« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月30日 (月)

念仏あっての読経ボランティア

 東日本大震災の被災地で読経ボランティアがおこなわれているということをよく聞きます。浄土真宗の僧侶も避難所からの要請で、読経ボランティアをおこなっているという記事が『本願寺新報』2011年5月10日号に掲載されていました。その記事のなかで、「被災された方の深い悲しみに寄り添い、亡くなった方を悼み、いのちを見つめていく姿勢は真宗者が学ぶべき重要なこと」と、N師は述べておられます。
 
 近年の浄土真宗の説教・法話のなかで、またスローガン的に「いのちをみつめる」「つながる」「寄り添う」という言葉が盛んに使われいます。この言葉が悪いとは思いませんが、「いのち」とはどのいのちで、「つながる」「寄り添う」というのは誰と誰がつながることを言っているのか、私にはよくわかりません。
 前後の文脈から私が勝手に判断するなら、おそらく人と人とのつながりや、私と人との寄り添いを言っているのであろうと思われます。私は僧侶である前に人であり、目の前にいる人と同じ凡夫であることを自覚することなくつながり遇うことはなどできないと思っています。だから、人と人がつながり、私と人が寄り添うことはとても大切だということは言うまでもないことです。
 しかし「被災された方の深い悲しみに寄り添い、亡くなった方を悼み、いのちを見つめていく姿勢は真宗者が学ぶべき重要なこと」という発言をなさるのは、真宗者の鏡となられる方かもしれませんが、私の真宗観とはずいぶん違うなぁと感じるのです。

 私自身、震災に限らず、多くの人との死に出遇い、それらの家族の悲しみを見てきました。つい先ほどまで元気だった人が、いま遺体となっているという姿も見せられてきました。そんなとき、確かに悲しいし、締め付けられるような胸のつまりを感じもします。しかしどこかで、妙に冷めている自分自身を感じるのです。死が自分のことのように取り詰まることはないし、悲しさで息もできないしんどさに襲われるということもありません。亡くなった人、悲しみにくれる人たちと同じ時間、空間を共にしているにもかかわらず、寄り添い遂げることも悼み尽くすこともできない自分を発見するのです。
 「おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし」(『歎異抄』第四章)という言葉が、くり返し頭のなかをめぐるばかりです。ただただ、念仏申すしかありません。

 もうひとつ、親鸞聖人は佐貫という地で、人びとを救うために心を込めて浄土三部経を千回読もうとされたことがあったようです。しかし思い直してやめられます。念仏に何の不足があるのかと思い直して、千回読誦することを止められます。
 被災地の人たちの求めに応じ、読経ボランティアをされることを否定しているわけではなく、読経をとおして被災地の人たちの心に寄り添うことができるならそれは必要なことだと思っています。「読経ボランティア」を「念仏ボランティア」と言い換えた方が良いのでは・・・なんて、言葉あそびをしようというのではありませんが、どうして念仏がでてこないのか、私にはまったく理解できません。

 ふだんの仏法のお育てがなければ、念仏は口に出るものではないことは、常々感じています。しかしそういう環境や状況を経験したことのない人たちが多くおられても、読経の場は念仏の声が迸(ほとばし)るほど出る、あるいは出せる機会でもあると思うのです。そのことをきっかけにして深い悲しみに寄り添ってくださる阿弥陀さまがおられることを理解していただけるのではないでしょうか。阿弥陀さまのはたらき無くしていのちの見つめようは無いのです。
 その阿弥陀さまのはたらきを、私はどのようにいただいているのか。その一点こそが真宗者が学ぶべき重要なことだと、私は聞かせていただくのです。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2011年5月28日 (土)

学問は弥陀の本願にあらざるなり

 仏法を信ずる人もいれば信じない人もいます。信じるか否かは、仏法がまことであることとは無関係のようです。まことであることを謗る人が必ずいるとお釈迦さまもおっしゃっておられます。
 仏法が示していることは、どこかの誰かの話ではありません。私に向かって説き続けてくださっている教えです。にもかかわらず、その教えを他人事のように聞いていては、仏さまのこころが届きません。
 教えが普遍的であるか否かは、教えを聞くものにとってはそれほど重要なことではありません。むしろそんな学びや議論を一生続けても、知的に納得ができても、仏さまのこころを受け取ったかどうかは別次元の問題です。
 教えを聞くものにとって普遍的であるかどうかより、私にとって必要かどうかという聞き方をしているにすぎません。仏法が普遍的であることなどわかるはずはないのです。普遍的であることを理解しようとする聞き方は、自分自身の問題を横に置いて聞いているのです。

