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2010年12月27日 (月)

思うところあって、ちょっとだけ休みます。

 来年1月上旬に再開するつもりでいます。

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2010年12月25日 (土)

諸行無常の響きを聞きながら

 美しいものを見て、心地よい音楽を聞いて、おいしいものを食べて、ほしいものを手に入れて、気の合う人と心ゆくまで話をして、・・・・などと、人生を大いに楽しみたいものです。ところがなかなか思うようにはいかないのが人生。それでも、きっといいことがあると信じて生きています。
 そのうち、その楽しいこと、いいことがやってきます。期待したほどのことじゃなくて、ほんの些細なことであっても、けっこう満足感があったりします。つらいことも苦しいこともイヤなこともすっかり忘れてしまうことができます。
 しかしそれはほんの一瞬。アッという間に時間が過ぎてゆきます。そして気づいてみると、まるで夢が覚めたようです。あとに残るのは、“あ~、楽しかったなぁ・・・”という思いだけです。ちょっとさみしいし、むなしい気はしますが、楽しかったという思いがたくさんあるほど、次に生きるパワーになる気がします。また、心に残る楽しい思い一つで後々の人生を生き続けられる人だっているようですから。

 楽しいことを求めて生きていますが、どちらかというと悲しいこと、苦しいことの方が多い気がします。イヤなことが次から次へと降りかかってくると思う。また、あれはこいつのせい、これはあいつのせいで、私が尻ぬぐいをしなければならない、とも思ってしまう。でも、仏法を聴いてみると、その原因は自分自身にあるのです。それが、いろんな人やことやものとの関わりのなかで発生するため、あいまいにしてしまっているだけのことです。

 そんな人生、私はけっこう好きです。不平・不満を言いながらも、けっこう楽しいと思っているようです。ため息つくこともできないほどしんどくても、それもいろいろ味わえます。同時に、どこからか、諸行無常の響きが聞こえてきます。この世の中に、そしてわが身に執着することを許さない響きです。
 私はその諸行無常の響きに対して、耳をふさぐ気にはなれません。その響きがあるから、この世をめいっぱい楽しく生きようと思えるのです。しかし傍若無人、勝手気ままに生きることもできないのはこの響きがあるからだと思っています。(けっこう小心者で、傍若無人にも、勝手気ままにも生きることができない“アカンたれ”と言われるかもしれませんけど・・・・)

 きょうもまた、諸行無常の響きを聞きながら、楽しくおもしろく、また怒り腹をたて、また嘆き悲しんで生きていきます。

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2010年12月24日 (金)

仏法の鏡に映しだされた自分を見ながら生かされている

 人をほめることはなかなできませんが、私に対してはたいしたことをしていなくても目いっぱいほめてほしいと思ってしまいます。
 悪口を言ったりあげ足をとることは言わないでおこうと思っているのに、ついつい口に出てしまいます。相手のことなどまったく思いやることのない自分であることに、後々振り返って気づきます。立場が逆転して悪口を言われたら、抑えることができないほど腹が立つのに。

 腹が立ったら、気持ちが荒くなるし、言葉も荒くなってしまいます。その思いが爆発したら、理性を突き破って、人を傷つけてしまうような行動に出てしまうかもしれません。万一そんなことをしたら、犯罪者となって自分自身がいちばん損をすることはわかっているだろうに、抑えることができないものが突き上げるのです。
 とっさの時の思いや行動が、私の自性です。歳をとっても、人生のいろんな経験を積んだら、少しでも善くなるか? 基本的なところは変わらないことを思います。

 蓮如上人は次のようにおっしゃっておられます。

  信をえたらば、同行にあらく物も申すまじきなり、心和らぐ
  べきなり。触光柔軟の願(第三十三願)あり。また信なければ、
  我になりて詞もあらく、諍ひもかならず出でくるものなり。
  あさましあさまし、よくよくこころうべしと云々。
   (『蓮如上人御一代聞書』註釈版p.1327)
信心を得たなら、念仏の仲間に荒々しくものをいうこともなくなり、心もおだやかになるはずである。阿弥陀仏の誓いには、光明に触れたものの身も心もやわらげるとあるからである。逆に、信心がなければ自分中心の考え方になって、言葉も荒くなり、争いも必ずおこってくるものである。実に浅ましいことであるよく心得ておかなければならない」と仰せになりました。

 信をえても、この世に生きる限りは凡夫でしかありません。聞いても聴いても凡夫です。社会でどのように評価されようとも、聞けば聴くほど凡夫であるという自覚が高まっていくばかりです。
 それにもかかわらず、蓮如上人はあえてこのように言われているのでしょう。阿弥陀さまの願いに照らして自身をみるほどに凡夫としての自覚は深まります。だからと言って凡夫であることには何ら変わりはありません。だからといって凡夫だというところに腰をおろしてはならないということだと、私は読ませていただくのです。
 腰をおろさずに、次に踏み出すということは、具体的に何を指すのか? それは人それぞれによって違うと思います。ただただ聞法に励む人もいるでしょう。同行・同朋に法を語り合う関係を作りあげる人もいるでしょう。積極的に社会との関係を築き、何らかの貢献、はたらきかけをしようという人もいるでしょう。

 どのように動くのか? それは業によるのでしょうか、縁によると言えばよいのでしょうか。いずれにしても、仏法の鏡に映しだされた自分を見ながら生かされているのです。

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2010年12月23日 (木)

葬儀・法事にはやさしく、厳しく

 かつて、日本仏教のことが、葬式仏教、祈祷仏教、観光仏教などと言われたことがありました。いずれも仏教を揶揄されて言われたものです。それ以降、仏教の状況が変わったわけではありませんから、この言葉は今でも使われています。
 浄土真宗の場合は、祈祷はありませんし、観光があったとしてもそのウェイトなど無きに等しいものでしょう。葬儀・法事がお寺の経済を支えているのは事実です。ただ、お寺が葬儀・法事の時のみ必要なのかということが問題でしょう。もしそれ以外の時には必要ないというのなら、「葬式・法事仏教」と言われても致し方ありません。
 葬儀も法事もとても大切な儀礼ではありますが、単に儀礼だけで終わってしまっては揶揄されても致し方ありません。寺院が維持されるために葬儀・法事があるのではありません。僧侶も葬儀・法事を執行するためにいるのでもありません。正しい教えと出遇うための縁としての葬儀・法事であるということが大切なことです。

 ここまでの話はだれでもわかっていることです。だから浄土真宗の僧侶は「この葬儀(もしくは法事)を縁として仏法を聞いてください」ということは法話をするのですが、ここで終わってしまっては、葬儀・法事を縁として仏法を聞くことにはなかなかつながりません。
 お寺に生まれた者であれば、また僧侶であれば無条件に正しい教えに遇っているというわけではありません。檀家・門信徒であっても同じことです。正しい教えに遇うためには、正しい教えを聞かねばなりませんが、日常の生活に追われなかなか仏法を聞こうとはしません。しかし確実に無常はやってきます。それでは人間に生まれても、また檀家・門信徒であったとしても、正しい教えに遇うことはありません。

 遺族の悲しみを理解し、やさしく寄り添うことは葬儀にしても法事にしても大切なことです。仏法は悲しみ、嘆きを受け止める慈悲の教えですから。
 しかし一方では、私は「罪悪深重」と示されているのです。その問題を何も解決することないまま日暮らしをしていたら、家族・親族が亡くなって葬儀を出すこととなり、目の前に無常を見せられているのです。また、かつて葬儀を出して、無常を感じ、胸を締め付けられるような思いをしたであろうに、何事もなかったかのように年忌法事を迎えるのです。遺族との関係をしっかり見定めて、仏法の示す厳しさをはっきりと説くべきです。これも仏法の慈悲です。
 葬儀の時に仏教の儀礼は必要なしという人が増えています。そこにメッセージがないからではないかと思います。受けるメッセージが必要です。それは特別なことではなく、当たり前のことでよいのです。当たり前だけれど、誰もが見ようとしない、みたくないことでよいのです。それをストレートに発しているのが仏法の言葉です。

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2010年12月22日 (水)

冥加を感じますか?

