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2011年10月31日 (月)

ほんとうの自分を知るために聞く仏法

 仕事の上で突然、書く必要に迫られて書いた原稿です。かつてこのブログに書いた原稿の焼き直しですが、ここに書かなければほとんど読んでもらえないと思っていますので、転載します。

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 人間の心の内はとても複雑なように思いますが、単純化してしまえば「好き」か「嫌い」かの世界に生きています。「楽」や「喜」など自分に気に入ったことであれば好き、「苦」や「悲」など自分が経験したくないことについては嫌いです。
 仏法(仏さまの教え)の教えに触れるときも同じように、智慧にすぐれ、慈悲に満ちている阿弥陀如来が自分の心をなぐさめ、元気づけてくれる話は好きです。ところが、煩悩に満ちあふれ、限りなく欲しいという思いに満ちている(貪欲:とんよく)とか、抑えることができないほど腹が立ち、いつまでもそれが消えない(瞋恚:しんに)のが私の姿であると言われると、仏法に抵抗したくなります。ましてや、生老病死の苦を抱えているとズバリと指摘されると逃げたくなるばかりで、なかなかうけいれることはできません。
 私たちは自分の心にまかせて生きることが自由に生きることだと思っていますから、「好き」「嫌い」を無意識のうちに巧みに使い分けることこそ、自分らしく生きることだとも感じています。しかしそのように使い分けることは、本当のことから目を背けることになりかねません。むしろ迷いをくり返し、苦しみを深めてゆくばかりです。それは、私が本当の自分自身に気づくことなく生きているということでもあります。
 阿弥陀如来は、自分では見たくないような私の本当の心、自分では気づいているけれども決して他人には見せたくない気づかれたくない私の醜い心の底を見抜かれた仏さまです。それゆえ、本当の私自身を知るために教えを聞くのです。それは反省ではありません。仏法を聞くことは、教えを鏡にして本当の私自身に気づかせてもらうことなのです。
 そのためには、仏法は他人事のように聞いてはなりません。親鸞聖人は、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄』)と示されているように、常に教えが自分自身に向けて説かれていると聞かれてきたのです。
 たとえば、私自身に向けられている教えであると聞けば、日常生活のなかで、貪欲や瞋恚の二つの心が相互に、絶え間なくはたらいている自分に気づかされます。また老い、病み、そして死なねばならない身であることに驚きを覚えるのではないでしょうか。決して快いことではありませんが、それが本当のことであり、私のありのままの姿なのです。
 阿弥陀如来は、貪欲と瞋恚に満ちた迷いの私であるから、老病死に怯える私だからこそ救わずにはおかないと願ってくださっています。また、必ず浄土に迎えると誓い、はたらいてくださっているのです。そのおこころを触れさせていただくのが仏法との縁です。縁ができれば、その阿弥陀さまのおこころをもっと深く教えを聞かせていただきましょう。
------------------以上

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2011年10月23日 (日)

凡夫が凡夫と知らされる

 仏法を聞いて信心を得たら、苦しみも悩みも無くなって、一から十までハッピーになれるのでしょうか。そんなことはありません。この世のいのちがある限り、悩み苦しみの世を生きていかなければなりませんし、凡夫は凡夫でしかありません。

 仏法でいう苦は、思い通りにならないことです。逆にしあわせを感じ楽しいと思えるのは思いがなかったときです。苦にも楽にも、その元にはまず自分自身のある「思い」があります。すっかり忘れてしまうような思いもありますが、そんな思いはどうでもよいから忘れてしまうのです。こんな思いは思い通りにならなくてもたいした苦ではありませんし、思いがなかったとしてもそんなにうれしい楽しいとは感じないでしょう。
 自分の思いに強くいつまでも執着し続けるほど思い通りにならないことに苦しみますし、達成したときの喜びは大きいのではないでしょうか。必ずそういう執着(我執)を持ち続けて生きているのが人間なのです。

