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2011年12月31日 (土)

落とせない「不徳の垢」

 2011(平成23)年というのは、強烈な記憶として刻まれる年だったのではないでしょうか。そして今日は、今年最後の日です。今年の一年を振り返ってみて、個人的にはどんな年だったでしょうか。
 12月31日もいよいよ押し詰まってくると除夜の鐘が突かれます。108つの人間の煩悩の数だけ突くともいわれています。そしてその108の煩悩を滅するともいわれています。いやいや、108どころでは済まないのが私の煩悩です。一瞬、一瞬思い、振る舞うことが煩悩なのですから。
 それではいくつの煩悩があるのか?一年365日、一日24時間、さらに時間を構成する1分、1秒に至るまで煩悩だらけです。単純に1分に一つずつ煩悩を起こすと仮定すると、365日×24時間×60分=525,600となります。
 次々といろんな煩悩が、形を変え姿を変えて現れます。私が生きている限り、どれもこれも煩悩です。寝ていても起きていても途切れることなく煩悩によっていのちをつないでいるのです。ですから、見方によれば、途切れることのない一つの煩悩の海でおぼれ続けているともいえるのではないでしょうか。

 それもこれもすべて私です。もう少し具体的に見てみましょう。普段の生活のなかでは、人との関係のなかで気持ちが揺れ動き、振る舞いを起こします。ちょっと気取ったり、格好をつけたり、弱みを見せたくなかったり、自分の非を隠そう・・・とします。でも、そんな自分はありのままの私ではないと、この身のどこかで感じています。しかしその場の雰囲気や人間関係や、つまらぬ自尊心によって、ありのままの私を覆い隠そうとしていることも知っています。でも、そんなありのままではないと思っている私が、そのままありのままの私でもあることには、案外気づいていないようです。

 それは私の心のなかのことだから、誰も知るはずはないと思っているのではないでしょうか。ところがそういう私であることは多くの人に見抜かれているようです。見抜かれていることに私は気づいていません。自分の心が言葉となって、しぐさとなって、対する人との間の空気と現れているのです。
 それは何年も生きている間に、一度も落とすことなく積み重ねてきた「不徳の垢」といえるのではないでしょうか。いまさら隠そうとしてもそれは無理な話です。しっかりと見抜かれているのです。

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2011年12月30日 (金)

語る者の身を通したまことの言葉を

 東日本大震災とそれにともなう福島第一原子力発電所の事故は、あまりにも衝撃的なニューでした。豊かさを享受し、何もかもあたりまえだと思って生きていた者を立ち止まらせ、考えさせました。社会的にも政治的にも経済的にも精神的にも、大きな問題を突きつけました。いずれも容易に乗り越えられそうにありません。この豊かで、便利な日本でさえ、あまりにも高い壁となっています。
 これまでになかったほど、各宗教教団も被災者支援に力を注いできました。また宗教のあり方を宗教者が考え始めたということも言えるのではないでしょうか。

 浄土真宗本願寺派は親鸞聖人750回大遠忌法要をつとめるにあたり、「東日本大震災により被災されたすべての方々の悲しみに寄り添い、皆様とともに法要をおつとめさせていただきます」というメッセージを出しました。大法要のときに、広くこういう社会的なメッセージを出すのは、これまで例がないのではないでしょうか。死者・行方不明者が2万人超えるというだけではなく、原発事故により地域を遠く離れて不自由な生活をしなければならない現状も、このようなメッセージが出てきたのでしょう。
 これからも継続して、被災者の人たちへの支援が必要でしょう。そこから教えられることもたくさんあると思います。

 そういうことを抑えた上で、ひとこと言いたいことがあります。地震と原発事故の影響が及ぶ範囲は広く、人も多数にのぼります。それゆえ、積極的な社会的な関わりとなっているのでしょう。しかし範囲や人の数の問題だけなら、それはきわめて教団が社会的評価や教勢い拡大ための活動とみられてもしかありません。
 全国を吹き荒れた台風による被害者もいます。また交通事故で亡くなった人とその家族・親族もいます。癌で亡くなった人やその家族・親族もいます。自死される人やその家族・親族もおられます。一時に亡くなった人の数は桁数がまったく違いますが、ひとり一人のいのちへの想いとそのいのちを見守る人の心情は、大震災の被災者がもつ想いと何ら変わることはないのではないでしょうか。

 インパクトの強さから「東日本大震災により被災されたすべての方々の・・・」というメッセージが使われますが、どんな人も同じように願われている存在であるということがもっときめ細かく発せられる必要があるのではないでしょうか。
 大きな災害、事故、事件、等々の有無にかかわらず、諸行無常としてしか生きることのできない衆生の居場所は暗黒でしかないのです。暗黒の人生であっても、常に阿弥陀さまが生死をともにしてくださっていることを、語る者の身を通したまことのことばとして、もっと発せられねばならないと思うのです。

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2011年12月29日 (木)

いつも自分中心

 みなさんは、これまで何度も集合写真を撮ったことでしょう。それができあがって最初に見るとき、真っ先に探すのは自分自身の姿です。もし自分が写っていない集合写真を見るときは、家族であったり友人・知人であったり、親しみの度合いの強い人を探します。知らない人をまじまじと見るのは、一通り自分や関係者を見た後、よほど自分の心に余裕がある暇なときでしょう。基本的に知らない人はどうでもいいのです。

 街中で多くの人が集まる雑踏のなかではいろんな音と声が聞こえてきますので、必要な音や声を聞き分けることはできません。あらかじめ聞きたいと思う音や声に神経を集中しなければなりません。そうでなければ、いっしょに行動をしている家族や友だちの声をかろうじて聞き分けることができるくらいです。ところが自分の名前を呼ばれると、十中八九、その声をした方に顔を向けるというのです。私の名前を呼んだ人がいっしょに行動している人たちでなくとも。またとても聞き取りにくい小さな声であったとしても。居眠りしていても、私の悪口やお世辞が始まると無意識のうちにピィ~ンと耳が立って、急に耳の感度が良くなったということはありませんか。

