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2011年9月13日 (火)

自分の時間を阿弥陀さまに向けてみよう

 仏教の最終目標は成仏です。間違ってはならないのは、仏に成るといっても死ぬことをいっているのではありません。仏に成るというのはさとりをひらくことです。ほんとうのことがほんとうのこととして見え、わかることです。
 さとりをひらくことができていない私たち人間は、ほんとうのことを自分勝手に都合よくねじ曲げて見ているということです。つまり迷いの境涯を生きているということです。その迷いが苦しみを生み出すのです。
 それなら、少々難しくとも仏教をしっかり勉強すれば、仏に成れるのか・・・? そうではありません。仏教をよく「知ること」より「できること」が大切です。「できること」より「成ること」ができます。仏教の言葉を使えば、「行」が大切なのです。「行」によって「成仏」が可能になるのです。

 それでは、浄土真宗の「行」は何でしょう。つまり、わが身をかけて仏に成りたいという実践には何があるのでしょうか?
 「浄土真宗には行はない」と言われます。また「行がないのではなく、私のすべき行は、すでに阿弥陀さまによって成し遂げられている」とも言われます。教えの上ではそういう説明をなされても、これから教えを聞こうとしている者にとっては頼りになる話のようには思えません。
 そこをねばって、「それでは納得がいかないから、仏に成るために私のすべきことを教えてほしい」と食いついて聞いてみてください。

 それでも「そのこだわりが教えを聞くことを妨げている」「行をすればそれで安心して落ち着いてしまうことが問題」と応えられたら、せっかくの意気込みが萎えてしまいます。だからといって、たとえば「毎日写経をしなさい」とか「瞑想して自分を深くみつめなさい」と言われたら、それはたいへんです。きまぐれで1週間程度は続くかもしれませんが、わが身わが心を楽しませることに精一杯になっているわが身にそんな指示が出され、それを実践しなければならないとなるとたいへんな重荷です。
 つまり、どっちにころんでも「行」ずることなどできません。したくはないのです。それを脇目もふらずにできる人は聖者なのでしょう。

 私なら、何でもいいから阿弥陀さまの方に向かって少しだけ自分に負荷をかけてみてください、と言うでしょうか。大切なことは「阿弥陀さまの方に向かって」ということです。勝手気ままに、好きなように、ということではありません。
 それは私にとっては一つは「称名念仏」です。阿弥陀さまの名前を呼ばさせていただくことです。阿弥陀さまみずから示されたことであり、そして先達たちが示してくださった道でもあります。もう一つは「聴聞」です。
 もっとも、これを「行」などというのはおこがましすぎます。毎日の生活のすき間を利用して、自分の思いにまかせて行うに過ぎませんから。しかしそれを、自分のレベルの「行」として設定することです。つまり、そのためにあえて時間を割いてみるのです。
 私が言うのですから、そうすることによってさとることができるとか、成仏できるという保証があるわけではありません。しかし何かが変わる、変えてくれる・・・という感じがしています。

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