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2012年9月26日 (水)

【事前告知】このブログが、本になります

このブログ「畢竟依を帰命せよ」を出版します。
もちろんすべてではありません。いくつかをピック
アップしてあります。

『われも六字のうちにこそ住め』
 ――信心をたまわりて生きる――
樹心社 四六版上製 236頁 2000円+税
10月末もしくは11月初旬発行予定

 樹心社は、以前より真宗関係の仏教書を
かなり出しておられる会社です。私が東京にいる
とき、社長の亀岡邦生さんとお会いすることが
できました。そのなかで出版の話となりました。

 一昨日、再校を済ませて出版社に送りました。
一応、これで私の分については校了となる予定です。

 校正しながら読み返してみて、熟慮しながら書いた
文章ではないけれど、言葉も練られているわけでは
ないけれど、勢いがあります。ですから、勢いが
なかったら言えないことをサラリと書いてしまってある
ことに気づきました。かなり大胆な文章もあります。
でも、修正をしてはいません。

 もう一つは、繰り返しが多く、結構しつこく同じ
ことが繰り返されているということです。しかし、まったく
同じ文章が並んでいるというのではなく、きっかけと
なる話題や視点が少しずつ違っています。どこかで
何かを気づいてもらえたら幸いです。
 私がこれまでの聞法過程を振り返ってみると、
同じことを何度も聞いてきています。しかししっかりと
聞けていなかった。いや、いまでもなかなか聞けない
ものです。繰り返し繰り返し同じことを聞いて聞いて
これでもかと聞いて、ようやくわが身に響いてくるの
です。

 また、仏さまの願いのことをしつこく書いていますが、
それ以上に、私の生活実感や心の底がかなり強く
出ているような気がしています。そういう意味では、
他の仏教書では読めないちょっとは刺激になるかも
しれません。最初からそういうことを意図したわけでは
ありませんが、これが私が仏法と向き合った時に
でてくる私です。読者の方が自分のことと引きあてて、
仏法と向き合う上での刺激になればいいけどなぁ・・・
などと思っています。

 いつも勢いで書き、ほとんど読み直すことなく、
パッとオンライン上に上げてしまうことが多いので、
あらためて読み直してみて、私自身にも感ずるところ
は数多くありました。

 正式に出た時点で、またアナウンスします。
とりあえず、事前告知です。

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2012年9月25日 (火)

これがまことのわが身です

 鈴木大拙師の『妙好人』(法蔵館)の冒頭部分に、妙好人は比較的文字に乏しいという特徴があると述べたあとに、「学問とか智慧才覚などというがらくたがあると、それは信仰に進むものの障礙となることは確かである」という一文があります。
 妙好人とは、浄土真宗の在俗の篤信者をさしており、鈴木大拙師によって広く世間に知られることになります。

 その鈴木師のこの一文は、蓮如上人の「それ八万の法蔵を知るというとも後世を知らざる人を愚者とすたとい一文不知の尼入道なりというとも後世を知るを知者とすといえり」(『御文章』註釈版 1190頁)と通ずるものです。
 がんばって勉強し、思考を重ねることは、この世を生きてゆくにはとても大切なことです。どれだけ勉強するかということが、あるいは智慧才覚がどれほどすぐれているかということは、人生のすべてであるとさえ思いながら子どもを育てる親は少なくはないでしょう。子も勉強ができればそれが自信となり、社会の重要な役割を果たすことを使命とさえ考えるようになるのではないでしょうか。しかし学問や智慧才覚を、信仰に進むものには「がらくた」という障礙となるというのです。
 私たちがこの世で身につける学問や、この世で発揮する知恵才覚というのは、この世をいかに幸せに、立派に、たくましく生きるかという手段です。大切な手段ではありますが、その手段によって必ずこの世を幸せに、立派に、たくましく生きるという保証はありません。ましてや、仏法を聞く者にとっては、邪魔にさえなる「がらくた」だと指弾するのです。

 仏法を聞く目的は、仏に成ることです。この世での学問や知恵をどれだけ身につけてみても、仏に成ることはできません。仏に成るためには、むしろこの世のありようから離れることが必要です。だからといって、この世を捨てることなどできようはずはありません。第一、これまで身につけてきた学問や知恵を手段にして築き上げてきたものが頼りなのです。
 私は捨てることはできなくても、体力が衰え、記憶を失い、これまで磨き、築き上げてきた学問や技術を役立たせることもできなくなってゆくのです。そして遂には、この世と別れなければなりません。

 それは信仰以前の問題として、しっかり自覚しなければなりません。ほんとにはかない世に生きる無常の身であると。それをこの世で学ぶことによって身につけた理性が覆い隠すのでしょう。しかし歳を重ねるごとに、その理性がはがされてゆくように思います。理性がはがされ尽くした行く末は、わが身のおろかな私が残るしかありません。
 その私に、仏法によってわが身を知らされ仏のまことが知らされるのです。それでも自分のなかでは力を失った学問や智慧才覚が、自力となってまことを知ることを障礙する。その姿こそ、まことのわが身です。

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2012年9月20日 (木)

浄土真宗の教えを聞く者の生き方は?

