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2011年2月27日 (日)

仏法は人生のブレーキ

 在家の仏教信者が守るべき戒律として五戒があります。不殺生戒(殺すな)、不偸盗戒(盗むな)、不邪淫戒(性的によこしまであるな)、不妄語戒(ウソをつくな)、不飲酒戒(酒を飲むな)です。これらの戒めがなぜあるのかをご存じですか? 「世間では悪いことだという認識があるから」「社会的あるいは道徳的な秩序を乱すため」「人間として許せないことだから」などという答えが多いかもしれません。
 これは仏法上の戒律ですから、心を乱し、仏道修行(仏法聴聞)を妨げるから戒められているのです。ところが、個人的には多少の違いはあったとしても、この五つの行為があるから生きているのだという人は決して少なくはありません。私たちはこれらのことを求め、生き甲斐や楽しみにして生きているのです。

 これまで殺すなんておそろしいことはしたことがない・・・とは言ってみても、私がここまで生き続けて来れたのは、多くのいのちを食べてきたからです。自分は手をかけなくても、誰かに殺させて、どれほどの牛や豚や鳥などの肉を食べ続けてきたでしょうか。口にしてきた魚の種類や数など思い出すこともできません。
 いま、経済的にはたいへん苦しい状況にあると言われている日本ですが、テレビでも雑誌でもグルメや大食いなど、食べることを特集したものの数の多いこと。それらを見て、これを食べたい、あの店に行きたい、この食材がいい・・・と欲をつのらせ、笑いながら見ているのでしょう。そんなとき、またおいしいものを口にしているとき、仏道修行を考えますか。また仏法聴聞に心が動きますか?

 物を盗んだことはない・・・と思っている人も、人の物を見て、店頭の品物を見て、あれもほしい、これもほしいと欲の心がかき立てられます。畑で育った野菜もくだものも、みんな頃合いを見計らって“失敬”するのです。手塩にかけて私が育てたと思い込んでいます。知識や感情さえも、“学ぶ”“感じる”という言葉を使ってわがものにするのです。
 毎日毎日、邪淫、妄語、酒飲によって、これでもか、これでもか、これでもか、・・・と享楽に酔いしれたいと思うのです。

  悪性さらにやめがたし  こころは蛇蝎のごとくなり
  修善も雑毒なるゆゑに  虚仮の行とぞなづけたる
    (『正像末和讃』註釈版p.617)

 「そんな思いでいいの?」「ホントにそれがあなたの幸せ?」「そんなこと、いつまでも続くものじゃないよ」と教えてくれるのが仏法です。アクセルを踏み続け、エンジン全開であることにふけっている生き方に、ブレーキをかけてくれるのが仏法です。
 自制心があるから、自分の良心や理性で止まる、止めてみせるとも思うのです。ほんのしばらくだけは・・・。

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2011年2月26日 (土)

自然のことわりにあひかなはば

  自然のことわりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の
  恩をもしるべきなりと云々。
    (『歎異抄』第六章)

 ここで使われている「自然」は、現代人が使う「自然の風景」「自然環境」というような使い方の「自然」とは違います。親鸞聖人が86歳のときに書かれた手紙から、それを知ることができます。

  「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者の
  はからひにあらず。「然」といふは、しからしむといふ
  ことばなり。しからしむといふは、行者のはからひに
  あらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。
   <中略>
  「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことば
  なり。
  弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらず
  して、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、迎へんと
  はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも
  あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。
    (『親鸞聖人御消息』註釈版pp.768-769)

 「自然」とは行者のはからいが混じらないということです。行者とは仏道を歩む人のことです。仏道を歩むということは、仏(覚者)の教えにしたがい、わが思いを交えないということです。仏の慈悲を受け、仏の道に導かれるということでもあります。
 そのように聞いたら、そのことに私の思いを加えてしまいます。それがはからいを交えるということでしょう。

 ただ、阿弥陀如来の誓願のようにあらしめるのが自然です。本願の示されたとおりになるのが至極当然なことだというのが自然です。
 阿弥陀如来の誓願をそのまま受け取ることができない、本願を自分勝手に解釈するということも「行者のはからい」です。聞いて聞いて聞き抜くしかありません。そこに行者のはからいがまじっても、「如来のちかい」が解きほどいてくれるのです。

 仏恩らしきもものを感じ、師の恩らしきものに知ることはあっても、それは“らしきもの”でしかありません。我執に満ちたわが身を南無阿弥陀仏に投げだし、南無阿弥陀仏の自然のなかに救いとられれば、おのずと仏恩、師の恩を知ることになるのです。

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2011年2月25日 (金)

如来よりたまはりたる信心

  如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とり
  かへさんと申すにや。かへすがへすもあるべからざる
  ことなり。
    (『歎異抄』第六章)

 「信心」というのは、その文字の通り「信じる心」です。信じる心が私の心であれば、「イワシの頭も信心から」と言われるように、とんでもないものも信じる対象になってしまいます。何を信じればよいのかがわからないのです。信じる心が凡夫の心であれば、信じるか否かの基準は、自分の心のありようなのですから、いい加減このうえありません。

