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2012年2月24日 (金)

わが思いを交えずに、阿弥陀さまの心を聞く

 浄土真宗の救いは、信心ひとつと言われながら、一方では「信楽受持すること、はなはだもって難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし」(「正信偈」註釈版p.204)とも言われます。これ以上難しいことはないというのです。また、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へはゆきやすくしてひとなし」(『御文章』註釈版p.1119)とも言われています。信心をとる人はまれですから、浄土へゆくのはやさしいのにゆく人がいないというのです。
 つまり、往生のためには信心ひとつでよく、そのほかには何もいらないのに、その信心がえられない。信心を獲ることができないというのです。確かに、長い間仏法を聞いているけれども、その要がわからない、ほんとうにこんな聞き方でいいのだろうか・・・などと、教えの受け取り方がきわめてあいまいである人は少なくはありません。
 そういう私も、なにかぼんやりした真実らしきものがあるような気もするけれど、それが私にどのようにはたらいているのかわからないし、真実を実感することができないことに悩んだことがありました。形だけの僧侶になれても、人前に出て仏さまの話などできようはずはない、とも。

 しかしどれだけ私が苦しみ悩もうとも、それをわが力で解決する手段などどこにもありません。体力も、知力も、感覚も、それらを鍛錬したり研ぎ澄ませたりして、一時のなぐさみになったところで、末通った真実などみえることはありません。私があがくほど、「はなはだもって難し」という言葉ばかりが頭をよぎるのです。信心ってなんだろう? 見えない、実感のない阿弥陀さまを信じることもできないし・・・。

 そんな思いの解決のためには、阿弥陀さまのおこころを聞かせていただくしかありませんでした。私の思いが先にくるから、阿弥陀さまのこころが届かないのです。私の心によって信じようとするから、阿弥陀さまのこころが届かないのです。私の思いや心が混じるから「難のなかの難これに過ぎたるはなし」になるのです。
 私の思いも心もはたらかないほどに、ただただ阿弥陀さまの心を聞かせつづけられることしかありません。その阿弥陀さまのこころは「南無阿弥陀仏」です。この「南無阿弥陀仏」にも、わが思いを交えてしまうから、阿弥陀さまのこころと聞くことができないのです。

 阿弥陀さまの願いとはたらきであるから、往生浄土が間違いないのです。それでいて浄土に往きやすいのです。阿弥陀さまのこころを聞かせていただきつつ、そのこころがもっとも端的に示され、私に称えよとすすめ与えられた「南無阿弥陀仏」を口に称えさせていただく。それ以外に何ができますか?
 そこのところが私の心にスポッと入ったとき、「南無阿弥陀仏」と口に称えさせていただくほかはなくなってしまう。それは、まったく私のはたらきではなく、阿弥陀さまのはたらきなのです。

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2012年2月20日 (月)

後生を想定外にしてはなりません

 東北地方太平洋沖大震災にしても、その直後の福島第一原発の事故についても、地震や原発関係の関係者は口を揃えて「想定外だった」と言います。想定外という言葉の裏には、予測をした人の責任回避の言い訳が含まれていると言う人がいます。そう言えないことはないでしょうが、起こる可能性のある範囲であるか否かの線を引くこと自体が無理なことです。過去の知識や経験の蓄積をデータとして検討した結果によってたてられている想定ですから、そのデータに盛り込まれていないことが起これば想定外にならざるを得ません。

 しかし想定内のことであっても、自身のなかに大混乱が起こることはしばしばあります。生まれ生きる者は必ず死があるというのはだれもが知っていますから、ごく身近な人が亡くなるというのは想定内のことです。何十年もいっしょに苦楽をともにしてきた両親や妻や夫、さらには子どもや兄弟姉妹も亡くなるということもわかっているはずです。それにもかかわらず、突然やってくる身近な人の死に言葉さえも失ってしまいますし、虚脱状態におちいってしまいます。
 身近な人の死は想定内であると知識のレベルで知っていても、自分ではコントロールできていないことがあるということを教えてくれています。ましてや、自分の死も想定内であるはずなのに、その認識はきわめて薄いのではないでしょうか。つまり死を想定した生き方をしている人はほとんどいないということです。生命保険をかけるとき、自分が死亡した場合の保険金の額をきめなければなりません。その場合でも、自分が死ぬという実存的な思いに至ることはまずないでしょう。万一、自分の死を感じることがあれば、その思いをなんとか打ち消そうとするばかりです。

