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2013年3月27日 (水)

なぜ「私は煩悩具足の凡夫です」と言えるのですか?

 「私は煩悩具足の凡夫です」。なぜ、そういうことが言えるのでしょうか?
 間違ってはならないのは、このことを明らかにされたのは阿弥陀さまであって、私ではないということです。私自らが、「私は煩悩具足の凡夫です」などと言うはずはありません。自分ではその自覚どころか、まったくの善人であり、心清らかな人間であるとさえ思っているのですから。ところが仏法を聞くことによって、その光に照らされて「私は煩悩具足の凡夫です」と言えるようになったのです。
 それでも、ほんとうに「私は煩悩具足の凡夫です」と言えますか? 日常生活のなかで、まじめな顔をしてそんなことを言うと、いっぺんに信頼を失い、警戒して誰も相手にしてくれなくなるかもしれません。でも、ほんとうにそうであるなら、そう言うべきです。でも、煩悩具足の凡夫の身だから、日常生活のなかではそう言えないのです。
 しかし法座の席など、言うべき時と場所を選んで言いうことがあります。ここではちょっと殊勝な顔をして、愚かな自分を披瀝するのです。そう言っても受け入れてくれる、同じく煩悩具足の凡夫だとカミングアウトする御同行・御同朋がいるから、そう言えるのです。もちろん照らされることによってそういう自分が見えてきたのでしょう。しかしその法座の席を立って、一歩外に出ると、そんなことはすっかり忘れてしまいます。

 ほんとうに「私は煩悩具足の凡夫です」なら、日常生活のなかでもあらゆる場面でそのことを感じ、そんな自分を悔いる生活をするのではないでしょうか。「いやいや、凡夫やからなぁ~・・・」などと、自分の発言や行動の言い訳のような使い方をする人がおられます。阿弥陀さまは、一切衆生、どの凡夫もすべて救う対象です。しかしそれは阿弥陀さまのはたらきであって、救われる対象である者が無反省に「凡夫やからなぁ~」と言うのは、居直りでしかありません。仏法を聞いた者が居直るなどということは、ちょっと解せません。
 いや、確かに「煩悩具足の凡夫」であることには違いありません。そこで居直るのではなく、てらされることによって凡夫ということが明らかになり、その身でありながら阿弥陀さまに願われていることを聞かせていただいているのです。あとは「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ、・・・」と共に口にさせていただくほかはないのです。
 間違いなく「私は煩悩具足の凡夫」であると気づかせてもらって出てくるのは、「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ、・・・」よりほかにはありません。称名念仏よりほかにない身と知らされることが、「私は煩悩具足の凡夫です」という証しなのです。

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2013年3月26日 (火)

念仏の底の底を聞く

 蓮如上人は、「ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」(『御文章』第五帖第一通 註釈版p.1189)と述べられています。浄土真宗は念仏ひとつで救われてゆく教えです。
 しかし、たかが念仏で救われてゆくはずはない・・・という思いを抱いている人は、長年仏法を聴聞し続けてきた人であっても、少なくないようです。その一方で、難しいことなど考える必要はない。念仏一つで救われていくのだから、それを疑うことなくただただお念仏を称えればいいのだ、と言う人もいます。
 私は、どちらの人も、そこのところにとどまっていてはダメだ、と言いたいのです。前者の人には、念仏で救われないと思っている人も念仏によって必ず救われてゆくことを聞いてほしいです。それは救われたいとも願ってもしない私が、阿弥陀さまが願っていてくださるからこそ救われてゆくのです。阿弥陀さまをナメてはいけません。
 また、後者の人には、念仏することはとても大事なことですが、ただ念仏を称えるだけではもったいなすぎると言いたい。念仏の底の底をしっかり聞くことで、「疑うことなくただただお念仏を称えればいい」という、どことなく冷めた言い方にはなりません。同時に、なんとなくギクシャクした言いようでもあり、しんどささえ感じます。「疑う」とか「疑わない」という次元を超えるところを通っていない人の言いようでしかありません。また、「称えればいい」などという投げやりのようにも聞こえる念仏になりようがありません。「称えるしかない」のですから。

