« 2011年12月 | トップページ | 2012年2月 »

2012年1月31日 (火)

念仏への違和感に向き合う

 浄土真宗の門信徒の方でも、念仏が嫌いな人がおられます。その多くの人は、念仏そのものが嫌いというのではないようです。「南無阿弥陀佛」と書かれた名号には手を合わせますし、念仏は阿弥陀さまの喚び声であるという話に嫌悪感を示されるわけでもありません。また、仏前で、お参りのみなさんといっしょに念仏合掌礼拝されることを嫌っておられるのではありません。
 どうやら、目の前にいる人がひとりで、しかもごく自然な日常生活のなかで「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ・・・」と声にだされることに違和感を感じられるようです。

 たしかに、学校や職場で称名念仏する場面にはであうことはありません。街中を歩きながら、買い物をしながらの称名念仏する人も滅多におられません。そんななかで、突然の念仏の声に、違和感、さらには嫌悪感とさえなるのでしょう。
 私はその思いがわからないではありません。私もかつて、突然の念仏の声にマイナスイメージしか描けませんでしたから。また何かわからないけどイヤ~な感じがしたものです。しかしそれは、念仏が声となって出てくることが、どのようなことなのかさっぱりわからなかったということだからでしょう。また、世間がもっている念仏のイメージは願いごとであったり、死者供養であることにイヤな感じを抱いていたのでしょうか。つまり、称える者の思いが念仏に込められていることへの違和感だったのかもしれません。

 仏さまの話を聞くことは、そんな間違った思いが正されることでもあります。ここでの間違いというのは、仏さまのこころ反する思いということです。念仏は「私が仏を念ずる」ことではありません。私の思いを念仏に込めて願うばかりのところに阿弥陀さまのこころはありません。仏さまのこころをまるっきり聞くことができていないことでもあります。
 念仏は「私が仏に念ぜられる」ことです。つまり仏さまが私に願ってくださっているのです。まことの教えを聞いてくださいと、私に向かって手を合わせ念じてくださっているこころです。その仏の願いが、凡夫の口から出るのが念仏です。凡夫の口から仏の願いが出るというのは、私の思いでも行為でもないことはあきらかです。

 念仏の声を嫌うことは阿弥陀さまのこころがわからないか、もしくは受け入れられないということでしょう。それは教えを知らないふつうの人間の思いなのかもしれません。教えを聞くということは大切なことですが、まずみずから称名念仏することしかないでしょう。わが身に向けられた阿弥陀さまの願いをわが口にしたとき、聞こえてくる阿弥陀さまのこころに向き合うしかありません。

 ただ決して勘違いしてならないのは、称名念仏することは不思議な現象でも、神秘的体験でもありません。またわが思いでコントロールできるものでもありません。念仏はこういうふうに称えなければならない、こんな気持ちで称えるのがよい・・・、などという思いは、仏さまの心でないことはあきらかです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月30日 (月)

何もわからなくても称えられるのが念仏

 仏教の言葉はとても難解です。悩み苦しみのなかにいるにもかかわらず、悩み苦しんでいることすらわからない私たちが、さとりの世界を理解するのは無理な話です。そのさとりの世界を表現するためには言葉も、言い回しも、内容も、世俗で使う表現と違うのは致し方ありません。いつも自分中心にしかものが考えられませんから、自分に理解できない事柄については「仏教は難解」としか言いようがないのです。
 それでもなんとか教えの中身を伝えたいと、言葉を易しくし、言い回しを工夫し、内容もたとえ話をふんだんに使って、少しでも納得してもらおうという試みがなされます。ところがそういう努力がなされても、頭で理解することはできますが、さとりの世界に至り着くことはありません。やっぱり教えそのものが難しいことには変わりはありません。

 それでも、難しくともくり返し法話を聞き、わからないなりにも教えに関する本を読むことで、感じる世界に少しずつ変化が生じてきます。知的な理解が深まるということもあるのでしょうが、それだけではなく阿弥陀さまのこころやはたらきを感じることができるようになるのです。
 だからと言って、私の何かが変わるわけではありません。相変わらずわが身がかわいいし、損得には敏感だし、腹も立つし、一度抱いた憎しみはなかなか消えることはありません。相も変わらず悩み苦しみのまっただ中にいるのです。