 その執着に振り回され、思い通りにならなくて、次から次へとやってくるのが苦しみであり、悩みです。それを仏教では見事に言い当てています。愛別離苦に悩まされ、怨憎会苦に迷い煩わされて、求不得苦に翻弄されていることを感じずにはおれません。それは執着から離れられない私のありのままの姿の反映です。執着する対象、つまり好きなもの、愛しいものはどんどん形を変えて遠ざかっていきます。最初に執着してときの姿形とはすっかり違うものになっているのに、私の思いは、すでに失われている虚像にしがみついているのです。外から客観的に見ているものからすれば、愚か者だと笑われるでしょう。愚かだと薄々気づいていても、執着することから離れることができないそのことが愚かそのものです。
 怨み憎しみの対象も姿を変えているのに、求めている対象も刻々と変化しているのに、自分の心はいつまでも姿を変える前の姿にとらわれている(執着)しているのです。そのことに気づかないし、たとえ気づいたとしても執着のしかたに変化はありません。
 せめてもの救いは、私の身体も心も確実に変化していますから、そのうちどこかでとらわれなくなることでしょうか。しかしそれは悩み苦しみからの解放されるのではありません。また新たな執着の対象ができるのです。

 そんな私に信心はどうはたらくのでしょうか。何も劇的な変化が起こるのではありません。一度思い込んだら執着せずにはおれない自身のありようが教えに照らされて見せられるだけのことです。その執着している自身の姿が、隠しようのない自分であることを知らされるだけのことです。
 劇的な変化はないと書きましたが、教えに照らされて自分を見ることができるようになるというのは劇的な変化かもしれません。凡夫には何の変化もありませんが、教えに照らされて凡夫が凡夫と知らされる。これはたいへんなことですね。

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2011年10月19日 (水)

衆生ひさしくとどまりて

 毎日の生活のなかで、目の前に次々と苦しいことがやってきます。しかし自分が定めている目標を達成するためにはその苦しいことを乗り越えなければならないことがわかったら、無理してもがんばれるものです。がんばれると思った瞬間、苦しみは半分になり、萎えていた気持ちに張りがでてくるものです。
 一方、その時々の自分の思いだけを頼りに目先の欲を満たすだけで、ただ漫然と毎日を過ごしている人には、悩みや苦しみは重くのしかかるばかりです。そんな人たちが少なくはないのでしょう。悩み苦しみを軽くするためのノウハウが数多く紹介されています。ワークショップもありますし、セラピーとしても成立しているようです。カウンセリングもその一端をになっています。

 大小関わらず目標があり心の持ち方がどのようなものであっても、またワークショップに参加したりセラピーを受けてみても、それですべての悩みや苦しみが解決するわけではありません。親しい家族や親族がたくさんいて、友人・知人のネットワークが多岐にわたっていても、波が打ち寄せるように次から次へと悩み苦しみが押し寄せてきます。雑草をいくら抜いても、あっという間にまた生えてくるようなものです。対象療法では追いつきません。悩みや苦しみの根源を抜かなければ治らないのです。

  聖道権化の方便に
  衆生ひさしくとどまりて
  諸有の流転の身とぞなる
  悲願の一乗帰命せよ
   (『浄土和讃』註釈版p.569)
自力修行によって仏になる道(聖道門)はあくまでもさとりに至らしめるための方便であるが、衆生はなかなかそのことに気づかず、いつまでも迷いに迷いをくり返しそこから出ることができない。迷いに気づかないわが身に対して必ず仏にするという願いがかけられている阿弥陀さまの誓いを聞き、念仏して、阿弥陀さまの懐に抱きとられよう。

 私たちの悩みや苦しみの根源を抜こうというはたらきが仏法です。その仏法には大きく分けて二つあります。一つは自分の力、努力、気力、など自力によってその根源を抜こうとするものです。ただ、ゴールがあることには間違いはないのですが、私たちにはそのゴールが見えません。怠け心もでてきますし、休みたいこともあります。この世のいのちがある間にゴールに達することはないといってもいいかもしれません。なかなかゴールに到達できないことが悩みや苦しみと変わることだってあります。
 もう一つは阿弥陀さまの願いとはたらきにおまかせする他力の仏法です。ここで親鸞聖人は「悲願の一乗帰命せよ」と示されています。悲願は阿弥陀さまの本願のことです。念仏する者を必ず救うという願いです。一乗は仏と成ることのできる唯一の教えのことです。つまり、わが力ではなく、念仏によってしか苦しみの根源は抜けない、救われることがないということでもありましょう。
 阿弥陀さまの願いを聞くこと無く、いつまで悩み苦しみ、そして迷いの身としてとどまるつもりですか?

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2011年10月18日 (火)

仏法は相互に通じ合う心から

 業務時間中にひとりのおばさんが来られて、浄土真宗の教えについていろいろ質問を始められました。対応したのは若い職員A君です。
 どうもこのおばさん、浄土真宗の教えを何も聞いていないという人ではないようですが、断片的に聞きかじっておられるようです。疑問があるので聞きたくて来たというより、これまで聞いてきたことから自分の考えを組み立てて、その自分の思いを話しに来られたようです。たとえば、「浄土は誰が説いたのか」「お釈迦さまってそんなに偉い人なのか」「仏法は何を説いているのですか」などと矢継ぎ早に問われるのですが、自分なりの答えをもっているものですから、A君がていねいに答えても聞いている様子がありません。むしろ揚げ足をとるようにして、持論を展開されるのです。
 たとえば、仏法が説いていることについてA君は、「仏さまの国(浄土)に生まれることです」と明確に答えます。するとおばさんは「それはおかしいのではないですか。誰も浄土など見てきた人はいないでしょ。私たち生きている者のしあわせになるようにというのが仏法ではないのですか」と返されるのです。

 若い職員はいずれもていねいに答えるのですが、言葉を尽くせば尽くすほど、おばさんはそれを受け入れようとする気配はまったくありません。A君は次第に熱くなってきて、声が大きくなり、早口になり、お聖教からの引用や教学用語がでてきます。
 聖教からの引用や教学による説明に間違いはありませんが、おばさんにはまったく通じている様子がありません。そのうち、おばさんは用があったのか帰って行かれました。30~40分くらいの時間だったでしょうか。

 まず、おばさんはどういう思いで、事務所に話をしに来られたのでしょうか。ほんとうは何が聞きたかったのでしょうか。ただの冷やかし、時間つぶしだとは思えません。仏法に対して何らかの思いがあったのではないでしょうか。最後までそこはわかりませんでした。

 自分の思いなのに、自分でその思いに気づけないことがあります。たどたどしくても自分のなかから出てくる言葉を聞いてもらうことによって、自分の思いが明確になってくることがあります。事務的な用件ならともかく、そうでなければ相手の思いを理解することに焦点を絞らないと、話がなかなかかみ合いません。それなくして聖教の引用や教学による説明はまったく無力です。
 なによりも業務時間中に突然こられても、落ち着いて話しを聞くことができません。ましてや初めて来られた人ですから、まったく何もわからないなかで通じ合うことは至難です。

 ズーッと以前から対面関係があり、お互いによく知り合っておればそんなことはないかもしれません。しかし突然の出遇い、形だけの寺檀関係、お互いにさぐり合うしかない腹のなか、継続することのない人間関係、などのなかでは、なかなか正しく教えが伝わらないことを感じました。
 そういう人間関係が都市開教の現場なのです。なによりも人びとと接触する時間と、相互に心が通じ合う心がなければ、あたりまえのことが通じません。教えは人を通してしか伝わっていかないのですから。

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2011年10月17日 (月)

不思議のご縁をいただいて、さらに

 仏法を求めてはいるものの、仏法の要が何なのかよくわからないとか、本願他力の教えがなかなか納得できないままのあいまいな思いを引きずっているという人は決して少なくはないと思います。しかしそんな気づきのある人こそ求道者(ぐどうしゃ)なのだと思います。
 僧侶であるとか、お寺に生まれたからとか、よくお寺にお参りするとか、浄土真宗の門信徒だからとか、祖父母がよく念仏を称えていた・・・などという人は確かに仏法のご縁の深い人だと思います。さまざまな仏法の縁(法縁)があるでしょうが、個人ではコントロールすることなどできないものです。それにもかかわらずもともと寺に生まれたとか、家族のなかに念仏を称える人がいたというのは、不思議のご縁に出遇ったとしか言いようがない人です。

