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2012年7月25日 (水)

ただお慈悲をいただく世界

 「ただ聞かせてもらい、ただただお慈悲をいただくだけ」「そのままのお救い」「わが往生のために私がすることは何もないし、何もできない」などという言葉は、浄土真宗の教えを、きわめて特徴的に表した言葉です。
 しかし間違って取られる可能性の多い表現でもあります。何よりも、これらの言葉だけを聞いていると、現代の多くの人は、真宗の力強さを感じることはないように思います。これらの言葉を初めて聞いた人には、何もしない怠け者の教えとしか聞こえないかもしれません。

 教えの中身、つまり阿弥陀さまの願いとはたらきを言葉にすることはとても難しいことです。長い伝統のなかで、阿弥陀さまの願いとはたらきを、正確に言葉としてあらわす工夫がなされてきたのだと思います。しかしどれだけ言葉を尽くして伝えようとしても、次のハードルがあってそれがうまく聞き手に伝わらないところがあります。それは私たちがこの世を生きるために必要だと思い、また善いと思っている生き方そのものとはまるっきり阿弥陀さまが指し示してくださっている方向が違っているからです。「親の心子知らず」という親と子が求めている方向性が違うのとよく似たところがあるでしょう。この世をいかに幸せに生きることができるかというのが私の目標。そのためには私ががんばり、私がはたらき、私が稼ぎ、私が・・・、私が・・・という生き方です。私が生きている限りは自分の力を信じ、できるだけ人には迷惑をかけないように生きたいというのは、元気に生きている者の望みです。しかし老い病んはもちろんのこと、どうにもならず力尽きる時がくる。そうなりたくはないけれど、どこかで必ず力が尽き、自分の力ではどうすることもできなくなるのです。
 私の思いや行為が通じるこの世においてさえ、どうすることもできないことが起こるのです。ましてや、この世の命を終えたとき、この世で築いてきたすべてのものを置いてこの世を出て行かねばなりません。何もできないその私に、想像することもできないはるか彼方から今日に至るまで、迷いに迷っている私を必ず救うと願いに願いづめ、どんなことがあっても救わずにはおかないとはたらきにはたらき続けてくださっている阿弥陀さまのおこころを聞かせてもらうほかはありません。

 冒頭の「ただ聞かせてもらい、ただただお慈悲をいただくだけ」「そのままのお救い」「わが往生のために私がすることは何もないし、何もできない」というのは、阿弥陀さまの願いとはたらきに遇った人の実感です。その人は、かつてはわが力を頼りにし、懸命に生きた人でしょう。その人がお慈悲をいただくしかないという世界に遇ったのです。遇わなければわからない世界は、ただ聞かせてもらい、気づかせてもらう世界でしかありません。
 また、実感のない人によってこの言葉が繰り返されてもむなしく聞こえるばかりです。ただただお慈悲をいただくだけ、という世界に遇わせてもらった人の言葉を聞かせてもらうしかありません。

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2012年7月24日 (火)

手を合わせることを知らず、頭を下げることを忘れた生き方

 昨日、人間のしあわせは他との比較によって感じる世界である、と書きました。もうひとつ、人間のしあわせを感じることができる方法があります。それは私自身が持っている執着を満たすことができればいいのです。具体的に言うなら、わがものにする、所有することです。お金を持つこと、地位や名誉を手にすること、あれもこれもと思うことと次々に自分の思い通りに実現することです。
 身近なところで勝っている劣っていると言っても上には上がありますから、比較してもとても及ばないということもあります。その場合は、指をくわえてみるしかありません。しかし所有はほんの小さなことでも満足できます。ただ、その満足はそこで終わることはありません。一つ満足したら次の満足を求めます。それを満たしたら次の満足を求めます。
 資本主義の発展は、この所有欲を利用して発展してきた装置でしょう。資本主義が発展すれば、持つ者と持たざる者が出現しますから、それを修正するために「平等」という考え方が大きくなってきます。それでも平等が所有欲を抑えきることはできません。