 万事、都合よく生きたいだけのことです。しかし都合よく生きることができるか否かは、はるかに私の思いを超えたところにしかありません。ましてや、自分の死んだ先のゆくえはまったくの想定外です。
 この世をいかに生きるのかという延長線上で自分の死の問題を考えてみても、解決のきっかけさえも見つけることはできません。想定内の死にも目をつむるくらいですから、この世を終えた次はどこに生まれるのなどという想定外のことはとても考えられないし、考えたところで仕方がない・・・などと逃げるしか道はありません。そしてどんどん先送りになっていくばかりです。
 蓮如上人はこの問題を「後生の一大事」として取り上げられ、その解決こそが仏法にあると示されました。知識としての死ではなく、因果の道理にしたがって自分の後生をみてゆくことは、人間に生まれなければできないことです。自分の後生の問題の解決は、迷いの解決でもあるのです。

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2012年2月13日 (月)

知足の前に少欲を

 「生き方にブレーキをかける」「スピードを落として生きる」という生き方は、「少欲知足」の生き方と言えるのではないでしょうか。
 だれでも足ることを知るという経験はあるでしょう。ただ、知足は短時間でしかありません。ほんの一瞬の満足です。現代人のしあわせ感は、この短時間の知足のくり返しでしかありません。社会が発展して便利になるというのは、どんどん知足の時間が短くなってゆくということでもあります。だから早く、次々に満たしてくれる方法、手段を探し求めている。またそれに応えてくれる態勢があちこちに整えられるのです。それが豊かな社会の仕組みです。決して足ることを知らないのではありません。

 その一方、欲を少なくすることはとても難しいことです。生きるスピードが速いから、一瞬に消え去るしあわせ感を満たすためには、早く次の欲求を生み出さなければならないのです。それは足っていることを味わうことなく、次の欲を駆り立てているからにほかなりません。あるいは私の欲求が穏やかなものであったとしても、次の欲を生み出すことを外部から駆り立てられているのです。自分が駆り立て、外部から駆り立てられるということになると、そのスピードに加速がつくこと間違いありません。

 だからといって欲をなくせというのではありません(できることでもありませんが・・・)。できる限り小さくしてゆくことです。車に乗るな、電気を使うな、食べるな、・・・というのは極端な話です。
 ただ極端に欲を小さくしたとしても、私が生きている限り、仏教的には罪悪を重ねていることにほかなりません。生きるということは、罪であり、悪であるのです。それでも生きることを許されているのです。そのことをまずは味わいたいと思います。

 欲を小さくしてゆけば、社会の仕組みや物のなかに必要がないと思われるものもを発見することができます。いくつもあると思うのですが、パッと思い浮かぶのは、一つは核分裂・核融合という目に見えないにもかかわらず巨大な装置を必要とし人間の手に負えない原子力発電。もう一つはいのちを細分化し、人間の手の出す領域を逸脱しているiPS細胞です。
 いずれも人間社会を豊かにする夢の技術のように考えられ、巨額投資がおこなわれ続ける分野です。もちろんリスクが大きく、いずれも暴走したときの止めようがありません。しかしどれほど大きく強いリスクがあっても、人間の夢や欲望には勝てません。
 スリーマイル島、チェルノブイリの原発事故があり、昨年の福島原発の事故もあったのに、まだまだ原子力発電全面廃止には踏み出せません。iPS細胞に至っては、今後が期待できる夢の技術としてしか見られていません。

 どんどんふくらんでゆく欲求の裏側には、人類をも滅ぼすリスクも大きくなってゆくことにほかなりません。めいっぱいわが心身とも満たすことしか考えないという生き方によって、次世代・子孫に負の遺産を残すわけにはいきません。

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2012年2月12日 (日)

社会の問題でもあり、私自身の問題

 近代社会以降、人間の欲求が満たされる度合いが高まってきました。それまでは人力による動力で細々と満たされてきた欲求が、家畜による動力によってより高い欲求を満たしてきた。さらに石炭や石油による動力によって夢のような欲求が次々と満たされてきたというように。
 このように欲求が満たされる度合いが高まる社会は豊かな社会だと、誰もが思うようになっているのではないでしょうか。満たしたい欲求にはどんどんふくらんでキリはありませんし、それが満たされてきたのが近代社会であり現代社会です。