 だからといって、そんな立場や状況にある人なら必ず「求道者」であるかというと、必ずしもそうは言い切ることはできないようです。せっかくのご縁があったのに、かけがえのない縁に出遇っていることに気づかなかったり、そんな縁に反発して仏法から離れていく人がおられます。
 出遇った縁がきっかけとなり、自分自身の人生そのものや生き方などこの世に生を受けてきたことが何らかの形で問題となって問い始めない限り、「求道者」とは言えないのではないでしょうか。

 「求道者」の歩みは、さとりを得たい、正しい教えを聞きたい、阿弥陀さまの世界に生まれたいという心(発心とも発菩提心)という心が起こったときから始まり、それが一時の思いではなく、常にまた事があるごとに気にかかり、道を求めずにはおれなくなることです。この心は、私心によって起こすものではありません。また私心からは起こりようがないのです。これもまたいただいた心です。

 それでは何もかも縁にまかせるしかなく、自分でできることは何もないのでしょうか? 私が生きるのに縁にまかせるだけで生きることなどできません。どんなことでも自分の思い通りにしたくて、必死にもがいているではありませんか。必死でもがいて生きるなかに出遇う縁によっているのです。私が「縁にまかせるしかない」というのは、仏法を聞かない、聞きたくないという逃げ口上でしかありません。
 それでは何をすればよいのか? 仏法を聞くために私がすべきことはたくさんあります。そのなかでも念仏すること、聴聞すること。それに尽きます。「念仏しなければならない」「聴聞しなければならない」と思う私心など出てはきません。もし私心として念仏、聴聞すべしという心がでてくるなら、その善し悪しを問うのではなく、ただ念仏し、ただ聴聞するしかないのです。

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2011年10月16日 (日)

つねに妙法ときひろめ

 「バチ(罰)があたる」「先祖がたた(祟)る」という言葉を仏教的表現と思われて方はおられないでしょうか。仏教的表現ではなくとも、そういう表現によって自らの思いや行動を戒め、正そうとしているのだと思っておられる人かもしれません。
 仏法の教えのなかには、たとえどのようなことを思い、行ったとしても私たちに衆生に対して仏や先祖が危害を加えるという教えはどこにもありません。人びとを脅し、恐怖心を植え付けると思われるバチやたたりという言葉が出てくる背景には、そういう言葉を使う人たちの心のなかに潜んでいる心が表に出てきているのではないでしょうか。
 それでは仏法によって示される仏さまのおこころとはどのようなものでしょうか。

  相好ごとに百千の
  ひかりを十方にはなちてぞ
  つねに妙法ときひろめ
  衆生を仏道にいらしむる
   (『浄土和讃』註釈版p.564)

 相好とは、さとりを開いた仏さまのお姿のことです。「三十二相八十種好」といわれる仏さまの身体全体の特徴のことです。それぞれの特徴ある仏さまのお身体の一つ一つから数多くの光が十方、つまりありとあらゆる方向に向けて放たれる。それも絶えることなく放たれている。その光というのは、妙法であるというのです。
 妙法とは、これ以上ないもっともすぐれた仏法の教えのことです。私たちはこれまで常に仏法の縁に遇っていますが、仏法がそんなにすぐれた教えだとは思えません。すぐれた教えであることに私が気づいていないだけです。いつも浴びるように聞き触れているのに、耳をふさぎかたくなに心を閉ざしているのは私なのです。
 私が気づいていなくとも、私の日常の生活、私のすべての思いや行為さえもが常に教えとともにあるのです。仏さまの智慧と慈悲に照らされているということです。

 罰におびえ、祟りにおののいている者はもちろん、俗世の自分の目先のことしか考えられない者も、何も考えずにただ漫然と一日を過ごす者にも、さらには仏法をそしり誹謗する者さえにも、仏法の教えは途絶えることなくはたらき続けているのです。それゆえ、私が気づきさえすればいつでも、どこにでも仏法の入り口が準備されているのです。
 “迷い苦しんでいることさえにも気づかないでいる凡夫よ、そなたこそまことの道を歩んでほしい。いや、まことの道を歩まねばならないのです”という仏さまのおこころです。そのこころに気づくか否かということには関係無しに、まことの道である仏の正道に導かれているのです。
 何に気づくべきか? 何を求めるべきか? 俗な迷路に迷い込むのではなく、仏さまの示された一道のみを歩むしかありません。