 現在の日本は総じて元気をなくしています。まず比較して経済新興国に追いつかれ追い抜かれてゆくことへのショック。もう一つは執着を満たしきれない、つまり所有することへの行き詰まりがあちこちに来ているからでしょう。
 グラフにするとすべての右肩上がりで、成長、発展、上昇という傾向の日本では無くなってきています。経済成長の停滞、生産量の低下、売り上げの減少、給料の頭打ち・下落、・・・等々の話題に欠くことはありません。ここに至って人口減少とともに、少子高齢社会の到来は、首都圏を除いて全国的に暗い影を落としています。これからどんどんしあわせを感じる人が少なくなり、最後にはだれ一人としてしあわせを感じることの無い社会が到来するのでしょうか。

 比較と所有を中心にした価値観から少し距離を置くことでしょう。比較や所有がまったく無意味なのでは無く、それらが目的では無く、真実・まことを知らせてもらうための手段であり、教材であることに気づかねばなりません。真実・まことが経済を豊かにし、物質的な贅沢な生活をよみがえらせてくれるということではありません。・・・というより、すでに私たちは、どの国のどの地方の人たちと比較してみても経済的に豊かで、物質的に贅沢な生活をしていることに気づかねばならないのです。つまり、比較しても、所有の上からも、これほど満たされた時代も社会もないのですから。
 その分、「もったいない」「ありがとう」「おかげさまで」という心の豊かさをすっかり失ってしまったことを嘆く必要があります。手を合わせることを知らず、頭を下げることを忘れてしまった生き方そのものが、私たちの人生のなかにしあわせを見えなくなってしまったのです。これらのことを頭で理解ができたとしても、実際どう生きればよいのか、何をすればよいのかわからないというのが、現代の日本人の最大の不幸なのかもしれません。

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2012年7月23日 (月)

まことがまことであると、私に知らしめる世界

 だれもがしあわせになりたい、しあわせを感じたいと思って生きていることに違いはないでしょう。しかし他人のしあわせな姿を目の当たりにしたら、また他人がしあわせそうにみえたら、あまりいい感じがしないのです。他人のしあわせを歓迎し、祝福することができるのは、私自身がそれなりのしあわせを感じているか、あまり不平や不満が大きくない状態ではないでしょうか。
 逆に他人が困ったり悩んだり気持ちが大きく落ち込んだ状態のときは、心の底でニヤッと笑う自分がいます。もちろん他人の不幸をいつも笑っているわけではありません。ともに涙を流したり、自分がなにか力になることはないかという思いに至ることもあります。しかしそれも、自分自身がしあわせであるというところがなければ湧いてくる心ではありません。たいていは他人事で、関心を向けても深く関わることなどありません。
 わが身に降りかかった悩みや落ち込みによって他人をうらみ責めることはあっても、なかなかわが身のありようを振り返ろうとはしません。わが身を振り返ろうと思ってみても、簡単にできることではありません。他人をうらみ責めるときは、必ず自分が棚の上に上がっています。
少なくとも自分のなかで自分を貶(おとし)めたくはないのです。そうして自分を無意識のうちに引き上げ、みじめな自分あることから回避したい。そのくせ、他人にはこれほど不幸を背負ったものはいないという点をさまざまな方法で強くアピールして、同情してもらい、なぐさめてもらいたいのです。

 こうしてみてくると、人間のしあわせというのは、いつも比べることによって成り立っていることがわかります。まわりを見渡して、私よりしあわせそうに見える人がいたら、うらやみねたみそねむ心ががわき上がり、自分の境遇に不平不満を抱いている。私の方がしあわせかもしれないと思ったら、少し余裕ができ、親切にもなることができますし、やさしくなることもできます。でも一歩間違えるとおごり高ぶる心に満ち、上から目線で見下すことにもなりかねません。
 このしあわせ感は相対的なものですから、心のなかに満ちることはありません。どこかに隙間があるのです。

 私たちが生きる世界は相対の世界ですから、すべて比べることによって成り立っています。そういう生き方を自然のうちに身につけてきましたし、そこから離れることもできません。その相対的な生き方の基準がいつも自分ですから、その基準の自分があてにならないことを知ったとき、相対の世界に意味を見失うのです。そのとき、絶対の世界と遇うことができるか否かということが大きな問題です。人生のどこかで、無意識にでも絶対の世界に触れる縁があったならそれはラッキーなことです。しかし触れるだけでは安心することはできません。その絶対の世界に帰依すること、つまり疑わず任せきれることが大切です。それはやみくもに信じること(盲信)ではありません。一時的にトランス状態になることはあったとしても、冷静になり、盲信状態からさめたときにも、まことであることを身に知らせてくれることです。
 絶対の世界に帰依するというのは、私が作り出す世界ではありません。他人から押しつけられる世界でもありません。まことがまことであると、私に知らしめる世界なのです。

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2012年7月19日 (木)

いかに生きるか?

 誰もがある程度の年齢になると人生の設計図を描きます。大まかなラフスケッチ的な夢であったり、緻密な予想図であったり、それぞれの性格や社会的状況のなかで描き方はまちまちでしょう。
 その後、5年10年20年・・・と年月の経過は、さまざまなことが身に降りかかってきます。まさかと思う事態に遭遇したり、それまで描き築いてきたものが根底からひっくり返されるような状況に追い込まれたり。逆に思い通りにことが運んだり、思いもかけないラッキーな偶然が転がり込んできたりすることもあるでしょう。他人から見たらドラマかもしれませんが、当の本人にすれば落胆したり絶望したり、得意になったりはしゃいだりと、悲喜交々であるのが人生です。
 どのような人生を歩んだとしても、そのすべてを知ってくれる人はそう多くはありませんし、人生行路のなかでのさまざまな思いなど語り尽くすことはできません。そんな私のこれまでの人生を、そーっと支えてくれた人たちには感謝せずにはおれません。

 感謝ができるというのは、思い通りにならなかった自分の人生や不平不満いっぱいだった人生から一歩踏み出せたときや、こんな目にあうのは◯◯が∇∇したから・・・などという思いから離れられたときではないでしょうか。
 自分一人の世界に籠もっているときは、自分が見えてはいないのです。心を開いて多くの人の心に触れたとき、自分が一人ではないと気づいたとき、他人の生き方や考え方が鏡となって、また目の前の人の心が響き合って自分が知らされるような気がしてなりません。

 そのようにかたくなな思いから一歩踏み出し離れることができても、次から次から文句が出てきます。どこまでいっても思い通りにならないと気がすまないのが私ですし、思い通りになったときにはすべてが自分の成果だと誇っています。
 そんな私にクラクションを鳴らし、ブレーキをかけてくださる方の存在はとてもありがたい。年齢の問題ではありません。歳を重ねたら、上から目線でクラクションはうるさいと思い、ブレーキは前へ進もうとする邪魔モノだとしか見えないのです。

 すべてがご縁。私のところで反応したら都合のよいところはありがたいご縁だけど、不幸が襲うと落胆し悲しみだけでは終わらず、腹立ち、怒り、怨む心へと変心してゆきます。
 私にとって都合よくいっても、どんな不幸が襲ってきても、それもこれもみんな目に見えることのない大きな力のはたらきによるもの。すべてをいただくしかありません。私の心で反応するのでは無しに、そのままいただくしかありません。いただいたものはすべて背負っていかなければならないことでもあります。背負ってゆくのが私の生き方でしかありません。同時に、共に背負ってくださる方がおられることを知らされて、どんなご縁も共に歩めるというのも私の生き方です。

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2012年7月13日 (金)

煩悩のわが身を誇るのではなく

 「仏法聴聞のときはわが身を振り返らせていただき、阿弥陀様の慈悲の深さに頭が下がります。しかし聴聞の場を一歩出ると、すっかりそのことを忘れ、煩悩まみれの自分です」
 「法座の席では念仏させていただくのに、日常生活では念仏を忘れ、お聞かせ通り、わが身は凡夫やなぁと思います」

 この類いの発言は、少なからず聞くことです。阿弥陀さまと願いを聞いているようでも、煩悩具足の凡夫ですから、日常生活の中ではすっかり阿弥陀様も本願も念仏もすっかり忘れてしまっている。そのときは思わないけれど、あとで改めて煩悩具足の凡夫だと自覚するのでしょう。仏法を聞く者はそういう振り返りがあります。凡夫としての至らなさを、教えを鏡としてフッと見せられるのです。
 念仏の教えが、正直の者であれ、感謝する日々を送れ、やさしく接することが大切など、十悪五逆を犯さない立派な人間になりなさいとは教えません。もちろん立派な人間になるれるならなれるにこしたことはないけれどそうはなれない。十悪五逆を犯さずには一時たりとも生きることができないという、ありのままの私を教えてくれているのです。それは法座の席でわが身を知らされたときだけ。悪いことではないし、そういう法座の席に出て、しっかり聞かされ、知らされることは大切なことです。

