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2012年5月16日 (水)

形より意味を問う

 この世で幸せな人生を送るためには、どこかに落ち着きたい、安定したいという思いをもつのではないでしょうか。ところがそれを根底から覆すできごとが次々におこってくるのです。安定したい、落ち着きたいという思いと、厳しい現実とのせめぎ合いが人生であるともいえるでしょう。
 安定したいという思いを手っ取り早く実現する方法として、生まれながらにもっているものを全面的に肯定することではないでしょうか。たとえば、自分の家柄や家風、さらには家業や家の宗教等々をすっかり受け継ぐことなどです。それらを受け継ぐことに善し悪しの判断をくだすつもりはありませんが、受け継いだことに意味を見いだすことなしには幸せな人生を実感することはできないでしょう。とくに宗教の場合は、そういう思いを強くします。

 数ある宗教の中で、たまたま自分の生まれた家の宗教と出遇うということは、縁によるものとしか言い様がありません。しかし家の宗教を受け継ぐときのほとんどは、その形式や儀礼を受け継ぐことであり、教えの中身をしっかり受け継ぐというのはなかなか難しいものです。もっとも形式や儀礼は教えを反映したものですから、そのことを通して教えを問うてゆく人もいないではありません。その場合は単に家の宗教としてあっただけではなく、地域社会の中に聴聞するお寺があり、聴聞を誘ってくれる同行などいて、わが身の上に家の宗教の中身を問うてゆく装置がはたらいていたのです。浄土真宗の「妙好人」と言われる人たちは、そういう装置の中で育て上げられていった篤信者です。
 しかし先祖代々受け継がれてきたものであるがゆえに、何の問題意識も持たずにすっかりそのまま受け継いだゆえに形だけしか残っていないというところもあります。そしてそのうち、形も姿を変えてゆくのです。

 「この教えはとてもありがたい教えだ」「この教えを一人でも多くの人たちに伝えてゆかなければならない」「このみ教えによって尊い人生を喜ばせていただこう」などと聞くことがよくあります。そのようにスローガンのように口に出すよりは、「このみ教え」とはどのような教えなのか伝える必要があります。それは教えてもらった言葉であってはあまり意味がありません。教えてもらったときには新鮮さを感じても、多くの人が使うほどに色あせ、形式的な言葉として受け取られなくなってしまいます。
 教えがわが身の内をどのように通り抜けどう響いたのかというところでしか、その中身は伝わりません。教えの意味は響き合うことでしかうなづくことができないのではないでしょうか。

 洗練された儀礼も壮大な教義体系も、響き合いうなづきあうことによることなしには生まれてこなかったのではないかとも思うのです。せっかくご縁によっていただいたものも、中身を深く問うてみることなしには宝の持ち腐れになってしまいかねません。また真に安定した人生を送ることもできません。

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2012年5月 9日 (水)

他力のよき心に出遇う

 私がこの世を生きてゆくということは、常にわが身の幸せを考え、いつも自分自身が中心となることを望み続けるということではないでしょうか。だからよりよくこの世を生きるためには、自分の思いを実現できるよう経験を積み、能力を高め、自分を中心にして動く社会となるようがんばらねばならないと思い、勤めるのです。

 でも、人生の出発点は私の力なんてどこにもありません。両親がいたからこそこの世に生まれることができ、私を支えてくださる人や多くのいのちや営みがあったからこそ、私は今日まで生き続けることができました。にもかかわらず、私あっての世のなかだと、いつのまにか勘違いしてしまっています。“ 私がいなければ、この世なんて何の意味もない“などと思ってしまうのです。

 仏教には自力と他力という言葉があります。この世を生きるときの思いと同じように、自力による求道が尊く優れていると思う人が少なくありません。
 この世に生んでもらったこと、何もできない自分に乳が与えられ暖かくして身を守られてきたこと、言葉を一つ一つ教えられてきたこと、限りない知識や技術が身につくようにと環境を整えてくださったことに人生はとどまりません。老いて、そして病んでなお人生を歩まねばなりません。自力を頼って生き続けることができないのです。

 世間一般では、信心とは神や仏を信ずる心であり、またある宗教の教えをよりどころにすることなのでしょう。この場合の主語を「人が」としてしまうと、客観的な定義になってしまいますし、他人事となり自分がどこかに置き忘れられてしまいます。主語を「私が」とすれば、私が信ずる心が信心であり、私が教えをよりどころにするということになります。
 誰も変わってくれない人生ですから、せめて信仰、信心の世界だけは神仏に頼ることなく自分の意思によって信心する心を起こさなければ、助けてもらえるはずはないと奮起するのでしょうか。「私」が起こす、「私」が信ずる信心となると、そう思うしかありません。
 ところが、よくよくその中身を点検すると、実にわがまま・身勝手なものでしかありません。それにとどまらず、わがまま・身勝手さによって他人を裁き、蹴落とし、誹謗中傷することすらあるのです。

 信心がまことのこころであるなら、それはわがまま・身勝手な私の自力の心であるはずはありません。「如来の他力のよきこころ」(『御文章』注釈版p.1106)なのです。
 わが思いにとらわれ、教えの中身さえも勝手に解釈し、得意満面になってしまっている私の足下が崩れされてこそ、ほんとうのわが姿が見えてくるのです。それは絶望ではありません。何も知らない、何もできない自分が照らされてここに生きることに気づかせていただくことでもあるのです。

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2012年5月 2日 (水)

目が開かれてゆく教えが仏教

 ほぼ2ヶ月、ブログを休んでしまいました。ぼちぼちペースはあがらないかもしれませんが、再開することにします。

 日本では、公立学校においては、基本的に宗教教育がおこなわれていません。ですから、頭脳明晰、成績優秀な人でも、宗教について無知な人がほとんどです。宗教なんて必要ない、むしろ宗教は世の中に害を及ぼす・・・と考えている人も少なくありません。そういう考えを持った人に、「自分の信ずる宗教なしに生きることほど不幸なことはありません」などと言える人もいないのです。
 資本主義下の宗教が、お金儲けに奔走する例は少なくはありません。それに付随して、権威的になったり、既得権益を拡大する手段となってしまうこともあります。宗教が持っている理想や理念が、そんな「私欲」のために利用されることばかりが目についてしまいます。あるいは人々の心をコントロールしようというとんでもない営みもが「宗教」の名のもとでおこなわれることもあります。そんなうさんくさいところばかりがマスコミに取り上げられるのですから、宗教=害毒とみられても致し方ありません。

 それなら宗教もマスコミをうまく使って人々にアピールする必要があると、心ある人は考えるかもしれません。それは賛成です。しかし宗教本来の理想は大々的にマスコミに乗るような類いのものではないことも事実です。もちろんマスコミに取り上げられないのではなく、マスコミのネタとして取り上げられにくいのではないでしょうか。上手に取り上げているマスコミの番組や記事をたまに見かけますが、それを取り上げる人の宗教的感性と共鳴しているのではないでしょうか。そういう番組や記事への関心より、私はそれを取り上げた人に関心が向いてしまいます。どこで、どんな宗教的な出会いがあったのだろうか・・・と。
 ただ宗教活動については、マスコミに取り上げられることはあります。ただ行事のおもしろさや社会へのアピールの度合いが優先されますから、教えの本質にまで迫った報道はなかなかなされてはいないという印象があります。

 宗教と言い切ってしまうことはできないと思うのですが、仏教、とくに浄土真宗の場合は個人的・内面的なところへのはたらきかけがとても強い教えだと思っています。ですから、表に現れてきたところが強調されても、個人的・内面的なところを理解したうえでマスコミが取り上げるというのは、とても難しいことです。

 遠いむかしに説かれた世俗離れしたように思えるお経や聖教のことばを、よくよく読んでみれば、わが身を映し出し輝きをもって響いてきます。世俗離れした教えどころか、今、ここにいる私に説かれている教えなのです。現代社会には通用しないように思っていた教えによって、この世の価値観ではみえないものを現代社会の諸相を通してみせてくれる教えでもあります。また、己に執着し、社会にとらわれ、がんじがらめになってゆく不自由さから解き放される安心感を得ることもできるのです。
 “いつの時代もどんな社会でも変わらぬ真実を示し続けている教え”に遇うという一点を通過するによって、目が開かれてゆくのが仏教だと言えるのではないでしょうか。

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