようと思っている人をカウンセラーと、またその傾聴しようと思っている人に話している人をクライエントということにします。

 まず1)から。二人が最小限の人間関係です。その二人が心理的な接触があるというのは当たり前のことです。しかしわざわざこのことを断らなければならないというのは、人と出会っていても、心が通い合っていない関係があるということです。
 2)のクライエントは助けを求めているわけですから、傷つきやすいあるいは不安の状態にあるというのは理解できると思います。それでは「不一致」の状態というのはどういうことでしょうか。何と何が一致していないのでしょうか。
 それは自分自身の経験と現在の思い・意識が一致していない、また思い・意識が正しく表現できないことです。自分自身に素直になれずに混乱したり、ありのままの自分を隠したりごまかしたりしている状態です。自分の「こころ」と「からだ」と「ことば」がバラバラの状態、一つになっていない状態ともいえるのではないでしょうか。
 どれくらい不一致なのか、その程度はさまざまですが、不一致であるのが人間です。ということは、だれもがクライエントなのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月13日 (土)

傾聴は阿弥陀さまの心で

 傾聴というのは、ちょっと軽く考えられるところがあるようで、日常生活のなかで簡単にできるように思っておられる方がおられるのではないでしょうか。傾聴ということに深く関われば関わるほど、そう簡単なものではないとおもうようになってきています。
 傾聴のためには、場所、音、温度、明るさなどを考え、日常生活から一歩離れた空間が必要です。立ち話で傾聴はできないと思いますし、何よりも聴こうという気持ちにならないとなかなか聴けるものではありません。

 何の疑いもなく、徹底的に人を信頼し尊敬できるのか・・・と考えたとき、それは人間の業ではないな、と思います。少なくとも私の業ではありえません。しかし人間がこの世で人間として生きていくためには、まねごとの(?)カウンセリングや傾聴によってでもホッと息がつけるときがあるのです。できることなら、まねごとではない、理想に限りなく近づきたいとも思います。それなら、自分の愚かさ・ダメさを多くの人の前にさらけ出してでも、トレーニングをくり返さなければなりません。

 トレーニングしているときにひとつだけでもうまくいったら、“できるじゃな~い”と得意になり、やったことをみんなに二回三回とほめられると“センスがいいのかも・・・”なんて思い込んでしまうのです。それらはたまたまいろんな条件がうまく整っただけで、それまででも失敗して落ち込むということを何度もくり返しているのにもかかわらず。そしてまた、うまく聴けなくて情けなくなってしまうこともあるだろうに・・・・。
 わずかなそんな経験のなかでも、力の無さ、おごりたかぶる心、調子の良し悪し、自信と落胆・・・などを感じるでしょう。
 また、聴いてもらって気持ちが落ち着いたり、ホッとしたりすることはたくさんあります。気持ちをきちんと受け止めてもらえたという思いに至ったときは、ほのぼのとした安心感に包まれます。でも、またムクムクと聴いてもらいたい、悩みや苦しみやしんどさを湧いてくるのです。
 これはきっと、心の底の底に、私自身でも気づいていない深いところに、そういう思いをわき出させる何かがあることを感じさせられるのです。

 聴くのも、聴いてもらうのも、至難の業です。私のことを間違いなく傾聴してくださっているのは阿弥陀さましかおられません。私が阿弥陀さまの教えを聴聞する前に、阿弥陀さまは私を信頼し、尊敬して聴して、私の心の底の底を聴き続けてくださっているのです。
 傾聴というのは、阿弥陀さまの心でありはたらきでしょう。それが完全にできることなどあろうはずはありません。しかし傾聴あるいは傾聴訓練をするなかで、阿弥陀さまの心で聴かせていただく・・・という気持ちを持つことができれば、きっと上手くいくでしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月12日 (金)

傾聴の原点は人間への信頼と尊敬

 「カウンセラー」というのは心理的な専門的知識と相当なトレーニングをし、かつ資格を持った専門家です。しかし「カウンセラー」にはなれないけれど、カウンセラー的な役割を果たしたいと思う人は、たくさんおられるのではないでしょうか。
 その一つが「傾聴ボランティア」でしょう。傾聴できる人がふえ、できれば日常生活のここぞというところで傾聴ができれば、人間関係はよりよく改善するだろうと思うのです。しかし、傾聴ということはとても難しいことを知ってほしいのです。

