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2011年3月30日 (水)

念仏には無義をもって義とす

  念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議の
  ゆゑにと仰せ候ひき。
    (『歎異抄』第十章)

 「念仏を称えよ」と聞いて聞いて聞いても、なかなか声に南無阿弥陀仏とは出てきません。それでも南無阿弥陀仏と称えようとすると、いろんなことを考えます。「こんな念仏でいいのだろうか?」「どれだけ称えたらいいのだろうか?」「念仏より他に道はあるのではないか?」「なぁ~んか、暖かい感じがしてきた」「念仏を称えても何も変わらないじゃない」等々・・・。
 また、善い念仏、悪い念仏、自力の念仏、他力の念仏、まことの念仏、ウソの念仏、等々・・・。念仏することによってさまざまな思いが生まれます。

 念仏をめぐって、聞いたら聞いたで、教えられたら教えられたで、また何かをすればしたところで、何か意味づけをしようとしたり、何かを感じたりするのが人間です。しかしこれらのことは、私が念仏を評価しようとしていることです。自分が念仏を解釈し、導こうとしているだけのことです。

 親鸞聖人が、常陸の国・笠間の念仏者の問いに答えられた手紙に、次のような内容のものがあります。
  「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごと
  にてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者
  のはからひは自力なれば、義といふなり。他力は、本願を
  信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。
    (『親鸞聖人御消息』註釈版p.747)

 「義」とは、“はからい”“自力”であり、「他力には義なきを義とす」と示されています。後ろの「義」、また『歎異抄』第十章の「念仏には無義をもつて義とす」の後ろの「義」は、本来の意味、正しい意味のことです。つまり、私の思いが混じらないことがとても大切なことなのです。

 念仏は、言葉で容易に言い表せることではありません(不可称)し、あれこれと説明してわかるものでもありません(不可説)。人の考え、思いも及ぶものでもありません(不可思議)。その念仏を、称えさせていただくのです。

 第一章の冒頭を思い出してください。「弥陀の誓願、不思議にたすけられまゐらせて」とあります。弥陀の誓願や念仏にそれぞれ出遇った人たちがそれぞれの法味を語ることはあっても、その願いやはたらきは「不思議」としか言い表しようがないのです。
 わが采配で、わが身がたすけられてゆくというようなことはあり得ないことです。わが采配がいかなるものであったとしても、そのこととは関係なしに、阿弥陀様が南無阿弥陀仏とはたらいてくださっているのです。

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2011年3月25日 (金)

私にはわからないことを聞くのが仏法

 仏法は、私にはわからないことを聞かせてもらうのです。

 この世においても、私にはわからないことはたくさんあります。しかしこの世でわからないことは、辞書を使い、事典を使い、インターネットで調べ、人に教えてもらい、専門書を読み、わかるようになることがあります。しかしそれは知識といいます。また、その知識にさまざまな経験が加わって知恵を身につけることもできます。

 ところが、仏法の上では、わからないことを聞かせてもらっても、私にはわからないのです。わからないものを聞かせてもらってわかるには、仏さまのことをわかるだけの智慧が必要です。しかし私にはその智慧がありません。だからわかるように仏さまの智慧をいただくのです。それが信心です。
 信心は「信じる心」ではなく、阿弥陀さまから「いただいた心」です。智慧をいただくのです。智慧をいただくというと賢くなったように思いますが、人間のレベルでいう「賢く」なるのではありません。もちろん阿弥陀さまの智慧をいただくのですから、賢者になるには違いありません。だからといって学力が向上するわけでも、記憶力が良くなるわけでもありません。
 それでは何が変わるのでしょうか。阿弥陀さまの智慧をいただいて、「ほんとうのことを見ることができる」「ありのままの自分に気づく」ようになるのです。ほんとうのことをほんとうのこととわかるようになるり、またありのままの自分に気づくのが仏法の上での賢者です。

 ほんとうのことが見えるようになるのが「信心をいただく」ということです。信心は信じ込むことではありません。あきらかにわかるようになるということです。親鸞聖人は「まことの心」とおっしゃっています。
 仏法を聞くということは、ほんとうのことを見るのですが、二つのほんとうのことを見ることができるようになります。一つは、自分自身(わが身)というものがわかるということ、二つにはいわゆる大きな世界、み仏の世界、阿弥陀さまの願いというのがわかるということです。これは二つのことだと申しましたが、別々ではありません。一つのことなのです。
 このことも知識として理解することはできるかもしれませんが、知識として知っていてもまことのこころをいただいたことにはなりません。