 浄土真宗の教えを聞く者は、どのような生き方をすればよいのでしょうか。このように生きなければならないという指針が示されているわけではありませんから、これはとても難しいのです。だからといって、好き勝手に生きればよいというものでもありません。
 仏教という視点で見るなら、戒律があり、また八正道が示されています。これらはさとりへの道に至る仏道修行の道として示されているものですが、それは私たちの生き方の指針とも言えるかもしれません。しかし厳密にこれらを守り通して生きることはとても困難です。出家して仏道を歩む人の修行のありようというのは、日常生活をしながら成し遂げられるほど甘いものではないことは、言うまでもないことです。

 浄土真宗本願寺派の『浄土真宗必携 み教えと歩む』には、次のように記されています。

「私たちはこの社会で、阿弥陀如来の本願をよりどころとした念仏者として、さまざまな人生の課題に対応して生きていきます。
 周りの人びとには、一般社会の価値観とは異なる、阿弥陀如来の救いに支えられた安らかな生活があることを知ってもらうことができ、この社会には多種多様な価値観があることを示すことになります。ここにこころ豊かに生きることのできる社会の実現への貢献があるといえるでしょう。」(『浄土真宗必携』130ページ)

 私の率直な感じは、一つは抽象的で今ひとつ理解しづらい表現であり、もう一つは思うのはちょっときれいごとが過ぎた表現ではないのか、というものです。とくに、「阿弥陀如来の救いに支えられた安らかな生活」「こころ豊かに生きることのできる社会の実現への貢献」と言い切るところがこの文章のスゴイところです。世間から注目されている某宗教団体のようでもあります。それに続いて次のようにも示されています。

「阿弥陀如来の救いにあうことを得た念仏者は、自らがその教えをよろこぶことはもちろん、人びととともに御同朋として阿弥陀如来を仰ぎ、そのすくいをよろこべるよう、如来の智慧と慈悲が伝わる仏恩報謝の道を歩むことが大切です。」(『浄土真宗必携』130~131頁)

 これらの記述は、共感しつつも私の思いとはずいぶん距離を感じます。私はドロドロのなかを苦悩しつつ生きるしかありません。心豊かに生きることができなくて苦悩する毎日があります。殊勝な心も自分の傲慢な心の前には木っ端みじんに打ち砕かれてしまいます。如来の智慧と慈悲が伝わる仏恩報謝の道を歩むことも頼りのないことです。立派に修行を成し遂げた聖道門のお坊さんの生き方です。
 そのように虚仮不実であっても、一歩前へ足を踏み出すことが念仏者の生き方でしょう。しかし一歩踏み出すことができなくても念仏するのが教えを聞かせてもらう者の生き方でもあります。「念仏者」という表現にとどまらず、「安らかな生活」ができるか否かにかかわらず、社会への貢献の有無にかかわらず、「南無阿弥陀仏と口に念仏を称える生活」が浄土真宗の教えを聞く者の生活です。そう言い切らねばなりません。それよりも、みずからが南無阿弥陀仏と口に称えること以外にはありません。

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2012年9月11日 (火)

天上界に生まれても

 迷いの凡夫は生まれ死ぬ生まれ死ぬ・・・を繰り返し、天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道を輪廻する、と迷いの姿を聞かされます。この六道が迷いの境涯なのですが、自身が迷いの境涯にいるということを聞くことができ、知ることができるのは、人間界に生まれた者だけなのです。他の境涯に生まれた者は、聞くことができたとしても理解することができないというのです。
 人間界より上の天上界は、六道のなかで最上の果報を受ける者が住む清浄な世界であり、長寿の境涯です。そこに生まれることができた者は、あまりにしあわせすぎる境遇のなかにいるので迷いと言うことも、苦しむということも知ることができないのだといいます。
 ところが、そんな天上界に天人として生きる者も、死を迎えることがあるというのです。その天人が迎える死のっ直前には、天人五衰といわれる兆しがあると説かれています。
  衣裳垢膩(えしょうこうじ):衣服が垢で油染みる
  頭上華萎(ずじょうかい):頭上の華鬘が萎える
  身体臭穢(しんたいしゅうわい):身体が汚れて臭い出す
  腋下汗出(えきげかんしゅつ):腋の下から汗が流れ出る
  不楽本座(ふらくほんざ):自分の席に戻るのを嫌がる

 確かに長生きはできるかもしれないし、しあわせな境涯をゆったり生きることができるのかもしれません。しかし迷いの境涯である以上、必ず死がやってきて、いずれ六道輪廻を繰り返すのです。
 人間界で長寿を求め、しあわせを求めてきた姿は、天上界に一つのモデルとしたのでしょうか? 実際、この世のものとは思えない環境のなかで、贅沢なものを身につけ、おいしいものを食べ、自分の身を心を十分に楽しませている人がいるようです。たとえそうでなくとも感心したりうらやんだりして、そうなりたいと望んでいるいるのではないですか。現代の日本は、ごく一般的な生活する人であっても、必要以上のモノに囲まれ、便利で豊かな生活を過ごしているのではないですか。心豊かな生活を送るために、いかに上手にモノを捨てればよいのか・・・などと、世界の人たちが聞いたら驚き、また私たちの先祖が生きていたら腰を抜かすようなことが、真剣に語られるのです。
 現代社会を生きてゆくためには、水や空気と同じように電気も必要不可欠のモノとなっています。しかし原子力発電などは、過ぎたしあわせを当然のごとく享受している凡夫の姿だと思うのです。
 もし限りなく天上界に近づこうとしたとしても、私の生きる境涯は人間界ですから、人間界の矛盾や道理のなかで悩み苦しまなければなりません。仮に、科学技術の大いなる革新があって天上界ほどの世になったとしても、やはり死を免れることはできません。仏法の道理からいえば、迷いの境涯を輪廻してゆくほかはないのです。
 人間界を生きることができている間に、仏法聴聞するしかありません。

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