 まず、傾聴というのだから、とにかく聴くことだけに専念すればよいのだろうというのは大きな勘違いです。また、傾聴の技術だけを身につけようとしても、傾聴はできません。
 また、カウンセラーでも、傾聴ができない人というのは少なくありません。専門的知識の勉強はヤマほどするし、臨床経験もたくさんしているけれど、傾聴の訓練をほとんどしていないのではないか・・・・と思われるようなカウンセラーはたくさんおられます。なかには、大枚の金を取るけれども、その時の感と運だけが頼りの「感・運 seller」じゃないかと思うような人もおられます。

 私は傾聴の訓練の前に、カール・ロジャーズのカウンセリング理論をひと通りは学んでおくべき、知っておくべきだと思っています。
 その基礎の基礎になるのは、傾聴するにあたっての基本的な人間観です。それは徹底的な人間への信頼と尊敬です。自分を守ってくれる人、自分に対してプラスになる人、何かを与えてくれた人などについては、信頼し、尊敬することはやぶさかではありません。しかし必ずしもそんな人ばかりではありません。私に対して危害・損害を加える人など信頼も神経もできるはずはありません。また反社会的な行動や発言する人に対しても少し引き気味なつきあいになるかもしれません。また、危害損害はくわえないけれど、いつもダラダラしていて、やる気がまったく見えないいい加減な人もいるでしょう。しかしそれは外見です。どんな人であっても、必ず成長し、適応し、健康になりたいという思いを持っていることを信頼し、尊敬するのです。
 どう考えても、○○さんはそんな人ではない・・・というような人を思い浮かべるかもしれません。しかしその○○さんの心の奥底をほんとうに理解していますか? もっと言うなら、その人と向き合って傾聴したことがありますか?

 それぞれの人が社会に生まれ育つプロセスのなかで、人のもつ成長力が力を失ったり、はたらかなくなったりしているだけのことです。ですから、そのままにしておけばそのうち成長し適応するだろうということはありません。カウンセラーとは、人を信頼でき尊敬できる人間関係に引き戻すことを援助するのが役割です。そういうことからすれば、傾聴もカウンセラーの役割とまったく同じです。
 最初から、人間にレッテルを貼って、どうしても人が信頼できないし尊敬できないと思い込む人にはカウンセリングも傾聴するのも向いていないのかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月11日 (木)

聖徳太子は観音の化身、弥陀の化身

 親鸞聖人19歳のとき、河内・磯長の聖徳太子の御廟にお参りされています。また親鸞聖人が29歳のとき、聖徳太子創建のお寺と伝えられている京都・六角堂に籠もられます。親鸞聖人が19歳および29歳というのは、信仰のうえで大きな悩みをもっていたときと思われます。そのため、親鸞聖人が尊敬されていた聖徳太子に、歩むべき道を仰ぐために足を運ばれたのでしょう。

 もちろんこれらは法然聖人に会われる前のことですし、他力念仏の教えに帰依されていないときのことです。しかし、親鸞聖人は聖徳太子のことを「和国の教主」と仰がれ、阿弥陀如来の化身であり、観音菩薩の化身とみておられました。それは親鸞聖人が『正像末和讃』のなかに「皇太子聖徳奉讃」として11首、『皇太子聖徳奉讃』75首、『大日本国粟讃王聖徳太子奉讃』114首、『尊号真像銘文』などに聖徳太子を讃えて記述されていることからしることができます。

 聖徳太子は『三経義疏』(『法華経』『勝鬘経』『維摩経』それぞれの注釈書)を著されたと言われています。また、「憲法十七条」の根底には仏教精神が息づいていることはよく知られています。最近の研究では、それらのことをも含め、聖徳太子についての客観的な事実を明らかにすることは難しいことが知られています。
 仮に『三経義疏』や「憲法十七条」が間違いなく聖徳太子の作であり、親鸞聖人がそれらの書物を読まれていたとしても、そこにははっきりと阿弥陀さまの本願が示されているわけではありません。にもかかわらず親鸞聖人が聖徳太子を尊敬し慕われたのは、日本に仏教をしっかり定着させ、ひろめようとされたことにあるでしょう。