 私がいるから阿弥陀さまの願いができあがったのです。ほんとうの私の姿をみられたから阿弥陀さまは願いを立てずにはおれなかった。ですから、私なくして阿弥陀さまは生まれることはありませんでした。阿弥陀さまなくして、私は仏法に遇うことはできなかったのです。

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2011年3月23日 (水)

外への踏み出しと、内での凹(へこ)み

 わが身を愚かなことを知ることは、自分を責めることでも、悲観的になることでもありません。わが身にまことなどかけらもないということは、自分の力で気づくのではなく、まことに照らされることによって知らされるのです。気づかされるのです。それは、自分自身のありのままの姿を知ることであり、ほんとうの自分を発見することでもあります。
 愚かで、まことがないわが身に気づかされて、何もできない、何もすることがない・・・と身動きがとれなくなってしまう心情はとてもよくわかります。しかし勘違いしてはならないのは、私の力で生きているのではなく、いままで、そしてこれからも、私は生かされ続けるのです。勝手に自分の心情に閉じこもってはなりません。

 昨日の書きましたが、どんな状態にあっても、自分の思い通りに生きようとする私は決して失われることはありません。生きるということは五欲を満たすことです。歳を重ね、衰えたといえども五欲が無くなることはありません。
 しかしその五欲によって、人生の次の一歩が踏み出せるのではないでしょうか。社会貢献が「思ふが如く助け遂ぐること、極めて有り難し」(『歎異抄』第四章)という聖道の慈悲であり、末通らない一歩であっても、踏み出さずには生きられないのが人生です。

 そう、いまこそ社会的貢献に一歩を踏み出すことが必要なのだと思います。自分の内に閉じこもらず、外に向かってつながることを考えましょう。社会的貢献というのが重すぎるのなら、自分で思いついたできることをできる範囲でやればいいのです。そこに理屈はいりません。そこには仏教徒であるとか、念仏者であるとか、僧侶であるとか・・・いうところへのこだわりはありません。

 とは言ってはみても、フッと自己を振り返る時があります。外に向かい、自分の思いついたところで、理屈無しに、こだわりを捨ててやってみると元気が出てきて、やりがいや、かなり高い満足感を感じるのです。でも、どこかで、それが結構「毒混じり」であることに気づくと凹(へこ)んでしまうのです。
 念仏者の社会貢献とは、外に向かっての元気と、「毒混じり」という気づきとの揺れこそが念仏者の社会貢献であるのではないでしょうか。その揺れ、振りが大きくなればなるほど、その両者の間で悩み、苦しむのです。しかし、念仏者は、その両者を念仏でつなぐことができるのではないでしょうか。これもまた、理屈ではなく、私の思うところです。

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2011年3月22日 (火)

私のなかには、まことはかけらもなし

 この世は無常であると、仏法では示されています。今回の東北関東大地震は想像を絶するものでした。地震や津波の研究が進む日本の科学の粋を結集して、さまざまな角度から対策を施し、予測を試みてみても、防ぎきることができませんでした。それは人間の知識や経験を超えたものであったということです。
 仏法が示す無常をわかったような気がしても、凡夫の頭でわかる無常など、断片的なものでしかありません。それでも、世のなかに末通ったものないことを教えてもらい、まことは南無阿弥陀仏しかないと聞かせてもらってきました。阿弥陀さまが示されたことですから、まちがいないことです。何もできないし、ただ念仏しかない!
 にもかかわらず、私はそこで終わる気がしないのです。ただ念仏すること以外何もできないと南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・と口にしている私が、次の瞬間、「お腹がすいたなぁ、晩ご飯は何を食べようか・・・」と思い、「読みかけのこの本は、今夜のうちに読んでしまおう」と思い、「明日の仕事はイヤだなぁ・・・」とため息をついているではありませんか。

 もうひとつ、震災報道のテレビの影像を見て、お客さんのように感想を述べている私に気づいてハッとするのです。たいへんなことが起こった・・・と評論している自分がいるのです。そんなこと言ってもしかたがないことはわかっています。実際に震災の地にいないのだから、まったく同じ経験や思いを共有することなどできるはずはありません。だから、感想を述べたり、評論したりすることに何の不思議もないのでしょうが、私のなかに、“遠く離れたところでよかった”というとても冷たい心を感じるのです。

