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2011年9月28日 (水)

弥陀の本願ひろまれり

 すでに末法の時代になっているからといって、仏教の教えがなくなったわけではありません。自力聖道門の教えは、釈迦如来の次にブッダとなる弥勒如来がおでましになるまで、仏法の守護神である八大龍王の宮殿に入るとと説かれています。
 自力聖道門の教えが龍宮にはいってしまうと、末法の時代に生きる者はさとることができないのでしょうか。仏法を聞くことができないのでしょうか。

 この世で浮かれて生きる人も、この世の楽しみに浸ることが幸せなだと思う人も、苦しみ迷いの根を残したままであり、そのことに気づかずにいるだけです。次から次へと自分の楽しみを求めつづけ、そこに心を寄せ続けて生きるのが私たちの姿です。しかし求め続けて楽しみや幸せを手に入れたように思っても、それは妄想でしかありません。いつまでも長続きするものではありませんし、楽しみや幸せのすき間から悩み、苦しみ、迷い、不安がチラッと顔を出します。また些細な苦しみや迷いなどを抱えておろおろして、心の安まることがありません。
 そんな自分の姿に気づき、ほんとうの幸せってなんだろうという問いをもち、どうしたらこの悩み、苦しみから離れることができるだろうと考えることなく生きられません。また、この世に生まれ生きることの意味を考え始めたり、まことの道を求めようとする人も少なからずおられるでしょう。縁が熟せば、仏教によって迷いの雲を晴らしたいと一念発起するでしょう。そんな思いも、時代と社会が打ち消してしまうのが末法の時代です。結局、仏法を求める人がなくなってしまうのです。

 正法、像法の時代が終わり、末法の時代となっていよいよ仏法は廃れ、自力聖道門の道を歩めない時代や社会となることは、お釈迦さまには、あるいは菩薩をはじめ覚者にはわかっていたことです。それよりもっと以前に、日々悩み、苦しみ、迷い、不安を抱えておろおろする者たちこそ救われなければならないと思いを抱き続ける阿弥陀如来という仏さまがおられるのです。
 まことの道を求めようと思わなくとも、機が熟さずとも、一念発起せずとも、妄想に心奪われて救われるはずもない者こそを救うと誓い、はたらいてくださる仏さまです。

  正像末の三時には
  弥陀の本願ひろまれり
  像季・末法のこの世には
  諸善竜宮にいりたまふ
   (『正像末和讃』註釈版p.601)

 末法の時代に至っては、自ら発心して道を求める者がいなくなる。そんな時代にこそ、阿弥陀さまの願いとはたらきが輝きを増してくるのです。煩悩に眼をさえぎられていても、さえぎられているからこそ、阿弥陀さまの本願しか救われる道はないのです。
 末法の世においては、教法に示されている諸善すら龍宮に入ると示されています。たとえば、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧(六波羅密)を知っているし、善いことであることもわかる。でも徹底して実行できる人も、実行してさとりの境地に至った人もみあたりません。

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