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2012年8月29日 (水)

「もっといいものを」という心

 浄土真宗は「浄土に往生する」教えです。ところが、「浄土」という言葉も、「往生」という言葉も、現代社会においてはすでに生きた言葉として使われてはいません。つまり教えを聞く者が、「浄土に往生する」ということに驚いたり、ワクワクしたりするようなことがありません。そのことに興味を持ち、もっと深く聞きたいなどと思う人はほとんどおられないでしょう。
 また、浄土真宗は「念仏」の教えです。南無阿弥陀仏と称えることが教えの要であり、私の宗教的実践です。それだけで十分なのです。いや、むしろそれ以外のものは何も必要ないのです。どうしても“自分流”の理屈や解釈が加えられ、念仏を“私的利用”しているにすぎません。念仏以外のものが優先していまいます。
 南無阿弥陀仏と称える以外は何も必要ないのですが、それでは納得できません。だからそのいわれを聞く必要があります。でも、聞いても聞いても納得できませんし、疑う心がでてきます。それでも聞くのです。まったく疑う余地がなくなるまで。

 南無阿弥陀仏は葬儀の時の死者を送る呪文のように思われていたり、仏壇やお寺の本堂の本尊の前での挨拶であったり、おつとめ前後や行事の節目の儀礼のようにしか考えられていません。鐘を鳴らしたり拍子木をたたいたり笛を吹くことでも代用できる行為、という程度にしか考えられていないのではないでしょうか。それは“自分流”の理屈であり解釈です。
 「それでも浄土真宗は今日まで多くの門信徒や信者を擁してきたではないか」と言う人がいるでしょう。そのとおりです。伝統の力、組織の力は大きいと思います。しかしそれは伝統を重んじ、組織に関わり、そのことを良しと思っている人の“私的利用”ではないのでしょうか。そこにとどまっていてはなりません。
 いま、急速に宗教離れ、教団離れが起こり、伝統が崩れ、組織が力をなくしています。それは教えによって生かされている人が少なくなっていることを示しているのではないでしょうか。“私的利用”だけで、これからは伝統も組織も維持できません。これまではこれまでですし、歴史として残ります。しかし、今を生きている私は伝統や組織に救われることはありません。救われているように思っても、それは「浄土に往生する」こととは何の関係もありません。

 南無阿弥陀仏は阿弥陀さまの願いであり、阿弥陀さまのはたらきです。その願いとはたらきをすべて、一挙にいただくことができる。それが南無阿弥陀仏です。称名念仏です。
 阿弥陀さまからのいただくもの以上のものはありませんし、不足があろうはずはありません。でももっといいものがあると思うし、南無阿弥陀仏は不足だから称名念仏できないのです。これ以上のものはない、と聞かせてもらうのが仏法を聞くことです。聞けば口に出てくるのが南無阿弥陀仏です。その阿弥陀さまのこころをいただくことができれば、人に伝えたくてしかたなくなります。伝えずにはおかない。その結果が伝統になり力ある組織になってきたのです。

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2012年8月27日 (月)

どこまでいっても、生きてゆくのは迷い

 インターネット上で次のような記事がありました。全文引用します(写真と図表は省略)。
その前にひと言だけ。昭和40~50年代は、経済の成長と同時に環境汚染がすすみ、環境整備ともに汚染物質の排出抑制が厳しく定められました。その結果何がおこっているのか?
 「過ぎたるは及ばざるがごとし」であり、よりよき方向に科学技術を利用しようとしても、地球全体、生態系全体を見透すことができなかったようです。科学技術の粋を集めた結果は、人間の愚かさの暴露であった・・・というのは言い過ぎでしょうか?