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2011年10月15日 (土)

業と縁を超えた教えが仏法

 あたりまえのことですが、誰もが懸命に生きています。懸命に生きても、自分自身はスーパーマンではありませんから、何もかも自分の思うようにすることはできないし、すべてが思うようにはならないこともわかっています。それでも自分が精一杯がんばって、少しでも自分の思いを叶えることができればしあわせを感じることができると思っています。
 でも、やっぱり限界があります。自分ではどうすることもできないことがあります。そんな危機的状態におちいったときは、誰かの力を借りてでも何とかそんな状態を脱出したいと念ずるしかありません。そんなことを何度か経験するなかで、人間世界はお互いの助け合いの世界であり、自分も助けられて生きている身であることを知らされます。そんなところをくぐり抜けながらも、生きている限り危機的状況にであっても何とかなってゆきます。

 その一方で、どうすることもできない・・・と悲観的になる人も少なくないようです。そんな人は、頼る人もなく、神も仏もあるものかと思うのでしょう。また、自死の道を選ぶ人は、どうすることもできない精神状態に追い詰められていったのでしょう。周囲の人たちが、どうして自死の道を選んだのか・・・、自死しなくてもよかったのでは・・・などと言ってみても、自死した人の心の底を知ることは難しいことです。

 それぞれに人生の設計図を描いているでしょうが、そのとおりに人生を過ごすことができるとは限りません。それぞれがもっている「業」と「縁」によるとしか言いようはありません。
 「業」や「縁」というのは、明暗、善悪、良否、等の両面をもっています。それにもかかわらず不安になるのは、自分でコントロールできないからでしょう。自分には見えない、わからないというのは落ち着くこともできませんし、安心することもできません。それは私にとっては「暗」の部分です。
 それならできるだけ暗い面は見ないで、自分を信じて努力を重ね、明るく楽しく人生を過ごしたいと思う方が健全な生き方だというのが社会全体の空気です。理屈の上ではそのとおりですが、自分がいつもそんな思いで生きることができるでしょうか。それより、これではほんとうの姿を見据えていません。

 仏法は、私にからみついている業と縁を教えています。それだけではありません。業と縁がどのようにからみつき、私にどのようなはたらきを起こそうとも、それらを超えたはたらきを受け、そのはたらきに包まれて、私が生かされていることを教えています。
 懸命に生きる私の思いを受け止めて、その私の思いのところではたらきそのものが教えです。おのずと仏法を聞くときの要が見えてくるのではないでしょうか。

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2011年10月10日 (月)

念仏と聴聞を欠いた求道なし

 阿弥陀さまの本願を無条件にいただくのが真宗の信心です。条件があるとかないとかということさえも問うことはなく、ただ阿弥陀さまのひとりばたらきです。この「阿弥陀さまのひとりばたらき」というところが真宗信心の要でしょう。しかし「本願を無条件にいただく」「阿弥陀さまのひとりばたらき」というのは、一般の人には、また求道中の人にもよくわからないことかもしれません。論理的に、また言葉を尽くしてもらったら理解できるでしょうし、さらにはやさしくかみ砕いて話してもらったらわかるでしょう。だから真宗の信心がいただくことができたということにはならないのが信心の難しいところです。

 善を重ね、徳を積み続ければ、いずれ目標とする信心の世界に至り着く。これならわかりやすいのですね。ところが阿弥陀さまは、凡夫が善を重ね徳を積んでみても、それには限界があり、さとりの世界に至るほどの善や徳にはとてもおよびもつかないことを見抜いておられるのです。ですから善を重ねることも徳を積むこともできない者だけではなく、悪を重ねるしかできない者こそが阿弥陀さまの救いのめあてです。
 阿弥陀さまは、私に対して信心を得るための条件を付けることはありません。それが阿弥陀さまのこころです。それにもかかわらず、そのこころをそのまま受けることができないのが凡夫です。この私なのです。自分でも気づかない疑いの心で、阿弥陀さまのおこころをさえぎっているのです。阿弥陀さまのこころに素直になれない者が、善を重ね、徳を積むことなどできようはずはないですね。

 「真宗求道学」は、阿弥陀さまのこころをさえぎっている(疑っている)私に気づくきっかけを与えてくれるのではないでしょうか。もちろん「真宗求道学」をどれだけ深くきわめても信心が得られるわけではありません。また「真宗求道学」が信心獲得の特効薬でもありません。しかし自分の求道してゆく上で、いま、どこにいるのかということを示してくれるのではないでしょうか。
 その原点は、そのためには念仏すること、説教を聴聞することです。「真宗求道学」なんて難しいことを言われてもわからないと言う人も、「真宗求道学」なるものをぜひ学んでみたいと思う人も、念仏と聴聞を忘れての道はありません。

 なお、父は「求道」は「ぐどう」と読むのであり、決して「きゅうどう」ではないとくり返し言っていたことを思い出します。

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2011年10月 8日 (土)

「真宗求道学」とは何か?

 ふらっと立ち寄った本屋で次の本を見つけました。

   信楽峻麿 『真宗求道学』 法蔵館
   (真宗学シリーズ5)定価2100円(税込)

 「伝道学」という言葉はよく聞きます。もともとキリスト教にあったものです。俗っぽい言い方をすれば、教えを正しく効率的に伝えるための方法論とでも言えばいいのでしょうか。本願寺では今では龍谷大学で「真宗伝道学」、大正大学では「浄土宗伝道学」、天理大学でも「伝道学」がそれぞれ開講されています。教えを伝える側が教えを勧めたい人たちへのアプローチです。
 この本は「真宗求道学」です。教えを求める側が、正しい教えを求めるための学問、方法論です。もっとストレートな言い方をするなら、信心獲得のための方法論とも言えるでしょう。このような学問あるいは方法論を学べば、間違いなく、すばやく信心獲得することができるかというと必ずしもうまくはいかないかもしれません。しかし仏法に縁がなかった人が道を求めようとするとき、あるいは求道の方向がまったくズレていた人たちにとっては、きわめて意味のある領域ではないでしょうか。

 自力聖道門、つまり自力修行によって仏道を歩もうとする人たちに対しての求道の方法論は体系化したものがあるのではないでしょうか。それに対して、浄土真宗では、念仏と聴聞以外に具体的な方法はありません。瞑想や内観などもその方法論の一つとして加えることもやぶさかではありませんが、どうも核心から離れていく気がしてなりません。ですから、ちょっとした思いつきだけではなく、理論と実践のバランスのとれた「真宗求道学」が求められます。

 まだ本編を読んではいませんが、あとがきを読み、昔のことがよみがえってきました。この「真宗求道学」という発想は、著者の思いつきによって生まれたものではなく、著者と西光義敞、加藤西郷、増井悟朗の4名が中心になって真宗カウンセリング研究会主催の「聞法のつどい」のなかで真宗求道学や真宗聞法学の構築が視野に入っていたことが紹介されています。私もこの「聞法のつどい」に何度か参加したことがあります。法話もありますが、教えに対する疑問や反発が座談の席で出される。同じ法を聞きながらも、それぞれの受け取り方の違いを受け止め、認め合うとともに、正しい教えを伝えようとする緊張感がありました。
 教えを説く者に、教えは正しいものであり、誰もが聞くべきものであるという思いはないでしょうか。教えを受ける側は、何とはなく聞けるものと思い、また教えがわからなくてもわかったような顔をして法座の場にいる・・・ということはないでしょうか。そうではなく、法話をした先生がどんなに高名であり、有り難い話をされたとしても、自分をごまかさずに自分らしく反発したり、疑問を持ったり、納得したり、・・・することが認められる法座があることを知ったのが、この「聞法のつどい」でした。

 なお、本書のあとがきには、「西光氏が急逝されて、この研究会はまったくストップしたままになりました。まことに残念至極であります」(本書p.242)と記されていますが、現在も継続し手活動しています。

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2011年10月 5日 (水)

「念仏者」の自覚がなくても

 仏法によってわが姿を知らされ、阿弥陀さまのこころを聞かせていただき、念仏することを教えられ、念仏とともに生活させてもらうようになりました。念仏して日暮らしする人を「念仏者」と言うのでしょうが、私自身、自分が「念仏者」であるという自覚がほとんどありません。

 かつて、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(『歎異抄』註釈版pp.583-584)という言葉を何度も読み返してきました。『歎異抄』のなかでは、いちばんよく読み、口にしてきた言葉だと思います。
 「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに」という部分については、読むほどにうなづけるようになっていきました。この世には何もないし、頼るべきものもないということなど認めたくはないけれど、認めざるをえません。社会の状況、自分の身の上におこるさまざまなできごと、そしてわが心の内をながめてみても、納得するしかありません。納得しなければならないと言い聞かせたわけでもありません。ただうなづくしかないのです。

 ところが、どうしても納得できなかったのが最後の「ただ念仏のみぞまことにておはします」という言葉です。この世にまことはないと言われてうなづけても、念仏がまことだとはとうてい思えません。
 しかし仏法を聞く上で大切なことは、私が思えたら間違いがなく、私が納得できなかったら間違いという世界ではありません。「煩悩具足の凡夫」が私であり、「よろづのこと、みなもってそらごとたわごと」ですから、私の思いもまことではないということです。それにもかかわらず、納得できるであろう自分を頼りにしているのです。

 「念仏のみぞまこと」というのは、阿弥陀さまのはたらきだから言えることです。この世に頼るものなど何もない残酷で悲劇的な状況にある煩悩具足の凡夫だから阿弥陀如来はまことの「念仏」を準備されたのです。そしてただ、称えよとお示しなのです。

 「念仏はありがたい」「念仏はもったいない」と口にされる方がおられますが、人前でそう言えない私がいます。ひとりで念仏させてもらうとき、人前で念仏をほめ讃えることもできない私が阿弥陀さまの念仏をさせていただくことの不思議さを感じるのです。
 それでもやっぱり、この俗世間にしがみつき、まだまだ死なぬと思い込み、とても「念仏者」などとは言い切れない私です。どれだけ聞かせていただいても、阿弥陀さまのこころにひれふすことなく、どこまでも傲慢で身勝手なままの私は何も変わりません。それでも、念仏させてもらうことができるのは、わが思いではないことをしみじみ感じるのです。

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2011年10月 3日 (月)

「しあわせだったよ、ありがとう」

 先日、ある男性の方の葬儀に参列しました。自動車に乗せられた棺が出てゆこうとするとき、奥様がその棺に向かって「しあわせだったよ、ありがとう」とみんなに聞こえるような声でおっしゃいました。

 日常生活のなかでも「しあわせ」という言葉はよく聞きます。おいしいものを食べて「しあわせ」。風呂に入ってリラックスして思わず「しあわせ」。以前からほしいと思いつつ、なかなか買うことができなかったお気に入りのパソコン(カメラ、時計、服、アクセサリーなどでも可)を手に入れて「しあわせ」。これらは自分の心身ともに満たされたときに感じるほんの一瞬の快感が「しあわせ」という言葉になったものでしょう。
 しかし奥様がおっしゃった「しあわせだったよ、ありがとう」は、そんな一瞬のしあわせとは少し違うような気がします。夫婦という人間関係のなかで、長年にわたって培われてきたしあわせ感だったのではないでしょうか。もちろん日常生活のなかで山も谷もあったでしょう。それでも総決算してみたら、「しあわせだったよ」という言葉となったのだと思いました。

 一瞬のしあわせはもちろんのこと、この世のなかのしあわせはいつまでも続くものではありません。仲のよい夫婦、親子、兄弟であっても必ず別れるときがきます。それでも、できることならこの世で人間関係によるしあわせを感じることができたら、またどのような形であったとしても別れ際に「しあわせだったよ」と言い切れる関係が築けたなら、その当人はもちろんのこと、まわりの人も心があたたかくなるに違いありません。
 だれもがそんなよりよき人間関係を結びたいと思っているでしょう。また、よりよき人間関係を結ぶことがしあわせの第一歩だいうことも、だれもが知っているはずです。それなりに努力して、よりよき関係を結べばいいのです。
 だからといって、努力をすれば必ず「しあわせだったよ」と言い切れるとは限らないのが人生です。良き関係ができても、お互いに身体が変化し、心も移り変わり、その関係を取り巻く状況がじわりと動いてゆくのですから、関係もそれにともなって徐々に変化していきます。良き関係が続くこともあるでしょうが、悪くなることもあります。ほんとうに不安定で、頼りにならないところに生きていることを感じます。

 しかしそんな頼りのない世間に生きていても、一瞬のしあわせが少なくても、人間関係によるしあわせ感が薄くても、しあわせになることはこの世に生まれさせてもらった者の責務のような気がしてなりません。必ずしあわせにするとおっしゃってくださる阿弥陀さまという仏さまがおられるのですから。

 この世のいのちが終わるとき、この世に生まれ生かさせてもらったことに対して、また出遇った人すべてに「しあわせだったよ、ありがとう」と言えるでしょうか。言いたいですね。目先のしあわせばかりに目がいってしまいます。
 言えなくとも、阿弥陀さまに遇わせていただいたことに南無阿弥陀仏です。それがしあわせといただけるか否かが人生にとっては大問題ではないでしょうか。

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2011年10月 1日 (土)

よき仲間に支えられて2年たちました

 きょうで、このブログ「畢竟依を帰命せよ」を始めて、ちょうど2年経ちました。そしてこの書き込みがちょうど500番目の文章です。企んだわけではなく、確認したらたまたまそういうことでした。

 まずは、このブログの読者の皆さんに感謝します。またさまざまな形でコメントや感想や励ましや意見等々をくださった方々に厚くお礼申し上げます。読んでくださる方がいることがわかるから書き続けれたと思います。コメントや感想や意見を言ってくださるから次に書く文章がわき出てたということを常に感じてきました。

 私個人としては、この2年間で阿弥陀さまを意識することが強くなってきたことがあります。ブログを始めた当初は、私がこれまでに聞いてきた仏法を文章にしてみるという思いから出発しました。しかし仏法の聞きようがまことに浅いから、書けなくなってしまうのです。
 そこで原点に返って法然聖人や親鸞聖人が書かれたものを訪ねるしかありません。そこから見えるこの両聖人の生き方の根底にあるのは、阿弥陀さまを常に思うあるいは念ずるというところある。私にはそのようにしか両聖人の書かれたものが読めませんでした。
 いつも阿弥陀さまに願われ念ぜられているのに、煩悩の身をゆだねてしまっている自分に気づいたとき、自らも阿弥陀さまを思い念ずるためには何をすればよいかという思いから発している。特に、法然聖人は阿弥陀さまを思い念ずるためには念仏するしかないと定め、念仏するためにはどんなこともいとわないというのが生き方の根底にあるようです。
 親鸞聖人も法然聖人の生き方の根底を引き継いでおられます。ただ、親鸞聖人はまず念仏を称えるというのではなく、阿弥陀さまのこころを知り、阿弥陀様の願いが私のためにたてられたものであると疑いなく受け取れるなら、念仏せずにはおれない。だから阿弥陀さまの願いの生起本末を疑うことがなくなるまで聞くということが重要なことです。

 「念仏」と「聞法(聴聞)」が仏法を聞くための両輪ですし、阿弥陀さまを意識するためのアプローチであることを強く思うようになっています。
 ただこの二つは、日常生活におぼれている私たちにはとても難しいことであるということも感じています。一人で、意志を強くして「念仏」「聞法」をしようと思ってもできるものではありません。まず続きません。それでも「念仏」し、「聞法」することができるのは、ともに念仏し聞法してくれる仲間(御同行・御同朋)でしょう。またわが思いをありのままに吐き出しあい、ありのまま聞きあえる仲間です。
 この2年間、そういうよき仲間に支えられてきたなぁ・・・としみじみ思いつつ、まる2年を振り返っています。

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