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2013年1月31日 (木)

「後生の一大事」って何?(下)

 それでは「後生の一大事」とはどういうことでしょうか。地獄に堕ちるしかない者が、あるいはいまを懸命に生きることができない者が、仏になることです。それは私たちの常識からはあり得ないことです。あり得ないから一大事なのです。
 ところがそのことが一大事と思えないのがこの私です。仏法を聞くなかで、仏になることを夢見ることがあるかもしれません。夢を見たところで、仏法に背く生き方を絶えることなく続け、善を修め正しく生きることができないのです。その凡夫を、そういう凡夫だからこそ仏にせずにはおられないというのが阿弥陀さまのこころです。私にはあり得ない心です。さらに、その阿弥陀さまのこころは、必ず仏にするというはたらきとなっているのです。「南無阿弥陀仏」というはたらきです。
 この世を生きる私が望み願うことと阿弥陀さまの願うことは次元が違いますから、私が阿弥陀さまの願いに心を向けたと思ってもすれ違うことばかりです。阿弥陀さまのこころもはたらきも、私にとっては頼りなく思えますから、地獄が気になり、いまの生き方をきにするしかないのです。
 それでも、そんな私を仏にしようというのです。これほどの一大事がどこにありましょうか。

 蓮如上人は、白骨の御文章(第5帖16通)のなかで、「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり」(『御文章』註釈版p.1204)と申されています。
 ここで「阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて」とあるのは、阿弥陀仏にお願いするという意味ではありません。阿弥陀さまを信頼するという意味です。信頼するというのは願うこととどこが違うのか、と言われるでしょう。私が阿弥陀さまを信頼するという思いに至らねばならないのではありません。私が阿弥陀さまを信頼する前に、阿弥陀さまが決して地獄には堕とさない、いまを生きていることをむなしく過ごさせることはさせないと願い、そしてはたらきが必ずあるということです。まずはその願いとはたらきに気づきくことです。そこにうなづくことができずして、阿弥陀さまへの信頼などあろうはずはありません。弥陀の本願を無視して、後生の一大事の解決などあろうはずはありません。その阿弥陀さまのこころをそのままいただくことが、阿弥陀さまをたのむ、信頼するということです。疑う余地のない心であることが、阿弥陀さまへの信頼ということです。
 確かに、私にとっては、地獄に堕ちることはたいへんなことでしょう。この世を懸命に生きることも容易なことではありませんから、これも大事であるには違いありません。しかし因果の道理からしても、地獄へ堕ちることは必然です。その必然が覆され、弥陀の浄土に生まれ仏になることこそ、一大事なのです。

 

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2013年1月30日 (水)

「後生の一大事」って何?(上)

 親鸞聖人は「後生の一大事」という言葉を使ってはおられませんが、蓮如上人は「後生の一大事」「一大事の後生」と使っておられます。ところが、この言葉をどのようにいただくのかというのは、法を説く先生方によって違いがあります。もちろんそれなりに根拠があるのだと思いますし、法を説く相手にもよるのでしょう。その説きようによって、説き手の真宗観を知ることができると思うのです。
 しかしこの言葉をいい加減に扱うことはできません。この言葉は真宗の法を聞いてゆくうえにおいてはキーワードだと思いますから、しっかり抑えておく必要があるでしょう。

 まず、このまま死んでしまえば地獄に落ちてゆかねばならないことが後生の一大事であると説く人がおられます。地獄なんて架空の世界であり、そんなことは信ずるに足りないと思っている人には、一大事にはならないでしょう。しかし仏法の教えを鏡としてわが身の生き方を振り返ってみたとき、因果応報の道理からこのまま地獄へ行かねばならないのか・・・という思いは、心穏やかなものではありません。そういう思いも、すぐに忘れてしまいますが、ことあるごとによみがえってくる思いでもあります。その思いが解決しない以上、地獄へ堕ちてゆかねばらなないということは一大事でしょう。
 それに対して、死んでから先の話をしてもしかたがないと言う人がいます。私たちはいま、ここを生きているんだから、先のことを考えずに、いまを懸命に生きることこそ大事なこと。後生というのは今のこと、あるいはこれから私が生きてゆくということをいうのであって、そこを懸命に生き抜くことこそ一大事であるのだ、というのです。
そのように説明されると元気が出てきます。先の地獄行きの私であるという悲壮感はなくなります。