 仏法を聞けば聞くほど見えてくるものは、わが姿も見えず、まことの教えにうなずくこともできない私自身です。自分のことは自分が一番よく知っているという知ったかぶりをしていた自分の愚かさです。それでも普段の生活のなかでは、やっぱり知ったかぶりをして、他人には決して弱みを見せたくはありません。
 それでも教えの前ではごまかすことができません。私のことは完璧に見抜かれているのですから。自分のありのままの姿が暴かれて、ありがたい教えも何もあったもんではありません。
 結局、どれだけ教えられさとされても、さとりの世界とはほど遠いところにいる私でしかないのです。

 言葉を費やしてどれだけ説明・解説したって、それでまことが語り尽くせることなどありません。ただ阿弥陀さまのおこころが、私のところに響くところだけを聞いているのです。
 そんな者のための念仏です。そのほかには何もない。広大な阿弥陀さまのおこころが六字の中に封じ込められているのです。考えれば「難しい」ことですが、南無阿弥陀仏と称えさせていただくことはやさしいことです。迷い苦しみの中にいる者でも、何もわからなくても称えられるように、たもちやすいように仕上げてくださっているのです。ナンマンダブツ、ナンマンダブツ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月22日 (日)

阿弥陀さまは、ただ待ち続けてくださっています

 約束した時間に待ち人が来ない・・・という経験をされたことは誰でもあるのではないでしょうか。5分や10分程度の待ち時間なら、そう苦痛ではありません。しかしそれが15分、20分と経過すると次第に不安になってきます。事故にあったのではないか、約束を忘れてしまっているのではないだろうか、もしかして約束の日時や場所が違ったのだろうか・・・などと。
 かつてはそのことを確認すること手立てもありませんでしたが、いまでは携帯電話で確認をすることができます。しかしそんなときに限って、相手が携帯電話を使わない人であったり、何度かけてもつながらないということになりがちです。そうなるとこれまた不安が大きくなってきます。最初は心配したのに、だんだん腹が立ってきます。約束しておきながら何の連絡もないというのはどういうことか、こんなに心配させるとはどういうつもりなのか・・・、などと。
 待つのも限度がありますから、そのうち待ち合わせ場所を離れてしまうでしょう。いずれにしても、決していい思いが残ることはないでしょう。
 逆に、人を待たせた場合はどうでしょうか。約束通りに会う予定をしていたにもかかわらず、不可抗力によって約束の時間にその場所に行くことができないときは、とても穏やかな気持ちではおれません。なんとか連絡をとって遅れること、あるいは行けないことを伝えたいと思うでしょう。

 ところが、会う約束をしていることをすっかり忘れてしまうと、待つことも待たせることも、まったく気にはなりません。ましてや、約束していなかったら、待つことなどまったく必要のないことです。待たせるという気遣いも必要ありません。待つ人も、待たせる人もいないというのは気楽ではあります。だからといって、いつまで待つ人がいない、待たせる人がいないというのはさみしいものです。私にとってはなんでも適当がよいのです。気まぐれな自分の思いを満たしてくれる程度の適当が。

 そんないい加減なことではなく、ずっと私を待ってくださっている方がおられます。家で帰りを待ってくれている母や、学校で登校するのを待っていてくれる先生ではありません。深い愛情から待っていてくれるでしょうが、いつまでもというわけではありません。
 1年や2年ではない。10年や20年ではない。100年や200年でもありません。はかり知ることのできない昔から、私を待ってくださっている阿弥陀さまがおられます。そのことに私は気づかないまま、のんきに生きています。待たせていることを申し訳ないとさえ思わない。待たせているとも思っていないのです。
 仏法を聞かせてもらうということは、阿弥陀さまを待たせていることを感じるところから始まるのかもしれません。どれだけ阿弥陀さまを待たせても、ただただ私を待ち続けてくださっています。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年1月17日 (火)

私を願い続けてくださっている阿弥陀さま

 だれもが願いを持っています。こうありたい(こうあってほしくない)、こうなりたい(こうはなりたくない)、こんなものがほしい(これだけはいらない)・・・など、それらはすべて私のための願いです。私のためだけではなく、私の大切な人やことがらに関するものもありますが、それは延いては私のためなのです。
 宗教の多くは、この私の願いを成就することができることを“売り”にしています。願えば、頼めば、拝めば、その願いが実現するのだ、と。つまり私が自分の欲を実現するために、神仏に願うのです。これは人間の持っている根源的な思いをくすぐり、多くの人を集めます。教えの中味はわからなくても、自分の願いが実現されるなら足を運んで願い、頼み、拝むのです。

