南無阿弥陀仏をとなふれば
正月はよい事があるようにと祝い祈る機会だと考えている人が多いようです。多くの神社仏閣には、家内安全、夫婦円満、子孫繁栄、無病息災、安寧長寿、攘災招福、商売繁盛、五穀豊穣、大漁追福、さらに交通安全、就職成就、良縁成就、社運隆昌などを願っての参拝が絶えません。これらのことを願っていない人など誰もいないでしょうし、自分が願ったことが叶えられることが幸せだと思われているようです。
そういう願いを神仏にするだけではどうも心が落ち着かないので、縁起物を求めるのです。お札(ふだ)、お守り、おみくじ、絵馬などがあります。これらは正月でなくとも、それぞれの置かれた状況のなかで求められます。
これらは先の見えない怖れや不安を静めようとする一つの手段です。もちろんそれで心が落ち着くから神社仏閣への参拝や縁起物の持つことになるのでしょう。いわゆる「癒し」としての効果はあるのかもしれません。だからといって、それで先々の怖れや不安が解消するのではありません。実際、参拝や縁起物とは関係なく災難はやって来ます。
私たちが求める仏法の教えは、絶対的な安心の世界をいただくことです。「いただくこと」というのは、私が不安を解消したいからそれを求め、つかみにかかることではありません。
迷いのなかにおり、怖れや不安をいだいている私であることを見抜いてくださっている阿弥陀如来という仏さまが、私の意思とは関係なくはたらいてくださっているのです。そして南無阿弥陀仏を私に与えてくださいました。
私の勝手な思いで、よい事がありますようにとも、災いが来ませんように・・・と祈らなくても、縁起物をも持たなくてもよいのです。南無阿弥陀仏があるのですから。これは私の思いではなく、阿弥陀如来の思いであるのです。
先のも述べたように、祈り、縁起物を持っていても、参拝や縁起物とは関係なく災難はやって来ます。阿弥陀如来のはたらきは、怖れや不安をもったまま、災いが起これば災いのまま、私をまもってくださっているのです。
親鸞聖人は、『浄土和讃』の「現世利益和讃」に次のように示されています。
南無阿弥陀仏をとなふれば 梵王・帝釈帰敬す
諸天善神ことごとく よるひるつねにまもるなり
南無阿弥陀仏をとなふれば 四天大王もろともに
よるひるつねにまもりつつ よろづの悪鬼をちかづけず
南無阿弥陀仏をとなふれば 堅牢地祇は尊敬す
かげとかたちとのごとくにて よるひるつねにまもるなり
南無阿弥陀仏をとなふれば 難陀・跋難大竜等
無量の竜神尊敬し よるひるつねにまもるなり
南無阿弥陀仏をとなふれば 炎魔法王尊敬す
五道の冥官みなともに よるひるつねにまもるなり
南無阿弥陀仏をとなふれば 他化天の大魔王
釈迦牟尼仏のみまへにて まもらんとこそちかひしか
南無阿弥陀仏をとなふれば 観音・勢至はもろともに
恒沙塵数の菩薩と かげのごとくに身にそへり
南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して よろこびまもりたまふなり
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コメント
かって、若い時、苦しみ悩みがどんどん重なり起こってきていて、苦しみの中で泣いていたことを思い出しました。
そんな時、庭に今まで咲いたことがなかった木に可憐な花がたくさんついていた時、また草の間から咲き誇ったような花を発見したとき、あっ今年はいい事がある、あの悩みが解消するのではないだろうか。
きっとそうだ、と不確定な淡い喜びを抱き、だが、いつまで待ってもそれが叶わぬ悲しみ、また新たななぐさめを探す中、それよりもまた新たな苦しみが重なってくるというような事が有ったなと今懐かしく思い出しております。
今もあの時の悲しみの一つ一つは解消してはいない。
仏法に出会い、それらは自分で作った業の報い、誰のせいでもないよと知
らされました。
南無阿弥陀仏にであってしまった。
私は悲しんでいただけ。その他なにもしていない。苦しみのあまり仏法を求めた。欲の塊であった。其れをそのまま、弥陀は寄り添ってくださっていた。
この苦しみが宝であったとはなんとなんとなぁ。南無阿弥陀仏
年頭にあたり先生にご挨拶。ことしもよろしくおねがいします。
なもなもなも、、、、、
投稿: ばば | 2012年1月 6日 (金) 11時13分