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2011年4月22日 (金)

世間の物差し・仏法の物差し

 私たちが生きてゆくためには、世間の物差し(考えや行動のための基準)が必要です。道徳、倫理、規範、常識、習慣、法律、等々などがあります。しかし世間の物差しは、いつでもどこでも通用するものではありません。地域が変わると大きな違いを生じることがあります。その違いが地域間や民族間の争いごとに発展することあります。
 また同じ地域、民族の間でも、時代が変わることによって、ずいぶん違った物差しが必要になることがあります。昭和20年を境として天皇制から民主制へ、軍国主義から民主主義へ、戦争から平和へとその政治体制や価値観はまるっきり違うものとなりました。

 世間の物差しは、地域や民族によって、また時代の流れによって常に変わります。そこに生きる人たちはその世間の物差しに合わせて生きることが求められます。変化する物差しによって混乱も起こりますし、その変化についてゆけない人たちも少なくはありません。それに対して、仏法は決して変わることのない物差しです。
 さまざまな世間の物差しの違い以上に、世間の物差しと仏法の物差しの違いは大きいものです。世間の物差しはわかりづらくとも日常生活のなかでなじみがありますし、生きてゆくために使わざるを得ないものでもあります。一方、仏法の物差しは、現代社会の中ではなじみが薄く、少々難解でもあります。それゆえ、仏法の物差しはなかなか受け入れがたく、使いづらいようです。

 世間の物差しと仏法の物差しのどちらが大事か、どちらが有用かなどということはできません。また、どちらか一方を選ばなければならないというものでもありませんし、時と場所に応じて、両方の物差しを使い分けるというのでもありません。常に世間の物差しと仏法の物差しをいっしょに使うことが必要でしょう。違った物差しをいっしょに使うと、当然のことながらどちらを基準にすればよいのか迷います。
 人生の迷いは苦しみのタネですが、世間の物差しと仏法の物差しの違いを認識した上での迷いはとても大切です。常に世間と仏法の違いを感じることでもあります。そこで私の生き方が問われますし、考えなければなりません。考えざるを得なくなってきます。

 私のなかでも、世間の物差しと仏法の物差しのギャップの大きさは埋めようがありません。ただ、仏法の物差しは、世間の物差しよりもずいぶん精度が高いし、世間の物差しではまったくはかることができないことをはかってみせてくれるのです。
 何よりも、仏法の物差しを私自身にあてて使うことができることです。

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2011年4月16日 (土)

私自身の思いが外れた「ありのまま」

 「自然法爾」という言葉が、とても気になります。誤解を恐れず、簡単に言い切ってしまうと「あるがままになる」ということでしょう。
 私がこれまで聞いてきた「あるがまま」という言葉は、“自分自身の気持ちのおもむくままに”とか、“私の思うがごとく”という感じを表現した言葉であるような気がします。しかし「自然法爾」の「あるがまま」は、私自身の思いが外れています。
 「なるべくようになる」ともいえるでしょう。このように言うと、私には「なるべように」という姿がわかりませんから、偶然、たまたま・・・という意味合いが出てきます。偶然やたまたまというのは、私の側から見てそう見えるだけのことです。
 私の思いがどのようなものであろうと、私の思いとは一切関係なしのはたらきが「自然法爾」の「あるがままになる」ということです。親鸞聖人は、如来の誓いであるとおっしゃっています。

 その如来の誓いを説くという名目で、自分の思いを押しつける人がいます。「名目」であるという思いも無く、まじめに如来の誓いを説いているのだと思っているけれども、実際は自分の思いを押しつける結果になっているということもないではありません。
 「阿弥陀さまにうながされるままに・・・」などと言葉にされると、ますます怪しくなってきます。

 凡夫である限り、わが思いが混じることは避けようのない事実です。まことを語ったところで、それがどこまで末通ったまことであるかは、はなはだ疑わしいものです。
 それでは教えを伝えることなどできない・・・ということになりかねません。そうです、教えを伝えることなでできないというのが、ほんとうなのでしょう。しかし、法話を聞くことにより、阿弥陀さまの心を知ることができるようになってきます。その法話が、凡夫によって、わが思いを交えた話であったとしても。
 それはその話を受け取る人が、「自然法爾」の意味である「あるがままになる」ことが促されるからでしょう。決して法話をする者の手柄ではないような気がするのです。