 しかし冒頭に挙げたようなことを、恥ずかしげもなく口にすることは慎んだ方がよいのではないか・・・と、最近思うのです。もちろん、ありのままの私を吐露し、振り返る機会でもあるでしょう。しかしいつも同じことを口にするようでは、懺悔でも何でもなく、わが身の愚かなことを誇っていることになりはしないでしょうか。
 「煩悩まみれの私です」「わが身は凡夫やなぁと思います」というあとに、「そんなことを思うほどに、念仏させてもらうのです」というふだんの念仏の生活を示すなら、それは御同行、御同朋としてのお示しでしょう。そうでなければ、煩悩や凡夫の自慢に終わってしまっている。

 もちろん、煩悩まみれの私を、凡夫であるわが身に向かって救わずにはおかないと、阿弥陀さまは立ち上がってくださったのです。その願いは名号となって南無阿弥陀仏と称えよ、南無阿弥陀仏とわが名を呼べと与えられたのです。難しいことをせよというのではありません。煩悩具足だから、凡夫だから南無阿弥陀仏とならねば救われることはなかったのです。
 阿弥陀様の願いを聞かせていただき、本願をいただくということは、名号をわが口にするということです。いつでも、どこでも、どんなときでも称えることができる南無阿弥陀仏をいただくことです。
 煩悩まみれのまま、凡夫のそのまま念仏させていただくほかありません。日常生活のなかで、阿弥陀さまとともに生かさせていただいていること実感できる唯一の方法でもあります。

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2012年7月 6日 (金)

念仏なき時代に念仏を

 現代社会において念仏を称える人は多くありません。もし称えることがあったとしても、なぜ念仏を称えるのかわからないまま儀礼の一つとして称える念仏でしょう。たとえば、法事などのときに僧侶から促されて称える念仏です。促されなくとも称える念仏があるとすれば葬儀の時に称える念仏です。これは死者供養の意味を強くにじませているのではないでしょうか。
災難から逃れるために、あるいは願い事があるときに念仏する人もいるかもしれません。こうなると念仏は呪文と理解されていると思われます。それでも念仏を称えることは滅多にないでしょう。災難から逃れたり、願い事を叶えるためには念仏以上に有効な呪文や手段があるというのが、一般の人たちの認識でしょうから。
 いずれにしても念仏を称えるというのは、特別なことがあった時間や空間のなかであまり大きな声に出さず、ひそかに称える行為であるということ。そして日常生活のなかで、ましてや人前で称えるものではないと思われているのです。
 このような念仏は、わけがわからないまま称える形ばかりの念仏、もしくはわが思いを自分が称える念仏に込めているだけです。

 蓮如上人は、「称名はいさみの念仏なり」(註釈版p.1249)、つまり念仏を口に出して称えるのは、喜びいさんで「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、・・・」と出てくることだとおっしゃっています。
 どうして喜びいさんで念仏が称えられるのでしょうか。それは念仏がわが思いから出てくるものではないからです。わが思いは自己中心的でしかありません。また限りあるものです。念仏を利用してわが思いを遂げよう、わが思いを鎮めようとすることが、次の迷いの種をまいていることにしかなりません。その迷いを繰り返して、いまここにまだ迷っているのです。
 念仏は迷いの種をすべて私が引き受け、決して迷わせることはないという阿弥陀さまのこころです。それだけではありません。それがはたらきとなって、私の身にあらわれてくださるのが私の称える念仏です。それは同時に、阿弥陀さまが私を呼んでくださっている声です。

 自分を頼りにすればするほど、頼り切れない自分に出遇います。真剣に生きれば生きるほど、真剣に生ききることができない自分に気づきます。あちこち頼りになるものはないかと探し回るのですが、落胆の連続です。
 仏法に示されているのはまことです。頼るべきはそのまことです。ところがその仏法のまことに背を向け続けてきたことを、いま知らされているのです。そこに気づけと教えられ続けているのが、私の人生です。念仏なきゆえの迷いの時代に生きる私に、称名念仏して生きることの意味の深さを感じずにはおれません。

  み仏を よぶわがこゑは み仏の
  われをよびます み声なりけり
            (甲斐和里子)

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