 いやいや、冷たい心ばかりではありません。何かしなければならないと思います。なかなか震災地に足を運ぶことはできませんから、さっそく義援金箱にわずかばかりのお金を入れました。この間、できるだけ食べるものを質素にし、ちょっと多めに着込んで部屋の温度を上げないように、エネルギーを使わないよう心がけているつもりです。間接的で、きわめて影響力のない支援かもしれませんが、そうせずにはおれない気持ちです。そんなに無理しているわけではありません。
 それでも心のなかで、ちょっとくらいお腹がすいたって、寒さを感じても、震災に遭った人たちと比べたら・・・と思うのです。どうして自分のしていることを、たいへんな目に遭っている人たちと比べるのでしょう。“~よりまし”という思いで自分をなぐさめているのでしょうか。

 仏法というまことを聞いていくなかで、たびたびそんな私に出合うのです。正直にこんな感じを吐露すると、「どうしてそこまで自分を責めるの?」という人が必ずおられます。決して自分を責めているのではありません。そういう思いを正直に感じているだけのことです。そう感じたところで、何も良いことはありません。それでも、そういう自分であることは、しっかりと自覚しておきたい気持ちもあります。
 意図して作ったわけではないのに、こんな自分ができあがっている。阿弥陀さまの教えを聞き、念仏を称える身とさせていただいていても。どこまでいっても、私のなかにまことなどかけらもないことを思うのです。

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2011年3月21日 (月)

お心遣い、ありがとうございます

 私が東京に住んでいるということで、たくさんの人から電話やメールで「地震の被害はないか」「足りないものはないか」「何か送ろうか」という連絡をいただきました。お心遣いをいただき感謝いたします。
 いま、私が住んでいるところでは、11日の地震時には震度5強だと発表されましたが、その後、茨城沖、山梨、静岡等で起こった地震時は震度3、そのほか毎日揺れていますが、大丈夫です。また、確かに特定の品物が店頭から無くなっていますが、いまのところ無くてもそう不自由しているわけではありません。

 ただ、社会的には、計画されていたことが次々に中止されていますし、生活上や仕事上での制約がどんどん増えてきますので、全体的な空気が暗くなってしまっていることを感じます。11日以降、繁華街へは行ってませんが、聞くところによると、午後8時9時にはどこも閑散としているようです。 
 個人的には、不安でもありますし、ちょっと「気」が下降気味か・・・という感じです。でも、大丈夫です。

 今回の地震およびその後の災害等については、ひと言では言い表せない複雑な思いがあります。確かに諸行無常で、そうとしか言い表しようがないのでしょうが、私のなかではとっても複雑なのです。近日中に言葉にしてみたいと思っています。

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2011年3月16日 (水)

心豊かに生きるには

 3月11日の大地震は、日本の地震観測史上最大の規模だったといいます。それによって発生した津波は、とてつもなく被害を拡大しました。東北地方の太平洋側では、これまでもたびたび大きな地震や津波の被害にあっているので、地震も津波にも十分な備えをしているということは、何度か聞いたことがあります。しかし自然の力は、人間の思惑も知識・技術もはるかに超えたものでした。
 テレビの画像で見る津波に波のイメージはなく、巨大な滝でした。美しい海岸線だけではなく、暴風林、それぞれが築き上げてきた家屋、きれいに整備された水田など、農漁村の風景も街のたたずまいも、一挙に消し去ってしまったという感じです。
 これを無常というのでしょうが、私のなかの無常のイメージをはみ出すスケールの大きさです。海岸線から陸地の数キロ奥までも、木造家屋の基礎と鉄筋の建物を残し、港から流されてきた船、押しつぶされた車、そして材木、瓦礫の山ができています。海岸近くの陸地を撮った空からの映像は、街も田畑も海水に覆われ、干潟のようにさえ見えました。こんなことがほんとうに起こるのかと驚くほかありません。
 さらにそれに加えて、原発汚染による深刻な被害も引き起こすことになりました。

 被災地では、安否の確認ができない人たちがたくさんおられます。被災地は、人びとが築いてきた地域社会が消え去り、豊かさを支えている生活システムが瞬時に崩壊してしまいました。いまだおさまらない地震や放射能への恐怖感をおびえながらも、自分のいのちをつなぐことに懸命になっておられるのだと思います。

 関東地方でも東北での地震、津波、原発災害の影響がジワジワ押し寄せてきています。電力不足、燃料不足、交通網マヒ、物資不足・・・などが及んできています。さらに東京では、今の日本ではよほどのことがない限り経験することのない停電が始まりました。大口の電力使用者である鉄道会社は、電車の運休や大幅な間引き運転をおこなっています。東京の店頭からは、水、米、即席麺、トイレットペーパー、乾電池などはすっかり姿を消しています。ガソリンスタンドも長蛇の列ができ、閉まっているスタンドも目立ちます。それでも、東京は、この時点においても世界の中では恵まれた地域です。被災地とは比べものになるわけではありません。

しかし、同じ日本とは言え、遠く離れていてもつながっている世界でともに生きていることを感じずにはおれません。また、少しの縁で、私が被災者となったかもしれないということも感じます。同じ世に、時を同じくして生きる者が、あるところを提供し、無い部分を補ってもらって生きることの大切さをひしひしと感じます。そうあることでしか心は豊かにならないように思うのです。

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2011年3月15日 (火)

まゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふ

  なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなく
  してをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎ
  まゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふ
  なり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、
  往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、
  いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらん
  と、あやしく候ひなましと云々。
   (『歎異抄』第九章)

 この世に執着し、どれだけ“生きたい”と望んだところで、娑婆の縁が尽きれば、どうすることもできずにこの世を去らねばなりません。だれもが知っていることです。でもいつも意識することではありません。いつまでも生き続けることがあたりまえのように思って、この世を生きることうつつを抜かしているときに、厳しいご縁をいただくのです。
 それでも、しょせん他人事ですから、時間の経過とともに忘れてしまいます。薄情な奴です。他人の生老病死に驚き、わが身も同じ凡夫よ、とドキッとして胸が締め付けられるようなことがあったとしても、これもしばらくするとウソのように忘れてしまいます。ほんとうに愚かや奴です。

 それでも、どんなに執着しても、この世と別れなければなりません。そのとき「なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり」というのです。
 ここで勘違いしてはならないのは、娑婆の縁が尽きればだれもがかの土(浄土)へまいるのではないということです。阿弥陀さまに願われているのですから、いのち終わればだれもが浄土へ往生できるのです。しかし阿弥陀さまの願いを疑う者、謗る者はどうすることもできません。阿弥陀さまにすべてをまかせた者どうしの会話です。

 浄土に「いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり」と示されています。早く往生浄土を遂げたいと思わないものというのは、私のことです。その私を「ことにあわれみたまふ」のです。
 すべてわが煩悩のはたらきによってこの世を苦悩の境涯として生きなければならないのですが、その煩悩こそが、煩悩に満ちた私が、が阿弥陀さまのめあてです。
 煩悩がさとりのさまたげであり、煩悩によって迷い続けるのです。しかし阿弥陀様にはその煩悩があるからこそ、願われているのです。

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2011年3月14日 (月)

苦悩の旧里はすてがたく

  また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか
  所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそく
  おぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで
  流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養
  浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の
  興盛に候ふにこそ。

    (『歎異抄』第九章)

 唯円房は、踊りあがるほどのよろこびの心がわいてこないということとともに、阿弥陀さまの浄土へ参りたいという気持ちが起こってこないということを述べています。親鸞聖人はここでも、後者のことを、「いそいで浄土に行きたいという心は起こらないし、ちょっと病気にでもなれば、死ぬかもしれないと心細くなるのも煩悩のしわざです」と答えられます。
 煩悩によって、ほんとうのことがみえない、まことを知ることができないのです。ほんとうのことがみえないから、それまで身につけてきた知識や経験を頼りにします。知識や経験のないものについては、自分の感覚、思いに頼るしかありません。

 かつて親鸞聖人も、風邪のためうなされ寝込んでいる間に『無量寿経』を読誦し続けていたことを語り、17~18年前にも浄土三部経千部読誦を試みたけれど、念仏のほかに何もいらないとを思い返してそれをやめた。にもかかわらず、この期におよんでまた経典を読誦しようとは、人の執心、自力の心はなかなか抜けきらない(『惠信尼消息』)と、語られました。
 私たちは経典を読むなんてとてもおよばない卑しい思いを抱くばかりです。阿弥陀さまが示してくださった願いがあるにもかかわらず、そこには目を向けることができません。

 煩悩によって、ほんとうのことがみえない、まことを知ることができないというのは、今に始まったことではありません。流転輪廻して、さまざまな境涯を経巡ってはきたけれど、一度も迷いの世界を離れたことはないのです。親鸞聖人は、私たちが経巡ってきた世界を「苦悩の旧里」だと言われるのです。世間を四苦八苦の世だと示されても、きっといいことがあるに違いないと思っています。
 一方、「安養の浄土」は、お経にどれだけすばらしいところであると記され、聞かされても、一度も生まれたことがないから恋しいなどと思うことができないのです。「苦悩の旧里」と教えられても、私にとっては、この世を含めた六道は「住めば都」になってしまっています。

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2011年3月13日 (日)

仏かねてしろしめして

  よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどに
  よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は
  一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころを
  おさへてよろこばざるは、煩悩の所為なり。しかるに
  仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたる
  ことなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらが
  ためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
   (『歎異抄』第九章)

 『仏説無量寿経』には「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと」(註釈版p.81)とあります。
  (阿弥陀さまの名を聞いて、踊りあがるほどのよろこびを得て、一度でも
   念仏すれば、この人は大きな利益を得ることができる。すなわちこの上
   ない功徳を身にそなえるのである)

 しかし、お経に書かれていても、阿弥陀様の本願を疑いなく聞くことができなければ、あるいは本願をわが身にうけることができなければせんないことです。
 そのよろこびを得たにもかかわらず、いまはよろこぶことができないという唯円房に親鸞聖人は「よろこぶべきことをよろこぶことができないのは、ますます阿弥陀さまの浄土に生まれることは間違いはないと思うべきです」といわれ、続いて「よろこぶべきことをよろこべないのは、煩悩のはたらきによるです」と示されます。

 かつてのよろこびはすっかりどこかに置いてしまって、今生、この身をいとい楽しませることにかかり果ててしまっているのが私です。よろこぶべきことをよろこべない煩悩というのはおそろしいものです。同時に、煩悩によってわが身わが心を楽しませているようでも、ほんとうによろこぶべきものを見失っている情けなさ、悲しさも思います。
 阿弥陀さまを無視し、そしりつづけてきたのです。やっと縁にめぐまれて、阿弥陀さまのお慈悲を出遇うことができたのに、なおざりにしてしまうのです。仕事が忙しいから、家族に気兼ねしてなかなか法座にでることができない、身体の調子が悪くて・・・というような言い訳をします。でも、忙しくなくても、家族に気兼ねすることがなくても、身体の調子がよくても、仏法と向き合おうという優先順位はきわめて低いのです。もしかしたら、そんな選択肢などないかもしれません。
 阿弥陀さまの願いは、私のそんな思いや行為とは関係なく私に向かってはたらいてくださっています。よろこぶべきことをよろこべないおそろしい私にはたらいてくださっているのです。
 聖人は、「仏かねてしろしめして」(阿弥陀さまは、そんなこと昔からわかってることですよ)とおっしゃっています。

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2011年3月11日 (金)

念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふ

  念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふ
  こと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、
  いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて
  候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじ
  こころにてありけり。
   (『歎異抄』第九章)

 第三者から「あなたほど幸せな人はいないと思うよ」と言われても、そんなにうれしいとは思えません。そんな評価的な言葉ではなく、ほんとうに私が幸せであるという実感が欲しいのです。
 唯円房は、師・親鸞聖人に、「念仏を称えても踊るほどのよろこびの心がわいてきません。また阿弥陀さまのお浄土に参りたいとも思えないのです」と、心の内をありのままに述べられました。当然のことながら、一度もよろこびの心を経験したことがないということではありません。かつてはあれほどよろこんだにもかかわらず、いまはよろこぶことができないのです。常々、親鸞聖人より阿弥陀さまのご本願を深く聞かせていただき、称名念仏にする身とならせていただいたにもかかわらず。

 かつて念仏の教えを聞いて救われるというよろこびがあったのに、それがさめてしまった。それは夢まぼろしを見ていたのであり、それがさめただけのことなのでしょうか。
 念仏して踊躍歓喜の心がおこったらその教えはまことで、よろこぶ心が起こらなかったらそれはまことではない。そう思ってしまうのでしょう。しかし私の実感で阿弥陀さまのまことが変わるわけではありません。踊りたくなるほどのよろこびの心が私を救うのではありません。ウキウキする心であっても、沈みきった心であっても、阿弥陀さまのお慈悲は平等に、間違いなくはたらくのです。にもかかわらず、聞き慣れてしまうと、自分の思いに左右されていることに気づいただけのことなのです。