 しかし地獄へ堕ちることは一大事ではありません。親鸞聖人は「地獄は一定すみかぞかし」と、わが身を振り返っておられます。自分の心身を正し、懸命に仏道を歩んでもなお地獄行きの自分しか見えない者であれば、地獄に堕ちることは一大事でしょう。まさに、親鸞聖人は20年にわたるご修行があっても、地獄しか行くところはないとおっしゃっているのです。十悪五逆をいっこうに止めることができない者が、さらに五正行も六波羅蜜も十善もなし得ない者が、地獄行きが一大事だというのはあまりにも虫がよすぎます。

 確かにこの世を懸命に生きることは一大事ではありますが、仏教はいまをいかに生きるのかということのみを指し示しているのではありません。もちろん、過去にとらわれてもしかたが無いし、先のことをあれこれ考えてもどうなるものでもありません。まさにいまを生きているのですから、いまを懸命に生きるのは当然のことです。しかし懸命に生きる、人生を生ききるというのはどういうことでしょうか? そういうことを考えてもしかたがない、とにかくできることを精一杯やること・・・と言われるでしょうか。だれもが、その時々は懸命に生きているのではないでしょうか。そのことに満足する者もいるでしょうし、悔いを残す人もいるでしょう。多くに人に非難されたとしても自分では十分に満足できる生き方もあるし、他人がどれだけ評価してくれたとしても不満な生き方もあるでしょう。それはそれぞれの人の主観でしかありません。

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2013年1月28日 (月)

縁に遇っても、なかなか真実(まこと)には出遇えない

 私が僧侶であることを知って、東京に住んでいる大学時代の後輩や、かつての仕事上でつきあいのあった人、あるいは宗教的なところではまるっきり接点のない友人などから、電話やメールが入ることがあります。そんな人は、たった今あるいはつい最近、配偶者や親などが亡くなられた喪主となる人です。葬儀や葬儀後の手続きをどうすればいいのかと尋ねられます。それは単に儀礼的なことを聞いているだけではなく、そこに悲しみや不安がからんでいます。これから葬儀をするのだけれど、どうすればいいのかまったくわからない。葬儀社の紹介の僧侶と話をしたが、どうもしっくりしない。また、葬儀は済ませたけれど、その後どうしていいのかわからない。バタバタとわけのわからないまま葬儀が終わったけれど、いま冷静になってみると亡き人にとってこれでよかったんだろうか、等々というようなものです。
 これらの人たちに共通するのは、それまでほとんどお寺や僧侶との関わりを持ってこなかったし、死や葬儀などということを考えたことがなかった人たちであるということです。コンパクトにまとまり、長年の寺檀関係を結んでいる奈良の山里の人たちでは考えられないことです。

 後々、これらの人たちの話を聞くと、亡き人に対してつねづね嫌な人だと思い、腹を立て、冷たくあしらうことなどがしばしばあったと言います。しかし亡くなったという現実が目の前で起こったとき、誰もが涙を流し声を出して泣いたとも言うのです。そんな人たちは、亡き人に対して自分のできうる限りのことを精一杯したいという思いを強く持っています。精一杯のことをしたところで、自分自身の不安や悲しみを解消することはできないだろうけれど、死による別れが現実のものとなった今はとにかく精一杯できることをしたいということのようです。しかしいままで経験したことがないため、フッと思い出した身近な僧侶である私に連絡してくれたのでしょう。
 それからしばらくメールのやりとりや電話での話が始まります。無常感や罪悪感も一杯経験してこられたことを聞かされます。阿弥陀さまやお浄土への思いも少しは表れていることがわかります。だからといって、そんな人たちの仏法聴聞が始まるわけではありません。そして時間とともに不安や悲しみが薄れてゆくようです。そのうち、かつての悲しみはどこへやら・・・です。
 そうして日常生活に戻ってゆくのでしょう。そうして、仏法との縁もまた遠ざかっていくような気がします。ほんとうに仏法を聞き、仏法の真実(まこと)に遇うことは難しいことのようです。

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2013年1月26日 (土)

人生をエンジョイしてますか?