 法話をする者がわが思いを込めて話し、法話を聞くものもわが思いを込めて聞いているのです。にもかかわらず、阿弥陀さまのこころが通い合ってゆく世界が仏法の世界です。ここに「自然法爾」のはたらきがある顕現しているといえるのではないでしょうか。

 仏さまの道を歩ませていただいている、仏さまのお取り次ぎをさせていただいている、仏さまのお心をお話しさせていただいている、・・・という自覚はとても尊いものです。しかし同時に、その歩みをさせていただいているのは凡夫であるという自覚も同時になければ、上から目線としか見られません。

 私を外した「あるがままになる」というのは、阿弥陀さまのはたらき以外にはないのです。

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2011年4月10日 (日)

ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは

 浄土真宗の門信徒なら、一度二度ならず、何度も何度も蓮如上人の『御文章』を聞いておられると思います。おつとめ(読経)をした後、お参りをされている方々の方を向いて読み上げる蓮如上人からの手紙が『御文章』です。もっとも、読み上げられるのは、仮名まじり手紙といえどもなじみのない言葉使いも多く、なかなか一度二度聞いただけでは理解することはできないでしょう。
 よく拝読されるものに、「末代無智章」があります。五帖ある『御文章』の五帖目第一通です。

  末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころを
  ひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さら
  に余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへ
  と申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず
  弥陀如来はすくひましますべし。これすなはち第十八の
  念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定しての
  うへには、ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは、称名
  念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
    (『御文章』註釈版p.1190)

 仏法を聞けば何か良いことが聞けるのか? ありがたくなるのか? 人生が明るくなるのか? 悩み苦しみが晴れるのか? などと考えながら聞くようでは、いつまでたっても教えの核心は聞けません。
 この『御文章』で蓮如上人が聞法をする姿勢・態度を明確に示しておられます。「こころをひとつにして」「余のかたへこころをふらず」「一心一向に」「ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは」などと示されています。簡単に言うと、わが思いに惑わされることなく、阿弥陀さまのおこころにのみまかせよ、と申されているのです。
 あれもこれもでは聞けません。世俗の楽しみに翻弄され、あれもこれも、あっちもこっちも・・・と心が散っていては、聞くべきものが聞けません。ただ「第十八の念仏往生の誓願のこころ」を聞くだけです。

 それでは「こころをひとつにして」「余のかたへこころをふらず」「一心一向に」なることができたら、阿弥陀さまの誓願のこころを聞いて心が定まる(決定:けつじょう)のでしょうか。そうではない。第一、私が努力したところでそんな心にはなれないでしょう。
 迷いの心を離れて、阿弥陀さまの誓願に疑いのない心に定まることによってしか、こころがひとつになることはできません。余のかたへこころがふられることもないし、一心一向にもなれるのです。そうならせていただけるのです。

 そのように阿弥陀さまのおこころをいただくことができれば、「ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは称名念仏すべきものなり」とおっしゃっている。まぁ、なんと迫力ある言葉でしょうか。
 そのような身とさせていただくことができるのが真宗の信心です。だからといって、それを待つのではなく、「ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは」という思いを強く持つべきです。強い思いを持たなくても称名念仏できるときまで。

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2011年4月 9日 (土)

興味の有無ではなく、まことの話が仏教の話

 仏教の話はおもしろいという人がいます。感性に訴えかける話もありますし、たるんだ生き方にカツを入れてくれるような話もあります。生き方を正してくれる道徳的・倫理的な教えもあります。競争社会に生きるだけの人生に距離を置いた視点からの教えに、ホッとしたり元気をもらったりすることもあるのでしょう。
 しかし、おもしろい、興味があるというだけでは、なかなか仏法が説こうとしている本質部分には至り着くとは思えません。説き手が、人の興味を引くようにおもしろおかしく話したり、また話の内容が聞いている人の興味・関心事とピタリとはまったとしても、それだけに終わってしまっては、あまりにも残念です。

 仏法を聞き続けてゆくと、おもしろい、元気が出る、役に立つ・・・などと言った話しが、わが身のありようを問うているように聞こえてきます。すんなり受け入れることができた教えが、いつのまにか、私の心を逆なでしているようで、なかなか素直に受け入れることができなくなってしまいます。
 たとえば、“いつまでも若くて健康でありたいと思っていても、それはほんの一瞬のことで、夢まぼろしのことでしかない”とか、“がんばって苦境を乗り越え、努力して目的を達成し、やさしい心で人に接することができたとしても、決して末通ることではない”等々。ましてや、“生きるということは罪業を作り続けるということである”とか、“命ある限り必ず死なねばならない”などと聞かされると、わかっていてもあまりよい気分はしません。仏教はマイナス思考の教えで、暗くなるばかりで生きるためには役に立たない、などという思いも湧いてきます。