 唯円房の包み隠さぬ正直な気持ちを、親鸞聖人はきっちりと受け止められます。「私もそういう不審があるのよ。唯円と同じ思いだなぁ」と答えられるのです。唯円房自身、ちょっと重い気持ちで聞かれたでしょう。もしかするとおそるおそる聞かれたのかもしれません。
 努力を続け、鍛え続けても生身の人間である以上、どんな思いをもち、どんな行動をするのかはとても予測ができません。一番頼りにしている自分自身の心がこの身が、頼りにならず危ういことを、聖人が唯円とともにに分かちあわれたのです。

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2011年3月10日 (木)

わがはからいの念仏にあらざるゆえに非行・非善

  わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。
  わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善と
  いふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆゑに、
  行者のためには、非行・非善なりと云々。

    (『歎異抄』第八章)

 念仏を称えているのは、この私。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・と声に出して念仏すれば、誰もがそう思うでしょう。
 「念仏を称えよ」と教えられたから、私が念仏を称えるようになった。そういう人は多いと思います。ところが、「念仏を称えよ」と教えられても、そう簡単に念仏が称えられるわけではありません。称名念仏していた親がいても、「しっかり念仏しましょう」と教えられ勧められていても、口から念仏はなかなか出てこないのです。

 親鸞聖人は、念仏するのは「わがはからいではない」と言い切られています。ですから、念仏は、私の行ではありませんし、私の善でもないのです。
 人にいわれなくても念仏するようになったよ・・・という人は、そこまで育て上げられてきたのです。仏法を聞く席に、さまざまな人に引っ張ってこられたのです。自分では気づかなかったけれど、念仏を称えるご縁に数限りなく出遇ってきた結果です。
 念仏に初めて出遇ったときは、イヤでイヤでしかたがなかった・・・とか、何の役にたつのだろう・・・とか、恥ずかしくてしかたがない・・・などと思ってはいませんでしたか? 自分には関係のない、自分の善し悪しの範疇からはずれたできごとであった人もいるかもしれません。

 私は親が念仏せよと言うからしたのでしょう。あまりにも幼かったのでそんな記憶もありません。そのうち、イヤだという思いを抱いたり、何の役にたつのだろうと思ったり、・・・等々のさまざまな私見を交えながらも、念仏を称える環境や、称名念仏する人たちに囲まれて育てられてきました。
 今になって思えば、わが心を動かして称えた念仏したことなど一度もなかったのです。ここで念仏しよう・・・と思って口にした念仏も、そこに至る大きな力なしには口には出てこなかったに違いありません。私のはからいで出てくる念仏ではないのです。

 念仏は、私の思いをはるかに超えたところではたらいてくださっています。それゆえ、私のためには、非行であり、非善なのです。しかし大行、大善の念仏を称えさせていただいているのです。今生、この身にとらわれ続けている私に、阿弥陀さまからいただいた大行・大善の念仏を口にすることができる。ほんとに不可思議のはたらきでしかありません。

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2011年3月 9日 (水)

念仏は行者のために、非行・非善なり

  念仏は行者のために、非行・非善なり。
    (『歎異抄』第八章)

 今から50年前、私の生まれ育った田舎では、声に出して「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、・・・」と念仏する人がたくさんおられました。お寺の本堂や仏壇の前だけではなく、日常生活のなかで念仏を聞くことができました。生まれたときから、家族や地域で、またお寺でも家の法事でも、ふんだんに仏法聴聞されてきた人たちの念仏だったのでしょう。
 今から思えば、そんな人たちの念仏は自然で、まじりっ気のないものだったような気がします。「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」という思いであり、また「念仏(者)は無礙の一道なり」というにふさわしい生き方だったのかもしれません。

 親鸞聖人は『教行信証』行巻のなかで、「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり」(註釈版p.141)と述べられています。つまり念仏は阿弥陀さまの行であり、その行はあらゆる善をおさめ、あらゆる功徳をそなえている、とおっしゃっています。
 間違ってはならないのは、私が称える念仏は行でもないし、善でもないということです。「念仏を称えるから・・・・になる」と、手段としてはなりません。