 親鸞聖人のなかには、八万四千の法門がある教えのなかでも、それらをつきつめてゆけば弥陀の本願によるしかないことを確信されていた。それゆえ、聖徳太子は「和国の教主」と仰がずにはおれなかったのではないでしょうか。

  仏智不思議の誓願を
  聖徳皇のめぐみにて
  正定聚に帰入して
  補処の弥勒のごとくなり
   (『正像末和讃』註釈版p.615)
弥陀の本願を、聖徳太子の恵みによって知らせていただくことができた。そのおかげで正定聚不退の位にはいり、次の生には必ず浄土に生まれさせていただく弥勒菩薩と同じ位に入らせいただくことができた。

 聖徳太子は出家されることはありませんでした。それでも親鸞聖人は、聖徳太子に書かれているもの、日本を治めるためになされたことのなかに仏教そのものを感じられたのでしょう。さらにそれは阿弥陀さまの本願であり、南無阿弥陀仏と受け取られたゆえに、聖徳太子を阿弥陀如来の化身とみられたのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月 7日 (日)

阿弥陀さまをどこまで嘆かせ続けるのか

 むかしむかしのそのむかし、はかり知ることのできないはるか彼方の遠いむかしから、この世に五十三の仏さまがおでましになられました。最初の仏さまは錠光(じょうこう)という仏さま、次に光遠(こうおん)という仏さま、その次は月光(がっこう)という仏さま・・・と、おでましになられた五十三すべての仏さまの名前が『無量寿経』に記されています。この五十三の仏さまたちには、光や華や香りや音や天や地などにかかわる名前がつけられています。
 私たちの名前は生まれてすぐにつけられます。何もない状態の子に、このように育ってほしいという願いが込められてつけられます。しかし仏さまの私たちを導いてくださる方々ですから、その徳が名前としてつけられています。またこれらの仏さまのことを如来ともいいます。真実の世界からこの世に来られ方という意味です。
 その仏さまたちは、教えを説かれ、そしてこの世を去っていかれました。そして五十四番目に「世自在王仏」という仏さまがおでましになられました。

 その世自在王仏を師として修行されたのが法蔵菩薩です。法蔵菩薩はもともとある国の王でした。世自在王仏の教えを聞かれ、歓び、自分も仏になって人びとを救いたいと願われ、世自在王仏のもとで出家され、法蔵菩薩と名のられるのです。
 世自在王仏は法蔵菩薩の願いに応じて、二百十億もある諸仏の浄土の成り立ちとそれぞれの浄土の人びとの姿を示されます。法蔵菩薩はそれらにまさる浄土を建立し、すべての人たちをそこに生まれさせるという願を、五劫という長い時間の思惟の末におこされるのです。五劫という時間の長さは、法蔵菩薩の思いの深さをも示しています。そしてできあがったのが四十八の願です。これらはすべてのものをわが浄土に生まれさせるというものです。
 法蔵菩薩は、この願を世自在王仏に述べられるとともに、三つの誓いをなさいます。
1)私の発した願いがすべて成就しないのであれば私は仏になりません。
2)悩み苦しむあらゆる人びとを救えないのなら、私は仏になりません。
3)私の名声をあらゆるところにゆきわたらせたいが、もし私の名が聞かれないことがあるなら、私は仏になりません。(名声=名号=南無阿弥陀仏)

 この法蔵菩薩の願いも誓いも私のために立てられたものです。私に向けられていることに気づかねば、ただの物語で終わってしまいます。
 また、法蔵菩薩の誓願がそのままで終わってしまったのではありません。誓願は成就され、法蔵菩薩は阿弥陀仏となられました。いま、ここに、私のために念仏となってはたらいてくださっています。願いは私のところに届いているのです。
 さて、当の私は、いつまでたっても、どこまでいってもそこに気づくことなく浮かれています。それは阿弥陀さまを嘆かせてきたし、嘆かせ続けているということなのです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2010年11月 6日 (土)

間違いのない情報も説明もないなかで、どう生きる?