 浄土真宗とはどんな教えですか?もっとも簡潔明瞭に示されているのは、「他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る」という、『歎異抄』第12章に示されたお言葉でしょう。本願を信じて念仏申せば仏に成るという言葉の上での理解だけなら決して難しいことではありません。
 ところが、本願を信ずるということ、また念仏することはとても難しいことです。むしろ、そのことへの疑問や反発がでてくるでしょう。それは浄土真宗の寺に生まれても、また代々の真宗門信徒の家系にあってもです。そういうところに生まれさえすれば誰でも本願を信ずる身となるということではありません。本願や念仏に遇うためのよほど強い縁があったというほかはないのです。

 その縁に恵まれるということは、わが身にとってみて、よいことばかりではありません。日常生活で親や祖父母、兄弟、さらにはわが子の死に遇ったことや、自分自身が重い病気になって悲哀を感じた、などという悲しさやしんどさやつらさや苦しさ等々を抱えることがきっかけになることもあります。たまたま読んだ仏書の内容に反発を覚えながらも、常に気になってしかたがなかったということから聴聞に導かれたという人もおられます。そんな人たちは、どこかで落ち着きたい、座り込みたい、このままでいいあるいはこのままでいたい・・・という生活を求めていたにもかかわらず、それを逆撫でするような現実をみせつけられた。こんなはずではなかったというときに、たまたま仏法に出遇う縁があったということではないでしょうか。
 家族や両親などに物心がつくころから仏法大事と教えられたり、いつも仏法聴聞に誘ってくれる仲の良い友人がいたという、もともと仏法の縁に恵まれた人には何も問題がないというのではありません。そんな人も、聴聞の過程で、わが身の無常や罪悪性を、教えを通してうなづかずにはおれなかったのです。教えによって何度もわが身が突き刺さされたのではないでしょうか。たとえば、人の死に遇い、自分の老いや病いに遇ったとき、その現実こそが、仏法が私に示しくれている人間のあるべき姿であると実感するほかはなかった、というような。ただ縁があったというだけで、ふだんはいつも自己主張が強くて、教えはもちろん他人の言葉さえもなかなか素直に受け取ることができなかった。それが仏法のまことは受け入れるほかなかった。それは知的に受け入れるのでも、経験的に受け入れるのでもありません。阿弥陀さまのこころを受け入れずにはおれなかったということでしょう。

 でも、再び日常生活に戻ると、そんなことはすっかり忘れてしまっているのです。しかし私が忘れても、仏法がまことであるから常にやすむことなく、私にはたらきかけてくださっているのです。
 常にやすむことなく私に願いがかかり働きかけてくださっている・・・なんてことは私には理解できないことだけど、まことがはたらきかけてくるというのは、人生の究極的な楽しみであり、よろこびなのではないでしょうか。そう思うだけで、いま生きていることが、人生そのものをエンジョイできるじゃありませんか。

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2013年1月24日 (木)

「仏にまかせる」道の始まり

 平均寿命が70歳代後半から80歳代へと年を追って長くなっていきます。いまや、80歳くらいでは長生きとは言えなくなってしまっています。しかしそれは、誰もが80歳まで生きることができるということではありません。私の目の前でバリバリ活躍していた人が30歳代や40歳代で思いもかけず急逝されることは衝撃的というほかはありません。この世は諸行無常であり、人間は老少不定であると聞き、頭では理解できても、どこかで人間って歳をとってから死ぬものという思いが抜けきれないところがあります。だから自分はあと何年くらいは生きるだろう・・・などと皮算用するのでしょう。でも、目の前で老少不定という姿を見せつけられると言葉もありません。そして誰もがそんな現実をできるだけ早く忘れようと思うでしょうが、きっと忘れることのできぬまま、心の奥底に刻みつけられるのでしょう。

 念仏の教えを聞かせてもらっている者は、「仏にまかせる」という言葉を何度も聞いているでしょう。しかし初めて聞いたときは、誰もが「仏にまかせるって、どういうこと?」と思うのです。まず仏などどこにいるんだ、架空の物語じゃないか・・・、とも。学校教育のなかでもこれを正当化するような話は聞けませんし、世間一般にも単にお話として終わってしまうと思います。私の場合は、それが一体どういうことで、どうすればいいのかさっぱりわからなかった。
 そんな者でも、厳しい世の無常を何度も実感することになります。それだけではなく、わが身が罪悪深重であることを気づかされます。そしてわが身の死を感じ、行く先わからぬわが身の不安も感じようになります。あるいは、私は何のために生きてきたの・・・などという問もでてくるでしょう。これは世間の倫理や道徳や価値観、あるいはその他の知識や積み上げてきた経験も何の役にも立ちません。
 そこで初めて、いままで聞いていてもピンとこなかった、あるいはそんなに重要なことではないと思っていた「仏にまかせる」ということへの思いが深まってゆくのではないでしょうか。それはおそらく同じ問いをもったであろう先達の道を歩むということでしょう。宗教的教えに目覚めると言えるかもしれません。もちろん日常生活がありますから、そのことにかかりっきりになれなくても、心の奥底に刻みつけられた思いが目を覚ますのです。それこそ、動物と人間を画す大切な一線なのです。その気づきと向き合うことは、人間としての精神的な豊かさでもあると思っています。苦悶することもあるかもしれませんし、疑問ばかりで出口が見えないかもしれませんが、やっと人間としての目覚めが始まったのだと思うのです。