 「いただきます」「ごちそうさま」「もったいない」「おかげさまで」「御恩報謝」等々のことばは、日常生活のなかで次第に使われなくなっています。
 これらの言葉は、目で見ることができないけれども、自分自身に対して何らかのはたらきかけるものを感じるところから出ているものであって、そのはたらきに対する気持ちを表した言葉だと思います。

 この言葉が交わされている人間関係に争いはありませんし、そこにいる人の表情は穏やかであり、柔和です。世のなかがギスギスしてくるのは、自我がどんどんふくらんで社会のありようと比例しているのではないでしょうか。同時にこれらの言葉が失われていきます。
 それは時代の流れ、社会の発展のなかでは致し方ない。ましてや日本文化独特の感覚であり、グローバル化していくなかではどうすることもできない。そんな雰囲気のなか、ノーベル平和賞を受賞されたケニア共和国のワンガリ・マータイさんによる「MOTTAINAIキャンペーン」は世界各地で展開されてきました。日本でも彼女によって「もったいない」という言葉が見直されました。

 知らない世界、見えない世界を切り捨て、物質中心、経済中心の思考や行動によって問題が解決できるような方向で社会が形成されています。またそのような社会を全面肯定して生きることが幸せにつながっていくように思っている人も決して少なくないようにも思います。
 そんな生き方への警鐘として「MOTTAINAIキャンペーン」が始まったのだと思っています。しかし精神的な深まりはあまり感じることができません。そこは私たち自身が深めてゆかねばならないことです。

 日本人は古来より目に見えないもの、知らず知らずのうちに受けている恩恵に対して「冥加」という言葉を使ってきました。「冥」には、暗い、はっきり見えないという意味があります。私の知らない世界です。知らない世界だけれども、その世界を認めていたし、その世界とのつながりを感じていたのでしょう。
 「いただきます」「ごちそうさま」「もったいない」「おかげさまで」「御恩報謝」等々のことばは、私の知らない世界を橋渡しているように思うのです。これらの言葉を使う必要はないと思っているのは、世界のとらえ方も狭くなってしまっている人です。また、人との関係、物との関係に対しても鈍感になってしまっているのでしょう。
 これらの言葉を意識して、他人にも聞こえるようにはっきりと口に出すことは大切なことです。ただ口に出すだけではなく、見えない人やもの、ことに心を向けてみたいものです。

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2010年12月21日 (火)

まずはマーケティングから

 大谷光真・上田紀行 『今、ここを生きる仏教』平凡社

 宗教の布教・伝道・教化の中心になるのは人と教団組織・体制です。もちろん人によってなされるのですが、それを支える教団によってその力は何倍にも何十倍にも大きくなります。
 ところが、大谷門主の現状分析は深刻です。「ところいま、伝統的な檀家制度にのっとってものを考える方は、もうすでに少数派になりかかっていて、数字で言えば人口の半分以下になっているのではないでしょうか。結局、そういう伝統的なお寺や教団の枠にはまらない方のほうが、多くなっているのではないかと思います。ですから、これは教団側がなんとかしないといけません」(p.178)。

 この問題に限らず、社会のいたるところで時代の転換点であることを感じます。ところが伝統が長ければ長いほど、組織が大きくて複雑なほど、新しい発想をもって足腰軽く新しい事象に対応することは困難です。それを補おうと、新しい組織を作って対応しようとします。ここはこれまでの教団組織とは違った発想が必要です。
 一つの地域を定めて布教所を出し、それを次第に大きくしてお寺にしてゆくという対応も必要です。しかしそれ以外のさまざまな、というよりありとあらゆる対応が必要です。文書伝道やインターネット伝道は量も質ともに高めなければなりません。新しい布教伝道の方法論の開拓もあるでしょう。宗教に縁のない人に対しても質の高いカウンセリングが受けられる箇所があってもいいでしょう。一箇所に定住する僧侶とともに、自由に動くことのできる僧侶も必要でしょう。
 宗派や教団の勢力が、寺院数や門信徒数(檀家数)以外の指数をもっと伸ばしていくことが必要でしょう。

 教団が組織として、あれこれ計画を立てて大規模にやるより、個々や地域での主体的で新しい動きに対して支援する方がいいかもしれません。「特区」を設定して、数年間実験的な布教や伝道を試みるのもおもしろいかもしれません。
 みんながアイデアを出し合えば、きっとおもしろいものが山ほど出てくると思います。伝統的な組織ほど、重厚長大な教団ほど、そのほとんどを却下するであろうとも思いますが。ましてやまったく新しい発想で広く社会に対してアピールするためには、伝統的で大きな組織に頼っていてはダメなのかもしれません。

 もう少し世俗的な視点から見るなら、仏教教団の現状把握・分析がほとんどできていません。つまりマーケティングがなされていないのです。まずはそこからではないでしょうか。

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2010年12月20日 (月)

客観・主観を超えたところで聴く

 ものごとにはプラス面・マイナス面あるいはメリット・デメリットがあります。客観的に判断することもできますが、その多くは主観的な思い込みのところから出てくるような気がします。つまり自分の思いに合うならプラスに、意に反するならマイナスになるわけです。

 宗教の科学的(客観的)研究というのは、宗教学、宗教社会学、宗教心理学あるいは文化人類学、民族学、民俗学などが挙げられます。宗教は、もともと神学・教学や宗教哲学という形而上的な研究対象でしかありませんでした。ものごとの意味や存在理由というのは抽象的で、人間が見て確認するという次元のものではありません。その抽象的な事象を思索を通して明らかにしようとするのが形而上学です。
 しかし宗教という抽象的事象も、儀礼、教団、人間関係など何らかの形で具体的な形となって現れてきます。その具体的な現象や経験などを直接見て、聞いて、その事実を確かめるという経験科学によって宗教を明らかにしようとするのが宗教の科学的(客観的)な研究です。

 真宗の教えを聞くものにとっていちばん大切なことは、教えそのものを聞くことです。阿弥陀さまがおでましになられた意味を知り、私がいま、ここに生きている意味を聞かせていただくことでもあります。もっというなら、私が阿弥陀さま願いを受け取ることができるか否かという問題です。学問的研究の範疇ではありません。
 だからといって、好きとか嫌いとか、いいとか悪いとかいう類の感情的あるいは主観的なものでないということが大切なことです。一般の人たちが宗教あるいは仏教と思っているのは、自分がもっている好き嫌いの欲求や善し悪しの思いを満足させてくれるものであろうというものでしょう。
 さらに言うなら、わかった、わからないというのも主観のはたらきです。ですから、真宗の安心は、「いただきもの」「賜りもの」という言い方をすることがあります。それが私にとってプラスかマイナスか、メリットかでメリットかなどと考える余地さえもありません。考えたところでわかるはずもないのですから。客観・主観という次元を超えた世界としか言い様はありません。

 世のなかを生きていくためには、自分の主観的な思いを、いかに客観的で正当性のあるものとして語るかというところにあるのではないでしょうか。生きていくためには致し方ないことではありますが、それこそが迷い苦しみの根源です。さらにその主観的な思いは、後生も通用する思いとして引きずり続けていくのです。それを断ち切ることなどとはまったく思いもしません。その姿を凡夫というのでしょう。

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2010年12月19日 (日)

客観的に、他人事のようにみる仏教に意味はなし

 大谷光真・上田紀行 『今、ここを生きる仏教』平凡社

 この本全編を通して直感的に感じることは、上田氏は大谷門主のことばに同意されたり、感心されたり、教えられたりされていますが、両氏の立っておられる世界はずいぶん違っているということです。一般市民と本願寺の門主という社会的立場が違うということではありません。
 どちらも社会への関わりの大切さを述べておられるのですが、上田氏は他人事として、大谷門主はわが事こととしておれられると思うのは私だけでしょうか。ことばをかえて言うなら、上田氏は客観的な視点であり、大谷門主は当事者としての視点です。

