« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »

2011年6月29日 (水)

辺地の生をうけんこと、もつともなげきおもひたまふべきこと

  口には願力をたのみたてまつるといひて、こころにはさこそ
  悪人をたすけんといふ願、不思議にましますといふとも、
  さすがよからんものをこそたすけたまはんずれとおもふほどに、
  願力を疑ひ、他力をたのみまゐらするこころかけて、辺地の
  生をうけんこと、もつともなげきおもひたまふべきことなり。

    (『歎異抄』第十六条)
 生きてゆくための言動一つ一つの悪に対して回心することが必要だと言う人は、口では「阿弥陀さまの本願力にすべてをまかせます」とは言ってみたところで、心の底では「悪人を助けるという本願がどれほど不思議であると言っても、やはり善人を助けるのだろう」と本願を疑い、他力をたのむ心が欠けている。それゆえ辺地に生まれることになるこのことこそ、もっとも嘆かわしいことだと思わなければならない。

 仏法を説く人はたくさんおられます。でもつかみどころがありません。わかったようでわかりません。「ここ!」という核心部分がはっきりしないからでしょう。
 仏法の核心は、阿弥陀さまの本願を聞くことです。その本願を説く人もたくさんおられます。でもどこか話のピントがずれていたり、浮いた感じの話が少なくはありません。どこかで誰かが話していた話、何度か読んだ話の焼き直しなのでしょう。本願を説く人は、本願を聞いた人でないと、本願を人に届けることはできないでしょう。阿弥陀さまのお慈悲をしっかりといただかなければ、借りものでは、伝えられないということは誰が考えてもわかることです。

 そのためには、本願を説く人も聞法者であり、いかに仏法を聞いてきたのか、そしていま、仏法をどのように聞いているのか、阿弥陀さまの本願をどのようにいただいているのかをはっきりさせることが大切なことです。
 説く者がどのように仏法を聞いていたとしても、阿弥陀さまの本願に間違いはありませんし、摂取不捨のはたらきに変わりはありません。問題は、その願いとはたらきにこの身すべてをまかせることができるか否かという一点についての確かめです。

 そこがはっきりせず、まかせきることができないまま自分に頼り、この世に頼り続けていることこそ、本願を疑っている姿です。他力をたのむこころが欠けていることです。それは阿弥陀さまの浄土に生まれることができないということです。
 それらの人は辺地に生まれると説かれています。本願を疑って、自力で念仏する者が生まれるという仮の浄土です。迷い続けるより、浄土の片辺である辺地に生まれるのならそれで結構だという人もおられるようです。しかしそれも、あまりにも阿弥陀さまをバカにしています。必ず弥陀の浄土に迎えとるという阿弥陀さまのおこころがまったく聞けていません。
 ここで筆者は、「もつともなげきおもひたまふべきことなり」(もっとも嘆かわしいことだとおもわねばならない)ということばとなって、阿弥陀さまの思いが表現されています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月28日 (火)

ひとのいのちは、出づる息、入るほどをまたず

  一切の事に、あしたゆふべに回心して、往生をとげ候ふ
  べくは、ひとのいのちは、出づる息、入るほどをまたずして
  をはることなれば、回心もせず、柔和忍辱のおもひにも
  住せざらんさきにいのち尽き〔な〕ば、摂取不捨の誓願は
  むなしくならせおはしますべきにや。

    (『歎異抄』第十六条)

 回心は、自力のこころをひるがえし、他力をたのむことであり、ただ一度だけのものであることがはっきりしました。「ただ一度だけ」ということは、わが身のうえに「自力のこころをひるがえし、他力をたのむ」ということが起こると言うことです。ことばを換えるなら、阿弥陀様の願いがわが身に届いたということです。ともに一味の安心をいただいたということです。

 ところがこの世を生きるためのすべてのことに対して、そのたびごとに回心して往生を遂げると主張する人がいるようです。欲を起こし、そのことを振り返っては回心する。腹をたて、そのころを反省しては回心する。悪口をいい、ウソをつくたびに回心して往生するというのでしょうか。
 これまで限りない阿弥陀さまの願いに恵まれてきたのに、縁なくて、迷い続けてきた。それが今、ようやく人間に生まれ、今、たまたま仏法に心揺さぶられることになったのです。しかしそれもつかの間のことで、私が吐いた息を、次に吸うことができないまま終わってしまうかもしれないというのが人生です。いつまでものこのまま生き続けることができるように思ってしまっていますが、次の回心をしようとしているのにできないまま人間としてのいのちを終わってしまえば、穏やかで何にも動ずることのない心になることはありません。それは一切の衆生を救うという阿弥陀さまの願いをいただくこともできずに、むなしく人生を終わってゆくということになるのです。

 この世で立派に生きることも大切なことです。しかし滅多に生まれることのない人間にうまれさせていただいたということは、ここに示されたように、仏法を聞くことができる境涯にこの身を置いているということです。そして今、もう迷うことはないとない、もう迷う身にはさせないという願いを聞かせていただいているのです。さらに「まかせよ」というはたらきをいただいているのです。
 それでもむなしく人生をおわってゆくということになれば、これほどの罪はあるでしょうか。「唯除五逆、誹謗正法」とはこのことを言うのではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月27日 (月)

回心といふこと、ただひとたびあるべし

 「もとのこころをひきかへて、本願をたのみまゐらするをこそ、回心とは申し候へ」の「もとのこころをひきかへて」は、『歎異抄』第三条にあった「自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり」(註釈版pp.833-834)の「自力のこころをひるがへし」と同じ意味です。
 つまり、自力のこころを捨てて、本願をたのむことが回心です。それは往生浄土を遂げることでもあります

 これはよりよき人間になるということではありません。それぞれ生き方をすればよいのです。それでも、悪を断じて、善を修めるようという殊勝な気持ちを何度も起こし、ふだんの自分の言動を反省しつつ、より善き人間になってゆこうと努力することは悪いことではありません。そのうち、人に感謝されたりほめられたりすることで気分もよくなり、ますますよりよき人間となることをめざすかもしれません。
 ところがそんな自分の気持ちと裏腹に、実際の自分の日常生活は身口意の三業によって十悪五逆をくり返すのみです。よりよき人間となることを何度も誓い、実践することを心に決めた思いも、自分自身のありのままの姿を見ることになれば、十悪五逆から離れることができない自分であることに気づくでしょう。それでもよりよき人間になろうと思い直すのです。
 そんなことのくり返しが人生ではないでしょうか。しかしそのようなくり返しがどれほどあろうと、人間生まれてきたことをよろこぶことはできません。

 ここでは「一向専修のひとにおいては、回心といふこと、ただひとたびあるべし」とおっしゃっています。回心というのは何度もあるものではなく、人生のなかで1回きりのことであるというのです。一生の間に二度と起こることのないような心の転換が回心です。
 自力のこころを捨てて、本願をたのむということは、ことばの上ではよく耳にし、スーッと聞き流してしまいますが、一生の間に二度とない大仕事であると言われれば、たいへんな体験であることがわかります。とても私一人の力でできることではありません。

 そんな人生のなかでの大仕事ですから、人生をかけることすらあるのです。正信偈には「信楽受持すること、はなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし」(註釈版p.204)としめされています。回心(=信楽受持)することはとても難しく、いろんな難しいことの中でもこれに過ぎたる難しいことはないのだと言われています。
 それをいともたやすくいただけるのが他力の信です。肩肘張ることも、身構えることも、覚悟を決めて勝負する必要もありません。自力にしがみついている手の力が、いつの間にか抜けてしまった・・・。そんなところに回心はあるのです。それもこれも、すべて阿弥陀さまの一人働きです。すべて回心のあとにうなづける世界です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月26日 (日)

もとのこころをひきかへて

  信心の行者、自然にはらをもたて、あしざまなることをも
  をかし、同朋同侶にもあひて口論をもしては、かならず
  回心すべしといふこと。この条、断悪修善のここちか。
    (『歎異抄』第十六条)

 本願を信じ念仏を申す人は、偶然に「はらをもたて」(=意業)、「あしざまあることをもをかし」(=身業)、「口論をも」(=口業)する場合には、必ず回心(えしん)すべし、という異議が示されています。このことを著者は、「断悪修善」、つまり自力・聖道門の考えなのか、としてしています。

  一向専修のひとにおいては、回心といふこと、ただひとたび
  あるべし。その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、
  弥陀の智慧をたまはりて、日ごろのこころにては往生かなふ
  べからずとおもひて、もとのこころをひきかへて、本願を
  たのみまゐらするをこそ、回心とは申し候へ。
    (『歎異抄』第十六条)

 回心(えしん)ということばは、私たちの日常生活では使いませんので、なかなか真意を解することができません。回心とは「こころの転換」のことです。親鸞聖人は『唯信鈔文意』のなかで「『回心』といふは自力の心をひるがへし、すつるをいふなり」(註釈版p.707)と著しておられます。自力の心をひるがえし(転換して)、自力を捨てることだというのです。
 そのことを筆者は、日ごろ本願の他力、まことの教えを知らない人が、日常生活をしている心では往生することはできないと思って、それまでの心を転換して、阿弥陀さまの本願をお頼み申すことだと言い換えているのです。
 これが難しいところです。普通考えれば、日常生活が私のホームグランドであり、そこを離れることはできません。たとえば冠婚葬祭のような特別な時間を過ごすことがあり、気持ちも特別なものになることがあります。しかしそんな時間をいつまでも過ごしていては日常生活に支障をきたします。文句を言いながらも、追い立てられるように思っても、やはり日常生活に戻ることで、自分のペースを取り戻したような気になってしまいます。

 ホッとできる時間と空間が日常生活。そうとしか思えない生き方が、凡夫の迷いです。日常生活こそ、身口意の三業にかかりはてるとともに、無常を教えてくれる時間と空間であるのです。その日常生活に身を置くからこそ、そこからの心の転換が必要だと教えてくださるのが仏法です。
 そんな日常生活に気づき、自分を振り返って己を恥じ、悪を断って、少しでも善いことができないものか、と思うことがあります。しかしすぐ忘れ、また反省して、善いことをしなければと思うのです。これまでになんどそんな思いをくり返してきたことか。
 そんなことを何度くり返しても、行き着くのは、身口意の三業にかかりはてた無常のわが身へのとらわれのところでしかないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月23日 (木)

ホントに傾聴できてます?

 傾聴ボランティアという言葉をよく聞くようになりました。とくに東日本大震災の被災地で、傾聴ボランティアがなされているようです。
 しかし傾聴ボランティアは、ただ漫然と人の話を聞くとか、こちらがしゃべらずに黙って聞くだけととらえられている節がなきにしもあらずです。

 某宗派が行っている傾聴ボランティアの責任者は、あるところで「こちらからは聞かず、相手が語り出すのを待つ」「傾聴ボランティアとして滞在していることは告げるが、実際の活動は“そこに居るだけ”というのが基本」「優先されるのは信頼関係の構築」「ひとりの人間として被災者の苦しみや心の痛みに寄り添い、その心理的負担を軽減させることが重要」などと述べておられます。このようなことが傾聴ボランティアなら、「お話相手ボランティア」とどこが違うのかと思っています。
 傾聴というのはたいへん広い意味で使われるようになっていますが、ただ聞けばよいというものではありません。もちろん信頼関係が優先されることも、苦しみや心の痛みに寄り添うことを否定するものでもありません。しかし私は傾聴でもっとも必要なことは、聞いたことをどのように聞いたのかを、相手に伝えなければならないと思っています。
 信頼関係というのは、思いをしっかり受け止めてくれることを感じたときに生まれるものではないでしょうか。寄り添うというのも、相互に思いが理解できて初めて成立するのではないでしょうか。

 そのためには、聞いたことをきちんと返して、相手が「そのとおりです」という思いをもつことが必要です。それができたとき、初めて傾聴と言えるのです。
 まずは「オウム返し」でいいでしょう。でもこれがなかなかできません。しかし訓練することにより、少しずつできるようになります。それができれば、話しの内容を伝え返すことです。相手が使っていない自分の言葉を使うことも、その内容が変わらなければOKです。さらに、相手の気持ちを、聞けた範囲で伝え返すことです。これも自分の言葉を使っても、大胆に言い換えてもOKです。いずれも相手の話を正しく聞き、それを伝え返すことです。

 一番大切なことは、傾聴ボランティアである人が上手に聞くことができたか否かではなく、話した人が正確に話しを聞いてくれたという思いをもつことが大切なことです。できれば話した人の気持ちを正確に受け止めてもらえたら満足度は高くなります。

 カウンセリングは難しくてとてもできないけれど、傾聴ならできる・・・というのは甘すぎます。それならいっそう「お話相手ボランティア」という方が、看板に偽りはありません。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年6月22日 (水)

法座の席でリーダーシップをとる人も聞法者

 法座の席でいつもリーダーシップをとってきたAさんを、最近、法座の席ですっかりみかけなくなってしまいました。彼を慕う人もたくさんおられるのに、どうして法座の席に出なくなったのかわかりません。

 彼はカウンセリングを学んだと言います。しかしほんとうに同座している人たちの言葉を通して、きめ細やかにその人たちの思いを聞くことができていたのかというと、そうではなかったのかなぁ・・・と思います。彼のリーダーシップは、聞法の先輩として少し上から目線で見ていて、後輩たちを導こうと思っていたのかなと、いまになって感じています。
 先輩が後輩を導くのは悪いことではありません。むしろ、今の時代、そういうことに無頓着になってしまっている傾向がなきにしもあらずだと思っていますから、大いに歓迎すべきことでしょう。しかし法座の席でリーダーシップをとる人も聞法者です。
 リーダーシップというのは偉い人、できる人、先輩、経験を積んだ人、理解の深い人・・・が、そうでない人たちを引っ張ってゆくだけではありません。引っ張ってゆくという気持ちがなくともリーダーシップをとるようになると、上に立ったような誤解をしてしまうことはよくあることです。
 法座の席でリーダーシップをとる人は、同席する人たちの言葉に真摯にうなづくことが必要でしょう。うなづけなかったらうなづくことができるまで思いを聞き遂げる関係をつくらなければなりません。そういうことができる自分もできない自分をも感じながら、私のものがらをみて、そのうえで、ともに阿弥陀さまの願いを聞かせていただくのが聞法です。

 教職にあり、同時に寺の住職でもあった父は、よく「学校では黒板を背にして、門信徒の家では床柱を背にして、いつも上から下に向けて話をするようになってしまうことを、とても大きな問題だと感じている」と言っていました。父の場合、その問題の解決の一つの方法が、カウンセリングを法座のなかに導入するという試みだったのだと思います。
 それは短時間のなかで、決められたテーマについてみんながひと言ふた言しゃべり、おおよそ予想できそうなまとめができあがる「話し合い法座」ではありません。みんなと共に仏法を語り合う・・・というようなことを言いながら、決して本音の出てこない法座でもありません。決して強要されることもなく、生身の自分が吐露されることを、みんなが謙虚に聞きあう場です。沈黙が続くことも許されるし、泣き叫ぶことも許容される場です。

 ただそこでリーダーシップをとる者が、誰よりも同座している人たちの言葉に耳を傾けるとともに、すべての同座している人たちへの気配りをしているということです。それを失ってしまうと、リーダーシップをとるそのことだけが快感となってしまうのではないでしょうか。

 ふたたびAさんとともに、心を通わせあいながらの聞法をしたいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月21日 (火)

本願ぼこりをいましめる人も煩悩・不浄具足

  おほよそ悪業煩悩を断じ尽してのち、本願を信ぜんのみぞ、
  願にほこるおもひもなくてよかるべきに、煩悩を断じなば、
  すなはち仏に成り、仏のためには、五劫思惟の願、その詮
  なくやましまさん。本願ぼこりといましめらるるひとびとも、
  煩悩・不浄具足せられてこそ候うげなれ。それは願に
  ほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりといふ、
  いかなる悪かほこらぬにて候ふべきぞや。かへりて、こころ
  をさなきことか。
    (『歎異抄』第十三条)

 凡夫とは煩悩を持つ人です。煩悩を持たない人は仏です。煩悩を無くした凡夫などあり得ません。つまり人間としてこの世を生きる限り、罪悪深重、煩悩熾盛の迷いの凡夫なのです。苦悩の世界を生きてゆかねばなりません。それゆえ阿弥陀さまの本願ができあがったのです。本願に遇うことによって、むなしく過ぎることのない人生に目覚めることができるのです。
 自分で悪業煩悩を断じることができるなら本願を誇る必要はありませんし、衆生を救うための五劫思惟も本願も意味がないということになります。

 いまの世のなかの人たちは、罪悪の身のまま、煩悩を抱えたまま救われてゆくということがいちばん納得のいかないところかもしれません。
 「がんばれ、頑張れ」とあおられ、懸命にがんばってみるけれどそれが必ずしも報われないことがあります。懸命にがんばって、報われたところでそれがいつまでも続くわけではありません。失敗があったり、挫折したり、落ち込んだりすることもあります。なんとか気を取り直して頑張ってみるのです。しかしその頑張りだけのためだけに人間に生まれてきたのでしょうか。
 そして人生の最後は、頑張ることができなかったからむなしい人生だったとあきらめなければらなないのでしょうか。頑張ったところで病や老いを迎えたとき、過去の頑張りを振り返って満足するのでしょうか。どんな人生を送っても、人生のどの場面でも、この世に生を受けたものとして、人間に生まれたことによろこびを感じ、いつまでも満足しきることのできる人生を送ることができるでしょうか。

 本願に甘えおごっているといましめる人も、煩悩そなえ、不浄なる身です。その人も本願に甘えおごっているひとです。どんな悪が本願ぼこりで、どんな悪が本願にほこらないというのでしょう。このように筆者は問いかけています。
 阿弥陀さまの目から見れば、それぞれの思いや行為の違いによって悪であるか否かということなどありません。どちらも同じ凡夫なのです。阿弥陀さまのおこころを聞かせてもらえれば、凡夫の身が往生できるできないと沙汰することがおかしなことです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月20日 (月)

賢善精進の相を外にしめして、内には虚仮をいだけるものか

 悪を犯した者を助けようとする本願なのだから、わざと悪を犯しそれを往生のための行いとすることに対し、親鸞聖人は「薬あればとて、毒をこのむべからず」とおっしゃって、邪執を戒めておられます。
 悪が往生のさまたげになるものではないし、戒律を守り犯さないようにした人だけが本願を信じることができるなら、私たちはどうして迷い苦しみの尽きない生活を離れることができるでしょうか。こんな愚かな身であっても阿弥陀さまの本願に出遇わせていただいてこそ、ほんとうに本願を誇り甘えることができるのです。だからといって、身の悪事を犯す条件が備わらなければ、自分勝手に悪事など犯せるものではありません。

 「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(『歎異抄』第十三条)なのです。それにもかかわらず、殊勝に後生を願っているように見えるものだけが念仏するように思っていたり、何々の諸行をした者は道場に入れないという制限も設けている者もいるというのです。
 確かに多くの人が参加するほど、戒律というほどのものでなくとも、すべきことや守るべきことを設けてそれに従うことが要求されることは常なることです。しかしそれは必ず形式的なものとなってしまいます。仏法はあくまでもそれぞれの心の問題である以上、まことを求めるいきいきした思いを抑え、制限することになってしまいます。「~すべき」「~を守るべき」としても、凡夫である限りさるべき業縁によって意志に反したものとなってあらわれることはよくあることです。
 そんなことは誰もが思うことですし、経験することです。にもかかわらず、いつの時代の、どんな仕組みのなかでも同じ事がくり返されていること人間の業の深さを思わされます。同時に、「賢善精進の相を外にしめして、内には虚仮をいだけるものか」(『歎異抄』第十三条)、つまり「外にはただ賢そうに善い行いを励む姿を見せ、内にはいつわりの心をいだいていることではないの
か」という厳しい指摘をそのまま受け入れずにおれません。

  願にほこりてつくらん罪も、宿業のもよほすゆゑなり。されば
  善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願を
  たのみまゐらすればこそ、他力にては候へ。・・・・・・。本願に
  ほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定
  しぬべきことにて候へ。

    (『歎異抄』第十三条)
 阿弥陀さまの本願に甘えてつけあがる罪も、人間にはかりしることのできない必然性のある宿業によって起こるのである。だから善いことも悪いことも業の報いにまかせて、ただ本願のはたらきに身をまかせるから他力なのである。・・・・・・。本願を誇る心があるからこそ、他力にすべてをおまかせする信心も定まっていくのである。

 ここで、第十三条の冒頭で邪見とみられていた「本願ぼこり」の人も、本願他力によって救われている対象であることが明らかにされているのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月19日 (日)

邪見にみちたる思いゆえ

 親鸞聖人は唯円坊に対して、私の言うことを信じるかと確認をとった上で、「人を千人殺せば、必ず往生できる」と言われます。唯円房は「聖人の仰せではありますが、私には一人として殺すことなどできません」と答えます。
 それに対して親鸞聖人は次のようにおっしゃいました。「これでわかるだろう。何ごとも自分の思い通りになるのなら、往生のために千人殺せと言われたら殺すだろう。しかし思い通りに殺す縁がないから一人も殺さないのだ。自分の心が善いから殺さないわけではない。また、殺すつもりがなくても、百人千人の人を殺すこともあるだろう」と。

 悲惨なことですが、毎日のように凶悪な事件が起こり、被害者とその加害者についての報道が行われます。そんな報道を見るたびに、被害者とともに加害者となった人にも、「どうして、そんなことになったの?」という気持ちが起こってきます。誰も被害に合うことを予想し、また加害者となろうと思って生きているはずはありません。しかしどこかでそういう歯車とかみ合ってしまった。・・・ということは、私もそういう歯車とかみ合っても不思議ではありません。私が気づくことのできない、業縁によって生かされていることを感じます。
 私たちの毎日の生活そのものが刑務所の塀の上を歩いているようなもので、足を滑らせたらあるいは強い風が吹いたなら、刑務所側に落ちるか、日常生活の側に落ちるかのどちらかです。
 縁が整えばどんなことでもしてしまうし、自分の意志に反してしなければならない状況に追い込まれていくこともあるのです。

 私たちは自分の意志によって、自分の人生を左右させることができると思いたいし、また自分の意志や行為によってものごとが成就できたと思うのです。しかしそれはたまたまそうなっただけのことで、自分の思いや行為の結果が、善いこととなるのか、あるいは悪いものとなってしまうのかは、めぐりあわせによるのです。人間の知識や経験を総動員しても、それらの因縁を解明し尽くすことはできません。くり返しますが、たまたまそういうめぐりあわせとなったということです。
 それを自分の心が善ければ善い結果となり、悪い心の結果は悪いものになる(善因善果・悪因悪果)と教えられます。またそのように思い込んでいます。その善悪の基準を自分で作り執着してしまっています。阿弥陀さまの本願によって善悪を超えて不思議の力がはたらくのだということを知らないでいる迷いの姿なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月18日 (土)

宿業にあらずといふことなし

  よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事の
  おもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。故聖人(親鸞)
  の仰せには、「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる
  罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」と候ひき。
    (『歎異抄』第十三条)

 無始以来の、私が思い出すこともできない、また意識することもなかった思いや行為が積み重なりあった結果があらわれてくるのが宿業です。「宿善」も同じことです。いつ、どこで、そんな縁があったのかもしれないけれど、わたしには「善」なる縁があったのです。またその逆に、「悪」なる縁が重なり合って、それが悪業としてこの世にあらわれます。
 善なる縁に出遇うか、悪なる縁に出遇うか・・・、それは宿縁、つまりこれまでに積み重なった結果あらわれる縁によるとしか言いようがありません。理屈ではわかったとしても、まったく私には見通すことのできないできごとの結果です。人間の智恵も思惟をも超えています。
 親鸞聖人は、ウサギやヒツジの毛の先にある塵のような小さな罪も、人間のはからいも思惟をも超えた縁によってできあがったものであるとおっしゃっています。

 私たちは原因と結果の関係を究明したり、理解することは日常生活のなかではよくあることです。たとえば、事件が起こったり、物事に不具合が生じた場合に、その原因を究明し、因果関係を明らかにしようとします。また、学校教育のなかでの学びのなかでも、因果関係について学びはかなりの割合を占めているでしょう。
 しかし因果関係ですべてではありません。たとえば、収穫できたスイカはスイカの種から生え、育ってきたものですが、スイカの種をいつまでも乾燥した机の上に置いていては芽をだすこともありません。太陽や肥料を与えることなく実を結ぶことはありません。種が実を結ぶまでには、種が実を結ぶためのさまざまな条件や事情がその種にはたらいたのです。それが縁です。
 同じ品種のスイカの種であっても、その種にどのような縁がはたらくのかということによって出来具合が違います。縁によって実を結ばないこともあるのです。

 既定路線のように事が運ぶように思っていても、さまざまな条件や事情が複雑に絡み合って物事の行方はどんな方向へも進んでゆくのです。その条件や事情が縁です。
 善い心が起こるのも、悪い事態が発生するのも、みんな縁によるのです。私のはたらきも直接あるいは間接的に影響を及ぼすことがあっても、たまたまそういう条件や状況に出遇ったからにほかならないのです。

 わが思い、わが行為で世のなかを動かしていると思うなら、それは傲慢という他はありません。また、ほんの些細なことであっても、私が思い描くとおりに動かしたい、思うとおりになってほしいという思いも、まずは実現できないことの方が多いかもしれません。成っても成らなくても、宿縁にでしかないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月17日 (金)

本願を誇るこころとふるまい

  弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、
  また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。
  この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。

    (『歎異抄』第十三条)

 弥陀の本願が不可思議だからといって、悪事さえもおそれず何をしてもよいと思いふるまう人は往生できないという指摘です。このような思いふるまいは「本願ぼこり」と言われ、弥陀の本願への疑いである。またこの世でおこす善悪は、宿業のむくいによるものであるということをよく知らないからだと言い切られています。

 『歎異抄』第三条で「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」とありました。善人より悪人の方が往生しやすいというのです。それなら、いくら悪をおかしても救われてゆくのだから、おそれることなく悪をおかしてもよいのだ、と言う者がでてきたようです。宗教は、道徳や倫理と一線を画すところがありますが、おそれることなく悪をおかしてもよいなどということはありません。もちろん「本願ぼこり」も邪見としてみています。
 「本願ぼこり」は「本願にあまえてつけあがること」(註釈版p.824)です。本願に出遇うことができて、得意になる、自慢するというにとどまらず、何をやっても本願を後ろ盾にして自己を正当化する手段としてしまうことにほかなりません。またそれは正しく本願を聞いていないことでもあります。
 また、漢字で書けば「本願誇り」で、誇りというのはすぐれていると得意になることです。本願は、私が創りあげたのではありません。私の罪悪の深さ、あるいは無明のゆえに、阿弥陀さまが仕上げてくださった願いであり、はたらきです。それをわが成果、わが物として握りしめている姿です。

 もう一つここで抑えておかなければならないのは「宿業」という言葉です。私の存在、そしていま持っている私の思いや行為は、今の私だけを反映したものではありません。私が知り尽くすことのできないさまざまな状況、条件が重なり合ってできあがってきた思いであり、行為です。さらにそれは無始以来、私がまったく意識することができないような思いや行為が積み重なりあった結果なのです。それが「宿業」です。

  「いま」「ここ」の「私」という認識はとても大切なものですが、そこだけですべてのものが見えるのではなく、広い世界のなかのほんの一瞬であり、ほんの一部であるのです。私が見ている、私が経験している「いま」「ここ」は、限りなく狭い世界です。その一瞬での思いや行為を善か悪かと判断することなどできはしません。しかしそこにとらわれて生きるのがこの私です。そこにとらわれることなく生きることなどできないのがこの私なのです。
 限りない縁のなかで、善悪は決まっていくものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月15日 (水)

念仏者は何ができるか

 東日本大震災から3ヵ月が経過しました。被災した人たちや地域に対して、まずは水や食糧、衣料関係の緊急支援がなされました。次いで住居の提供が急がれます。それらと並行して、瓦礫の撤去や道路の整備、さらには仕事が提供されなければなりません。それぞれ領域を専門に請け負っている人たち、ボランティアの人たちが大勢関わっておられるようではありますが、言葉で言うほど容易なことではないようです。
 そういう物質的な支援だけではなく、精神的な支援もおこなわれています。テレビを通して知ったことですが、名の知れた芸能人やスポーツ選手が、被災地に入って顔を見せるだけで人びとの顔が明るくなるようです。「元気が出た」「なぜか今日はとっても落ち着いた気持ちになれた」「これまで抱えていた苦しみが洗い流された」「これからがんばれます」などと聞くと、その力に驚きます。

 それでは、真宗者は、あるいは念仏者は何ができるのだろうか・・・とフッと考えました。もちろん、僧侶や念仏者である前に、人間として衣食住の支援を行ったり、その多寡を問わず経済的な支援を行うことができます。それぞれの体力や特技を生かしての支援もできるかもしれません。しかしそれだけでは、真宗者あるいは念仏者として被災地支援に行く必要が無くなります。
 そんな状況のなかで、真宗者(念仏者)が何ができるかと考えること自体が、仏教が一般の人びとに受け入れられない第一の要因だ・・・という類の批判を受けるかもしれません。確かに、仏法に関心のない人や念仏を称えたことのない人に対して、「いきなり念仏を称えましょう」と言ってみても引かれてしまうだけです。だからといって、念仏は称えない、仏法の話しはしないままで帰ってくるのでしょうか。
 そうあせることもない。すぐにはできないけれど、時間をかけて念仏の話しのできる関係ができれば、徐々に関わればよい・・・というのは、どれだけの時間が必要なのでしょうか。仏法を受け入れられるかという空気を読むことも大事なことですが、待っているだけで仏法を受け入れる空気が自然にわき上がるということはまずありません。

 仏法の話しを伝えきれない空気を打ち破るものは、お聞かせいただいてきた阿弥陀さまの願いに心動かされて起こる、伝えずにはおかないという居ても立ってもおれない思いです。聞いた言葉がわが身を通し、わが思いに溶け込むことなくして私を揺り動かすことはありません。経典の引き写し、講師の話のまんま、人の言葉のくり返し・・・だけでは、それはただの“お勉強”でしかなく、誰も聞いてはくれません。それなら、心のこもった歌の方が人の心に響くでしょう。
 私のところに届いたまことのこころを伝えることができるか否か・・・ということでしょう。まず問うべきは、私のまことが届いているかということです。届いた者は、おのずと答えが出せるのではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »