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2011年11月25日 (金)

爆弾を積み上げる生活

 仏教のキーワードのひとつに「業」という言葉があります。私たちが日常に使う場合は、同じ字を書いて「ぎょう」「わざ」と読みます。為すべきこと、仕事、職業、などの意味です。しかしもともとは仏教の言葉ですから、仏教で使う「業」という言葉が、行為を指す言葉は容易に理解できます。
 ただ、一つの行為だけを指すのではありません。あることを為せば、それが原因となって何らかの結果が生まれます。また一つの行為は、過去に起こした行為が原因である結果でもあります。原因となる行為から結果となる行為、さらにはそれらによってさまざまに及ぼされる影響さえも含めて「業」というのです。ということは、「業」の始まりはどこにあるのかわかりませんし、どこまで続くのかもわかりません。行為がある限りどこまでも続いてくのが「業」であり、途切れることはありません。途切れることはありませんから、「死んだらおしまい」ではありません。輪廻をくり返し、どこまでもこれまでにおこない、これからおこなう行為の原因、結果を背負っていかなばならないのです。

 行為として現れる「業」ですが、仏教では「身・口・意の三業」という言葉があるように、心と言葉と身体(行為)が一体となっていることを教えています。これなら心に思うことが言葉や行為になって現れること、またことばや行為によって心が動くことも、自分の場合を考えればよくわかるでしょう。たとえば、腹を立てるから怒りのことばや行為が生まれますし、発言したり行為したあとに満足や後悔などするでしょう。
 ところが人間の「業」はどういう形で現れるのかは、私には予想がつきません。もちろん、おおよそ原因と結果を頭に描きながら発言しますし行為をします。それを予想するとか計画を立てると言うのでしょう。すべてがその通りになるかというとそんなことはありません。今、私がおこなった結果としての発言や行為は、いったいどこに原因があるのかはっきりと特定することはできません。さらに「縁」も加わりますから、人間の思うようにならないのです。「縁」は原因を結果に導く過程におけるさまざまな条件のことで、私たち凡夫には偶然としか言いようがありません。

 私の思いや行為によってこの世を動かそう、自分の思いどおりにしようということなど至難の業です。もし、自分の思い通りにことが運ぶなら、それはたまたまそうなったというだけのことです。それをこの世のレベルでいうなら波瀾万丈の人生というのでしょう。思い通りになるかならないかということを楽しむという生き方もあるかもしれません。それをスリルある人生だと納得させる人もいるかもしれません。
 そんなに余裕をもって生きることができるとしても、それはほんの一瞬のことかもしれません。それは「業」は、幸せに生きたいという願いを吹き飛ばす爆弾のようなものです。爆発しないから大丈夫だと、その爆弾を積み木のように積み上げているのが日常生活ではないでしょうか。

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2011年11月22日 (火)

浄肉文

 東京国立博物館で開催されている「法然と親鸞」展に行ってきました。そのなかで、親鸞聖人直筆の「浄肉文」なる文書を初めて見ることができました。
 『大般涅槃経』から十種の不浄肉食についての経文を抜粋され、『十誦律』から三種の浄肉についての経文を引用されているものです。出家者が食べても罪にならない肉と、そうでない肉を分けておられるのです。

  涅槃経に言く
  人・蛇・象・馬・獅子・狗・
  猪・彌猴・驢  十種不浄肉食
  又言く、三種浄肉
  見聞疑  見といふは、わが
  目の前にて殺す肉を食するなり。聞との
  いふは、わが料に獲りたるを食
  するをいふ。疑といふは、わが料
  かと疑いながら肉食するを
  といふなり。この三つの肉食を
  不浄といふ。この三つの様を
  離れたるを三種のきよき
  肉食といふなり。

 十種の不浄肉:人、蛇、象、馬、獅子、狗(イヌ)、猪、狐、猿、驢馬(ロバ)
 三種浄肉:「見」は目の前で殺された動物の肉を食べること
      「聞」自分のために殺された動物の肉を食べること
      「疑」自分のために殺された疑いながら肉を食べること
     この三つの肉食を不浄といい、この「見」「聞」「疑」を離れたものを
     三種の浄き肉食という。

