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2013年5月 5日 (日)

個人の宗教としての僧侶の役割

 日本の宗教のありようを示す社会学的研究のなかに、地域の宗教、家の宗教、個人の宗教という視点があります。宗教というのは個人の信仰に基づくものですが、日本においては氏神を中心としたその地域の安寧を願い、地域を統合する機能を持っている地域の宗教という役割がみられるというのです。また、先祖代々にわたって家単位で仏教寺院の檀家となって祖先崇拝などに深く関わる家の宗教がある。そして地域の宗教や家の宗教に関わりながら、新宗教などの個人の宗教との関わりもあるというのです。これは近代から戦後の日本の村落研究のなかかで出てきた視点です。特に、戦後の地域研究のなかでは注目された視点でもあります。
 それから後、社会の変容は大きく、地域社会のありようは大きく変容しました。また家観念も薄れ、跡継ぎとか先祖代々の供養をていねいにするという風潮はずいぶん薄くなってしまいました。もちろんこのような形の宗教のあり方は、根強く残っていることを否定するつもりはありませんし、氏神や農山村部の寺院は、地域の宗教や家の宗教という観念で維持されているのは事実でしょう。
 しかし次第に地域社会としての氏神や、家の宗教としての寺院の社会的な機能は弱体化し、次第に重要視されなくなっていることも事実です。そのことに危機感を感じたのか、「家の宗教から家庭の宗教へ」というスローガンを立てた仏教教団もありますが、インパクトもなく今日に至っています。

 経済的な側面を考えたとき、地域や家という基盤を失うのは大きな痛手です。しかし社会の大きな変動のなかで、あらためて仏教本来のありように目を向けなければ、見向きもされなくなってしまいかねません。
 そんななかでも浄土真宗は、一人一人の信心ということを正面から問題にしてきました。地域に深く根ざしたり、家の宗教としての役割も果たしつつ、つねに「わが信や如何に」と問うてきた教えです。教団としてもカウンセリングやビハーラなど、個人の悩みや生死を、時代に即して問うてきました。それだけに、個人の宗教的側面をもっと強く主張することが容易です。
 浄土真宗の希薄地域や、地方から出た浄土真宗の門信徒が多い大都市などは、個人的なつながりを再構築する必要があります。たとえば、葬儀を通じてしかつながらない関係を、ホームドクターがいるように、ホーム僧侶やパーソナル僧侶などとしてふだんの日常生活に密着したつながりを付ける必要があるでしょう。
 ただそれは形だけのものでは意味がありません。生きる上での悩みや苦しみを共にする僧侶であり、教団でなければなりません。そのためには、小手先での人間関係は通用しません。僧侶の信心のありよう、人間性が問われるのは言うまでもありません。世俗に生きる僧侶ではありますが、如何に仏法とともに、信心とともに生きている姿が見られているということではないでしょうか。

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