 そういう視点の違いもあるのでしょうか、大谷門主が話されていることに対してそれをしっかり受け止め、深めようとはされていません。
 一つ例をあげてみると、130ページから、大谷門主は言葉の大切さを述べられ、その言葉から心が伝わるような表現をめざしたいと言われます。それはいろんな要素いっしょになって伝わるから、儀礼やお飾りや楽器などの例を挙げられます。それを受け、上田氏は「寺院建築自体が、そういう場として存在し、音響効果や光の効果もありますね」(P.132)と発言されます。それを受けた大谷門主は、本願寺の御影堂の話をされます。朝のおつとめのときの朝日の差し具合によって「極楽浄土とか阿弥陀様の光の世界というものを体で感じられるんですね」と述べられ、最後に「・・・・、そうい形を通じての仏教の、阿弥陀様のはたらきを表現している。言葉を超えたものがありますね」(P.134)と締められます。
 言葉を超えて感動するところを伝えようとされる大谷門主の発言に対し、それを無視するかのように、それを受け取る言葉もなく、「御影堂が完成したときに、ご門主がたいへん厳しいことをおっしゃったという噂を耳にしたんです」と発言されます。実際はどうであったのかわかりません。実際は違うけれど、このように編集されたのかもしれませんが、このままでは上田氏がほんとうに宗教的世界を理解しようとしているのか、不信感さえ覚えます。
 「そういう朝のおつとめを一度は体験することは大切なことかもしれませんね」とはなかなか言いにくいのかもしれませんが、ふつうにがんばっている仏教のところが認められないというしかありません。

 上田氏の思いは、僧侶が社会的活動に積極的に関わり、仏教教団が社会的影響力をもつようになり、多くの人たちから支持されるようになることを願っておられることはよくわかります。私もそのことを否定するわけではありません。
 しかし目立ちませんが、地道に活動している僧侶や寺院はたくさんあります。そこのところもみてほしいと思います。それは、他人事として、距離を置いてながめるだけではみえないところかもしれません。

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2010年12月18日 (土)

浄土に往くと定まった今の人生とは?

 大谷光真・上田紀行 『今、ここを生きる仏教』平凡社

 88ページからの「浄土に往くと定まった今の人生が大事に」というところの話は、阿弥陀さまの教え、(あるいは念仏の教え、往生浄土の教え、親鸞聖人の教え、真宗の教え、などと言い換えてもいいと思いますが)をどう聞くかという、たいへん大切なところを飛ばしたお話しが続くことに、不満を感じています。もちろんこの本の読者は、念仏の教えを聞いている読者ばかりではないでしょうから、そのへんの配慮はあろうとは思いますが。

 たとえば上田氏は、ご門主の過去の本で言われていることを次のように発言されています。「浄土に往く宗教なんだけれども、浄土に往くと定めてそのことを確信したときに、今をどう生きるのかが大事だということを言われている。これはただ浄土に往くためだけと言っているのとは、そうとう違うことのように思えるんです」(p.89)
 私が、阿弥陀さまの教えを聞いてなければ、諸手を挙げて賛成していたでしょう。しかし今の私は、少し口をはさみたいところです。
 「浄土に往くと定めてそのことを確信したとき」というのはどういう状態を指しているのでしょうか。揚げ足をとるわけではありませんが、もう少し正確な表現に書き直すなら「浄土に往くことはわからないけれど、すべてを阿弥陀さまにまかせて、疑いの心がなくなったとき」でしょう。勉強を続け、修行を続けたら往生浄土を確信することができるというわけでもありません。いつまでたってもグズグズ思い続けるのが凡夫です。

 阿弥陀さまが「まかせよ」とおっしゃってくださっているのですから、往生浄土がどのようなものか実感がなくても、浄土が在るのか無いのかと迷うこともありません。阿弥陀さまの願いとはたらきを疑うことなく、そのまま受け取る(仰せに従う)だけです。
 これは理屈ではなく、まさに体験です。その体験をするための修行の必要ありませんが、聞いても聴いても素直に受け取れず、悩み苦しむことはあるでしょう。親鸞聖人もその体験をされるまでに、その道を求めてたいへんな苦労をされていることをあらためて知らねばなりません。
 我執だらけで生きている私が、堕ちていかねばならない後生を阿弥陀さまにまかせるということは、阿弥陀さまの願いが私に届いたということであり、私のなかで阿弥陀さまのはたらきがおこるということです。

 まずは、そこの一点をしっかりきっちり抑えることを、いまの真宗ではずいぶんあいまいにしてしまっているという思いがしてなりません。その一点あってこそ、ほんとうの意味で念仏とともに生きる人生が始まるのです。
 真宗門信徒のみならず、真宗僧侶のすべてその一点を通ることによってしか、一味を安心を味わうことできません。
 上田氏が問題にされているのは、この一点を通過した者のことを言っておられることでしょう。

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2010年12月17日 (金)

ひと言で言えない大事なこと

 大谷光真・上田紀行 『今、ここを生きる仏教』平凡社

 第二章の二つめの節(pp.81-84)には「『ひと言』では言えない大事なことがある」というタイトルが付けられています。

 このなかで、大谷門主は次のようにおっしゃっています。「私たち教団に対してもわかりやすいということが要求されます。ひと言で言ってくださいとか(笑)。しかし、わかりやすいということは、大事なことをわからなくさせる危うさがあります」(p.83)
 また、仏教のことばのわかりにくさもあるけれど、「たとえ仏教専門用語をはずして説明できたとしても、わかりにくいということは、あまり改善されないのではないでしょうか。わかりにくいのは内容であり、そういう考え方になじんでいない」(p.84)とも述べられています。

 かつて、真宗の家に生まれ、真宗寺院を中心とした地域社会のなかで育った人たちは、意味もわからず「正信偈」をおつとめし、話されることばがわからない法話を聞いて育ちました。聞き続けていると、そのうちなんとなくことばの意味がわかってきますが、聞いても聴いても法話の内容がわからない。わからないことに疑問を持つことで、また聴くのです。わからなくてもどっぷりと教えのなかに浸かっていたから、身体にしみつき、しみ込んでいったのです。
 生活と仏法が一つであった時代、仏さまによって生かされているという価値観の上で生きていた時代から、物が豊かになるにつれて人間中心と叫ぶようになり、もしかするといまでは人間以上にお金や物の方が大事にされている時代かもしれません。そしていまでは誰もが言います。「もう、昔には戻れないよね」「今の生活のレベルは下げられないわ」と。

 目の前にお金があり物があって、それが生活を便利にし、豊かにしてくれることはとてもわかりやすいことです。そんなものは必要ないとはだれも言いません。お金や物にとらわれてはいけないということを言おうとすると、「お金はもちろん必要だけど・・・」ということばを冠して話さなければ、だれも聞いてはくれません。
 それは、この半世紀のうちにお金と物を中心とする生活を続けてきた結果でしかありません。「自分が愚かである」とか「わたしは罪深い」という考え方になじめないのは、日常生活のなかから失われてしまったからにほかなりません。それなら、もう一度、そこのところを発信し続け、実践し続けるよりほかありません。

 いま、私たちがわかりやすいということは、私の貪欲の煩悩を直接刺激しているということでしょう。教えられなくとも、条件さえ整えればだれにでもわかることです。教えをわかりやすくということが煩悩の刺激であるなら、そこは慎重な対処が必要です。とにかく安易に流れたいと思ってしまう私自身を戒めるのです。

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2010年12月16日 (木)

現代社会は阿弥陀様の光に気づく縁がない

 大谷光真・上田紀行 『今、ここを生きる仏教』平凡社

 第二章にはいって、最初の節(pp.76-80)のタイトルに「真宗の教えを現代社会でどう生かすか」という見出しがついています。ここでは大谷門主が語っておられることの要点は次のようなものです。

 真宗の特徴の一つに「凡夫」「罪悪深重」という人間観がある。しかし現代人には罪深いというより、「愚か」という方が理解しやすいだろう。罪を犯していないと思っても、知らず知らずのうちに罪を犯しているのに、そのことに気づかない。そんな愚かさを見る目を広げ、深めてゆくことが必要だろう。
 その私が阿弥陀様の力によって救われるという考えは、現代人にはいちばん難しいことだろう。阿弥陀如来の名(南無阿弥陀仏)を称え、阿弥陀如来の智慧と慈悲の心をわが身に受けるということや「往生浄土」「極楽浄土」は納得できないだろうけど、そのはたらきをわが身に受け取ってほしい。

