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2011年8月31日 (水)

これ以上慮ってくださる方はほかになし

 悩みや苦しみを抱えながらも、私の思いをしっかり受け止めてくれたり、問題から逃げようと思っている私を問題と向き合うよう援助してくれる人との出遇いは、縁としか言いようがありません。また、人との出遇いではなく、美しい花や雄大な山などの自然を見たり、懸命に生きようとする動物を見たりすることによってでも悩みや苦しみを忘れ、癒されるたり、生きる力をもらうこともあります。
 しかし癒されるというのは悩みや苦しみが根本から解決するときに使われる言葉ではありません。一時的に安らいだり、静まったり、ホッとするという意味です。悩み苦しみが根本的に解決することはなくとも、物言わぬ自然さえもが、私の人生を応援してくれているとは言えないでしょうか。

 私たちは生きている以上苦しみや悩みが絶えることはありませんから、私を受け止めてくれる人との出遇いや、問題解決のために私を援助してくれる人との出遇いさえも「癒し」でしかありません。限定的な「癒し」であったとしても、力をもらって、また力を取り戻して、生きることができればそれは大いに感謝すべきです。

 それでも、結局、いつかは必ず老い、病み、死んでゆかねばならないということには違いありません。不安、むなしさ、恐れ、動揺、等々、尽きることのない私の悩みの根源を突き詰めると、それは老であり、病であり、死にあるのです。仏教は、生・老・病・死は根本苦だと教えています。悲しいことですが、避けることはできません。
 そんなことはない、「老いることを楽しみにしている」「病む覚悟はできている」などと思い、言葉にする人を数知れず見てきました。しかしそんな人は苦しみとしての老や病をほとんど体験することの無かった人か、弱みを見せたくはないという強がりなのでしょう。ましてや「死ぬことに恐れはない」というのはまったくの強弁でしかないという気がしてなりません。

 私は自分の思いに執着し、自分の身体に執着し、そしてこの世に生きることに執着しているというのが正直な思いです。ざわつく心、痛みや空腹などには無意識のうちに対処しようとしています。そして明日も、明後日も、1年後もその後もあると思い、計画を立て、夢を持つのです。
 いままで、明日も明後日も・・・と思って生きていたであろう人たちの死を見てきました。どんな人も、どんな自然の力も、死の前には力になりきれず、号泣し嗚咽するしかないのです。
 悩みや苦しみはどうなったのでしょう。癒しですむ問題ではありません。ほんとに不可思議としか言いようがありません。だれも答えを出してはくれません。

 そこにはっきりと答えてくださっているのは、阿弥陀さまのみです。不可思議なる問題、私の考えなど及ぶところではない問題を、私が悩み苦しむ以前から答えを出して待っていてくださっている。根本苦だから仕方がないというやるせない私の思いに先回りして、「まかせよ」と構え、待っていてくださっているのです。私のことをこれ以上おもんばか(慮)ってくださる方はほかにはおられません。

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2011年8月30日 (火)

苦や悩みを受けとめてくれる人との出遇いに感謝

 不安、むなしさ、恐れ、動揺、等々、私たちの悩みは尽きることはありません。次々に起こる悩みにおびえ、苦しむばかりのつらい日々を送ることがあります。しかしこのような悩みは、意外と心の表層での悩みであることがよくあるものです。心の奥底には、容易に気づくことができない糸が絡んだように複雑な思いが潜んでいます。悩んでいる本人は薄々それには気づいているのでしょうが、悩みや苦しみの本体にまで行き着くことができないでいることがよくあるものです。それをていねいに言葉にしてみることで、糸がほぐれ、悩み苦しみの正体が見えてくるものです。

 しかし自分で意識している悩みや苦しみをきっかけにして、心の底の複雑な悩み苦しみのもとに至り着くまでのところを言葉にするのは容易なことではありません。一人であれこれ悩んでいても、同じところをグルグルまわるだけで、解決の糸口さえもつかめません。言葉としてでてきたものを受け止め、さらにはその言葉が発せられた気持ちのところまでをもしっかり受け止めてくれる人が必要です。およそ悩みや苦しみとほど遠いと思われる言葉、たわいもない言葉、グチやつぶやきさえ、さらには表情や態度さえも受け止めてもらうことを通して、気持ちを受け止めてもらうのです。 
 私のすべてを知ってくれている必要はありません。悩みや苦しみについて、あるいは心理的な専門的な知識が必要なのでもありません。悩みや苦しみを受け止めてくれる人に求められるものは、悩み苦しむ人から信頼されていることと、受け止める人が問題を抱える人を全人格的に受け止めようという思いや姿勢でしょう。
 自分のことですから薄々ながら心の奥底の問題に心当たりはあるはずですが、なかなかその問題に至り着かないのです。それは自分では気づきたくはないから逃げているということなのかもしれません。もしかするとかつての傷を覆う蓋の重さゆえかもしれません。あるいは、すっかり忘れてしまっているつもりなのに、無意識のうちに頭をのぞかせる不幸な関係があるのでしょうか。いずれにしても、早くそこに至り着いて、しっかりと向き合うことなしに解決するものではありません。

 解決したい私の思いをしっかり受け止めてくれる人や、問題への向き合いを援助してくれる人との出遇いは、偶然であるのかもしれません。もう少し仏教的に言うなら、「縁」によって出遇うのでしょう。
 今日まで、悩み苦しみながらもそれらを乗り越えて何とか生きておれるのは、そういう人たちとの出遇いがあったからでしょう。探し回ったわけでもなく、たまたまいてくださった。結構わがままで、自分のことにかかり果てている私でも、そういう縁をいただき続けてきたことに、ただただ感謝せずにはおれません。

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2011年8月28日 (日)

見栄の心が仏法を遠ざける

 法話を聞かれた方(聴聞者)に法話の感想を求める布教使の方は数少ないと思いますが、あえて感想を求めると「ありがたいご法話でした」「とてもよくわかるようにお話しいただきました」という感想ががほとんどのような気がします。なかには「声が大きく聞きやすかったです」という感想もあります。講師をほめているのか、よく理解できましたとアピールしているのでしょうか。これではどのように法話が伝わっているのかわかりません。
 法話がよくわからなくても、はっきりとわからないとはなかなか言えないことはわかります。講師への気遣いもあるでしょうし、自尊心もあるでしょう。確かに、法話を聞いてその感想を述べるということはやさしいことではありません。それらのことを承知しつつ言いたいのは、法話を聞いたあとに心の内を正直にさらけ出さないことに、まったく意味がないということです。
 布教の後、住職や坊守(住職の妻)が法話を振り返るとともに、それぞれの思いを述べあうということをされているところもあるかもしれません。あまり時間が経過すると思いが薄れてしまうかもしれませんが、布教使より身近なところにいて、お互いに心が通い合う者どうしが感想を述べ合うのは聞法が深まります。そのときには、お愛想ではなく本音が出てくるでしょうか。

 仏法は本音を語り合うところから始まります。耳に心地よい話はあまりありません。四苦八苦の話にしても、煩悩の話にしても、罪悪の話にしても、私の姿を示されているのですから、むしろ自分の見せたくないところ、見たくないところを指摘され、イヤな気分になってしまいます。
 おもしろくない話だ、もっと良い面を評価してほしい、こんな仏法なんぞ聞くものか・・・等々と、正面から向き合うことを拒否したくなるのが私の本音です。それでも聞いた仏法の言葉が耳に残っていると、また仏法を心にかけて生活していると、仏法の指摘されているわが身の姿に気づくのです。私は、そこからほんとうの意味での仏法聴聞が始まるのだと思っています。

 心の底を見透かされるのはイヤと焦点をぼかしてみたところで、阿弥陀さまはしっかりと私の心の底を見抜いておられる。それをカッコ良くみせようとしたところで、心の底にあるほんとうの私から生ずる私の振るまいをごまかせるはずもありません。仏法では見栄は通用しないのです。自分を飾ろう、見栄を張ろうと思っているその心が、いちばん仏法を遠ざける心ではないでしょうか。

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2011年8月24日 (水)

