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2012年1月30日 (月)

何もわからなくても称えられるのが念仏

 仏教の言葉はとても難解です。悩み苦しみのなかにいるにもかかわらず、悩み苦しんでいることすらわからない私たちが、さとりの世界を理解するのは無理な話です。そのさとりの世界を表現するためには言葉も、言い回しも、内容も、世俗で使う表現と違うのは致し方ありません。いつも自分中心にしかものが考えられませんから、自分に理解できない事柄については「仏教は難解」としか言いようがないのです。
 それでもなんとか教えの中身を伝えたいと、言葉を易しくし、言い回しを工夫し、内容もたとえ話をふんだんに使って、少しでも納得してもらおうという試みがなされます。ところがそういう努力がなされても、頭で理解することはできますが、さとりの世界に至り着くことはありません。やっぱり教えそのものが難しいことには変わりはありません。

 それでも、難しくともくり返し法話を聞き、わからないなりにも教えに関する本を読むことで、感じる世界に少しずつ変化が生じてきます。知的な理解が深まるということもあるのでしょうが、それだけではなく阿弥陀さまのこころやはたらきを感じることができるようになるのです。
 だからと言って、私の何かが変わるわけではありません。相変わらずわが身がかわいいし、損得には敏感だし、腹も立つし、一度抱いた憎しみはなかなか消えることはありません。相も変わらず悩み苦しみのまっただ中にいるのです。

 仏法を聞けば聞くほど見えてくるものは、わが姿も見えず、まことの教えにうなずくこともできない私自身です。自分のことは自分が一番よく知っているという知ったかぶりをしていた自分の愚かさです。それでも普段の生活のなかでは、やっぱり知ったかぶりをして、他人には決して弱みを見せたくはありません。
 それでも教えの前ではごまかすことができません。私のことは完璧に見抜かれているのですから。自分のありのままの姿が暴かれて、ありがたい教えも何もあったもんではありません。
 結局、どれだけ教えられさとされても、さとりの世界とはほど遠いところにいる私でしかないのです。

 言葉を費やしてどれだけ説明・解説したって、それでまことが語り尽くせることなどありません。ただ阿弥陀さまのおこころが、私のところに響くところだけを聞いているのです。
 そんな者のための念仏です。そのほかには何もない。広大な阿弥陀さまのおこころが六字の中に封じ込められているのです。考えれば「難しい」ことですが、南無阿弥陀仏と称えさせていただくことはやさしいことです。迷い苦しみの中にいる者でも、何もわからなくても称えられるように、たもちやすいように仕上げてくださっているのです。ナンマンダブツ、ナンマンダブツ。

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