 学問をするというのは、阿弥陀さまのおこころを知り、広大無辺の誓願についてもよく理解することです。阿弥陀さまのこころは私に向かって説き続けてくださっています。広大無辺の誓願も、私のためにたてられたものです。阿弥陀さまは一切衆生を救いたい、救わずにはおかないと願い、はたらいてくださっています。しかし、ややもすると、一切衆生のなかに自分を抜かして聞いてしまっているのです。

 学問することで、阿弥陀さまのおこころを知らせてもらい、聖教に書かれている内容をより深く理解させてもらうこともできます。しかし、学問することが弥陀の願いにかなうことではありません。私が何かを知り、よりよきものを得ることで往生する道ではありません。
 何も知らなくとも、何もできなくとも阿弥陀さまははたらいてくださっています。本願のはたらきには善悪、浄穢さえも問題にはならないのです。

 学問することで往生できるといっておどかす人は、仏法の悪魔であり、仏さまに仇をなす敵でさえあると親鸞聖人はおっしゃるのです。また、そういう人は他力の信心が欠けているだけではなく、間違って他人を迷わそうとする人であるとも言われています。
 信前・信後にかかわらず、親鸞聖人は学びを深めてこられたに違いありません。しかし学問することは弥陀の本願ではないことを厳しくいましめておられます。
 『歎異抄』第十二章の末尾のお言葉「つつしんでおそるべし、先師(親鸞)の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを」は、学問する知的な満足に浸ってしまうわが身の目を覚まさせてくれます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月27日 (金)

諍論のところにはもろもろの煩悩おこる

  諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべき
  よしの証文候ふにこそ。

    (『歎異抄』第十二条)

 なかなか念仏の出ないわが身を気づかされ、どうして念仏が出ないのか・・・と思うことがありました。そんなことが思案を重ねたところでわかるものではありません。もともと自分自身の内に念仏するタネなどあろうはずはないのですから。それでも気になりますから、仏書を読みあさったり、むしょうに説教が聞きたくなったりします。
 でも、教えの要をピントを外さずに読んだり聞いたりするのは、なかなか難しいことです。どうしても自分の思いを中心に聞くことになってしまいがちですから。私がまことの教えを聞くのではなく、私が納得するように聞こうとしているのですから。しかし仏法のまことに妥協はありません。

 仏法を、私が納得するように聞くのだ・・・という感覚の人がずいぶん多くおられるようです。そしてそれぞれが納得したところを議論することになると、当然のことながら言い争うことがよく出てきます。それはそれぞれの立場から、それぞれに煩悩を起こしているのに過ぎません。それゆえ、ほんとうにかしこい人はそんな議論の場から離れるべきであると示されています。これは源空上人の「七箇条起請文」のなかにもほぼ同様の文章が見られます。そしてそこでは、「いはんや一向念仏の行人のおいてをや」と書かれています。

 まことというのは私が納得するか否かにかかわるものではありません。だからといって、納得しなければならない・・・ということで解決することでもありません。
 まことが示すことにうなずかずにはおれないのです。まことは阿弥陀さまのおこころです。阿弥陀さまのおこころは、自然(じねん)です。

 ここでテーマとなっている宗論は、本来勝ち負けを争うものではありませんし、そこには名誉も恥もありません。ただ、阿弥陀さまのおこころを知るためにあることを忘れてはなりません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月26日 (木)

我こそ,称名念仏を妨げる輩に成り下がっている

 生きるということは楽しいことうれしいことばかりではないけれど、それでも懸命に生きるのは、自分のために家族のためにと思い、またいつかきっといいことがあるに違いないと思うからにほかありません。ところが、そんな懸命なつもりの生活を振り返ってみると、何かよくわからないものに追われて明け暮れている日々だったなぁ・・・と反省することしきりです。その時その場で常に損得の計算がはたらき、その時その場で一喜一憂しながら過ごす時間が大半を占めていて、なかなか心静かにいることができないという気がしてなりません。
 何に追われているのか・・・とよくよく考えてみても、私を追いかけている具体的な事象を発見するのはたいへん難しい気がします。自分の思い通りにならない苦しみ、悩み、怒り、悲しみ、さらには不満や不安などの感情的なものに振り回されているのではないでしょうか。

 特に今の日本の状況は、経済的な停滞に加え、個人的あるいは社会的な今後の行く末の視界の悪さがあります。にもかかわらず、これまでと変わらない生活や生き方を求めるための不安は増幅するばかりです。もちろんそれらを払拭しようとがんばるのですが、なかなか報われません。根本的に事態が好転することなど待っていることはできませんから、せめて一時の癒しを求め、プチ幸福で十分だとさえ思うようになってしまいます。そんな人たちにとって、仏教は癒しの一つの手段です。
 そんな仏教の癒しの手段として、座禅(瞑想)、読経、写経、さらにはヨガ、寺院拝観や、寺院での宿泊体験などもあります。ところが、なかなか念仏を聞くことは口には出てきません。