 念仏は、南無阿弥陀仏と称えるだけで完結するのですが、その底の底があるのです。念仏を軽く受け取ることに何も問題はありません。ただ、その後に底の底を聞くということは、感じることができなかった阿弥陀さまのはたらきを感じとるということです。それは聴聞期間の長短、あるいは聴聞の回数が問題になることではありません。要をはずさない聞き方をしなければならないということです。聴聞期間がどれだけ長くても、また聴聞回数がどれほど多くても、要をはずした聞き方では、いつまで経っても阿弥陀さまから賜った南無阿弥陀仏とはほど遠いものになってしまいます。念仏は、言葉では言い尽くされないほどのはたらきや智慧の結晶が込められています。わが心にはないこころを聞くのですから、難しいと感じるのもわからないことではありません。
 しかし、わが心にはないこころは、聞くことによってしかわかろうはずはありません。聞いてもわからないこころが、聞き続けることによってわからせてもらえるのです。それは阿弥陀さまのこころを、阿弥陀さまから賜るということでもあります。念仏の底の底があるからこそ、この世のいのちのある限り、その底の底を求め、聞き続けることがあるということです。それが聞法生活なのです。

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2013年3月12日 (火)

弔(とぶら)いではなく、訪(とぶら)い。(下)

 それでは、葬儀は、法事は、あるいは納骨や墓参等々は何のためにあるのか・・・ということになるでしょう。ひとつは、先に書いたように訪う、亡き人を訪ねることで、私をこの世において私を導いてくださる師とすることでしょう。もちろん、それが子や後輩など年下であったり、赤子であったとしても私の師となりうるべき人です。
 浄土真宗ではもうひとつ、大切なことがあります。それは教えに向き合うということです。この世の経験のなかで、死による別れほど悲しいものはありません。声を上げて泣くこともしばしばあります。この世を懸命に、あるいはおもしろ楽しく生きてゆくことだけしか考えない人生のリズムを、一瞬にして止めてしまう瞬間でもあります。そんなときに、いままで思いもしなかったいのちのことを思い、死後のことを思うのではないでしょうか。いままで逃げていた、考えたくなかった、考えようともしなかったことと向き合わなければならないときなのです。
 それでも、時間が経過するなかで、心の内はいつのまにかこの世を懸命に、そしておもしろ楽しく生きていくことだけを考えるようになってゆきます。それがどれほど愛しい人であったとしても、次第に忘れてゆくのです。もちろん、いったんは向き合ったいのちや死後のことさえも忘れてゆきます。それを思い起こさせるのが、葬儀であり、法事であり、納骨や墓参です。ただ亡き人を訪うだけではありません。必ず、本尊・名号に向かって手を合わせ、お念仏を称えます。ですから、浄土真宗は葬儀のときも、お仏壇でも、お墓でも、どこでも正面は本尊もしくは名号なのです。

 それでも、思い出すことは亡き人のことでしょうから、そこに法話があるのです。私が求めるべき道は、悲しみを癒やし思い出をたどることじゃない。迷いの世界に生きているわが姿を知らされ、まことの教えを聞く身となってくれよとの願いに気づかされる機会なのです。
 本来なら、私が気づかずともいつでもどこでも私にはたらいてくださっている阿弥陀さまのこころを受けて、いつでもどこでも称名念仏すべきことなのでしょう。それができないから、葬儀、法事、納骨、墓参という機会がある。亡き人を訪うという機会を通して、訪うべきは阿弥陀さまであったという思いを、もっと鮮明に、そして強く持たなければなりません。そしてまた、亡き人は、そういう形でも私を導いてくださった先師であるともいだだくことができるのです。

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2013年3月11日 (月)

弔(とぶら)いではなく、訪(とぶら)い。(上)

 浄土真宗の教えのなかには、亡き人を弔う(「とぶらう」または「とむらう」)という考えはありません。そう言うと、浄土真宗というのはなんと冷たい教えなのか・・・と思われる方がおられるかもしれません。しかし弔いをしないというのは、決して亡き人をないがしろにするということではありません。
 「弔う」というのは、亡くなった人のために追善供養を営むということです。世間のほとんどの人たちは、「追善」というのは亡くなった人の死後の幸福を祈り、生存者が善根を修めることをいいます。また「供養」は供物(くもつ)を捧げることです。今では、葬儀や亡き人に向けてお経をあげたり、合掌したりすることを「弔う」「追善供養」などと表現しているのではないでしょうか。
 もちろん浄土真宗でも葬儀も法事もありますし、その場で合掌し念仏することもありますから、形の上では弔い、追善供養をしているかのように見えるでしょう。そのことが大切であり、そうすることが浄土真宗の教えに叶うことである・・・という趣旨の法話をなさる真宗僧侶の方がおられるのも承知しています。

 真宗でも「とぶらう」という言葉を使いますが、それは「訪う」という字を書きます。つまり亡き人を訪ねてゆくということです。多くの方々が亡くなってゆかれますが、ほとんどは私との関係は無いと思っている人たちです。私との関係があると意識した人については、必ず何らかの形でその亡き人を訪ねてゆくのではないでしょうか。それは母であり父であり、祖母であり祖父であり、ときには夫や妻や子や兄弟姉妹であるかもしれません。また師であったり友であったり、職場の先輩、同僚、後輩であるかもしれません。直接会ったことはないけれど、その人の言葉や、まわりから伝え聞く話を聞いて親しみをおぼえる人かもしれません。それぞれにそれぞれの訪い方があるでしょう。そのことによって、教えられたり、力をもらったり、あるいは些細な思い出に心が動くことでしょう。だからといって、私が亡き人に何かができるわけでもありません。ほんとうに無力な自分を感じることしかできません。親鸞聖人が『歎異抄』第5章に残しておられる「わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ」(『註釈版』p.835)という言葉にうなずくしかありません。たとえ私が称えるお経や念仏であったとしても、それは私の力によって励んだ善ではないのですから、それが追善供養にはならないとおっしゃっているのです。

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2013年3月 8日 (金)

心の奥底に潜む四暴流

 私の性格はどちらかというと気の短い方で、すぐに怒りが頂点に達してしまうことがしばしばありました。もっともそれは若いときの話で、年齢とともに待つことができるようになったり、じっくり聞けたり観察したりしてものごとに取り組めたりできるようになってきました。今でも小さな怒りを感じることはしばしばありますが、ずいぶん穏やかな性格になったものだと思うのです。だからといって自分の性格がコロッと変わったのではなく、休火山のように眠っているだけのようです。
 それは先日のこと、身体のなかのマグマがたまりにたまって、ドッカァ~ンと大爆発してしまいました。世界がひっくり返るほどたいへんなことが起こったのではありません。いまから考えると、ほんの些細なことなのです。自分にとって気にくわないことがあったから・・・としかいいようはありません。自分でも言葉遣いも荒くなり、行動もとても激しくなっているのがわかります。でも抑えることができませんでした。

 仏教には怒り、腹立ちの心を現す「瞋恚」という煩悩があることを教えています。なかなか日常生活のなかではなじみがない言葉ですから、あまり具体性を感じることはないかもしれません。その煩悩の異名として「暴流」という言葉があります。「ぼる」と読みます。一切の善を押し流すことから「暴流」と言われるというのです。まぁなんと、抑えきれない怒りをこれほど見事に言い当てていると思うのです。
 大爆発を起こしたときは、まさに私の心が暴(あば)れまくり、心の片隅で働き始めようとしている理性があるのですが、それさえも暴れ始めた心に流されてしまってどこかに行ってしまいました。よりよく生きようという見せかけの心が怒りによってひっくり返され、ありのままの心が暴(あば)かれてしまったのです。

 この「暴流」は、1)欲暴流(よくぼる:我欲に執着して起こる煩悩)、2)有暴流(うぼる:存在に執着して起こる煩悩)、3)見暴流(けんぼる:自分の考えや感情にとらわれる煩悩)4)無明暴流(むみょうぼる:仏教が説く人生の真理である四諦に対して無知であることによって起こる煩悩)という四種の暴流があるので、四暴流(しぼる)とも言われます。ここには怒りという言葉は出てきませんが、我欲に執着し、わが存在に執着し、わが思いに執着し、真理に対して無知であるから出てくる怒りであることは明確です。
 理性をみがき、うわべをつくろい、格好をつけたところで、自分自身でさえコントロールできない心の奥底に潜む煩悩が、頑として居座り、いつ動き出そうかと待っているのだと、改めて知らされました。

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