 そんな宗教のあり方に反発する人もいます。自分の努力を怠って、安易に欲を実現することなんてありえない、と。ところが、そう言っている人でも、自分の願いをかなえるために精一杯努力したけれども先が見えないことの不安から、神仏の加護を頼み、拝むというというのは珍しいことではありません。ですから、結果はどうあれ、神仏に対して現世利益を期待する心をなくすことなどできないことがわかります。

 私が聞いてきた阿弥陀さまの教えは、そんな多くの人が持っている宗教のイメージを一掃させるものです。私の願いにこだわるのではなく、阿弥陀さまの願いを聞き、いただく教えなのです。当然のことながらその願いは、この私が持っている願い(欲)を聞き入れ、成就させようというものではありません。
 私の願いが実現すれば、しあわせな気持ちになれることは事実でしょう。しかし阿弥陀さまからすれば、むしろ欲は迷いであり、私の願いは迷いを生む種子でしかないとみておられるのです。だからといって、私の願いを否定されることはありません。そういう私をすっかりそのまま肯定してくださっています。
 阿弥陀様の願いというのは、迷いの私を目覚めさせることです。この世で願いと称する私の欲の実現にかかり果てているだけではいつまでたっても迷い続けることしかない、と示して下さっているのです。そして、迷い続ける私をそのまま迷うことのない身にさせてみせるという願いなのです。もっと正確に言うなら、お願いだから迷うことのない身にさせてくださいという願いが阿弥陀さまのこころです。こころにとどめておくのではなく、具体的なはたらきさえも私に与えてくださっているのです。

 わが身の願いにかかり果てていますから、つまり迷いの身ですから、願われている身であることなど気づきようがないのがこの私です。堅い殻のなかで、自分の願いだけに閉じこもって悩み苦しんでいる私を、ずっと待ち続けてくださっている阿弥陀さまがいてくださるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月16日 (月)

阿弥陀さまのこころをさえぎる心

 必ず救うと誓われる阿弥陀さまの願いをそのままいただくのが真宗の信心です。何も難しく考える必要はありません。阿弥陀さまが必ず救うと誓われ、そしてただ今もはたらいてくださっているのですから救われるよりほかありません。
 ところが、言うことや聞くことはとてもやさしいですが、そのことにうなずきわが身に知らされることは難しいことです。余計なことは考えず、ただ素直に聞けばよいというのはわかっています。わかっているし、そうできるならそうしたい。でも、心の奥底に阿弥陀さまを受け付けない何かがあるのです。
 山口県・六連島のお軽同行の「こうも聞こえにゃ聞かぬがましよ、聞かにゃおちるし聞きゃ苦労、今の苦労は先での楽と、気やすめいえど気はすまぬ、すまぬこゝろをすましにかゝりゃ、雑修自力とすてられゝ・・・・」と述懐しておられます。求道している者にとっては、お軽さんのことばの方が、阿弥陀さまのおこころよりもうなずけるのです。

 その阿弥陀さまのこころを受け付けることができない何かというのは「疑心」です。「私には疑い心などまったくありません」といわれる方がおられます。そんなことばを聞くたびに、そんな人もいるのだなぁと感心したり、驚いたり、うらやましかったり。
 もちろん人の信心の中味を沙汰することなど大それたことですが、直感的に感じるものがあります。それは本当に疑心無く阿弥陀さまのおこころをいただいた人と、疑心を疑心と思っていない人です。
 説かれたことを、また書物に書かれたことを頭で理解することはできます。しかしただ理解するだけでは疑心は晴れません。観念的な知識をどれだけ積み重ねても、阿弥陀さまのおこころを受け入れることとは無関係です。
 信心を得るというのは阿弥陀さまのはたらきを感じることです。そのはたらきはわが身のうえに実現されることです。ですから、凡夫の生活に入り浸りながらも念仏が出るのです。しかし疑心の人からは念仏が聞こえません。口からこぼれるような念仏のこころが届いていないのですから。

 心すべきことは、私の思いで救われるのではないということです。教義や理屈を知っておれば、あとは自分がいかに納得するかの問題であるなどと思うのは、まったくの勘違いでしかありません。阿弥陀さまのこころを知らずして、何を納得するのでしょうか。何度も、これでもかというほどていねいに阿弥陀さまのこころを聞くことが大切なことです。
 問題は阿弥陀さまの願いにあるのではありません。わが思いに問題があるのです。納得するのではありません。納得させられるしかないし、納得せざるを得ないのが仏法なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月13日 (金)