 日本が民主主義の社会になったのは1945年の第二次世界大戦後で、それから65年が経過します。それまで紆余曲折を経ながら、徐々に民主主義の形をつくってきたという気がします。しかし個人的には、日本はまだ民主主義社会完成の途上にあると思っています。
 完全な形での民主主義社会というのは難しいとしても、せめて政治や行政について、一人一人が考え判断し、決定するための条件が整えられなければならないと思うのです。そのためには、政治や行政に関わるすべての情報が公開され、国民や市民に対してその活動や権限行使の予定、内容、結果等の報告がなされなければなりません。前者は情報公開であり、後者が説明責任と言われています。それらのしくみができあがっており、それがきちんと実行される社会が、これから日本が真の意味での民主主義社会になるために必要な要件だと思うのです。
 それらが整えられてこそ、国民、市民がそれぞれに正しい判断ができるのです。

 その責任をもっとも負わなければならない政府や政権与党に関わる人たちが、それらの情報公開や説明責任をあいまいにしているから、政治不信が起こるのも無理からぬことです。とくに、国民や市民から集めたお金についての情報公開と説明責任は、だれもが納得いくまでするべきです。それがきちんとできてからでないと、財政(財務)状況が厳しいからとか、高齢者を支えきれなくなってきたとか、・・・での国民負担増なんて納得できるものではありません。
 情報公開をおこなうことや説明責任を果たすことは、国民や市民にこびる大衆迎合主義だとの批判があります。そうではなく、するべき情報公開をして政治をおこない、行政を進めればよいのです。その後、信念に基づいてやったことであれば、堂々と説明責任も果たせるはずです。

 長々と世俗の話をしましたが、仏法は凡夫がものごとを決めるわけではありませんから、情報公開や説明責任を果たす必要などありません。しかし阿弥陀さまから「仏願の生起本末」という形で情報公開がなされています。凡夫の私が仏願に信順できればどんな世界に生まれるのか、さらには往生浄土の末に凡夫はどうなるのかという説明責任もなされています。それらにはそっぽを向いてしまっていても、阿弥陀さまは私のために仕上げてくださった国土に生まれよ、生まれさせたいという願いを私に差し向けてくださっています。それに気づかなくとも必ず生まれさせてみせると、遠いむかしから南無阿弥陀仏とはたらき続けてくださっているのです。
 初めてお釈迦さまがそのことをこの世に明らかにされて以来、すべて経典に述べられ、いろんな方々によって説かれ続けてきました。

 しかしそんな情報公開も説明責任も、気づかない、知らない、聞いたことがない・・・と、うそぶき、そんなことありえない・・・と疑い続けているのです。
 それでは、正しい情報も、間違いのない説明もない世界で、あなたは何を頼りに今を生き、そして何を頼りに後生へと出て行くのですか? 迷い続けるなかで、ほんとうに間違いないものを探し当てることはできますか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月 5日 (金)

まずは縁あるお寺で聴聞を

 仏法聴聞はどこでもできるように思いますが、やはり本尊が安置され、みんなでおつとめをして心の準備をすることができるにこしたことはありません。やはり静かに聴聞できる場でないと落ち着きません。できることなら荘厳な雰囲気であれば心はより落ち着くに違いありません。やはり夏なら涼しく冬なら暖かく心地よく室温調整がされていれば、気持ちを集中して聴聞できるでしょう。適度な照明に、座りごこちよい椅子にすわって、よく聞こえる音響環境であるにこしたことはありません。あまり長い時間だと疲れますから適当な時間配分で、長ければお茶など出していただければ・・・。こうなると、仏法はどこでも聴聞できるものではなくなってしまいます。