 念仏が大行であり、大善であるということは、念仏が阿弥陀さまのはたらきであるということです。阿弥陀さまのはたらきを、私もそのままいただくのです。そのままいただいても、それが凡夫である私の行や善に変わるわけではありません。そこまでいっても阿弥陀さまのはたらきであるのです。ですから念仏を称えるその人が、立派であるわけでも、立派になるわけでもありません。生地は変わらぬ凡夫です。

 私たちは自分のすることに意味を求めます。ムダなことはしない。何かのためになることなら力が入るのです。ところが、行でもなければ善でもない念仏を称えようとはしません。称えるなら、念仏が行であり善であるという意味が必要なのです。「~のための」念仏であってほしいのです。
 『歎異抄』第八章では、「念仏は行者のために、非行・非善なり」と示されています。私にとって好都合な何かが起こるかも・・・、という思いがあるなら、それを完全に打ち砕いてしまうお言葉です。
 「~のため」でなければ念仏は称えられないですか? 意味を見いだすなら、阿弥陀さまの願いであり、はたらきを口にさせていただいているということでしょう。なんのためでなくとも、阿弥陀さまとともにさせていただいているということなのです。

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2011年3月 7日 (月)

後生の一大事の荷を下ろしたら、次の荷を背負う

 念仏者がどのように社会的実践や社会的貢献に関わるのか、ということが真宗教団内外で強く意識されてきたように感じています。今後は、ますますそんな議論がなされるでしょう。しかしその答えを機関として出すことは容易なことではないと思われます。
 信心や念仏は社会的な実践や貢献をすることを条件にしているわけではありません。また、信心のある者が、念仏を称える者が社会的にどうあるべきであるという決まったものはありません。社会的な関わりにおいて、何を思い、どのように活動するのかということは、それぞれの念仏者にまかされています。それぞれがいただいた念仏によって、積極的に社会貢献をする人もいます。また社会への関わりをできるだけ少なくしよう(?)という人もいるようですし、念仏者は社会的な関わりを持たない方がよいという人もいます。

 しかし、数知れぬ煩悩を抱え、業苦に沈む凡夫であるがゆえに阿弥陀さまに「おまかせ」するしかない・・・という人がいるなら、その言葉に甘えてのではないでしょうか。というより、後生のことと今生のことをごちゃまぜにしています。「おまかせ」するのは後生です。
 深く阿弥陀さまのお慈悲をよろこび念仏にいかされていても、今生を生きる上では我執を表に出し、わが思いを通そう通したいと思い続けて生きているのが私です。我執を満足させるためにはどんな労もいとわないのに、社会的な実践や貢献に対して「凡夫の私にはそんなことはできない」「この世のことには末通るものはない」「ちゃんと阿弥陀さまがはからってくださるから・・・」などと引いてしまう人もおられます。

 確かに、凡夫は、また凡夫のすることに真実などありませんし、末通るものもありません。だからといって、なにもせずに「私にはそんなことはできない」と言うことに、よくわかりませんが、何かわだかまりを感じます。
 「できない」ではなく、自分なりにやってみて「できなかった」というのならわかります。凡夫の自覚も薄く、悪人であるなどとは思えないのに、自慢げに「凡夫」や「悪人」と言っているように聞こえてしまうことがあります。
 凡夫や悪人というのは、阿弥陀さまが見透かしてくださった私の姿です。阿弥陀さまに照らされてはじめて私が凡夫であり悪人であることを知らされたのです。自ら振り返ってみても出てくる言葉ではないことを、私自身のところで感じるのです。

 阿弥陀さまにまかせるというのは、後生の一大事を解決するということです。つまりこの世の根本苦の解決ということです。大きな荷を下ろしたことにより、社会的な実践や貢献という荷を背負うことができるのではないでしょうか。

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2011年3月 5日 (土)

信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障礙することなし

  そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神・
  地祇も敬伏し、魔界・外道も障礙することなし。
  罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶこと
  なきゆゑなりと云々。
    (『歎異抄』第七章)

 浄土真宗はどのお寺でも、祈祷もお祓いもしていませんし、お守りやお札も出していません。しかし「祈祷してください」「お守りやお札はないですか」などと望む人は数少なくありません。浄土真宗の門信徒の方でも、そのような人がおられます。