仏智を疑って大慈大悲はえられない

 阿弥陀さまからいただく南無阿弥陀仏の心を、私たちはあまりに軽く見てしまってはいないでしょうか。表に出てきてわがもの顔でアピールするような阿弥陀さまではありませんが、あらゆる縁を使って私に諸行無常を知らせてくれます。なのに、あちこちで諸行無常の経験をしても気づくことも無く、うかうかと、ボーッと生きてしまっています。私が反応するのは、自分の身や心を楽しませることばかり。しかし身や心を楽しませることは長続きしませんから、また次の刺激、そしてまた次の刺激と求め続けなければ生きる意味は無いと考えるのです。そうして何が大切なことを見失ったまま、ただ時間だけが過ぎてゆくのです。

 そんな私に対して阿弥陀さまは、気づいてくれよと待ち続けてくださっているのです。そんなのありえないと思うか、あるいは始めから聞く気持ちさえも起こさないのが私です。
 阿弥陀さまのはたらきは不思議です。私の頭では、考えることができない、思いつくことさえもできないはたらきです。阿弥陀さまが待ってくださっている時間的な感覚などわかろうはずはありません。だから信じることができません。疑うつもりはないけれど、阿弥陀さまの慈悲も智慧もわからないのはあたりまえのことです。
 だから阿弥陀さまのこころを、願いを聞くことが、聞き続けることが大事なのです。わからないから聞かない、聞けないのではなく、わからないからわかるまで聞かなければわかることはありません。それなのに、わかったつもりと自分で浄土往生を判断するのです。

  仏智不思議をうたがひて
  善本徳本たのむひと
  辺地懈慢にうまるれば
  大慈大悲はえざりけり

   (『正像末和讃』註釈版p.612)

 仏智の不思議がわからないまま、自力の念仏を称えることで何とかなるだろうと思い込む。阿弥陀さまからいただいた念仏ではないから、自分の心を込めて念仏する。これではまるで誦文と同じです。南無阿弥陀仏が阿弥陀さまからの頂きものではなく、我が物として利用しているに過ぎません。阿弥陀さまが信じられない、疑いいっぱいの姿です。
 阿弥陀さまと心が通じ合っていないのです。阿弥陀さまには私の心はすっかり見透かされていますが、私が阿弥陀さまのこころがまったくわからないままです。「親の心、子知らず」とはこのことです。称名念仏することがあっても、まことのこころが通じていない念仏では、浄土の辺地、懈慢界にしか生まれることができないと説かれているのです。そこは浄土ではなく、化土と言われる境涯です。

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2011年8月23日 (火)

仏願への疑いをはらすのが聞法

 念仏の教えを聞くということは、阿弥陀さまから願いを受けるということです。それは願いに対する疑いをはらすということです。裏を返せば、もっとも罪が重いのは疑い心のままでいることでしょう。疑いの心にさえ気づかないまま、教えを握りしめて、この自分の信心でよいと思い込んでしまうとそこからなかなか抜け出すことができません。
 聞法を続けている人のなかには、「私は疑ったことなどありません」とか「そんなこと考えたこともない」とおっしゃる方は少なくありません。それでは、「南無阿弥陀仏にまかせることができているのですね?」「後生の一大事は解決しているんですね?」などと聞くと、言葉を濁したり、黙ってしまわれます。なかには、「そんなこと、いままで聞いたことがない」という人もおられます。

 仏法はどことなくありがたいもので、ほんわか、ふんわか気分なのがよい・・・というものではありません。もちろんそういう側面が無いではありません。どこかに胸が詰まるような思いをしながら、阿弥陀さまと向き合い、阿弥陀さまと向き合っている自分の心を受け止めなければならないこともあるのです。そんなとき、ほんわか、ふんわか気分などあり得ないことです。
 蓮如上人は「わが心にまかせずして心を責めよ。仏法は心のつまる物かとおもへば、信心に御なぐさみ候ふと仰せられ候ふ」(『蓮如上人御一代記聞書』註釈版p.1248)とおっしゃっています。
 「信心に御なぐさみ候ふ」というのは、阿弥陀さまの心によってなぐさめられるのです。疑いいっぱいの私の思いに差し込む智慧と慈悲の光りによって、疑いが晴れるのです。

 私たちの生活のなかでさまざまなものを頼りにしていますが、どこかでそれらに裏切られたり、頼り切れなかったりしてオロオロすることばかりです。結局は、自分を頼りにしないと、誰も最後の最後まで責任を持ってはくれません。ところが、その私が老いるし病むし、物忘れもするし、裏表もあるし、身勝手だし・・・と、決して頼りになるものではありません。
 末通ることのない、あやふやなものを信じ頼って、死ぬまで握りしめる姿こそ、迷いの凡夫の生き様です。それでも、自分の気持ちをしっかり持って、「頼りにしなければならない」と思い込むしかありません。

 仏法は思い込みではありません。思い込むというりきみを解き放ってくださるはたらきが仏法です。必ず救うとお誓いくださった阿弥陀さまの本願にまかせることなく疑い続けるなら、何を頼りにするのでしょうか。
 阿弥陀さまが、本願が、念仏がわからないから信じられないのですか。しかし阿弥陀さまや本願や念仏がわかって納得したら信じられるというものでもありません。所詮、凡夫の頭でわかるものではないのですから。
 それでも聞いたらいただくことができる。阿弥陀さまから私に回向されるのです。本願は、私のために仕上げられたまことのこころなのですから。

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2011年8月22日 (月)

「~である」私への気づき

 生まれてからのち、人生は「~になる」ことを目標にして生きていきます。歩けるようになる、しゃべれるようになる、字が書けるようになる、高校生になる、自動車の運転ができるようになる、仕事ができるようになる、・・・と。大人になっても、つねに「~になる」ために生きていると言えましょう。
 「~になる」という目標は、今の状況から先を見る目です。夢がふくらみますし、希望に満ちています。そして目標を実現することができたら、次の目標はひとつ大きなものになり、それを実現するために生きるのです。実現できるか否かという不安より、必ず実現してみせる・・・という意志が人類の発展や自分自身の成長にもつながってきたことは間違いありません。
 そんななかでも、失敗をすることもあります。うまくいなかいことが続くと、気持ちは次第に落ち込んでゆきます。しかしまた、何かのきっかけで、元気をもらって「~になる」という力をよみがえらせるのです。

 一方、ある一定の年齢を過ぎると「~でなくなる」という喪失感を感じるようになります。精神的にはいつまでも成長し「~になる」ということがあるのでしょうが、身体的には衰えがやってきて、走ることができなくなる、堅いものが噛めなくなる、小さい字が読めなくなる、などという事態に至るのです。また、定年退職などのように社会的な関わりのなかで「~でなくなる」ということにもなります。身体的にも社会的にも成長・成熟の期間から老衰そして死亡という時期を迎えるのです。

 そんなとき、先を見るのではなく、フッと現在の自分を見つめるようになるのです。「~になる」という可能性がみえなくなり、「~でなくなる」ということに気づくほどに、それまでほとんど関心を向けなかった「~である」というところに関心を向けざる得なくなります。「~である」という、私に気づくのです。「~になる」とがんばってきた私も、「~でなくなる」私も、そして「~である」という私も、年齢や体力などとは関わりなく私なのですが、いま、ここの、ありのままの私を「~である」と知らされるのです。
 これは宗教や仏教などとは直接関係があるわけではありません。無宗教の人でも、仏教を知らない人でも、遅かれ早かれ気づくことです。しかしその「~である」自分への気づきは、宗教、仏教への入り口でもあります。

 仏法を聞くということは、教えを聞くことです。仏さまのおこころも聞かせていただきますし、変わらないまことも聞かせていただきます。同時に、そこには私のありのままの姿も示されているのです。なぜなら、私の「~である」という姿を受けてできているのが仏法だからです。仏法を聞くというのは、決して特殊なことではありません。ありのままの私の姿への気づきなのです。

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2011年8月21日 (日)

「生きる」(2)(3)

2)このままの わがいのち
  このままの わがこころ
  このままに たのみまいらせ
  ひたすらに 生きなん今日も

 「生きる」の2番です。ここに出てくる「このまま」というのは、どのような姿をいうのでしょうか。「このままの わがいのち」「このままの わがこころ」というのは私のいのち、わたしのこころをさしているのですが、いつもコロコロと移り変わる私の勝手な思いや行為のどの部分が「このまま」なのでしょうか。
 コロコロと移り変わる思いや行為のすべてを「このままの」とおっしゃっているのです。つまり時間的、空間的な広がりを超えています。笑っている私も、腹立てている私も、ずるい私も、やさしい私も、おそろしい私も、・・・、すべての私が「このままの わがいのち」であり、「このままの わがこころ」なのです。