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2013年1月17日 (木)

往生浄土の道筋

 法然聖人ははっきりと浄土宗を立てることを宣言され、『選択本願念仏集』が浄土宗独立の宣言書であることはよく知られています。
 しかし親鸞聖人が浄土真宗という一宗を開く意思はありませんでした。著書のどこを見てもそれらしきものを発見することはできませんし、むしろ師である法然聖人が示された浄土宗の教えこそがまことであり、その教えが浄土真宗であると述べておられるのです。

  智慧光のちからより 本師源空あらはれて
  浄土真宗ひらきつつ 選択本願のべたまふ
        (『高僧和讃』註釈版p.595)

 親鸞聖人が使われた浄土真宗という言葉には、「まことの浄土の教え」「浄土の真宗」という意味を込めておられるのでしょう。それは当時から、法然聖人が示されたのとは違う浄土宗の教えがあったのでしょう。実際、親鸞聖人のお手紙のなかに、「浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。」(『親鸞聖人消息集』註釈版p.737)とか、「法然聖人の御弟子のなかにも、われはゆゆしき学生などとおもひあひたるひとびとも、この世には、みなやうやうに法文をいひかへて、身もまどひ、ひとをもまどはして、わづらひあうて候ふめり」(同 註釈版p.738)などという記述から読み取ることができるます。また、『御伝鈔』の信行両座(上巻・第六段)や信心の諍論(上巻・第七段)においても、法然聖人の教えを正しく受け継がれているお弟子たちが、親鸞聖人など少数の人であったことをうかがうことができます。
 親鸞聖人は、法然聖人の弟子としては先輩諸僧が数多くおられたようですが、師の著書『選択本願念仏集』を写すことを許され、その姿(真影)を図画することまでも許されています。つまり法然聖人より、教えの上で信頼を受けていたのです。

 仏教も社会のなかにある限り、その影響を受けるのは致し方のないことです。いまでは宗派に分かれたり、親鸞聖人が書かれたものについても細かい解釈が分かれたりもしています。もちろん宗派によって教えが守られ、細かい解釈によって理解や味わいが深まることを否定するつもりはありません。だからといって、宗派や聖教の解釈ばかりに心を奪われていてはなりません。
 ただ阿弥陀さまより回向された南無阿弥陀仏のこころをいただくしかないのです。そのところにピントを合わせて私たちに示してくださったのが法然聖人であり、親鸞聖人が正しく承継されたのです。はっきりした教えの道筋があるのです。

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2013年1月14日 (月)

「横川法語」(4)

 「横川法語」の第2段と第3段に「来迎」という言葉が出ています。臨終時に阿弥陀さまがお迎えに来てくださることです。浄土教の基本的な教えです。平安時代の貴族たちは、臨終前に寝床の頭のところに安置した阿弥陀如来像の手元に五色と糸の端を結び、もう一方の端を死に行くが者がしっかり握っていたと聞き及んでいます。そのほか、来迎のための臨終行儀なるものが、さまざまあったようです。おそらく、ほんとうに阿弥陀さまのお迎えがあるのか不安だったのでしょう。しっかりと形を整え、その気にならなければ安心感はなかったのかもしれません。
 しかし親鸞聖人は「不来迎」と示されました。臨終間際にじたばたしなくてもよいとおっしゃる。阿弥陀さまの願いを聞き、念仏する者は、往生一定間違いなしと、常に阿弥陀さまとともに日々の暮らしを送ることができるのです。そういう意味では、親鸞聖人の信心は、「常来迎」であったとも言われています。それは親鸞聖人のことだけではありません。どんな妄念の凡夫であっても、阿弥陀さまの願いを聞き、念仏する者すべてが歩める道なのです。

 親鸞聖人が「念仏者は無礙の一道なり」(『歎異抄』註釈版p.836)と言われています。何ものにも妨げられないひとすじの道」を歩むのが念仏者だと言われています。まさに親鸞聖人がそのような道を歩まれました。何事も気にせず、わがままに生きるということではありません。阿弥陀さまの願いに裏付けられた念仏を称えさせているのですから、すでに一道を歩むのみです。阿弥陀さまが示され、お釈迦さまが開顕され、先達たちが歩まれた念仏の道であり、「信」の道でもあります。
 私が歩む人生ですから、迷いも悩みもあるでしょう。しかし念仏が、私の歩む人生の力になっているということです。儀礼としての念仏や格好をつけて称える念仏では、生きる力になりません。だからといって、念仏は力になるから・・・と言い聞かせてみたところで、むなしさだけが残るでしょう。
 阿弥陀さまが示されたまことによって、わが身の姿を知らされることです。と同時に阿弥陀さまの願いを気づかせていただくのです。というより、わが身の姿を知らされるということは、そのまま阿弥陀さまの願いに気づかせてもらうということでもあります。そこにあみださまのはたらきがあるのですから。

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2013年1月13日 (日)

「横川法語」(3)

 「横川法語」の第三段をみてみましょう。

  またいはく、妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の
  ほかに別に心はなきなり。臨終の時までは一向妄念の
  凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏すれば、来迎に
  あづかりて蓮台に乗ずるときこそ、妄念をひるがへして
  さとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる
  念仏は、濁りに染まぬ蓮のごとくにて、決定往生疑ある
  べからず。

 信心をするという時は、私の思いや都合が優先しているようです。しかしそれは「妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別に心はなきなり」と示されていますことで納得できるでしょう。妄念とは、迷いの心です。自分への執着する心であり、その心から生じる誤った思いです。それが私そのものだというのです。私の本質だというのです。そんな心しかないのがこの私であると示されています。まことに厳しい言葉です。その厳しさがわが身に響いてこないというのは、私の地体である妄念のしわざです。

 「臨終の時までは一向妄念の凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏すれば」と示されていますから、この世の命が終わるまで「妄念の凡夫」と自覚することが大切なことです。「私は凡夫だから、何をしても許される・・・」というのは居直りです。「妄念の凡夫」という自覚すれば、我執を押し通して生きる生き方へのブレーキとなるのではないでしょうか。しかし妄念の凡夫が「妄念の凡夫」と自覚するだけでは、うわの空の自覚に終わりかねませんが、凡夫とこころえて念仏するというところがポイントでしょう。そこに教えてに照らされ映しだされる妄念の凡夫に気づくことができるのです。

 仏の願いである念仏を、妄念の凡夫がする。この妄念の私の口から出る念仏は本物か偽物か? 私は「いずれの行もおよびがたき身」(『歎異抄』註釈版p.833)ですから、念仏も本物ではないのでしょうか?
 阿弥陀さまの願いは、妄念の凡夫だから、あるいはいずれも行もおよばない身だからできあがったのです。そういう者にこそ仕上げねばならなかったのです。妄念の凡夫が口にする念仏が、そのまま阿弥陀さまの行として、願いとして私の腹底に届くのです。阿弥陀さまのそういう願いに裏付けられた念仏であることを聞き、阿弥陀さまのはたらきとなって私に届くことが「信」なのです。その阿弥陀さまの「信」をいただくことが私の「信心」なのです。私がつくりだすものではありません。
 まさに、妄念の凡夫の口から出る念仏は、泥田に生えるにもかかわらず、その泥の濁りに染まらない蓮華のようであるとのたとえのごとくなのです。

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2013年1月12日 (土)

拙著紹介(東京新聞)2013年1月12日号

20130113_2


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「横川法語」(2)

 どの宗教も「信心」ということを強調します。仏をあるいは神を信じる心がなければ宗教は成立しません。しかし深い信心をもって生きるというのは並大抵のことではありません。ひたすら仏あるいは神とともに生きる人というのは、修行者と言ってもいいでしょう。でも、そんな人は滅多にいるわけではありません。
 世間一般には、信心を「する」とか「しない」、あるいは信心が「足る」とか「足らない」という使われ方があります。しかしよく考えてみると、これらの言葉が使われる基準が明確ではありません。仏壇へのお参り、お寺や神社へのお参り、お墓参り、・・・などの宗教行為の頻度が多いほど信心している人でしょうか。神仏に祈願をしてそれが実現すれば信心が足っている人でしょうか。確かにそれらの回数が多ければ信心をしている人とみえるかもしれません。
 自他ともに熱心に信心しているという人であっても、自分の都合に合わせて神仏にお参りするということが多いのではないでしょうか。それ以外の時は、仏も神もあったものではありません。そうであるなら、自分の勝手な都合が優先し、そのために信心を利用しているに過ぎません。教えの中身に深く帰依しているのではなく、自分の強欲を満たしたいという思いに他なりません。

 浄土真宗では、信心を「する」とか「しない」という言い方はしません。信心が「足る」とか「足らない」とも言いません。毎日お仏壇にお参りして、いつもお念仏を口にしてせいかつしていても、それにかかりっきりになっているわけではありません。もちろん修行者のような生活ができるはずもありません。どれほどきれいごとを言ったとしても、この世を生きる主役は私自身であり、頼りにするのはわが思いなのです。

 そんなありのありのままの人間のありようを見通したうえで、「横川法語」の第二段では次のように示されています。

  信心あさけれども本願ふかきゆゑに、たのめばかならず
  往生す。念仏ものうけれども、となふればさだめて来迎
  にあづかる。功徳莫大なるゆゑに、本願にあふことを
  よろこぶべし。(註釈版p.1425)

 私の信心のありようにかかわらず、阿弥陀さまの本願が深いのです。必ず救わすにはおかないという阿弥陀さまの願いは、常に私の隣に寄り添ってくださっているのです。
 念仏するのは、めんどうくさいとかイヤだというような潜在的な意識があって、気が進みません。阿弥陀さまが私に対する願いは、まずわが名を称えてくれよということです。そのおこころを知り私の都合を差し置いて念仏すれば、阿弥陀さまがお迎えに来てくださる(来迎)というのです。念仏することの功徳は莫大ですから、信心が浅くても本願に遇えるのです。
 第一段のところでは、三悪道をはなれて人間に生まれたことをよろこぶべきであると教えられましたが、第二段では本願にあうことをよろこぶべきであるとさとされています。人間に生まれたのは、三悪道を離れることができたというところにとどまらないのです。人間に生まれたということは、本願に遇うご縁をいただいたということでもあるのです。ほんとうに本願に遇うことができたのなら、よろこぶべきと言われなくてもよろこべるということだけでも、功徳は莫大なのです。

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2013年1月11日 (金)

「横川法語」(1)

 私は子どものころ、お夕事(夕方のおつとめ)のあと、源信和尚がお作りになられたと伝えられている「横川法語」を声に出して読みました。繰り返し読むのでそのうちに暗記をしていましたので、たいへんなじみ深い法語でもあります。子どもが読むものですから、そんなに難しくて何を言っているのかさっぱりわからないという御文ではありません。その量も400字ほどの短い法語です。
 もともとは段落のない文章ですが、内容的には三つに分けて説かれています。まず最初の一段です。

  まづ三悪道をはなれて人間に生るること、おほきなる
  よろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや。
  家はまづしくとも餓鬼にまさるべし。心におもふこと
  かなはずとも地獄の苦にくらぶべからず。世の住み憂き
  はいとふたよりなり。このゆゑに人間に生れたることを
  よろこぶべし。(註釈版p.1425)

 私たちは迷い続けています。「いや、私は迷っていない・・・」としか思えないのが迷っている証しそのものです。なぜ迷っていると言えるのか。さとりの世界の仏さまがそう示してくださっているからです。迷っている者は、六道(ろくどう)を生まれ死に生まれ死に生まれ死に・・・ということを繰り返し、これからも繰り返すというのです。六道というのは、天上道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の六つの境涯です。そのうち畜生道・餓鬼道・地獄道を三悪道というのです。
 私はいま、人間に生まれ、当たり前のようにおもしろ楽しく生きています。またつらく、くるしく、さらには悲しいことが次々起こってきます。そんな人間に生まれたことを、あなたはよろこぶことができるでしょうか。おもしろく楽しいことが続き、自分の思ったことが実現できればそのよろこびを感じますが、そうでなければ人間に生まれたことを嘆くのです。つまり、その時々のまわりの状況に左右されているのではないでしょうか。
 「横川法語」では、三悪道を離れて人間に生まれたことは「おほきなるよろこびなり」と言われます。畜生道は本能に支配される世界です。餓鬼道は自分が飢えているけれども満たされることのない考えない世界です。地獄は苦しみが絶えることのない世界です。それを離れて人間として生まれることができたのです。しかも近年の研究では、地球上には約870万種類の生物が生息しているといわれています。また、人の精子が卵子と受精する確率は3億分の1だとか。いま、あたりまえのように人間として生きているように思っているのですが、滅多にないことなのです。
 とはいっても、うれしいことばかりじゃない。どうすることもできないほどのしんどさを、生きているうちに何度も味わうのがこの人間生活です。人間として生まれてもこの世は住みにくいのです。そのことを身にしみて感じるときは、この世を厭うべき良い機会である、と示してくださっています。畜生でも餓鬼でも地獄でもなく、人間として生まれたのに住みにくさを感じることこそ、人間に生まれたことをよろこぶべきでことだと言われるのです。自分の思いを実現することこそ人間に生まれたよろこびであると前のめり気味に生きたとしても、必ずつまづきます。そのことを見透かしておられるからこそ、この金言を私に示さずにはおれなかったのではないでしょうか。

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2013年1月 8日 (火)

有漏と無漏

 仏教には、有漏(うろ)と無漏(むろ)という言葉があります。日常生活ではこんな言葉を聞くことはありませんから、初めて聞くと何のことかわかりません。
 「漏」というのは、さまざまな心の汚れ、煩悩のことです。もちろんこの字は「漏(も)る」「漏(も)れる」と使われます。つまり外にこぼれることです。ですから、「有漏」は煩悩が外にこぼれ出して、汚れにまみれていることをいうのです。凡夫のことをいいます。一方、「無漏」とは汚れ、煩悩が滅し尽くされた状態だというのです。外にこぼれ出る汚れはありません。涅槃、さとりのことを指しています。

 親鸞聖人の書かれた『教行証文類』には有漏・無漏それぞれ4回出てきます。いずれも経典や先師の言葉の引用です。そのうちのひとつに『涅槃経』からつぎのような言葉を引いておられます。

  心もし有漏なるを名づけて不浄といふ。
  仏心は無漏なるがゆゑに大浄と名づく。
         (『教行信証』註釈版p.347)

 有漏の世界というのは私たちの生活の場です。ここにこうして生きているこの世界のことです。そこで有漏の思いで有漏の行為をしているのです。さとりの世界とはまったくかけ離れた世界で生きる私の煩悩が漏れている。つまり、自分の意志とはまったく無関係に外にこぼれ出している、どこか隙間から流れ出している、あるいはいっぱいになってあふれ出しているのです。
 私たちがこの世を生きるということは、不浄にまみれているということです。どれだけきれいに身体を洗い、あるいはエステで自分を磨き、化粧して着飾ったところで、心は不浄なのです。うわべをきれいにしたように思っても、それを見る目が有漏なのですからまともに正しくみえるはずはありません。
さらに、五戒を守ることさえも有漏の行いであると教えられます。確かに仏法に触れ、五戒を守ることを教えられたとしても、その教えを聞いて私が思い立って守る五戒です。そこまで言われたら、何もすることがない・・・と多くの人は思われるかもしれません。(とは言ってみたものの、その五戒さえまともに守れないのがこの私です)
 親鸞聖人は「仏心は無漏なるがゆえに・・・」とおっしゃっているではありませんか。仏さまのおこころが無漏であり、煩悩のない行為を生むのです。それは一切衆生に願いとして与えられた阿弥陀さまのこころ、南無阿弥陀仏です。私たちが無漏の行いとしてできることは、仏さまのおこころから出た称名念仏以外にはないのです。

  五戒は有漏の業なり。念仏は無漏の功徳なり。
  五戒は仏の願のたすけなし。念仏は弥陀の
  本願の導くところなり。念仏の功徳はなほし
  十善にもすぐれ、すべて三界にの一切の善根
  にもまされり。(『唯信鈔』註釈版p.1353)

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2013年1月 5日 (土)

真宗門徒の初詣は何のために(下)