 こんな経験もあるのではないでしょうか。自分が食事をしているとき粗相をしたとき、「あっ、お茶がこぼれた」と言いますし、食事後に食器を洗っているときに音を立てて真っ二つになると「あっ、割れた」と言います。決して自分は悪くは無いのです。出てくる言葉を操作しなくても、ごく自然にでる言葉です。しかしそれが自分でなかったら、お茶を「こぼした」と言い、お茶碗を「割った」と言います。その当事者を責めようという気持ちが無かったとしても、ついそう言ってしまいませんか。

 いつもやさしく振る舞い、他人への気遣いを忘れない人であっても、ここに示したような行動は自然に出てくるようです。理性がはたらく前の、あるいははたらかなくなったときの私の本性です。
 理性がはたらかなくなったときというのは、たとえば危機的状況がやってきたとき、精神的に不安定になり理性のコントロールができなくなったとき、加齢や病気などで脳の理性の部分がはたらかなくなったとき、等々・・・。しかしこれらは特殊な状況ではありません。まともだと思っている者でも、薄っぺらな理性一枚をかぶって生きているのです。その代表者がこの私です。

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2011年12月25日 (日)

わが身に光り輝く光明

 クリスマスは、仏教にはない独特の雰囲気があります。その一つに光があるように思います。昼のクリスマスに特に感じるものはありませんが、夜になり暗闇と寒さのなかの光がクリスマスの雰囲気を演出しているように思います。
 いまでは12月になると、クリスマスとは関係は無くとも、夜の寒空のもとで建物がライトアップされたり、イルミネーションによるオブジェをあちこちで見ることができるようになっています。それをみると、寒くてもなんとなく気持ちが明るく、暖かく、また元気も出てくるようです。

 阪神・淡路大震災があった1995年12月に「神戸ルミナリエ」が始まりました。また、12月になってから、今年の東日本大震災の被災地のあちこちでライトアップやイルミネーションがなされているというニュースを聞きます。まだ仮設住宅で生活している人たちが、寒さと暗闇のなかに輝く光のオブジェによって顔がほころび、癒やされる心情を吐露することばがでてきます。テレビ画面を通してであっても、私もうれしくなってしまいます。
 この色と形が光となって刺激され、私たちの感覚は励まされ、それが生きる力になってゆくような気がします。

 仏教で思い浮かべる光は蝋燭(ろうそく)です。いま、私たちが街中で見る光や、イルミネーションとは少し異質な光です。派手さはありませんが、心に染み入るような光です。和蝋燭の炎がゆらゆらと揺れる感じが、私の心を映しているように思えることもあります。
 もうひとつ、仏教に関して頭のなかに浮かんでくる光は、阿弥陀さまの十二光(無量光・無辺光・無碍光・無対光・炎王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光)です。阿弥陀さまが十二の光を発しているわけではありません。阿弥陀さまの智慧が十二の光にたとえられているのです。
 そこには色が示されているわけではありません。私は教えを聞いても聞いても光明を感じることはありませんでした。明るさを感じることもありませんでした。むしろ、暗くて、うっとうしくて、イヤでしかたありませんでした。また、多くの人が持っている仏教のイメージも、暗くてうっとうしいものではないでしょうか。

 教えを聞いても何も感じることができなくとも、また仏教に暗いイメージを持っていても、私は阿弥陀さまの智慧によってライトアップされ続けていたのです。暗さや寒さのなかでほのかに感じる明るさやあたたかさを感じるということもありません。ライトアップされることによって、ありのままの自分がそのまま見えてくる。それはとても人に見せられるようなものではありません。そんな自分を発見するために阿弥陀さまの光明にライトアップされたくはなかった・・・。でもそれは、そのまま阿弥陀さまの智慧をいただくということです。人に見せられるものではない私のあれもこれもが、すべて阿弥陀さまのめあてであることも同時に知らされるのです。
 阿弥陀さまの智慧が光っているとは気づかないけれど、照らされることによって光明であることに気づかされるのです。照らされることに気づかされることで、阿弥陀さまの智慧を知らされるのです。そうして気づかされた阿弥陀さまの智慧は、南無阿弥陀仏として光り輝いてくださっています。

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2011年12月24日 (土)

自利にも利他にもならない「しかと」

 最近、あちこちで「しかと」ということばを聞きます。私は「しかと」ということばを知りませんでしたが、「しかとされた」「しかとされている」という何人かの人たちから、立て続けに相談を受け、話を聞いたのです。
 1990年発行の『広辞苑』第四版を引いてその意味を調べたのですが、確かに、しっかりと、という意味での「しかと」はありますが、無視するという意味での記述はありません。比較的新しい使い方のようです。そこでインターネット上の辞書を引くと、無視すること、仲間はずれにすること、とありました。かつては、特定の対象を無視することを指すヤクザの隠語、と記されていました。

 人間関係のなかで、無視されるほどつらいことはありません。しかし、無視や仲間はずれにしようとする人は、決して自然体でできることではないでしょう。無視しているのではなく、無視してやろうと意識しているのです。つまり悪質ないじめ以外の何物でもありません。
 健全な精神を持っている者であっても、あの人とは関わりたくないということは日常茶飯事のこととしてあるでしょう。しかしいじめや仲間はずれを無意識であっても画策するというのは、その精神は極めて病んでいます。何よりも人との関係をより善くしようという意欲を失ってしまっているのですから、後ろ向きの生き方としか言いようがありません。
 こんなときは、自分が絶対に正しい、間違いがないと思っています。もしくは自分の思い通りにならないことへのうっぷんを、自分なりにはらしているのです。

