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2011年9月27日 (火)

行証かなわぬときなれば

 仏教が廃れ、仏教によって眼が開かれる人が少ないということは、今に始まったことではありません。

  釈迦如来かくれましまして  二千余年になりたまふ
  正像の二時はをはりにき  如来の遺弟悲泣せよ
   (『正像末和讃』註釈版p.600)

 親鸞聖人の時代には、すでに末法の世に入っていました。社会的には貴族にかわって武士が台頭し、治安は乱れていました。それに加えてくり返す天変地異や疫病によって人びとの不安は大きくなるばかりでした。そんな状況のなかにあるにもかかわらず、奈良仏教や比叡山の寺院や僧侶は腐敗し、僧兵が大きな力を持ち退廃の一途をたどるばかりでした。つまり、政治も経済も仏教も、頼りになるどころか不安を一層駆り立てていたのです。

 お釈迦さまがおなくなりになられて二千余年経ち、正法の時代(仏陀の教えの通りに修行してさとりを得ることができた500年間)と像法の時代(正法の後の1000年間で、正法の時代の形ばかりにとらわれて真実の修行ができずにさとることができない時代)が終わります。その後に来る時代が末法の時代です。教えは残っているものの、正しい教えも修行もなくなりだれもさとりを得る人がいなくなります。その末法の時代は1万年続き、やがて滅法の時代となるといわれています。

  末法五濁の有情の  行証かなはぬときなれば
  釈迦の遺法ことごとく  竜宮にいりたまひにき
   (『正像末和讃』註釈版p.601)

 末法でしかも悪業煩悩に満ちた時代を生きる人びとが教えを行じてさとりを開くことはとてもかなうことではありません。強い意志を持って、一人で仏道を歩むことができる人、それは菩薩でしょう。たいていは、時代や社会に拘束されて生きるのです。
 現代の日本社会を、親鸞聖人と生きられた時代と比べてみると、物にあふれ、科学技術の最先端をいく電化製品や生活用品に囲まれ、世界中の食べ物を楽しみ、とても比べものにはならないほど豊かです。
 しかし末法五濁の世であるというは、今もそして800年前も何ら変わってはいません。世のなかの豊かさによって抱えている苦しみをまぎらわせているだけで、現代ではほんとうの姿を見ないようにしているだけです。

 ある日、末法五濁の身であることに気づき、そこからどれほどもがいても抜け出すことができぬことを知ることがあるでしょう。ところが、お釈迦さまの教えが尊い、教えによって救われると説かれても、行じることもさとることもできなません。「如来の遺弟悲泣せよ」と示されるまでもなく、悲しみ泣き叫ぶしかないのです。と言われてみても、悲しむことも、泣くこともなく、ただ虚仮の世間に流され、漂うことしかできないわが身がここにいるのです。

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