 肉食妻帯をされた親鸞聖人は知られていますが、決してどんな肉でも食べられたというのではないことがわかります。
 「そんな殺生な・・・」と言いながら、目の前でさばかれた活け作りを食べて「新鮮でおいしい」なんて言うのは許されるものではありません。「これが罪悪深重の凡夫の姿」などと言いながら食べるのは、居直りであり、傲慢でしかありません。それでも、まだこんな言い訳をしながら食すのは、心のどこかに痛みを感じているからなのかも知れません。

 スーパーに並んでいる肉は、自分のために殺された動物の肉です。いや、私のために殺された動物の肉ではなく、不特定多数の消費者のために殺された肉・・・でしょうか。肉を提供してくれる人や会社の思いではなく、私自身がどう認識するかという問題でしょう。

 肉食があたりまえになってしまっていて、「かたいか、やわらかいか」「おいしいか、おいしくないか」「身体に善いか、悪いか」・・・という程度のことしか思わない(思えない)肉食のありかたとは雲泥の違いではないでしょうか。

 皆さんはこの「浄肉文」をどのように読まれますか?
 

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2011年11月21日 (月)

どこまで阿弥陀さまを泣かせるのか

 親鸞聖人が示された教えは、「本願を信じ、念仏を申さば仏となる」(『歎異抄』第12章)という、極めて簡単な教えです。親鸞聖人が書かれた『教行信証』は、とてもサラリと読めるものではありませんが、それをこんなに簡単に言い切ってしまってよいものかと思ってしまいます。あるいはあまりにも簡単すぎて、ほんとうかなぁ・・・と疑いたくなっても無理はありません。
 簡単な一言ではありますが、そこには私を必ず「仏」(=覚者、迷わぬ者)にするための阿弥陀さまのたらきがあるのです。それは私を必ず「仏」にするという阿弥陀さまの願いでもあります。

 浄土真宗の法話では、その阿弥陀さまの願いとはたらきが説かれることが多いでしょう。ところが何度も聞いているのに、どうも阿弥陀さまの願いとはたらきを感ずることができません。物語として聞くことはできても、なかなか心に響いてきません。
 その理由として、私は、阿弥陀さまの願いとはたらきを求めてはいないのです。「仏」になるより、精神的、身体的、経済的、社会的等々において自分が満たされた状態にある人はその状態がいつまでも続くことを望んでいるし、満たされていない人は満たされたいと思うだけのことです。もっと具体的に言うなら、自分の思うようになってほしいし、いつまでも健康でおいしいものを食べたいし、お金をたくさん持って欲しいものを手に入れることを望み続けているのが私の生活です。その満たされるか否かという基準になるのはわが心でしかありません。どこにも阿弥陀様の願いを求める余地など無いのです。

 私がここに生きているのですから、わが心を基準にして、わが思いを満たしたいという思いを持つのはあたりまえのことです。私にとってあたりまえのことが、阿弥陀さまの願いとはほど遠いところにあるということを知らなければなりません。そのわが心を基準にして生きることこそ、迷い苦しみの根源であり、決して満たされることはないのです。
 そんな私の生き方を捨てることはできません。やっぱり自分を基準にしなければ生きられないのが、この私です。

 この世で、どんな私のことも気遣い心配してくれる人が必ずいてくださいます。私の悩み苦しみをいろんな形で引き受けてくださいます。その心を知るだけで、とてもうれしくなり、感謝したり、元気が出たりするでしょう。しかしそれも限度があります。時間的にも空間的にも。
 阿弥陀さまは、そんな私を気遣い心配してくれる人と同じでしょうか。執着する私を認めつつも、そこにとどまること私に対して涙してくださっています。同時に、阿弥陀様の願いに気づくことを待ち続けてくださっています。ただ待つだけでではなく、南無阿弥陀仏という形で私にはたらき続けてくださっています。
 阿弥陀さまが私を待ち続けて、はたらき続けて十劫という長い時間が経過しました。にもかかわらず、まだわが思いに執着し続けている私がいます。どこまで阿弥陀さまを泣かせるのでしょうか。

