« 悲歎述懐は自虐的か? | トップページ | 私が求める前に、歩み寄ってくださるのが本願 »

2013年5月13日 (月)

「法」に向かう法事のありようを提案しよう

 昨日、門徒のM家で50回忌の法事がありました。お参りになられた方は16名。ほとんどが50年前に亡くなられたおじいさんをご存じの方でした。
 戦前は、三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)を省略せずにすべてをおつとめしたので、まる一日かかったようです。法事の間のおつとめの前と後に食事が二回出た・・・という話も聞いたことがあります。その後、戦後制定された「新制三部経」(無量寿経と観無量寿経の一部が省略されている)をおつとめするようになりました。そしていまでは、この過疎地の寺院の門徒の方でも、三部経をつとめる方が少なくなってきました。おつとめ・法話が終わった後は、車で20~30分ほど走ったところの料理屋さんでおとき(食事)の席を設けてくださる家が多く、予約の時間に合わせて法事を終わるように希望されるからです。それではもう少し早めにおつとめを始めましょうか・・・と提案すると、遠方からお参りくださる方もおられるので・・・とやんわりお断りになられます。そうなると、必然的におつとめが短くなります。
 そんななか、このM家では「三部経をお願いします」ということでした。おときもご自宅で準備くださるようでした。久しぶりに三部経のおつとめをするので、事前に無量寿経と観無量寿経の経文に一通り目を通したほどです。

 午前10時から少し早めのテンポで無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経をおつとめをさせていただきました。この地域の門徒さんは三部経の経本をお持ちですし、外からお参りの方のために経本を10数冊持参し、全員でおつとめをさせていただきました。そしてご法話を終えたのは13時前。それから、その家でのおときでいろんな話に花が咲きました。法話について、亡くなられたおじいさんの話、子どもの頃の話、お参りされたご親族の情報交換、等々・・・。
 話は尽きず、お酒の量もとどまるところがありませんので、一応、食後の言葉で締めさせていただきました。時計をみると16時。年忌法事でこんなに長居をさせてもらうことは、最近では珍しいことです。

 都市部では阿弥陀経だけとか、さらに簡略化された法事が一般的になっているようです。多くの門信徒のおられるお寺ではそうならざるを得ないでしょうし、お参りされる方も長いおつとめには耐えられなくなっているということもあるのでしょう。
 しかしあわただしいだけでは、仏さまの話を聞こうという気持にはなれないように思います。長ければいいというものではありませんが、みんなでおつとめをするのは実に気持ちがいいものです。きれいなお荘厳、施主の態度・振る舞いも、お参りいただいた方の気持をピリッとさせています。僧侶としても気を引き締めてのおつとめ、法話となります。そのあとのおときですから、気持ちがほぐれ、ふだんの生活や人生についての本音が出てくるようです。
 法事の構成も、時代や社会のありように合わせなければなりませんが、お参りの人たちも「法」に向くような構成があるように思うのです。お参りになられる皆さんの思いや雰囲気にも影響されることかもしれません。そんなことを考慮しながらも、「法」に向かう法事のありようを僧侶の方に提案されてはいかがでしょうか。

|

« 悲歎述懐は自虐的か? | トップページ | 私が求める前に、歩み寄ってくださるのが本願 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/5065/57375321

この記事へのトラックバック一覧です: 「法」に向かう法事のありようを提案しよう:

« 悲歎述懐は自虐的か? | トップページ | 私が求める前に、歩み寄ってくださるのが本願 »