 その点、寺院はそんな好条件が見事に整えられていると思います。ところがお参りするのはほとんどが常連の少数の高齢者・・・というようにしかとらえられていません。
 日常生活を当たり前のように過ごしている人にとっては、自分にとっては必要のない空間で、ムダな時間を過ごしていると思われているのでしょう。必要がない、ムダだと思う人はお寺に参らないし、聴聞もしない。もっとも聴聞する気がないからお寺に参る必要もないし、自分にはまったく必要のない話だと思っているから聞く気にならない。自分にとって必要がないものはムダなのです。どこまでいってもその枠からでることはありません。
 ところが普段から縁がないと、万一の時、寺院に足を運ぶことはまずないでしょう。いまや心の問題は病院の心療内科かカウンセリングルームへ、老や病はそれぞれの施設・病院へ、葬儀は葬儀ホールでことが足りますから。

 日常生活のなかでは、自分の信念とは違う行為に関わらなければならない葛藤や、人間関係に苦しみ、あるいは人に話せない深い悩みを抱えて生きなければなりません。それらを解決できたらどれほど楽に生きることができるだろうと思いながら、なんとかごまかしたり、それぞれの立場の論理を作りあげたり、自分の思いを無理矢理にでも正当化しなければ生きていく甲斐がないとも思い込んでいます。
 なんとか乗り切ろうと悩み苦しんでも、時代や社会が変われば一瞬にして大方針さえも変わってゆくのが世俗のあり方です。そんな私は、単なる社会と時代の漂流物でしかありません。漂流物として生きることは、根本的に不満、不平、不安を内蔵しているのです。それでも生きなければならないのが人間です。

 そんな人間こそがお寺に足を運び、非日常的空間を感じてほしいものです。どの宗派か、どんな教えか・・・ということは、ここでは置いておきましょう。縁があれば、仏法聴聞が始まり、深まるでしょうし、縁がなければ離れることになるでしょう。
 ただ、人間に生まれてきたからには、遇うべき縁を待つだけではもったいない。自分を正当化するのではなく、仏法の教えを訪ねてほしいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月 4日 (木)

阿弥陀さまとのコミュニケーションしてます?

 「おはようございます」「ありがとうございます」「失礼しました(します)」「すみません」のそれぞれのあいさつの頭文字一文字ずつをつないでオアシス運動という、日常のあいさつをしようという啓蒙運動があります。その起こりや詳細についてはよく知りませんが、昭和50年代にはすでにおこなわれていたようで、小学校や公民館で看板やポスターを見たことがあります。企業のなかでも取り組むところがあるようです。

 あいさつは日常生活の潤滑油だとよく言われますが、確かにそのことを感じます。また、あいさつは日常生活のコミュニケーションの基本中の基本だとも思います。あいさつの言葉をかけることで、関わりをもつ人とのその一日の関係をはかることができます。「おはようございます」と明るく元気な声で先にあいさつされると、私の方も元気になります。私が声をかけて、少し沈んだ声で言葉が返ってきたら、何かあったのか・・・と気を遣うことになるでしょう。
 大事なことはお互いに声を掛け合うことです。自然な感じがいいのでしょうが、できるなら大きな声で、元気にするのがよいでしょう。あいさつしても何の返事も返ってこないというのは、気持ちが沈んだりすさんだり、またあらぬ心配をしたりすることになります。日常のあいさつをするのはあたりまえのことだと思うのですが、そうではないから“運動”にしなければならないのでしょう。
 対人関係が苦手な人のなかには、あいさつが苦手という人もいます。だからあいさつをしないというのではなく、人とのつきあいが苦手だからこそせめてあいさつだけは必要なのです。あいさつで何が変わるということはなくとも、声をかけられた人の気持ち、印象が違います。

 仏法を長年聞いても阿弥陀さまの心がわからない人には、仏法はうとましい存在になってしまっている人がいます。仏法を長い間真剣に聞いてきているのに、阿弥陀さまの心も私の心さえもわからなくなって、阿弥陀さまをうらんでしまう・・・という人もおられました。
 ピントがずれてしまっていて、聞くべきことが聞けないのでしょう。阿弥陀さまのおはたらきよるのですから、私ががんばったところで聞けるという教えではありません。しかし聞こう、聞きたいという姿勢を失っては、届いているお慈悲も見失ってしまうでしょう。

 南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまへのごあいさつだと考えてみることもできるでしょう。阿弥陀さまが私にいつも「南無阿弥陀仏」と喚びづめです。なのに、いつまでもそっぽを向いてしまって何もしない、何も言わないというのは失礼な話です。阿弥陀さまは失礼などとは決しておっしゃいませんが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月 3日 (水)

仏に成ろうなんて、とても思えない?