---以下、引用開始---------------------

瀬戸内海、水清くなり魚住まず?悲鳴上げる漁師

 水がきれいになり過ぎて、魚が住めない?――。
 瀬戸内海で魚介類の漁獲量が減り続け、漁師らから、こんな声が上がっている。水質改善が進んだことで、植物プランクトンを育てる窒素やリンなどの「栄養塩」が減り過ぎたことが一因と分析する研究者もおり、国も実態解明に乗り出した。

 ◆「もうけがない」
 関西空港に近い泉佐野漁港(大阪府泉佐野市)。瀬戸内海での8時間の底引き漁から戻ってきた男性(38)は、浮かない表情を見せた。この日はカレイやヒラメ、エビなどが取れたが、数はどれも少ない。
 「10年前は1日に7~8万円分の水揚げがあったのに、今は2万円程度。船の燃料代も高いし、ほとんどもうけはない」
 農林水産統計などによると、瀬戸内海の漁獲量は1982年の46万トンをピークに減少し、2010年は17万5000トンまで落ち込んだ。80年代に比べ、カレイ類が2分の1、イカナゴは6分の1に。アサリ類は約190分の1に激減した。
 漁師の多くは船やエンジンの買い替えを先延ばしし、夜間、アルバイトで収入を補う若手もいる。大阪府内24漁協が加盟する府漁業協同組合連合会の松林昇会長は「このままでは瀬戸内海の漁業は終わってしまう」と危機感を募らせる。

 ◆窒素量6割減
 漁獲量減少の原因として、漁師が口をそろえるのは「海がきれいになり過ぎて、魚がいなくなった」ということ。兵庫県立農林水産技術総合センター・水産技術センターの反田実所長は「海水中の栄養塩が減り、海が『貧栄養化』してきたためでは」と指摘する。
 瀬戸内海では高度成長期、工場排水や生活排水に含まれる栄養塩で富栄養化が進み、赤潮の被害が頻発。このため国は、79年施行の「瀬戸内海環境保全特別措置法」(瀬戸内法)で工場排水制限や下水道整備などを進め、01年には窒素やリンの総量規制も定めた。
 その結果、83年に1リットルあたり0・34ミリ・グラムだった海中の窒素量は、昨年は0・14ミリ・グラムにまで減少。海水の透明度も大阪湾で3メートルから6メートルに広がった。
 因果関係は明確ではないが、漁獲量の減少は水質改善と並行して進む。
 窒素などを吸収して育つ養殖ノリが、栄養塩不足で黄色く変色する「色落ち」が兵庫、岡山、大分県などで頻発。大阪府南部では、魚のエサ場や産卵場になる海藻類が生えず、岩場がむき出しになる「磯焼け」もみられる。
(2012年8月26日11時11分 読売新聞)

---以上、引用終了---------------------

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2012年8月26日 (日)

「ありがたい」よりも、「申し訳ない」

 仏法聴聞を続けている人のなかで、「ありがたい」「もったいない」という表現をする聞法者を見てきました。ところが、聴聞を続けてきても私のなかは、なかなか「ありがたい」という言葉が出てきません。
 同じ阿弥陀さまの願いを聞きながら、どうして「ありがたい」が次々発せられる人と、私のように「ありがたい」が出てこない者の違いが出てくるのでしょうか。確かに仏法に出遇ったことそのものが「ありがたい(有り難い)」ことではあります。でも、どうもそういう文脈で使われているように思えません。また私の場合は、有り難いから「ありがたい」と簡単に言葉に出てくるものでもありません。「ありがたい」人に、どこが、どのようにありがたいのか確かめたくなります。

 私は阿弥陀さまのお慈悲を聞いても、そのことで簡単に心が動くことはありませんでした。感動することもなく、ただそういう話であると聞くばかりでした。なかなか響くことはありませんでした。教えのなかで響き、驚かざるをえなかったのは私のありのままの姿を知ったときです。欲も多く、いかりはらだちそねみねたむ心多く暇のないのがこの私であると気づかされたときです。そういう気づきがあり反省はしてみたものの、次の瞬間からはまた、欲も多く、いかりはらだちそねみねたむ心多く暇がないのですから、ちっともありがたくはありません。
 阿弥陀さまのお慈悲はその私にかけられている。反省はしたものの、お慈悲がかけられても止むことのない煩悩のままに生きるしかないというのは居直りなのか、あつかましいのか、それともアホなのか。慈悲への反発なのかもしれません。

 いわば傍若無人なる私に、そのことをすっかり受容した上での阿弥陀さまのお慈悲とあらためて知らされたとき、二度目の驚きをおぼえるのです。そのことが「ありがたい」のでしょう。しかし私にはそれでも、お慈悲への深い感謝の思いとか、頭を下げる心よりも、わが心にまかせて好き放題に生き続けることを選んできました。私が存在することあるいは私が思い通りに生きることこそが、私にとっては当たり前のことなのです。
 二度目の驚きは、当たり前とふんぞり返り、勝手気ままな生き方を当然のこととして生きる私のためにできあがった本願であり、お慈悲であることを知らされることです。一目散に前を向いて歩いている私の肩を促すようにたたいてくださるように。あらためてハッと気づかされることです。それは私には「ありがたい」ことではなく、「申し訳ない」という言葉の方が近い感覚です。それは何か重いものを引きずる感覚でもあります。
 でも、次の瞬間にはまたもや煩悩を楽しんでいるのですから、さすがの私も開いた口がふさがらないというのは、このことかと思うのです。お念仏するしかありません。

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2012年8月25日 (土)

想像できない「限りなきはたらき」

 この世を生き続けるなかで、人を信じ、人を頼りにして生きていきます。信じることができる人、あるいは頼ることができる人がいるというのはとてもしあわせなことです。これほどのしあわせはないとさえ言えるかもしれません。いつまでも信じ続けられる、頼り続けることができると思いたいのです。しかしそれはあり得ないことです。頼る側の人も、頼られる側の人も老いもしますし病みもしますから、いつまでも信じきり、頼りにしきることはできません。「これほどのしあわせはない」といっても、それは限りあるしあわせでしかありません。
 また、信頼していた人に裏切られた、無視された、あの人にいつまでも頼ることはムダだと感じるようになった・・・といった話をよく聞きます。信頼すべき人であると思ったにもかかわらず時が移り、状況が変化し、それにともない心の内や態度や関わり方に変化があったのでしょう。それは頼る人も頼られる人にも言えることです。人と人との深い関わりのなかで生き、人に信じ、人を頼ることが、私の人生にとってはかけがえのないことなのに、無常の風によってどんどん風化してゆくのです。”スーパーマン“はいません。ある時はスーパーマンのように見えても、それは一瞬のことです。

 たまたま信じることができ、頼ることのできる人が、複数人いることでなんとか幸せであり続けているかのように見えているだけなのです。「ほんとに私はしあわせや・・・」とつぶやける人生はありがたい人生でしょう。しかし必ずしもそういう人ばかりではありません。もしかして、次の瞬間、信じる人がいない、頼る人がいない、みじめさを感じ孤独感を感じ、決して「私はしあわせや・・・」と言えない状況に置かれるかもしれません。人間関係は豊かではありますが、極めて脆弱なのですから。
 だから人間には頼ることはできない。私の最後の最後は阿弥陀様にまかせるしかないのです。 阿弥陀さまの本願は、限りない願いであり、はたらきです。でも、そのことがピンとこない。私たちは「限りない」(無限)ということばを知っていますが、それがどういうことかを体験した人はいません。ですから、いのちある限り聞き続けたとしても、決して私の頭は理解しえないことです。まかせること、頼り切ることができないのです。

 私にはまかせることができない、私は頼ることができない。けれど、阿弥陀さまはそんな私だから待ち続けてくださっているのです。わかるか否か、頼り切るか否かという判断は、限りある私の判断。阿弥陀さまの本願は、私の意思には関係なく、私が迷っている限り待ち続け限りなくはたらき続けてくださるのです。
 それを私の頭で理解することは不可能です。ありえないことです。私の知り得ない、想像し尽くすことのできない限りないはたらきなのですから。

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