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2011年11月21日 (月)

どこまで阿弥陀さまを泣かせるのか

 親鸞聖人が示された教えは、「本願を信じ、念仏を申さば仏となる」(『歎異抄』第12章)という、極めて簡単な教えです。親鸞聖人が書かれた『教行信証』は、とてもサラリと読めるものではありませんが、それをこんなに簡単に言い切ってしまってよいものかと思ってしまいます。あるいはあまりにも簡単すぎて、ほんとうかなぁ・・・と疑いたくなっても無理はありません。
 簡単な一言ではありますが、そこには私を必ず「仏」(=覚者、迷わぬ者)にするための阿弥陀さまのたらきがあるのです。それは私を必ず「仏」にするという阿弥陀さまの願いでもあります。

 浄土真宗の法話では、その阿弥陀さまの願いとはたらきが説かれることが多いでしょう。ところが何度も聞いているのに、どうも阿弥陀さまの願いとはたらきを感ずることができません。物語として聞くことはできても、なかなか心に響いてきません。
 その理由として、私は、阿弥陀さまの願いとはたらきを求めてはいないのです。「仏」になるより、精神的、身体的、経済的、社会的等々において自分が満たされた状態にある人はその状態がいつまでも続くことを望んでいるし、満たされていない人は満たされたいと思うだけのことです。もっと具体的に言うなら、自分の思うようになってほしいし、いつまでも健康でおいしいものを食べたいし、お金をたくさん持って欲しいものを手に入れることを望み続けているのが私の生活です。その満たされるか否かという基準になるのはわが心でしかありません。どこにも阿弥陀様の願いを求める余地など無いのです。

 私がここに生きているのですから、わが心を基準にして、わが思いを満たしたいという思いを持つのはあたりまえのことです。私にとってあたりまえのことが、阿弥陀さまの願いとはほど遠いところにあるということを知らなければなりません。そのわが心を基準にして生きることこそ、迷い苦しみの根源であり、決して満たされることはないのです。
 そんな私の生き方を捨てることはできません。やっぱり自分を基準にしなければ生きられないのが、この私です。

 この世で、どんな私のことも気遣い心配してくれる人が必ずいてくださいます。私の悩み苦しみをいろんな形で引き受けてくださいます。その心を知るだけで、とてもうれしくなり、感謝したり、元気が出たりするでしょう。しかしそれも限度があります。時間的にも空間的にも。
 阿弥陀さまは、そんな私を気遣い心配してくれる人と同じでしょうか。執着する私を認めつつも、そこにとどまること私に対して涙してくださっています。同時に、阿弥陀様の願いに気づくことを待ち続けてくださっています。ただ待つだけでではなく、南無阿弥陀仏という形で私にはたらき続けてくださっています。
 阿弥陀さまが私を待ち続けて、はたらき続けて十劫という長い時間が経過しました。にもかかわらず、まだわが思いに執着し続けている私がいます。どこまで阿弥陀さまを泣かせるのでしょうか。

 なんまんだぶつ、なんまんだぶつ。

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コメント

昨日教えていただきましたことの復習のように読ませて頂きました。印刷しました。
自分の枠組み・喜びを超えて南無阿弥陀仏さまが
今ここで僕に届いているのだなーと教えていただきました。もったいない事です。先生有難うございました。

なむあみだぶつ なむあみだぶつ

投稿: TDM900 | 2011年11月24日 (木) 22時33分

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