 仏教は仏の教えですが、もう少し具体的に言うと「仏に成る教え」です。さらに厳密に言うなら「仏に成らせていただく教え」です。

 仏教という教え(仏法)を聞いたことがない人はたくさんおられるでしょう。聞いたとしても、聞き流してしまう人、何も心に響かなかったというという人、信じることができないという人も少なからずおられます。ほとんどの人はそうなのかもしれません。そんな人にとっては、仏も、仏に成ることも、どうでもいいことなのでしょうか?
 それでは仏の教えを信じない人は、何になると思っておられるのでしょうか? 人間を突き詰めていったら、いつかは必ず死がやってきます。亡くなれば土葬もしくは火葬します。腐敗が進みますから土葬もしくは火葬します。物質的には土に返ってゆくか、灰と骨となるだけです。しかしこの世でうれしい楽しいと思い、悲しい腹が立つ、・・・と思って生きていた心はどうなるのでしょうか。私を生かしめてきたいのちはパッと消え失せてしまったのでしょうか?
 火の玉となってさまよっているとか、どこへ行くのかわからんから「さぁ~・・・」と首をかしげるだけで終わってしまいます。また、「死んだらホトケ」と言うんだから、だれでも仏に成るんだろうという人もおられます。お坊さんにお経を読んでもらったら成仏するだろうと考えている人もおられるでしょう。その時々の体調や気分やまわりの状況に応じて、都合のよい思いをめぐらすだけのことです。

 自分の生死にかかわる道理も知らず、憶測・推測を重ね、いい加減に自分自身をごまかすことこそ不安を増幅させているのではないですか? そんな私の状況を、無明の闇のなかでの迷いと言うのでしょう。迷っていることすらわからず、ヘラヘラ笑って問題を先送りし続けているのです。しかもこの世の快楽を追求するだけで、いつまでたっても仏法を聞くことがありませから、問題は解決することなくどんどん先送りされ続けるだけです。
 凡夫の側から言うなら、納得もできず信じることもできないのに、仏の道を歩む気持ちなど起ころうはずはないと言うのでしょう。それではいつ納得し信じることができるのでしょう。そんなことはわかりません。つまり、納得するためのゴールが見えないまま仏になるための道は閉ざされて続けるのです。
 教えの側から言うなら、仏法が納得できるか否か、信じられるか否かという凡夫の視点も都合などまったく関係ないことです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2010年11月 2日 (火)

仏法は仏さまの道理

 報恩講の時期です。「報恩」という言葉は、日常生活のなかではほとんど使われなくなってしまっています。「報」は報道や報告のように、知らせるという意味で使われますが、お返しをする、むくいるという意味で使われるのは報復くらいでしょうか。よい意味ではなく、受けた行いにし返しするという感じが残るだけで、あまりいい意味ではありません。「恩」は、恩給、恩愛、恩恵、恩師などと使われますが、もうひとつピンときません。自分という存在がある以上、他者から恩を受けているのは明らかなのに、それを恩と受けとれないことが私の大きな問題でもあります。

 浄土真宗では、親鸞聖人の遺徳をしのび、その御恩に報いる思いをていねいに精いっぱいの形で示す大切な行事です。ところがこの半世紀のなかで、報恩講の期間も規模も縮小傾向にあります。理由は、のんびりした時代ではなくなってきた、お参りする人の数が少なくなってきた、準備をする人手がなくなってきた、経費の面で厳しくなってきた、などの形式的な理由が挙げられます。同時に、まことの信心をとる人が少なくなってきた、報恩を感じていない人が多い、などと他人に向けての理由もあるようです。
 しかし問題は、自分のなかにあります。私が御恩を御恩と受け取っていないことがいちばん理由でしょう。