 日々の生活や時間に追われてしまっていては、自分を振り返ることはできません。それが愚かな生き方しかできない者が「凡夫」であり「罪悪深重」です。それでも、真宗の人間観については、心を落ち着けて自己を見つめれば感じるところはあるでしょう。しかし後半部分は考えてもわかりません。このそれが仏法の世界です。人間のはからいを超えています。
 ご門主は合理的な説明・解釈も必要であることを述べられていますが、上手に合理的説明・解釈したところで、そこを超えてゆかない限りは、ただの象徴表現に終わってしまうだけです。
 ご門主は、「つらい人生だけれども、阿弥陀様の光に照らされて生きていくと元気に生きられるという道も与えられている、ということに気づいていただきたい」(p.80)と述べられ、「現代は、なかなかそれに気づく機会がない、縁がないということが大きいようです」(p.80)ともおっしゃっています。

 仏法聴聞は、一つにはわが身のありのままの姿を聴き、もう一つは阿弥陀様の智慧と慈悲を聴くのです。まったく別物のように思われるかもしれませんが、阿弥陀様の智慧と慈悲がありのままの私にはたらいてくださっているのです。その私を外しては意味がありません。またありのままのの姿をどれほど深く自覚したところで阿弥陀様の光(=智慧と慈悲)に照らされなければ、滅入ったり、絶望したりするしかありません。
 外側から、第三者をあるいは組織や団体をどれほど鋭く分析し評価したところで、私に向かう阿弥陀様の光など感じることはできません。「それに気づく機会がない、縁がない」という現代社会は、何にもまして不幸な社会なのかもしれません。

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2010年12月15日 (水)

ハンドルとしての教え、エンジンとしての教え

 大谷光真・上田紀行 『今、ここを生きる仏教』平凡社 から

 p.29~

 ご門主はハンドルのとしての教えとエンジンとしての教えがあると示しておられます。これはとても重要なことを絶妙な比喩で示されていると思います。
 仏教系の新興宗教はたくさんありますが、そのなかでも浄土真宗系の新興宗教というのはきわめて少ないのは、ハンドルとしての教えがかなりしっかりしていたということがその要因の一つとしてあげられると思います。それだけにハンドルとしての教えは十分に意味があったと思われます。しかもハンドルを取る者が勝手に教えを構築するのではなく、教典に基づいて積み上げられてきたものですから、かなり厳密です。
 ただ、価値観が多様化し、情報があふれる現代社会では、示された方向が正しいとは思っていない人たちは少なくはありません。そこはいま、教えを受けている者がその生き方を示す必要があるし、生きたことばで受けた教えを表現することが求められています。

 親鸞聖人や蓮如上人の書かれたものにはいろんな種類の著作があります。経典を解釈したものだけではなく、自らの経験や内側をありのままに現されたものもあります。お手紙などはいきいきしたことばです。経典を読まれ、身を通すことによって出てきたものは、単なることばではなく、親鸞聖人や蓮如上人のいのちが加わっていることを感じます。はるか昔に生き、話されたそのままが、体温を感じるように伝わってきます。そしてそのことばに突き動かされるのです。まさに親鸞聖人や蓮如上人のことばはエンジンではないでしょうか。
 しかし、エンジンとしての教えはあまり研究してこられなかっただけではなく、むしろ抑えてきたのではないでしょうか。お経、七高僧の教え、さらには親鸞聖人や蓮如上人のことばを読んでみて突き動かされたけれど、それをわが身を通して表に出すことができなかった。表に出そうとすると、足の引っ張り合いをしてきたという側面をもっているのが教団組織であったのではないでしょうか。

 上田氏は次のように述べられています。「教義の中でなかり精緻に追求されはするけれども、ほんとうに苦しんでいる人を前に、その人の個別性に向き合わずに、お念仏を称えていればその阿弥陀仏の中ですべてが解決するように、教義に閉じこもって自己満足してしまうことがある」(pp.33-34)と。
 「お念仏を称えていればその阿弥陀仏の中ですべてが解決する」ということを、ずいぶん批判的に受け取っておられるように感じてしまいます。実感も無しに、教義に閉じこもって自己満足してしまうなら、また習慣の念仏であるなら、それは多いに問題です。
 阿弥陀仏の中ですべてが解決するから念仏するのであり、苦しんでいる人の個別性に向き合っているからこそ念仏できるのです。とくに、今の世のなかでは、何もわからないのに、念仏さえしておればすべてが解決するなんて思う人はいないでしょう。そこをわからせてもらうことが浄土真宗では求められているところです。

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2010年12月14日 (火)

説く仏教から聞く仏教へ

 大谷光真・上田紀行両氏の対談で構成されている 『今、ここを生きる仏教』平凡社について、私が気になるところを挙げながら、少しずつ個人的な意見を書いてみます。

 まず15ページから18ページにかけて。「説く仏教から聞く仏教へ」について語られています。ここで整理しておかなければならないのは、ここで「説く」「聞く」というのは僧侶の側の話であるということです。つまり僧侶は説いてばかりではなく、人の話を聞かなければダメということです。この部分だけに限定すれば、まったくその通りですし、言葉をはさむ余地はありません。
 しかしそこに至る前に、その僧侶が一人の人間として仏法をどのように聴いてきたのかと問うことが必要でしょう。もちろん一般的な話だけではなく、わが身に問うべきことです。勉強して、聞き読み覚えたことを話すだけでは説いたことにはなりません。一般には「教えを説く」という言い方をします。「浄土真宗に限らず、仏教の本質は人間から人間に伝わるもの」(『今、ここを生きる仏教』p.18)です。「百万の法蔵」といわれる仏教の教えのなかで自分が聞いて響いてきたところ、拒否しようにもうなずかずにはおれないところしか伝えることはできません。さらにその響きやうなずきに対して、讃談しあうことが必要です。
 僧侶一人ひとりの「信」のありようを、教団や第三者が評価をくだすことなどできません。間違いのない信をつたえるためには、常に「わが信や如何に」と問うことなくして、教えを説くことなどあり得ません。

 宗教教団も社会の一部ですから、社会的視点からの鋭い分析から学ぶべきことはたくさんあります。しかし社会的な視点から分析することができないのは、それぞれの信心のありようです。しかしその信心のありようが要であり、このことについては時代や社会がどのように変わっても動かすことができないことです。
 その信心のありようを、もっとオープンにできる教団や人間関係が必要です。かつて、「お説教を評価するようなことはすべきでない」「説かれたままをそのまま聞くのが聴聞」などと聞かされました。いまでもそういう雰囲気が残っていることは事実でしょう。説かれた説教に対して、率直に意見をもらえばよいことです。当然、説いた側の説き様が問われますし、説いた側の信心そのものも問われます。
 責め合うのではなく、お互いに「わが信や如何に」と問い合う関係が必要です。それは「説く仏教から聞く仏教へ」というのではなく、僧俗ともに説かれるところを聴く仏教であり、聴いたところを説く仏教でしかありません。

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2010年12月12日 (日)

問題にすべきは、わが「信」の有無

 12月3日に、『今、ここに生きる仏教』(平凡社)の目次部分を紹介しましたが、そのページへのアクセスが急増しています。大谷光真ご門主が思いきったことをおっしゃっておられるという方が多くおられますが、とくにこの本に限ったことではありません。宗教状況や本願寺教団の現状への危機感をよく述べられています。

 この本についての私の思いは、次回から少しずつ書いてみたいと思っています。その前に、蓮如上人の次の二つのことばを知っておいてほしいと思います。

 14)
  教化するひと、まづ信心をよく決定して、そのうへにて
  聖教をよみかたらば、きくひとも信をとるべし。
    (『蓮如上人御一代記聞書』註釈版p.1236)
教えを説き弘める人は、まず自分の信心を決定して、その上で聖教を読み語れば、それを聞く人も信をとるだろう。