世間の雑事とともに南無阿弥陀仏

 仏道修行と言えば、世間の生活とは異次元のものです。世間的な雑事や楽しみ苦しみの発想では理解できるものではありません。本来的には世間の生活を捨てることから始まるのですから。それゆえでしょうか、世間の人たちが仏道修行に励む人に対する評価は「たいへんやね・・・」くらいのものです。それ以外の評価の下しようがないからでしょう。

 私の個人的な思いのところで言うなら、仏道修行をしている人の姿はとても尊くみえます。同じ人間であっても、超えた人であるという感じがします。仏道修行をしている人でなくとも、合掌している人の姿は美しいと思いますし、仏さまの話を聞いている人の顔は神妙です。これだけでも日常生活の感覚とは違うことを感じます。
 だからといって、仏道修行や仏さまの話を聞くことによって、とてもすばらしいことをしているという思いに陥ってしまうのは、日常の感覚に引き戻されているのではないでしょうか。仏道を歩み、仏法聴聞する当事者が、自分はすばらしい人になったような気持ちになるのはとんだ思い上がりです。決してすばらしい人になる道を歩んでいるのでもありません。

 仏道を歩む、仏法聴聞するというのは、まずは自分をよく知るようになることです。さらに言うならば、愚かな凡夫であることを深く自覚することにほかなりません。つまり自分の現状分析ができるようになることです。
 これがとてもむつかしい。仏さまの話しを聞き、とてもありがたくなって思わず手を合わせることもあるでしょう。ところがそれで終わりではありません。そういう生活を絶え間なく続けてゆくことが仏道を歩むということでしょう。合わせていた両手を離した瞬間、執着、わがまま、自尊心、劣等感、高慢、卑下、等々次から次へとわき出すものがあります。そして自分を肯定し、正当化する私に戻っているのです。
 これがほんとうの私なのでしょう。仏道修行に励んだり、尊い教えを聞いたところで、自性が変わるわけではないのです。自分を煩わせる思いや行動を自らが発し、それによって自らが思い悩む姿を抱えている私から一歩も出ることはありません。

 そういう私に与えてくださったのが南無阿弥陀仏です。世間的な雑事や楽しみ苦しみにむきあったときこそ称えさせていただくことができるのです。執着、わがまま、自尊心、劣等感、高慢、卑下、等々次から次へとわき出すそのままで称えることができるのです。自分を肯定し、正当化する私の口から南無阿弥陀仏とこぼれ、あふれでてくださるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月12日 (木)

現世利益を頼む必要のない教え

 “最近、体調や仕事がうまくいかないのはなぜだろう・・・”と思って、自分の生活や人間関係を点検してみると、問題がいくつも出てきて思い悩んでしまうことがあります。これらの問題を解決しようと思っても、ちょっと行き詰まってしまうとなかなかそこから抜け出せなくなってしまい、重い気分になってしまいます。そんなときは、だれかに頼りたくなるものです。
 だからといって、心の底まで許せるほどの人がいつも側にいるわけではありません。また頼れる人がいても、後々のことを考えると煩わしい関係にはしたくない。それなら手軽に占いや現世利益の宗教に頼ってしまう方が、気持ちの上でははるかに楽。そう思う人は少なくないようです。

 そうして占いや現世利益の宗教に頼った結果は、「心を正し、品行方正な生活し、人のためになることをすれば次第に良いリズムが戻ってくる」とか「上手に気分転換するために、趣味や特技を活かして生活を楽しみ、自分らしさを取り戻しましょう」といった類のアドバイスを聞くことができるでしょう。しかしこれくらいのことなら、人生の先輩にいくらでも聞くことができますし、これ以上の助言ももらえます。またある程度年齢を重ねれば、経験則としてそれくらいのことは十二分に承知しているに違いありません。もしそんなことがわかっていても、つい占いや現世利益を求めてしまうのは、人間の弱さなのかもしれません。

 数ある宗教のなかで、浄土真宗は占いや現世利益を頼むことはしません。してはならないのではなく、する必要がないという教えです。
 なぜか? 私が自分のエゴをむき出しにして良いことがあってほしいとか、悪いことが起こらぬようにと願う前に、阿弥陀さまから願われているのです。心を正すか否か、品行方正な生活をするか否かにかかわらず、心豊かで幸せな身にしてみせると誓われた仏さまが阿弥陀さまなのです。占いの吉凶にかかわらず、現世利益を頼んでそれが実現するか否かにかかわらず、阿弥陀さまの願いが私に向けられているのです。