 なんまんだぶつ、なんまんだぶつ。

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2011年11月11日 (金)

仏法は知の蓄積だけにはあらず

 数千年前よりも数百年前よりも、人間は成長し人間の社会ははるかに便利に豊かになっていると、誰もが思っているのではないでしょうか。確かに、科学や技術によって、数千年前や数百年前からすれば考えられないようなことが起こっています。それは「異次元の世界の出来事」もしくは「魔術」あるいはそれ以上の驚きかもしれません。
 科学や技術は蓄積できますから、その成果は確実に積み上げてゆくことができます。ところが、この世に生まれてくる人は、まったく白紙の状態で生まれてきます。長年にわたってきた知識、また科学や技術を利用するために、懸命に学ぶ必要があります。学ぶことについても、必要なものだけを効率よくできるよう整理されたり、体系化されたりしています。

 しかしこの世に生まれてきた者の心(精神的側面)についてみれば、多くの学びもあるでしょうが、どこかで勝手に自分の思いのみによって作り上げられてゆく側面があります。多くの先人たちが教えにしたがって歩まれた道をたどることよりも、自分の思いで善し悪しを判断してゆくことが尊い生き方、すばらしい人生だと思う人が多いようです。それが人間の本能と言うのか、あるいは自性などと言うのかもしれません。
 結局、そんな自分にとらわれてしまいますから、いつの時代も精神的安定を得ることを模索し続けるのが人生そのものになってしまっているのではないでしょうか。

 宗教、とくに仏法においては、人間の精神的な安定について示された多くの先達たちがおられます。さとりの道を歩まれ、その宗教的体験が語られ、書物として残されてきたのです。それらが蓄積され、人間を精神的に救うための人類の遺産となっています。それらの遺産が活かされるなら、もっと多くの人が救われると思いますが、その教えによって救われるのは「国に一人、郡に一人」と言われるほど希なことです。親鸞聖人も『正信偈』のなかで、「信楽受持すること、はなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし」と示しておられます。

 私みずからが私自身と向き合うことなく、教えをいただくことはできません。私自身と向き合うということは、私に教えを示してくださる仏と向き合うということです。決して自我にとらわれ、自我に支配されてゆくことではありません。すでに示された道を歩むことでしかありません。
 科学や技術は、私から遠く離れたところにあっても誰かが加工・応用してその成果を私の元に届けられますが、私の心の救いは私と仏を離れたところにはありません。近代社会によって私たちが手にしてきた、豊かなで便利な科学や技術と同じレベルで仏法をとらえることはできないのです。

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2011年11月10日 (木)

これからどこに行くのでしょう?

 どうも日本全体に活気がありません。日本の国が抱える巨額の負債、日本経済の停滞、展望も想像力がなく何の説明もない政治。それに追い打ちをかけるように、震災とそれにともなう原発事故、台風などの自然災害など、まさに「泣きっ面に蜂」です。さらに加えて、国際関係を無視することのできないなかで、欧米社会の経済的不安定さ、円高、気候不順による自然災害によって輸入食糧や日本の進出企業に多大な被害が出ています。
 追い打ちをかけるように増税や年金の受給年齢の延長等々、先の見えない薄暗がりの将来に不安ばかりがつのります。

 なんとかこんな状況から脱したいと誰もが思っていることですが、小手先の操作では何ともなるものではありません。この半世紀の間に、人間の欲望に従って経済的な豊かさと生活の利便性が次々と実現してきました。その結果、欲望を満たすための社会構造がしっかりとできあがりました。そのため社会が複雑になり、さまざまな要素ががんじがらめになって、もう抜き差しならぬ状況になってしまっているのではないでしょうか。