 私が聞いてきた大乗仏教の神髄は「自利利他」です。自利を追求するだけではそれはエゴです。わが心に思うがままに振る舞い、それによって満たされることだとも言えるでしょう。ところが、自利とともに利他も同時に満たされることなしに、ほんとうの自利はあり得ないのです。それは至難としか言いようがありません。
 自利利他がともに満たされる思いや振る舞いは、とても私にはできないことだとつくづく思います。だからと言って、自利だけを求める生き方は仏法を謗る生き方であり、賤しい人生だとも思います。
 腹立ちや怒り、エゴやわがままを消すことはとても難しいことですが、そんななかでも利他を意識しながら生きることが自分勝手な自利に気づかせてくれるのではないでしょうか。さらに仏法に教えられるのは、利他さえも自分勝手に描いてしまう自分自身であることです。

 仏法のなかには、決して「しかと」する教えなどありません。思い通りにならない腹いせ、愚かなわが思いから生じたものです。あまりにこだわりすぎると、まことの教えを聞くことを妨げることにもなってしまいます。
 「しかと」している私さえも、阿弥陀さまの慈悲に包まれていることを教えてくださっていることを聞かねばなりません。

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2011年12月23日 (金)

「ありがたい」の中身は何ですか?

 かつて、私の祖父母と同年代の人たちは、日常生活のなかでことあるごとに「ありがたい」「もったいない」ということばを連発されていました。もちろん何がありがたいのか、もったいないのかよくわかりませんでしたが、語調や態度から、この人たちの心の内から出てくることばだと感じたものでした。
 またその人たちは、法座や座談の席でも、念仏とともに「ありがたい」「もったいない」ということばが出ていました。いずれにしてもそのことに何ら違和感を感じることはありませんでした。むしろ、そういう身になりたいと思ったものでした。

 ところが最近、日常生活のなかで「ありがたい」ということばをほとんど発することのない人が、法座や座談の席で、やたら「ありがたい」ということばを連発するのです。その前後の文脈からしても、その人の心の底から湧き出る自身のことばとして聞けません。念仏する声も一度も聞こえません。

 「ありがたい」というのは、いくつかの意味を含んでいます。人からの好意に対して感謝の気持ちを表したり、自分の思いどおりになったことを喜びや感謝を表すこともあります。もったいないとか尊いという思いを表すことばもそうでしょう。深い言葉ですからもっと違った意味合いを含んでいるかもしれません。
 それでも使い方によって、どのような意味を指すのかはおのずとわかるものです。ところが、ここで言う法座や座談の席で聞く「ありがたい」からは、深い意味合いがあるようには聞こえてこないのです。

 確かに法座のなかで「ありがたい」という思いが湧き出ることはあります。しかし一方では、なんともいやらしい心や態度が常にわき上がっています。それでも許されているのですから「ありがたい」のですが、容易に「ありがたい」とは口には出すことのできません。
 それらすべてをお見通し、お許しの本願です。だから「ありがたい」のではなく、私には「南無阿弥陀仏」としか出てきません。私のありのままの心や態度に照らされている本願に対して、「南無阿弥陀仏」としか表現しようがありません。

 読経のあとに「ありがたいお経をいただき、ありがとうございます」、また法話のあとに、「ありがたいお話をありがとうございます」などということばをいただくことがあります。どのようにありがたかったのか問うてみたい気がするのですが、儀礼的なあいさつことばでもあるでしょうし、他にお参りの方もおられるでしょうから、なかなか聞きづらい。しかし法座、座談の席での「ありがたい」ということばは、お互いの味わいを深めるためにも、できるだけ具体的に聞いてみる必要があるでしょう。また「ありがたい」ということばにとどまらず、その気持ちをていねいに違うことばにすることで、気づかなかった阿弥陀さまと私の関わりが見えてくるのではないでしょうか。

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2011年12月21日 (水)

凡夫からもらった信心と思うのは自慰

 「私の信心は○○さんからもらった」という人がいるということをしばしば聞きます。しかも悪いことに、そう思っている人はそこのところで止まってしまうようです。つまり信心の溝さらえをすることを知らない人のようです。さらに悪いことは、そんな話を聞いた人がそのことをいさめないことです。
 ○○さんが聖人(せいじん)であったとしても、信心をくれる聖人など聞いたことがありません。また、お釈迦さまも七高僧もそんなことはひと言もおっしゃってはおられません。親鸞聖人(しょうにん)も蓮如上人も、師より信心をいただいたなどと書かれたものはどこにもありません。当然のことながら信心を誰かに与えたなどということも書かれてはいません。

 もう一度、私たちが聞いている念仏の教えによっていただく「信心」とは何かを問うてみてください。
 「信心」は「まことのこころ」です。○○さんがくれる「まことのこころ」なんてあろうはずはありません。そのことがわからないのは、「まことのこころ」を知らないからです。「私の信心は○○さんからもらった」と言う人は、真剣にそう思っておられるのでしょうが、信心と思い込んでいるニセモノを握りしめているにすぎません。
 もちろん、どこかに「○○さんにもらう信心」を説く教えがあるのかもしれませんが、少なくとも仏教でも浄土教でも浄土真宗でもない宗教であることには違いありません。「○○さんにもらった信心」にこだわるなら、その信心でどこへ生まれるのでしょうか。
 阿弥陀さまから信心をいただいた(賜った)人は、阿弥陀さまの浄土に生まれることができる人です。○○さんから信心をもらった人は、○○さんの世界に生まれるのでしょう。

 山口・六連島のお軽同行は、「おのがふんべつ(分別)さっぱりやめて 弥陀の思案にまかしゃんせ」という歌を残されました。これが仏法なら、「○○さんからもらった信心」と分別することはそうでなければ、品のない表現だということを十分承知の上で言うのですが、マスターベーションを空想しているにしかすぎません。

<注>
「○○さん」というのは仏法を説いているような顔をして、
自我に執着する凡夫です。その○○さんが問題なのでは
なく、そういう人にしかもらえない安っぽい信心らしきもの
に執着している自身が問題であることに気づかなければ
なりません。