 生きることを元気にしてくれる仏教の話も、わが身のありようを問う聞きづらい仏教の問題提起も、仏教なのです。私が受け入れられることだけを聞いていては、大切なことを見落としてしまいます。また、よい気分のしない話ばかりを聞いて、自分の心を逆なですることにソッポを向いてしまってはいつまでたっても教えの核心には至り着きません。
 大切なことは、自分の思いで仏教の話を選別するのではなく、仏教の話を基準(まこと)として、自分の姿を見せてもらうのです。別の言い方をすれば、仏教は私を映す「鏡」なのです。

 教えを聞く人はイヤな話は聞きたくないし、教えの話をする人はイヤだと思われる話はしたくないものです。人間の世界を生きてゆくためには、よりよき人間関係を結ぶためには、楽しくおもしろく、ほめ合い、お互いの気分をよくするためには多少のウソも必要かもしれません。
 でも、仏さまの教え(仏教)を聞くということは、ありのままの話、ほんとうの話、仏さまのお心、末通った話・・・を聞くのです。私の思いを交えると、ついつい違った聞き方になってしまいます。

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2011年4月 8日 (金)

単なる誕生日ではなく・・・

 きょうはお釈迦さまの誕生日で、「灌仏会(かんぶつえ)」「仏生会(ぶっしょうえ)」あるいは「花まつり」などとも言われています。クリスマス、バレンタインデーさらにはハロウィンなど、キリスト教にまつわる記念日や行事などによって、街の賑わいとともに経済市場も盛り上がっています。それに比べると、この「花まつり」はずいぶん地味です。せいぜい、お寺のなかに花御堂を据え、誕生仏を安置して、灌仏(お釈迦さまが誕生したときに甘露の雨が降ったということから、甘茶をかける)するくらいでしょうか。
 春の気配がみられ、サクラが咲き、新年度・新学期が始まるという、気分もあらたまるさわやかな季節ですから、もっと賑わってほしいと思うのです。

 浄土真宗では、花まつりのとき以外に釈迦像を安置するということはあまりありません。また弥陀一仏にたのむことが教えの要です。しかし親鸞聖人においては、浄土教の流れを汲み、阿弥陀様とともにお釈迦さまは弥陀・釈迦二尊として仰がれました。

  如来興世の本意には 本願真実ひらきてぞ
  難値難見とときたまひ 猶霊瑞華としめしける
   (『浄土和讃』註釈版p.566)

  娑婆永劫の苦をすてて 浄土無為を期すること
  本師釈迦のちからなり 長時に慈恩を報ずべし
   (『高僧和讃』註釈版p.593)

 ここに挙げた一首めのご和讃では、お釈迦さま(釈迦如来)がこの世に生まれられた本意は阿弥陀さまの本願を説かれたことであり、その教えに遇うことははなはだ難しく、めったに遇うことができる教えではないと示されています。
 さらにその次のご和讃では、私が永い間かかえてきた苦を離れて、さとりの世界に至ることができるのはお釈迦さまの導きによると述べられています。

 親鸞聖人にとっては、ゴータマ・シッダルタという人間がこの世に生まれてさとりの世界を開かれたというのではなく、さとりの世界から、私のために私の生きる娑婆世界に姿をあらわされた如来であったのです。
 阿弥陀さまによって願われ続けてきた私ではありますが、お釈迦さまがこの世におでましになられることによってしか気づくことができなかったのです。その道を示してくださった方がお釈迦さまなのです。
 それゆえ、「灌仏会(花まつり)」は、お釈迦さまの誕生をお祝いするというだけにとどまりません。お釈迦さまを敬いの思いを抱くとともに、お釈迦さまの言葉(お経)を深くいただかなければなりません。

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2011年4月 2日 (土)

いのちのあらん限りは

 感情の起伏があまりない・・・、そんな感じが続いています。
 心がとても落ち着いているのではなく、感性が鈍っているようです。

 でも、そんなときも、称名念仏です。
 いのちのあらん限りは、
 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、・・・

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