 祈祷もお祓いも、お守りお札も、要するに攘災招福(災いをはらい福をまねく)のためでしょう。この世を安全・安心に、またより豊かに幸せに・・・という思いが込められています。浄土真宗の門信徒でも、また阿弥陀さまの信心をいただいた人であったとしても、安全・安心を求めて生きていますし、豊かに幸せに生きたいという思いが消えるわけではありません。むしろ、念仏とともに生きている人の方が、安全・安心のうちに生きたい、より豊かに幸せにという煩悩をはっきりと知らされている分だけ、より強く自身の生き方が見えているのではないでしょうか(見えてくるから善い、見えていないから悪い・・・というようなことはまったくないのですけれど)。
 にもかかわらず、この世を生きるための祈祷お祓いもしない、お守りもお札も出さないという浄土真宗の教えはどうも理解できない・・・と思っておられる方は少なくないでしょう。

 「念仏者は無礙の一道なり」の理由は、信心をいただいて生活する人に対して、天の神も地の神も敬いひれ伏し、仏道修行をさまたげる悪魔や道理に背く考えも、その生活をさまたげることはないから。さらに、罪悪の報いを感じることはなく、どんな善行も念仏に及ぶことはないからだいうのです。
 祈祷せずとも、お守り・お札をもたずとも、私は阿弥陀さまに願われ護られていることを知らせてもらうのが聞法です。「浄土真宗では祈祷はしない。お守りもお札も必要ない」と聞き、それを自分で納得させている人もいます。自分で納得する、強く思い込むことは真宗の信心ではありません。いくら強く思い込んでも、凡夫の思いなど音を立てて崩れてしまうのです。思い込みが揺らぎ不安が頭をかすめるたびに、お守りやお札に頼らなければならなくなってしまいます。

 私の救いのためには、念仏以上のものなど何もないのです。祈祷やお祓いをすることも、お守りやお札を持つことも必要ないのです。阿弥陀さまが、「この道を歩め」と示してくださった道なのですから。その道に迷う箇所などありはしません。ただただ南無阿弥陀仏なのです。

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2011年3月 2日 (水)

念仏者は無礙の一道なり

  念仏者は無礙の一道なり。    (『歎異抄』第七章)

 無礙(=無碍)とは、どんなものにもさまたげられないこと、何ものにもとらわれないことです。この文章をそのまま読むと、「念仏者は何ものにもとらわれることのない一本道である」というのです。しかしこの「者」を、念仏をとりだしていうときに添える助字であり、「念仏者は」の「は」は、「者」のふりがなとして使われているのだという見解があります。ですから、この文章は「念仏は無礙の一道なり」だというのです。
 次の第八章の冒頭は、「念仏は、行者のために非行非善なり」となっています。「念仏者は、行者のために・・・」ではないので、第七章も「念仏者は無礙の一道なり」とするのが、私としては自然な気がするのですが。
 これは、『歎異抄』の原本はなく、すべて写本であるということに起因することです。実際はどうなのかはわかりません。

 圧政のなかで自由に生きたいと願う人がたくさんいます。世界各国で、自由を求めて政府への抵抗運動が起こり広がっています。しかし独裁者を追放して自由な社会を求めようとするのはたいへんなことです。それだけに、いまの日本は自由を謳歌できる、とてもすばらしい時代であり、国であると思います。
 ところが、そんな日本社会に生まれ生きていても、何ものにもさまたげられることなく生きることができているかというと、決してそうではないでしょう。家族に縛られ、地域に縛られ、仕事に縛られ、組織に縛られ、そのほかさまざまな人間関係に縛られています。何よりも自分自身の身体や心に縛られてしまいます。

 何ものにもさまたげられず、末通ってはたらくものは念仏だけです。阿弥陀さまのおこころだけなのです。つまり「念仏は無礙の一道」なのです。そのこころをいただき、念仏する身となる者が念仏者です。
 念仏者であっても、この世を生きる限り、さまざまなものに縛られ、不自由で息苦しい日々を送ることもあります。しかし無礙の一道である念仏によって生かされる人が念仏者です。阿弥陀さまの本願に疑いがはれ、阿弥陀さまからいただいた念仏とともに生きていることを常に味わいつつ生きる人が念仏者です。この世をフラフラと生きなければならない人であっても、念仏者は間違いなく浄土に生まれる人です。念仏者は無礙の一道でもあることは間違いありません。

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