爆弾を積み上げる生活
仏教のキーワードのひとつに「業」という言葉があります。私たちが日常に使う場合は、同じ字を書いて「ぎょう」「わざ」と読みます。為すべきこと、仕事、職業、などの意味です。しかしもともとは仏教の言葉ですから、仏教で使う「業」という言葉が、行為を指す言葉は容易に理解できます。
ただ、一つの行為だけを指すのではありません。あることを為せば、それが原因となって何らかの結果が生まれます。また一つの行為は、過去に起こした行為が原因である結果でもあります。原因となる行為から結果となる行為、さらにはそれらによってさまざまに及ぼされる影響さえも含めて「業」というのです。ということは、「業」の始まりはどこにあるのかわかりませんし、どこまで続くのかもわかりません。行為がある限りどこまでも続いてくのが「業」であり、途切れることはありません。途切れることはありませんから、「死んだらおしまい」ではありません。輪廻をくり返し、どこまでもこれまでにおこない、これからおこなう行為の原因、結果を背負っていかなばならないのです。
行為として現れる「業」ですが、仏教では「身・口・意の三業」という言葉があるように、心と言葉と身体(行為)が一体となっていることを教えています。これなら心に思うことが言葉や行為になって現れること、またことばや行為によって心が動くことも、自分の場合を考えればよくわかるでしょう。たとえば、腹を立てるから怒りのことばや行為が生まれますし、発言したり行為したあとに満足や後悔などするでしょう。
ところが人間の「業」はどういう形で現れるのかは、私には予想がつきません。もちろん、おおよそ原因と結果を頭に描きながら発言しますし行為をします。それを予想するとか計画を立てると言うのでしょう。すべてがその通りになるかというとそんなことはありません。今、私がおこなった結果としての発言や行為は、いったいどこに原因があるのかはっきりと特定することはできません。さらに「縁」も加わりますから、人間の思うようにならないのです。「縁」は原因を結果に導く過程におけるさまざまな条件のことで、私たち凡夫には偶然としか言いようがありません。
私の思いや行為によってこの世を動かそう、自分の思いどおりにしようということなど至難の業です。もし、自分の思い通りにことが運ぶなら、それはたまたまそうなったというだけのことです。それをこの世のレベルでいうなら波瀾万丈の人生というのでしょう。思い通りになるかならないかということを楽しむという生き方もあるかもしれません。それをスリルある人生だと納得させる人もいるかもしれません。
そんなに余裕をもって生きることができるとしても、それはほんの一瞬のことかもしれません。それは「業」は、幸せに生きたいという願いを吹き飛ばす爆弾のようなものです。爆発しないから大丈夫だと、その爆弾を積み木のように積み上げているのが日常生活ではないでしょうか。
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