 だから「このままに たのみまいらせ」は、私のすべてを阿弥陀さまに投げ出した私の姿です。どんなことを思い、どんな行為をしようとも、阿弥陀さまには許される世界があるのです。おまかせした以上は、ただひたすらに今日の一日を精一杯生きることしかないのです。精一杯生きた結果がどのようなものであったとしても、そのままをおまかせするのですから、それ以外には私にはできないのです。

3)あなかしこ みほとけと
  あなかしこ このわれと
  結ばるる このとうとさに
  涙ぐむ いのちの不思議

 「あなかしこ」という言葉は現代では使われませんが、蓮如上人の『御文章』では、多くが「あなかしこ、あなかしこ」と締めくくられているのをご存じかと思います。書状の最後に書いた言葉で、「おそれ多いことですが」とか「あぁ、もったいない」いう意味です。
 最初からの3行は、“恐れ多いことですがみほとけと、もったいないことですがこの私とが、結ばれる・・・”という意味でしょう。仏さまと私が何らかのご縁を結ばせていただくというのは滅多にあることではありません。ただ、阿弥陀さまという仏さまは、私に対して、迷いの世界から救わずにはおかないと、なんとか縁を結ぼうと待ちに待ってくださっていたのです。私が求めたわけでも、頼んだわけでもありませんが、その阿弥陀さまのおこころが通じた人にとっては、涙するほど尊いことであるのです。
 よくぞまぁ、このご縁に出遇うためにいただいたいのちであり、このご縁に出遇うために今日まで生かさせていただいたと、いのちの不思議をあじわわずにはおれないのです。
 何気ない仏さまとの出遇いが、豊かな感性によって言葉にされることにより、自分自身の仏法の出遇いを、そして今の味わいをあらためてかみしめてみるのです。

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2011年8月20日 (土)

「生きる」(1)

 「生きる」という仏教讃歌があります。初めてこの歌を聞いたのか覚えていませんが、とても印象的で、一回聞いただけで歌詞を覚えた歌です。
 作詞された中川静村師は、奈良県橿原市の浄念寺住職でした。童話・童謡作家であり、詩人でもあります。作品の底に流れているのは念仏です。作曲の森正隆師も大阪の浄土真宗の僧侶でした。「アソカの園」や「仏教壮年の歌」などを作曲しておられます。

1)生かされて 生きてきた
  生かされて 生きている
  生かされて 生きていこうと
  手をあわす 南無阿弥陀仏

 自分の人生を振り返って「生かされて 生きてきた」と感じることがあります。また、いま、「生かされて 生きている」と感じることもあります。若いときは、そんなことを「生かされる」ということばに違和感を感じたことがありましたが、いろんな人生経験をし、歳を重ねるほどに「生かされる」と感じてるようになっていくことを実感せずにはおれません。
 “思い通りに生きてやる”“わが力で生きていく”と思いは実に危ういもので、私の気づきの有無にかかわらず、あちこちで力をもらい、助けられ、お陰をこおむってきたのです。それが今頃になって、つくづくと思い知らされるのです。

 にもかかわらず、「生かされて 生きていこう」とは、なかなか思えません。迷惑をかけてはいけないという殊勝な思いもあるのでしょうが、迷惑をかけるのは格好が悪いとか、私が力になれないなら誰も頼りにならない・・・という思いもあるようです。
 それまでと何か事態が変わっているわけではありません。これまでと同じように、生かされることなく生きることはできないにもかかわらず、生かされて生きていこうと素直に手を合わすことができないのが私です。

 よく考えてみれば、学校教育のなかで、「生かされる」という言葉を聞いた記憶がありません。いつも力強く生きることだけを教えられてきたのではないでしょうか。力強く生きることができる条件が揃っているときは、生きることは楽しいし、夢もある。しかし、フッとしたことで、生きることにつまずいたときほど、しんどいことはありません。
 でも、力強く生きていると感じているときも、生きることにつまずいたときも、生かされていることに変わりはありません。そのようにいただけない自分自身に傲慢さがあるのでしょう。
 その私には、最後の2行「生かされて 生きていこうと」「手をあわす 南無阿弥陀仏」は厳しいメッセージとなって届けられます。

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2011年8月19日 (金)

仏法の教えにしたがって生きる

 少欲知足のお手本を示すのは、本来なら僧侶の役割でしょう。念仏者の生き方です。しかし少欲知足の生活をしている僧侶がおられないわけではないでしょうが、少なくとも私は知りません。
 私たちの生活レベルは、おそらく現金収入に比例するでしょう。たくさんの収入があれば、少々のぜいたくがあたりまえになってしまいますし、収入が少なければ、どこかを削ってそれなりに質素な生活をせざるを得ません。それは経済的なところからみていますが、経済的なところに人間の精神性まで左右されてしまっている現状は隠しようもありません。
 僧侶が少欲知足の生き方をすべきだと思うのは、収入の多寡に関係なく、仏法によって教えられるところにしたがって、自己をコントロールする姿勢が必要であるということです。

 凡夫ですから、何をしでかすかわからないし、戒律をしっかり守り通して生きることができるわけでもありません。いかに教えられようと、ぜいたくな暮らしを続けるなかで、簡単に思いや行為を変更するということは難しいことです。
 阿弥陀さまの願いはその私のありのままの姿を全面的に肯定し、そのままのすべてを引き受けてくださるのです。そのように聞かされると、私も全面的に現状の自分を肯定してしまう。現状の私を肯定する他に生きようがないと思ってしまいます。それでいいのです。どうすることもできないわが身を、阿弥陀さまがすっかり引き受けてくださるのです。そのはたらきにすべてまかせればよいのです。それが阿弥陀さまの願いに応えることでもあります。
 口で言うのは簡単ですが、実際に自分の堅い、重い、しぶとい、どこかねじ曲がっている自性が、簡単に阿弥陀さまに後生をおまかせできない。そんな自分に気づかせていただくのも、たゆまぬ聴聞に依るのです。

 しかし後生の問題は解決しても、この世の悩みや苦しみや迷いが晴れるわけではありません。ますますこの世のほんとうの姿がみえるようになり、より深い悩みや苦しみや迷いを知らされることになります。この世のことも、阿弥陀さまにまかせることができればよいのでしょうが、手放すことができない「我執」がそうはさせてはくれません。
 阿弥陀さまはありのままの私にすべてをまかせよと願いはたらいてくださっていますが、それはありのままの私ではダメだということです。ダメだから私にまかせよというのが阿弥陀さまのおこころです。私のありのままが、浄土に生まれることによって仏にさせていただく種なのです。これはみんな阿弥陀さまのおはたらきに依るものです。

 それではこの世のありのままの気ままな生き方は、教えに示されたように生きるしかありません。冒頭に示した「少欲知足」や「和顔愛語」などは、この世での生き方を具体的に示されたおことばといただけるのではないでしょうか。

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2011年8月18日 (木)

まずはかかとを地に着けることから

 だれもが幸せになりたいと思っていますが、その幸せの中身が具体的に描いている人というのはそんなに多くはおられてないのではないでしょうか。
 かつては「重厚長大」を目指した社会が、「軽薄短小」をもてはやされる社会に変わっていきました。「消費は美徳」という生き方の理想は「エコな生活」へと移りつつあります。幸せの具体像を描いても、社会の変化とともに理想の姿は変わってゆくのです。
 それでも、いったん経験した多くの物に囲まれ、便利な生活に慣れてしまうと、なかなか逆戻りすることは難しいものです。すべての欲求を満たすことはできなくても、少しずつでも確実に欲求を満たし得る社会を作り上げてきたのです。ましてや欲求を満たすことができる社会システムを後退させることなど、反発が多くて容易なことではありません。

 東日本大震災と津波は、多くのものに囲まれ、便利な生活に慣れてきた人たちから何もかも奪い去ってしまいました。しかしこれは天災です。悲劇的な状況からふたたび立ち直ろうという意志と努力によって、形を変えて必ず復興することができます。
 ところがもう一つ大きな問題となっている原子力発電所の放射能漏れについては、前者ふたつと次元を異にすると思っています。

