自利にも利他にもならない「しかと」
最近、あちこちで「しかと」ということばを聞きます。私は「しかと」ということばを知りませんでしたが、「しかとされた」「しかとされている」という何人かの人たちから、立て続けに相談を受け、話を聞いたのです。
1990年発行の『広辞苑』第四版を引いてその意味を調べたのですが、確かに、しっかりと、という意味での「しかと」はありますが、無視するという意味での記述はありません。比較的新しい使い方のようです。そこでインターネット上の辞書を引くと、無視すること、仲間はずれにすること、とありました。かつては、特定の対象を無視することを指すヤクザの隠語、と記されていました。
人間関係のなかで、無視されるほどつらいことはありません。しかし、無視や仲間はずれにしようとする人は、決して自然体でできることではないでしょう。無視しているのではなく、無視してやろうと意識しているのです。つまり悪質ないじめ以外の何物でもありません。
健全な精神を持っている者であっても、あの人とは関わりたくないということは日常茶飯事のこととしてあるでしょう。しかしいじめや仲間はずれを無意識であっても画策するというのは、その精神は極めて病んでいます。何よりも人との関係をより善くしようという意欲を失ってしまっているのですから、後ろ向きの生き方としか言いようがありません。
こんなときは、自分が絶対に正しい、間違いがないと思っています。もしくは自分の思い通りにならないことへのうっぷんを、自分なりにはらしているのです。
私が聞いてきた大乗仏教の神髄は「自利利他」です。自利を追求するだけではそれはエゴです。わが心に思うがままに振る舞い、それによって満たされることだとも言えるでしょう。ところが、自利とともに利他も同時に満たされることなしに、ほんとうの自利はあり得ないのです。それは至難としか言いようがありません。
自利利他がともに満たされる思いや振る舞いは、とても私にはできないことだとつくづく思います。だからと言って、自利だけを求める生き方は仏法を謗る生き方であり、賤しい人生だとも思います。
腹立ちや怒り、エゴやわがままを消すことはとても難しいことですが、そんななかでも利他を意識しながら生きることが自分勝手な自利に気づかせてくれるのではないでしょうか。さらに仏法に教えられるのは、利他さえも自分勝手に描いてしまう自分自身であることです。
仏法のなかには、決して「しかと」する教えなどありません。思い通りにならない腹いせ、愚かなわが思いから生じたものです。あまりにこだわりすぎると、まことの教えを聞くことを妨げることにもなってしまいます。
「しかと」している私さえも、阿弥陀さまの慈悲に包まれていることを教えてくださっていることを聞かねばなりません。
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コメント
花札の10点札の図柄が、シカのそっぽを向いている姿だからそうですね。それは、まったく私そのものと教えていただきました。ありがとうございます。
投稿: はらほろひれはれ | 2011年12月24日 (土) 23時27分