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2011年12月20日 (火)

阿弥陀さまをいつまで待たせるのか

 私の中学高校のときは電車通学でした。自宅最寄りの私鉄の駅は各駅停車しか止まらず、昼間は1時間に1~2本しか電車がありませんでした。昼の時間帯に乗り遅れると待つしかありません。それでも友人と話したり本を読んだりして、大した苦もなくその待ち時間を過ごすことを身につけてきました。そういう経験があるからでしょうか、待ち時間で退屈したという記憶はほとんどありません。待ち時間を利用して、他のことをしているのですから。
 時間単位で待っているならそれなりに工夫して過ごすことができても、何日もあるいは何ヶ月も試験や検査の結果を待ち、激しく移りゆく事態の収束点をただ見守るしかないときなど、イライラしたり、気が滅入ってしまうことがあります。
 長年の交通の不便さを解消すべく新しい道路が開通したり、大規模なトンネルや橋の完成を待つというのは、何年も要望したり陳情したりしながら待たねばなりません。それがなんとしても成し遂げたいという願いであれば、慈悲の心から人々を救おうとして立てられた菩薩の誓いと同じ「悲願」とさえ言われます。
 しかし私たちが長年待つといったところで、この世で生きる人生より長い時間を待っているわけではありません。また長い間待つとしても、他のことにも関わりながら、気を紛らわせながら待っているに違いありません。

 電車を待つ、結果を待つ、大きな事業の完成を待つ、・・・などということは耐えつつできることでしょう。しかし人を待つというのは、簡単なことではありません。待ち人が、10分たっても30分たっても1時間たってもこないと、とても心穏やかな状態ではおれません。「待たせるなよ!」「連絡くらいしろよ!」という怒りやどうすることもできない焦りが起こってきます。そんなことは過去に何度も経験しているはずです。

 阿弥陀さまが仏に成られてから10劫という、人間がとらえることのできる年月では及びもつかない長い時間が経過して今日に至りました。その間、阿弥陀さまはいつ教えに気づくかわからない私のために、一時も気を抜くことも、休むことなく法を説き続けています。私が阿弥陀さまのこころをいただき、念仏するまで待ち続けておられるのです。
 もう阿弥陀さまのすべきことはすべて終わっていますから、ただただ私を待つしかないのです。しかし座って待っておられるのではない。ましてや寝転んで待っておられるのではありません。立ちづめ、喚びづめ、招きづめ、説きづめです。
 待つことに恩を着せたり、不平不満をおっしゃったりることもありません。何か他のことをしながら待っておられるのでもありません。ただ、弥陀の願いを受け取ってほしい、一声でもいいから心の底から念仏してほしいという願いのためだけに待っていてくださっているのです。

 阿弥陀さまをいつまで待たせるのでしょうか。

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2011年12月19日 (月)

「仏道を歩む」とは?(下)

 阿弥陀さまがどれほど「仏道を歩め」と強く示してくださっていても、世俗を生きている私がどうして仏道を歩むことができるのでしょうか。形をそれらしく見せてみても、世俗に軸足を置いて生きる限り、仏道に近寄ることにもならないように思えます。
 世俗にどっぷり浸かっている私の姿は、阿弥陀さまにはわかりきったことです。私を苦悩の海に沈む迷いの凡夫と見抜いておられるのですから。だからといって、社会を離れて出家せよ、とは言ってはおられません。

 『蓮如上人御一代記聞書』のなかに次のような一文があります。ある人が自分の思いを正直に「私の心は籠に水を入れるようなもので、仏法を聞く座ではありがたく尊いと思うのですが、その場を離れるともとの心に戻ってしまいます」と言いますと、蓮如上人は「その籠を水の中につけなさい。わが身を仏法の水の中に浸しておけばよいのだ」とおっしゃいました。引き続いて蓮如上人は、「すべてのことは信心がないから悪いのです。仏法の師が悪いといわれるのは、信心がないことが間違いなのです」とおっしゃった、というのです。
 信心があるというのは「仏道を歩む」ということです。どのような世俗の生活をしていても、信心に生きる人であれば、それは阿弥陀さまの思いにかなうことでしょう。水がまったく溜まらない籠のように、阿弥陀さまの願いを浴びるように聞いても何も残らないのと同じです。だからその籠を水に浸しておけと言われる。私の日常生活も、仏法に浸せということです。

 しかしここに一つ疑問が出てきます。信心のある人は仏法に浸った生活をしている人でしょうか。もちろんそんな人もおられるでしょう。しかし信心の有無にかかわらず、世俗にどっぷり浸かった生活をせざるを得ないのです。
 そこで工夫されたのが、南無阿弥陀仏の六字の名号です。南無阿弥陀仏は「必ず救う、われにまかせよ」という阿弥陀さまの願いであり、私への呼びかけであり、はたらきです。その阿弥陀さまのおこころに対して、「おまかせします」という心の底からの叫びが南無阿弥陀仏と口に称えること(称名念仏)です。
 このような解釈を頭の理解したところで、私の心が動くわけではありません。思うこと、頭で理解することが大切なのではなく、「南無阿弥陀仏」と称名念仏することが重要なのです。それはなぜか。阿弥陀さまが「南無阿弥陀仏と称えてください」と私に向かって示してくださっているからです。南無阿弥陀仏と称えることが、阿弥陀さまのお心にかなっているからなのです。

 世俗の生活にどっぷり浸かっていても、忙しくても暇な時でも、にぎやかでもさみしくても、うれしくても悲しくても、いつでも、どこでも称えることができるのが、南無阿弥陀仏です。だだ漏れの籠を水につけよおっしゃるのは、わが身を南無阿弥陀仏の水につけよということでしょう。

 阿弥陀さまの勧められる「仏道を歩め」の教えは称名念仏です。また、私の「仏道を歩む」道は、称名念仏しかありません。

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2011年12月18日 (日)

「仏道を歩む」とは?(上)

