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2011年9月12日 (月)

真心徹到するひとは

 仏道修行というのは、凡夫の迷い・煩悩の生活を離れるということです。それは人間の生活習慣を変えるという程度のものではなく、人間が楽しみにしていることをすべて捨て去ることです。迷いの世界にいる限り、努力やがんばり程度ではとてもおよびつかない世界がさとりの世界だからです。
 しかし仏道を歩むためには、「難行道」ではなく「易行道」を、「自力」ではなく「他力」を、「聖道門」ではなく「浄土門」を取ることを勧める流れがあります。それは、阿弥陀さまの心ひとつに帰依するという浄土教の流れです。南無阿弥陀仏という念仏一つで仏国土に生まれることができるという教えです。その他に何も求められない、要求されないのです。

 極重の悪人が、念仏を称えることによって救われてゆく。この世の常識では考えられない教えです。凡夫にすれば、あまりにも都合がよすぎて踏み込むことを躊躇してしまいます。それゆえ、中国における浄土教では、「念仏」とともに「懺悔(さんげ)」することが不可欠だと説かれました。野放しにしておけば、迷いと煩悩にまみれているのですから、できるだけ意識して「善行」をおこなうことも勧められました。
 よくわからないけどもとにかく「念仏を称えよ」といわれるより、「善い行いをせよ」といわれる方が、仏道を歩むにふさわしいと思う人の方が圧倒的に多いかもしれません。善い行いができないなら、せめて「懺悔せよ」といわれる方が、救われるような気になってしまいます。

 しかしその「懺悔」は、私たちが思うほどたやすいものではありません。中国の善道大師は次のように示されています。大乗の善を修める凡夫(=上品・じょうぼん)の懺悔は、毛穴から血の汗を流し眼から血の涙汗を流すこと、小乗の善を修める凡夫もしくは世俗的な善を修める凡夫(=中品・ちゅうぼん)の懺悔は、全身の毛穴から熱い汗を流し眼から血の涙を流すことだと。
 さらに罪悪の凡夫(=下品・げぼん)の懺悔は、全身が熱を帯び目から涙を流すことだと言われます。これくらいの懺悔ならできそうに思いますが、これまで涙を流して懺悔したことが何度あるでしょうか。つまり、懺悔をしているような真似事はしても、善導大師が示されたような懺悔などできてはいないのです。言い訳や開き直りしかありません。

  真心徹到するひとは
  金剛心なりければ
  三品の懺悔するひとと
  ひとしと宗師はのたまへり
   (『高僧和讃』註釈版p.590)

 「真心徹到」は、阿弥陀さまのまことのこころが凡夫に至りとどくことです。まともに懺悔はできなくとも、阿弥陀さまのこころをいただけば、上品・中品・下品の三品(さんぼん)の懺悔をする人と変わらない(等しい)というのです。阿弥陀さまのこころをいただくということは、いままで見ることができなかったわが身の姿が見えてくるということでもあるのではないでしょうか。
 仏法を聞いて、教えが「ありがたい」という思いよりも、どうしようもない自分を見せられからこそ「ありがたい」。どうも矛盾しているようですが、私にはそうとしか聞こえないのです。

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