 『歎異抄』第十二条には次のよう(意訳)に示されています。

 他の宗派の人たちがそろって「念仏はつまらない人のためのもので、その宗旨は教えが浅く、程度が低い」と言ったとしても、争わずに、「仏道修行もできず、自らさとる力もない愚かで、文字の読み書きもできない者は、疑わずに信ずれば救われるということを聞かせていただいたので信じるのです。仏道を修める能力が高い人にはまったくつまらないものであっても、私たちにとってはこれ以上の教えはありません。たとえ他の教えがすばらしい教えであっても、私にはその能力がおよばないものですから、修行することができません。私も他の人も生死の迷いの世界を離れることこそ、諸仏のほんとうの願いなのですから、念仏申すことをさまたげないでください」と憎らしい態度をとらなければ、だれも念仏の邪魔などしないでしょう。
   (『歎異抄』第十二条から意訳)

 親鸞聖人御在世の時は、他宗の人たちがそろって念仏について、つまらない、浅薄である、低級だと言っていたことがわかります。しかし多くの人が念仏を称えていたということでもあります。親鸞聖人は、しっかりと諸仏の願いを聞かれ、念仏申すしかないわが身に出遇われたのです。そして念仏することによって、わが不満や不安さえも引き受け、癒す必要のない抜苦与楽の世界に生きられたのです。
 いま、私たちは、外から念仏を称えることが妨げられているのではなく、私自身の思い、はからいによって、自らが念仏することを抑えているのではないでしょうか。
 思い上がり、傲慢になり、親鸞聖人の教えを聞かせてもらう者が、念仏することへの抵抗感を持ち、さげすんでいるのではないでしょうか。わが思いこそ、称名念仏を妨げる輩に成り下がっているとしか思えません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月22日 (日)

わが法を破謗するにあらずや

 「宗論はどちらか勝っても釈迦の負け」「宗論はどちらが負けても釈迦の恥」と聞いたことがあります。宗論というのは仏教の教義とその解釈について議論することです。同じ仏教でも宗派間の論争がありますし、同じ宗派間でも教えの解釈が違います。
 純粋に「宗論」をめぐっての論争だけではなく、微妙に歴史的正当性や血縁的正当性が絡んだり、さらにはその他の世俗的な問題も影響してきます。

 仏教には八万四千という多くの法門があり、どこからでも入ることができるようになっています。しかし八万四千の法門すべてを知り尽くすことができるのは仏か菩薩でしょう。一つの道をまともに歩むこともままならないのに、複数の道を比較してあれこれ言うことなどできないでしょう。
 仏教はそれぞれの機に応じてはたらく教え(法)ですから、私にはなくてはならない教えであっても、ある人にはまったく縁のない教えであることもあるのでしょう。もっとも、縁というのは理屈ではわかっても、具体的なところをすべてを見通すことのできない、人知の及ぶものではありません。凡夫の頭で判別しようとすることがしょせん無理なことです。

  当時、専修念仏のひとと聖道門のひと、法論をくはだてて、
  「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり」といふ
  ほどに、法敵も出できたり、謗法もおこる。これしかしながら、
  みづからわが法を破謗するにあらずや。

    (『歎異抄』第十二条)

 わが宗こそすぐれている、他人の宗旨は劣っているなどと言っているうちに、仏法に敵対する者がでてきて、仏法の悪口も出始めるというのです。日常生活でも、非難し合っている人たちを距離をもってみていると、あまりいい感じはしません。みにくくて、いい加減にやめてほしいとさえ思ってしまいます。
 私の歩む道の正しさは、わが身生き方でしか検証できないのではないでしょうか。正しい道を歩んでいても、それを自分の生き方にあらわれてこないことは多々あります。それは教えに問題があるのではなく、私がいかにその教えをいただいているかという“いただきよう”にあるのではないでしょうか。ここで、「凡夫だから致し方ない」などという居直りでは、決して解決しない問題です。
 ましてや他の宗教や宗派が劣っているなどと言うことそのことが、自分の仏法を破壊することになります。つまり、だれもそう言う人の言葉など信用・信頼することはありません。

 私のいただいている教えは、私一人の機に応じてはたらいてくださっている教えです。それが普遍性をもっているなら、私の我執のこもったひと言ではなく、私を動かす無量のはたらきが自ずと他人に伝えるものをにじみ出しているのではないでしょうか。それが無いのは、わが信心の中味を問うてみなければならない・・・ということを意味しているのではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月18日 (水)

先輩で友人からの電話

 昨夜、ずいぶんごぶさたしていた友人から電話をもらいました。彼は大学2年生のときに初めて知り合った先輩です。会ったときからとても引かれ合う不思議な関係の人物で、それからのつきあいはいつも友人でした。「生きる」という視点でたいへん刺激を受けた友人でした。また、全面的に私を受け入れてくれていた友人でもありました。
 その友人からもらった電話は、「あのな、おれ、胃がんの手術してん。この前、大腸がんの手術して、また胃がんの手術してん。ほんでな、きょう医者から肝臓に転移してるって言われてん。おれ、もうあかんわ。」というものでした。

私:「えらい弱々しい声やなぁ、しんどいんか?」
 聞かずにはおれませんでした。か細い声で、弱々しく、うまく聞き取れないところあります。
友人:「胃がんの手術してから、こんな声になってしもうたんや。みんなにそう言われる」
私:「そうなんや。○○さん、いまの気持ちはどうなん? 踏ん張れそうか?」
友人:「きょう、医者から話聞いてからちょっとアカンなぁ、こたえてるな」
私:「そうなんや、○○さんには、ないことやな。いま、私にできることなんかあるか?」
友人:「ほんで、電話してるんや。でも、電話してるだけでしんどいんや」
私:「あぁ、そうか。電話のほかに、何かできることあったら言うてや」
友人:「おおきに・・・。話を聞いて欲しいなぁ・・・」

 その後、しばらく話しを聞きました。でも十分でないことはわかっています。ずいぶん疲れた様子が声から伝わってきました。また、私の方から電話をすることを約束しました。体調がよかったら、もうちょっとじっくり話しを聞くことを約束しました。
 電話を切る前に、仏法を聞くことはできないか、と尋ねてみました。これまでも仏法について何度か話したことがありますが、彼の関心は仕事や人間関係にあり、彼の仏法は自分の関心の範囲のなかにしかありませんでした。
友人:「聞きたいと思う」
私:「○○さんの病気やことはお医者さんにまかさんことには、私にはどうしようもない。いま、私が思うことは、○○さんに仏法聞いてほしいと思うしかないんで、こんなこと言うてしもうた」
友人:「おおきに・・・。」
私:「無理強いする気はないんやで。でも調子がよくなったら、体力ができたら、仏法を聞けるよう、なんか録音したもん送るわ」
友人:「おおきに・・・」

 最初は電話を持つ手が震えましたが、徐々にとても冷静に友人の話しを聞いている自分に驚きました。今はそのことが、私のなかに残っているだけです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月15日 (日)

わが身を信じる、それとも名号にまかせる?

 私が小学校の低学年の頃だったでしょうか、曲がった腰で杖を突きながら数キロの道をたびたび歩いて父を訪ねてこられる篤信の男性老人Mさんがおられました。Mさんの風貌は、小さい私にはちょっと怖く感じたものでした。
 Mさんは山仕事と農業にあけくれておられたようですが、それ以外の時間は仏法を聞いて聞いてひたすら聞いてこられた方のようです。風呂敷にていねいに包まれた御文章箱からすり切れた『御文章』を座敷の机にひろげ、何時間も父と話し込んでおられましたことを鮮明に覚えています。

  一文不通にして、経釈の往く路もしらざらんひとの、
  となへやすからんための名号におはしますゆゑに、易行と
  いふ。学問をむねとするは聖道門なり、難行となづく。
  あやまつて学問して名聞・利養のおもひに住するひと、
  順次の往生、いかがあらんずらんといふ証文も候ふべ
  きや。

    (『歎異抄』第十二条)

 Mさんの学歴を知るものではありませんが、決して大学で学んではおられないと思います。たとえ文字も読めず書けないし、お経やその註釈の筋道も知らない人たちであっても、簡単に称えることができるように名号(南無阿弥陀仏)ができあがっているのです。
 Mさんは、学問して念仏を称える身となられたのではありません。念仏する身となったMさんが、阿弥陀さまのおこころをもっと知りたいと、読み慣れてきた『御文章』のなかに阿弥陀さまのまことのこころを深めたい、一点の不明な点さえも晴らしたいという思いであったのでしょう。

 学問することが悪いことではありません。他力真実について書かれている聖教はすべて、「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」としか書かれていないのです。それゆえ、他力真実の学問は、本願を信じ念仏を申す身とさせていただくためにするものです。そうでなければ意味はありません。「あやまつて学問して名聞・利養のおもひに住する」こと、つまり名誉や利益という欲望に流され、聞くべきことが聞けなくなってしまうことが問題なのです。

 名号を称えて阿弥陀さまにすべてをまかせる道は易行であり、自分の力を信じ学問を主とする道を聖道門であり、難行であると示されています。ここで注意しなければならないのは、聖道門や難行の道はダメだと言われているのではありません。この道を歩むことで仏になる人もおられるのでしょうから。ただ、親鸞聖人は易行の道を選ばれられました。比叡山での20年間、学問と修行を続けられましたが、わが身と教えの葛藤が続きました。それからの解放は、阿弥陀さまの大慈大悲に出遇うことしかなかったのです。

 それは親鸞聖人のことです。さて、それでは私自身はどうでしょう。わが身を信じ、学問を信じ続けるか、ただ阿弥陀さまの名号一つにわが心をまかせることができるか。それだけのことでしかありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月14日 (土)

聖教の本意をこころえざるは不便(ふびん)なり

  他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を
  信じ念仏を申さば仏に成る。そのほか、なにの学問かは
  往生の要なるべきや。まことに、このことわりに迷へらん
  ひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねを
  しるべきなり。経釈をよみ学すといへども、聖教の
  本意をこころえざる条、もつとも不便のことなり。

    (『歎異抄』第十二条)

 “浄土真宗というのはどのような教えか?”という問いに対して、“「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」教え”という簡潔な答えがあります。とても簡潔ですが、とても深く難解な答えでもあります。頭での理解はできても、疑いなく「本願を信じ」ることはやさしいことではありません。疑いの心のまま念仏したり、本願を信じることなしに念仏申すことはできます。形だけの念仏です。しかしこれとてそう簡単なことではありません。言われたから1~2回口に出すことはできるかもしれませんし、また仏壇の前だけなら形だけの称名念仏を数回・・・ということもあるかもしれません。
 しかしそれでは「仏に成る」ことはできません。本願を信じ念仏を申すというのは、念仏を申さずにはおれない本願のはたらきをわが身の上に知らされるということです。阿弥陀さまの本願のはたらきを受け取ることができた者は、受け取ったときの思いや感じを「南無阿弥陀仏」と口から出すことでしか阿弥陀さまに応えることはできないのです。阿弥陀さまのこころに触れ、阿弥陀さまのはたらきによって、阿弥陀さまと「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、・・・」とコミュニケーションができるのです。
 そのことが「仏に成る」ことではありませんが、間違いなく仏に成ることが約束された(正定聚不退)のです。念仏は本願をいただいたことの証(あかし)です。「本願を信じ」という言葉から、自身を納得させて念仏するようにも理解してしまうかもしれませんが、自分を納得させる信心なんてどこにもありません。「賜りもの」であり、「他力回向の信心」なのです。

 この世の苦楽、損得、善悪、好き嫌いなどの価値観に振り回され、自身の力を頼って生きる私たちにはとても難しい話でしょう。それを払拭するのが聴聞です。また、仏法を学ぶというのは、「賜りもの」や「他力回向の信心」の道理を知ることでしかありません。お聖教を読むのも、その正しい趣旨を了解するためにほかなりません。それができないのは不便(ふびん)、つまりとてもあわれだと、親鸞聖人はおっしゃっているのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月12日 (木)

本願を信じ念仏を申さば仏に成る

 寺に生まれ、篤信の家族やお同行、さらには多くの善知識に育てられることによって、何もなければ仏法など聞くことなどあり得なかった私が、手を合わせ、口に念仏し、仏徳讃談させていただくようになってきました。それは私の気づくことすらできない無数の縁がはたらいてくださったことにより、今日に至ったことも教えられました。そして必要に迫られなければ読むことがなかったお聖経(教)を、手探り状態ではありますが、少しずつ読ませていただくこともできるようになりました。
 人生のさまざまな学びや経験を通して、知識や技術を身につけ思いをめぐらし、自分を振り返ったり、気持ちが変わったり、視野が広がったり、社会に対する認識が変化したり、・・・等々をくり返してきました。ある意味で成長しているのでしょうが、ある意味では後退したところももあるような気がします。ずいぶん変わったのは表面的なところだけで、仏法の教えに照らされてみると、私の根の部分というか、本質的なところは何も変わらずにいることを知らされます。
 ありのままの私は、そのままでは決して人の前にさらすことができない傍若無人さです。それを隠すために格好をつけてはみるのですが、7~8割は見透かされているのでしょうね。今となっては、隠しようもないと居直るしかありません。それでも格好つけ続けているのです。

 書き始めたら、どこへ船が着くのやら、わからないところに行ってしまいました。『歎異抄』第十二章の冒頭を読みます。

  経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。
  この条、すこぶる不足言の義といひつべし。
   他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を
  信じ念仏を申さば仏に成る。

    (『歎異抄』第十二条)