 しかし私たちが生活をしているのは、地球という閉じられた空間のなかであり、そこには限られた資源しかないのです。にもかかわらず、その空間の中で、資源をこの1世紀から半世紀の間に猛烈に消費し続けてきました。
 1972年にローマクラブというところから『成長の限界』という報告書が出され、現状のままの成長が続けば20年以内に石油が枯渇し、100年以内に環境悪化によって人類の成長は限界に達すると記されていました。ここでは地球が無限であることを前提とした経済成長を見直すことや世界的な不均衡に警鐘を鳴らすものでした。さらに同じくローマクラブから、1992年に『限界を超えて』によって、資源の枯渇や環境汚染によって21世紀前半に地球の破局があると報告されました。これらの指摘は意味あるものだったと思っています。
 日本の経済成長は20世紀後半にスローダウンしましたが、その余韻はいまだに消えずに残り、経済新興国の経済成長も、いつまでも続くことはないでしょう。

 21世紀を迎えるにあたり、どのような時代となるのかということが語られたとき、20世紀が「利益分配社会」であったのに対し、21世紀は「リスク分配社会」と言った人がいましたが、まさにその通りになっている感じがします。
 それは考えられないことなのではなく、「諸行無常」「諸法無我」と仏法によって示されていることを踏まえれば、考えられないことでも不思議なことでもありません。
 「万物の霊長」である人間も、仏法の示されているまことを無視してしまうと、その愚かしさが顕わになってしまっています。そして今や、政治的経済的社会的な元気のなさは、人間の身体的あるいは精神的な病となって現れているのではないでしょうか。

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2011年11月 2日 (水)

私が心に留めておくべきことは

 仏法を聞きたい、という思いを抱くことを「発菩提心」あるいは「発心」と言います。菩提心を起こすと言いますが、この思いを自ら起こすということはまずあり得ないのではないでしょうか。そういう縁に恵まれたものにのみ起こる心でしょう。
 誰でも聞くことができる仏法だと教えられてきたのに、縁に恵まれるか否かによって決まるなら、それなら差別的な教えではないか・・・と思われる方があるかもしれませんが、そうではありません。「発菩提心」が起こるための縁は、すべての者に平等に与えられています。それも人生のなかで1回とか2回というものではなく、数え切れないほどの縁に出遇っています。私の一息が、あるいは一挙手一投足が発菩提心への縁でもあるのです。さらに言うなら、誰もがすでに菩提心を抱いているのかもしれません。
 しかし菩提心が起こる縁に出遇っても縁と思ってはいませんし、自分のなかにある発菩提心に気づいてはいないだけのことではないでしょうか。

 私は寺に生まれ、寺に育ちました。もちろんお寺での法座には必ず出るように言われましたが、お寺以外でも、教えを聞くための機会をずいぶんたくさん与えられてきました。しかし仏法を聞きたいと自ら思ったことはありません。電車に乗って遠いところへ行けること、いろんな人に会えることが楽しみだったように思います。それが方便だったのでしょう。

 浄土真宗には「お育て」という言葉があります。いろんな手段によって仏法を聞く環境が整えられていることを教えてもらう言葉です。仏法を聞き、よろこぶ身とさせていただくということは、徹底的に逃げていた私が、「お育て」にあってきたことを知らされます。
 「お育て」には言い尽くせぬほどあってきたのに、「発菩提心」が起こってくることはなかった。相も変わらず反発し、仏法に向き合うこともなく腰の引けている自分をしっかり自覚していましたし、そのことに、これではダメだとか、申し訳ないという思いなどカケラもありませんでした。

 今に至ってもなかなか進んで仏法と向き合おうとしない私ですが、何か気になったり、なぜか聖典を開くことがあります。また、そうせずにはおれない状況がつくられているということも感じます。育てられることによって起こってきたということでしょう。
 仏法が示す理想の生き方からすれば、まったく正反対でほど遠い生活にどっぷりと浸りきっているにもかかわらず、仏法を気にせずにはおれない生活というのは、よほど強い仏縁によるものだとも思います。

 仏法との深い縁をいただいても、わが身に心を任せたら仏法を利用していかにうまく生きてゆけるか・・・という程度のことしか考えないのが私です。今生を生きるわが身がかわいいという思いを隠しようはありませんが、仏法によっていただいたものは小手先で自分をよろこばせ楽しませるものではないということだけはしっかり心に留めておくべきことであるとも思うのです。

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