« 仙経を焼き捨て、浄土に帰せしめる | トップページ | 真心徹到するひとは »

2011年9月 9日 (金)

日常生活のなかで称名念仏を

 親鸞聖人750回大遠忌法要に本願寺に参拝させていただいたとき、一番気になったことは念仏の声が聞こえないことでした。
 本願寺での大きな法要があるたびに、「念仏の声が小さくなってゆく」「念仏を称える人が少なくなってゆく」ということを聞いてきました。少なくとも本願寺での大きな法要は、いつもほぼ満堂ではないでしょうか。

 今回、大遠忌法要にお参りさせていただいたときも満堂の参拝者でしたが、おつとめの前後にうながされて合掌して念仏の声は、小さく短めで、体裁をつけているだけという感じです。もちろん、念仏に変わりはありませんから、そういう色をつけて見る私の思いがおかしいのかもしれません。しかし、そのとき以外の念仏は、ほとんど聞くことができません。私の耳に聞こえてきたのはせいぜい2~3人でしょうか。
 「合掌」「礼拝」とうながされてようやく聞こえてくる念仏も大切ではありますが、もっと至るところで縦横無尽に称えられる念仏が大事な気がしてなりません。
 「お念仏とともに歩む人生」「お念仏の薫る家庭」「お念仏をよろこべる生活」等々の言葉はよく耳にしますが、それは具体的にはどういう人生、どういう家庭、どういう生活なのでしょうか。

 私が子どもの頃、手を動かしながら、身体を動かしながら、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、・・・」と称える人が何人もおられました。ときには、お念仏の前後に「もったいない」「おかげさまやね」「恥ずかしなぁ」などの言葉が付いていたことも印象的です。
 いま思うと、いつも阿弥陀さまといっしょに生活していた人たちであると思います。またその念仏の声を聞いた人たちも、違和感や反発などの思いを抱いていたとしても、その念仏によって育てられていたのではないでしょうか。そして何年か経過したとき、その念仏に育てられた人たちが、また「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、・・・」と、日常生活のあらゆる場面で称名念仏されてきたのです。

 それがいつのころからか、頭で理解する念仏、観念の念仏となっていったのではないでしょうか。そのうち、無意識の称名念仏は、あるいは阿弥陀さまにうながされての称名念仏ではなく、自力でコントロールする念仏に変わっていった。現代社会を生きる人たちが自力でコントロールすることは、自分の身を守り、格好良く見せ、嫌われないように生きることでしょう。他人には理解されない念仏など称えることはありません。念仏を称えることも世間の常識に従って、仏前で全員で称える念仏しかないのです。
 つまり言葉は先行しても、実際に「お念仏とともに歩む人生」「お念仏の薫る家庭」「お念仏をよろこべる生活」という実態があるようにみえません。

 阿弥陀さまとともに生かさせていただいている・・・ということなどすっかり忘れて、勝手な生き方をしていても、念仏させていただくことで阿弥陀さまとともに生かさせていただくことを感じるとともに、阿弥陀さまと心が通い合うのです。

|

« 仙経を焼き捨て、浄土に帰せしめる | トップページ | 真心徹到するひとは »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/5065/52686081

この記事へのトラックバック一覧です: 日常生活のなかで称名念仏を:

« 仙経を焼き捨て、浄土に帰せしめる | トップページ | 真心徹到するひとは »