 「仏道を歩む」という言葉があります。よほどの仏教嫌いの人ではない限り、なんとなく魅力を感じることばではないでしょうか。とても崇高で不可思議な感じだけれど、少し踏み込みたくもなります。
 しかし実際は「仏道を歩む」ことは容易ではありません。もっともわかりやすい仏道の歩み方は、仕事を辞め家族と別れて出家するということでしょう。でもすでに社会の一員として確固たる地位を築き、人間関係の上からも社会的なつながりからしても簡単に出家なんてできるわけはない・・・という人がほとんどでしょう。何よりも、今の生活を捨てることなんてとてもできないし、考えたこともないというのが私たちのいまの姿です。

 ちょっと厳しい話になるかもわかりませんが、家族を支え、社会的な重要な位置を占めている人が急逝するということをしばしば聞きます。実際にそういう人を身近にご存じの方も少なからずおられるでしょう。そんなことは私にはあるはずはないと思っていても、そんなことを考えたことがなくても、私自身にも起こらないとは誰も言えません。
 だからといって、とてもそういうことを覚語できません。周りから期待された働き盛りの人が出家するなどというのは、狂気の沙汰としか受け取られないでしょう。この世をよりよく生きたいと思う者にとっては、仏道を歩むことは狂気の沙汰なのです。

 この世を生きるためには、この世に軸足を置いて、仕事に、家族に、そして何より自分自身に執着しなければなりません。ところが、この世に軸足を置き執着することが苦しみの種になっていると仏法は教えているのです。それゆえ苦しみの種を生み出す世俗を離れるために出家という道が示されたのです。
 この世をよりよく生きたいというのは、私が生まれたときから持ち続けてきた強い思いです。そこに出家という仏道を持ち出してきても、あまりにも大きくズレているようにしか思えないのです。次元が違うということでもあります。
 生命がある限り、家族をもち仕事に精を出している限り、この世に軸足をおいて、執着するしかありません。そんな自分の人生をすっかり否定されてしまうほどむなしいことはありません。思い通りにならない人生でも、ささやかな夢や希望をもって、よりよく生き続けたいのです。

 ところが老いや病はよりよき生きたいという思いを打ち砕いてしまいます。そして死は、私の強く深い思いを根底からひっくり返してしまうことです。これほどの絶望はありません。
 とても高いハードルであっても「仏道を歩む」ということばに何となく魅力を感じるのは、よりよくこの世を生きることへの限界を、心の奥底に感じているからではないでしょうか。それは自分では意識していなくても、誰もが抱く心の闇なのです。
 そのような心の闇を抱いている私に対し、私のどんなところも一切否定もせず、すべて肯定し受け止めてくださる阿弥陀さまがおられるのです。その阿弥陀さまが、私に「仏道を歩め」と示してくださっているのです。

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2011年12月14日 (水)

弥陀の回向成就して

 善因善果、悪因悪果というのは私の因が私に果となって現れるでしかありません。親の因果が子に報いることはありません。自分のまいた種は自分で刈り取らねばならないのです。
 ところが仏教では「回向」というのは、自分で積んだ善根を自分のために、また他の人びとの救済のために振り向けることをいいます。もっとも凡夫が積んだ善根ですから、振り向けようとしても力不足でしょうし、限りがあります。
 浄土真宗では、凡夫の功徳を回向するということなどあり得ません。阿弥陀さまの功徳が私に振り向けられるのです。本願力回向ともいいます。

  弥陀の回向成就して
  往相・還相ふたつなり
  これらの回向によりてこそ
  心行ともにえしむなれ
   (『高僧和讃』註釈版p.584)
阿弥陀如来の本願は私たちに南無阿弥陀仏として回向されている。そこには往相と還相の二つの功徳がそなわっている。この二種の回向によって、一心の信心と浄土に往生するための五つの行(五念門)をともに得ることができる。

 この本願力回向は、往相回向と還相回向の二つの功徳として私に振り向けられています。往相とは、凡夫が阿弥陀さまの本願によって浄土に生まれ仏とならせていただく姿のことです。還相とは、浄土に生まれさせていただいたものが、迷いのこの世に還ってきて、すべての衆生救済のためにはたらくことをいいます。
 仏法を聞けるのは、私が立派になったからでも、美しい心になったからでもありません。あいも変わらぬ凡、凡、凡夫でしかありません。その凡夫にこそ成就した願いを回向するというのが阿弥陀さまのおこころであり、はたらきです。この阿弥陀さまの回向があるから、手を合わせ念仏する身とならせていただくのです。

 「心行」の姿は、心は一心の信心のことです。行は天親菩薩が『浄土論』に説かれている五念門(浄土に往生するための五つの行)のことです。
  1)礼拝門:阿弥陀仏を礼拝すること
  2)讃談門:光明と名号のいわれを信じ、口に仏名を称えて
         阿弥陀仏の功徳をたたえること。
  3)作願門:一心に浄土に生まれたいと願うこと。
  4)観察門:阿弥陀仏・菩薩の姿、浄土の荘厳相を思い浮かべること。
  5)回向門:自己の功徳をすべて衆生にふりむけて、ともに浄土に
         往生したいと願うこと。

 分ければこのように示すことができますが、阿弥陀さまから回向されるのは信心と行が一つとなった南無阿弥陀仏なのです。いただくことができたなら、南無阿弥陀仏と口に称えさせていただくしかありません。

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2011年12月11日 (日)

お育ていただいた末のいただきもの

 仏法では人間のことを凡夫とみます。凡夫は迷い苦しみのなかに生きる者です。さとりの世界を知らない者のことです。迷い苦しみの世界から離れさとった者は仏です。この違いはとても大きく、しかもその途中はありません。言い換えるなら凡夫は0点であり、仏は100点です。30点とか50点とか70点などというのはありません。迷いの凡夫か、迷い悩みから解き放たれた仏かのいずれかしかありません。