 94)
  蓮如上人仰せられ候ふ。聖教よみの聖教よまずあり、
  聖教よまずの聖教よみあり。一文字をもしらねども、
  人に聖教をよませ聴聞させて信をとらするは、聖教
  よまずの聖教よみなり。聖教をばよめども、真実に
  よみもせず法義もなきは、聖教よみの聖教よまずなり
  と仰せられ候ふ。
   自信教人信の道理なりと仰せられ候ふこと。
    (『蓮如上人御一代記聞書』註釈版pp.1261-1262)
蓮如上人は「聖教読みの聖教読まずがあり、聖教読まずの聖教読みがある。たとえ文字一つ知らなくても、人に頼んで聖教を読んでもらい、それを他の人々にも聴聞させて信心を得させるのは、聖教読まずの聖教読みである。どれほど聖教を読み聞かせることができても、聖教の真意を読み取ることもなく、ご法義を心得ることもないのは、聖教読みの聖教読まずである」と蓮如上人は仰せになりました。
 「これは<自信教人信>と仰せになりました。

 この二つのお言葉のキーワードは「信」もしくは「信心」です。俗世間のなかでは、「信心」のある人は変わり者とか、弱い人とか、社会からの逃避者という具合にみられてしまっているのではないでしょうか。何よりも、僧侶の法話のなかからも「信心」ということばがだんだん聞かれなくなっていくように感じます。
 しかし、親鸞聖人も蓮如上人も、その後の善知識も、「信」をとり、「信心」を決定することが何よりも大切なことであると言葉を変えて、言い尽くしておられます。

 問題は、「信」をとる人がいない、「聖教よみの聖教よまず」の人ばかりになってしまっており、それが現代社会において特に顕著であるということでしょう。社会にどのように貢献するのかということは、現代社会の重要な課題です。社会全体で考えなければならない問題であろうとも思います。しかし、それを教団が、あるいは僧侶が率先してやらねばならないという視点そのものが本末転倒であると思っています。
 教団の側、僧侶の側からすれば、まず「わが信や如何に?」と問うところが出発点です。世俗生活のなかで片手間に仏法の生活をするのではなく、仏法生活をするための手段としての世俗生活であるというのが、仏法の教えの基本ではないでしょうか。
 そんな仏法が、後ろ向きであるとか、内向きであるといわれるのならそれでも良いと思っています。もっとも、その後ろ向きや内向きという視点そのものが、「信」に恵まれた者の生き方をまったく正しくみていない、単なる偏狭であるとしかないと思っています。

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2010年12月10日 (金)

俗世間のブログも始めようかなぁ・・・

 この「畢竟依を帰命せよ」を書き始めようと思い立ったのは、次のような理由によります。
 どこのお寺でもお参りされる方が高齢化している、またお参りの人数が減少しています。なんとかその状況を食い止めようと、どこのお寺でもそれなりの工夫がなされています。
 なりふり構わずとにかくお寺に人を集めるためなら、その方法はいろいろあるでしょう。若い人もお寺でおもしろい催しがあればやって来ます。その催しがおもしろいものであれば、また自分の関心と一致さえすれば、時間や費用を惜しむことなく集まってきてくれます。人口の多い都市部においては、そのことは顕著です。

 しかしそれらの催しが仏法とどういう具合に切り結ぶのか、という企画者の意図が参加者に伝わっているのかどうかは、はなはだ疑問です。
 仏教に無縁の人たちであっても、とにかくお寺に来てもらうことで、少しでも仏法とのご縁を持っていただきたいという思いはわかります。しかし、現実問題としては、斬新な催しへの参加者が再び仏法聴聞に来てくれるかというと、その例は限りなくゼロに近いでしょう。

 仏法の縁のない人たちに何かをしなければなりませんが、しっかりと自分の信心を通して、何を伝えたいのかということを明確にしなければなりません。ただ、“仏法を伝えたい”“念仏を伝えたい”だけでは抽象的です。自分の実感や味わいを確認しておかなければ次には進めないという思いをとても強くしたのです。
 自己満足、独りよがりではどうしようもありませんから、オープンにしたいという気持ちがありました。仏法聴聞はしてきましたし、聖教も少しずつ読んではきましたが、体系的に学んでいませんから、ほんとうにこれでよいのかと広く問うてみたいという思いもありました。

 説教を聞けば聞くほど、聖教を読めば読むほど、真宗の安心というのは焦点が定まっています。まったくズレていませんし、凡夫の思いで揺らぐものではありません。そこのところが揺らいでいる、あいまいになってしまっているから、大事なところが伝わらないのではないか・・・と思いが次第に強くなっています。これまでそんな思いを書いてきたつもりです。
 しかし、難しすぎる、わからないところをどう質問したらいいのわからない、マニアックに過ぎる、極めて平板(同じことがくり返されている)な感じ、等々の意見・思いを数多くいただきました。私の受け取り方や表現の未熟さがあるのだと思います。
 もっと俗世間にどっぷり浸かったところを書きたいという思いもありましたが、この「畢竟依に帰命せよ」の流れのなかでは、外れることはできず抑えてきました。ほとんどの人の関心は、俗世間のところにあるわけですから、そこから始めないと「マニアック過ぎる」と映るのでしょう。俗世間に浸かったブログも必要なのかな・・・とも思っています。

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2010年12月 9日 (木)

揺さぶられる心

 幼少年時代は何ごとにつけてもドキドキ、ワクワクしました。見るもの聞くことが初めてだったり、いままでにしたことのない経験が次から次へとやってきたからでしょう。それが年齢とともに、ワクワク感がなくなっていきます。初めての経験は初めてでも、かつて類似した経験があればそれだけで新鮮さを失ってしまいます。

 生老病死は「四苦」ともいわれるとおり、人間にとっては苦です。本来なら、人間にとってこれほどドキドキすることはないと思われます(ワクワクすることはないでしょうけど)。しかし他人事であればたいして苦にはなりませんし、ドキドキすることもありません。むしろおもしろおかしく笑いながらの世間話として盛り上がります。通りがかりに出会う葬儀は少し気になりますが、見て見ぬふりをして通り過ぎるでしょう。自分に降りかかる老いであっても、若いときなら仮定の話であり、そんなに驚きはしません。毎年のようにひく風邪程度なら、いつものように常備している風邪薬を飲めばなんとかなると思っています。老いを自覚し始めたり、少々重い病気となっても、健康を取り戻せば、みんなに披露する自慢話になってしまいます。
 死に至っては、自分の死ほど遠いところにあるものはないでしょう。「私もそろそろお迎えが来るかも・・・」「(死ぬ)順番からいえば私は一番先やろうから・・・」なんて、話の枕かオチにできるのですから。
 それでも生老病死は苦であると示されているのですから、その教えをしっかりと受け止め、生老病死と正面から向き合わねばなりません。

 生老病死を苦と感じるのは、平凡な日常生活に大きな支障をきたすときでしょう。私たちの関心は、この世をいかに幸せに生きてゆくかということですから、明らかにそれに反することにはとても敏感です。
 最近の法話のなかでは、「生老病死が四苦である」と教科書に書かれているように話されます。四苦の解決こそ仏教の原点ですから、そこに切り込むことが必要でしょう。きれいごとだけでは人の心に響びきません。
 幸せな日常生活、問題なく日常生活を過ごすことに心を奪われてしまっていますが、それは一つの人生の過程にすぎません。仏法聞かずに過ごす日常生活には苦の連続であると、教えてくれているのが仏法です。

 驚きもせず、ドぉ~ンと腰をおろしている私を、仏法は心の底から揺すぶるのです。「安閑と過ごす日々など無いぞ!」「後生は大丈夫か?」と聞くほどにドキドキします。「阿弥陀は立ちずくめで待ち続けるぞ! 南無阿弥陀仏」の教えを聞くほどワクワクします。
 でも、そんな教えを聞いてもドキドキも、ワクワクもしない人の数の方が多いでしょう。遠いところの他人事でしかないのです。
 「目覚めよ仏教!」ではなく、目覚めなければならないのはこの私なのです。