 確かに報恩講は、期間が短くなり規模が小さくなったとしてもたいへんな法要行事です。しかしおいしいものを食べ、目や耳に心地よいものを見たり聞いたりするためには、さらにこの身この心を満たすためにはどれだけの労力や費用をつぎ込んでも惜しくはない。そんなことに対してはたいへんさをいといません。「自分に対するごほうび」なんて言うのです。
 本音を言うなら、ほんとうに報恩講はたいへんです。報恩講が近づくと憂鬱になり、報恩講が終わると一年が終わったかのような気持ちになってしまいます。しかしそんな思いをもっても報恩講はつとめねばならないという立場にいます。正確に言うなら、そういう立場に居させていただいているのです。

 仏法を聞けば善悪の道理もそれなりにわかったつもりになりますが、その道理に従って生きることはとても難しい。善悪の判断をするのは私ですが、私の思いは道理には従ってはいません。自分の思いをどれだけ主張しても、それは仏法ではありません。道理の通りに生きることができないから、阿弥陀さまのお慈悲があるのです。
 阿弥陀さまのお慈悲があれば、すべてが許されるのでしょうか。阿弥陀さまにすれば何もかもお許しですが、私自身が自分の思いや行為を許してしまうから、「恩」も「報恩」もどこかへ行ってしまうのじゃないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月 1日 (月)

自分の思いにしがみつかず、投げ出して聞く

 日本には多くの仏教寺院があり、かつてはその寺院が地域コミュニティの核になった時代がありました。家族や地域のきずなの重要性が指摘されて久しいですが、あえてそのようなことを言わなくても学びの場が家族であり地域であることが当たり前の時代が長く続きました。家族や地域での学びよりも学校や社会での学びが多くなってきたとき、仏教への関わりが薄くなってきたのではないでしょうか。

 日本では、公立学校の教育のなかで宗教教育をしてはいけないことになっています。それゆえ仏教についてはもちろん宗教についても疎くなってしまっているのが現代の日本人です。何も教えられないのですから、宗教なんて必要ないという人も少なくありません。
 仏教への関わりも知識も、そして信仰そのものも薄く弱くなってはいますが、まったくなくなったわけではありません。仏教的なものがまだ確かに残っています。たとえば文化あるいは文化財として、また組織や制度として、さらには伝統や習慣などです。文化や組織・制度あるいは伝統や習慣という形での残り方は、形を残すということです。多くは形式でおわってしまうことが少なからずあります。そんな仏教に触れる一般の人たちは、自分の身をかけて教えを聞いたり行じたりする機会は少ないので、感覚的、直感的に仏教的なものを受け取るしかありません。

 一般の人びとが描いている日本の仏教は、わが思い願いを実現するために精進潔斎し、悪を犯さず善を積むといのが大前提です。しかし一般の人びとはその教えをしっかり受け止め、本気で行ずるということはありません。感覚的、直感的な知識に過ぎません。
 日常生活に何ごともなく、淡々と過ごすことができているうちはそれでよいのですが、何が起こるかわかりません。病気もするし老いもする。自分の思い通りにならないし、事故など起こってはほしくはないことも頻繁にあります。知人・友人や肉親などの死にあい、無常を感じたり、虚脱感に襲われることもあるでしょう。そんなときはどうすることもできず、わが思いにとらわれ、自分がよいと思っている方向に進むようただ願い、祈るしかありません。そんなときには敬虔な(?)仏教徒になったりするのです。

 そんななか、阿弥陀さまの教えを聞くことはとても難しいことです。助けてほしい、楽になりたい、思い通りにしたい、悪い方向に行ってほしくない・・・・と、いつも自分中心でしかないのです。しかしそれがありのままの私です。そんな私をいつも慈しんでくださる方が阿弥陀さまです。
 そんな話を聞かされてもピンと来ません。殊勝な気持ちになってみたところで、自分自身の思いに固執し、自分を守り抜こうという心はまったくかわらないのですから。そんな思いを、すっかり阿弥陀さまの前に投げ出したところでないと聞けない法です。感覚的、直感的な知識はきれいに捨てて、阿弥陀さまの教えを聞くことなしに届く法ではありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年10月 | トップページ | 2010年12月 »