 それでは煩悩具足の凡夫が阿弥陀さまのこころをいただく、まことのこころをいただくのが念仏の教えです。まことの心をいただけば煩悩具足の凡夫では無くなるのでしょうか。そんなことはありません。まことのこころをいただくということは、阿弥陀さまとなったことではありません。
 まことのこころをいただいても、煩悩具足も罪悪深重も変わりません。むしろまことのこころに照らされて、いままで見ることができなかった感じることができなかった煩悩や罪悪をこれまで以上にはっきりと見えるし感じるのです。見たくない自分を教えられるのです。
 そんな情けない自分を見せられるくらいなら、仏法なんか聞くんじゃなかったと思うでしょうか。そうではありません。むしろこんな嫌な自分のために阿弥陀さまのこころがはたらいてくださったことを感じずにはおれないのです。まことのこころをいただいたから、まことではない私の心に気づくことができたのです。

 阿弥陀さまからいただいたまことのこころと、離れられない凡夫の心が常に葛藤しながら生活しているのです。しかし煩悩や罪悪を抱えたこの身が阿弥陀さまのまことのこころを知らずにわが道しか歩めなかったのに対し、あきらかに阿弥陀さまのこころに照らされ、諭され、導かれて生きていることは間違いがありません。
 それでもいつも一歩先に出るのは、わが思いです。当然のことながら思いは口にことばとしてでますし、態度として現れます。わが思いが前に出てしまったときは必ず悩み苦しみがあとに付いてきます。満足やよろこびとなることもありますが、それにいつまでもしがみついてしまうことによって苦悩となってしまうのです。いずれにしても、わが思いからさとりが出てくるわけではありません。
 そんな一歩先に出たわが思いをすっかりそのまま認め、そのままの私をすっかり受け入れてくださるのが阿弥陀さまのこころです。どこを探しても、この阿弥陀さまのこころは私のなかにはありません。無いから、初めてであったときには何のことかまったくわからないこころです。その後、聴聞を通して、何度もそのこころを知らされる。そして日常生活のなかでくり返しそのこころに触れ、照らされてゆくことによって育てられてゆくのです。そうして育てられた末のいただきものが阿弥陀さまのこころです。

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2011年12月10日 (土)

たまわる信心

 仏教で大切なのは「信心」です。一般的には「信心をする(しない)」「信心が足る(足らない)」と言います。能動的に信心をもにしなければならないし、信心という必要十分条件を満たす必要があるのです。
 ところが浄土真宗では信心について「する(しない)」「足る(足らない)」と言うことはまずありません。「信心をいただく」「信心をたまわる」と表現します。受け身的表現です。しかも、単に「もらう」のではなく、へりくだった表現となっています。つまり、信心は阿弥陀如来という仏さまから頂戴するものであるというのです。

 信心はそのまま読むと「信じる心」です。この世を生きるときも信じる心は大切ですが、長続きしません。自分の思いがまず優先しますから、信じる心はその自分の思いに従属しています。浄土真宗では信心を「まことのこころ」とも読みますから、決して凡夫の心に従属するようなこころではありません。むしろ自分の心を捨て、阿弥陀如来にまかせてゆくことでしょう。阿弥陀さまにまかせるということは、阿弥陀さまのこころをいただくことでもあります。
 阿弥陀さまにまかせて阿弥陀さまのこころをどのようにして頂戴するのでしょうか。何かよくわからないけれど・・・などということはありえません。阿弥陀さまのこころはことばを通して聞かせていただくことによって私のところに届くのです。届けられても、それをはねつけるのが私です。それゆえ、はねつける私の心を阿弥陀さまにまかせるのです。

 阿弥陀さまのことばは経典に示されています。その経典のことばが難しいからなかなか私のところに届かないのではありません。ごくごく簡単な日常のことばさえも、しっかり聞こうとしていない、聞いていないことを自覚する必要があります。

  地獄はことばの通じない世界
  人間はことばのいる世界
  浄土とはことばのいらない世界  (曽我量深)

 これは真宗大谷派の僧侶であった曽我量深師のことばです。とても深いことばだと味わうのです。
 日常生活のなかで、しゃべっても通じないということはありませんか。また聞いているような顔をしていても、心ここにあらず・・・ということはありませんか。人間の世界に生きながら、ことばの通じない世界にいるということがあるでしょう。それを地獄と表現することは決して大げさな表現だとは、私には思えません。
 地獄はことばの通じない世界ですが、人間はことばの通じる世界ではないのです。「ことばのいる世界」に過ぎません。そのなかでことばが通じることができれば、人と人の間でも心が通じあうことを感じます。仏さまのことばを通してその心をいただくことは、ほんとうにありがたい(有ることが難い)ことだと思わずにはおれません。信心をいただくことは、私にとってはあたりまえのことではないのです。

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2011年12月 9日 (金)

しあわせって何?

 ここであらためていう必要もないのかもしれませんが、誰もがしあわせを求めて生きています。人類の歴史そのものが、自分のしあわせを願う歴史とも言えます。そしてこれから先もしあわせを求めてゆくことに変わりはないでしょう。「進歩」とか「発展」は、あわせを求めて続けてきた結果にほかなりません。

 それでもまだだれもしあわせの終着点を知りません。少ししあわせを感じても、そのしあわせでは満足しきれませんから、もっと大きなしあわせを求めるのです。その大きなしあわせを得ることができたとしても、もっともっと大きなしあわせを求めるのです。どこまでいってもキリがありません。つまりどこまでいってもしあわせの終着点には至り着かないのです。見方を変えると、しあわせはいつも未来にあって、いつか来るであろうしそのあわせを追い続けているのです。
 また、しあわせはいつも他人のところにあるのです。あの人のようになりたい、この人のしあわせを分けてほしい、・・・などと思うのです。隣の芝生は青いし、隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望むのです。しあわせを手に入れたように思っても、わたしよりもっと良いしあわせをもっている人をうらやむのです。
 しあわせをどこまでも追求してゆくのですが、「いま」も「ここ」にもしあわせはありません。なによりも「わたし」からは遠く離れたところにしかしあわせを見ることができないのです。
 しあわせになれると思っているのになかなかしあわせを感じることができませんから、そのうち、まぁこのへんでいいだろう、このくらいの生き方が分相応だと妥協してしまうのです。もっと悲惨なのは、とてもしあわせだと思えない人を自分の価値観でターゲットにして、この人と比べたらしあわせな方よね・・・と自分に言い聞かせるのです。
 しかしそう強く言い聞かせて納得させてみても、心の底から納得しているわけではありませんから、時々不平不満を爆発させます。他人に対してもねたみ、そねむ心をださずにはおれないのです。