 「お経やその注釈を読んで学ばない人たちは、往生することが定まっていないということ。これはまったく言うに足らない理屈であると言ってよいでしょう」とおっしゃっています。
 知らないことを学ぶことによって、人生の問題の多くを解決することができるでしょう。しかし、自分の往生については、お経や注釈の学びによって解決できるものではありません。
 はっきりと「他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る」と示されています。つまり、他力真実を明らかにしている諸々のお経や注釈は、阿弥陀さまの本願を信じ、念仏を称えるなら、仏となることができるとしか説かれていないのです。そのこと一つを疑う心がなくなるまで聞くのが仏法を聞くということです。
 たったそれだけのことが仏法を聞くことなの・・・?と、軽くあしらってしまい、それ以降、仏法を無視してしまいます。心の内に何か引っかかるものがあれば、それが間違いのないものかお経の御文によって、またわかりやすく書かれた注釈書、解説書を読んで確かめてみようと思います。
 これもまた、仏法をわが思いを軸にして聞こうとする思いです。「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」というのは、阿弥陀さまの誓願です。お釈迦さまも法然聖人も親鸞聖人も蓮如上人も、さらにはこれまで仏法を聞いてこられた多くのお同行たちが歩まれた道でもあります。
 それを知っていても、どこまでもわが思いに頼り、自分を信じ、自分こそ間違いがないと思い上がり続けているのです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年5月11日 (水)

往生の業には、わたくしのはからひはあるまじく候ふ

 念仏するのは「誓願不思議」によるのか「名号不思議」によるのか・・・という話しを、私はあまり聞いたことがありません。誓願、名号は一体なのですから、どちらか一つを選ぶということに意味はありません。しかし私たちの日常生活のなかでは、それ以前の念仏が称えることがほとんどなくなってしまっている現状からすれば、こんな問題が出る余地がないということでしょう。親鸞聖人ご存命の頃は、この『歎異抄』第十一章で語られていますし、親鸞聖人ご自身が、この問題について以下のような手紙を書いておられますから、大きな問題であったのでしょう。

  御文くはしくうけたまはり候ひぬ。さてはこの御不審しかるべしともおぼえ
  ず候ふ。そのゆゑは、誓願・名号と申してかはりたること候はず。誓願を
  はなれたる名号も候はず、名号をはなれたる誓願も候はず候ふ。かく申し
  候ふも、はからひにて候ふなり。ただ誓願を不思議と信じ、また名号を
  不思議と一念信じとなへつるうへは、なんでふわがはからひをいたすべき。
  ききわけ、しりわくるなど、わづらはしくは仰せられ候ふやらん。これみな
  ひがごとにて候ふなり。ただ不思議と信じつるうへは、とかく御はからひ
  あるべからず候ふ。往生の業には、わたくしのはからひはあるまじく候ふなり。
  あなかしこ、あなかしこ。
  ただ如来にまかせまゐらせおはしますべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。
  [端書にいはく]
  この文をもつて、ひとびとにもみせまゐらせさせたまふべく候ふ。他力に
  は義なきを義とすとは申し候ふなり。
    (『親鸞聖人御消息』註釈版p.781)

 「誓願をはなれたる名号も候はず、名号をはなれたる誓願も候はず候ふ。かく申し候ふも、はからひにて候ふなり」とおっしゃっています。最後も「往生の業には、わたくしのはからひはあるまじく候ふなり」「ただ如来にまかせまゐらせおはしますべく候ふ」と締めくくられています。
 このように示されたことを、またあれこれと思案してはからうのが我が姿です。どうすればいいの?という思いになりますが、致し方ありません。どうすることもできません。どこまでいっても我執、はからいを離れることはできないのが凡夫です。
 その我(われ)を、すっかりそのまま抱きとらずにはおれないというのが本願他力の世界です。わが思いにこだわりとは無関係にはたらく願いでもあります。

 この手紙の最後には端書きが添えられており、「他力には義なきを義とす」と記されています。仏法を聞く者のはからいをまじえないことが、そのまま阿弥陀さまのはからいであるとおっしゃっています。まことを聞くのに、私の思いはからいなどどこにも入る余地はないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月10日 (火)

誓願不思議、名号不思議、ただひとつなるべし

 人間が幸せを感じるのは、自分の思いを実現できたときではないでしょうか。そのためには、志を高くもって、自分を鍛え、能力を高め、自立して生きることだと、多くの人が思っているのではないでしょうか。もちろん、そのように生きることができるか否かは別にしてですが。
 一方、善は往生浄土の助けとなり、悪はその妨げとなるという思いも、私たちの頭から離れません。それは、わが力によってよりよく生きるという考えや行為の延長線上にあるのではないでしょうか。少なくとも、往生浄土はよいことであると思っているから、そのための因としての善は必須だと思っているのです。

  不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて
  申すところの念仏をも自行になすなり。このひとは、名号の
  不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢・
  疑城胎宮にも往生して、果遂の願(第二十願)のゆゑに、
  つひに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなはち、
  誓願不思議のゆゑなれば、ただひとつなるべし。

    (『歎異抄』第十一章)

 東京・首都圏で、念仏の声を聞くことはほとんどありません。それはかつて日常生活のなかに念仏があった地域社会でも聞けなくなっています。南無阿弥陀仏と口からこぼれ出るように称える人には滅多に会うことはできなくなってしまいました。
 それは自分のがんばりで、これまで以上に豊かな暮らしができるようになってきたのですから、わが力を頼るほど確かなことはないと、多くの人は思っているのでしょう。仏法の不思議と聞くと、まったく根拠もなく、現世における自分への利益(りやく)を願うだけです。その願いはエゴでしかありません。真実でもないし、末通るものでもありません。

 浄土に生まれたい。しかし誓願を疑い自力によって往生浄土を果たそうとする人は、名号の不思議をも信じることはできません。しかし辺地・懈慢・疑城・胎宮に生まれれるといいます。これらの世界に生まれることを「化土の往生」と言われます。辺地は浄土の中心からはるか彼方のはずれです。懈慢は懈怠と驕慢のことで、さとりの世界に至ったと思い込み、精進することを忘れ、いい気になりきってしまった人の世界であり、自己のはからいが多く、阿弥陀さまの誓願を信ずることができない人の世界です。疑城は疑いの城であり、胎宮は母の胎内に生まれ出ることのできない世界です。つまりせっかく浄土に生まれながら、だれにも壊すことのできない殻のなかに生まれるようなものです。

 しかしそんな自力の者でさえ、名号不思議の力によって、真実報土に生まれることができるのです。それは誓願不思議と一体なのです。
 わが思いの及ばぬ阿弥陀さまの誓願によって生み出された名号(南無阿弥陀仏)こそが、わが思いを超えて私のところではたらいてくださっているのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月 9日 (月)

みずからのはからひまじわらざるがゆゑに本願に相応す

 誓願も不思議、名号も不思議です。「不思議」とは、私の頭で考えてもわからないということです。しかしそれはわけがわからないとか、理屈に合わないとか、説明のつけようがないとか・・・いうような、世間で使われる不思議のことではありません。
 「不思議」というのは、道理に添っているということであり、ちゃんと筋の通った理屈があるということです。たとえば、私は縁によって生まれることができましたし、いまきょうもまた生命をながらえることができました。それは無数の縁に恵まれているということです。このことは、だれもがなんとなくわかることですが、その全貌をとらえることなどできようはずはありません。
 ていねいに話を聞くとなんとなくわかったような気になりますが、すべてがわかることはできません。進んだ科学を駆使したところで全貌をとらえきることはできません。それは理解することができない無限のはたらきや、見通すことも考え尽くすこともできない無限の広がりがあるからです。誓願の不思議、名号の不思議というのは、そういう無限の世界から私への願いであり、呼びかけであり、はたらきなのです。

 それを自分の思いによって信じるというのは無理な話です。わが力で仏法の不思議を信じることなどできようはずはありません。無理に信じ込もうとすれば、思い込むしかありません。そこには目覚めも気づきもありません。仏教が、思い込む宗教や思い込ませられる宗教と一線を画しているというのは明らかなことです。
 そういうことをどれだけ聞かされても、まことの信心をいただいて初めて、わが力で獲る信心ではなかったことを知るのです。それがめざめであり、気づきでしょう。そういう説明や解説を聞いて頭で理解することとは、まったく次元の違う話です。

 「念仏の申さるるも如来の御はからひ」であり、「すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆゑに、本願に相応して、実報土に往生する」(『歎異抄』第十一章)のです。
 自らのはからいが混じればそれは本願とはほど遠いものとなってしまいます。本願は私の思いが寸分も混じってはいないのです。混じらないからわからない。だから不思議であり、不可思議なのです。
 阿弥陀さまの誓願があり、その誓願は名号となったのです。つまり誓願と名号は別々のものではありません。阿弥陀さまの願いを聞かせていただくということは、南無阿弥陀仏(名号)のおこころをいただくということでもあるのです。南無阿弥陀仏を称えさせていただくということは、阿弥陀さまの誓願のなかに生かさせていただくということでもあるのです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2011年5月 8日 (日)

やすくたもち、となへやすき名号

 道理を聞かせていただくのが仏法です。仏法の道理とは「仏願の生起本末」です。仏さまの願いがなぜできたのか、願いを起こさねばならなかった原因はどこにあるのか、仏さまの願いは単に願いで終わったわけではありません。願いは成就したのです。どのように成就し、成就して後、仏願はどうなったのか。さらにはそれらのことは、私にとってどのような関係があるのか・・・等々、聞くべきことは尽きることはありません。
 そこではずしてはならないことは、仏願というのは阿弥陀さまご自身のための願いではないということです。凡夫である私のためです。こういう言い方に抵抗を持つ人もおられるかもしれませんが、「仏願は、私のためにたてられ、私のために成就された願い」なのです。

  誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を
  案じいだしたまひて、この名字をとなへんものをむかへ
  とらんと御約束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の
  不思議にたすけられまゐらせて、生死を出づべしと信じて、
  念仏の申さるるも如来の御はからひなりとおもへば、
  すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆゑに、
  本願に相応して、実報土に往生するなり。これは誓願の
  不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も
  具足して、誓願・名号の不思議ひとつにして、さらに
  異なることなきなり。

    (『歎異抄』第十一章)

 凡夫を必ず救うためには、救いの願いが途切れてはなりません。いつでも、どこでも、どんな状況の時でも願い続けることが必要です。だから、「たもち易く」「称え易い」、南無阿弥陀仏(名号)が案じだされたのです。南無阿弥陀仏を称える者を仏の世界に迎えとるというのは阿弥陀さまの約束です。阿弥陀さまの心です。阿弥陀さまのはからいなのです。
 私たちがせいぜい持ちやすく、便利に使えると思っているのは携帯電話でしょう。しかし持ち忘れることもありますし、いつも電池切れを気にしなければなりません。故障もありますし、何年かに一度は買い換えなければなりません。けっこう高い使用料にため息をつかねばなりません。持ちやすく、便利な携帯電話にほんろうされることしばしばです。

 南無阿弥陀仏(名号)が「たもち易く」なく、「称え易い」とは言えない・・・というのは、その名号に問題があるのではありません。私の側に問題があるのです。その問題を、一つ一つ解き明かせることができたとき、南無阿弥陀仏と称えることができる・・・というのでは間に合いません。
 考えてもよくわからない・・・ですか? 考えてもわからないかもしれません。誓願は不思議であり、名号も不思議ですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月 7日 (土)

念仏申すは、誓願不思議を信じて?それとも名号不思議を信じて?

 ちょっと休みが続いてしまいました。気分を新たにして・・・

 『歎異抄』は第11章から後半に入ります。

  一文不通のともがらの念仏申すにあうて、「なんぢは誓願
  不思議を信じて念仏申すか、また名号不思議を信ずるか」
  といひおどろかして、ふたつの不思議を子細をも分明に
  いひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと。この条、
  かへすがへすもこころをとどめて、おもひわくべきこと
  なり。
    (『歎異抄』第十一章)

 「一文不通のともがら」は、文字を読むことも書くこともできない人たちのことです。しかしただ無知無教養で愚かな者だというだけではありません。あれこれはからうことなくただただ念仏する人でもあるのでしょう。そんな人に対して、「誓願不思議」を信じて念仏しているのか、それとも「名号不思議」を信じているのかと問うて人の心を惑わす者がいるというのです。
 「誓願不思議」は、『歎異抄』第一章の冒頭に出てきました。阿弥陀さまが必ず凡夫を救うという願いです。「名号不思議」は名号(=南無阿弥陀仏)が持っている力の不思議です。誓願も名号も、阿弥陀さまのはたらきですから、凡夫の認識や理解を超えています。だから凡夫のはからいは一切必要ない。ただ念仏するだけ・・・と教えられます。ただ念仏するだけなのですが、言われるからそれを鵜呑みにするというのではなく、道理を聞かせてもらわなければなりません。

 私は最近、お聖教に目を通させていただくことが多くなり、また教義、教学に関する本も読む機会をいただいています。緻密に議論をされていることに気づきますし、何気なく聞いていた法話や説教の背景に道理による論理的なしくみやはたらきがあることを教えられます。ただ情緒や感性だけの世界でないことを知らされます。
 だからといって、お聖教の御文や、教義や教学を知らなければならないのかというとそうではありません。阿弥陀さまがはたらきは私の思いや行為がどのようなものであるのかということを問うておられません。阿弥陀さまのはたらきが人を惑わすようなことがあってはなりません。
 人を惑わそうなどとは思っていなくとも、教義や教学の学びが言葉や知識のレベルで止まってしまうなら、我が身さえをも惑わすことになってしまわないとも限りません。まずは、はからうことなく聞かせていただくほかはないのです。

 「はからうことなく聞かせていただく」。これまで何度もくり返し聞かせていただいた言葉です。それが難しい。意識しなければ意識しないところではからうし、意識すれば意識したところではからう。
 はからうから凡夫、はからうから私なのです。そのはからいめがけての阿弥陀さまの喚び声であるのです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »