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2011年7月29日 (金)

わが思いを横に置いて、聞くべきは阿弥陀さまのこころ

 仏法を意識して聞くようになったときのことを思い出すと、納得がいかないことがたくさんありました。多くの人たちに導かれてきましたし、何気ない言葉によって気づかされることがたくさんありました。納得いかなかったことが日常生活のなかで経験でフッと晴れたこともありました。
 今から思うと、私自身の思索や行為によって学んだり、うなずいたというより、何らかの縁に遇うことによって教えられた、うなずかされたと、いま感じています。

 たとえば、『歎異抄』後序の「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに」というところは、日常生活のなかでうなずかざるをえないという思いをくり返しもってきました。わが姿の愚かさを思わされたり、世のなかのどこにまことがあるのかという現実を至るところでみることができます。「まことあることなきに」と見る方が、よりよく現実を説明することができます。
 「まことあることなき」世界を生きることのむなしさよりも、そんな世界でもどこかにまことがあるに違いないと思い込んで生きています。これが愚かである自分の姿でしょう。

 ところが、そんな状態にあっても、「まことあることなきに」に続く「ただ念仏のみぞまことにておはします」という言葉を、そのまま飲み込むことはなかなかできませんでした。そらごとたわごとをすべて念仏に置き換えることができるとは思えませんでした。もちろん「南無阿弥陀仏」と称えることには、無言の抵抗をしてきました。

 いま、私が思うのは、多くの人が世の無常を感じ、まことのない、そらごとたわごとの社会を実感しているのではないでしょうか。しかし念仏のみがまことであると思う人がたくさんおられるとは思えません。
 それじゃ、「まことは何か?」と問うてみたところで、答えは出るとは思えません。それは、「煩悩具足の凡夫」が私以外のすべての人であり、「火宅無常の世界」は私を横に置いた客観的な世界と見ているのではないでしょうか。少なくとも私のなかには、発見することはできていないけれど、きっとまことがあるに違いないと信じて疑わない自分がいるのではないでしょうか。
 「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、・・・」というお言葉は、私に向けられ、私の姿そのものを示してくださっているということがわかるのは、「念仏のみぞまこと」がわが身のうえに知らされたときです。
 「南無阿弥陀仏」にどういう意味があるのか、どういう功徳があるのか・・・ということを知れば称えられる念仏ではありません。阿弥陀さまが私にむかって受け取ってくださいと願い求めてくださっているおこころであることを聞かせていただくことです。私の思いや行為ではなく、阿弥陀さまのはたらきであることを知らさせていただくことです。聞くべきは阿弥陀さまのおこころなのです。わが思いのところにとどまっていてはなりません。

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2011年7月28日 (木)

仏法の先達、同行を求めよ

 親鸞聖人は、「『一心』といふは、教主世尊の御ことのりをふたごころなく疑なしとなり、すなはちこれまことの信心なり」(『尊号真像銘文』註釈版p.651)と示されました。
 お釈迦さまが私たちに示してくださった教えを、「ふたごころなく疑いなし」と受け取るこころです。あれもこれもではない。これでいいのかな、というのでもない。阿弥陀さまの本願以外には心を動かさないということです。ただ南無阿弥陀仏、これしかないというところに思い至った心です。
 くり返すようですが、その心は私の内にある心ではありませんし、私の思考の末に生み出す心でもありません。私にはないこころです。私にはないから、阿弥陀さまからいただくしかない心です。如来のこころです。まことのこころなのです。
 それでは、その「一心」、つまり阿弥陀さまのこころをいただくためには、どうすればいいのでしょうか?

 真っ黒な炭に火をつけるにはどうすればいいでしょうか。火に近づけることです。火のついた炭に重ねればすぐに火はつきます。
 腕のよい一人前の大工さんになるにはどうすればいいでしょうか。知識や技術や経験豊かな腕のよい大工さんに近づき、教えを乞うことです。最近は、大工さんに弟子入りする人は少ないようで、それに変わって大工さんを養成する専門の養成機関に入るのでしょうが、いずれにしても知識や技術や経験を学びます。
 阿弥陀さまのこころをいただくためには、阿弥陀さまのこころが書かれている経を読み、教について書かれたお聖教を読むことであり、あらゆる機会を見つけて聞法に励むことでしょう。何よりも阿弥陀さまのこころをいただいた人に近づくことです。なかなかそんな機会をもつことができないという場合は、南無阿弥陀仏とお念仏を称えさせていただくことです。もちろんどんな状況にあっても、阿弥陀さま御名を称えさせていただくことほど大切なことはありません。

 赤々と燃える火が、真っ黒な炭に火をつけるのです。すでに大工の道を歩んで大成した人によって、若い者が育てられてゆくのです。仏法など聞くようなタネなどこにもない者でも、必ずまことを聞かせてみせ。るという阿弥陀さまの願いによって、念仏させていただく身にさせていただくことができるのです。念仏する心などどこにもなかったのに、多くの人たちにより、また気づくことがなくても、いつの間にか念仏させていただく身とさせていただくようなのです。

 いただくだけで、何もできないのが凡夫です。しかしせめて、求める方向だけは見失わないようにしたいものです。そのためにも、つねに私を導いてくださる仏法の先達、念仏を勧めてくださるお同行が必要になります。

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2011年7月27日 (水)

一心に無礙光に帰命す

 親鸞聖人は、七高僧の第二祖である天親菩薩は『浄土論』によって、衆生が一心によって往生できることをあきらかにされたことを示されました。
 『往生論』は、前半が詩形式で、後半が散文形式でできています。前半の冒頭にあるのが「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国」(世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰依したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず)という偈文です。お経をおつとめしたあとに、回向句としても使われるご文でもあります。
 世尊はお釈迦さまのことですから、お釈迦さまに申し上げておられることがわかります。尽十方無碍光如来は阿弥陀如来のことですから、「私は一心に阿弥陀如来に帰依いたします。そして安楽国(=浄土)に生まれることを願っています」と、わが思いを表明されています。親鸞聖人も、「正信偈」の冒頭に「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」と自身の信心をあきらかにしておられるのと同じです。

 私たちが仏法を聞くとき、また聖教を読むとき、どういう聞き方や読み方をしているでしょうか。客観的に、論理的に聞き読むということもあるでしょう。それは仏教に対して学問的、教養的に向き合おうとする態度です。そのときの仏教は、私を知的に高めてゆくための手段です。しかしそれでは迷いの凡夫が、これまで身につけてきた知的なものや、自己の考え思いに引きずられて、つじつまを合わせたり、判断することになってしまってはいないでしょうか。
 仏法は、「帰依」「帰命」することがなければ、絵に描いた餅です。言葉を換えれば、心から敬い、最後のよりどころにすべきものがありますか、という厳しい問いが仏法です。何となく漠然としているけれど、悪いものじゃない・・・という中途半端なままでは、最後のよりどころにはなりません。

  天親論主は一心に
  無礙光に帰命す
  本願力に乗ずれば
  報土にいたるとのべたまふ
   (『高僧和讃』註釈版p.581)

 ここでいう「一心」は、ある目標を達成するために雑念を払い、心を研ぎ澄ませて揺るぎのない心になるということではありません。凡夫である以上、心を落ち着かせよう、集中しようといたところで次から次へと雑念が生まれてきます。
 揺るぎのない、間違いのない、まことの心は、私がつくりだすのではなく、阿弥陀さまからいただくのです。「一心」は阿弥陀さまの心です。「本願力に乗ず」る、つまり自力をすてて阿弥陀さまのおこころに乗托するのです。おまかせするのです。
 阿弥陀さまの心ですから、揺らぎようがありません。それゆえ「一心」です。そのこころでしか、往生浄土はかなわないのです。

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2011年7月25日 (月)

広大にして辺際なし

 仏法には関心があるけれど、その教えをすべてそのまま飲み込むことができない人はたくさんおられるでしょう。たとえば、浄土や地獄があるとかないとかいうところが引っかかっていろいろ質問をしてみるのですが、何度聞いても納得いくような回答が得られないから、いつまでたっても同じところをグルグルまわって、先に進めないという人を何人も知っています。
 わかりやすい説明をしてもらい、よく理解ができ、納得ができたら、信心が揺るがぬものとして定まってゆくというものではありません。

 浄土については、たいてい架空の物語のような話しに終わることが多いのではないでしょうか。浄土に生まれたことがない者が話しているのですから、聞く方も絵空事のように聞くでしょう。
 仏法は、私の思いなどとても及ばないものであり、私が生きる世界をはるかに超えています。つまり仏さまによって示された教えや世界をいただくのです。

 仏法を聞くということは、何よりも仏さまのみもとに生まれたいという願いを持つことです。つまりめざすのは浄土(仏国土)です。見たこともないから、それは無理・・・と思うでしょうか。無理なことはわかっていても、そのことをまこととして示してくださるのが仏法です。
 天親菩薩の著書『浄土論』では、はっきりと浄土をめざしておられます。阿弥陀さまを心から敬い、阿弥陀さまにすべてをおまかせする思いを述べておられます。それは天親菩薩にとって阿弥陀さまがもっとも頼るべき仏、これ以上ない大切な仏であるからです。

 その阿弥陀さまの浄土を、天親菩薩は見ておられないでしょう。しかし阿弥陀さまが示された浄土ですから、あるとかないとかいう思いを超えて、示されたとおりに受け取られるのです。

  安養浄土の荘厳は
  唯仏与仏の知見なり
  究竟せること虚空にして
  広大にして辺際なし
   (『高僧和讃』註釈版p.580)

 浄土の荘厳は、菩薩さえにもわからない世界であり、ただ仏のみが知りうる世界であると言われています。浄土といわれる存在も、「虚空」で、「広大」で、「辺際がない」と現しておられるのです。
 私たちの思い、思考を超えているのが浄土ですから、浄土の有無を議論ばかりしていても、むなしいばかりいです。もちろん、疑問をくり返して仏法と向き合うのも意味あることかもしれませんが、「帰命」「信順」するところがなければ仏法にはなりません。
 意味もなく盲信であるのがよいのではありません。あくまでも目指す方向は浄土であり、阿弥陀さまの教えの要を聞くことです。かたくななわが思いが、虚空で辺際のない世界では何の役にも立たないことに気づかされたとき、偏執のわが身と浄土を知らされます。

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2011年7月24日 (日)

声にして、くり返し読もう

 今年の1月から『歎異抄』を一通り、とにかく読み終えることができました。これまで何度も読んできたつもりですが、とても十分な読み方ができていないことを身にしみて感じつつ、書いてきました。何度も読み覚えている文章もありますが、ごく限られたところであることにも気づかせてもらいました。
 『歎異抄』に出てくる親鸞聖人のお言葉は、聖人の晩年のものです。『教行信証』を著された後も、くり返しお聖教に触れられ、多くのお同行たちと交わられ、さらにご自身を振り返ることを通して、仏法のお味わいを深めてゆかれたに違いありません。そんななかで口にされたお言葉です。一度二度読んだだけでは理解しえない言葉の重みと深さがあります。

 その重みと深さというのは、人の言葉を超えているからでしょう。私たちの日常生活の常識や知識でサラリと読み流し、聞き流せるものではないからです。それはある意味では、難解ということになるのかもしれません。だからといって、辞書を引き、現代語訳や解説書を読めば、すべてがわかるわけでもありません。
 それではこの書物は私が読めるようなものではないとあきらめるのではなく、何度もくり返してそのお言葉に触れてみようしてみることです。それが『歎異抄』の読み方としてはとても大切なことだと思っています。幸いなことに、この書物が、何度もくり返し読むことを助けてくれるのは、語調の良さ、リズム感があることです。声に出して読めばそのことがよくわかります。意味がわからなくとも、くり返し読んでいるうちに“身に着く”のです。

 それと同時に、その中身について、いろいろ思いをめぐらすことも大切なことです。親鸞聖人の味わいは、親鸞聖人しか味わうことができません。この著者(唯円とされる)の味わいは、この著者にしか味わえないでしょう。しかしその元になる信心は、阿弥陀さまから賜るのです。私も賜ることのできる信心です。その信心による味わいは、親鸞聖人や『歎異抄』の著者とまったくかけ離れたものではありません。同じ味わいを確かめ合うのが仏法讃談です。
 私も、くり返し読むことによってめぐらした思いを、阿弥陀さまの願い・お念仏のこころを聞こうと思う人たちとともに、分かち合い、確認し合いたいと思います。そういうご縁がたくさんできますことを楽しみにしつつ、これからもことあるごとに『歎異抄』を読み続けるだろうという思いを強くしています。

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2011年7月23日 (土)

信心異なることなからんために

  これさらにわたくしのことばにあらずといへども、
  経釈の往く路もしらず、法文の浅深をこころえわけ
  たることも候はねば、さだめてをかしきことにて
  こそ候はめども、古親鸞の仰せごと候ひし趣、
  百分が一つ、かたはしばかりをもおもひいで
  まゐらせて、書きつけ候ふなり。
  かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に
  報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の
  行者のなかに、信心異なることなからんために、
  なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて「歎異抄」
  といふべし。外見あるべからず。

   (『歎異抄』後序)
以上、述べてきたことは、私の勝手な言葉ではありませんが、経典や注釈書に書かれた道筋も知らず、教えの深い意味を十分に心得ているというわけではない。愚かなことだけれど、亡き親鸞聖人がおっしゃいましたことの百分の一ほど、またほんの一端だけを思い出させていただいてここに記しておくこととする。
幸いにも念仏を称えても、まっしぐらに真実報土に往生しないで、方便の辺地にとどまるということは、まことに悲しいことである。部屋を同じくする念仏者のなかに、信心が異なるというようなことがないように、泣く泣く筆を染めてこの書を書き記す。これを名付けて『歎異抄』という。同じ教えを聞く者以外には見せてはならない。

 親鸞聖人が語られた言葉のなかから、おそらく何度も口にされたことを、あるいは著者のなかに強く残っている言葉が、この書に著されているのでしょう。その動機は、親鸞聖人がおっしゃった信心の中身と、あまりにかけ離れた言説が飛び交っていたというところにあるようです。
 そんな状況が大きな問題として取り上げられなければならないということは、念仏を称える人が多くおられたということでしょう。しかしその念仏の中身を一つ一つ尋ねてみると、自分の聞いてきた念仏の心とは違う。その違いを感じるのは、宗教的感覚とでもいうものかもしれません。それを“感覚”として終わらせず、言葉にしてその違いを明らかにしてきたのです。

 信心の問題は、言葉によってすべてが解決するわけではありません。表情、態度、行為などにも宗教性あるいは信心の一端をうかがうことがでます。しかし、ただ何となく・・・というところではとても安心できるものではありません。だからといって、根拠もないのに「間違いない」と思い込む信心も危険きわまりありません。
 信心の問題を解決するには、ただ真実信心、まことのこころと出遇うしかありません。具体的にはまことをいただいた人と関わり、まことのことばと出遇い、わが身の心の内を信心の人やまことのことばにさらすしかありません。

 この『歎異抄』の底を流れる思いは、「信心異なることなからんために」というひと言に集約されるでしょう。それがそのまま『歎異抄』という表題になっているのです。
 そして最後に、「外見あるべからず」と示されているところから、同じ念仏の道を求める人に対して書かれていることがわかります。『歎異抄』はいろんな読み方ができる、奥の深い書物ではありますが、あくまでも信仰の書、まことの信心のためにかかれた書物です。それは、著者から、「あなたの信心に間違いはないか?」と問われている書でもあるのです。

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2011年7月22日 (金)

人の口をふさぐ念仏者

  まことに、われもひともそらごとをのみ申しあひ候ふ
  なかに、ひとついたましきことの候ふなり。
  そのゆゑは、念仏申すについて、信心の趣をもたがひに
  問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとの口をふさぎ、
  相論をたたんがために、まつたく仰せにてなきことをも
  仰せとのみ申すこと、あさましく歎き存じ候ふなり。
  このむねをよくよくおもひとき、こころえらるべきこと
  に候ふ。

   (『歎異抄』後序)
私も人も、うそ・いつわりを言い合いっているなかで、ひとつ痛ましいことがある。それは、念仏するについて、お互いの信心のありようを議論し、人に説き聞かせるときに、相手にものを言わせず、議論することをさせないために、親鸞聖人がまったくおっしゃっていないにもかかわらず、聖人がおっしゃったことだと主張する者がいること、なんとも情けなく、嘆かわしいことである。これらのことをよくわきまえ、心得ておくべきことである。

 これまでのお言葉のなかから、私の生き方はそらごとたわごとであり、まことなどないと知らされてきました。ここではそれに付け加えるように、私を含む人間関係について、うそ・いつわりを言い合っているのだともおっしゃっておられます。
 これらの言葉を、スーッと飲み込むことのできない私でしたが、教えられるほどに、日常生活の会話のなかに、どんなまことがこもっているのか・・・と問わずにはおれません。虚仮不実のまま生きている私ですから、そこから出てくる言葉にまことなどあるはずはありません。しかしそれは私が言わずとも知れたことです。

 しかしここでは、その日常生活でのうそ・いつわりを問題にしておられるのではありません。念仏を讃談のありようについての問題を指摘しておられます。信心のありようを議論するときや仏法を説き聞かせるとき、相手にものを言わせないようにしていないか。あるいは議論することをさえぎってはいないか、と。
 「議論」と書きましたが、仏法は議論するものではないでしょう。ともに自分が聞かせていただいた仏法を、念仏の心を、頂戴した阿弥陀さまのおこころを述べるしかありません。それぞれの聞いたところがひとつであること(一味、一心)であることを確認し合うものです。もし、違うところがあるのなら、その違いをはっきりさせ、それ以降の問法のなかそ確かめ、聞き直すしかありません。

 阿弥陀さまのおこころを間違いなく聞くことができたのは、偉いから、賢いから、努力したから、素直だから、すぐれているから、・・・ではありません。聞かせずにはおかないという阿弥陀さまのおこころをいただくチャンスに、たまたまめぐりあっただけのことです。そういう縁にめぐまれたからなのです。
 それをわが力で聞いたように思い込み、人の口をふさぎ人の話を聞かない姿勢は仏法をそしるに等しい行為です。あさましい凡夫の姿そのものです。親鸞聖人はこのようにおっしゃった・・・という、知ったかぶりとともに、「歎異」すべきことです。
 仏法を聞かせていただいた、阿弥陀さまのおこころをいただいた・・・という事実があったとしても、凡夫の思い上がり、傲慢さゆえに、いただいた心が人に伝えることができないということなのでしょう。阿弥陀さまの願いの上にあぐらをかいている姿でしょう。どこまでいっても、凡夫は凡夫でしかないのです。

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2011年7月21日 (木)

まことあることないのがわが身のまこと

  まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、
  われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。
  聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知
  せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しと
  おぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きを
  しりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめす
  ほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにても
  あらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
  よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、
  まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにて
  おはします」とこそ仰せは候ひしか。

    (『歎異抄』後序)
まことに、阿弥陀如来のご恩の尊さを問うこともなく、私も他の人たちも、善いとか悪いとかいうことばかりを言い合っている。親鸞聖人がおっしゃるには、「何が善であり、何が悪なのかということは、私にはまったくわからない。それは如来さまと同じように善について知り尽くしているなら善いということがわかるだろう。また如来さまが悪についてご存じであるほど悪についてわかってるのなら悪いということもわかるだろう。しかし私は煩悩をすべて身にそなえている凡夫であり、この世は火によって燃え尽くされる家がたちまち姿を変えて同じ姿としてとどまらないのと同じ無常の世界である。そんな凡夫やこの世のあらゆることは、すべてうそ・いつわり・でたらめであり、まことなるものは何ひとつない。ただ南無阿弥陀仏だけが真実(まこと)なのである」と。

 昨日に読んだところには「聖人のつねの仰せ」が出てきました。今日も「聖人の仰せ」が出てきます。少々長い文章ですが、私自身、『歎異抄』のなかで、おそらくこの部分を一番よく読み、味わい、心深く響くことの多い箇所です。
 とくに、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに」の部分は、私が世のなかの無常に合うたびに、自然と口に出てくるお言葉でもあります。執着いっぱいに生きているわが身わが心に向かって、この世に何ひとつとして真実などないのに、いったい何に執着しているのかと厳しく問い詰めてくださるお言葉でもあります。

 それでも執着し続け、どうすることもできない無常のなかでおろおろしている私に向けて「ただ念仏のみぞまことにておはします」と明確で、具体的な答えを示してくださっています。そこにしか落ち着きどころはありません。しかし無視して気づくことはありませんでしたし、気づいても疑い続けてきたことです。。
 「そらごとたはごと、まことあることなき」わが身この世であるというご指摘は、この世を懸命に生きるためのなぐさめでも、あきらめの言葉でもありません。また、わが身この世の一面を切り取ったものでもありません。「念仏のみぞまこと」という真実の眼から見たまことそのものです。「煩悩具足の凡夫」も「火宅無常の世界」も、念仏に遇わせていただくことによって、それこそがこの世のまことだと、うなづかずにはおれません。

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2011年7月20日 (水)

わが身の罪悪と如来の御恩を知らせんがため

  聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願を
  よくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
  さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、
  たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と
  御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の
  「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた
  つねにしづみつねに流転して、出離の縁あることなき身と
  しれ」(散善義 四五七)といふ金言に、すこしもたがはせ
  おはしまさず。さればかたじけなく、わが御身に
  ひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、
  如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、
  おもひしらせんがためにて候ひけり。

    (『歎異抄』後序)

 ここでは「五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」と示されていますが、覚如上人が書かれた『口伝抄』では、「五劫の思惟も兆載の修行も、ただ親鸞一人がためなり」(註釈版p.883)と書かれています。五劫思惟の願と、その願を成就するためにの兆載永劫の修行も、自分一人を救うためのものであったというのが、親鸞聖人の思いであったのでしょう。「それほどの業をもちける身」は、法蔵菩薩が五劫の思惟と兆載永劫の修行をして阿弥陀さまとならなければ救われることのない罪業をもった私であると知らされ自己の表明でしょう。そして、阿弥陀さま(法蔵菩薩)のたいへんなご苦労なしには救われることがなかったこの私が、必ず救うという本願に確かに出遇ったことに対して、これ以上ない感謝の思いを表現しておられるのです。
 この言葉は、親鸞聖人が「つねに仰せ」であったというのですから、私たちも何度も何度もくり返し読み直し、口に出して味わうべき言葉でしょう。

 それは善導大師が「私はいま、罪悪をおかし、生死の苦しみに迷っている凡夫であり、私のおよびもつかないはるかなむかしから現在に至るまで、いつも迷いの世界に身を沈め、いつも生死の迷いを流転して、その状態から抜け出ることができない縁のない身ということを思い知れ」という、尊いお言葉と少しも違いはないのだと著者は言います。
 「わが御身にひきかけて」と、自分自身の問題、わがことだというところで教えが受け止められています。仏法に教えられたので知ることができたのですが、自分だけでは「わが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきこともしらずして迷」っているばかりです。まず、自分だけではなかなか気づかない私の姿を知らせるのが、聖人のお言葉なのです。

 著者は、大切な文章を書き抜いて、この書に著しているのです。ここに引用された善導大師のお言葉も「金言」と表現さえているほどですから、親鸞聖人のお言葉とともに、身につくまで声に出してみたいものです。

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2011年7月19日 (火)

権をすてて実をとる

  かくのごとくの義ども、仰せられあひ候ふひとびとにも、
  いひまよはされなんどせらるることの候はんときは、
  故聖人(親鸞)の御こころにあひかなひて御もちゐ候ふ
  御聖教どもを、よくよく御覧候ふべし。おほよそ聖教
  には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権を
  すてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、
  聖人(親鸞)の御本意にて候へ。かまへてかまへて、
  聖教をみ、みだらせたまふまじく候ふ。
    (『歎異抄』後序)
親鸞聖人の信心とは違った教えを主張される方々によって言い惑わされるようなことがあれば、亡き親鸞聖人のお心にかなって用いられた御聖教などをよくよくご覧になるのがよいだろう。おおよそ聖教には、真実の教えと、真実に導き入れるための方便の教えが混じっている。その方便の教えを捨てて、真実の教えだけをとり、仮の教えを差し置いて真の教えだけを用いるのが親鸞聖人のご本意である。聖教を読み誤ることのないよう、よくよく注意していだだきたい。

 ここでは異議に惑わされることのないように、その対応のしかたが示されています。それは親鸞聖人が用いられた聖教を、正しく読むことだと教示なさっています。
 聖教は、一言一句真実が示されているわけではなく、真実の教えと、権仮の教えが混じり合って書かれているというのです。「権仮」とは、一時的に、あるいは方便として仮にという意味です。私たち凡夫は、なかなかまことをまこととして受け取ることができません。まことをまこととして受け取らせるため、少々遠回りでも、私たちが取っつきやすいような教えがお聖教のなかに示されています。そんな権化の教えが、直接凡夫を救う教えではなくとも、私たちに仏縁やさまざまな気づきを与えてくださるのです。
 もちろん権仮の教えにとどまっていてはなりません。その教えは方便ですから、捨てて、まことの教えを選び取らねばなりません。

 かつて、真っ暗な闇を照らすのは、月の光であり、蛍の光でした。しかしローソクが普及し提灯が使われるようになると月の光が無くても暗闇を照らすようになります。そのうち懐中電灯が出てくると、ローソク・提灯などは使われなくなります。街灯が整備され始めると懐中電灯が使われなくなります。それほど街灯の光が明るいのですから。しかし太陽が照り始めると、月が出ていることも気づきませんし、街灯が点灯していたとしてもそのあかりを頼りにする人はいません。
 暗闇のなかでは、太陽にとうてい及ばなくても、月の光や蛍の光さえもそれを頼りにして生活するしかありません。あれこれと、より明るいものを求めるのです。しかし、太陽の明るさを知れば、それまで暗闇を照らしていたあかりは必要がなくなります。
 権仮の教えは月の光やローソクや懐中電灯です。暗闇のなかでは、こんな明るいものはないと思ったかもしれません。しかしそんなあかりに比することができない太陽の光(真実)に出遇えば、それまでのあかりは一時的に、仮に使っていたことに気づくのです。

 お聖教のなかに、何のも比することのできないあかり、真実を求めよと教えてくださっているのです。

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2011年7月18日 (月)

ともに如来より賜った、ただ一つの同じ信心

 法然聖人と善信(親鸞)自身の信心は同じであると主張したことについて、法然聖人に正しいか間違っているかを判断してもらうことになったのです。法然聖人は答えられます。

  法然聖人の仰せには、「源空が信心も、如来よりたまはり
  たる信心なり。善信房の信心も、如来よりたまはらせ
  たまひたる信心なり。さればただ一つなり。別の信心
  にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、
  よもまゐらせたまひ候はじ」と仰せ候ひしかば、当時の
  一向専修のひとびとのなかにも、親鸞の御信心に一つ
  ならぬ御ことも候ふらんとおぼえ候ふ。いづれもいづれも
  繰り言にて候へども、書きつけ候ふなり。

   (『歎異抄』後序)
法然聖人は次のようにおっしゃった。「源空(法然)の信心も、如来からいただいた信心である。善信坊の信心も如来からいただかれた信心である。だから同じ一つの信心である。別の信心の人は、源空が参る浄土へは、よもや参ることはないだろう」とおっしゃった。今でもただひたすら念仏に生きる人のなかにも、親鸞聖人の信心と一つではないと思っている人もいるだろう。これらはいずれも同じことをくり返しではあるけれど、書き記しておく。

 この世は、さまざまな違いをもった人たちが集まって成り立っています。性別、年齢、性格、感情、興味、関心、知識、人間関係、等々・・・。成長過程で出会うさまざまな縁によって、それらの違いが増幅したり縮小したり。それが個性であり、能力であり、実力であり、・・・となるのでしょう。その違いが統合して社会ができあがってゆきます。
 そんな個人と個人、個人と社会、社会と社会の関わりによってできあがってゆく個人や社会とはまったく違った次元に、個人の信心があるのです。

 その信心とは、私が自力で、思い込み、信じ込み、つくりあげるものではありません。法然聖人や親鸞聖人の信心は、「(阿弥陀)如来からいただいた(賜った)信心」なのです。ですからいただいた信心に違いがあろうはずはありません。
 ということは、お釈迦さまも、法然聖人を含む七高僧の方々も、親鸞聖人も、蓮如上人も、そのほか多くの善知識の方々も、すべて阿弥陀さまから同じ信心をいただいたのです。

 そこで問わずにおれないのが、「私の信心は、法然聖人、親鸞聖人などと同じですか?」ということです。同じであれば、法然聖人や親鸞聖人の言葉にうなづけるということでしょう。また、同じ念仏の信心をもつ同行との仏徳讃談にうなづきあえる(一味である)ということでしょう。
 それは、法然聖人や親鸞聖人、さらに私を導いてくださった善知識の方々と同じ浄土に生まれさせていただくことができるということです。心の底から“そうそう!”とうなづくことができますか?

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2011年7月17日 (日)

往生の信心はただ一つ

 親鸞聖人のまことの信心(真信)と異なる“信心”が出てくることを嘆き、それを正したいという著者の強い思いが著されたのが『歎異抄』です。この題名は、著者の思いがそのまま現されたものでもあります。「後序」では、その思いをふたたび述べています。

 まず一つめにでてくる話は、法然聖人ご在世のとき、弟子はたくさんおられたが、真実の信心に生きる人は少なかったようです。だから親鸞聖人は信心についての論争をされたというのです。

  「善信(親鸞)が信心も、聖人(法然)の御信心も
  一つなり」と仰せの候ひければ、勢観房・念仏房
  なんど申す御同朋達、もつてのほかにあらそひたまひて、
  「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、一つには
  あるべきぞ」と候ひければ、「聖人の御智慧・才覚
  ひろくおはしますに、一つならんと申さばこそ
  ひがごとならめ。往生の信心においては、まつたく
  異なることなし、ただ一つなり」と御返答ありけれども、
  なほ「いかでかその義あらん」といふ疑難ありければ、
  詮ずるところ、聖人の御まへにて自他の是非を定む
  べきにて、この子細を申しあげければ、
   (『歎異抄』後序)
親鸞聖人は、「私の信心も、法然聖人の御信心も一つである」とおっしゃたところ、勢観坊や念仏坊などの共に阿弥陀さまのおこころを聞いている人たちが、意外なほど反論され、「どうして法然聖人の御信心と善信の信心が一つなのか、とおっしゃった。「法然聖人の知恵・学識は広くすぐれておられるから、そのことと同じであると言うのなら間違っているだろう。しかし往生の信心においては、まったく異なってはいない。ただ一つである」とお答えになったけれど、それでもなお「どうしてそんなことが言えるのか」と疑いや非難があった。そこで、法然聖人の前で、どちらの主張が正しいのかを判断するべく、ここに至った詳細についてお話し申し上げたところ、

 法然聖人の同門の人たちの間で、智恵・才覚に優れた法然聖人はとても尊敬されていたことがわかります。そのなかで「私の信心は、師と同じだ」と言うことは、簡単に言えるものではないでしょう。「私の善知識と信心は同じだ」と言うのと同じことです。当然のことながら、周りから奇異の目で見られるでしょう。しかしそれはあくまでも社会的な地位や役割を見ているからにほかなりません。
 親鸞聖人もそこのところは十分に承知されています。それでいてなお、「信心」のところで同じであるとおっしゃっています。『歎異抄』の著者が問題にしたかったところは、まさにここのところでしょう。人それぞれに個性があって、生き方も考え方も違うのが当然です。また能力や力量の違いも認めざるを得ないでしょう。しかし「信心」は違っては、異なってはダメなのです。「信心」は一味であり、一念なのです。

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2011年7月16日 (土)

先師の口伝の真信に異なることを嘆き

 『歎異抄』の本文を読み終わりました。残っているのは、「序」と「後序」です。どちらも『歎異抄』を書くにいたった理由が書かれています。まずは冒頭の「序」から。

  ひそかに愚案を回らして、ほぼ古今を勘ふるに、先師(親鸞)
  の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あること
  を思ふに、幸ひに有縁の知識によらずは、いかでか易行の
  一門に入ることを得んや。まつたく自見の覚語をもつて、
  他力の宗旨を乱ることなかれ。よつて、故親鸞聖人の御物語
  の趣、耳の底に留むるところ、いささかこれを注す。
  ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々。

    (『歎異抄』序)

 先師親鸞聖人ご在世のときに教えてくださったまことの信心と異なることがあることを嘆いています。聖人の教えを受け継ぎ相続する人たちには疑いや惑いがあるようだとも述べられています。

 阿弥陀さまの願いは人から人へと伝わります。まことの教えを聞いているか否かということは、とても大切なことなのに、僧俗ともにそこの確かめをすることは容易ではありません。またその確かめをすすんでする人は、そう多くはありません。信心の中身の確かめは、阿弥陀さまの願いと、わが思いのところにあいまいにしないで、はっきりと線が引くことでもあります。
 ところが、いかに聞いたのか、阿弥陀さまの願いをいかにいただいたのか、ということは、それぞれの心内の問題ですから、他人に踏み込まれたくないだと思うのかもしれません。また、自分のもっている思いを、他からとやかく言われて、崩したくないとも思っているのでしょう。その我執を離れるのが、仏法を聞くということですから、その自尊心が役に立たないことに気づかねばなりません。

 「法地」また「土徳がある」といわれている地域は、どっぷりと仏法に浸る生活のしくみができあがっているところです。あえて「念仏の声を子や孫に」と言わなくても、しっかりと念仏が相続されていく環境ができあがっているところです。そういうところでは、「念仏の声を子や孫に」と言う以前に、自分自身の信心に間違いはないかと厳しく自己を問い、法に向き合う姿勢を正すのです。
 そういう人たちに出遇うことによって、「易行の一門」に入ることができる。つまり、阿弥陀さまのお慈悲の道を突き詰めて聞かせていただくことができるようになるのです。

 「法地」や「土徳のある」ところに身を置くことができるに越したことはありませんが、求めれば必ずよき師に出遇うものです。まことは何かと常に問い続けることです。まことに出遇うのに妥協などありません。妥協というのは、自分の勝手な思いを挟み込むということです。
 同じ道を求めても、自分勝手に聞くことで陥りやすい聞き違いを、親鸞聖人の忘れれない言葉をとおして書き記したいという強い思いが現れています。

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2011年7月15日 (金)

今生に本願を信じ、かの土にしてさとりをひらく

  この身をもつてさとりをひらくと候ふなるひとは、
  釈尊のごとく、種々の応化の身をも現じ、三十二相・
  八十随形好をも具足して、説法利益候ふにや。
  これをこそ、今生にさとりをひらく本とは申し候へ。

   (『歎異抄』第十五条)

 この世でさとりをひらくのは、仏がもっておられる三十二相、八十随形好(八十種好)という特徴を持ってこそ為しうることだと言われます。
 この仏の特徴である「三十二相」「八十随形好」は経典などによって多少の違いがあるようですが、およそのところをインターネットなどで調べてみてください。基本的にはこれに倣って仏像が作られているようです。

  『和讃』にいはく、「金剛堅固の信心の さだまるとき
  をまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死を
  へだてける」(『高僧和讃』註釈版p.591)と候ふは、
  信心の定まるときに、ひとたび摂取して捨てたまは
  ざれば、六道に輪廻すべからず。しかれば、ながく
  生死をばへだて候ふぞかし。かくのごとくしるを、
  さとるとはいひまぎらかすべきや。あはれに候ふをや。
  「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にして
  さとりをばひらくとならひ候ふぞ」とこそ、故聖人
  (親鸞聖人)の仰せには候ひしか。

   (『歎異抄』第十五条)

 親鸞聖人は最後に「浄土のまことの教えというのは、この現世においては阿弥陀さまの本願を信じ、かの浄土においてさとりをひらくと、法然聖人より教えを受けました」とおっしゃっています。
 これは『歎異抄』第二条にあった「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」とまったく同じ心です。
 法然聖人から聞かされてきたとおり、念仏して阿弥陀さまにたすけられることを信ずるだけで、念仏することによって浄土に生まれるか、地獄に落ちるのか、それは私の知らないところです、とおっしゃっている。すべてを阿弥陀さまにまかせたすがたです。
 阿弥陀さまにまかせれば、すべての疑問や思いはとるに足らないことでしかありません。また親鸞聖人が阿弥陀さまとどう向き合われたかということ以上に、私が阿弥陀さまと如何に向き合っているのかというとが重要なことです。そこのところをぼかしたり、そこから逃げたりすることがあってはなりません。

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2011年7月14日 (木)

如来とひとしのは、大信心ゆえに

 浄土真宗の僧侶の方でも、この世でさとりをひらくことができなければ意味がない・・・と発言される方がおられます。「さとりをひらく」というのはどういうことかおたずねしましたが、明確な答えをいただくことができませんでしたが、もしかすると、次のご和讃などがその根拠になっているのでしょうか。

  信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ
  大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり
    (『浄土和讃』註釈版p.573)

 信心の人が如来ではありません。「如来とひとし」とおっしゃっておられます。また大信心=仏性=如来だと述べられています。私がつくる信心ではなく「大信心」です。親鸞聖人が「大~」とされるのは、阿弥陀さまのことであり、阿弥陀さまのはたらきです。ですから「大信心」は阿弥陀さま信心、阿弥陀さまからいただいた信心であることがわかります。つまり阿弥陀さまの心です。よろこびの信心は阿弥陀如来よりいただいたものだから、如来と等しいのです。
 また、「如来とひとし」という親鸞聖人の記述は、ご和讃以外にも、御消息のなかに次のように示されています。

  浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪
  の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来と
  ひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ。
   (『親鸞聖人御消息』註釈版p.758)

 上記と同じ御消息のなかで、聖人は、信心をえた人のことを摂取不捨の利益に定まるものであり、その人は正定聚の位(必ずさとりを開いて仏になることが決定している位)に住し、等正覚の位(正定聚と同じ)と言われています。それらはひとつの心、ひとつの位であり、それを如来と等しいともおっしゃっておられます。
 だからといって、真言宗の即身成仏や、真言宗の六根清浄のことを指しおられるのでありません。「不浄造悪のみ(身)」であるけれども、「心はすでに如来とひとし」と言われています。私が自分の心を静め、迷いのない心に仕上げて如来となるのではありません。それは自力聖道門の道です。阿弥陀さまよりまことのこころをいただいたから、正定聚や等正覚とさせていただくのです。

 ところが厄介なことに、私のなかには煩悩いっぱいの凡夫の心が好き放題にはたらいています。身が不浄造悪ということは、その底にある凡夫の心が我執の思いのままであるということです。その身その心が阿弥陀さまのめあてなのです。その身その心があるから、私に向かって願いをかけ、はたらき続けてくださるのです。
 私がそのことを知るか知らないか、わかるかわからないか、間違いないと思うか思わないか・・・などという私の思いよう、ありようとは関係なく阿弥陀さまははたらいてくださっている。親鸞聖人のお言葉は実に微妙です。「如来とひとしともうすこともあるべし」と。

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2011年7月13日 (水)

来生の開覚は他力浄土の宗旨

 第15条は、煩悩をもった身のまま、この世でさとりをひらくことができるのか、ということが問題提起されています。それに対して筆者は、「もってのほかのことにそうろう」と述べておられます。
 この世でこの身のまま仏に成ることができる教えは真言密教(真言宗)であり、三密の行を修めてえられるさとりです。またこの身この心のすべてが清らかになるのは法華一乗(天台宗)の教えであり、身口意ののはたらきのあやまちを離れる四安楽の行を修めてえられる功徳です。それらはすばらしい素質や能力をそなえている人が修める難行であり、しかも心を落ち着け、仏・浄土・真理などを観察し、常に心に思って人のみが成し遂げられるさとりです。
 しかし真言密教や法華一乗の行を修める徳の高い僧でさえも次の世でさとりをひらくことを祈るくらいですから、深い教えを理解することも、行を修めることもできない私がこの世でさとりをひらくことができないのは、いまさら言うまでもないことです。
 それに対して、浄土の教えについては次のように述べられています。

  来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の通故なり。
  これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。

    (『歎異抄』第十五条)
来世でさとりをひらいて阿弥陀さまの他力によって浄土に生まれると説くのが浄土教であり、信心が定まったときに与えられる間違いのない道理なのである。これは素質も能力も低い劣った人に開かれる易行の道であり、善人とか悪人という分けへだてすることのない教えである。

さらに、次のようにも示されています。

  戒行・慧解ともになしといへども、弥陀の願船に
  乗じて、生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬる
  ものならば、煩悩の黒雲はやく晴れ、法性の覚月
  すみやかにあらはれて、尽十方の無礙の光明に
  一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、
  さとりにては候へ。

    (『歎異抄』第十五条)
戒律を守って行を修めるのではなく、また教えを理解する力もない私ではあるけれど、阿弥陀さまの本願という船に乗って、生死の苦しみの海を渡って浄土の岸に至り着いたなら、煩悩の黒い雲がたちまちに晴れ、さとりの月が速やかにあらわれて、あらゆるところに何ものにもさえぎられることのない阿弥陀さまの光明と一つになって、すべてのいのちあるものを救うときにこそ、まことのさとりをひらくのである。

 この煩悩に満ちた娑婆世界において、頼るべきは阿弥陀さまの本願のみです。ただそのこと一つを聞き、知らされんがためにこの世にいのちをいただいたのです。しかし本願に遇わせていただいたても、この世に身を置く限り、悪業煩悩にまみれてしか生きることができないのが、この私です。その者が、この世でさとりをひらくなどと考えることが、すでに過ぎたうぬぼれ心を示しているのではないでしょうか。

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2011年7月12日 (火)

摂取不捨の願をたのみたてまつらば

  摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議
  ありて、罪業ををかし、念仏申さずしてをはるとも、
  すみやかに往生をとぐべし。また念仏の申されんも、
  ただいまさとりをひらかんずる期のちかづくに
  したがひても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じ
  たてまつるにてこそ候はめ。罪を滅せんとおもはんは、
  自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意
  なれば、他力の信心なきにて候ふなり。

    (『歎異抄』第十四条)
どのような悪人であっても、おさめ取って捨てずに必ず救うという阿弥陀さまの本願を信じておまかせすれば、どのような思へいがけないことがあっても、罪をおかし、たとえ念仏しないままいのちが終わったとしても、本願のはたらきによってすみやかに阿弥陀さまの浄土に往生をとげることができる。またこの世のいのちを終えるときに念仏を称えることができるのも、いよいよ阿弥陀さまの願いを信じ、阿弥陀さまのお慈悲へのご恩に報じさせていただくことである。罪を消そうと思うのは自力の心であり、臨終に至って心の乱れもなく往生したいと思う人の本音であるから、そういう念仏には他力の信心がないのである。

 第十四条の最後です。「ナンマンダブツ」と称えるだけで救われるというのは、どう考えてみたところで納得できない・・・という人はおられます。それは、わが思いです。私が生きているのに、わが思い以外の何に頼れというのか、と思う人もおられるでしょう。そのわが思いそのものが頼りにならない、その思いによって悩み苦しむのは当の私であることを教えてくださっているのが仏法です。
 罪を消すための念仏というのは、悩み苦しみを回避しようというわが思いへの執着以外のなにものでもありません。つまりわが思いへの執着が悩み苦しみを生み、それを解決しようとまたわが思いにとらわれてゆくのです。そのとらわれのことを、またとらわれていることすら気づかないわが思いのことを、「罪」というのではないでしょうか。その「罪」に気づけよと教えられているのです。

 そんなわが思いに気づかせてくれるのが念仏です。それはわが思いではなく、阿弥陀さまの思いなのです。阿弥陀さまの思いから、わが思いを見せられたとき、ようやくそれが執着であったことに気づかされるのです。それでわが思いがなくなるわけではありません。それでも執着は続きます。それでも阿弥陀さまのおこころで私の執着を常に振り返らせていただくことができるようになる。南無阿弥陀仏が鏡となって私の思いを映しだされるのです。
 そんな思い、執着を、そっくりそのまま引き受けてくださるのが阿弥陀さまのはたらきです。悩み苦しむままの私のすべてをまるまるゆだねることを待っていてくださるのが阿弥陀さまです。一つひとつの罪や悪が問題ではありません。何も問わずに南無阿弥陀仏とさせていただく。そして南無阿弥陀仏と応えさせていただくしかありません。

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2011年7月11日 (月)

罪滅ぼしの念仏?

  念仏申さんごとに、罪をほろぼさんと信ぜんは、すでに
  われと罪を消して、往生せんとはげむにてこそ候ふなれ。
  もししからば、一生のあひだおもひとおもふこと、みな
  生死のきづなにあらざることなければ、いのち尽きんまで
  念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあること
  なれば、いかなる不思議のことにもあひ、また病悩苦痛を
  せめて、正念に住せずしてをはらん。念仏申すことかたし。
  そのあひだの罪をば、いかがして滅すべきや。罪消えざれば、
  往生はかなふべからざるか。

    (『歎異抄』第十四条)
念仏を称えるごとに、それによって自分の罪を消そうと思うのは自分の力で罪を消して、往生しようと努力することである。もしそうであるなら、一生の間、心に思うことは、すべての生死の迷いに縛り付けられていないものはないのだから、この世のいのちが終わるまで、念仏を称え続けることによって往生することになる。ただし、業の報いは限りあることだから、思いもかけないことにもめぐりあい、病気に悩み、苦痛にさいなまれて、心安らかになれないままいのちを終えることもあり、そんなときは念仏申すことがでない。その間につくる罪は、どうして消そうというのか。罪が消えなかったら、往生できないのいうのだろうか。

 病気の治療の方法の一つとして、対症療法があります。病気の原因を探り、その原因にはたらきかける治療ではなく、そこに現れている症状を軽くするために行われる治療法です。たとえば、風邪をひいたときに咳や熱などを一時的にやわらげる治療です。しかしそれらを起こした原因が風邪であれば、風邪を治さない限り咳も熱もまた起こってきます。
 私が人間である限り、そして浄土に往生しない限り、悪をおかし罪を重ね続けるのです。一つひとつの悪や罪を取り上げて、それらを消そうとしてもとても消しきることはできません。それ以前に、私が悪や罪と認識できるものには限りがあることを知らねばなりません。その認識できる限りある悪や罪でさえ、それに対応して念仏を称えることなどとてもできるものではありません。それで罪が消えなかったら、往生できないのでしょうか。

 それに加え、私たちはいつまでも生き続けるということを前提にしていますから、いつも「そのうちに・・・」と、人間にとっての一番大事な問題を先送りしています。もちろん頭では、寿命があって、いつか死ぬだろうとは思っています。その「いつか」というのが先送りの思いです。
 人が亡くなることは知っているはずなのに、訃報を聞くと、だれもが「驚いた」「まさか」「早すぎる」「まだまだ生きてほしかった」・・・などと言うのです。ましてや自分のこととなると、この世のいのちが終わることを、ずーっと遠いところに置いてしまっています。そんな人生のなかでは往生などということなどまったく問題にはなってはいないということです。

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2011年7月10日 (日)

如来大悲の恩を報じ、徳を謝す

『歎異抄』の筆者が、念仏による罪滅について、「いまだわれらが信ずるところにおよばず」と否定する理由を、次のように述べています。

  そのゆゑは、弥陀の光明に照らされまゐらするゆゑに、
  一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、すでに
  定聚の位にをさめしめたまひて、命終すれば、もろもろ
  の煩悩悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまふなり。

    (『歎異抄』第十四条)
それは阿弥陀さまの光明に照らされているから、阿弥陀さまの本願を信じて生きるという一念を起こすとき、それは金剛のような決して壊れることのない信心を阿弥陀さまからいただき、そのときすでに阿弥陀さまより間違いなく浄土往生間違いなしと抱きとられるのである。そしてこの世のいのちが終わったとき、さまざまないままでの煩悩や悪業を転じて、無生忍という最高のさとりをひらくことができるのである。

 罪を消さなければ往生できないのではないのです。凡夫である私は、罪を作るために生きているようなものです。仮に一つの罪を消そうとしても、そのためにどれだけの罪を作っているか。そのことを知らないのは私だけです。阿弥陀さまはすっかり見通してくださっているから、本願を立てずにはおれなかったのですから。
 そして私が阿弥陀さまの本願への一念を起こすとき、私がこれまで抱えてきた罪業そのままで阿弥陀さまに迎え取られるのです。私はそのままだけれど、阿弥陀さまはその罪を引き受け、さとりへと転じてくださるのです。私の罪業が阿弥陀さまのめあてであったのです。

  この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか
  生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひだ申すところの
  念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すと
  おもふべきなり。
    (『歎異抄』第十四条)
この阿弥陀さまの悲願がなかったら、この世を生きることだけに執着し、罪悪を罪悪と思わない者が、どのようにして生死の迷いから離れてまことに目覚めることができただろうか。一生の間に称える念仏は、すべて如来大悲のご恩に報い、その徳に感謝するものだと思わねばならない。

 「かかるあさましき罪人」というのは、決して居直りではありません。阿弥陀さまの光明に照らされて、罪をおかさずには生きることができないわが身の発見です。そんなどうすることもできないわが身が見せられたとき、如来大悲の恩徳を思い、報謝の念仏となるのです。

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2011年7月 9日 (土)

称名は罪滅の利益のためか?

 念仏によって罪を消すことができるのでしょうか。そういう問題提起で始まるのが『歎異抄』第十四条です。おかした罪を消すということは、現代人でも少なからず関心のある問題でしょう。それだけ罪をおかしているという意識を持っている人がいるということでもあります。
 念仏することによって八十億劫の罪が消えるということは『観無量寿経』のなかに「十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く」(『観無量寿経』註釈版p.115)と示されています。南無阿弥陀仏を十回称えたら八十億劫の罪が除かれるというのです。それに続いて、次のように書かれています。

  これは十悪・五逆の軽重をしらせんがために、一念・十念と
  いへるか、滅罪の利益なり。いまだわれらが信ずるところに
  およばず。

    (『歎異抄』第十四条)
これは十悪・五逆の罪の重さをわからせるために、一声の念仏、十声の念仏と言っているのだろうか。それは念仏にそなわっている罪を消す利益のことである。しかしいまだ私たちが信じるところには及ばない。

 それについて親鸞聖人は「一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり」(『唯信抄文意』註釈版p.717)と書いておられます。つまり念仏は罪を消さないというわけではないけれど、五逆の罪の重い重いことを知らせるためであるというのです。
 ここで大切なことは、それほどまでに念仏の力が大きいということでしょう。ただの言葉でも呪文でもないということがわかります。まさに阿弥陀さまのはたらきなのです。しかし念仏は罪滅の手段ではありません。自力の念仏で消せるものではないことは心得ておかねばならないことです。もうひとつ、私が作り続ける十悪・五逆の罪は重く、私の力で消せるようなものではないということをわからせ、阿弥陀さまのはたらきとしての念仏のによらねばならないことを教えているのだというのです。
 筆者は「いまだわれらが信ずるところにおよばず」と罪滅の考えを、はっきりと否定していることに注目しなければなりません。

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2011年7月 8日 (金)

信心かけなば詮なし

 第十八条は、布施の多少によって、浄土において仏に成るときの大小に関わると言われているという異議について述べられています。このことは、現代にも形を変えて出ている問題でもあります。費用対効果、損得勘定という視点が重視されるようになると、布施に対してもそのような考えが入って来ることは無理からぬことでしょう。

 布施をするというのは、自分の受けたことに対する感謝などの気持ちを表すものです。それが仏法流布、念仏興隆のために使われることによって、今日まで仏法が伝えられてきたのです。しかし、亡くなった人への供養のためにとか、自分自身の成仏のためにという思いが先立ってしまうと、それは本来の布施の意味を失ってしまいます。結果的に物品の交換として成立している経済活動とは一線を引くのは、布施をする者そして布施される者の思いのところがとても大きいのです。
 もっとも、現代社会のシステムの中に組み込まれてしまっている現状では、思いのところではなく、物品の交換という結果だけが問題となっています。

 大切なことは、物品の交換が、あるいはその額や量などが、浄土に往生するための条件ではないということです。それらのことが往生浄土のための足しになることはないし、むしろ自力の執心が露骨にあらわれていることになります。形にとらわれ、量にとらわれ、色にとらわれ、大小にとらわれて生きるのが私たち凡夫の生き方でしかありません。

  いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなば、
  その詮なし。一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころを
  なげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。すべて
  仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひ
  おどさるるにや。

    (『歎異抄』第十八章)

 「信心かけなば、その詮なし」。このひと言に尽きるのです。それは『歎異抄』第一条では、「ただ信心を要とすとしるべし」と示されていました。
 紙一枚も半銭のお金を仏法のために出さなくても、他力のこころにすべてをまかせて、信心深ければ、それこそ阿弥陀さまのおこころにかなうのです。

 どうしてもこの世を幸せに生きるようとして、この世に執着し、欲望をいだいて生活し続けるのです。そのために、仏法さえもこの世のこととして利用してしまう。この世の論理が通用すると思ってしまうのでしょう。
 そんなことをくり返し、この世の人生を終わってゆかねばなりません。むなしいことです。かなしいことです。そんな私の人生をすっかりそのまま抱き取ってくださっているのが阿弥陀さまです。阿弥陀さまが「まかせよ」とおっしゃってくださっているのは、ほんの一部分のことをいうのではありません。煩悩にまみれ、苦しみ悲しみにまみれた私のすべてをすっかりそのまま引き受けてくださるのです。

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2011年7月 7日 (木)

信心の行者すくなきゆゑに

  信心かけたる行者は、本願を疑ふによりて、辺地に生じて
  疑の罪をつぐのひてのち、報土のさとりをひらくとこそ、
  うけたまはり候へ。信心の行者すくなきゆゑに、化土に
  おほくすすめいれられ候ふを、つひにむなしくなるべしと
  候ふなるこそ、如来に虚妄を申しつけまゐらせられ候ふなれ。

    (『歎異抄』第十七条)

 何をはからうこともなく、阿弥陀さまのこころをそのまま信受して、浄土のど真ん中に生まれさせていただくのが、浄土の教え、念仏の教えです。日常生活の中にどっぷりと浸かってしまうと、まったく聞こえない話です。フッと我に返って、悩み苦しみ悲しみを感じ、この世の論理、倫理ではどうすることもできなくなったとき、少し触れてみたいと思うのが仏法でしょう。今日の仏教への関心の多くはそんなところにあるような気がします。
 しかし少し触れれば、阿弥陀さまのこころがそのまま受け取れるほど簡単なことはありません。それは阿弥陀さまのこころが複雑難解だからではなく、そのこころをそのまま受け取ることができない私の疑いがあるからでしょう。

 「信心かけ(欠け)たる行者」とは、阿弥陀さまのこころを疑う者は、あるいは自力を頼りにしている者です。浄土のど真ん中に生まれることはできませんから、辺地に生まれるというのです。しかし阿弥陀さまは私の思いや行為に関係なく、私を救うと誓われているのです。決して地獄におとさないと誓われているということでもあります。それゆえ、辺地に生まれ、阿弥陀さまのおこころを疑った罪を償ってから、報土のさとりをひらくことができるというのです。
 本当の信心の行者がきわめて少ないからこそ、まず辺地(=仮土)に生まれさせていただくのでしょう。どうしようもないものも辺地に生まれさせるというのが、阿弥陀さまのおこころです。

 この条では、阿弥陀さまのこころが、私たちにははかりしれない深い慈悲であることがわかります。にもかかわらず、阿弥陀さまのこころに勝手な解釈を加え、阿弥陀さまのはたらきをゆがめ、軽く見てしまっていることを気づかされます。
 だれもがすくわれてゆく教えであることを再確認する一方で、だから疑おうが、自力であろうといずれはすくわれてゆくことに変わりは無い・・・という思いがあれば、それは居直りでしかありません。あくまでも、浄土のど真ん中に生まれさせるというのが阿弥陀さまのおこころですから。

  仏智うたがふつみふかし  この心おもひしるならば
  くゆるこころをむねとして  仏智の不思議をたのむべし
     (『正像末和讃』註釈版p.614)

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2011年7月 6日 (水)

辺地往生の人は地獄行きなの?

  辺地往生をとぐるひと、つひには地獄におつべしといふこと。
  この条、なにの証文にみえ候ふぞや。学生だつるひとのなか
  に、いひいださるることにて候ふなるこそ、あさましく候へ。
  経論・正教をば、いかやうにみなされて候ふらん。

    (『歎異抄』第十七条)

 『歎異抄』第十七条は、辺地往生を遂げた人は、最後に地獄に堕ちてしまうという異議について述べられています。
 往生とは浄土(=仏国)に生まれることです。人間に生まれたらだれでも往生できるわけではありません。浄土に生まれるだけの徳が必要です。凡夫が浄土の生まれるための徳を積むためには、教えに示されたことを守り、実行しなければなりません。それが修行です。
 辺地往生とは、真実の世界である浄土(=仏さまの国)の周辺の仮の世界に生まれることです。そこに生まれる人は、最後は地獄におちるのだということが、当時、言われていたようです。

 しかし、自力によって浄土に生まれるだけの徳を積む修行というのは並大抵のことではありません。生物学的人間として生まれても、一人前の社会的人間になることはたいへんな時間がかかります。それも数え切れない人たちにサポートされていています。それに加えて、誰からもすばらしい人間、人格者だと尊敬されるような生き方をできる人は、ほんのまれな人でしょう。ましてや人間に生まれた者が人間になるというレベルにとどまらず、さとりを得て仏に成るのというのですから、まずあり得ないことです。人間が仏に成るというのはたいへんなことなのです。
 しかし阿弥陀さまは、仏に成れない人間を仏にすることを誓われた仏さまです。浄土に生まれる徳を、私にかわって修めてくださり、その徳を私に振り向け(回向し)続けてくださっているのです。
 自力の執心を捨て、阿弥陀さまのお徳にすっかりおまかせするのです。なかなかまかせることができないから、まかせるこころも阿弥陀さまからいただき、阿弥陀さまのこころをわが心とさせていただくのが信心です。その阿弥陀さまのこころをいただいた者が、浄土に往生させていただくことができるのです。

 何をはからうこともなく、阿弥陀さまのこころをそのまま信受して、浄土のど真ん中に生まれさせていただくのが、浄土の教え、念仏の教えです。しかし、日常生活に軸足を置く私にはそんなことよりももっと大切で急がねばならないことがル・・・と思っています。仏法のまことがまことと受け取れない、阿弥陀さまの願いをそのままいただけないまま、むなしく過ぎてゆきます。
 そんな者は浄土の辺界に生まれ、いずれ地獄におちることになる・・・という人がいる。それはどこに書いてある? エライ学者さんたちが言ってるの? お経や教えをどう読んでいるでしょうか? ・・・・などと、ずいぶんお怒りになっておられるようです。

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2011年7月 2日 (土)

弥陀の御恩を常に思いださば、念仏も申される

 仏法は、その教えを聞いて、聞いて、聞き続けることが大切なことです。ただ、聞く回数を増やせば、信心をいただくことができるということではありません。数多く聞いても、阿弥陀さまのこころを疑い、反発するようでは何も届きません。
 阿弥陀さまのこころを疑い反発するというのは、阿弥陀さまの本願に変わるものがあると思っているからでしょう。阿弥陀さまの智恵と慈悲を超えるような考えがあるということなどありえないのに、やはり頼るべき者は自分自身であると思うのでしょう。親鸞聖人が88歳のときに書かれた手紙には、「法然聖人は、『浄土宗の人は愚者になりて往生す』と候ひしことを、たしかにうけたまはり候・・・」(「親鸞聖人御消息」註釈版p.771)と書かれています。言うまでもなく、ここで浄土宗の人というのは、宗派や教団の人のことではなく、念仏の教えに帰依する人のことです。

  すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひを
  具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、
  つねはおもひいだしまゐらすべし。しかれば、念仏も申され
  候ふ。これ自然なり。わがはからはざるを自然と申すなり。
  これすなはち他力にてまします。しかるを、自然といふ
  ことの別にあるやうに、われ物しりがほにいふひとの候ふ
  よしうけたまはる、あさましく候ふ。
    (『歎異抄』第十六条)
 すべてのことにつけて、往生には小ざかしい気持ちを交えないで、ただほれぼれと阿弥陀さまのご恩が深く重いことをいつも思い出させていただかねばなりません。そうすればおのずと念仏も申すことができる。自分のはからいを交えないのが自然というのである。これが他力、すなわち阿弥陀さまの本願のはたらきなのです。それなのに、おのずとそうなるということが他力以外にもあるように物知り顔をしていう人がいるように聞くけれど、嘆かわしいことです。

 私が帰依すべきは阿弥陀さまです。聞くべきは阿弥陀さまのおこころを聞かせていただくのです。阿弥陀さまのおはたらきを知らせていただくのです。忘れても聴聞、阿弥陀さまのおこころに反しても聴聞、聞いて聞いて、常に阿弥陀さまの願いに触れていれば、はからいもなく念仏することができるようになる。私がはからわないことが自然(じねん)なのです。私がはからわないのが他力なのです。
 わが口から念仏することほど不自然なことはない、どんなことがあっても念仏なんかとなえるものか、などと思っていたものが、聴聞を重ねることによって念仏するようになる。なんと不思議なことか・・・と思うかもしれませんが、それが自然なのです。
 私が阿弥陀さまの心に激しく抵抗していることが不自然なのことだということに、私が気づくことはありません。他力こそ自然であることに気づくのは容易なことではありません。それほどわが思いに執着し続けて、自分の勝手な思いに振り回されたまま、他力に気づかせてもらうことなく、自然に逆らってどこへ行こうとしているのでしょうか。

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2011年7月 1日 (金)

わろからんにつけても、願力を仰ぎまゐらせよ

 親鸞聖人が明らかにされた念仏の教えの要は、「信心をいただく」ことです。他の宗教では、「信心する」「信心が足る」ということが言われますが、浄土真宗ではこのようには言いません。それは信心と「まことのこころ」のことで、私の心ではありません。阿弥陀さまのこころのことをさします。そのこころを私が起こすのではなく、あみださまからいただくのです。
 蓮如上人は、「信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころとは申すなり」(蓮如上人『御文章』註釈版p.1106)と示されています。

  信心定まりなば、往生は弥陀にはからはれまゐらせてすること
  なれば、わがはからひなるべからず。

    (『歎異抄』第十六条)

 往生は阿弥陀さまのはからいによるもので、凡夫(=私)のはからいでないとおっしゃっていますが、それは「信心が定まりなば」という条件がついています。当然、私の思いや行為が起こす信心ではなく、阿弥陀さまのまことのこころをいただいたなら、ということです。
 しかし仏法を聞くというのは難儀なものです。すべて準備された阿弥陀さまのこころをそのままいただけばよいのに、そこにわが思いをからめますから、ああでもない、こうでもない・・・と阿弥陀さまのこころをもてあそぶのです。救うのは阿弥陀さまのはたらきなのに、私の都合のよい思いによって何とかしようとしています。何とかしよう・・・と自覚したところで、何ともできるはずもありません。何とかしたい、しよう、できるに違いない、などと思うだけのことです。これそが、凡夫の深い深い迷いです。そういう思いが「悪」なのです。

  わろからんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまゐらせば、
  自然のことわりにて、柔和忍辱のこころも出でくべし。

    (『歎異抄』第十六条)

 阿弥陀さまの願いに心を向けず、聞いても疑い続けるような日暮らしをしていても、私に何の要求をされることなく、そのままの私をすべて認めてくださっているのが阿弥陀さまです。その阿弥陀さまから一方的にかけられている願いを聞くのです。その願いを聞いても、私がピンとこないのも、反発したくなるのもあたりまえです。阿弥陀さまと共感するようなものを何も持っていないのですから。それでも聞き続ければ、他力の道理によっておのずと柔和で、忍辱の心も出てくることだろう、と言われています。
 悪をおかし、疑い続けても、仏法大事と仰ぎ、仏法を聞き続ければ必ず届くのが阿弥陀さまの願いです。私が起こすこころではないから、聞き続ければ穏やかで他力の道理によって穏やかな心が出てくるのです。まことなる阿弥陀さまの願いははかりしることができません。それゆえ、ただ阿弥陀さまを仰ぐのです。敬うのです。

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