 この世にしあわせなんてあるはずはない。そう見限るのではなく、ほんとうにしあわせになりたいならあきらめたり、妥協したりすることなく、徹底的にしあわせになることを追求してください。
 ただし、何がしあわせかと問うとき、しあわせを自分の思いの範囲に閉じ込めないでください。無量寿(限りないいのち)や無量光(限りのない光)と言われるはたらきがあることを知ることです。ところがこれもはなはだ難しいのですが、それは私が無量(限りない)という世界を知らないのですから。知らないから私の世界に読み替えて、閉じ込めてしまう。そのとらわれを一歩、二歩とわずかでも出て行くところに、妥協する必要のない真のしあわせがあるのです。

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2011年12月 5日 (月)

後生の問題解決に着手を

 現在の日本社会には、早急に解決しなければならない問題が山積しています。もしかすると、すでに手遅れになってしまっているかもしれないと思われるものもあります。現政権の問題と思いがちですが、何代も前の政権から「先送り」され、たまりにたまって今日に至っているのです。
 これは政治に限った問題ではなく、わたしたちの日常生活の諸問題でもありがちなことです。いつのまにかうやむやになってしまうこともありますから、先送りしておくのも一つの方法かもしれません。しかし国家や地方自治体の財政や法規の問題となると、うやむやにすることはできません。既得権益を守ろうとする勢力とそれを壊そうとする勢力のせめぎ合いという対立の図式では済ませることができません。どちらの勢力も根こそぎひっくり返ってしまう・・・というイメージがあります。
 これは単なる日本という国家だけではなく、グローバルな広がりをもつ問題でもあります。つまりいつまでも継続する完璧な政治・経済・社会システムなどあり得ないのだと教えられます。

 しかし目を外にばかり向けていては、足下をすくわれてしまいます。つまり自分自身に問題が山積していていることをすっかり見失ってしまっているのです。やっと、あり得ないほどの確立で人間に生まれることができたのです。人間界でしか解決できない問題を、この世のいのちのあるうちに解決しなければなりません。
 にもかかわらず、なかなか自分自身の問題を発見することができません。もし問題が見つかったとしても見ないようにし、先送りしようとします。そのうちにうやむなになればいいのですが、うやむやになることはありません。それは自分の思い通りにならないということです。それは老いや病いを抱えることによって、ますます深く悩み苦しむようになるのです。

 科学技術が進歩し、簡単さや便利さを享受できるようになることで解決するものではありません。また経済的な豊かさや文化の興隆によって、ほんの一時ホッとできることはあっても、決してそれらが人生の根本問題を解決してくれることはありません。むしろ、自分の自由がきかなくなり、思い通りにならなくなってしまった後、これまで築いてきたものをすべて置いて、この世を去らなければならないのです。決してうやむやにできないことです。
 こんなことを話題にすると、暗くて、さみしくて、憂鬱になってしまわれるかもしれません。しかし逃げることができないことでもあります。
 そのことを見通しているし、そのことへの解決策を具体的に示しているのが仏法です。聞き慣れないことですし、この世をいかに幸せに生きるかというところに関心が偏っているものですから、容易に受け入れることはできません。

 国家や地方自治体のせっぱ詰まった問題に目をつむることはできません。有権者として、もっと声を上げるべきでしょう。それ以上に、自分の「生死いずるべき道」を求めるべく目を覚まさないと人間としてのいのちをいただいたことが無駄になってしまいます。

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2011年12月 3日 (土)

念仏の称え心

 念仏を称えるとき、みなさんは何を思って称えられますか?
 「阿弥陀さま、ありがとうございます」、「はずかしい私でございます」、「どうぞお助けください」、「こんな念仏でいいのだろうか」、「あぁ、念仏はありがたい」、「悪いことが起こりませんように」等々・・・。また、この念仏は自力の念仏か、他力の念仏かと考えながら南無阿弥陀仏と口にしている人がいるかもしれません。
 念仏をするたびにいろんな思いがわき出てきます。念仏する人の心をのぞくことはできませんし、その時々に状況や思いによって念仏の味わいや思いはさまざまなでしょう。

 思いはさまざまであっても、念仏はどのような思いで称えればよいのでしょうか? あるいはどのような思いになって念仏しなければならないのでしょうか。?
 どうしてもそういうとらわれ方をしてしまいます。また他人の念仏の称え心が気になってしまうのです。だからといって、こういうとらわれ方をするのはダメだ、というつもりはありません。自分がそう思うなら、それがありのままの自分ですから、それを否定したり、抑えたりする必要はありません。しかしそんな思いは、阿弥陀様の願いを受け取らせていただく上においては、役には立ちません。
 そう言われると、何も考えずにただ念仏すればよいのかと思うのです。「称名報恩」と言われるくらいだから、救われたよろこびをもたなければ称えては意味がない、と思う人もいるかも知れません。

 南無阿弥陀仏は阿弥陀さまの願いであり、喚び声です。阿弥陀さまが私に無条件に与えてくださったのが念仏です。それに私がなんとか色を付けようとするのです。好みの色がついたら満足しますか? 奇抜な色がついたら心が躍りますか?
 私の思いをどれだけ込めてみても念仏の色がかわるわけではありません。念仏の値打ちに違いが生じることはありません。