 元旦会に正信偈とおつとめされる現世利益和讃六種はつぎのとおりです。

  南無阿弥陀仏をとなふれば この世の利益きはもなし
  流転輪廻のつみきえて 定業中夭のぞこりぬ

  南無阿弥陀仏をとなふれば 梵王・帝釈帰敬す
  諸天善神ことごとく よるひるつねにまもるなり

  南無阿弥陀仏をとなふれば 四天大王もろともに
  よるひるつねにまもりつつ よろづの悪鬼をちかづけず

  南無阿弥陀仏をとなふれば 堅牢地祇は尊敬す
  かげとかたちとのごとくにて よるひるつねにまもるなり

  南無阿弥陀仏をとなふれば 難陀・跋難大竜等
  無量の竜神尊敬し よるひるつねにまもるなり

  南無阿弥陀仏をとなふれば 炎魔法王尊敬す
  五道の冥官みなともに よるひるつねにまもるなり

 この現世利益和讃六首には阿弥陀さまのお名前は出てきません。梵王・帝釈、諸天善神、四天大王、堅牢地祇、難陀・跋難大竜等、龍神、炎魔法王、五道の冥官などの多くの神仏が登場します。しかしこれらの神仏は、私たちの夢や希望や願いをかなえてくださるとはどこにも記されていません。これらの神仏は、南無阿弥陀仏をとなえる者を夜昼つねにまもるというのです。だからといって南無阿弥陀仏は私たちの願いという名の煩悩をかなえるための呪文ではありません。南無阿弥陀仏は、すべての衆生を必ず救う、救わずにはおかないという阿弥陀さまの誓いが、衆生への呼び声となっているのです。つまり南無阿弥陀仏という阿弥陀さまの呼び声をそのまま受け称えた声を聞いた諸々の神仏が、その南無阿弥陀仏を称えた者をまもるというのです。そこに私(=衆生あるいは凡夫)の夢や希望や願いが込められていたとしても、そこのところを聞いてくださっているのではないということです。
 今年一年、たとえわが身にまた身内にどのようなことが起こっても、それは私の思いのところでのよろこびや思いわずらいとなるかもしれませんが、それでも一切の神仏が念仏する私をよろこびまもりたもうてくださるのです。何を祈願する必要があるでしょうか。

 浄土真宗の一年の初めの初詣は、お寺や自宅仏壇の阿弥陀さまにお参りし、手を合わせて称名念仏することです。阿弥陀さまに願われているこころをいただて、そのまま南無阿弥陀仏と称えるしかありません。阿弥陀さまの前で自分の思いをめぐらすことは意味の無いことです。また他の神仏にお参りすることがダメなのではなく、必要ないのです。
 それにもかかわらず、阿弥陀さま以外の神仏に心を向けるのは、阿弥陀さまの願いに何か足りないものがあるのでしょうか。

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2013年1月 4日 (金)

真宗門徒の初詣は何のために(上)

 謹賀新年。今年もよろしくお願いいたします。

 年の初めに多くの人が初詣にお参りされます。毎年初詣へのお参りは、全国でのべ9000万人以上あると言われています(日本の人口は1億2700万人超)。私の地元奈良県には春日大社や橿原神宮や大神神社という参詣者の多い神社があります。そのなかでも、今年は桜井市の大神(おおみわ)神社は例年にもまして多くの人が参拝されたようで、近辺はたいへんな車と人だったようです。主祭神の大物主神は蛇神であるということから、今年の干支の神様にお参りしようということのようです。昨日夜の高校時代の仲間たち十人ほどの新年会はそんな話で盛り上がりました。どうやら参加者で知らないのは私だけのようでした。世間では一般的なことのようですが、巳年に蛇の神様にお参りすることが祈願になるということの意味が私にはよくわかりません。
 蛇の神様だけではなく、ふだんはめったにお参りすることのないその他の神社仏閣に初詣と称してお参りするのは、良いことがありますように・・・という祈願のためのお参りでしょう。それはどの神さまや仏さまにお参りする人にも共通する思いではないでしょうか。
 そのなかには、多くの浄土真宗の門信徒の方も多いと思われます。もちろん、お参りしている人はそれぞれ夢や希望や願いがあるでしょう。しかしそれはわが思いでしかなく、言い換えればエゴであり、煩悩でしかありません。もしかすると、私の願いを満足するためには、多くの人たちが嘆き悲しみ、迷惑を被るかもしれません。でも、そんなことを意識する余裕もなく、ただただ願うのです。
 しかしここはしっかりと教えに返る必要があるでしょう。浄土真宗の教えには、自分の夢や希望を阿弥陀さまに、ましてや他の神仏に願い託すということなどかけらもありません。それでは真宗の門信徒の初詣とは何のためにあるのでしょうか。

 浄土真宗の寺院での元旦会でのおつとめは正信偈ですが、添えの和讃は親鸞聖人作の「浄土和讃」のなかにある現世利益和讃六首です。もちろんすべての浄土真宗寺院がそうではないでしょうが、そういう寺院はかなりたくさんあることを聞いています。自坊においても、ズーッと現世利益和讃をつとめています。

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