社会の問題でもあり、私自身の問題
近代社会以降、人間の欲求が満たされる度合いが高まってきました。それまでは人力による動力で細々と満たされてきた欲求が、家畜による動力によってより高い欲求を満たしてきた。さらに石炭や石油による動力によって夢のような欲求が次々と満たされてきたというように。
このように欲求が満たされる度合いが高まる社会は豊かな社会だと、誰もが思うようになっているのではないでしょうか。満たしたい欲求にはどんどんふくらんでキリはありませんし、それが満たされてきたのが近代社会であり現代社会です。
その一方で、大きな矛盾を抱え込んできました。たとえば、政治や経済の仕組みは、それぞれの時代や社会に応じて、人々が豊かでしあわせになるための最善策を希求してきましたが、問題も至るところで噴出しました。それを修正しながら、ときどき大きな変更、変革をくり返しつつ今日に至りました。資本主義社会が広がるにつれ、その矛盾を解消すべく社会主義的な考えや実践が現れました。資本主義が社会主義的な考え方を取り入れたり、また社会主義が資本主義的な実践を取り入れたり・・・。さまざまに形を変えながらも、すべての人が豊かになる社会は理想でしかありません。
また、原子力発電は夢の発電でした。どんどん豊かになる社会を創出し、これからの豊かさを支える手段だという期待は大きなものでした。その一方でリスクの指摘は少なからずありました。一般市民でもその危険性を薄々感じていたのではないでしょうか。にもかかわらず、そのリスクと豊かさを天秤にかけたら、原子力発電を捨て去ることはできなかったのです。豊かさを選択したのです。安全性を確保できるなら・・・とか、リスクを背負うのは致し方ないことなどと条件をつけながら、原子力発電で生み出された電力に頼った社会を満喫してきたのです。
しかし安全性が確保できなかったら後はありませんし、リスクの発生は多くの人に多大な不幸をもたらすのです。それが原子力発電の大きな問題です。それは他人事ではありません。何より私自身に覆い被さる問題を発生させ、私の子や子孫にまで問題を積み残す装置であるのです。
社会の仕組みも、原子力発電所についても、漠然と政治や経済さらには社会の問題だと多くの人たちは見ているでしょう。しかしそこに視点を置くだけではなく、人間として生きている私の問題です。私の問題なら、ほんとうに黙って、他人事のように傍観することはできません。でも、そう見えない。それだけじゃない、そうは見たくないと思っているのです。
どこまでも限りなく自分の欲求を満たそうと無意識に生きている。それは自分では意識することができない薬物中毒のように、私の心身をむしばんでいるのです。
もしそのことに少しでも気づかせてもらうことができたなら、どこまでも欲求を満たそうとする生き方にブレーキをかけてみることです。猛スピードで走っていたら見えなかったものが、スピードを落とすことによって見えてくる、気づくことができるのではないでしょうか。
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コメント
先日はありがとうございました。
原発の問題にせよ、大量消費の社会問題にせよ、自分とは殆ど関係がないと思っています。社会の問題は社会に任せておけばよい、自分の問題が一番大事。
自分には社会問題に対し責任がないと思っているからです。
けれど、事実毎日が様々な恩恵に預かっており、馬鹿にしながら、面白がりながらも、くだらないゲームや食べても食べなくてもいいゲテモノなどにお金を払ってサービスを受けることも多々あります。
どんな思いにせよ、サービスを受けているということは、やはり自分がそうさせているのだと聞かせてもらっています(他殺など)
生きたえびののった海鮮丼を友人が食べていた時に、オレはさすがにこれは食べない、と思いましたが、やっていることは同じですよね。原発についても、津波対策にしても完全に他人事で、もし仕事でやらねばならないとすると気にはしますが、今ではすっかりテレビを見ていても麻痺しています。電気を使う生活の社会にたまたま生まれたから、恩恵に預かってはきたが、いざ問題が生じると自分には関係ないというのは、あまりにも都合がよく、美味しいとこだけもっていく自分です。
最近、会社からの自己啓発斡旋(出世のための条件)を受け、ある資格の勉強を始めました。実は、信心がいただけてから勉強を と心の奥底で思っていたのですが、期限が迫ってきたためやむなく勉強を始めた次第です。
勉強をすると、やはりそれはそれで楽しくて、知識を習得して賢くなる(?)自分に酔いしれます。
これまで、部活・勉強・恋愛・就職と猛スピードで駆け抜けてきたと思います。永かったようであっという間でした。
ところで、欲求を満たそうとするスピードにブレーキをかける、とはどんなことなのでしょうか。
食べたいなあと思った時にちょっと我慢してみるとか、
寒いなあと感じた時に暖房をかけるのを少し待ってみるとか、そういうことなのでしょうか。出世のために勉強しなくてはいけないですが、少し出世をあきらめて勉強の手をやめて仏法を聞くということでしょうか。
それともそうではなくて、一呼吸を置いて自己の姿を振り返ってみてみるということでしょうか。
投稿: im兄 | 2012年3月20日 (火) 17時12分