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2013年5月 6日 (月)

悲歎述懐は自虐的か?

 親鸞聖人の悲歎述懐讃を、自虐的だと言う人がいました。たとえば、次の和讃なんかはそのように思えるのかもしれません。

  悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり
  修善も雑毒なるゆゑに 虚仮の行とぞなづけたる
           (『正像末和讃』註釈版p.617)

 親鸞聖人は、ご自身の生きる姿や心の内を自ら反省してこの和讃をお作りになられたのではありません。阿弥陀さまのおこころに照らされたのです。
 わが思いによって自己を振り返るのが反省です。時には自分の思いの狂いから自虐的になることもあるでしょう。自虐的というのは、自分で自分を苦しめていることです。自らの自分の姿を、たとえば他人や理想の姿と比較してみたとき、とてもみじめな感じがしたり情けなくなったりしてしまうこともあります。
 しかし仏法に照らされて自身を見ること(見せられること)は、決して自虐的ではありません。教えという鏡に映しだされた自分自身をありのままに見ているだけのことですから。わが思いに依るものではないのですから。親鸞聖人は20年にわたる比叡山での修行においても自身の「生死いずべき道」を求めきることができないことを感じられ、山を降りられました。そして法然聖人を通じて阿弥陀さまの願いに出遇われたのです。南無阿弥陀仏という鏡の前に立たれ、ご自身を見られたのです。
 法然聖人や親鸞聖人が聞かれた南無阿弥陀仏の教えをよく聞くけれど、またお書きになられたものをよく読むけれど、自分の姿が見えない・・・と言われるでしょうか。もしそうなら、一つに、この鏡(教え)はどこで作られたのか、いつ作られたのか、誰が作ったのか、・・・などと、教えが私に示された阿弥陀さまの真意とは違うところを聞いているということはないでしょうか。
 ありのままの私を見通されたところに、阿弥陀さまの教えはできあがっているのです。教えは「仏願の生起本末」とも言われます。教えを通して私のありのままの姿を知らされるのが「仏願の生起」です。

 ありのままの私の姿を見せられて、悲しみ歎くだけだったらこれは自虐的とも見えるでしょう。しかしそれで終わりではありません。悲しみ歎きからの救いとしての「仏願の本末」が私に示されているのです。単に示されているのではなく、私の上にはたらいてくださっていることも聞かねばなりません。
 このように書くと、まず「生起」を聞いて、そののちに「本末」を聞くように思われるかもしれませんが、そうではありません。法蔵菩薩から阿弥陀さまになられるまで、つまり仏願の生起から本末までは限りない時間を要していますが、私の上にはたらくときは同時です。すでに阿弥陀さまの本願は完成し、すでにわたしのところではたらいているのですから。わが身が照らされて見せられたときが、阿弥陀さまの本願がわが身にとどいた時なのです。

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