 阿弥陀さまのお慈悲に間違いはありませんが、なかなかその願いを受け取ることができないから迷うしかないのです。何も自分を変える必要はないし、そのままの私でよいのです。変えようと思っても変わることができないのが私であることを一番よくご存じなのは阿弥陀さまという仏さまです。それを承知の上で、阿弥陀さまのお慈悲がしあがっているのです。私がどれだけがんばっても、阿弥陀さま以上のことができるはずがありません。それをこの身にいただくことが真宗の安心であり、これ以上ない利益なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月 9日 (月)

それぞれの仏縁があります

 誰でも、それぞれに仏縁があります。この世のなかで起こるさまざまなできごと、また私の思いや行動のすべてが仏縁です。そんなものはないと否定するのは、仏縁を感じることができないだけのことです。仏縁を感じる人であっても、それは仏縁のごくごく一部でしかありません。
 その仏縁のことを、むかしの人は「冥加(みょうが)」とも言い習わしてきました。いまではほとんど使われることのない言葉の一つでしょう。「冥(めい)」は音読みで「冥(くら)い」と読み、暗がり、闇(やみ)のことを言います。また道理にくらいという意味でもあります。そこから「冥途(めいど)」というような言葉が生まれたのでしょう。
 つまり「冥」は私の知らない世界、気づかない世界のことです。それが「冥土」であり、私の知らない仏さまのはたらきを「冥加」と言ってきました。そんなことを感じることができないことが「盲冥(もうみょう)」です。智慧のないこと、無明の状態を言うのです。

 迷いのままこの世を生きている私です。迷っているにもかかわらず、迷っているとは思えないほど迷っている。迷っているから、迷っていると教えられてもそのことには耳も貸さずに平然としてしまっている。まさに前後不覚状態です。
 迷いの身であることに気づけば、少しは身を正そうと思うかもしれませんし、正しい道を求めようとするかも知れません。でも、そういう思いに至らないのですから。むしろ、“迷っているのかどうかわからないけれど、そんなことを考えている暇があったら健康のことを考えて、わが身や家族の幸せを考え、仕事に精を出し、お金を稼いで、おもしろ楽しく生活するのが一番”という心しかありません。

 ほとんどそんな心であっても、どこか、なぜかさみしいし、悲しいし、不安だし、これでいいのかなぁ・・・などと考えてしまいます。それもフッと心をよぎるのです。でもそこで迷ったらダメ、自分の道をしっかり定めて生きよう・・・とも思うのです。そんな思いのくり返し。それが迷いです。

  弥陀成仏のこのかたは  いまに十劫をへたまへり
  法身の光輪きはもなく  世の盲冥をてらすなり
   (『浄土和讃』註釈版p.557)

 冥(くら)いなかにいるから、また迷いの渦中にあるから何も見えない。盲冥であるがゆえに気づくことができません。私にはどうすることもできない。だから、きわもない法身の光輪(阿弥陀さまのはたらき)があるのです。そのはたらきだけ以外に私を導いてくださる末通った真実はどこにもありません。
 迷いを無くしてさとりを得るのでも、迷いから脱してさとりの世界に至るのでもありません。まさに「転迷開悟」の道が阿弥陀さまによって示されているのです。それぞれの人が、自分のこととして出遇っていくほかはないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月 6日 (金)

南無阿弥陀仏をとなふれば

 正月はよい事があるようにと祝い祈る機会だと考えている人が多いようです。多くの神社仏閣には、家内安全、夫婦円満、子孫繁栄、無病息災、安寧長寿、攘災招福、商売繁盛、五穀豊穣、大漁追福、さらに交通安全、就職成就、良縁成就、社運隆昌などを願っての参拝が絶えません。これらのことを願っていない人など誰もいないでしょうし、自分が願ったことが叶えられることが幸せだと思われているようです。
 そういう願いを神仏にするだけではどうも心が落ち着かないので、縁起物を求めるのです。お札(ふだ)、お守り、おみくじ、絵馬などがあります。これらは正月でなくとも、それぞれの置かれた状況のなかで求められます。

 これらは先の見えない怖れや不安を静めようとする一つの手段です。もちろんそれで心が落ち着くから神社仏閣への参拝や縁起物の持つことになるのでしょう。いわゆる「癒し」としての効果はあるのかもしれません。だからといって、それで先々の怖れや不安が解消するのではありません。実際、参拝や縁起物とは関係なく災難はやって来ます。

 私たちが求める仏法の教えは、絶対的な安心の世界をいただくことです。「いただくこと」というのは、私が不安を解消したいからそれを求め、つかみにかかることではありません。
 迷いのなかにおり、怖れや不安をいだいている私であることを見抜いてくださっている阿弥陀如来という仏さまが、私の意思とは関係なくはたらいてくださっているのです。そして南無阿弥陀仏を私に与えてくださいました。
 私の勝手な思いで、よい事がありますようにとも、災いが来ませんように・・・と祈らなくても、縁起物をも持たなくてもよいのです。南無阿弥陀仏があるのですから。これは私の思いではなく、阿弥陀如来の思いであるのです。
 先のも述べたように、祈り、縁起物を持っていても、参拝や縁起物とは関係なく災難はやって来ます。阿弥陀如来のはたらきは、怖れや不安をもったまま、災いが起これば災いのまま、私をまもってくださっているのです。

 親鸞聖人は、『浄土和讃』の「現世利益和讃」に次のように示されています。

南無阿弥陀仏をとなふれば 梵王・帝釈帰敬す
 諸天善神ことごとく よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなふれば 四天大王もろともに
 よるひるつねにまもりつつ よろづの悪鬼をちかづけず

南無阿弥陀仏をとなふれば 堅牢地祇は尊敬す
 かげとかたちとのごとくにて よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなふれば 難陀・跋難大竜等
 無量の竜神尊敬し よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなふれば 炎魔法王尊敬す
 五道の冥官みなともに よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなふれば 他化天の大魔王
 釈迦牟尼仏のみまへにて まもらんとこそちかひしか

南無阿弥陀仏をとなふれば 観音・勢至はもろともに
 恒沙塵数の菩薩と かげのごとくに身にそへり

南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量の諸仏は
 百重千重囲繞して よろこびまもりたまふなり

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012年1月 5日 (木)

道理がいちばん難しい

 難しいことをわかりやすく伝えるというのは、容易なことではありません。わかりやすく伝えるためには、難しいことの内容をしっかり理解するだけではなく、“自分のもの”にしておかなければなりません。ところが、早合点して我流の理解をしてしまうと、本質をつかみきれないでわかったつもりになってしまいます。そして何よりも問題なのは、その我流の理解のところに腰をおろしてしまって、修正することを怠たり忘れてしまうことです。

 もちろん、多くの人が理解してもらうためにはわかりやすいというのはとても大切な条件です。しかし昨今、「サルでもわかる・・・」とか、「3時間でマスターする・・・」という類の書物がでています。もちろんポイントは抑えられているのでしょうが、わかりやすくということが最優先してしまいますと、大事なところでも難しくて理解しにくいところは省略されてしまうことになりかねません。また、簡単な説明で終わってしまうとかえってわかりにくかったり、とんだ誤解をしてしまうこともあります。
 難しいというのは、それを受け容れる側の度量を超えた内容であるということです。ことばや表現のレベルで噛みくだいて伝えられても、わからないことはいっぱいあります。伝える側の努力や工夫が必要であることは言うまでもありませんが、伝えられる(受け取る)側の者が、伝える側の人に依存していては、いつまでたっても難しい内容は難しいままで、決して伝わることはありません。
 つまり、難しい、わからないというところにとどまったり、あきらめて放り投げてしまうのではなく、受け取る側の努力や工夫が必要でしょう。それは仏法聴聞の上においてはとても大切なことです。一般的には、それは「修行」だとか「発菩提心」などと思われるかもしれません。

 仏法は道理です。簡単に言うなら「あたりまえ」のことなのです。ですから、仏法の難しさは、難しい書物が読めないけれど、「読書百遍、意、自ずから通ず」というのとは違います。何度も反復しさえすればわかるというものでもありません。
 仏法聴聞のなかで、いつも聞いており、すでによく知っていることはたくさんあるでしょう。何でもよくわかっているつもりでも、心の奥底に溶けきれない疑いのかたまり一つが、私の心を真っ暗にしているのです。
 この“わかり方”がとても難しいのが仏法です。つまり真っ暗な心が晴れることなくして仏法が“わかった”ことにはなりません。それは仏法の道理が飲み込めていないことでもあるのです。ここの記述はほんとうにわかりにくい、難しいところです。でもあきらめないで、捨てないでください。道理に背く考えや生き方が、道理を見えなくさせているだけのことなのですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年12月 | トップページ | 2012年2月 »