 阿弥陀さまが念仏に込められたこころを、ただただ聞いてほしい、受け取ってほしい、称えてほしいと頭を下げて願っておられるだけです。その阿弥陀さまのこころをどのように聞いてきたのでしょうか?
 しっかり聞いてきたつもりでも、すっかり忘れてしまって、「聞いたことを話してみなさい」などと言われたら、何をどう話せばよいのか戸惑ってしまいます。挙げ句の果てに、「仏法は難しい」と言い始めるのです。何度教えられても、一生懸命に聞いているつもりでも、その程度です。
 そんな凡夫にこそ与えるべきだと、南無阿弥陀仏が準備されているのです。私の思いのところで、称え心を詮索している余地はありません。そういう思いを交えてしまうことが、阿弥陀さまの願いを聞けなくしてしまっているのです。

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2011年12月 2日 (金)

念仏への誤解

 世間では、あるいは浄土真宗の門信徒でさえも、念仏を呪文としてあるいは呪文であるがごとく唱えている人が少なくないのではないでしょうか。教えを聞かずして思い込むのは論外ですが、「念仏一つで救われていく」と聞いて念仏は呪文であると思ってしまうのなら聞くポイントがずれているとしか言いようがありません。
 「呪文」とは、口にすることによって災難を回避したり、幸せを招くことができると思われている言葉です。呪文には力があり、その呪文を自分がコントロールすることによって願いがかなうと考えられているのでしょう。しかし念仏は呪文ではありませんし、念仏を唱えたところで期待するような効果が現れるというようなことはありません。
 「それなら何の役に立つのか!?」と思われる方もおられるでしょう。私たちの思いとしてある「役に立つか否か」という基準からすれば、役に立たないと答えるしかありません。しかし念仏は阿弥陀さまのこころそのものです。また人間の祈願や祈祷の心が含まれません。この二つの点で、念仏は呪文とまったく本質をことにしています。

 私はこれまでたびたび、とにかく念仏を称えることが大切であると書いてきました。ところが「称えよ」と言われてもなかなか称えられるものではありません。それをなんとか工夫をして称えてみれば、私のなかに動き出す思いがあります。その思いの善し悪し、正しい間違いをも含んでいるかもしれません。称名念仏することのよってわき出てきたそんな思いを大事にもって聞法するのです。
 がんばったり工夫をしたりして称える念仏は、称える者の思いが混じっています。その思いを聞法するなかで問うてゆくのです。何の問題意識もないままただ漠然と聞法することを無駄だとは言いませんが、たいていは頭の中を素通りしてゆくだけでしょう。その素通りする言葉に絡み合うのが、称名念仏によって動き出す私の思いなのです。

 称名念仏によって動き出す私の思いが重要なのではありません。それはどこまでいっても迷いの凡夫の思いなのですから。その私の思いが、教えのなかで問われることが大切なことです。阿弥陀さまのからいただいた念仏が口からでることによって動く心は、私の日常生活の延長ではありますが、決して日常生活そのものではありません。自分が称えている念仏は、阿弥陀さまが「称えてくれよ」という願いによって突き動かされている行為であることに気づかせてもらわねばなりません。

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2011年12月 1日 (木)

頼りたいけど頼るものがないという悲劇

 宗教の機能は多岐にわたりますが、信仰あるいは信心というところで言うならきわめて個人的あるいは内面的なものです。ところが日本には「家の宗教」があって、その宗教を代々継ぐことがとても大切なことでした。その態勢ができあがるのは江戸時代で、家の宗教はほとんど仏教でした。その仏教は儀礼や形式が大切であり、家族全員が漏れることなく関わらねばなりませんでした。個人の意志が形成される以前の幼少期から家の宗教がすり込まれていきますから、それがそのまま個人の宗教となっていきました。「家」を守るための手段としての宗教であり、それに付随した死者儀礼が中心であったことは疑いようがありません。

 そんななかで浄土真宗は積極的に教えを伝えることに力をいれてきた教団の一つです。かつて仏教諸宗派寺院は広大な田畑を所有し、地域のなかに確かな地位を有していました。しかし第二次世界大戦後の農地改革でほとんどの田畑を失い、疲弊していきます。教えも家制度に支えれた祖先崇拝・先祖供養にしか関わらない教団が多いようです。そんななかで浄土真宗の寺院の多くは寺院の経済を潤すほどの田畑をもちませんでした。田畑からの年貢に頼ることができなかった真宗寺院は、人を教化し、人(門信徒)によって支えられてきたと言えるでしょう。
 教えを聞いて深い宗教心(信心)をもった門信徒が現れます。彼/彼女たちは、家族のなかで、地域社会のなかで、また同心の同行たちを育てていきました。

 ところがこの半世紀の間に、仏教と日常生活の間のすき間が少しずつ大きくなってきたようです。核家族化や小家族化により、家の宗教はその勢いを失います。それにともない、儀礼や形式はもちろんのこと、教えそのものも相続することが難しくなっていきます。
 また日本の教育のなかで、宗教教育を行っているのは宗教系の私立学校だけで、公立学校においてはまったく宗教教育が行われていないばかりか、積極的に宗教を排除する傾向さえもみられます。

 現世利益や祖先崇拝ではなく、本来の仏教の教えに関心を示す日本人は少ないのではないでしょうか。しかしそれは正しい教えを聞くチャンスがなかったがゆえの迷いに過ぎません。今の日本の社会経済政治の状況のまっただ中にあって何も頼るものを発見できずにいる人は、わらをもつかみたいのです。
 どのような形であるにしろ宗教的な訓練、教育を受けている人とそうでない人の違いは歴然です。わらをつかんだところで、つかんだまま沈んでゆくのはあまりにもむなしく、悲しすぎます。何かに頼ろうとするけれども頼り切れる対象がないというのは、現代日本の悲劇ではないでしょうか。

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