 豊かさを求めてきたひとつの結果が原子力発電所です。ただこの技術は、これまでの科学や技術と決定的に違うところがあります。それは実験と実用化が同時並行に行われているということです。
 一般的には、科学や技術が実用化されるときには、何度も実験や試験をくり返し、問題点を改良・修正されていきます。しかし原子力発電所については、まだまだわからないことがたくさんあります。また実験装置が大がかりになるため、実用化の中で検証することも多くあると聞きます。実際、今回の福島原発の事故のようなことは、人類始まって以来の対処を、手探り状態でおこなうか、どうにもできなくて放置するしかないという事態となっています。

 私たちが求めていたエネルギーとしての電気を求めて原子力発電が始まりました。求めるだけの電気が供給されるようになりましたが、人類にとってはずいぶん背伸びをした技術であったことをあらためて知る結果となりました。
 私たちの生活を支えるシステムとして原子力発電が組込まれている以上、即座に全廃するということは極めて困難です。ただ、この原発にことについても、不穏な雲が漂っている日本の経済にしても、身の丈に合った、地に足着いたものにする必要性を感じます。それは容易なことではありません。
 それは社会全体の方向性をもう一度考え直すということですが、国会議員や官僚などというあまり生活感覚のない人たちに任すばかりでは何も変わりません。私が慣れ親しんでいる現状の生活の現状維持を見直すことから始める必要があります。無用な我慢をすることはありませんが、つま先で精一杯背伸びしていることに気づき、上げているかかとを地につけることから始めなければなりません。

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2011年8月17日 (水)

すべての人にやさしく、あたたかく接したいけれど・・・

 「あの人はとってもこころのやさしい人だ」「みんなの心のあたたかさに救われた」とか、逆に「あの人はこわくて、側にも近寄れない」「みんなはどうして私にだけこんなにつめたいんだろう」というような思いをもつことがあります。
 人間関係のなかで起こる思いですから、必ず相手の態度や表情や言葉が目の前に浮かぶことになります。PTSD(心的外傷後ストレス障害)となるほどの強い印象でなくとも、日常的にこういう感情を抱きながら生活をし、人びとと関わっています。

 人のすべてがやさしいとかこわいということはありません。またすべてがあたたかいとかつめたいということもありません。どんな人も、それぞれのなかにやさしさもあたたかさも、こわさもつめたさも有しています。いつもやさしい人(またはいつもこわい人)のように思いますが、そういう面に多く触れただけで、ある関係のなかではまったく逆の面をみることもあります。そんな時には「まさかあんなに・・・・とは思わなかった」と思うだけのことです。
 人の印象というのは、ある特徴がどれくらいの割合で表に出てくるかということによるだけのことです。なぜか、私との関係のなかではやさしさばかり(あるいはこわさばかり)が出てくるのでしょう。そういう関係になってしまっているのでしょう。もちろん状況が変われば、まったく違った関係が生まれることもあるのです。

 私の立場から、常に人を見て、好き嫌いや善し悪しを判断しているのが私ですが、関わる人に対して私自身がどのような態度や表情や言葉を発しているのかということは、あまり考えることはないのではないでしょうか。
 私のなかにもやさしさやこわさ、あたたかさやつめたさもあるでしょう。しかし人によって、いつもやさしく、あたたかく接することができる人と、どうもやさしくなれずつめたく接してしまう人がいる。意識したり、自分の感情をコントロールして出てくるものではなく、ごく自然にでてしまう態度や表情や言葉があるようです。

 すべての人にやさしく、あたたかく接したいと思いますが、どうしてもそうなれない関係の人がいるなぁと思うのです。
 やさしく、あたたかく接することによってできる関係のなかで生まれてくる感情の方が、やさしくなく、つめたく接する関係のなかで生まれてくる感情よりも、はるかに心地よいのです。そのことは何度も経験していることで、忘れてしまっているわけではありません。にもかかわらず、やさしさを忘れ、あたたかさを失ってしまい、あとあと不快な思いを引きずってしまいます。

 いつも自分の思い考えることが、また自分の態度や言葉に間違いはないと思っている私ですが、阿弥陀さまの慈悲(やさしさやあたたかさ)に触れたとき、私のありようを照らし出され、教えられ、見せられてしまいます。

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2011年8月16日 (火)

帰依すべき教えが見えない僧侶

 私は浄土真宗の僧侶です。社会的には僧侶は職業の一つですが、この世のなかで僧侶というのはどういう役割を果たすのかと問わずにはおれません。例えば葬儀で宗教的な儀礼をすることによって人びとの心を癒やしたり、慰めたりという役割があるでしょう。そのためには美しく、荘厳な儀礼を執行することができるような日頃からのトレーニングをしておかねばなりません。
 しかしうわべだけを飾ってみても、そのことで人の心を動かせることはできないでしょう。にじみ出てくるような魅力とか、普段のつきあいのなかでできあがった信頼感や安心感のようなものがあってこそ、癒やし慰めることができるのだと思います。

 癒しや慰めは僧侶のすべてではありません。もともと僧侶は職業ではなく、たゆまなく仏道を歩む人のことです。それゆえ、多くの人びとから敬われてきたのです。
 姿形だけが仏道を歩むということなどありえませんが、表だけを繕うことによって、僧侶らしくふるまう者は少なくありません。でも、そんな形だけの僧侶は、すぐに見破られてしまいます。見破られた結果は、僧侶に対する軽蔑しかないでしょう。「坊主丸儲け」とか「クソ坊主」などという蔑称を浴びせかけられても致し方ありません。

  五濁邪悪のしるしには
  僧ぞ法師といふ御名を
  奴婢・僕使になづけてぞ
  いやしきものとさだめたる
   (『正像末和讃』註釈版p.619)

 もともとは敬われる存在であった僧侶たちですが、いやしい者とさえみられるようになっていったのです。社会的には末法の世となり、世俗化の社会が進んでいるということでしょう。五濁邪悪のゆえに、人びとが僧侶を見る目を濁らせてしまっているということもあるでしょう。
 それよりも問題なのは、仏道を歩まなくなった僧侶たちです。形だけが僧侶で、その姿をいくら真似てみても、帰依すべき教えが見えてきません。教えが説かれる前に、無用なマイナスの先入観を与えてしまっては、僧侶自らが仏法をそしっているのと変わりはありません。

 世俗化の進む現代社会においては、僧侶の社会的な貢献を重視する人たちがいます。そのことが多くの人たちに認められればよいと思っています。ただ、ひとりの人間としてできる社会的貢献と、一僧侶としての社会的貢献はどこで一線を引くことができるのでしょうか。もちろん一線を引く必要はないというのもひとつの見解でしょうが、自分自身が念仏申し、念仏を称える人がひとりでも増えることを願うのが、浄土真宗の僧侶だと思っています。
 社会的な貢献そのものが目標なのではなく、社会的貢献を通して念仏する人ができることが僧侶にとってはよろこびであり、使命なのではないでしょうか。それは私の念仏のいただきようが問われるということでもあります。

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2011年8月15日 (月)

聖道権仮の方便にとどまらずに

 お盆は、一般には先祖の霊をまつる仏教行事と思われていますが、少なくとも浄土真宗ではなかなかうまく説明できません。浄土真宗の門信徒の人たちでも、非真宗的な地域の習俗と結びついて、それぞれの地方独特のお盆の行事があるようです。
 亡くなった身近な人たちを想い、なつかしむことは、きわめて人間的な思いなのかもしれません。身近で大切な人が亡くなったときは、気持ちに余裕もなく、よくわからないまま日が過ぎてゆきます。しらばく時間がたち、真夏の暑さのなかでセミの鳴く声を聞くとき、亡き人をまったく違った思いで見直せるのかもしれません。そういうタイミングで、お盆を迎え、おつとめをすることは、当事者にはきわめて宗教的な刺激を与えるものかもしれません。

 お盆の行事によって宗教的な刺激を受け、それがきっかけとなってまことの教えを聞くご縁になるかもしれません。凡夫がそんなことを考えたところで、まことの教えを聞くご縁に容易に結びつくとは思いませんが、常にまことを求めるという姿勢は大切なことでしょう。もっと具体的に言うなら、まことは阿弥陀如来さまの教えを聞くことしかないと思い定めることです。

  聖道権仮の方便に
  衆生ひさしくとどまりて
  諸有に流転の身とぞなる
  悲願の一乗帰命せよ

   (『浄土和讃』註釈版p.569)
阿弥陀さまのまことの教えではないけれど、正しい教えに導くためにそれぞれの凡夫の機に応じて仮に設けられた教えが示されている。しかしその教えが、正しい教えに導くための方便であるとわからないまま、迷いの世をめぐり続けてきた。阿弥陀さまの誓願こそが私を迷いを断ち切る教えであると帰命せよ。

 お盆の行事に限らず、多くの仏教年中行事があります。歳をとると、一年中仏教行事をしているのではないか・・・と錯覚するほど、仏教年中行事があります。日本人はそれほどどっぷりと仏教とともに生きてきたということがわかります。ただ、大事なことは、仏教行事をすることではなく、仏教行事を通して、まことを聞かせてもらうことです。まことを聞かせてもらうためには、阿弥陀さまがまことを聞かせるために願い、はたらきを思うことです。
 自分の思うがままに仏法を解釈し、世間の習俗に合わせているだけでは流転の身でしかありません。どれだけ勉強しても、どれだけ社会的に高い地位を得ても、この世のわが身のありように気づくことができないからこそ、迷いのなかに生きる者でしかありません。迷いのまま流転する身の凡夫をそのままにしておくことはできないというのが、阿弥陀さまの悲願です。悲願は本願であり、誓願です。すべて私のために向けられています。

 私に向けられている悲願、本願、誓願に気づかないことが、方便にとどまってしまっていると言うことです。仏教徒、真宗門徒という形をどれだけ整えてみても意味はありません。

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2011年8月14日 (日)

「真宗宗歌」(3)

3) 海の内外のへだてなく
  みおやの徳のとうとさを
  わがはらからにつたえつつ
  みくにの旅を共にせん

 仏教の「平等」の精神は、言葉の上で終わってしまうものではありません。阿弥陀さまのはたらきによるものですから、すべての者を、すべての衆生を、分け隔てることはありません。

 浄土真宗では、阿弥陀さまのことを「みおや(御親)」「親様」と言い習わしてきました。阿弥陀さまのはたらきを、この世にあるものでたとえるとするなら「親」のはたらきがいちばん近いからでしょう。しかし人間の親とは違いますから、最上級の敬語をつかい「御親」「親様」と言うようになったのだと、私は思っています。

 誰にも自分の親がいます。いま、私が、ここに存在するのは、自分の親がいてくれたからこそです。そういう意味で、今の私にとってはいちばんの恩人です。誰にとっても、自分の親はそういう存在です。しかし他の人にとって、私の親はそれほどの存在ではないでしょう。もちろん慕ってくださっている人もいるでしょうが、怨んでいる人がいるかもしれません。
 しかし阿弥陀さまという仏さまは、私の親以上に私の恩人です。私だけではなく、すべての人、すべての衆生にとって恩人です。私の両親は、この世限りの親です。私を産み、育ててくれたことは間違いはありませんが、この世での縁が終われば、あとはそれぞれにおのおのの境涯に出て行くしかありません。でも、阿弥陀さまは、どんな境涯に生まれ、出て行ったとしてもいつも私の親様であり続けてくださる方です。それが人間の親を超えた阿弥陀さまの「徳」なのです。私はその徳をいただいて、過去から現在、そして未来も生き続けてゆくのです。

 その阿弥陀さまの徳に気づき、これ以上のものはないという信心をいただいたのであれば、それを私の身近な人に伝えずにはおれません。そんなにすばらしいものなら独り占めしたくなってしまうかと思えば、そんなことはありません。それは阿弥陀さまの徳だからです。
 「はらから」というのは、漢字で同胞と書きます。同じ母から生まれた兄弟姉妹のことです。または同じ国民のことを言います。しかし仏法のうえでは、この世限りのことではありませんから、ともに阿弥陀さまのお徳にふれ、阿弥陀さまのおこころをいただくための道を歩ませていただく「同朋」「同行」のことでもあります。
 私が聞かせていただいた法、阿弥陀さまからいただいた仏法ですから、そのことを同朋、同行にも伝えたくなるのです。それが私の責務・・・という重いものを背負うのではありません。私ひとりに向けられた阿弥陀さまのお徳、お慈悲ですから、自在にはたらいてくださるのです。
 念仏させていただきながら、阿弥陀さまの国(仏国土、浄土)に生まれさせていただくための旅を、同朋、同行たちと共にさせていただくことが、私たちのなりわいであり、人生そのものなのです。

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2011年8月13日 (土)

「真宗宗歌」(2)

2) 永久のやみよりすくわれし
  身の幸何にくらぶべき
  六字のみなをとなえつつ
  よのなりわいにいそしまん

 仏法を聞いた、阿弥陀さまの願いに出遇った、信心をいただいたとしても、「永久の闇より救われし」とはなかなか実感としてもつことができません。そのことがしみじみと味わうことができるのは、信後も聴聞を重ねること以外にはないと、つくづく思うのです。
 仏法を聞くことができた身であっても、相も変わらず関心の的は、この身この心を楽しませ喜ばせること以外にはありません。そのこと自体が「永久の闇」の中にいるということです。そんな生き方こそが永久の闇の中で迷っていることよ、と教えてくださっている、気づかせようと説き続けてくださっていることを、初めて知ることができた。知ったからといって、私の何かが変わるわけではありません。こころをくだき、けんめいに呼びかけ、はたらきつづけてくださっているのは阿弥陀さまでしかないのですから。

 でもそのことを知ることから始まって、聞かせてもらうたびに、永久の闇の中の自分を見せられ、そこからの救いを思い願ってくださっておられる方は、阿弥陀さましかおられないと気づかせてもらうのです。
 どんな話を聞いても、願わぬ私を永久の闇から救おうというお方はどこにもおられません。その前に、私が永久の闇に沈み続けていることすら教えてくださるお方はどこにもおられません。もし気づいたとしても、解決することのできない問題をあえて表にさらけ出すことなどできようはずはありません。だから、だれもが凡夫の持っている永久の闇に蓋をして、見ようとはしないのです。

 仏法では永久の闇より救われることが示されています。阿弥陀さまが、私が救う、必ず救うとおっしゃっておられるのです。その阿弥陀さまにすべてをまかせた者が、「身の幸何にくらぶべき」と言うしかないのです。

 しかし私たちが現実にこの世を生きていくということは、「世の生業(なりわい)にいそしま」ねばなりません。つまり永久の闇のなかを、迷い、苦しみ、悲しみをいっぱいかかえて生きていかなければなりません。
 そこで阿弥陀さまは「六字の御名を称えつつ、世の生業にいそしまん」と示してくださっているのです。六字の御名は、南無阿弥陀仏という阿弥陀さまのお名前です。必ずさとりの世界である阿弥陀仏の世界に迎えとるというお誓いでもあります。
 苦悩の闇に沈むほどの思いで生きなければならない私に、いつも阿弥陀さまは寄り添ってくださっているのです。苦しみから逃れるために、無理矢理に南無阿弥陀仏と叫ばなくても、阿弥陀さまの方から静かに南無阿弥陀仏と声をかけてくださっているのです。それにハッと気づかされ、小さな声でも南無阿弥陀仏と応えさせていただく。私の力などどこにもないし、なにもできないのに、阿弥陀さまがお一人で南無阿弥陀仏とはたらいてくださるのです。

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2011年8月12日 (金)

「真宗宗歌」(1)

 浄土真宗の門信徒なら、だれもが一度は聞いたことがあるのが「真宗宗歌」でしょう。曲をきいているだけでも、心が落ち着きます。

 作詞の真宗各派協和会は、現在の真宗十派で構成されている「真宗教団連合」の前身の団体名です。この真宗各派協和会が大正12年(1923)の立教開宗700年記念に毎日新聞紙上で作品を公募しました。そこに応募された三重県亀山市の真宗大谷派の僧侶・土呂基さんの作品が選ばれました。作詞者名が示されることはありませんが、3番の一部分を除いてほぼ応募したそのままが採用されました。
 その詞を、東京音楽学校(現在の東京芸大)教授の島崎赤太郎氏に作曲を依頼しました。島崎氏はクリスチャンでした。しかし明治半ばから昭和の始めにかけて音楽専門教育の第一人者であったようです。『オルガン教則本』や文部省の『尋常小学唱歌』の作曲委員会主任をしたことでも名を馳せています。また、西南学院大学や立教大学の校歌の作曲も行っています。

1)ふかきみ法にあいまつる
  身の幸何にたとうべき
  ひたすら道をききひらき
  まことのみむねいただかん

 この歌詞は、深いみのり(法)に遇うことができたこの身の幸せを何にたとえることができるだろうか、というのですから、教えによって救われた人の姿と思いがうたわれている歌です。その次は、未信の人たちに向けての願いでしょう。ただ仏法を聞けばよいというのではなく、ひたすら道を聞き開いて、まことのみ旨をいただきましょう、というのです。
 「聞き開く」のですから、聞いても教えの扉が開かれないような聞き方をしていてはダメだということでしょう。「まことのみ旨」はまことの教えの肝心要の本旨、つまり「仏願の生起本末」「弥陀の本願」「阿弥陀さまのおこころ」をしっかり聞かせていただくということです。救われようがない私を必ず救うという阿弥陀さまの願いであり、はたらきをわが身にいただくということです。

 どこか他人事のように歌い過ごしてしまいますが、私の立場は前半2行の深きみのりに遇うことができた私なのか、後半2行のようにひたすら道を聞き開けと呼びかけられている私なのかをはっきりさせなければなりません。
 すでに遇っているのにそのことがはっきりしない・・・というのでは困ります。それではたとえようもないほどの身の幸を感じることもできていないということでしょう。
 聞き開くこともできていないのに、聞けていないところで問法が終わってしまっていては、何のために人間に生まれさせていただいたのかもわかりません。

 仏教のやさしさは、阿弥陀さまと出遭ったとき実感できるのです。あいまいなままで、やさしさらしきものを感じる気がする・・・では詮ない限りです。わが思いにまどわされないで、自分は大丈夫だと思い込まないで、「まことのみむねをいただかん」。

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2011年8月11日 (木)

仏教讃歌を通しての聞法もあります

 仏教と音楽の関係は非常に親密です。最初は中国から入ってきた伎楽、唐楽から始まり、日本でも仏典に節を付けた声明(しょうみょう)が、日本独自に形を整えて仏教儀礼に用いられてきました。また一般の人たちの間では、平安時代から和歌調の詞に旋律をつけて唱える御詠歌(ごえいか)や、七五調(もしくは五七調)の詞に、その時代に流行りの旋律をつけた和讃(わさん)も口にされていました。
 明治時代にキリスト教の賛美歌の影響を受け、歌によって布教伝道してゆくことが始まります。特に浄土真宗においては、多くの仏教讃歌が創られています。浄土真宗本願寺派では、教学伝道研究センター内に「仏教音楽・儀礼研究所」(http://crs.hongwanji.or.jp/ongi/index.htm)が設置されています。
 浄土真宗では、仏教行事や教化活動などにおいて「恩徳讃」や「真宗宗歌」などは常に歌われています。それだけに、浄土真宗門信徒であれば「恩徳讃」「真宗宗歌」の歌詞を見なくても歌える人は数多くおられます。
 また、仏教行事を音楽法要形式でおこなわれることもよくあります。読経はなく、仏教讃歌で行事が構成されています。おそらく多くの人が抱いている仏教のイメージを一掃するほどのインパクトがあるのではないでしょうか。

 現在、浄土真宗の僧侶や門信徒が歌っている仏教讃歌の歌詞は、「恩徳讃」や「四弘誓願」などごく一部を除いて、仏教讃歌のために創作されたものがほとんどです。仏教や浄土真宗とご縁のある人たちによって作詞されています。その内容は感覚的なものもありますが、帰依することによって生まれてくる深い宗教的心情によるものもあります。聖教として取り上げられることはありませんが、その内容についてしっかりと味わうことにより、わが身に深くしみ込んでゆくのではないでしょうか。
 それだけではなく、その歌詞を通して、自分の仏法の聞き方、姿勢を学ばせてもらうことも多々あります。

 仏法は社会のため、衆生のため、他人のために説かれたものではありません。結果的にはそうであったとしても、もともとは私ひとりに説かれているのです。仏教讃歌も、私のために作曲され、作詞されたものであると聞かせていただくことです。
 演歌や歌謡曲やJ-popの歌詞を聞くことで、元気や勇気をもらったり、悲しい心をなぐさめてくれたり、等々、生きる糧となることがあります。仏教讃歌からも同じようなことを思うことがあります。さらに、いつも阿弥陀さまとともに生かさせていただいていることを感じることができるのではないでしょうか。それは仏教のやさしさを感じることでもあります。

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2011年8月 9日 (火)

底なし沼の板の上

 「生活が豊かになった」ということは、欲しいモノが思うままに手に入るという度合いに比例します。まずは生きるために必要な食べ物や衣類や日用品がしっかり確保されることでしょう。何も無い状態であれば、まず質より量を求めるでしょう。ある程度まで満たされると、量だけではなく質を求めはじめます。さらに、衣・食が満たされはじめると、より快適な場所で生活することを求めます。さらにはできるだけ心や身体に負担をかけないということをめざします。
 私たちはいま、市場経済社会のなかで生きていますから、それらのものを入手するためにはお金が必要です。だから「生活が豊かになった」ということは、自由に使えるお金をどれだけ持っているかということに比例することでもあります。
 私たちはこの半世紀の間に、決して満足しきることはなくても、ずいぶん豊かになったことは間違いないでしょう。

 日本人がコツコツと積み上げ、蓄えてきた豊かさですが、物やお金に頼っている豊かさである限り、それはアッという間になくなってしまう可能性があることも、よくよく知っておかなければなりません。先の東日本大震災では、アッという間に家の土台ごとすべての物が無くなってしまった人が数多くおられます。しかし地震に限ったことではありません。
 原子力発電も最先端の科学として、私たちの豊かな生活を支えてくれるものとして大いに期待されてきました。ところがそれは、いまや放射能をまき散らす制御不能の難物となってしまっています。
 最近問題になっている日本の円の価値が異常に高まっていることや、アメリカの債務問題から端を発した国債の価値の下落という事態、日本人にとっては寝耳に水のような話です。私たちが個人的にどれだけ努力してもとても及ばないことです。いまや、グローバル経済といわれるように、物もお金も地球全体で動いていますから、日本が一国で手を打ってもそんなに効果・影響がでるものでもありません。

 仏教は、心を問題にします。だからといって、心のことさえ知っておれば何でも解決できるというものではありません。心に問題が無くとも、自然災害や社会的なさまざまな状況にであうと、自分の足下が崩され、心もどこによりどころを求めて善いのかわからなくなってしまいます。
 強そうに見えても、私の力は底なし沼の上に板一枚置いて立っているようなものです。頼りにしている板そのものが実に薄っぺらで、いつ割れるとも知れないようなものです。自分がその板から滑り落ちることだってあるのです。
 でも、生きている限り、自分の力を信じ、自分の足下の薄っぺらな板そのものを信じていかねばなりません。ところが、必ず、自分の力を限界を知り、信じていたものがガラガラ音を立てて崩れてゆくときがやってきます。

 決して脅しているわけではありません。それが現実ですよ、そんな娑婆世界に生きているのが私です、と指し示してくださっているまことを聞くことです。特別な話ではありません。私の日常の生活そのものが、そう教えてくれているのです。

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2011年8月 8日 (月)

「仏法が生きている」ということは

 「仏法が生きている」といわれるのは、自分自身が生活のなかで教えに導かれたり、照らされていることを感じることでしょう。また、現実の生活のなかで、教えをベースにして生きている人がいるということでしょう。教えに導かれ、照らされている私と、教えをベースにして生きている人が話をしたとき、しみじみと仏法が指し示すまことにうなづきあえることでしょう。さらに、生きている仏法によって心がウキウキし、どこからか力をもらうことを感じることではないでしょうか。
 聖経を聞き覚え読み覚え、ことあるごとに聖経の御文が出てくる人もありがたいのですが、ただ聞き覚え読み覚えているだけではなく、自分自身の思いや行動とセットになってでてくると、生々しく生きた仏法を感じるのではないでしょうか。

 先日、ある人からこんな話しを聞きました。
 「仏法聴聞の席で仏法について話されることについてはなんら抵抗がないし、難しい言葉が出てきても私のわからない言葉だけれど、それもありがたいと聞ける。仏法聴聞の席だから、ひたすら聞かせていただくことがありがたいのです。しかしほんとうにありがたいと感じるのは、ふだんの生活のなかで仏法のことなどすっかり忘れてしまっていても、私に着いて離れず常に寄り添って私の側にいてくださる仏法を感じたときです」

 私がまことを求めるのではなく、まことが私を求めてくださっている。そこに気づかせてもらうのは、まこととほど遠い生活をしている日常があるからこそです。非日常的な時間や空間のなかで、聴聞したり、聖教を読んだり、さらには瞑想したする時間とどうようにとても大切であることを教えられたものでした。

 日常生活のなかでわが身を振り返り、日常使う言葉で仏法の味わいを語りたいものです。「親鸞聖人のおことばによると・・・」「蓮如上人がおっしゃるには・・・」などと先達の言葉に頼りってしまい、わが思いをあいまいにしてしまうことがあります。また「うまく表現することができないから・・・」などと思ってしまうこともしばしば。
 不十分でも、一度は自分の言葉にすることによってわが信心があきらかになるのです。思うだけでは、あいまいなままのところに座り込んでしまいます。

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2011年8月 7日 (日)

如来の真実義を解したてまつらん

無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。

 『三帰依文』の冒頭にあった「仏法聞き難し」いう言葉は、「無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し」と言い換えられています。仏法は、無上であり、甚深であり、また微妙でもあります。そんな教え遇うことはまず不可能です。「百千万劫」というのは人知でははかり知ることのできない時間をいいます。もちろん人類が経験したことのない時間のことですから、仏法に遇うことはあり得ないことということです。
 ところが、遇うことはあり得ない仏法という教えがあることを知りました。教えの中身も幾度も聞いてきました。その教えをどのように聞いてきたのかを問わずとも、手を合わすことができるようになりました。ここまでの縁に遇うことができただけでも、それはそれはたいへんなことです。仏法の指し示すことをいかに受け取ることができたのかということを問わずとも、どのような形であっても仏法と出遇うだけでは、もったいないことです。こんなにすばらしい縁など滅多にないことです。
 しかしどんな形でも仏法と出遇うことができた、手を遇わすご縁をいただいた・・・ということが、仏法本来の目的ではありません。仏法が指し示すのは、縁の有無というところではありません。

 仏法の縁をいただいた者が、「我いま見聞し受持することを得たり」と言い切ることができるか否かが重要なことです。ここではわが思いのところに正直で無ければなりません。しかしわが思いのところにとどまっていてはなりません。
 仏法の縁に遇ってから、それらの問題を解決するために、どれだけ教えを深く聞いてゆく縁を結ぶことができるのかということが大きな問題です。私はその縁を結ぶために、「三帰依文」を常に口に称えて唱和して、わが仏道を歩むのだといただいています。そして、何も包み隠すことなく、心の底から「我いま見聞し受持することを得たり」と言える身にさせていただくまで、仏の願いを聞かせていただくことです。そういう身にさせていただいて初めて、「人身受け難し、今すでに受く」と言えるのでしょう。

 「如来の真実義」とは南無阿弥陀仏です。そこを聞かせていただくことが「解したてまつらん」ということです。それは頭で理解するということではありません。それしかない、とうなづかせられることです。そこまで聞かせていただくことが「我いま見聞し、受持することを得たり」ということです。

 このことはきわめて個人の内面によるものですが、それが私一人のよろこびで終わるものではなく、「まさに願わくは衆生とともに」という願いをもったものであるのです。

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2011年8月 6日 (土)

三宝への帰依は大いなる者からへの願い

自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。

 「仏」への帰依に続いて、法をよりどころとすることを表明しています。「経蔵」はお経が納められた蔵です。お経はお釈迦さまの教えをことばにして記録されたものですから、それを何度も、そして深く読み解くことによって無限の智慧、さとりの智慧を教えられるのです。はてしなくどこまでも続く海、とても太陽の光さえも及ぶことのない深い海を智慧の世界としてたとえられているのです。

自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。

 最後はサンガ(僧伽)をよりどころとすることを表明しています。これまでの「仏」や「法」との違いは、サンガは人によって構成されているということであり、人と人との関係によってできあがっているということです。あらゆる人々とともに、仏法によって生きる平等で自由な関係ができれば、こんなにすばらしいことはないでしょう。しかしまずは自分の思いを優先させますから、よりよき関係がそう簡単に成就できることはありません。これまでに「仏」と「法」に帰依したのですから、当然、わが思いが前に出てくることはない・・・と思いたいですが、よからぬ我が思いがでてくるのが人間です。凡夫です。
 ところが、そんな人間、凡夫が寄り添って、それぞれを生きるよりどころにすることなしには生きることができないのが私であることも間違いのないことです。いま、ここに生きる縁ある者たちが、ともに支え合って生きよ、とのおさとしでもありましょう。それでもなかなか我を張り、自己を主張し合って生きることはできません。それゆえ、サンガという集団(教団)や人間関係が必要なのです。ともに仏や法に帰依する者たちのコミュニティですから、そこに加わり、あるいは帰依するということは、「仏」「法」によってコントロールされる自己でなければなりません。

 サンガへの帰依に限らず、「仏」に帰依し、「法」に帰依することは、何ものにも妨げらえることのない道(無碍の一道)を歩むことでもあります。フラフラした人生であっても、導かれてまことの歩みをすることができるのが、三宝への帰依者であるのです。また、三宝への帰依は、私の表明であるとともに、阿弥陀さまや仏法の先達からの願いでもあるのです。

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2011年8月 5日 (金)

自ら仏に帰依したてまつる

自ら仏に帰依したてまつる。
自ら法に帰依したてまつる。
自ら僧に帰依したてまつる。

 この三つの文章が、三帰依文の中心となる部分です。誰が言うからではなく、自らのよりどころを表明し、宣言するのです。よりどころにするものは、決して自分自身ではありませんし、我が思いでもありません。
 よりどころとするのは、ブッダ(釈尊)であり、仏法(教え)であり、同じ仏法に帰依する人たちとの関係・集団です。スピリチュアル・コミュニティと言えるかもしれません。

ブッダム・サラナム・ガッチャーミ
ダンマン・サラナム・ガッチャーミ
サンガン・サラナム・ガッチャーミ

 三帰依文は、お釈迦さまの時代から唱えられていたといいます。そして今でも、日本の仏教徒のみならず、世界中の仏教徒が称える御文でもあります。上座部仏教徒たちは、パーリ語によって日常的に三帰依文を唱えます。上に示した「ブッダン・サラナン・・・・」というパーリ語の三帰依文は日本でも唱えることがありますから、それを聞き覚えておけば、東南アジアのお寺で三帰依文を唱えられていることがよくわかります。

自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。

 仏・法・僧に帰依するという自らの表明・宣言のそれぞれのあとに、願いを述べています。三つの御文に共通するのは「まさに願わくは衆生とともに」という言葉です。私一人ではなく、できることならあらゆる人たちとともに・・・という願いです。
 「大道を体解して」は、まことの教えを身をもって理解するということでしょう。しかしまことの教えというと抽象的すぎますから、“お釈迦さまによってあきらかにされた阿弥陀さまの南無阿弥陀仏の教えをこの身に深くいただき“と言い換えることができるでしょう。これでも抽象的だと言われるかもしれません。しかし「無上意を発(おこ)さん」と言われています。これ以上のものはないと言えるほどの心がおこることです。これ以上のものはないというおこころが阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のこころです。
 南無阿弥陀仏を体解したとき、無上意が私のなかで具体的にはたらきはじめるのです。そのひとつの証が、思いもしなかったのに、自然と口から南無阿弥陀仏と念仏がでることです。最初は、それが無上意であることもわからないかもしれません。

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2011年8月 4日 (木)

至心に三宝に帰依し奉るべし

この身(み)今生(こんじょう)において度(ど)せずんば、
さらにいずれの生においてかこの身を度(ど)せん。

 「身」は単に「身体」という意味にとどまりません。その身とともにある心やそこから出てくる行為や思いを含めた自分自身のすべてのことです。
 「この身今生において」というのは、「いま」「ここ」の「私」ということです。また、「度す」は「渡す」「救う」「救済する」という意味です。つまり迷いの世界からさとりの世界に救うということであり、此岸から彼岸へ渡すということです。

 ここの部分は、いつか、どこかで、だれかが救われるというのではない。決して他人事の物語ではないのです。いま、ここで、私が救われることがなかったら、次はどの境涯でこの身がすくわれてゆくのですか、と問われているのです。もっと厳しく、この人間の境涯で救われることがなかったら、もう二度と救われるチャンスはないのだよ、私自身への教えてくださっているのです。
 せっかく人間に生まれながら、大事なことを先延ばしにして、気になりながらも先送りにしてのではないのかと問われているのです。せっかくいただいた人間のいのちを無為にすることのないようにという願いでもあるのです。


大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。

 「大衆もとともに」は、この教えを聞いてくださっているすべての皆さんとともに、ということです。「至心」は、まことの心のことです。仏さまのこころ、阿弥陀さまのこころのことです。
「三宝」は、仏・法・僧のことです。仏はお釈迦さま、法は仏法のことです。また僧は僧伽(そうぎゃ)のことで、サンスクリット語では「サンガ」です。簡単に言うなら、教団のことです。ただ私たちが頭のなかに描く組織的仏教教団のことをいうだけではなく、まことの教えを伝え、語り合う人びとのつながりとも言えるでしょう。
 社会のなかで存在してゆくためには、仏教教団として、またお寺や檀家組織として体系化・組織化されてゆきます。それは、何よりも私自身が仏法を聞くことのできるように、また今の世に人びとに、またこれからの世や人びとに、まことの教えを伝えてゆくための拠り所としてあるのです。決して、教団やお寺としてあれば、それで目的を達したというものではありません。

 仏・法・僧は、「三宝」と言われるように、仏教者にとっては宝なのです。それは私の拠り所でもあります。仏法のまことを、私の人生のなかに示してくださるかけがえのない宝なのです。
 お釈迦さまを通して阿弥陀さまを、仏法のなかに本願を、僧伽のなかに善知識や念仏の同行・同朋と遇わせていただくことができたことを当たり前のように思ってしまう私に、「帰依し奉るべし」とのお示しは、身の引き締まる思いでもあります。

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2011年8月 3日 (水)

人身受け難し、今すでに受く

人身受け難し、今すでに受く。
仏法聞き難し、いますでに聞く。

 「人身(にんじん)」は、無数にある生命を持つもののなかで、人間のいのちをいただいたということです。何か努力をしたわけではありません。知り尽くすことのできない、不可思議の縁に恵まれて、気がつけば、いま、ここに、人間のいのちを受けていたのです。
 人間に生まれたことは知っているし、いままで人間として生きてきたけれど、そんなことを意識してことはない。だから「受け難(がた)し」とは思ってはいません。当たり前だと思っています。気分によっては、人間じゃなく、鳥なら飛べるのにとか、つながれていても犬ならこれほど苦労しなくてもよかったかも・・・などと思ってしまうのです。
 その人間のいのちをいただいたということは、万物の霊長として生まれたわけでも、火を使ったり歴史を記録したりということが尊いというのではないのです。滅多に遇うことなどない仏法の教えを聞く機会を得たというのだというおさとしです。

 お釈迦さまは、インドのガンジス川の川岸に立たれて「いのちというのは、延々と続くガンジス川の岸の砂の数ほどある」と言われ、ご自身が立っておられた足下の砂を手のひらに採られ、「その砂の数ほどもあるいのちのなかから、人間に生まれることができるのは、この手のひらの上に乗っている砂の数ほどしかないのだよ」と話されました。
 さらに、その手のひらのなかの砂から、反対の手の指の爪の先に砂を乗せられ、「人間に生まれても、仏法のご縁に遇える人は、この爪の上の砂の数ほどしかないのだよ」とおっしゃいました。

 そこで次のような疑問が出てくるかもしれません。「どうして仏法に出遇うことがそんなに尊いことなのか?」と。
 人間に生まれても、生きることは苦が多く、毎日悩み、ため息をついてしまうようなことが次々と起こってきます。先に書いたように、鳥なら、犬なら、そんな苦しみ、悩むことはなかったかもしれない。動物病院はあるけれど、そこには心療内科も精神科もないじゃない・・・って思う人もいるでしょう。

 ここで示されているのは、人間に生まれたことが最終目標でも、安心できる終着点でもなく、仏法に遇うことが目的だということです。せっかく人間に生まれても、毎日、人間以外の他の動物と違いのない生活を過ごしていては、もったいない。苦しいことや悩むこともいっぱいある。悲しいことも、腹立つことも、波のように押し寄せてくるけれど、滅多に遇うことができない仏法に遇うことができれば、それらの苦しみ悩みなどもよろこびのタネとなるのです。
 ただ、「仏法聞き難し、いますでに聞く」というところは、私はどのように聞いたのか、ということを確かめる必要があります。仏法を聞くことによって、苦しみや悩みなどをよろこびのタネとすることができるのかという確認です。それは人間に生まれ、仏法を聞いたことが、無上の喜びとなっているのかという確認でもあります。さらにそれは、人間に生まれたことへのよろこびを感じることでもあるでしょう。

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2011年8月 2日 (火)

三帰依文(本文)

「三帰依文」を読んでみましょう。まず本文を紹介します。宗派によって、言葉の使い方が多少違いますが、本文の意味を変えるほどのものではありません。

三帰依文

人身受け難し、今すでに受く。
仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生において度せずんば、さらにいずれの生に
おいてかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。

 自ら仏に帰依したてまつる。
  まさに願わくは衆生とともに、
  大道を体解して、無上意を発さん。
 自ら法に帰依したてまつる。
  まさに願わくは衆生とともに、
  深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
 自ら僧に帰依したてまつる。
  まさに願わくは衆生とともに、
  大衆を統理して、一切無碍ならん。

無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。
我いま見聞し受持することを得たり。
願わくは如来の真実義を解したてまつらん。

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2011年8月 1日 (月)

人間に生まれることができました

 人間の男性が一度の射精による精子の数は数千万~数億個だそうです。そのうち最終的に卵子と受精するのは一個です。そんな確率によって、たまたま私はこの世に生まれることができました。
 私が生まれる確率というところだけで言えば、受精に至るまでには父と母が出遇わねばなりません。おそらく同年代で結婚適齢期の人は、日本だけで考えても男女それぞれ1000万人以上はいるでしょう。そのうちの二人がたまたま出遇ったのです。しかしその父と母の両親は、同じようにたいへんな確率のなかで出遇った。その父母の両親もまた同じような不思議な縁によって夫婦になったのです。そんな不思議な縁が、人類の歴史が始まって以来、延々とくり返されてきたのです。どの親、先祖が一人として抜けても、私の誕生はありえませんでした。
 それ以外にも、私が生まれるか否かの分岐点は、私の思考の及ばないところで無限にあったと思われます。ですから、何億分の一とか、何兆分の一というようなレベルをはるかに超えた確率で、私は生まれたのです。

 それも細菌でも虫でも昆虫でもなく、また鳥でも獣でもない人間に生まれることができました。地球上の動物の種類は100万種ほどあるといわれています。さらにウィルスや細菌、さらには植物までをも含めた生命あるものは500万種類以上あるとも言われています。そのどれでもない、人間に生まれることができました。

 “そんなことを考えて一体何になるの? 私はすでに生まれてるんだから、過去を振り返らずに生きればいい”と言われるでしょうか? 人間に生まれたことだけではなく、自分の人生のありようを考える暇もなく毎日を過ごしておられるでしょうか。毎日の糧を得るために、自分の身や心をできる限り楽しませるために、不快な思いをしないように身体や心の健康を求めて、・・・・それぞれのところで懸命に生きているのが、私です。意識する、しないに関わらず。

 『三帰依文』の最初の一文は、「人身受けがたし、今すでに受く」です。また『横川法語』の最初の一文は、「まづ三悪道をはなれて人間に生るること、おほきなるよろこびなり」です。人として生まれたことを、有り難いことであり、またよろこびであるというのが最初の一文です。
 この二つの御文は、なぜ仏法に聞くことが必要なのか、ということが示されている法語(説法)です。

 一切の衆生を救うという阿弥陀さまの誓いではありますが、実際、仏法を聞くことができる境涯は、人間界に生まれるほかはありません。もちろん仏法を修することができるのも人間界でしかあり得ません。

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