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2010年12月 8日 (水)

わが心にまかせず励むのが仏法

 自分の心に正直に、ありのままに生きたい。いつもそう思っていますが、なかなかそう生きることは簡単ではありません。他の人との関係では、格好良く見せたいとも思うことはありますが、自分の心に正直になるだけのことですから、何の遠慮もないのに。
 自分の思い通りにはしゃべり、行動する幼い子どもがいます。あまりの純粋さにかわいさを感じます。それが成長するほどに、どこかで自分を抑えるもの、抑えなければならない状況に出遇っていくのです。社会で生きる存在であるには致し方ないのかもしれません。

 一方、社会のなかの一員であることを自覚し、人間関係の距離を測りながらも、自分の思いが優先することもあります。この思いは自分の内側から突き動かされるものです。あとで公開、反省することはできますが、なかなかその場で抑えることができないゆえに、わが思いが爆発しているのでしょう。
 もう少し穏やかに、冷静に判断しつつ、わが心にまかせることもあります。それで人に迷惑をかけなければ、とても満足度は高く、いきいき生きているのだと思えます。しかしほんとにそれがいきいき生きることなのかどうか、わからないこともあります。よいと思っていることも、わが思いですから、正しい判断なのか否かはわかりません。それでも、自分の心を頼りにしてしか生きられないのです。

  実如上人、さいさい仰せられ候ふ。仏法のこと、わがこころに
  まかせずたしなめと御掟なり。こころにまかせては、さてなり。
  すなはちこころにまかせずたしなむ心は他力なり。
    (『蓮如上人御一代記聞書』註釈版p.1250)
実如上人がたびたび仰せになられました。「<仏法のことは、自分の心にまかせておくのではなく、心がけて努めなければならない>と蓮如上人はお示しになった。愚かな自分の心にまかせていては駄目である。自分の心にまかせずし、心がけて努めるのは阿弥陀仏のはたらきによるのである」と。

 実如上人は蓮如上人の第8子(5男)で、蓮如上人を継いで本願寺第9世となられた方です。蓮如上人の側でよく聞かれていたことばでしょう。
 仏法のことは、自分の心を基準にして努めるのではありません。占いも、お札も、ご祈祷・お祓いなどはすべて自分の心の不安を癒すための手段としての行為です。仏法とは無縁のものです。自分のためには仏法だって手段としてしまうのが私の心のはたらきです。
 人生行路のなかで出遇った縁によってたまたま作りあげられた心はとても愛しいものがあります。しかしそれはまことではありません。阿弥陀様のはたらきを知らされて初めて気づかされることです。

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2010年12月 7日 (火)

我執を仏法にさらす

 本願寺第三世覚如上人が書かれた『改邪鈔』には次のような記述があります。

  「某 [親鸞] 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあた
  ふべし」と云々。これすなはちこの肉身を軽んじて
  仏法の信心を本とすべきよしをあらはしましますゆゑ
  なり。これをもつておもふに、いよいよ喪葬を一大事と
  すべきにあらず。もつとも停止すべし。
    (『改邪鈔』註釈版p.937)
「私が亡くなった時には、賀茂川に入れて魚に餌としてあたえなさい」と親鸞聖人はおっしゃった。これは自分の身体に執着せず、仏法の信心を中心に置きなさいということを示すためである。このことから思うのは、葬儀をもっとも大切なものとすべきではない。そういう考えはやめなさい。

 いちばん大事なところは「仏法の信心を本とすべき」というところでしょう。葬儀はもっとも大事なものとすべきではないとおっしゃっていますが、葬儀をする必要はないということにはなりません。
 仏法との縁を大切にしたいと思ってみても、世俗化が進み、現世のみをいかに経済的に豊かに生きるかということしか考えない時代にあっては、仏法のことなど話題にものぼりません。だからといって、無常がなくなったわけではありません。無常を見ようとしない、無常ということにとても鈍感になってしまっているのです。
 そんななかでも、人の死は、どうすることもできない無常の世を私に突きつけてくるのです。人が(も)死ぬということはだれもが知っていることですが、見ず知らずの人の葬儀を見ても、一つの風景でしかありません。しかし知っていても人の死はドキッとします。ましてや身近な人の死の驚きや悲しみは、息が詰まるほどの思いに至ります。同じ死であっても、自分により身近な人、つまり執着する度合いの強い人ほど驚きや悲しみが多いということでしょう。

 親鸞聖人は自分の身体には執着されてはおられなかったようですが、その後の人たちはお墓をつくり、廟堂を建てられ、今日の本願寺派あるいは大谷派となっていきます。これもある意味では執着なのでしょう。親鸞聖人がおっしゃるとおりにご遺体を賀茂川に流していたら、今日の浄土真宗はなかったでしょう。つまり執着が教えをひろめたということにもなります。

 もちろん人間の業ですから、自分の思いに執着するでしょう。しかしその執着のしようが、「仏法の信心を本とすべき」を重きとしたものか、わがはからい・思いを優先させたものかというところにあるような気がします。
 それは、わが思いに反したとしても、仏法に教えられるように示されるように生きることでしょう。ことばで言えばそういうことでしょうが、わが思いに反して動くことなどあり得ないでしょう。ふだんから、わが思いが常に仏法に教えられて生きるしかありません。我執が仏法にさらされなければ、我執に気づくことはありません。

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2010年12月 6日 (月)

死をめぐる儀礼を通して、立ち止まって考えよう

 大都市の生活形態は、仏教の宗教的慣習をすっかり変えてしまいます。「直葬」は、葬儀の簡素化、葬儀にかかる費用の軽減もありますが、火葬場を思うように予約できないという事情もあると聞きます。たとえば、1週間後の火葬まで自宅に遺体を安置する場所もないので、葬儀社が遺体を預かるというのです。火葬の日、葬儀社から遺体が直接火葬場に行くだけならあえて葬儀などしなくても・・・・、という事情もあるようです。
 「式中初七日」は、出棺前に葬儀の中で初七日のおつとめをします。火葬場から帰ってきても、初七日をする場所がないというのです。初七日のおつとめが儀式の一つととらえられてしまうと、葬儀と一緒にやることで簡略化できるという意味合いもあるでしょう。
 東京では、亡くなってから7日ごとのおつとめもなく、次は49日。その日が納骨の日でもあります。住宅事情もあるのでしょうが、遺骨の置き場所がないということで、火葬直後に納骨される人もいます。骨壺がまだホカホカあたたかいうちに。

 葬儀やその後の儀礼は実際に経験してみるととても面倒です。しかし自分が責任を持つ葬儀はもっとも身近な人の死によるのです。それを一つ一つていねいにおこなうことを通して、死による別れを自覚します。また、葬儀や葬後儀礼に足を運んでくれる関係者から声をかけられることによって少しずつ社会生活に戻ってゆくのです。
 ところがいまは、死による別れという悲しみが癒えなくても、早く社会生活に復帰しなければならないのです。儀礼を簡素化し、お金をかけないようにし、人に迷惑をかけないことに留意することばかりを考えてしまうようです。

 書店には葬儀など必要ないと主張する本がならび、それに影響を受けてしまう人が少なくないようです。そんな人たちは、他の儀礼なども必要だとは思っておられないでしょう。経済的損得、効率を重視しすぎるあまり、儀礼を通して死やいのちのありようへの思いをまったく失ってしまっているようです。
 葬儀や葬後儀礼にかかる経済的負担が大きすぎるという思いは多くの人がもっているでしょう。私も個人的にはそういう思いがあります。だからといって、費用対効果という経済的な思考で経済的負担の軽重を考えるだけで解決する問題ではないから難しいのです。形だけの儀礼ではなく、儀礼そのものの意味や儀礼を通して感じるものが大事なことでしょう。そこのところを明確に伝える努力をしなければなりません。

 誰もが遠ざけたい、考えたくもないと思っている「死」にあうことは、経済的合理性では説明がつきません。この世のすべての価値観を壊すほどのできごとが「死」です。自分の死はなかなか現実離れしている感じがしたとしても、近い人の死でそれまでの価値観はひっくり返されてしまうことがあります。早く社会に復帰しようと思っても、できないこともあるかもしれません。そのときこそ、立ち止まって自分の人生を、いのちに思いをめぐらしてみてください。

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2010年12月 5日 (日)

「おひとりさま」の時代だからやさしくあたたかく

 自分が縛られている家族あるいは地域、あるいはその他のしがらみから解放されて誰にも縛られず、「おひとりさま」で生きていきたい。そんな思いを持っている人は少なくないと思います。

 確かに、家族や地域などのしがらみは、個人を束縛する側面があります。しかしかつては、そういう関係を保たなければ、すべての生活が成り立たなかったのです。たとえば、江戸時代以降、村という共同体の中で、村の中の約束事を守らなければ「村八分」を言い渡されました。火事と葬儀のときだけは助けるけれど、それ以外は生活面でも経済面でも一切相手にされない、助けてもらえないという制裁を受けたといいます。村八分の制裁を受けた家族は、その村の人間関係からは完全に外され、日々の生活に大きな支障をきたしました。
 また、家族から離れて一人で生活するということは、家族と水杯を交わし、二度と会うことができないかもしれないという覚悟の上でのことでした。

 ところが、今は一人で生きてゆくことが、そんなに支障や苦痛がない時代です。一人で生きるためのしくみができ、一人暮らしのための道具がたくさんあり、一人暮らしのための工夫がいたるところにできあがっています。家族と共に暮らしているのに、いっしょに食事はしない、会話はしない、顔すらほとんど合わせないという生活をしても不思議ではない時代です。個室を持ち、一人一台のテレビ、オーディオ、さらには車も。携帯電話やインターネットは一人暮らし応援ツールとも言えるのではないでしょうか。
 しかし、個人で、一人で生きているように思いますが、決してそんなことはありません。一人で生きていくことなどできようはずはありませんから。どこかでだれかが、私が一人で生きることができているような錯覚に陥るほど豊かな社会をつくりだしていることに気づいていないだけのことです。「個」で生きることが理想、誰にも頼らず生きるのが強い人間、一人で自由に暮らしたい・・・と願いそれを実現した人が、ある時、フッを周りを見てみると、自分のまわりには誰もいないということに気づくのです。

 日本の仏教は、家族や地域のなかのつながりのなかで生きてきた、というイメージが私にはあります。しかし、「独生独死独去独来」と教えられるように、地域・家族、さらには学校・職場などの場でどれだけ親しく、ともに支え合っていたとしても、最後は一人でしかありません。多くの人との関係があったから、そのことが身にしみるのです。
 しかしその支え合うことがめんどうであり、じゃまになってしまう人には、支えられている自分ということが見えません。どんどん自分に執着し、凝り固まっていくのみです。そこには智慧も慈悲など微塵もみえなくなってしまっています。

 まず人のやさしさやあたたかさ、さらには人だけではなく、多くのいのちに支えられて生きていることに気づくことなく、阿弥陀さまのこころは響かない気がします。多くの人と心を通わせたいものです。そのために、私は罪悪深重の凡夫であっても、阿弥陀さまの願いをいただいている者としてのやさしさを万分の一でも、億分の一でもいいから表に出してみましょう。こんな時に、「私は凡夫だから・・・」というのは居直りです。阿弥陀さまからもらった心はそんなものではありません。

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2010年12月 4日 (土)

阿弥陀さまに自分をなげ出し、まかせるだけ

 仏法を聞くということは、法話(説教)を聞いて終わるものではありません。法話をする側は、間違いのないよう最新の注意を払って話す必要がありますが、聴く側が必ずしも正しく聴いているわけではありません。しっかり聴こうとしても(いい加減な聴き方をしていなくても)、正しく聴くことができないということはおおいにあり得ることです。
 それを解決するには、どのように話が伝わったのかを、法話をする者と聴聞する者が確認する必要があります。それができないときは、同じ話を聴聞した者たちがともにどのように聴いたのかを話し合えばいいのです。

  一句一言を聴聞するとも、ただ得手に法を聞くなり。
  ただよくきき、心中のとほりを同行にあひ談合すべき
  ことなりと云々。
    (『蓮如上人御一代記聞書』註釈版p.1275)
わずか一言のみの教えであっても、人はとかく自分に都合のよいように聴聞するものである。だから、ひたすらよく聞いて、心に受け止めたままを念仏の仲間とともに話し合わなければならない。

 カウンセリングを学ぶ過程のなかで、同じ経験をした者、同じ道を歩む者がともに経験や思いを分かち合うことの大切さを強く感じてきました。また分かち合うことで自分の思いを広げたり、違った角度からの気づきがあります。
 聴聞も同じように、それぞれがどのように聴いたのかを分かち合うことによる気づきがあります。しかしそれぞれの経験や思いを分かち合うことで、いろんな見方や思いがあるんだなぁ・・・と確認することがメインにあるのではありません。正しい教えを間違うことのないように聴くために確かめ合うための「談合」なのです。そのために心のなかにあるものを、そのまま出さなければ確かめ合うことができません。

 ところが「心中のとほり」に話すことができないのです。自分のプライドを教えの前にさらすことができないのです。他人には自分は善い人と見られたいし、ほめられたい。少なくとも悪くは見られたくないし、軽蔑されることなどあってはならないのです。教えに映しだされている私の姿を聞かされて、うなづいていても、みんなの前にはなかなか出せません。
 ありのままの私が阿弥陀さまのめあてです。みんなの前に出すことができないその思いをもっている私そのものを、聴かせてもらっているのではないですか。

 そのありのままの私のすべての思いは、誰にでも話せるものではありません。その話を聞く人が得手に聴くようでは、仏法の談合にはなりませんから。誰がありのままの私をそのまま受け入れてくれるか?そういう人間関係ができていなければなりません。
 とことん疑えば、そんな人間関係はこの世にあり得ないという人もいるかもしれません。しかし阿弥陀さまはそのままを受けてくださいます。仏法談合は、人を信頼するか否かの問題ではなく、阿弥陀さまにまかせることができるか否かのところにかかっているのです。

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2010年12月 3日 (金)

大谷光真・上田紀行『今、ここに生きる仏教』平凡社

 大谷光真 × 上田紀行
 『今、ここに生きる仏教』
 平凡社 2010年11月
 1260円(税込)

 浄土真宗本願寺派大谷光真門主と、文化人類学者上田紀行氏の対談集が刊行されました。刊行されたばかりですので、詳細な思いを明らかにすることはここでは避けたいと思います。しばらく時間をおいて、詳細に感想を書きたいと思っています。書かずにはおかない箇所が、たくさんありますので。
 その内容はとても刺激的です。浄土真宗本願寺派だけではなく、仏教界全体への問題提起でもあると思います。
 少し長くなりますが、目次をすべて記すことにします。この目次からでも、私はとても心が動かされ、一気に読んでしまいました。みなさんも、心が動いたら、ぜひご一読をおすすめします。

まえがき  上田紀行
第1章 「説く仏教」から「聞く仏教」へ
  「説く仏教」から「聞く仏教」へ
  日本仏教は生き残れるのか?
  現代の社会問題への仏教の貢献
  ハンドルとしての教えとエンジンとしての教え
  慈悲から生ずる怒りは宗教者にとって有益
  お寺は期待されていないから問題も持ち込まれない
  お寺のあいだの格差問題
  よい葬儀とは、どういう葬儀なのか
  お念仏一つで教えを説く
  宗派を超えた日本仏教の課題
  ダライ・ラマとチベット問題
第2章 教えを現代にどう生かすか
  真宗の教えを現代社会で、どう生かすか
  「ひと言」では言えない大事なことがある
  弥陀如来と極楽浄土
  浄土にゆくと定まった今の人生が大事に
  「報恩感謝」(めぐみにこたえる)が大切に
  信頼の循環を生みだすために
  「ともに凡夫のみ」
  弱い自分をさらけ出して、支え合う
  阿弥陀さまと浄土の縁起の関係
  世の中のあり方への仏教的な批判
  「末通らない」ということ
  日本の仏教は、手前側を軽く見ている
  仏教者には「修行」が必要だ
  自分の言葉で語ること
  「聞く」ことの大切さ
  僧侶は答えを早く出そうとする傾向がある
  言葉から心が伝わる表現を
  御影堂で体感する阿弥陀様の世界
  これが最後の大御忌になることはないか
  教団制度そのものを変革する時だ
  伝統仏教教団に足らない危機意識
  「非僧非俗」がネガティブな方向に行ってないか
  次世代に、どういう世界を残していくのか
  仏教に「未来」はあるか
  後ろからの縁起と、前へ向けての縁起
  網の目の一つの責任として、できることを果たす
  どこにいても阿弥陀様に照らされ、支えられている
  追い詰められている若者の心にフィットする
  わが子も、私の所有物ではない。仏の子だ
第3章 仏教は本来、解き放つもの
  仏教は本来、縛るものではなく解き放つものである
  お寺の門を開かないといけない
  現実の仏教教団や寺は、世間にどっぷり浸かっている?
  かつての日本人は、大きな世界視線を意識していた
  今の日本人は、周囲の人の目でがんじがらめになっている
  現代のお坊さんは、出家しているといえるのか
  おぼれている人を救って舟に乗せたり、島に上げる
  宗教者ではなくも出家者という人がたくさんいる
  宗教教団も、新しい出家者とリンクすべき
  お寺さんの弟子も教団内世間にがんじがらめでは?
  お父さんの宗門と異なる大学に行ったのがよかったお坊さん
  仏教学の学生が、仏教の逆布教をしている?
  純粋培養より、少し回り道をしたほうが、お坊さんにはいい
  「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし」の意味
  世の中に向かって、自分のできることを精一杯する
  受け継ぐだけでなく、選び直していく
  憲法九条の精神をどのように受け止めるか
  仏教の世代的な翻訳も必要になってきている
  教義にのっとって理屈を言うだけではいけない
  まずは、苦しんでいる人に信頼されること
  それでも仏教自体は期待されている
  経典は英語で読むほうがよくわかる
  仏教の再編集が現代の重要な作業だ
  日本の仏教を誇りに思いたい
  終戦直後も日本の仏教の言葉は生きていた
  鈴木大拙のような宗教者を現代に
  五木寛之『親鸞』が描く宗教的な課題
  檀家同士の横のつながりを進めていくこと
  無常の中でも、励ましあいながら生きていく
  儀礼を伴った全体の葬儀はどうしても必要だ
  いろいろな出来事を縁として阿弥陀様の光を感じられる
あとがき  大谷光真

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2010年12月 2日 (木)

仏法、細部に至るまで心を配り、細やかに心をはたらかせよ

 ここしばらく唯識について書いてきましたが、まだまだ奥は深く、とてつもなく詳細です。私たちが生きてゆく上での悩み苦しむ根源を多面的にみせてくれていますし、個人的にもとても関心のあるところです。
 しかしそうして私の心をリアルにみせられ、そのまま受け入れるなら、人間は誰もが心の病気を抱えていることを知らされます。誰よりも私自身がどうすることもできない重病を抱えているにもかかわらず、それに見ないようにしているだけのことです。
 唯識のなかでは、その治療のための修行の方法も記されています。これについても、たいへん興味深いものがあります。今後、機会があれば紹介したいとも思っています。

 親鸞聖人も蓮如上人も唯識に多くを学ばれたでしょう。しかし唯識が示している修行をすすめてはおられません。煩悩を抱えたこの身の治癒をどのように考えられたのでしょうか。蓮如上人は次のように示されています。

  人の身には眼・耳・鼻・舌・身・意の六賊ありて善心を
  うばふ。これは諸行のことなり。念仏はしからず。仏智
  の心をうるゆゑに、貪瞋痴の煩悩をば仏の方より刹那に
  消したまふなり。ゆゑに「貪瞋煩悩中 能生清浄願往生
  心」(散善義 四六八)といへり。「正信偈」には、「譬如
  日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」といへり。
    (『蓮如上人御一代記聞書』註釈版pp.1274-1275)
人間には眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚器官があって、これがちょうど六人の盗賊のように、人間の善い心を奪い取ってしまうのである。だがそれは、自分の力でさまざまな行を修める場合のことである。他力の念仏の場合はそうではない。仏の智慧である信心を得るのであるから、仏の力によってただちに貪り・怒り・愚かさの煩悩もさわりのないものとしてくださる。だから、「散善義」には、「貪りや怒りの心の中に、清らかな信心がおこる」とあり、「正信偈」には、「たとえば日光が雲や霧にさえぎられても、その下は明るく、闇がないのと同じである」とのべられているのである。

 きわめて明確です。ありがたく聞かせていただきたいと思います。これが浄土真宗という教えの解答でしょう。しかししっかり自分の腹の底におさまらないのに、頭だけで理解してしまうのはとても危ういことです。蓮如上人は次のようにも述べられています。とても大切なことであると心すべきことです。

  法にはあらめなるがわろし。世間には微細なるといへども、
  仏法には微細に心をもち、こまかに心をはこぶべきよし仰せ
  られ候ふ。
    (『蓮如上人御一代記聞書』註釈版pp.1272-1273)
「仏法については、大まかな受けとめ方をするのはよくない。世間では、あまり細かすぎるのはよくないというが、仏法については、細部に至るまで心を配り、細やかに心をはたらかせなければならない」と蓮如上人は仰せになりました。

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2010年12月 1日 (水)

いつも悪いのは他人、私は善人

  よきことをしたるがわろきことあり、わろきことをした
  るがよきことあり。よきことをしても、われは法義に
  つきてよきことをしたると思ひ、われといふことあれば
  わろきなり。あしきことをしても、心中をひるがへし
  本願に帰すれば、わろきことをしたるがよき道理になる
  よし仰せられ候ふ。しかれば、蓮如上人は、まゐらせ心が
  わろきと仰せらるると云々。
    (『蓮如上人御一代記聞書』註釈版p.1291)
「悪いことをしてもそれが悪い場合があり、悪いことをしてもそれが善い場合がある。善いことをしても自分はご法義のために善いことをしたのだと思い、自分こそがという我執の心があるなら、それは悪いのである。悪いことをしても、その心をあらためて、弥陀の本願を信じれば、悪いことをしたのが、善いことになるのである」というお示しがあります。そういうわけで、蓮如上人は、「善いことをしてその功徳を仏に差し上げようとする自力の心が悪い」と仰せになったのです。

 最後の方に出てくる「まゐらせ心」というのは、自分が積んだ善根功徳を仏に差し向けようとする自力の回向心をいいます。この私が善いことをしたと誇っているのです。善いことをしたとしても、その次に出てくる私の高慢な思いが善を善でなくしてしまうのです。

  人のわろきことはよくよくみゆるなり。わが身のわろき
  ことはおぼえざるものなり。わが身にしられてわろき
  ことあらば、よくよくわろければこそ身にしられ候ふと
  おもひて、心中をあらたむべし。ただ人のいふことをば
  よく信用すべし。わがわろきことはおぼえざるものなる
  よし仰せられ候ふ。
    (『蓮如上人御一代記聞書』註釈版p.1293)
「他人の悪いところはよく目につくが、自分の悪いところは気づかないものである。もし自分で悪いと気づくようであれば、それはよほど悪いからこそ自分でも気がついたのだと思って、心をあらためなければならない。人が注意をしてくれることに耳を傾け、素直に受け入れなければならない。自分自身の悪いところはなかなかわからないものである」と蓮如上人は仰せになりました。

 いつも悪いのは他人です。これも私の高慢ゆえに出てくる思いでしょう。仏法は、そういう私の思いや生き方に、「それでいいか?」といつも疑問を投げかけてくださっています。そこに耳を傾けることもままならないのが、この私です。しかし、ず~っと絶えることなく問い続け、気づくことをまち続けてくださったから、ふっとそんな自分を振り返らせてもらうことができます。それもほんの一瞬で、またせっせと高慢にしか生きることはできません。マナ識ははたらき続けています。

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