 その一方で、大きな矛盾を抱え込んできました。たとえば、政治や経済の仕組みは、それぞれの時代や社会に応じて、人々が豊かでしあわせになるための最善策を希求してきましたが、問題も至るところで噴出しました。それを修正しながら、ときどき大きな変更、変革をくり返しつつ今日に至りました。資本主義社会が広がるにつれ、その矛盾を解消すべく社会主義的な考えや実践が現れました。資本主義が社会主義的な考え方を取り入れたり、また社会主義が資本主義的な実践を取り入れたり・・・。さまざまに形を変えながらも、すべての人が豊かになる社会は理想でしかありません。
 また、原子力発電は夢の発電でした。どんどん豊かになる社会を創出し、これからの豊かさを支える手段だという期待は大きなものでした。その一方でリスクの指摘は少なからずありました。一般市民でもその危険性を薄々感じていたのではないでしょうか。にもかかわらず、そのリスクと豊かさを天秤にかけたら、原子力発電を捨て去ることはできなかったのです。豊かさを選択したのです。安全性を確保できるなら・・・とか、リスクを背負うのは致し方ないことなどと条件をつけながら、原子力発電で生み出された電力に頼った社会を満喫してきたのです。
 しかし安全性が確保できなかったら後はありませんし、リスクの発生は多くの人に多大な不幸をもたらすのです。それが原子力発電の大きな問題です。それは他人事ではありません。何より私自身に覆い被さる問題を発生させ、私の子や子孫にまで問題を積み残す装置であるのです。
 社会の仕組みも、原子力発電所についても、漠然と政治や経済さらには社会の問題だと多くの人たちは見ているでしょう。しかしそこに視点を置くだけではなく、人間として生きている私の問題です。私の問題なら、ほんとうに黙って、他人事のように傍観することはできません。でも、そう見えない。それだけじゃない、そうは見たくないと思っているのです。

 どこまでも限りなく自分の欲求を満たそうと無意識に生きている。それは自分では意識することができない薬物中毒のように、私の心身をむしばんでいるのです。
 もしそのことに少しでも気づかせてもらうことができたなら、どこまでも欲求を満たそうとする生き方にブレーキをかけてみることです。猛スピードで走っていたら見えなかったものが、スピードを落とすことによって見えてくる、気づくことができるのではないでしょうか。

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2012年2月11日 (土)

社会を生きてゆくということは

 社会のありようはきわめて多様です。その多様性をなかなかうまく説明することはできませんが、社会のできごとをもっとも広範囲に取り上げている社会学という学問分野では、日本社会学会によって研究領域が次のように分類されています。

社会哲学・社会思想・社会学史/一般理論/社会変動論/社会集団・組織論/階級・階層・社会移動/家族/農漁山村・地域社会/都市/生活構造/政治・国際関係/社会運動・集合行動/経営・産業・労働/人口/教育/文化・宗教・道徳/社会心理・社会意識/コミュニケーション・情報・シンボル/社会病理・社会問題/社会福祉・医療/計画・開発/社会学研究法/経済/社会史・民俗・生活史/法律/民族問題・ナショナリズム/比較社会・地域研究/差別問題/性・世代/知識・科学/余暇・スポーツ/環境/総説・概説/その他

 それでも分類しきれないので、最後に「その他」というのが設けられています。
 これらの各領域のなかは、さらに細分化されています。たとえば、私たちの非常に身近にある「家族」に関する社会学の研究領域は、日本家族社会学会によって次のように家族細分類がおこなわれています。

家族学説・理論/家族調査法・研究法/家族史/家族制度・家族法・家族政策/家族構造・家族システム/家族規範・家族イデオロギー/家族変動/人口/ジェンダー・性役割/セクシュアリティ・性愛・性/家族関係/夫婦関係/親子関係/嫁姑関係/祖父母と孫関係/きょうだい関係/家族意識・家族感情/家族周期・ライフコース・生活史/配偶者選択・結婚/離婚・再婚/生殖・出産・中絶/社会化・教育・産育/家計・就労・家事労働/家族危機・ストレス・家族療法/家族問題・家庭内暴力・虐待/高齢期・高齢化/家族福祉・医療・介護/死・宗教・先祖祭祀/家族慣行・家族行事/家族ライフスタイル/親族関係/地域・近隣・友人/エスニシティ・比較文化/その他

 日本で「社会」という言葉が使われるようになったのは19世紀になってからのことです。それまではおそらく「世間」とか「浮世」などという言葉が使われていたのでしょう。
 その世間は、仏教からすれば「虚仮」であり、「火宅無常の世界」などと示されています。つまり社会を虚仮の世界だとみているのです。となると、上記にあげた研究上で分類した各領域も虚仮だということになります。しかしその虚仮の世界に私は生きているのです。私だけではなく、すべての人がこの社会に関わっています。
 一般的には社会が虚仮などと誰も言いません。また仏法を知らなければ、社会が虚仮などとは思わないでしょう。しかし社会のどの領域でも、生身の人間として真剣に関わると、仏法を知らなくても社会のむなしさを感じるのではないでしょうか。そのむなしさをなんとか打ち消すための手段を次に求めてゆくような気がしてなりません。それが社会を生きてゆくということではないでしょうか。

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2012年2月 8日 (水)

凡夫が仏になるために

 「凡夫が仏になる」教えが仏教です。世のなかに驚くことは多々ありましょうが、これほど驚くべきことはありません。驚かないのは、仏さまがどのようなお方なのかよくわからないからでしょう。それは凡夫がどんな輩なのかわかっていないということでもあります。
 仏になろう、なりたいと思う人がほとんどおられないのは、あまりの違いのために、一つの物語として聞くけれど、自分の身に迫る切実な話だとは思えないのです。

 仏がどのようなお方なのかよくわからないとか、現実とかけ離れた関心のない方だと思っている人であっても、自分の思いをかなえたいことを仏に願うことはあるでしょう。自分ではどうすることもできない状況を打開するきっかけとか、自分に都合よくはたらいてくれるならもうけものという思いのなのでしょう。自分の思いを前面に出して、かなうことを願うのです。そのときはまわりの状況はまったく考慮されていません。思いをかなえたいというエゴでしかありません。
 仏はエゴをかなえてはくれません。こんなに悩み苦しんでいるのだから、それがたとえエゴであったとしてもその悩み苦しみを除いてくれるのが神や仏ではないのか・・・という反論が返ってくるかもしれませんね。
 私の思いが一つ二つとかなえられ思い通りになったところで、そのことがきっかけとして別の苦しみ悩みのタネになるのです。一時はいやされたとしても、結局は悩み苦しみを生み出すだけなのです。悩みや苦しみを再生産する仏さまなどどこにもおられません。

 世間で、人生を如何に生きるかというテーマで語られていることの多くは、夢や希望をもって生きることをすすめています。つまり自分自身の願いをしっかりと持って生きよというのです。
 しかし仏さまは凡夫の願いが悩み苦しみとなっていることを見抜かれ、「仏の願いのなかで生きよ」と示してくださっています。ことばを換えて言うなら、「凡夫の願いを捨てよ」とおっしゃっています。それは人間として幸せに生きることを放棄せよということではありません。ほんとうの自分に気づかされることによって、私はもちろん、すべての人を決して捨てることはないという仏さまのこころにまかせることでもあります。

 この世で訓練、精進、修行を積む人がおられます。自分の願いを捨て、仏の願いにわが身をまかせるプロセスを歩んでおられるのです。そんな道を歩もうという思いをもつだけで、聖者といえるかもしれません。しかしその人が人間の心と肉体を持っている限り、たとえ聖者であったとしても仏ではありません。人間の世界で悟ったといっても、人間として特別な境地に達したのであって、仏になったのではありません。
 「仏の願いのなかに生きよ」というこころを受け取ることはとても難しいことです。凡夫ができることではありません。でもこの仏の願いを凡夫の私に届けてくださるのが仏のはたらきです。
 仏のこころとはたらきがすべて南無阿弥陀仏のなかに込められて、私に与えてくださっているのです。あとは凡夫の私が南無阿弥陀仏をとるのか、すてるのかということでしかありません。

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