念仏への違和感に向き合う
浄土真宗の門信徒の方でも、念仏が嫌いな人がおられます。その多くの人は、念仏そのものが嫌いというのではないようです。「南無阿弥陀佛」と書かれた名号には手を合わせますし、念仏は阿弥陀さまの喚び声であるという話に嫌悪感を示されるわけでもありません。また、仏前で、お参りのみなさんといっしょに念仏合掌礼拝されることを嫌っておられるのではありません。
どうやら、目の前にいる人がひとりで、しかもごく自然な日常生活のなかで「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ・・・」と声にだされることに違和感を感じられるようです。
たしかに、学校や職場で称名念仏する場面にはであうことはありません。街中を歩きながら、買い物をしながらの称名念仏する人も滅多におられません。そんななかで、突然の念仏の声に、違和感、さらには嫌悪感とさえなるのでしょう。
私はその思いがわからないではありません。私もかつて、突然の念仏の声にマイナスイメージしか描けませんでしたから。また何かわからないけどイヤ~な感じがしたものです。しかしそれは、念仏が声となって出てくることが、どのようなことなのかさっぱりわからなかったということだからでしょう。また、世間がもっている念仏のイメージは願いごとであったり、死者供養であることにイヤな感じを抱いていたのでしょうか。つまり、称える者の思いが念仏に込められていることへの違和感だったのかもしれません。
仏さまの話を聞くことは、そんな間違った思いが正されることでもあります。ここでの間違いというのは、仏さまのこころ反する思いということです。念仏は「私が仏を念ずる」ことではありません。私の思いを念仏に込めて願うばかりのところに阿弥陀さまのこころはありません。仏さまのこころをまるっきり聞くことができていないことでもあります。
念仏は「私が仏に念ぜられる」ことです。つまり仏さまが私に願ってくださっているのです。まことの教えを聞いてくださいと、私に向かって手を合わせ念じてくださっているこころです。その仏の願いが、凡夫の口から出るのが念仏です。凡夫の口から仏の願いが出るというのは、私の思いでも行為でもないことはあきらかです。
念仏の声を嫌うことは阿弥陀さまのこころがわからないか、もしくは受け入れられないということでしょう。それは教えを知らないふつうの人間の思いなのかもしれません。教えを聞くということは大切なことですが、まずみずから称名念仏することしかないでしょう。わが身に向けられた阿弥陀さまの願いをわが口にしたとき、聞こえてくる阿弥陀さまのこころに向き合うしかありません。
ただ決して勘違いしてならないのは、称名念仏することは不思議な現象でも、神秘的体験でもありません。またわが思いでコントロールできるものでもありません。念仏はこういうふうに称えなければならない、こんな気持ちで称えるのがよい・・・、などという思いは、仏さまの心でないことはあきらかです。
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