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2011年9月15日 (木)

生活の中で仏法に心がかかるのが称名念仏

 若いとき、念仏の声を聞くことが嫌な時期がありました。念仏のほんとうの意味を知らなかったので、無用な偏執にとらわれていたのかもしれません。そんな私がここ数年、意識して、また無意識に念仏させていただくようになっています。ご法話でも称名念仏が大事だと話させていただいています。
 ところが、この念仏を口に出して称えるということはとても難しいことです。まず、なかなか口に出てきません。口に出すことができるようになったとしても、周りの他人の存在が気になります。僧侶という役割を果たしているときは、作法や儀礼の一つとして称名念仏することは当たり前のこととして称名念仏します。そういう役割と一線を引いた一人の人間、一人の念仏者として自由自在に称名念仏することは難しいと感じています。

 ふつうに日常の生活をして、ふだんに仏法を意識していない人にとっては、作法としての念仏、儀礼としての念仏さえも、なかなか口に出して「南無阿弥陀仏」と称えることできないようです。「どうぞごいっしょにお念仏してください」と言っても、初めての人には相当な抵抗感があるようです。少なくとも念仏に対して強いマイナスのイメージがあるのでしょう。
 私の感じるところですが、東京でご縁のあった浄土真宗の門信徒の人でも、儀礼のときに小声であっても口に出して念仏できる人は、せいぜい1~2割程度かと思うのです。

 これまで聴聞を重ねておられる方は、おそらくすべての人が儀礼の称名念仏をされるでしょう。その人たちも、日常生活のなかで口に「南無阿弥陀仏」と称える人はかなり少ないという気がしています。日常生活のなかから念仏の声を聞くことは、ほとんどありませんから。
 だからといって決して無理をすることはありません。まずは儀礼の時に、少しずつ声に出して称えてみましょう。日常生活の人が気になるなら、一人の時に称えたらいいのです。念仏することを忘れるなら、手のひらに小さく「南無阿弥陀仏」と書いて、それを見たときに称えればいいのです。少しだけ工夫して、日常生活のなかで称名念仏してみましょう。

 そんななか、以下のようなメールをくださった方がおられます。

  先日の聴聞をさせて頂いてから、いつもお念仏を
  称えさせてもらっています。口の中でもごもごですが、
  仕事中でもできますので。
   そうすると、生活の中で仏法に心がかかり、自分の
  姿や行動がだんだんと気になってくるものなのですね。

 念仏することによって、「生活の中で仏法に心がかかる」「自分の姿や行動が気になる」自分が見えてきたのです。称名念仏こそが、日常生活のなかで仏法に向き合うきわめて具体的な方法である証ではないでしょうか。念仏が自身のなかではたらいている証でもあると思います。

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