 親鸞聖人は、ここで「如来より賜りたる信心」とおっしゃっています。
 本願寺第三世の覚如上人は「信心をまことの心とよむうえは、凡夫の迷心にはあらず、まったく仏心なり。この仏心を凡夫にさずけしめたもうた時、信心とはいわるるなり」(『最要鈔』)と示されました。
 蓮如上人は、「信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころとは申すなり」(『御文章』註釈版p.1106)とお示しくださっています。

 信心は「まことの心」であり、それは「仏心」「阿弥陀さまの心」です。また信心は、「凡夫の迷心ではない」「まことの心は自力ではない」とも示されています。
 信心は私の心ではないことがよくわかります。そうすると「信心深い」という言葉もおかしな言葉です。仏さまの心に深いも浅いもありません。そんな尺度ではかることはできません。信心を凡夫の心にしてしまうから、信心に深い浅いという尺度が出てくるのでしょう。

 まことの心なんてありようもないので、阿弥陀如来よりもらわなければならないのです。「もらう」というのは、あまりにも軽いので、親鸞聖人は「賜りたる信心」と、最上の敬語を使われるのです。南無阿弥陀仏は、阿弥陀さまの願いであり、その願いを賜るのです。私の口からでる念仏ですが、私のものではないのです。賜ったものを、自分の行為と思うのは筋違いですし、たいへんな傲慢です。
 信心のいただきようの違いは、真宗と、他の宗教さらには仏教諸宗派との違いでもあります。真宗門信徒であっても、ここのところを間違わないように聞かなければ阿弥陀さまのこころはきけません。

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2011年2月24日 (木)

つくのも、はなれるのも縁

  つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなる
  ることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏す
  れば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説
  なり。
    (『歎異抄』第六章)

 人間の根源的な苦しみとして、生・老・病・死の「四苦」(しく)があります。その四苦に次の四つを加えて「八苦」(はっく)といいます。「愛別離苦」(あいべつりく)、「怨憎会苦」(おんぞうえく)、「求不得苦」(ぐふとくく)、「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」の四つです。
 このなかで、「愛別離苦」は愛するもの、愛しいと思うもの、大切で失いたくないものと別れ離れなければならない苦しみです。なぜ愛しい者と別れなければならないのか、あれほど大事にしてきたものと離れなければならないのかと口惜しい思いをすることは多々あります。「怨憎会苦」はその逆で、イヤなもの、怨みあるもの、憎いものなど、会いたくないものやことがらに会わなければならない苦しみです。こんな不快な思いは二度としたくないと思ったのに、くり返しイヤなものやことがらと対面しなければなりません。
 これらは自分ではどうすることもできません。離れたり、出会ったりすることは、すべて「縁」によるのです。そんな縁を無視して、すべてを自分の思うようにしたい、人間関係をなんとかつなぎ止めたい、あるいは切り離したいと思うことはたいへんな悩みや苦しみをともなうのです。

 親子となったのも、隣近所の関係になったのも、師弟関係となったのも、夫婦関係を結ぶのもすべて縁です。みんなちょっと何かがズレただけで、それらの関係には至らなかったかもしれません。仕事も、趣味も、宗教も、悩みや苦しみもみんな縁によるものです。
 それじゃ、私の意志はまったくないのか、というとそうではありません。いつ、どの時点のどのような意志がいかに影響しているのかはわかりませんが、私の意志や判断も縁の一つです。その意志や判断も、さまざまな縁がもよおして下したものです。

 親鸞聖人が法然聖人と遇うことができたのも、そういう縁があったのです。不可思議としか言いようがありません。また、私が念仏の縁と遇わせていただいたのも、そういう縁にめぐまれただけのことです。

 だからといって、私がこの世のどんな縁にあい、またどんな縁をあうことができなかったのか・・・ということを詮索してもキリがありません。
 大切なことは、私たちに及ぶ縁を超えて、阿弥陀さまのおはたらきが及んでいるということです。本願にあう可能性は、だれにも平等にあるのです。聞く側が、いろんな条件を付けてしまうので、せっかくの縁も見失うし、阿弥陀さまの願いさえも評価してしまっているのです。

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2011年2月21日 (月)

弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申す

  親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひ
  にて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。
  弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが
  弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。
   (『歎異抄』第六章)

 親鸞聖人は、師・法然聖人の導きによって、阿弥陀さまからいただいた念仏を称えられるようになられました。その念仏を多くの人びとに勧められ、念仏の行者が次々に生まれました。親鸞聖人の手紙にたびたび名前が出てくる性信房、親鸞聖人と35歳も離れている真仏房、『歎異抄』の著者と言われている唯円房、後に明法房となった山伏・弁円など多くの弟子がおられました。
 親鸞聖人が法然聖人を師と仰がれたのと同じように、お弟子たちは師・親鸞聖人を尊敬されていたに違いありません。

 にもかかわらず、親鸞聖人は「弟子一人ももたず候ふ」と言われるのです。弟子に対して冷たいのでもなく、おごっているのでもなく、ただ念仏を称える人たちに対しては、ほんとうに弟子だとは思っておられなかったのでしょう。
 自分のはからいによって念仏を称えるようになれば、その人は弟子かもしれない。でも、念仏は阿弥陀さまのおはたらきによって称えるものだから、念仏する人をわが弟子とはいうのはあまりにも尊大なことである、と言われるのです。

 阿弥陀さまから念仏をいただかなければ、それは自分の力で称える念仏です。自分で称える念仏は、自分に言い聞かせながら称えないと納得できません。いま称えている念仏は、どんな念仏かと確かめながら称えることも必要かもしれません。称えている者の心は、自分自身にかかり切りになります。そんな自分の思いなどが、一切役に立たないことを教えてくださるのが阿弥陀さまからいただいた念仏です。
 阿弥陀さまからいただいた念仏に自分の思いを込めようとすれば、わが自性を念仏を通してみせられるのです。

 だれが師でも弟子でもない。みんな阿弥陀さまからいただいた念仏によって、つながる御同行・御同朋なのです。

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2011年2月20日 (日)

親鸞は弟子一人ももたず候ふ

  専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ
  相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は
  弟子一人ももたず候ふ。
   (『歎異抄』第六章)

 仏教はその文字が表すとおり、仏(=覚者)の教えです。その教えを信じ、行じることによってさとりに至ろうとするのが仏道を歩むということです。その道を踏み外してはさとりの世界に至り着くことはできません。仏道を歩むためには、その道を指し示してくださる人、先生、師がいます。仏教とはまったく無縁であった者が、仏道に導かれ、道を外さぬように方向を示してくださる師は、求道者にとってはなくてはならない人です。その師からすれば、導びかれた人は弟子となります。

 世間において、「師弟関係」はあらゆる分野に存在します。親鸞聖人は法然聖人を師と仰ぎまし
た。しかし弟子一人ももってはいないと宣言されるのです。
 「専修念仏のともがら」、つまりほかに何を頼るのでもなくただ念仏に自分をまかせ、ただ口に念仏を称える人たちをめぐって、わが弟子か誰の弟子かと言い争ことを厳しく戒めておらます。親鸞聖人から念仏の教えを聞かれた人は決して少なくはないでしょう。また、親鸞聖人の人柄や言葉に導かれることで、親鸞聖人こそがわが師であると口にする人も数多くいたでしょう。
 弟子がいるということは、またその弟子の人数が多いほど、「師」としての値打ちは上がります。しかし親鸞聖人にはそんな値打ちなど、まったく意味も持っていなかったことを知ることができます。

 偉くなればなるほど、師と仰がれれば仰がれるほど、人は高慢になってゆくものです。蓮如上人も、「人はあがりあがりておちばをしらぬなり」(『蓮如上人御一代記聞書』註釈版p.1284)と、凡夫の姿を明らかにしておられます。さらに続けて「ただつつしみて不断そらおそろしきことと、毎事につけて心をもつべきのよし仰せられ候ふ」(同)と諭されています。気をつけるようにしなければならないと言われています。
 ところが、親鸞聖人は、念仏を称える身となった自身について、またその念仏の教えを聞く人たちに対して、高慢になることはなかったのでしょう。高慢となる自身を理性によって抑えたのでもなかったに違いありません。

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2011年2月19日 (土)

自分がいただいた仏さまの話をしましょう

 まだ16日に亡くなったいとこの死を引きずっています。

 7年前、父が亡くなったときの衝撃は大きなものでした。しかしどこかで、これまで仏さまの教えとして聞いてきたことが起こっただけのことで、何も不思議なことじゃない。あり得べきことであり、たまたま今、その時が来ただけのこと、という思いがありました。それ以外は何も考えることができなかったことを思い出します。
 父とはよく話しました。夕方から明け方まで話し続けたことはしばしばあります。お互いの思いをおおよそ理解し合っていたとも思います。お互いに、ここは違うところやなぁ・・・と確認しあい、違うところもあるんやなぁと思ったこともあります。父によって仏法の世界に導かれ、私の仏法への思いも十分に聞いてもらったと思います。父の著書は、どこかで一度は聞いたことのあるものばかりでした。

 一昨日のいとこの死も父の死と同じように、ただ無常であるというしかありませんでした。しかし父の時より少し気持ちの上での距離があるからでしょうか、その分、冷静にいろんなことがわき上がり、思い出すとともに、あれこれと思いを巡らすので、さみしさがあふれてきます。同時に、彼とは時間を割いて互いの仏法の味わいを交わしたことがないことを悔やむのです。見舞いに行ったとき、「入院中に、ふだんはなかなか読めない仏書を読んだり、法話テープを聞きや」とは言ったものの、もう少し仏法のお味わいのところを交わしあうべきだったと後悔しています。また会えると思っていたのです。病気が治って元気になったら、仏法の話をしようと思っていたのです。
 「死んだ子の歳を数える」という言葉があります。言ったところでどうにもならない過ぎ去ったことを悔やむことのたとえとして使われます。いまの私の思いが、まさにそうなのかもしれません。

 でもいつまでもそんなことでは、ダメ。今は、自分にそう言い聞かせています。なにか特別なことをするというのではありません。自分の聞いた仏法を人に伝えてゆくだけです。僧侶としてではなく、布教使としてではなく、この世を生きる私が阿弥陀さまからもらったものを、「こんなんもらったよ」「こんな思いがわいてくるよ」と伝えるだけです。人に言いたくなるほどのものをもらっていなかったら、伝える気にもならないでしょう。そんなことが自覚できれば、それはそれでとっても尊い縁のような気がします。
 仏法を聞いて人に言いたくなる話しがあるときは、病気だから、相手にはわからないだろうから、反発されたくないから、・・・なんて勝手に押さえこまないように。仏法を聞いた人は、この身や心を楽しませてくれたことやそれに関する情報の話しだけで終わらないように。

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2011年2月16日 (水)

ただただ、南無阿弥陀仏

 この世に生を受け、命ある者は必ず死んでゆかねばならないということは、誰でも知っています。新聞の死亡告知欄から、社会的に活躍された人たちが亡くなられたことを知ることができます。日常生活のなかでも、葬儀にであうこともしばしばあります。日本全体の志望者数は1日およそ3000人です。人の死は珍しいことではなく日常茶飯事のできごとです。
 また、命あるものはいつ死ぬかわからないということも頭で知っています。かつてのように餓死するというものもなく、医療もゆき届く時代になってきました。その結果、平均寿命は大幅に伸びました。昭和の初めは、どの年代の人も死亡の確率はあまり変わりませんでしたが、今では亡くなる人の9割は65歳以上です。
 60歳未満の人なら、仕事をすることに精を出し、いかに楽しく豊かに暮らしていくことができるか・・・というところにすべてをかけるのです。そんな時に、自分が死ぬ、自分も死なねばならないということなどおそらく考えもしないでしょう。もしフッと自分の死が頭をよぎっても、そんなことには関わってはおれません。

 この世を楽しく豊かに暮らすということは、死を遠ざけた生活です。しかし遠ざけた死が、これまで他人事であった死が、突然身近なものとして、私のところにやってきます。とても親しかった人、大切であった人、自分にとってかけがえのない人が亡くなるのです。

 きょう、私の56歳のいとこが亡くなりました。小さいときからズーッといっしょに遊び、私の小中学校の同級生と結婚して、私が住職をする寺院の40軒足らずの檀家に婿養子として入りました。兄弟のように心置きなくつきあうことのできたいとこでした。
 昨年末に体調を崩して入院し、1月半ばに見舞いにいったときはCDで落語を聞いてご機嫌で、いつもと変わらぬ調子で会話を交わしたものでした。
 子どもの時から、ともに仏法聴聞することの大切さを教えられて、誘い合って聴聞したこともありますから、「入院中に、ふだんはなかなか読めない仏書を読んだり、法話テープを聞きや」という言葉にうなづいていたことを思い出します。

 つらく、さみしい思いではありますが、それだけの思いではありません。そのいとこは、自分の身をかけて「油断してたら、アッという間にこの世の一生は終わるよ。人間に生まれてきて真実に遇うことはできたか?お前の後生は大丈夫か?」と、いま、身をかけてのきびしい説法をしてくれたのです。
 この世で身を楽しませることに浮かれて、二度と無い人生をふわふわと過ごしているだけでは何のためにこの世に人間として出していただいたのか、ということを思います。また、何が真実なのかということも、問わずにはおれません。
 そんな思いを突き詰めていくほどに、この世にまことなどありはしません。楽しみもよろこびも、ほんの一瞬のできごとであり、夢のように去っていきます。
 ただ、これまで聞かせていただいている阿弥陀さまの願いにまかせ、南無阿弥陀仏と声に出して称えさせていただくしかありません。いま、私にできることはそれのみです。ほかにできることなど何もないのです。南無阿弥陀仏。

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2011年2月15日 (火)

神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなり

  わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を
  回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、
  いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあひだ、
  いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、
  まづ有縁を度すべきなりと云々。

    (『歎異抄』第五章)

 篤信の真宗門信徒の家系で、念仏をよろこぶ家族にいつも教えられ、仏法聴聞の縁があればいつもその席にいた・・・という人でさえ、最初は、称える念仏のなかに自分の思いを込めてしまうのではないでしょうか。たとえば、純粋に父母の追善供養のためにと思って念仏を称えるというように。
 「南無阿弥陀仏」は阿弥陀さまの名前であるとともに、阿弥陀さまの願いでもあります。その念仏のはたらきの大きさは私たちの及びもつかないものです。しかしその念仏をわが力で回向できるとおもうところが、ちょっとピントのはずれたところです。
 回向というのは、「振り向ける」「差し向ける」ということです。問題は、誰が、誰に対して、何を差し向けるのかということでしょう。日本人の多くは「私が」「人もしくは仏に対して」、「自分の持っている金品や善、あるいはわが力によって修めた功徳」を差し向けるのだと考えています。当然のことながら、金品や善には自分の思いも込められています。こんな日本人の多くが持っている回向観こそが、「わがちからにてはげむ善」です。
 しかしこれらはいずれもよくよく考えると自分のための回向です。わが力によって修めた功徳を差し向けることは、いずれブーメランのように自分のところに戻ってくれることを心の片隅に置いてはいないでしょうか。

 親鸞聖人の回向観は、「阿弥陀如来が」「私に対して」「阿弥陀さまの願い」を差し向けてくださるというものです。自分自身の思いがどのようなものであったとしても、それらとは関係なくはたらく願いです。「自力を捨てて、われにまかせよ」とのはたらきかけが聞けていない者には、自力に執心するしかありません。阿弥陀さまの願いを聞けば、自力は捨てるものではなく必要なくなってゆくのです。

 六道は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という世界をさします。四生は胎生(たいしょう)、卵生(らんしょう)、湿生(しっしょう)、化生(けしょう)を言います。胎生は母親の胎内から出生するもの、卵生は卵からふ化するもの、湿生は湿気のなかから生まれるものです。ここまでは「生物学」でも学ぶ誕生のありかたです。化生は業により忽然と出生するものをいいます。いずれも迷いの世界です。
 そんな迷いの世界からは、阿弥陀さまの神通方便によることなく出ることはできないのです。阿弥陀さまの智慧をいただいたとき、「一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり」ということがわかるのではないでしょうか。

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2011年2月14日 (月)

順次生に仏に成りてたすけ候ふべき

  そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・
  兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りて
  たすけ候ふべきなり。

    (『歎異抄』第五章)

 すべてのいのちあるものは、何度も生まれ変わるというのは仏教の世界観です。親鸞聖人は、その仏教の世界観にしたがって、いのちあるものは父になり母になり、兄弟姉妹にもなってきたとおっしゃっています。

 自分の父母が誰よりも深い愛情を抱いて育ててくれたということを身近にまた具体的に体感すれば、父や母に対して愛しい思いは募ります。父や母の思い出が希薄であっても、父がいて母がいたから、私がいま、ここにいることに感謝の思いをいだくでしょう。しかし父と母だけで私は育つことはできなかったことも確かです。無数のいのちをいただいてきましたし、限りないいのちを犠牲にしたうえに、今の私のいのちがあります。
 理屈でわかっていても、具体的なものとしてなかなか実感することはありません。理屈でわかっているといっても、それは私がこの世に生を受けてのちのことにとどまっています。私にはこの世のことしか、それもほんのごく一部しか見えていないのです。

 仏法の視点は、過去世・現世・来世という三世を見渡しています。これまでに何度も生まれ死に生まれ死に・・・ということをくり返してきたのです。生まれ変わるということは、死ぬということでもあります。それをくり返すとき、どのように生まれるのか、死んでどの世界にゆくのか、私にはわかりません。これこそが迷いの世界を経巡るということです。
 迷いであることに眼をつむり、わからないから濁してしまうのではなく、阿弥陀さまの智慧をいただいてはっきりと知らせていただくのが仏法を聞くということです。仏法を聞き、阿弥陀さまの願いを間違いなくいただくことで、次に生まれる世界で仏となって、迷いの世界の父母をたすけるしかありません。
 私が親の孝養をするためには、まず私が「順次生に仏にな」るしかありません。迷いの私が、いま、仏とならせていただく教えを聞くしかありません。

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2011年2月13日 (日)

父母の追善供養のための念仏ではない

  親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申し
  たること、いまだ候はず。

   (『歎異抄』第五章)

 遺骨を拝み、お墓を拝み、遺影を拝むのが日本の仏教です。浄土真宗は建前では先祖供養を行わないということになっていますが、実際、法事と称して亡き人の命日のお参りや年忌のおつとめをしています。「命日や年忌などをご縁として仏縁を結ぶのです」と言ってはみても、仏縁を結ぶ席が世間話と酒宴で終わってしまっては話になりません。
 手を合わせることは、美しい心の反映なのでしょう。しかしその心がいつまでも続くものではなく、一瞬にしておそろしい心に変わってしまいます。手を合わせている自分自身の姿を教えによってみせてもらい、自分の心にまかせずに教えに帰依するのが仏教です。

 しかし一般には、念仏もお経も、先祖供養の儀礼の一つという程度にしか思われていなくて、それ以上のことを知ろうという人はきわめて少ないようです。
 生死いずべき道をいかに解決するのか・・・という親鸞聖人の人生の問いは、現代社会を生きる私たちには次元の違う問題なのでしょうか。そこに触れることもなく、日本人の祖先供養の要望に応えることだけに終わり、そのことが仏教の経済的な支えとして存在するというのは情けないし、さみしいことです。

 少なくとも、念仏を祖先供養の儀礼のために利用してはなりません。ただ、間違ってはならないのは、親孝行をしないと言っているのでありません。道徳的・倫理的に親を思う気持ちは尊いものです。
 親鸞聖人が父母の孝養(追善供養)のために念仏したことは一度もないとおっしゃるのは、追善供養のために念仏する人びととは比べものにならないほどの広大な世界観をもっておられるのです。

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2011年2月12日 (土)

仏法はどこに聞く?

 仏法を聞くとき、どこで聞いていますか。「聞く」のですから、当然、耳で聞くのですが、その次です。耳で聞いた仏法は、あなたのどこで味わいますか。あるいはどこに響きますか?

 まず聞いたことがわかるかわからないかはともかくとして、耳にいちばん近い頭で聞き、頭でわかろうとするでしょう。子どもの時から頭を使う訓練をくり返してきましたし、教えられたことをしっかり頭のなかに覚え込み、頭で理解し、頭で考えることをくり返してきたのですから、自分にとってはいちばん簡単なことかもしれません。
 しかし仏法を頭でわかろうとしても、わかりません。教えの筋道はわかるでしょうが、そのうち聞いても聞いてもグルグル同じところをめぐるばかりでスキッとしません。スキッとしたいので、もっと法話を聞いたり、仏書を読んだりと励むのですが、頭のなかに知識を蓄えるばかりです。

 頭で聞いてもスキッとしないまま進みませんから、一度、頭を空っぽにして阿弥陀さまのおこころを聞かせていただこうと決心します。阿弥陀さまのおこころに触れると、胸が詰まるような思いになるとともに胸が熱くなってくる。“つねに私のことを思い、願ってくださっているのが阿弥陀さまだ・・・”と。法話を聞いて共感するし、自分自身に一歩踏み込んではいますが、感情的なところにとどまっている人です。
 「胸が熱くなる」「胸が痛む」「胸がつまる」「胸がキュンとなる」などの表現がありますが、いずれも感情的に受け止めていることを示しています。先輩同行から、「もっと腹底で聞きなさい」などと言われるのです。

 日常生活のなかで「腹底で(に)聞く」という表現は使いません。そういう聞き方はほとんどないのでしょう。
 「腹が立つ」「腹が黒い」「腹が癒える」などの表現から、腹は人間の心の奥底、あまり人には見せたくない本心を示すようです。その本心のところで聞いても、そのまま受け取ることはできません。反発したり、疑ったり、無視したり・・・。それでも仏法はそんな腹底にしみ込んでお育てをいただくのです。

 頭で聞くか、胸で聞くか、腹で聞くかというような違いを、だれも意識しつつ聞いているわけではないでしょう。これはあくまでも私が仏法を聞かせてもらってきたなかでの感覚です。
 「わが身に聞く」「わが身にかけて聞く」と言い方があります。仏法は、耳や頭や胸や腹という身体の部位で聞くものではなく、身体も心も含めた「身」で聞くものなのでしょう。そうでないと阿弥陀さまの願いを受け取ることができないものなのでしょう。
 自分の身体や心にもっと敏感になって、どんな聞き方をしているのかを感じながらの聴聞も大切な気がします。

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2011年2月10日 (木)

念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心

  今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知の
  ごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
  しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心
  にて候ふべきと云々。

    (『歎異抄』第四章)

 私が自分の関心にしたがって関わってきた、消費者問題、環境問題、さらには障害者自立やまちづくりなどの市民運動に対して、いろんな手伝いをし、少額ながら寄付もしてきました。微力ながらもなんとか役にたちたい思いがあったし、悩むこともなくできることをさせてもらいたいという気持ちだったような気がします。そういうご縁のできた人や団体もありますが、それ以外にも、いつもお客さんで傍観しているような数々のNGO、NPO、市民運動などにも関わりを持ってきました。
 深く関われば関わるほど、自分自身にとっても身近な問題になってきます。だからといって、際限なく関わりが広がり深まっていくことなどありえません。一つの問題に関わるだけでもたいへんなことです。それより、家族のこと、さらには親族や地域のなかで、放っておくことのできない問題は次々と現れてきます。やはり、身近で切実なところに気持ちは傾きます。
 でも、濃淡はあっても、知った以上、関わった以上、関わりたいあるいは関わらなければならないという思いをどこかで引きずっていることも感じます。一方、関わりがあってもどこかで忘れ去っていくこともありますし、時間が経過したり、私の居住地が変わったり、また関心も変わってきますから、運動の行方を気にしながらも、すっかりごぶさたしてしまっているものもあります。後ろ髪を引かれながらも断ち切ってゆかねばならない関わりもあります。

 これがもっと私の心身に直接影響を及ぼすような、いとしくて、ふびんな思いをもっていたとしても、断ち切ることを拒んでも断ち切らざるを得ないということだってイヤというほど経験してきています。

 どれだけの思いを込めようとも、思いにとどまってしまうのです。「この慈悲始終なし」つまり中途半端であり徹底することのできない慈悲なのです。何とかしたいけれど、どうすることもできません。どれだけがんばってみても、私の力が及ばないのです。
 徹底した慈悲は阿弥陀さまの慈悲の他にはありません。いつでも、どこでも、だれにもはたらく慈悲です。末通りたる大慈悲心というのは阿弥陀さまの慈悲より他にはありません。

 それでは私には末通る慈悲はできないのでしょうか。私には末通る慈悲などありません。私が思うことがどんなに尊く深い思いであったとしても、私の思いがまじるようなものは「慈悲」とは言いません。
 しかし私は、いま、阿弥陀さまの慈悲をいただいて生かさせていただいていることを知らねば成りません。また、阿弥陀さまの慈悲を受けて、実践させていただくこともできるのです。それはただただ念仏させていただくことです。

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2011年2月 9日 (水)

おもふがごとく衆生を利益するのが念仏

  聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、
  はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけ
  とぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲と
  いふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心
  をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべき
  なり。
    (『歎異抄』第四章)

 私がいま、社会に対して抱いているきわめて個人的なイメージは、「息詰まり(行き詰まり)」。歴史的にはもっとひどい混乱や閉塞状況はあったのでしょうから、善い方向にいくのか悪い方向に進むのかはわかりませんが、きっと現状打開されるとはおもいます。でもすんなりといくという感じはしません。小なのか大なのかはわかりませんが、“爆発”を伴うしかないだろうというイメージです。
 そんな時こそ、あわれむ、かなしむ、はぐくむということがとても大事になるでしょう。言葉をかえると「同情」「共感」「愛情」でしょう。大事なことはわかっても、なかなか気持ちの余裕がなければそんな思いさえもなかなか持つことはできません。「息詰まり(行き詰まり)」というのは、そんな余裕を持つことができない状況に追い込まれているというイメージです。
 そんな状況にあっても、個人的に逃げ道を見つけて上手にホッとするができる人は、それなりのやすらぎを感じておられるかもしれません。しかしそれが息詰まりを根本的に解決するわけではありません。

 『歎異抄』で問題にされているのは、漠然と社会に対しての息詰まりのところにとどまりません。もっと身近で具体的なところで、あわれみ、かなしみ、はぐくんでみても、「おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし」ということを経験するのです。どれだけ尽くしてみても、力及ばず、悔しい思いをしなければならないことがこの世を生きるなかで山ほどあるのです。また老い、病むことにも同じ思いをもたねばなりません。どうすることもできないのが「死」でしょう。どうすることもできずに分かれなければならない悲しさ、悔しさには誰もが涙し、声を上げて泣かずにはおれません。
 さらに一歩踏み込んで、この世の息詰まりを問題にしている「私」に問いかけられているということに気づかねばなりません。それは、私が老い、私が病み、私が死んでいくということを不問できますか、という問いです。それは、道徳的、倫理的なレベルでは答えきれるものではありません。

 阿弥陀さまの教え以外のところで、どれだけ考え、精進し、道を行じたところで、助け遂げられることはないのです。しかしそんなところに執着し、どうすることもできないとおろおろしているのです。
 念仏せよ。それしかありません。「念仏が何の力になるの?」というのが多くの人たちの思いでしょう。それにていねいに答えることはできません。でも、ひとつだけ言える間違いのないことは、「念仏せよ」は阿弥陀さまの願いであり、はたらきであるということです。

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2011年2月 8日 (火)

慈悲に聖道・浄土のかはりめあり

  慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。    (『歎異抄』第四章)

 慈悲は、『岩波仏教辞典』に「仏がすべての衆生に対し、これを生死輪廻の苦から解脱させようとする憐愍の心」(p.372)と記されています。また、「慈」は楽を与えると意味を持ち、「悲」は苦を抜くという意味があるという説明がなされます。また、慈悲を、思い切って「愛」という言葉で表現する人たちもいます。
 ここでは、「仏が衆生に対する心」が慈悲であるということを押さえておきたいと思います。

 その慈悲に、聖道の慈悲と浄土の慈悲があるというのです。法然聖人・親鸞聖人の教えを聞くうえで、この「聖道」「浄土」の違いをしっかりと知らないと、教えのピントは完全にズレてしまいます。
 中国の道綽禅師が『安楽集』のなかでお釈迦さまの教えを「聖道門」「浄土門」に分けられました。これは突然でてきたものではなく、インドの龍樹大師がお釈迦さまの教えを「難行道」「易行道」と分けられ、その後中国の曇鸞大師が「自力門」「本願他力門」と分けられたことに対応しています。ここで使われている「門」は、法門、教えの意味です。
 道綽禅師の時代・社会というのは干ばつや水害による天災、飢饉があり、食糧不足による争いが続いたといいます。それに加え、末法思想が広がり、仏教の教えは混乱をきたし、それに対して高僧たちは教えの立場を明確しようと努力します。
 そのなかで道綽禅師は、ただ浄土の門のみが自分の入るべき道であると示されたのです。

  本師道綽禅師は
  聖道万行さしおきて
  唯有浄土一門を
  通入すへきみちととく
   (『高僧和讃』註釈版p.588)

 聖道は聖なる人の道であり、自らが聖に至る道を歩むことができる人の道です。自力の諸行をはげむことでさとりをひらくことをめざす教えが聖道門です。それに対して浄土門は、阿弥陀さまの本願を信じ念仏して浄土に生まれる教えです。
 聖道門の教えは、阿弥陀さまの教え以外の仏教の教えとも言うことができます。また道徳的、倫理的に厳格な生き方とも言えるでしょう。そういうと、浄土門というのは道徳的や倫理的ではないのかと言われるかもしれません。あえて「道徳的、倫理的ではありません」と答えたいと思います。
 この世を生きてゆくには、念仏者も道徳的、倫理的な生き方をする必要があります。問題は、その生き方が徹底できないところにあります。すべてのいのちはもちろんのこと、身のまわりにいる人たちに対してさえも道徳的、倫理的な対応を徹底することはできません。わが身を道徳的、倫理的に律することすら限界があります。言葉できれいごとは言ってみたところで、心はそっぽを向いていますし、身体はすっかり怠けている自分にため息がでてしまいます。

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2011年2月 5日 (土)

ゾウリムシと同じ?

 細長い草履のような形をし、そのまわりに繊毛といわれる微細な毛が生えているゾウリムシは、菌にも植物にも動物にも分類されない原生生物といわれる単細胞の生き物です。大きさは0.2ミリ以下のゾウリムシは、細胞分裂によって殖えてゆきます(無性生殖)。しかし細胞分裂をくり返すたびに歳をとりそのうち死んでしまいます。それではゾウリムシは死に絶えてしましますので、有性生殖をおこなって新しい子孫を産みだします。小さくて単細胞の生き物でも性があり、子孫を増やすのは人間と同じなのです。

 そのゾウリムシは、繊毛を動かして移動をするのですが、何かにぶつかったとき、それが食べ物であるか否かを判定します。ぶつかったものが食べ物でなければ、また繊毛を動かして移動します。そしてまた何かにぶつかり、それが食べ物であるか否かを判定します。自分の食べ物であるバクテリアであれば、それを食べるのだそうです。ゾウリムシが自分の力で認識できるのはこの二つだけ。つまりぶつかったものが食べ物か否かという判断しかできないそうです。
 単純だなぁ・・・・と思われるでしょうか? 私はこのことを知ったとき、ドキッとしました。万物の霊長と威張ってみても、毎日を懸命に生きているように思っていても、基本的なところではゾウリムシと変わることのない生活をしているのではないか、・・・・と。
 多くのことを認識し、いろんなことを考えているように思ってみたところで、心のなかを単純化すれば好きか嫌いかで生きているだけです。複雑な動きをしても、好きなら機嫌が良くなって、嫌いなら不機嫌になるだけのことです。食べることに関しても、生きるために食べているのか、食べるために生きているのか?

 阿弥陀さまは、いのちあるすべてのものを救うと誓われました。そんな話を聞いて、人間だから、精進して阿弥陀さまの願いを深く聞こう聞かねばならないという心を起こしたとしても、やっていることといえばゾウリムシと変わりはないのです。人間が特別ではありません。わたしもゾウリムシもいのちがもらって生きようとすることに変わりはないのです。
 ですから、阿弥陀さまは分け隔てをされることはないのです。いのちのあるものすべてが阿弥陀さまの救いの視野のなかにあるのです。

 阿弥陀さまの目から見たら、いのちあるものに違いはありません。しかし私が違うなぁと思うのは、すべてのいのちにかけられている願いに対して、「南無阿弥陀仏」と応えさせていただくことができるということです。そこを逃してしまうと、姿形は違っても、ゾウリムシそのものです。
 もちろん、ゾウリムシも、私にはわからないけれど、阿弥陀さまに応えているのかもしれません。そこまでは私には知るよしもありません。でも、もし、ゾウリムシが阿弥陀さまにしかわからないように応えているなら、念仏を知らない私はゾウリムシ以下ということになります。
 それこそ不可称不可説不可思議のご縁にあわせていただいたことを思うのです。南無阿弥陀仏。

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2011年2月 1日 (火)

他力をたのむ悪人こそ往生の正因なり

  煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるる
  ことあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ
  本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる
  悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生
  すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。
    (『歎異抄』第三章)

 具足とは、不足なく十分にそなわっているという意味ですから、煩悩がひとつも欠けることなくしっかりとそなわっているのが「煩悩具足」です。人間は満たされている時には不足、不満を感じません。煩悩をほとんど意識することがないのは、煩悩に十分満たされているということでしょう、きっと。
 また、生きるということは煩悩がはたらいているということでもあるのです。この世のいのちを終えれば煩悩がなくなるということもありません。亡くなった人が無条件で「ホトケ」になることなどあり得ません。それぞれの煩悩を背負って、終わりのない迷いの世界をさまよい続けるのでしょう。

 自力の心をひるがえして他力をたのむのです。自力をひるがえすためには、自力が無効であることを知らねばなりません。往生浄土のために自力が無効であることを知るのは、とても難しいことです。でも、「いづれの行」、つまりどんなにすばらしいと思われる自力の行さえも、「生死をはなるることあるべからざる」というのです。
 それでもやめることができないのが自力です。ひるがえすことができずに、必至にしがみついている。それが身体に染み着いてしまっているのですから、生死からは離れられず、むしろ生死の迷いの世界に沈み込んでいくのです。長い人生を送ったところで、生死の苦は重くのしかかるばかりです。
 そのことを阿弥陀さまはご存じなのです。ご存じだから「あはれみたまひて願をおこしたまふ」たのです。それは悪人を仏(=覚者)にするためには、もうほかに手だてがないのです。

 それでは、悪人の自覚をもって、他力を頼めばいいのね・・・・って、ことばの上でわかっても、実際、どうすればいいのでしょうか。ほんとうに悪人の自覚って持てるのでしょうか? 他力を頼りにすることができますか?そうなろう、そういうぐあいに仏法を聴こうというのは、これまた自力なのです。
 どこまでいっても自力は抜けきれません。他力は阿弥陀さまの願いであり、力です。私がはたらきかけて獲得するちからではありません。ただただ、阿弥陀さまの願いを聞かせていただくしかないのです。長い間聞いてきたのに、一向にラチがあかない・・・・という人も少なくないかもしれません。
 それでも聞いてください。聞き続けてください。聞いているつもりでも大切なところを聞き落としてます。肝心なところを聞いていません。自分の思いを交えて聞いていますから、要を飛ばしているのです。

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