わが思いを交えずに、阿弥陀さまの心を聞く
浄土真宗の救いは、信心ひとつと言われながら、一方では「信楽受持すること、はなはだもって難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし」(「正信偈」註釈版p.204)とも言われます。これ以上難しいことはないというのです。また、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へはゆきやすくしてひとなし」(『御文章』註釈版p.1119)とも言われています。信心をとる人はまれですから、浄土へゆくのはやさしいのにゆく人がいないというのです。
つまり、往生のためには信心ひとつでよく、そのほかには何もいらないのに、その信心がえられない。信心を獲ることができないというのです。確かに、長い間仏法を聞いているけれども、その要がわからない、ほんとうにこんな聞き方でいいのだろうか・・・などと、教えの受け取り方がきわめてあいまいである人は少なくはありません。
そういう私も、なにかぼんやりした真実らしきものがあるような気もするけれど、それが私にどのようにはたらいているのかわからないし、真実を実感することができないことに悩んだことがありました。形だけの僧侶になれても、人前に出て仏さまの話などできようはずはない、とも。
しかしどれだけ私が苦しみ悩もうとも、それをわが力で解決する手段などどこにもありません。体力も、知力も、感覚も、それらを鍛錬したり研ぎ澄ませたりして、一時のなぐさみになったところで、末通った真実などみえることはありません。私があがくほど、「はなはだもって難し」という言葉ばかりが頭をよぎるのです。信心ってなんだろう? 見えない、実感のない阿弥陀さまを信じることもできないし・・・。
そんな思いの解決のためには、阿弥陀さまのおこころを聞かせていただくしかありませんでした。私の思いが先にくるから、阿弥陀さまのこころが届かないのです。私の心によって信じようとするから、阿弥陀さまのこころが届かないのです。私の思いや心が混じるから「難のなかの難これに過ぎたるはなし」になるのです。
私の思いも心もはたらかないほどに、ただただ阿弥陀さまの心を聞かせつづけられることしかありません。その阿弥陀さまのこころは「南無阿弥陀仏」です。この「南無阿弥陀仏」にも、わが思いを交えてしまうから、阿弥陀さまのこころと聞くことができないのです。
阿弥陀さまの願いとはたらきであるから、往生浄土が間違いないのです。それでいて浄土に往きやすいのです。阿弥陀さまのこころを聞かせていただきつつ、そのこころがもっとも端的に示され、私に称えよとすすめ与えられた「南無阿弥陀仏」を口に称えさせていただく。それ以外に何ができますか?
そこのところが私の心にスポッと入ったとき、「南無阿弥陀仏」と口に称えさせていただくほかはなくなってしまう。それは、まったく私のはたらきではなく、阿弥陀さまのはたらきなのです。
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