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2013年4月30日 (火)

背を向けて妥協の連続

 親鸞聖人の書かれたものを読んでつくづく思うのは、まったく妥協がないということです。自身について、包み隠さず、ありのままをそのままさらけ出されています。
  浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
  虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし

        (『正像末和讃』註釈版p.617)
 そこまで言わなくてもいいのに・・・、宗祖なんだからそこまで言っちゃ威厳が無くなってしまうでしょ、なんて思ってしまいます。もちろん、親鸞聖人は宗祖であるという思いなどどこにもなかったでしょうし、智慧の光明に照らされて見えてきたご自身をありのまま言葉にされただけなのでしょう。私なら、ありのままに見えてきたとしても、私のなかで多少割り引いて、「真実の心をときどき見失うことがあるのです」とか「清浄の心はそう簡単には現れてはくれません」というようなあいまいな表現にするでしょうね。

 私を照らす智慧の光明は、まことの光明です。それは阿弥陀さまの光りであり、はたらきでもあります。
  智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく
  光暁かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ

         (『浄土和讃』註釈版p.557)
 この和讃の「真実明」について、聖人は左訓という註釈を「阿弥陀如来なり」と、さらに「真というはいつわりへつらわぬを真というなり」「実というは必ずものの実となるなり」と付けられています。
 絶対にウソはないし、お世辞などのようにお上手を言うことはないということが真ということです。「そういうけどね・・・」「それはそうなんだけど・・・」という心があるから、つい加減な見方になってしまうのです。だから必ず実となるはずの阿弥陀さまのはたらきをしっかりと受け取ることができなくなってしまっているのです。ありのままをそのままに見るということは、ほんとうに難しいことです。

 真っ暗闇の中にいる真っ黒な私が、このうえない光りに照らされていますから、闇は破られ、真っ黒な私が明らかになっているのです。でも、真っ黒な私など見たくはありません。真っ黒な私を隠そうとするのですが、隠しようがありません。そこで照らされていることに気づかないことにしようとしているのです。光りを背にして、目をつむっていることで、イヤなものを見なくて済み、安心できると思っているのではないでしょうか。
 社会的にどうあれ、また私をどのように見せたいのかということ以前に、私のありのままの姿がらけ出されていることになんら変わりはありません。隠しようもありません。

 妥協の連続で人生を歩んでいます。妥協なんかしていない、真正面から取り組んでいると思っているだけです。それも、照らされることなしにはわからないことです。どこまでも虚仮不実であり、清浄の心はどこをさがしても見つかりません。

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2013年4月22日 (月)

わが身を法水に浸けよ

 朝起きてから夜寝るまで、私が考えていることは、わが心を満足させ、わが身を喜ばすことばかりです。時には、憂鬱になるほどイヤなことが待ち受けていることがありますが、それをなんとかクリアすれば、きっといい思い、いいことがあるに違いないと無意識が根底にあるようです。
 多くの人に支えられ、お世話になっていることに感謝したり、お礼を申すこともあります。それは私に直接的に恩恵をいただいたことを意識したときの思いであり、行為です。私が感謝したりお礼を申すことは、私が支えられたりお世話になっていることの、ほんの一部でしかありません。なのに、感謝したりお礼をすることで、とてもいいことをしたような気になってしまうことさえあります。日常生活は、まず私のことを考え、ほんの少しの良心を誇りながら生きているようです。

 寺に生まれ、寺に育ち、そしていまお寺で生活させてもらっています。法務、法事、法話によって生活の糧を得させていただいています。そのなかでも、わが心に従い、わが身を第一に考えています。寺を護持し、仏法第一だと思うのですが、結果は仏法第一にはなっていません。
 それを知らされるのは、聞法の席に着かせていただいたときです。しかし法座の席ではありがたく思っても、その席を立つともとの心にもどって、仏法のことなど何も考えることなく日常生活に戻ってしまうのです。蓮如上人時代のお同行も、そんな姿を、籠に水を入れるようなものだと言われました。

 そのお同行に蓮如上人は続けられます。「その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべき」(『蓮如上人御一代記聞書』註釈版p.1260)とおさとしになられます。在家に身を置いているからそんなことはできないと言われるでしょうか。いや、たとえ僧侶としての生活をしていたとしても、在家の生活とは何も変わりません。格好をつけてみたところで、籠には違いありません。籠の目が細かいか粗いかに関わらず、籠の水は漏れるのです。ゆえにその籠を水につけよ、つまり生活のなかで仏法を聞いていても日常生活のなかに消えてしまうので、仏法のなかで生活せよということでしょう。
 蓮如上人は、わが身を法に浸せ、とおっしゃるのですから、どのような生活をするかの問題ではないのです。どのような生活をしていてもいいから、わが身が法に浸ればいいのです。それは念仏することしかありません。
 戒律を厳しく守る仏道修行はもちろんのこと、写経や瞑想さえも、定年退職して経済的な余裕があり、健康で意志の強い人でないとできません。たとえできたとしても、常に浸りつづけることはできません。念仏のみが、いつでもどこでも、どんな状態であっても称えることができるのです。それを妨げるのは、こんなところでは念仏できない、周りが気になって念仏できない、ついつい忘れてた・・・、などというわが心でしかありません。
 阿弥陀さまから回向された念仏という法水に、南無阿弥陀仏と称えることによってわが身を浸すことができるのです。いつでも、どこでも、どんな状況でも。

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2013年4月20日 (土)

「お坊さんとtea time」

 仏法はまことの教えであり、だれもが聞いて欲しいし、聞かねばならない教えです。でもだれもが容易に聞くことができる教えではありません。一方的に、「まことだから」とか「聞かねばならない」などと押しつければ、どんどんその教えから遠ざかってゆく人もいるのです。それはだれのことでもなく、無始以来、阿弥陀さまはまことの願いをかけ続けてくださっているにもかかわらず、逃げ続けてきた私の姿でもあるのです。たまたま縁があって、ようやく遇うことができた教えなのですから、その不思議をまず深く味わうことが先でしょう。
 だからといって、何もせずにいることもできません。ましてや、いま私は僧侶です。ある面では、僧侶という仕事によって生活の糧を得ているのですが、それだけが僧侶の役割ではありません。私が教えられ、聞かせてもらい、気づかせてもらったことを私一人のものにしておくことはできませんから。仏法の遇う人ができる縁をつくり、私がいただいた阿弥陀さまの願いを聞いてもらう場を設けねばなりません。そのためには、豊かな人間関係を築くとともに、自身の味わいを深めてゆかねばなりません。人々の世俗的や欲求に応えることを通して仏法への興味をもってもらえるような工夫も必要でしょう。それは小手先の細工で、そんなことではラチがあくものではないといわれるかもしれませんが、いまできることを精一杯やるしかありません。
 それらのことが間違いでないか、確かめの学びや聞法は忘れてはならないことは言うまでもないことです。間違いを指摘してくれる師や法友との意見交換も必要でしょう。

 そんな思いのなかで、これまで仏法にはおそらくほとんど無縁と思われる人に向けての働きかけを企画しました。「お坊さんとtea time」。
 この企画の協力者は、宗門系の高校を卒業し、仏教に関心を持つ広告社を主宰するKさん。お寺とは関係ありませんし、教えへの深い帰依があるという人ではありません。それにもかかわらず、私が遠慮気味に話したことをしっかり受け止め、具体的な内容を引き出してくれました。「そんな話なら、私が聞いてみたい」と背中を押してくれました。
 その後、開催場所の確保、広告の作成、さらにはあちこちにも声をかけてくださっているようです。そして昨日(4月19日)、三重県名張市、伊賀市の一般紙に約6万部の折り込み広告が配布されました。

Teatime


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2013年4月19日 (金)

南無阿弥陀仏に照らされる生き方

 仏教について、自分とは無関係な死や苦と関わる忌避すべきものというようなマイナスイメージをいだいておられる方がいます。そんな人であっても、仏教のすべてを避けたいと思っているわけではないような気もします。
 たとえば、お寺の建物や庭や仏像といった芸術や文化的、あるいは歴史的なところに関心をもつ人がいます。とてつもない壮大な教えの体系を一部でもいいからのぞいてみたいとか、これまでとは違うモノの考え方や見方をおしえてくれるのではないだろうか、という思考的興味をもつ人もおられます。深い悩みを解決してくれるんじゃないだろうか、私は何のために生まれてきたのだろうか、などと自分自身の存在を問い、そのことに回答を与えてくれるように思っている人も少なくありません。さらに、死をめぐってなんとなく自分の内にひそむ気色の悪さやどのように対処すればよいのかわからない不安に答えてほしいというものもあるでしょう。

 だれもが避けたい死に向き合うことはイヤでも、生を豊かにしてくれる仏教を嫌う人はいないでしょう。生を豊かにしてくれる仏教を僧侶に聞けばいいのでしょうが、その思いに応えてくれる僧侶になかなか会えない・・・という状況になっているのかもしれません。お寺の敷居が高いとか、お坊さんは遠い存在とか、なかなか僧侶と気軽に話すことができるとは思えない、などということをよく聞きます。つまり、僧侶が僧侶としての役割を果たしていない故に、仏教への抵抗感や偏見がでてくるのではないでしょうか。
 それはそのまま僧侶である私自身が聞かなければならないことです。僧侶がいかに人々と向き合ってゆくかという問題であり、お寺をどのように外に向かって開いてゆくかという問題でもあります。しかしそれは僧侶が大衆化・世俗化するということではありません。またお寺が、音楽や落語の貸し会場のみで終わってしまうことでもないと思います。世俗に入り口を開きながら、教えを説き続けなければなりません。それは言葉や行動にも配慮することであるかもしれません。とはいっても、僧侶も人間であり、完ぺきな生き方などできようはずはありません。一挙手一投足に神経を使ったとしても、五濁悪世にまみれて生きる凡夫でしかありえません。そうしか生きることができない僧侶が、どのように仏法を聞いているのか、そしてこの世を生きているのかを赤裸々に語るしかありません。そのためには、ありのままの私を受け入れてくれる人間関係を築くことです。これがむつかしい。なかなかそうできないわが身を常に振り返り、痛みを感じながら生きるしかありません。それは南無阿弥陀仏に照らされながら生きる姿でもあるのではないでしょうか。

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2013年4月12日 (金)

もう太陽は燦々と輝いています

 現代社会のなかで、真っ暗な場所を探すのはたいへん難しくなっています。しかし日本でも半世紀前を知っている人は、わずかな明かりでも頼りになるほど暗いところを経験しているでしょう。そんな場所はほんとうに怖く、心細いものでした。側に人がいてくれて声を掛けてくれると、薄暗い明かりさえもがとても力強く思えたものでした。
 外を歩くときに頼りになるのは提灯でした。提灯のなかのロウソクの光がゆらゆらと揺れるたびにドキドキしたものです。その後、懐中電灯がでてきました。もう光が揺れることはありませんでした。足下とともに、自分が歩む道を照らすことができました。提灯はすっかり使われなくなりました。しかし懐中電灯が照らすことができるのは一方向のみですから、身の回りは暗闇のままでした。そのうち、あちこちに街灯が整備されるようになってきました。少し広い道は、街灯設置の間隔が狭いので、まったく懐中電灯がなくても足下も道もそして回りの風景さえもぼんやりであっても認識できるようになり、ずいぶん心強く歩くことができました。そんなところでは、もう懐中電灯を使う必要はなくなりました。それほど明るくて頼りになる街灯も、夜が明けて太陽が照り始めると、まったく必要なくなります。点灯していたとしても、誰もその街灯の明かりを頼りにはしなくなります。

 私たちの真っ暗闇の人生も、わずかな明かりのなかで、なんとか生きることができています。現世利益の神々も生きていくうえでの明かりとなりうることもあります。だからといって、それが私の人生を支えてくれる明かりとはなり得ません。一時的に明かりとなっても、必ず消えてますます迷いを深めることになってしまいます。それでも、それが一番の頼りだと思うこともあるのです。
 それに変わる明かりがあれば、現世利益の明かりなど必要はなくなります。そんな明かりも一時的に私の足下や回りを照らしてくれたとしても、すべての闇を晴らしてくれるわけではありません。
 阿弥陀さまの本願のみが、わが身を照らし私の境涯すべてを照らし出す光明です。その光明を知らない者には、右から左に抜けてゆく話でしかないかもしれません。そんなものは必要ではなく、私には頼りになる懐中電灯もあるし、街灯があればどの道だって歩くことができる・・・と信じているのです。そういう人は、未だ闇のなかにいる人です。しかし必ず闇の夜が明け、太陽がわが身を照らすようになれば、見ることができなかったものを見、気づくことができなかったことを知ることができるようになるのです。それこそが阿弥陀さまの本願です。

 ただ、せっかく夜明けとなり太陽が出ても、雨戸を閉めた部屋の布団のなかにいては、そのことに気づくことはありません。すでに太陽は燦々と輝いているのです。その明かりは調熟の光明であり、摂取の光明なのです。

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2013年4月 8日 (月)

わからなくても聞けるのが仏法

 仏さまの教えをやさしく説くことはとても大切なことです。また、言葉で説くだけではなく、マンガや音楽などの手段を使うことも大切なことです。仏教美術、仏教建築、仏教哲学、仏教心理、仏教文学、仏教文化、・・・等々、をきっかけに仏教に関心を抱く人も少なくありません。それまで仏教には縁がなかった人が、教えの要の周辺部分を入り口にして、仏さまの教えにふれるきっかけとなるのです。仏さまの教えに触れる間口を広げているのです。
 しかし教えの門の前に立つことができ、うまくその門のなかに入ってくれたとしても、さらにその先に入ってくれるよう誘導することはなかなか難しいことです。いつまでもやさしい解説が通用するはずはありません。またさまざまな工夫や手段も、凡夫のはからいでしかありません。仏さまの教えが、わが身に響き、わが身がその響きに共鳴することが必要です。共鳴するにはそれぞれの人に合った手段があるのでしょうが、最終的にはお経に説かれている教え(経教)への帰依よりほかはありません。経教に触れるとなると、言葉に依らざるをえません。
 ところがこの経教が難解です。しかし難解なのはあたりまえのことなのです。もっとやさしくとか、わかりやすくとか、私の興味の範疇で理解したいというのはエゴです。もっと厳しく言うなら、智慧のない者のたわごとでしかありません。仏さまのさとりの境地を、迷いに迷い続け、いまもなお迷い、そしてこれからも迷うしかない私が、やさしく、手軽に理解しようというのはあまりにもわがままが過ぎます。凡夫というのは仏さまのこころも知らずに、わがまま放題生きている者のことを言うのですから、さとりが何かわからないし、経教が理解できないのが当然なのです。さとりや経教をどれだけやさしく説いてみたところで、理解のできる部分だけを理解し、すべてをわかったように思っているだけのことなのです。

 わからないから、難解であっても経教を学ぶことは大切なことです。知らなかった、わからなかったことが次第にわかってきます。そうなると、やさしく、わかりやすく話したり書いたりすることが困難なことがわかってきます。マンガや音楽では伝わりきれないことや、仏教哲学や仏教文化も確かに仏さまのこころを示していることがわかっても核心に迫りえないことも感じるのです。
 そして仏さまのまことのこころと響き合うことができたとき、難しくてさっぱり理解できなかったことにひとつずつうなづけるようになってゆくのです。わけのわからなかった念仏が阿弥陀さまの願いが私のなかではたらくようになるのです。
 自分の思いで聞くのではありません。わからないから聞けないのではありません。難しいからもう聞かないなんて愚の骨頂です。思い上がりも甚だしい。私が思いいたす前に、すでに阿弥陀さまがはたらいてくださっているのですから。

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